六十二見は縁起を知らない結果

ブラフマジャーラスッタ
長部シーラカンダヴァッガ9巻16頁26項

 比丘のみなさん。深く、他の動物には見え難く、他の動物には知り難く、静寂で緻密なダンマで、思考で推測できる境域でなく、高尚な物で、博学者の境域だけが知ることができ、如行(ブッダの一人称。そのように行ったという意味。漢訳では如来)が最高の智慧で明らかにし、それから他人に教えて明らかにさせた物である、如行を真実のままに正しく称賛する人に称賛をもたらす二つのダンマ(註1)があります。

 比丘のみなさん。それらのダンマはどのようでしょうか。


1.十八の過去住劫論

 比丘のみなさん。過去の蘊に言及するプッバンターヌディッティのあるプッバンタカッピカヴァーダ(過去にあった蘊に沿っていくディッティ。過去住劫論)であるサマナ・バラモンは、当然十八ある物でいろんなアディムッタィパダ(個々の見解による動物の最高の解脱の道)を規定します。それらのサマナ・バラモンは何に依存して十八の物でアディムッティパダを規定するのでしょうか。

イ 四つの常見

 比丘のみなさん。サッサタディッティ(常見)のサマナ・バラモンたちは当然四つのもので「自我」と「世界は不変」を規定します(この後はそれぞれのディッティの種類を割愛し、六十二見の要旨だけを並べ、パーリ(ブッダの言葉)にあるような順で小さく分けます)。

(1) 比丘のみなさん。この世界のサマナ・バラモンのある人は煩悩を焼く努力に依存して、心が安定すると、当然かつて住んだことがあるいろんな過去の蘊を思い出す状態のチェトーサマーディ(心のサマーディ)があり、一つの生、二つの生、(中略)、何十万の生を思い出し、

そして「自我と世界は不変で山のようにそびえ立ち、頑丈に埋めてある柱のように維持している。すべての動物が駈けて行き、輪廻し、移動し、生まれても、いつでも確実不変な物もある。なぜなら私は、当然過去に住んだことがある様々な蘊を状況も説明も思い出すことができるから」と、このように述べます。比丘のみなさん。これが「自我と世界は不変」と規定する、常見であるサマナ・バラモンの一番目です。

(2) 比丘のみなさん。この世界のサマナ・バラモンのある人は煩悩を焼く努力に依存して心が安定すると、当然かつて住んだことがあるいろんな過去の蘊を思い出す状態のチェトーサマーディがあり、一つの発生と消滅から十の発生と消滅まで思い出し、そして

「自我と世界は不変で山のようにそびえ立ち、頑丈に埋めてある柱のように維持している。すべての動物は駈けて行き、輪廻し、移動し、生まれても、しかしいつでもこのように確実不変な物もある。なぜなら私は当然過去に住んだことがある様々な蘊を状況も説明も思い出すことができるから」と、このように述べます。比丘のみなさん。これが「自我と世界は不変」と規定する、常見であるサマナ・バラモンの二番目です。

(3) 比丘のみなさん。この世界のサマナ・バラモンのある人は煩悩を焼く努力に依存して心が安定すると、当然かつて住んだことがあるいろんな過去の蘊を思い出す状態のチェトーサマーディがあり、十の発生と消滅から、二十の発生と消滅まで思い出し、そして

「自我と世界は不変で、山のようにそびえ立ち、頑丈に埋めてある柱のように維持している。すべての動物は駈けて行き、輪廻し、移動し、生まれるけれど、いつでもこのように確実不変な物もある。なぜなら私は当然過去に住んだことがある様々な蘊を、状況も説明も思い出すことができるから」と、このように述べます。比丘のみなさん。これが「自我と世界は不変」と規定する、常見であるサマナ・バラモンの三番目です。

(4) 比丘のみなさん。思索家であるサマナ・バラモンは当然思考で、思考が駈けめぐるままに、才智で「自我と世界は不変で山のようにそびえ立ち、頑丈に埋めてある柱のように安定している。すべての動物は駈けて行き、輪廻し、移動し、生まれるけれど、いつでもこのように確実不変な物もある。なぜなら私は当然過去に住んだことがある様々な蘊を、状況も説明も思い出すことができるから」と、このように述べます。

 比丘のみなさん。これが「自我と世界は不変」と規定する、常見であるサマナ・バラモンの四番目です。  比丘のみなさん。自我と世界は不変と規定するサマナ・バラモンは誰でも、この四つの物、あるいはこの四つのいずれかで規定し、これ以外のものはありません。比丘のみなさん。如行は当然「これらのディッティの基盤である物をこのように掴んでこのように撫で回せば、そのような場所へ行き、そのような未来の運命になる」と明らかに知りました。

 如行は当然それを明らかに知り、それ以上のダンマを明らかに知り、そして知ったものを掴みませんでした。そして掴まなければ、すべての受が生じる原因と、維持できないことと、旨味と、低劣な害と、脱す方便を明らかに知ることで、冷却(ニップティ)は如行が自分だけで明らかにしたものになりました。

 比丘のみなさん。如行は執着しないことで素晴らしい解脱をした人です。比丘のみなさん。これらのダンマは他の動物には見え難く、他の動物は知り難い深いダンマで、静寂で繊細なダンマで、思考で簡単に推測できる領域でなく、博学者の境域だけがすることができる緻密な物で、如行が最高の智慧で明らかにし、そして他人に教えて明らかにさせた物であり、如行を真実のままに正しく称賛して話す人に、称賛をもたらす物です。

註1: このような文章のダンマという言葉は、一般に「話」あるいは「もの」という意味で、仏法、あるいはどの教えでもありません。パーリ語を学んだことがない方は誤解するかもしれないので、ここで説明しておきます。この場合のダンマは、ブッダが明らかに知って関わらない六十二見を意味します。

註: 学習者は、ブッダが「生じさせる原因、(現状を)維持できないこと、旨味、低劣な害、出る方便を知ることで、如行はそれらの常見を知り、それ以上の物を明らかに知り、そして執着をしないことで内部が冷えたのを知った。生じさせる原因などがある五つの状態がある受、つまり縁起の受を表も裏も明らかに知った。このような状態の受を知らなければ、当然この五つのディッティの網から脱せない」と言われているように、受と呼ぶ物の重要性を観察して見なければなりません。

ロ 四つの一部常論

 比丘のみなさん。エカッチャサッサティカ-エカッチャアサッサティカヴァーダ(一部常論)であるサマナ・バラモンは、当然四つの物で「自我と世界は不変でもあり不変でもない」と規定します。

(5) 比丘のみなさん。これはあり得ます。つまりどの動物も極光浄天の群れからこのように移動して来て、このようになると、家から出て出家して家のない人になり、煩悩を焼く努力に依存して心が安定すると、当然かつて住んだことがある過去の蘊を思い出す状態があるチェトーサマーディがありますが、それ以上は思い出すことができません。

 その動物は「発展した梵天は大梵天であり、すべての動物を支配し、その人を支配できる人はいません。すべてのものが明らかに見え、権威を行使する人であり、シヴァ神であり、創造者であり、創始者であり、最高に素晴らしい人であり、すべてを分配する人であり、権力者であり、生きている動物と、これから生れるすべての動物の父です。

私たち全員はその梵天である人によって作られました。その梵天は不変な人、永遠の人、確実な人、当たり前に変化しない人で、いつでも変わらず維持しています。一方その梵天に作られた私たちは不変でなく永遠でなく、寿命が短く当たり前に死があり、このようになりました」とこのように述べます。

 比丘のみなさん。これが、一部常論であるサマナ・バラモンが依存して言及し、「自我と世界は不変のもあり、不変でないのもある」と規定する一番目の理由です。

(6) 比丘のみなさん。これはあり得ます。つまりどの動物でもキッダーパドゥシカ(戯耽)天人の群れからこのように移動して来て、このようになると、家から出て出家し、家のない人になり、煩悩を焼く努力に依存して心が安定すると、当然かつて住んだことがある過去の蘊を思い出す状態のチェトーサマーディがありますが、それ以上は思い出すことができません。

 その動物は「発展したみなさん。キッダーパドシカ(戯耽)でない天人は誰でもダンマに到達します。つまり面白可笑しいことの喜びは時間(程度)を越えないことを知っています。天人のみなさんが時間を越える(程度を越える)ほど面白可笑しいことを喜ばなければ、当然サティを忘れません。サティを忘れなければ、それらの天人は当然その天人の群れから移動しないので、不変な人、永遠な人、確実な人、当たり前に変化しない人であり、

いつでも変わらず維持します。一方面白可笑しいことを楽しんで時間を越えたキッダーパドゥシカである私は、面白可笑しいことを楽しんで時間を越えればサティが忘れられ、サティが忘れられたので移動して、不変でなく、永遠でなく、寿命が短く、当たり前に死がある人になり、そのように常に変わらず維持しています」とこのように述べます。

 比丘のみなさん。これが、一部常論であるサマナ・バラモンが依存して言及し、「自我と世界は不変のもあり、不変でないのもある」と規定する、二番目の理由です。

(7) 比丘のみなさん。これはあり得ます。つまりどの動物でもマノーパドシカ(意憤)天人の群れからこのように移動して来て、このようになると、家から出て出家して家のない人になり、煩悩を焼く努力に依存して心が安定すると、当然かつて住んだことがある過去の蘊を思い出す状態があるチェトーサマーディがありますが、それ以上は思い出すことができません。

 その動物は「それらのマノーパドシカでないすべての天人は、時間(程度)を越えるほど互いに加害しようと狙わず、心も傷つけ合いません。傷つけ合わなければ体も痣にならず心も痣にならず、それらすべての天人はその天人の群れから移動しないので、不変な人、永遠な人、確実な人、当たり前に変化しない人で、いつでも変わらず維持しています。

マノーパドシカ(意憤)である私たちは普段から時間(程度)を越えるほど責め合い、時間を越えて責め合えば心も加害しようと狙い、心が加害しようと狙えば体も腫れ上がり心も腫れ上がります。だから私たち全員はその天人から移動し、不変でなく、永遠でなく、寿命が短く、当たり前に死がある人になり、このようになりました」とこのように述べます。

 比丘のみなさん。これが、一部常論であるサマナ・バラモンが依存して言及し、「自我と世界は不変のもあり、不変でないのもある」と規定する、三番目の理由です。

(8) 比丘のみなさん。思索家であるサマナ・バラモンは当然思考で、思考の突っ走るままに、才智で「人が目と呼んだり、耳と呼んだり、鼻と呼んだり、舌と呼んだり、体と呼んだりしているどの自我も、その自我は不変でなく、永遠でなく、確実でなく、当たり前に変化します。

 一方人が心とか意とか識と呼ぶ自我は不変で永遠で確実で、当たり前に変化せず、いつでも一定確実に維持しています」とこのように述べます。比丘のみなさん。これが一部常論であるサマナ・バラモンが依存して言及し「自我と世界は不変の物もあり、不変でないの物もある」と規定する四番目の理由です。

 比丘のみなさん。自我と世界は不変のもあり不変でないのもあると規定するサマナ・バラモンは誰でも、この四つの物、あるいはこの四つのいずれかで規定し、これ以外のものはありません。比丘のみなさん。如行は当然「これらのディッティの基盤をこのように掴んでこのように撫で回せば、そのような行く場所、そのような未来の運命になる」と明らかに知りました。

 如行は当然それを明らかに知り、それ以上のダンマを明らかに知り、そして知ったものを掴みませんでした。掴まなければすべての受が生じる原因と、維持できないことと、旨味と、低劣な害と、脱す方便を明らかに知ることで、冷却(涅槃)は如行が自分だけで明らかにした物になりました。

 比丘のみなさん。如行は執着しないことで素晴らしい解脱をした人です。比丘のみなさん。これらのダンマは他の動物には見え難く、他の動物は知り難い深いダンマで、静寂で繊細なダンマであり、思考で簡単に推測できる領域ではありません。それは如行が最高の智慧で明らかにし、そして他人に教えて明らかにさせた、智者だけが知ることができる緻密なのもで、如行を真実のままに正しく称賛する人に称賛をもたらすものです。

註: 学習者は、一部常論四派の人たちのディッティも、ブッダが常見の人たちについて話されたのと同じ内容があると観察して見なければなりません。「そのような形で受が見えなければ、当然の四派の域から脱せない」と見えるまで、もう一度、恒常論の最後の註を見てください。これが受と呼ばれるものの重要性です。

ハ 四つの無辺論

 比丘のみなさん。アンターナンティカヴァーダ(辺無辺論)であるサマナ・バラモンは、当然四つの物で「世界には終わりがある」あるいは「終りがない」と規定します。

(9)比丘のみなさん。サマナ・バラモンのある人は煩悩を焼く努力に依存して心が安定すると、世界に終わりがあるという想がある人になる状態のチェトーサマーディがあり、「自分の周囲の世界には終わりがあります。なぜ私はこのように言うのでしょうか。私は煩悩を焼く努力に依存して心が安定すると、世界には終わりがあるという想がある人になる状態のチェトーサマーディがあるからです。

だから私は、自分の周りの世界には終わりがあると知りました」とこのように述べます。比丘のみなさん。これが、アンターナンティカ(辺無辺論)であるサマナ・バラモンが依存して言及し、「世界には終わりがある」とか「終わりがない」とか規定する一番目です。

(10)比丘のみなさん。サマナ・バラモンのある人は、煩悩を焼く努力に依存して心が安定すると、世界に終わりがないという想がある人になる状態のチェトーサマーディがあり、このサマナ・バラモンは「この丸い世界に終わりはありません。なぜ私はこのように言うのでしょうか。私は煩悩を焼く努力に依存して心が安定すると、世界には終わりはないという想があるチェトーサマーディがある人だからです。

だから私は基本である丸いこの世界は終わりがないと知りました」とこのように述べます。比丘のみなさん。これが、辺無辺論であるサマナ・バラモンが依存して言及し、「世界には終わりがある」とか「終わりがない」とか規定する二番目です。

(11)比丘のみなさん。サマナ・バラモンのある人は、煩悩を焼く努力に依存して心が安定すると世界の上と下に終わりがあり、世界の投げる方向(周囲)に終わりはないという想がある人になる状態のチェトーサマーディがあり、「世界には終わりがあり、終わりがありません。『自分の周りの世界には終わりがあります』とこのように言うサマナ・バラモンは誰でも、そのサマナ・バラモンの言葉は偽りです。『自分の周りの世界には終わりがない』と言うどのサマナ・バラモンも、そのサマナ・バラモンの言葉も偽りです。

この世界には終わりがあり、終わりがないからです。それは何故でしょうか。私は煩悩を焼く努力に依存して、世界の上の方と下の方には終わりがあり、世界の投げる方向(周辺)に終わりはないという想がある人である状態のチェトーサマーディがあるからです。だから私は世界に終わりがあり終わりがないと、このように知りました」とこのように述べます。

 比丘のみなさん。これが辺無辺論であるサマナ・バラモンが依存して言及し、「世界には終わりがある」とか、「終わりがない」とか規定する三番目です。

(12)比丘のみなさん。思索家であるサマナ・バラモンのある人は当然思考で、思考の走るままに、才智で「世界に終わりがあるのでもなく、世界は終わりがないのでもない。身の回りの丸い世界は、終わりがあると言うサマナ・バラモンは誰でも、そのサマナ・バラモンの言葉は偽りです。世界は終わりがないと言うサマナ・バラモン、そのサマナ・バラモンの言葉も偽りです。この世界に終わりがあり終わりがないと言うサマナあるいはバラモンの、そのサマナ・バラモンの言葉も偽りです」とこのように述べます。

 比丘のみなさん。これが辺無辺論であるサマナ・バラモンが依存して言及し、「世界には終わりがある」とか「終わりがない」とか規定する四番目です。

 比丘のみなさん。「世界には終わりがある」とか「終わりがない」とか規定する辺無辺論のサマナ・バラモンのどの人たちも、それらのサマナ・バラモンは誰でもこの四つの物、あるいはこの四つのいずれか一つに依存して規定し、これ以外の物はありません。

 比丘のみなさん。如行は当然これらのディッティの基盤である物を、誰がこのように掴んでこのように撫で回しても、そのような行き先、そのような未来になると明らかに知りました。如行は当然それを明らかに知り、それ以上のダンマを明らかに知り、そして如行は知った物を掴みませんでした。掴まなければすべての受が生じる原因と、維持できないことと、旨味と、低劣な害と、脱す方便を明らかに知ることで、冷却(ニップティ)は、如行が自分だけで明らかにした物になりました。

 比丘のみなさん。如行は執着しないことで素晴らしい解脱をした人です。比丘のみなさん。これらのダンマは他の動物には見え難く、他の動物は知り難い深いダンマで、思考で簡単に推測できる領域ではなく、博学者の領域だけが知ることができる静寂で繊細なダンマであり、それは如行が最高の智慧で明らかにし、そして他人に教えて明らかにさせた物で、如行を真実のままに正しく称賛して言う人に称賛をもたらす物です。

註: 学習者はこの四つの辺無辺論のディッティも受と呼ばれるものから生じると観察して見なければなりません。ブッダが恒常論の人たちについて話された内容と同じ文章なので、そのような形の受が明らかに見えなければ、当然四つの辺無辺論の網から脱せないと見えるまでもう一度恒常論の後の注釈を振り返って見てください。これが受と呼ぶ物の重要点です。


ニ 四つの詭弁論

 比丘のみなさん。アマラーヴィッケピカヴァーダ(不死僑乱論。詭弁論)であるサマナ・バラモンのある人たちは、その問題について質問されると、当然四つの物で安定しない揺れに至ります。

(13)比丘のみなさん。サマナ・バラモンのある人は「私はこれが善、これは悪と真実のままに明らかに知らないので、このように真実のままに知らなければ、これが善これは悪と、このように託宣しない。それが私の本当の発言だ」と考えます。このサマナ・バラモンはこのように偽りを恐れ、偽りを嫌って「こういうのが善、こういうのが悪」と言いたがらず、

この問題を訊かれると「こうでもなく、そうでもなく、それでもなく、これでもなく、こうでないのでもなく、こうでないのでもなくもない」と確定しない揺らぎに至ります。比丘のみなさん。これが詭弁論であるサマナ・バラモンが依存して言及し、問題を規定する理由の一番で、当然一定しないで揺れます。

(14)比丘のみなさん。サマナ・バラモンのある人は「私はこれが善、これは悪と真実のままに明らかに知らないので、このように真実のままに知らなければ、これが善これは悪と、このように託宣しない。それは満足や貪りや怒りや焦燥を生じさせる。どのダンマに満足や貪りや怒りや焦燥が生じても、そのダンマは私にとって取で、その取は私にとって困苦であり、困苦はこのように危険だ」と考えます。

このサマナ・バラモンはこのように取を恐れ、取を嫌って「こういうのが善、こういうのが悪」と言いたがらず、この問題を訊かれると「こうでもなく、そうでもなく、それでもなく、これでもなく、こうでないのでもなく、こうでもないのでもなくもない」と、確定しない揺らぎに至ります。

 比丘のみなさん。比丘のみなさん。これが、詭弁論であるサマナ・バラモンが依存して言及し、その問題を規定する理由の二番で、当然一定しないで揺れます。

(15)比丘のみなさん。サマナ・バラモンのある人は「私は、これが善これは悪と真実のままに明らかに知らない。このように真実のままに知らないで、これが善これは悪とこのように託宣すれば、緻密な智慧があり議論で抑え込むことに長けていて、鹿の毛を射るように鋭い学者が他人のディッティを智慧で攻撃しようとやって来て、包囲して質問攻めにされたら、私は彼に答えることができない。彼に答えることができないのは私の困苦で、その困苦は危険だ」と考えます。

 このサマナ・バラモンはこのように包囲されて質問されるのを恐れ、包囲されて質問されるを嫌って「こういうのが善、こういうのが悪」と言いたがらず、この問題を訊かれると「ああでもなく、こうでもなく、そうでもなく、これでもなく、これでないのでもなく、これでないのでもなくもない」と確定しない揺らぎに至ります。

 比丘のみなさん。比丘のみなさん。これが、詭弁論であるサマナ・バラモンが依存して言及してその問題を規定する理由の三番で、当然確定しないで揺れます。

(16)比丘のみなさん。愚かで、信じ易いサマナ・バラモンのある人は愚かで信じ易いために、そこで問題を質問されると「あなたが他の世界があるかと私に質問するなら、他の世界があると感じたら他の世界はあると託宣します。しかし本当は、このようだと答えても自分で満足せず、あのようだと答えても自分で満足せず、別の答え方をしても自分で満足せず、違うと答えても自分で満足せず、違う訳ではないと答えても自分で満足しません」と、固定しない揺らぎに至ります。

 (どの質問にもこのように揺れ動く状態の五つの一定しない答えは、あと十五の質問を仮定し、上記の質問と合わせると十六になります。あと十五の質問は、


2他の世界はないのか、

3他の世界はあるのもあり、ないのもあるのか、

4他の世界はあるのでもなく、ないのでもないのか、

5オッパーティカ(不還者)はいるのか、

6オッパーティカはいないのか、

7オッパーティカはいることもあり、いないこともあるのか、

8オッパーティカはいるのでもなく、いないのでもないのか、

9善行悪行の結果はあるのか、

10善行悪行の結果はないのか、

11善行悪行の結果はあることも、ないこともあるのか、

12善行悪行の結果はあるのでも、ないのでもないのか、

13如行は死んでもまだいるのか、

14如行は死んだらもういないのか、

15如行が死んだらいるのもあり、いないのもあるのか、

16如行が死んだらいるのでもなく、いないのでもないのか、です。

 そしてそれぞれの質問の最後の答えは、彼は質問された問題で感じているように答え、そして「本当はこのように答えても自分で満足せず、あのようだと答えても自分で満足せず、別の答え方をしても自分で満足せず、違うと答えても自分で満足せず、違う訳ではないと答えても自分で満足しないと、確定しない揺らぎに至ります」と答えられています)。

 比丘のみなさん。これが詭弁論であるサマナ・バラモンが依存して言及してその問題を規定する理由の四番で、当然固定しない揺らぎに至ります。

 比丘のみなさん。そこで問題を質問されると一定でなく、当然詭弁論のサマナ・バラモンのどの人たちも、そのサマナ・バラモンは誰でも、この四つの物、あるいはこの四つのいずれか一つに依存していて、これ以外の物はありません。

 比丘のみなさん。如行は当然これらのディッティの基盤である物を誰がこのように掴んで撫で回しても、そのような行く場所、そのような未来になると明らかに知りました。如行は当然それを明らかに知り、それ以上のダンマを明らかに知り、そして如行は知った物を掴みませんでした。そして掴まなければすべての受が生じる原因と、維持できないことと、旨味と、低劣な害と、脱す方便を明らかに知ることで、冷却(ニブティ)は如行が自分だけで明らかにした物になりました。

 比丘のみなさん。如行は執着しないことで素晴らしい解脱をした人です。比丘のみなさん。これらのダンマは他の動物には見え難く、他の動物は知り難い深いダンマで、思考で簡単に推測できる領域ではなく、博学者の領域だけが知ることができる静寂で繊細なダンマであり、そして如行が最高の智慧で明らかにし、他人に教えて明らかにさせた物で、如行を真実のままに正しく称賛して言う人に称賛をもたらす物です。

註: 学習者はこの四つの詭弁論の人たちのディッティ(見解)も受と呼ばれる物だけに原因があると観察して見なければなりません。ブッダが恒常論の人たちについて話された内容と同じ文章なので、そのような形で受が明らかに見なければ当然四つの詭弁論の網から脱せないと見えるまで、恒常論の項目を振り返って見てください。これが受と呼ぶ物の重要点です。


ホ 二つの無因論

 比丘のみなさん。アディッチャサムッパンニカヴァーダ(無因論)であるサマナ・バラモンの一部は、当然二つの物で自我と世界は自然に生じると規定します。

(17)アサンジーサッタヴァ(無想動物)と呼ばれるサマナ・バラモンがいます。そのサマナ・バラモンは当然識が生じることで無想天人の群れから移動します。比丘のみなさん。これはあり得ます。

 つまりいずれかの動物が無想動物の群れからこのように(人間に)移動して来ると、家を出て出家して家のない人になり、家のない人になって生活し、煩悩を焼く努力に依存すると、心が安定すると当然その想の発生を思い出し、それより遠く(無想動物だった時)は思い出すことができない状態のチェトーサマーディがあり、その動物は「自我と世界は、理由なく自然に生じます。それはなぜでしょうか。

 それは私はいなかったのに、無に心を傾けたので、反対に今私はいます」とこのように述べます。比丘のみなさん。これが、無因論であるサマナ・バラモンが依存して言及し、「自我と世界は不変のもあり、不変でないのもある」と規定する一番目の理由です。

(18)比丘のみなさん。思索家であるサマナ・バラモンのある人は当然思考で、思考の走るままに、才智で「自我と世界は、理由もなく自然に生じる」とこのように述べます。比丘のみなさん。これが無因論であるサマナ・バラモンが依存して言及し、「自我と世界は何となく自然に生じる」と規定する二番目の理由です。

 比丘のみなさん。自我と世界は理由もなく自然に生じると規定する無因論であるサマナ・バラモンは誰でも、この二つの物、あるいは二つのどちらかで規定し、これ以外の物はありません。比丘のみなさん。如行は当然、これらのディッティの基盤をこのように掴んでこのように撫で回せば、そのような行き先、そのような未来の運命になると明らかに知りました。

 如行は当然それを明らかに知り、それ以上のダンマを明らかに知り、そして如行は知ったものを掴みませんでした。掴まなければすべての受が生じる原因と、維持できないことと、旨味と、低劣な害と、脱す方便を明らかに知ることで、冷却は如行が自分だけで明らかにした物になりました。

 比丘のみなさん。如行は執着しないで素晴らしい解脱をした人です。比丘のみなさん。これらのダンマは他の動物には見え難く、他の動物は知り難い深いダンマで、静寂で繊細なダンマであり、思考で簡単に推測できる領域ではなく、博学者の境域だけが知ることができ、それは如行が最高の智慧で明らかにし、そして他人に教えて明らかにさせた物で、如行を真実のままに正しく称賛して言う人に称賛をもたらす物です。



十八の過去に言及するディッティのまとめ

 比丘のみなさん。過去の蘊に言及する過去の見がある過去住劫論のサマナ・バラモンの誰でも、これらの十八ある物で当然いろんなアディムッティパダ(自分たちの見解による、動物の最高の解脱)を規定し、これ以外の物はありません。

 比丘のみなさん。如行は当然これらのディッティの基盤である物を誰がこのように掴んでこのように撫で回しても、そのような行く場所、そのような未来になると明らかに知りました。如行は当然それを明らかに知り、それ以上のダンマを明らかに知り、そして如行は知った物を掴みませんでした。

 そして掴まない時、すべての受が生じる原因と、維持できないことと、旨味と、低劣な害と、脱す方便を明らかに知ることで、冷却は、如行が自分だけで明らかにした物になりました。

 比丘のみなさん。如行は執着しないで素晴らしい解脱をした人です。比丘のみなさん。これらのダンマは他の動物には見え難く、他の動物は知り難い深いダンマで、静寂で繊細なダンマであり、思考で簡単に推測できる領域ではなく、博学者の境域だけが知ることができ、如行が最高の智慧で明らかにし、そして他人に教えて明らかにさせた物で、如行を真実のままに正しく称賛して言う人に称賛をもたらす物です。

註: 学習者は、この二つの無因論のディッティも、受と呼ぶ物だけに原因があると観察して見なければなりません。ブッダが恒常論の人たちについて話された内容と同じなので、そのような形で受が明らかに見なければ、当然二つの無因論の網から脱せないと見えるまで、恒常論の最後の注釈を振り返って見てください。これが受と呼ぶものの重要点です。




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