2.四十四の未来劫論

 比丘のみなさん。未来の終りがある蘊について言及する未来見のある未来住劫論であるサマナ・バラモンは、当然四十四の物でいろんなアディムッティパダ(自分たちの見解による動物の最高の解脱)を規定して述べます。そのサマナ・バラモンは何に依存し何に言及して、その四十四の物で自分たちの見解による最高の解脱の道を規定するのでしょうか。


ヘ 十六死後有想論の類のウッダマーガタニカ

 比丘のみなさん。ウッダマーガタニカサンジーヴァーダ(死後有想論)であるサマナ・バラモンは当然十六のもので死後の自我には想があると規定します。

(19)比丘のみなさん。当然「形がある自我(註1)(だけ)が病気のない(註2)自我で、死後想がある動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます。(これが一つ)

(20)比丘のみなさん。当然「形のない自我(註3)(だけ)が病気がない自我で、死んだ後識のある動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます。(これが一つ)

(21)比丘のみなさん。当然「形があってもなくても良い自我(だけ)が病気がない自我で、死んだ後識のある動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます(これが一つ)。

(22)比丘のみなさん。当然「形があるのでもなくないのでもない自我(だけ)が病気がない自我で、死んだ後識のある動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます(これが一つ)。

(23)比丘のみなさん。当然「終わりがある自我(だけ)が病気がない自我で、死んだ後識のある動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます(これが一つ)。

(24)比丘のみなさん。当然「終わりがない自我(だけ)が病気がない自我で、死んだ後識のある動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます(これが一つ)。

(25)比丘のみなさん。当然「終わりがあってもなくても良い自我(だけ)が病気がない自我で、死んだ後識のある動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます。(これが一つ)

(26)比丘のみなさん。当然「終わりがあるのでもなくないのでもない自我(だけ)が病気がない自我で、死んだ後識のある動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます。(これが一つ)

(27)比丘のみなさん。当然「一つの想がある自我(だけ)が病気がない自我で、死んだ後識のある動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます。(これが一つ)

(28)比丘のみなさん。当然「いろんな想がある自我(だけ)が病気がない自我で、死んだ後識のある動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます。(これが一つ)

(29)比丘のみなさん。当然「少し想がある自我(だけ)が病気がない自我で、死んだ後識のある動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます。(これが一つ)

(30)比丘のみなさん。当然「無限の想がある自我(だけ)が病気がない自我で、死んだ後識のある動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます。(これが一つ)

(31)比丘のみなさん。当然「幸福だけがある自我(だけ)が病気がない自我で、死んだ後識のある動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます(これが一つ)。

(32)比丘のみなさん。当然「苦だけがある自我(だけ)が病気がない自我で、死んだ後識のある動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます。(これが一つ)

(33)比丘のみなさん。当然「幸福も苦もある自我(だけ)が病気がない自我で、死んだ後識のある動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます。(これが一つ)

(34)比丘のみなさん。当然「苦も幸福も無い自我(だけ)が病気がない自我で、死んだ後識のある動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます。(これが一つ)

 比丘のみなさん。「当然想はある」と死後の自我を規定する死後有想論のサマナ・バラモンの誰でも、それらのサマナ・バラモンすべてが十六の物に依存して規定し、これ以外の物はありません。

 比丘のみなさん。如行(ブッダの一人称。そのように行ったという意味。漢訳では如来)は当然、誰でもこれらのディッティの基盤である物をこのように掴んでこのように撫で回せば、そのような行く場所、そのような未来になると明白に知りました。

 如行は当然それを明白に知り、それ以上のダンマを明白に知り、そして如行は知った物を掴みませんでした。そして掴まない時、すべての受が生じる原因と、維持できないことと、旨味と、低劣な害と、脱す方便を明らかに知ることで、冷却(ニブティ)は、如行が特に自分で明らかにした物になりました。

 比丘のみなさん。如行は執着しないことで素晴らしい解脱をした人です。比丘のみなさん。これらのダンマは他の動物には見え難く、他の動物が知り難い深いダンマであり、静まった緻密なダンマであり、思考で簡単に推測できる領域でなく、博学者の境域だけが知ることができ、如行が最高の智慧で明らかにし、そして他人に教えて明らかにさせ、そして如行を真実のままに正しく称賛して言う人に称賛をもたらす物です。

註1: 形のある自我とは縁起である形界定がある自我。

註2: 病気がないとは永遠を意味し、刺激して変化させる物が何もないこと。

註3: 形のない自我とは、縁起である形界定がない自我。


ト 八死後無想論の類のウッダマーガタニカ

 比丘のみなさん。ウッダマーガタニカアサンジーヴァーダ(死後無想論)であるサマナ・バラモンは、当然八つの物で「死後の自我は想がない」と規定します。

(35)比丘のみなさん。当然「形がある自我(だけ)が病気がない自我で、死んだ後想がない動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます。(これが一つ)

(36)比丘のみなさん。当然「形のない自我(だけ)が病気がない自我で、死んだ後想のない動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます。(これが一つ)

(37)比丘のみなさん。当然「形があっても良く無くても良い自我(だけ)が病気がない自我で、死んだ後想がない動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます。(これが一つ)

(38)比丘のみなさん。当然「形があるのでもなく無いのでもない自我(だけ)が病気がない自我で、死んだ後想がない動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます。(これが一つ)

(39)比丘のみなさん。当然「終わりがある自我(だけ)が病気がない自我で、死んだ後想がない動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます。(これが一つ)

(40)比丘のみなさん。当然「終わりがない自我(だけ)が病気がない自我で、死んだ後想がない動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます。(これが一つ)

(41)比丘のみなさん。当然「終わりがあっても良く無くても良い自我(だけ)が病気がない自我で、死んだ後想がない動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます。(これが一つ)

(42)比丘のみなさん。当然「終わりがあるのでもなく無いのでもない自我(だけ)が病気がない自我で、死んだ後想のない動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます。(これが一つ)

 比丘のみなさん。当然「想はない(訳注)」と死後の自我を規定する死後無想論のサマナ・バラモンは誰でも、それらのサマナ・バラモンすべてはこの八つの物に依存して規定し、これ以外の物はありません。

 比丘のみなさん。如行は当然これらのディッティの基盤である物を、誰でもこのように掴んでこのように撫で回せば、そのような行く場所、そのような未来になると明白に知りました。如行は当然それを明白に知り、それ以上のダンマを明白に知り、そして如行は知った物を掴みませんでした。

 そして掴まない時、すべての受が生じる原因と、維持できないことと、旨味と、低劣な害と、脱す方便を明らかに知ることで、冷却(ニプティ)は如行が特に自分で明らかにした物になりました。

 比丘のみなさん。如行は執着しないことで素晴らしい解脱をした人です。比丘のみなさん。これらのダンマは他の動物には見え難く、他の動物が知り難い深いダンマであり、静まった緻密なダンマであり、思考で簡単に推測できる領域ではなく、博学者の境域だけが知ることができ、如行が最高の智慧で明らかにし、そして他人に教えて明らかにさせた物で、如行を真実のままに正しく称賛して言う人に称賛をもたらす物です。

訳注: この部分の原文は「想があると、死後の自我を規定します」になっていますが、内容と一致しないので「想はない」としました。


チ 八非想見の類のウッダマーガタニカ

 比丘のみなさん。ウッダマーガタニカネヴァサンジーヴァーダ(死後非想論)であるサマナ・バラモンは、当然八つの物で「死後の自我は想があるでもなく、無いでもない」と規定します。

(43)比丘のみなさん。当然「形がある自我(だけ)が病ない自我で、死んだ後想があるでもなく無いでもない動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます。(これが一つ)

(44)比丘のみなさん。当然「形のない自我(だけ)が病気がない自我で、死んだ後想があるでもなく無いでもない動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます(これが一つ)。

(45)比丘のみなさん。当然「形があっても良く無くても良い自我(だけ)が病気がない自我で、死んだ後想があるでもなく無いでもない動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます。(これが一つ)

(46)比丘のみなさん。比丘のみなさん。当然「形があるのでもなく、ないのでもない自我(だけ)が病気がない自我で、死んだ後想があるでもなく、無いでもない動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます。(これが一つ)

(47)比丘のみなさん。当然「終わりがある自我(だけ)が病気がない自我で、死んだ後想があるでもなく無いでもない動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます。(これが一つ)

(48)比丘のみなさん。当然「終わりがない自我(だけ)が、病気がない自我で、死んだ後想があるでもなく無いでもない動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます。(これが一つ)

(49)比丘のみなさん。当然「終わりがあっても良く、無くても良い自我(だけ)が病気がない自我で、死んだ後想があるでもなく無いでもない動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます。(これが一つ)

(50)比丘のみなさん。当然「終わりがあるのでもなく、ないのでもない自我(だけ)が病気がない自我で、死んだ後想があるでもなく無いでもない動物だ」と規定するサマナ・バラモンたちがいます。(これが一つ)

 比丘のみなさん。当然「想がある」と死後の自我を規定する死後非想論のサマナ・バラモンの誰でも、それらのサマナ・バラモンすべてはこの八つの物に依存して規定し、これ以外のものはありません。

 比丘のみなさん。如行は当然これらのディッティの基盤である物を、誰でもこのように掴んでこのように撫で回せば、そのような行く場所、そのような未来になると明白に知りました。如行は当然それを明白に知り、それ以上のダンマを明白に知り、そして如行は知った物を掴みませんでした。掴まない時、すべての受が生じる原因と維持できないことと、旨味と低劣な害と脱す方便を明らかに知ることで、冷却は如行が特に自分で明らかにした物になりました。

 比丘のみなさん。如行は執着しないことで素晴らしい解脱をした人です。比丘のみなさん。これらのダンマは他の動物には見え難く、他の動物が知り難い深いダンマであり、思考で簡単に推測できる領域ではなく、博学者の境域だけが知ることができる静まった緻密なダンマであり、如行が最高の智慧で明らかにし、そして他人に教えて明らかにさせた物であり、如行を真実のままに正しく称賛して言う人に称賛をもたらす物です。


リ 七つの断滅見

 比丘のみなさん。ウッチェダヴァーダ(断滅論)であるサマナ・バラモンは、当然七つのもので動物の消滅、破滅、無を規定します。

(51)比丘のみなさん。「発展なさった方。この自我はどれも形がある自我で、四大種できていて母と父が発生源で、体が壊れて死んだ後は当然破滅して何もありません。発展なさった方。この自我だけが正しく消滅した自我と呼ばれます」とこのようなディッティのあるサマナ・バラモンたちがいます。サマナ・バラモンのある人たちは、このように生きている動物の消滅、破滅、無を規定します。(これが一つ)

(52)比丘のみなさん。他のサマナ・バラモンがそのサマナ・バラモンに「発展なさった方。あなたが言われる種類の自我は本当にあります。あなたがあると言われる自我はどれも、私はその自我をないとは言いません。しかしあなたが言われた自我では正しく消滅した自我と呼ばれません。発展なさった方。まだ天の物であり、形があり、食べ物としてカヴァリンカーラーハーラ(ご飯)がある欲界の生動物である別の自我があります。

 (註1)あなたはその自我が見えませんが、私は当然その自我が見えます。発展なさった方。この自我は体が崩壊して死んだ後当然消滅し、当然破滅し、当然無になります。発展なさった方。このような自我なら正しく消滅した自我と言われます」とこのように言います。サマナ・バラモンのある人たちは、このように生きている動物の消滅、破滅、無を規定します。(これが一つ)

註1: 学習者は、一般にカーヤディーヴァ(天の体)の人たちは天の食べ物を食べていると信じられていますが、ここでのブッダバーシタは、ご飯の固まりを食べている人たちもいると述べられています。一般の人がカーヤディーヴァに関して信じていることは、このようにブッダの言葉と一致しません。

 熟慮して正しい意味を掴めば、カヴァリンカーラーハーラ(ご飯の固まり。段食)も生きている動物を維持するため、そして生まれる場所を探している動物を援けるためにあると四つの食べ物について述べているブッダの言葉に関しての愚かさが消えます。

(53)比丘のみなさん。他のサマナ・バラモンがそのサマナ・バラモンに「発展なさった方。あなたが言われる種類の自我は本当にあります。あなたがあると言われる自我は何でも、私はその自我をないとは言いません。しかしあなたが言われた自我は、正しく消滅した自我と呼ばれません。発展なさった方。心で作られた形があり、大小の器官が揃っていて、劣っていない根がある別の自我がまだあるからです。

あなたはその自我が見えませんが、当然私はその自我が見えます。発展なさった方。この自我は体が崩壊して死んだ後当然消滅し、当然破滅し、当然無になります。発展なさった方。このような自我なら正しく消滅した自我と言われます」とこのように言います。サマナ・バラモンのある人たちは、このように生きている動物の消滅、破滅、無を規定します。(これが一つ)

(54)比丘のみなさん。他のサマナ・バラモンがそのサマナ・バラモンに「発展なさった方。あなたが言われる種類の自我は本当にあります。あなたがあると言われる自我は何でも、その自我を私はないとは言いません。しかしあなたが言われた自我は正しく消滅した自我と呼ばれません。

発展なさった方。瞋恚想が消滅することで、心の中をいろんな想にしないことで、形想をすべて越えることができたことで無限の空とだけ感じている空無辺処に到達する自我があるからです。発展なさった方。あなたはその自我が見えませんが、当然私はその自我が見えます。発展なさった方。この自我は体が崩壊して死んだ後当然消滅し、当然破滅し、当然無になります。

発展なさった方。このような自我なら正しく消滅した自我と言われます」とこのように言います。サマナ・バラモンのある人たちは、このように生きている動物の消滅、破滅、無を規定します。(これが一つ)

(55)比丘のみなさん。他のサマナ・バラモンが、そのマナ・バラモンに「発展なさった方。あなたが言われる種類の自我は本当にあります。あなたがあると言われる自我は何でも、私はその自我をないとは言いません。しかしあなたが言われた自我は、正しく消滅した自我と言われません。発展なさった方。まだ他に、空無辺処をすべて越えることができたから無限の識と感じている識無辺処に到達する自我があるからです。

あなたはその自我が見えませんが、私は当然その自我が見えます。発展なさった方。この自我は体が崩壊して死んだ後当然消滅し、当然破滅し、当然無になります。発展なさった方。このような自我なら正しく消滅した自我と言われます」とこのように言います。サマナ・バラモンのある人たちは、このように生きている動物の消滅、破滅、無を規定します。(これが一つ)

(56)比丘のみなさん。他のサマナ・バラモンがそのサマナ・バラモンに「発展なさった方。あなたが言われる種類の自我は本当にあります。あなたがあると言われる自我は何でも、私はその自我をないとは言いません。しかしあなたが言われた自我では正しく消滅した自我と呼ばれません。発展なさった方。識無辺処をすべて越えることができたので何もないと感じている無所有処に到達する自我がまだあるからです。

あなたはその自我が見えませんが、私は当然その自我が見えます。発展なさった方。この自我は体が崩壊して死んだ後当然消滅し、当然破滅し、当然無になります。発展なさった方。このような自我なら、正しく消滅した自我と言われます」とこのように言います。サマナ・バラモンのある人たちは、このように生きている動物の消滅、破滅、無を規定します。(これが一つ)

(57)比丘のみなさん。他のサマナ・バラモンがそのサマナ・バラモンに「発展なさった方。あなたが言われる種類の自我は本当にあります。あなたがあると言われる自我は何でも、その自我を私はないとは言いません。しかしあなたが言われた自我では、正しく消滅した自我と呼ばれません。発展なさった方。識無辺処をすべて越えることができたから非想非非想処に到達する自我がまだあるからです。

発展なさった方。あなたはその自我が見えませんが、当然私はその自我が見えます。発展なさった方。この自我は体が崩壊して死んだ後当然消滅し、当然破滅し、当然無になります。発展なさった方。このような自我なら、正しく消滅した自我と言われます」とこのように言います。サマナ・バラモンのある人たちは、このように生きている動物の消滅、破滅、無を規定します。(これが一つ)

 比丘のみなさん。当然生きている動物の消滅、破滅を規定する断滅論のサマナ・バラモンの誰でも、それらのサマナ・バラモンすべてはこの七つの物に依存して規定し、これ以外の物はありません。

 比丘のみなさん。如行は当然これらのディッティの基盤である物を、誰でもこのように掴んでこのように撫で回せば、そのような行く所そのような未来になると明白に知りました。如行は当然それを明白に知り、それ以上のダンマを明白に知り、そして如行は知った物を掴みませんでした。掴まない時、すべての受が生じる原因と維持できないことと、旨味と低劣な害と脱す方便を明らかに知ることで、冷却は如行が特に自分で明らかにした物になりました。

 比丘のみなさん。如行は執着しないことで素晴らしい解脱をした人です。比丘のみなさん。これらのダンマは他の動物には見え難く、他の動物には知り難く、静まった緻密なダンマで、思考で簡単に推測できる境域ではなく、博識者の領域だけが知ることができる深いダンマであり、如行が最高の智慧で明らかにし、そして他人に教えて明らかにさせた物であり、如行を真実のままに正しく称賛して言う人に称賛をもたらす 物です。


ヌ 五つの現生涅槃見

 比丘のみなさん。ディッダンマニッバーナヴァーダ(現生涅槃論)であるサマナ・バラモンは、当然五つの物で動物にパラマディッダンマニバーナ(現生での最高の涅槃)を規定します。

(58)比丘のみなさん。他のサマナバラモンのある人は「五欲で満たされ、五欲が豊かに揃って人にかしずかれている自我はどれでも、発展なさった方。この自我だけが現生での素晴らしい涅槃に到達した自我と呼ばれます」と、このような主張、ディッティがあります。そのサマナ・バラモンのある人たちは、このように生きている動物に現生での最高の涅槃を規定します。(これが一つ)

(59)比丘のみなさん。他のサマナバラモンがそのサマナバラモンに「発展なさった方。あなたが言われる種類の自我は本当にあります。あなたがあると言われる自我を、私はその自我はないとは言いません。しかしあなたが言われただけの自我では現生での素晴らしい涅槃に到達した自我と呼ばれません。発展なさった方。それはなぜでしょうか。

すべての愛欲は無常であり、苦であり、当たり前に変化するので、それらすべての愛欲の変化によって、悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが生じるからです。発展なさった方。しかしこの自我はどれでも、すべての愛欲が静まり、愛欲とすべての悪が静まってヴィタッカ(熟慮)とヴィチャーラ(熟考)、ヴィヴェカ(遠離)から生じたピーティとスッカがある初禅に到達し、そしてその感覚の中にいます。

発展なさった方。この自我だけが、現生での素晴らしい涅槃に到達した自我と呼ばれます」と、このように言います。サマナ・バラモンのある人たちはこのように生きている動物に、現生での最高の涅槃を規定します。(これが一つ)

(60)比丘のみなさん。他のサマナバラモンがそのサマナバラモンに「発展なさった方。あなたが言われる種類の自我は本当にあります。あなたがあると言われる自我、その自我はないとは言いません。しかしあなたが言われた自我だけでは、現生での素晴らしい涅槃に到達した自我と呼ばれません。発展なさった方。それはなぜでしょうか。その初禅の中の定はどれも、人がヴィタカしヴィチャーラしただけなので、その定をあの方はまだ粗雑なものと言われるからです。

しかしこの自我はどれでも、ヴィタッカ・ヴィチャーラが静まり、ヴィタカがなくヴィチャーラもなく、あるのはサマーディから生じたピーティだけで、心の内面を明るくするものであり、一番のダンマであるサマーディを生じさせる二禅に入り、その感覚の中にいます。発展なさった方。この自我だけが現生での素晴らしい涅槃に到達した自我と呼ばれます」と言います。サマナ・バラモンのある人たちは、このように生きている動物に、現生での最高の涅槃を規定します。(これが一つ)

(61)比丘のみなさん。他のサマナバラモンがそのサマナバラモンに「発展なさった方。あなたが言われる種類の自我は本当にあります。あなたがあると言われる自我、その自我がないとは言いません。しかしあなたが言われた自我だけでは、現生での素晴らしい涅槃に到達した自我と呼ばれません。発展なさった方。それはなぜでしょうか。その二禅の中のどの定も、心の膨らみであるピーティに至るので、あの方は二禅をまだ粗い物と言われているからです。

発展なさった方。しかしこの自我はどれでも、ピーティが薄れることで捨にいて、サティと自覚があり、そして当然名身で幸福を味わい、聖人の方々が「この定を得た人は捨にいる人で幸福に暮らす」と言われる三禅に到達し、そしてその感覚の中にいます。発展なさった方。この自我だけが、現生での素晴らしい涅槃に到達した自我と呼ばれます」と言います。サマナ・バラモンのある人たちは、このように生きている動物に、現生での最高の涅槃を規定します。(これが一つ)

(62)比丘のみなさん。他のサマナバラモンがそのサマナバラモンに「発展なさった方。あなたが言われる種類の自我は本当にあります。あなたがあると言われる自我、その自我はないとは言いません。しかしあなたが言われた自我は、現生での素晴らしい涅槃に到達した自我と呼ばれません。発展なさった方。それはなぜでしょうか。それは三禅の中の定はどれも「幸福。幸福」という心の喜びに過ぎず、だからその定をあの方はまだ粗い物と言われているからです。

発展なさった方。しかしこの自我はどれも、幸福と苦を捨てることができ、過去のすべての喜びが薄れることで、苦も幸福もなく、あるのは捨ゆえに純粋な自然であるサティだけの四禅に到達し、そしてその感覚の中います。発展なさった方。この自我だけが現生での素晴らしい涅槃に到達した自我と呼ばれます」と言います。サマナ・バラモンのある人たちは、このように生きている動物に現生での最高の涅槃を規定します。(これが一つ)

 比丘のみなさん。当然生きている動物に現生での最高の涅槃を規定する現生涅槃論のサマナ・バラモンの誰でも、それらのサマナ・バラモンのすべてはこの五つのものに依存して規定し、これ以外の物はありません。比丘のみなさん。如行は当然、これらのディッティの基盤である物を誰でもこのように掴んでこのように撫で回せば、そのような行く場所そのような未来になると明白に知りました。

 如行は当然それを明白に知り、それ以上のダンマを明白に知り、そして如行は知った物を掴みませんでした。そして掴まない時、すべての受が生じる原因と維持できないことと、旨味と低劣な害と脱す方便を明らかに知ることで、冷却は如行が特に自分で明らかにした物です。

 比丘のみなさん。如行は執着しないことで素晴らしい解脱をした人です。比丘のみなさん。これらのダンマは他の動物には見え難く、他の動物には知り難く深いダンマで、静まった緻密なダンマで、思考で簡単に推測できる境域ではなく、博識者の領域だけが知ることができる緻密な物です。それは如行が最高の智慧で明らかにし、そして他人に教えて明らかにさせた物であり、如行を真実のままに正しく称賛して言う人に称賛をもたらす物です。



四十四の未来住劫論のまとめ

 比丘のみなさん。未来の蘊に言及するアパランターヌディッティ(未来見)があるアパランタカッピカヴァーダ(未来住劫論)のサマナ・バラモンの誰でも、これらの四十四ある物で、当然自分たちの見解によるいろんな最高の解脱の道を規定し、これ以外の物はありません。

 比丘のみなさん。如行は当然、これらのディッティの基盤である物を、誰でもこのように掴んでこのように撫で回せばそのような行く場所、そのような未来になると明白に知りました。如行は当然それを明白に知り、それ以上のダンマを明白に知り、そして如行は知った物を掴みませんでした。掴まない時、すべての受が生じる原因と維持できないことと、旨味と低劣な害と脱す方便を明らかに知ることで、冷却は如行が特に自分で明らかにした物になりました。

 比丘のみなさん。如行は執着しないことで素晴らしい解脱をした人です。比丘のみなさん。これらのダンマは他の動物には見え難く、他の動物には知り難く、静まった緻密なダンマで、思考で簡単に推測できる境域ではなく、博識者の領域だけが知ることができる深いダンマです。それは如行が最高の智慧で明らかにし、そして他人に教えて明らかにさせた物であり、如行を真実のままに正しく称賛して言う人に称賛をもたらす物です。

六十二見すべてのまとめ

 比丘のみなさん。過去の蘊に言及するプッバンターヌディッティ(過去見)があるサマナ・バラモン、アパランターヌディッティ(未来見)があるサマナ・バラモンの誰でも、この六十二の物で、当然いろんなアディムッティパダ(自分たちの見解による解脱)を規定して述べ、これ以外の物はありません。

 比丘のみなさん。如行は当然、これらのディッティの基盤である物を、誰でもこのように掴んでこのように撫で回せば、そのような行く場所、そのような未来になると明白に知りました。如行は当然それを明白に知り、それ以上のダンマを明白に知り、そして如行は知った物を掴みませんでした。そして掴まない時、すべての受が生じる原因と、維持できないことと、旨味と、低劣な害と、脱す方便を明らかに知ることで、冷却は如行が特に自分で明らかにした物になりました。

 比丘のみなさん。如行は執着しないことで素晴らしい解脱をした人です。比丘のみなさん。これらのダンマは他の動物には見え難く、他の動物には知り難く、静まった緻密なダンマで、思考で簡単に推測できる境域ではなく、博学の領域者だけが知ることができる深いダンマです。如行が最高の智慧で明らかにし、そして他人に教えて明らかにさせた物で、如行を真実のままに正しく称賛して言う人に称賛をもたらす物です。

 学習者は、十に分けて説かれたそれぞれの分部の終りに、受と呼ぶものの重要さが見えるようまとめた言葉があると観察して見なければなりません。すべての受の原因、消滅、旨味、低劣な害、そして出る方便を知らなければ冷えることはなく、何らかの執着で、この六十二の見が生じるだけです。反対に受に関した五つの真実を知れば、何かを取で掴むこと、撫で回すこと、至ることはありません。

 「触」と「受」という言葉と、「触は六十二見の縁」「六十二見は縁起を知らない人の誤った感覚」「触は六十二見の来元」という題で、この六十二見の前に説いたブッダバーシタ(ブッダが言われた言葉)に現れているようなディッティに関わる何十語もの意味を調べていただくようお願いします。見の物とは、六十二の見を生じさせる元ですが、私たちは「六十二見」と呼びます。





縁起を知れば盲人が象を撫でるような見解は生じない

祇園精舎で
小部ウダーナヴァッガ 25巻182頁137項

 その時大勢の比丘が、朝チーヴァラをまとって鉢を持ち、托鉢をするためにサーヴァッディーへ行き、托鉢から戻ると世尊のお住まいを訪ねて申し上げました。

 「猊下。サーヴァッディーの国はいろんな教義の修行者がたくさん住んでいて、それぞれのディッティがあり、それぞれの好みがあり、それぞれの満足があり、いろんなディッティに依存し、

 サマナ・バラモンのある人たちは『世界は不変という言葉だけが真実で、これ以外は無効だ』というディッティがあり、

 サマナ・バラモンのある人たちは『世界は不変でないという言葉だけが真実で、これ以外は無効だ』というディッティがあり、

 サマナ・バラモンのある人たちは『世界は終わりがあるという言葉だけが真実で、これ以外は無効だ』というディッティがあり、

 サマナ・バラモンのある人たちは『世界は終わりがないという言葉だけが真実で、これ以外は無効だ』というディッティがあり、

 サマナ・バラモンのある人たちは『命と体は同じという言葉だけが真実で、これ以外は無効だ』というディッティがあり、

 サマナ・バラモンのある人たちは『命と体は別だという言葉だけが真実で、これ以外は無効だ』というディッティがあり、

 サマナ・バラモンのある人たちは『如行は死後存在するという言葉だけが真実で、これ以外は無効だ』というディッティがあり、

 サマナ・バラモンのある人たちは、『如行は死後存在しないという言葉だけが真実で、これ以外は無効だ』というディッティがあり、

 サマナ・バラモンのある人たちは『如行は死後存在することもあり存在しないこともあるという言葉だけが真実で、これ以外は無効だ』というディッティがあり、

 サマナ・バラモンのある人たちは『如行は死後存在するのでもなく存在しないのでもないという言葉だけが真実で、これ以外は無効だ』というディッティがあり、それらのサマナ・バラモンたちは恨み合い、喧嘩し、仲違いし、槍つまり『ダンマはこうであり、ダンマはそうではない』と、このように口の槍で突き合いが生じます」と奏上しました。

 比丘のみなさん。それらの他の教義のある修行者は目が見えない人で、道理を知らず非道理を知らないのでダンマを知らずアダンマを知りません。道理・非道理を知らず、ダンマ・アダンマ(善・悪、あるいは正義・不正義)を知らなければ、恨み合い、喧嘩し、仲違いし、槍つまり「ダンマはこうであり、ダンマはそうではない」と、このように口の槍で突き合いが生じます」。

 比丘のみなさん。このサーヴァッディーに以前あった話です。ある王が一人の重臣に「発展なさった方、ちょっとお出でなさい。このサーヴァッディーの国の生まれつきの盲人を全員どこかに集めてください」と言いました。その男が命令通りにすると、王はその男に「そうしたら生まれつきの盲人に象を見せてください」と言いました。その重臣は王の望みどおり、

 生まれつきの盲人の一群に「これが象ですよ」と言いながら象の頭を撫でさせ、

 生まれつきの盲人のもう一群に「これが象ですよ」と言いながら象の耳を撫でさせ、

 生まれつきの盲人のもう一群に「これが象ですよ」と言いながら象の牙を撫でさせ、

 生まれつきの盲人のもう一群に「これが象ですよ」と言いながら象の鼻を撫でさせ、 

 生まれつきの盲人のもう一群に「これが象ですよ」と言いながら象の体を撫でさせ、

 生まれつきの盲人のもう一群に「これが象ですよ」と言いながら象の足を撫でさせ、

 生まれつきの盲人のもう一群に「これが象ですよ」と言いながら象の背を撫でさせ、

 生まれつきの盲人のもう一群に「これが象ですよ」と言いながら象の尾の根元を撫でさせ、

 生まれつきの盲人のもう一群には「これが象ですよ」と言いながら象の尾の先を撫でさせました。

 その男がこのようにして、生まれつきの盲人に象を見せると、王に「それらの生まれつきの盲人たちが象を見ました。王様。これから私がすべきことをお教えください。王様」と申し上げました。王は盲人たちが集まっている場所へ足を運び、そして「盲人のみなさん。みなさん象を見ましたか」と言いました。「見ました」という返事を聞くと、「見たなら、象はどのようか述べなさい」と言われました。

 比丘のみなさん。

 象の頭を撫でた盲人たちは「王様。象は鍋のようです」と言い、

 象の耳を撫でた盲人たちは「王様。象は箕のようです」と言い、

 象の牙を撫でた盲人たちは「王様。象は鋤のようです」と言い、

 象の鼻を撫でた盲人たちは「王様。象は鋤の柄の曲がった分部のようです」と言い、

 象の体を撫でた盲人たちは「王様。象は籾を運ぶ籠のようです」と言い、

 象の足を撫でた盲人たちは「王様。象は柱のようです」と言い、 

 象の背を撫でた盲人たちは「王様。象は足踏み臼のようです」と言い、

 象の尾の根元を撫でた盲人たちは「王様。象は米を搗く杵のようです」と言い、

 象の尾の先を撫でた盲人たちは「王様。象は箒のようです」と言いました。

 これらの盲人たちは「象はこのようで、そのようではない。象はこのようだ」と互いに反論し合って拳で殴り合いました。比丘のみなさん。王はその様子に非常に満足しました。

 比丘のみなさん。同じように他の教義の修行者は目がない盲人で、道理を知らず非道理を知らないので、ダンマを知らずアダンマを知りません。道理・非道理を知らず、ダンマ・アダンマを知らなければ、恨み合い、喧嘩し、仲違いし、槍つまり「ダンマはこうであり、ダンマはそうではない」と、このように口の槍による突き合いが生じます。

 その時世尊はこの項目を考えられ、次のように感嘆されました。

 「一部のサマナ・バラモンは、当然これらのディッティのいずれかに執着していると聞いた。一方に突っ走る見方のある人はいろんなディッティを掴んで、当然それが原因で仲違いをする」とこのように。

註: 学習者は、一つの問題で喧嘩や仲違いが生じるのは、一方が一つの問題の一端だけを信じて他方に主張するからと観察して見なければなりません。だから象を撫でた九つのグループの盲人が、それぞれ違う部分を撫でたことで殴り合いが生じるように、争いや仲違いを生じさせるほどの違いが生じます。

 仏教のダンマあるいは教えは象より大きな象のように、九分教で九つの分部、経・応頌・授記・偈・自説・如是語・本性経・未曽有法・方広、合計九つに分けられますが、誰もが理解すれば重要な話は一つです。つまりすべてのダンマがどのように関わり合っているか説明できる「苦の生起型と消滅型」の縁生または縁起を理解すれば、象の全身を隈なく撫でたように反論して仲違いし、あるいは攻撃し合う余地はありません。




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