二十六見はすべて五取蘊に言及する

祇園精舎で
相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻266頁445項他

1.エシカッタジッティタサッサタディッティ

 比丘のみなさん。何があれば何に執着するので、何に心を埋めるので「風も吹かず、水も流れず、妊婦も出産せず、お月様とお日様も昇らず沈まず、それぞれ丈夫な柱のように安定している物だ」というディッティが生まれるでしょうか。

 「猊下。私たちのすべてのダンマは、世尊が根源で、世尊が指導者で、世尊が拠り所です。猊下。そのお話になったことの意味を、どうぞ明らかになさってください。比丘のみなさんは世尊から聞いて記憶します」とこのように申し上げたので、世尊は比丘たちによく聞くよう忠告して話されました。

 比丘のみなさん。①形があれば形に執着するので、形に心を埋めるので「風は吹かず、水は流れず、妊婦も出産せず、お月様とお日様も昇らず沈まず、それぞれ丈夫な柱のように安定している物だ」というディッティが生まれます。

 比丘のみなさん。みなさん、これをどう思いますか。形は不変ですか、不変でないですか。

 「不変ではありません。猊下」。

 不変でないものは苦ですか、幸福ですか。

 「苦です、猊下」。

 不変でなく苦であり当たり前に変化するものでも、それに執着しなければ「風は吹かず、水は流れず、妊婦も出産せず、お月様とお日様も昇らず沈まず、それぞれは丈夫な柱のように安定している物だ」という、このようなディッティは生まれますか。

 「それはありません。猊下」。

 比丘のみなさん。このような状態で、苦があれば苦に執着するので、苦に心を埋めるので「風も吹かず、水も流れず、妊婦も出産せず、お月様とお日様も昇らず沈まず、それぞれ丈夫な柱のように安定している物だ」とこのようなディッティが生まれます。

 (受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。この六つの疑念を聖なる弟子が捨てれば、その時「苦、苦を生じさせる原因、苦の消滅、滅苦に至る道」の疑念も、その聖なる弟子が捨てたものになります。比丘のみなさん。私はその聖なる弟子を、将来確実に悟り、(涅槃が)約束された人であり、落ちて普通になることがない預流である聖なる弟子と呼びます。

 (以下の二番目から二十六番目まで、「何があれば何に執着すれば」から「世尊は忠告して話されました」まで、一番とすべて同じに話されています。ここではその部分を省略して見の分部から始めます。

 そして「みなさんこれをどう思いますか」から終わりの「預流である聖なる弟子と呼びます」まで、見解が違うだけで後はすべて一番の見と同じに話されているので、まとめの分部を省略します。更に学習者は、この二十六見はすべて五取蘊になると観察して見なければなりません)。


2.アッター-アッタニヤーヌディッティ(我-我所有見)

 比丘のみなさん。②形があれば形に執着するので、形に心を埋めるので「それは私の物。それは私。それは私自身」というディッティが生まれます。


3.サッサタディッティ(常見)

 比丘のみなさん。③形があれば形に執着するので、形に心を埋めるので「形と世界は同じ。それを捨てたら、永遠に変わらない本当の人になって当然変化しない」というディッティが生まれます。


4.ウッチェダディッティ(一般の断見)

 比丘のみなさん。④形があれば形に執着するので、形に心を埋めるので「私はいるべきでない。私の物もあるべきでない。私は(今後も)存在せず、私の物もない」というディッティが生まれます。


5.ナッティカディッティ(一般の虚無論)

 比丘のみなさん。⑤形があれば形に執着するので、形に心を埋めるので「人がした布施はない。人がした祭祀はない。人が祭った祭祀はない。人がした善行悪行のカンマの報いはない。この世界はない。他の世界もない。母もいない。父もいない。オッパーティカ(不還)である人もいない。

正しく行った人、正しく実践した人、この世界と他の世界を、最高の智慧で明らかにし、世界に公開した人であるサマナ・バラモンもいない。人はただ四大種の集まりでしかない。死んだら当然土は土の群れと一つになり、水は水の群れと一つになり、火は火の群れと一つになり、風は風の群れと一つになり、すべての根は、当然将来消えて空になる。

 すべての人は死体を載せる寝台に寝かされ、顔を覆って運ばれ、残るのは墓場だけ。鳩のような色をしたたくさんの骨だけ。祭祀は結局灰になる。布施と言うのは愚かな人の規定で、何でもあると言う人の言葉で、(意味が)なく、嘘出まかせである。愚も者も学者も、体が崩壊すれば破滅して無になる。死後は当然存在しない」というディッティが生まれます。


6.アキリヤディッティ(無作用論)

 比丘のみなさん。⑥形があれば形に執着するので、形に心を埋めるので「自分が行動しても他人に行動させても、自分が斬っても他人に斬らせても、自分で排除しても、他人に排除させても、自分で他人を悲しめても、人を使って他人を悲しませても、自分で人を苦しめても、他人を使って苦しめても、自分で足掻かせても、他人を使って他の人を足掻かせても、

息のある動物の命を奪っても、人が与えていない物を盗んでも、コソ泥を働いても、集落全体を奪っても、一軒から奪っても、道で待ち伏せして奪っても、他人の妻を犯しても、偽りを言っても、当然行動をした人に罪はない。

 誰かがこの地上のすべての人を、カミソリのように鋭い歯車で刻んで肉の広場にしても、当然そのような行動による罪はない。罪の原因は当然ない。ガンガ(ガンジス川)の右岸へ行って自分で殺しても、人に殺させても、自分で斬っても、他人に斬らせても、自分で退治しても、他人に退治させても、そのような行動による罪は当然ない。罪の原因は当然ない。

 ガンガの左岸へ行って自分で布施しても他人に布施させても、自分で祭祀しても他人に祭祀させても、そのような行動による徳は当然ない。徳の原因は当然ない。布施をすることにも、心の訓練をすることにも、注意深くすることにも、真実を述べることにも、当然徳はない。徳の原因はない」というディッティが生まれます。


7.アヘトゥカディッティ(無因論)

 比丘のみなさん。⑦形があれば形に執着するので、形に心を埋めるので「すべての動物を憂鬱にする原因も縁もない。原因も縁もなく動物は憂鬱になる。すべての動物を純潔にする原因も縁もない。原因も縁もなく動物は純潔になる。力もなく、努力もなく、人の力もなく、人の奮闘もない。すべての動物、すべての生き物は力もなく、努力もなく、当然運命と偶然で変化し、当然六つの幸福と苦を味わう」というディッティが生まれます。


8.サッタカーヤディッティ(七身論)

 比丘のみなさん。⑧形があれば形に執着するので、形に心を埋めるので「七つの集まりのこの体(自然の集合物)は、作った人もなく、秩序を作った人もなく、創造者もなく、誰かが創造した秩序もなく、結果を生じさせることも無く、山のように、頑丈な柱のように安定している。そのすべての体は動揺せず、変化せず、互いに影響されず、互いに幸福にも不幸にもできない。すべての体の七群とはどのようだろう。七群とは、土身・水身・火身・風身・幸(幸身)・苦(苦身)、命(命身)だ。

 これらの群れを作った人もなく、秩序を作った人もなく、創造者もなく、誰かが創造した秩序もなく、結果を生じさせることもなく、山のように、頑丈な柱のように安定している。それらすべての体は、動揺せず、変化せず、互いに影響されず、互いに幸福にも不幸にもできない。誰が誰の首を斬っても、誰が誰の命を奪ったと言われない。刃物が七つの集まりである体の中を通過しただけ。

 この首領の出生地は百四十万あり、六千あり、六百ある。五百のカンマ、五つのカンマ、三つのカンマ、十分なカンマ、半分のカンマもある。六十二のパティパダー、六十二の中劫、六つの階級、七つの男、四千九百のアージヴァカ、四千九百の修行者、四千九百のナーガヴァーサ、二千の根、三千の地獄、

三十六のラチョーダートゥ、七つのサンジーガッパ、七つのアサンジーガッパ、七つのニガランダガッパ、七つの天人、七つの人間、七つの妖怪、七つの池、七つの山も、七百のも、七つの崖、七百のも、七つの夢、七百の夢もある。この八万四千の大劫は、愚者も学者も駈けて行って、最高の苦になる輪廻だ。

 その輪廻には、まだ熟していないカンマを終わらせること、あるいは熟したカンマの結果を味わい、実践項目、つまり戒や勤め、苦行、梵行で苦を終わらせる希望がある教えはない。升で物を測るように、幸福と苦が終わることはない。

 その輪廻では、発展とか衰退とか、良くなるとか悪くなると言われる物は何もない。投げて転がした糸玉が、ほどけて玉でなくなれば当然止まるように、輪廻に駈けて行く愚かな人も学者も、自然に幸福と苦が緩んで無くなる」というディッティが生まれます。


9.サッサタローカディッティ(世常見)

 比丘のみなさん。⑨形があれば形に執着するので、形に心を埋めるので「世界は不変」というディッティが生まれます。


10.アサッサタローカディッティ(世無常見)

 比丘のみなさん。⑩形があれば形に執着するから、形に心を埋めるので「世界は不変でない」というディッティが生まれます。


11.アンタヴァナローカディッティ(世界有限論)

 比丘のみなさん⑪形があれば形に執着するから、形に心を埋めるので「世界に終わりはある」というディッティが生まれます。


12.アナンタヴァナローカディッティ(世界無限論)

 比丘のみなさん。⑫形があれば形に執着するから、形に心を埋めるので「世界に終わりはない」というディッティが生まれます。


13. タンチーヴァタンサリーラディッティ(命身同一論)

 比丘のみなさん。⑬形があれば形に執着するから、形に心を埋めるので「命と体は同じ」というディッティが生まれます。


14.アンニャンチヴァアンニャンシーラディッティ(命身不同論)

 比丘のみなさん。⑭形があれば形に執着するから、形に心を埋めるので「命と体は別」というディッティが生まれます。


15.ホティタターガトディッティ(如行死後存在論)

 比丘のみなさん。⑮形があれば形に執着するから、形に心を埋めるので「如行は死後、当然存在する」というディッティが生まれます。


16.ナホティタターガトディッティ(如行死後不在論)

 比丘のみなさん。⑯形があれば形に執着するから、形に心を埋めるので「如行は死後、当然存在しない」というディッティが生まれます。


17.ホティチャナチャディッティ(如行死後在不在論)

 比丘のみなさん。⑰形があれば形に執着するので、形に心を埋めるので「如行は死後、当然存在することもあり、当然存在しないこともある」というディッティが生まれます。


18.ネヴァホティナナホティディッティ(如行死後非在非不在論)

 比丘のみなさん。⑱形があれば形に執着するから、形に心を埋めるので「如行は死後、当然存在するのでもなく、当然存在しないのでもない」というディッティが生まれます。


19.ルーピーアッタディッティ(形我見)

 比丘のみなさん。⑲形があれば形に執着するから、形に心を埋めるので「形のある自我(自分)(註1)(だけ)が、死んだ後の病気のない(註2)自分」というディッティが生まれます。

註1: 形のある自我とは、縁起である形禅定がある自我。

註2: 病気がないとは、永遠を意味し、刺激して変化させる物が何もないこと。


20.ナホティッターガトディッティ

 比丘のみなさん。⑳形があれば形に執着するので、形に心を埋めるので「形のない自分(註3)(だけ)が死んだ後の病気のない自我(自分)」というディッティが生まれます。

註3: 形のない 自我とは、縁起である形禅定がない自我。


21、ルーピーチャアルーピーチャディッティ(形無形我見)

 比丘のみなさん。形があれば形に執着するので、形に心を埋めるので「自我(自分)は形があっても形がなくても死後病気のない自我(自分)になる」というディッティが生まれます。


22.ネヴァルーピーナールーピーチャアッターディッティ(形無形我見)

 比丘のみなさん。形があれば形に執着するので、形に心を埋めるので「形があるのでもなく、形がないのでもない自我(自分)が死後病気がない自分」というディッティが生まれます。


23.エカンタスキーアッターディッティ(唯幸我見)

 比丘のみなさん。形があれば形に執着するので、形に心を埋めるので「幸福だけがある自我(自分)が死後病気のない自我(自分)」というディッティが生まれます。


24.エカンタドゥキーアッターディッティ(唯苦我見)

 比丘のみなさん。形があれば形に執着するので、形に心を埋めるので「苦だけがある自我(自分)が死後病気のない自我(自分)」というディッティが生まれます。


25.スカドゥキーアッターディッティ(幸苦我見)

 比丘のみなさん。形があれば形に執着するので、形に心を埋めるので「幸福と苦がある自我(自分)が死後病気のない自我(自分)」というディッティが生まれます。


26.エカンタスカドゥキーアッタディッティ(唯幸苦我見)

 比丘のみなさん。何があって何に執着すれば、何に心を埋めれば「幸福と苦がない自我(が、死後病気のない自我(」というディッティが生まれるでしょうか。

 「猊下。私たちのすべてのダンマは、世尊が根源で、世尊が指導者で、世尊が拠り所です。猊下。そのお話になったことの意味を、どうぞ明らかになさってください。比丘のみなさんが世尊から聞いて記憶します」とこのように申し上げたので、世尊は比丘たちによく聞くよう忠告して話されました。

 比丘のみなさん。①形があれば形に執着するので、形に心を埋めるので「風は吹かず、水は流れず、妊婦も出産せず、お月様とお日様も昇らず沈まず、それぞれ丈夫な柱のように安定している物だ」というディッティが生まれます。

 比丘のみなさん。みなさん、これをどう思いますか。形は不変ですか、不変ではないですか。

 「不変ではありません。猊下」。

 不変でないものは苦ですか、幸福ですか。

 「苦です、猊下」。

 不変でなく、苦であり、当たり前に変化するものでも、それに執着しなければ「幸福と苦がない自我(自分)が死後病気のない自我(自分)」という、このようなディッティは生まれるでしょうか。

 「それはありません。猊下」。

 比丘のみなさん。このような状態で、苦があれば苦に執着するので、苦に心を埋めるので、 「幸福と苦がない自我(自分)が、死後病気のない自我(自分)」と、このようなディッティが生まれます。

 (受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。この疑念を聖なる弟子が捨てれば、その時「苦、苦を生じさせる原因、苦の消滅、苦の消滅に至る道」の疑念も、その聖なる弟子が捨てたものです。比丘のみなさん。私はその聖なる弟子を、将来確実に悟り、(涅槃が)約束された人であり、落ちて普通になることがない預流である聖なる弟子と呼びます。

註: 学習者は、この二十六の見は、縁起を知らないために五取蘊と五取蘊に関わる苦を、その二十六の見のいずれかの角度から見ることでこのすべての邪見解が生じ、これらの見解が生じると益々縁起を隠して見えなくすると観察して見なければなりません。

 だからすべての見は縁起を見るのを非常に妨害する物と見なします。縁起の話と深部で関わっているので、直接言葉で述べられないこともあります。





二千二百の意味の十辺執見はすべて五蘊になり、縁起を見るのを妨害する

祇園精舎で
相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻319頁554項

 ヴァッチャゴータ修行者が世尊を訪ねて「ゴータマ様。何が原因で何が縁で、
①世界は不変とか、
②世界は不変でないとか、
③世界に終わりがあるとか、
④世界に終わりはないとか、
⑤命と体は同じとか、
⑥命と体は別とか、
⑦如行(動物)は死後当然存在するとか、
⑧如行(動物)は死後当然存在しないとか、
⑨如行(動物)は死後当然存在することもあり、当然存在しないこともあるとか、
⑩如行(動物)は死後当然いるでもなく当然いないでもないなど、様々な見解が生まれるのですか」と質問しました。

(1)ヴァッチャゴータさん。知らないから、世界は不変でないとか、世界は終わりがあるとか、世界には終わりはないとか、命と体は同じとか、命と体は別とか、如行は死後、当然存在するとか、如行は死後、当然存在しないとか、如行は死後、当然存在するのもあり当然存在しないのもあるとか、如行は死後、当然いるでもなく当然いないでもないなど、様々な見解が生まれます。

 ヴァッチャゴータさん。これが世界は不変でないとか、世界は終わりがあるとか、世界には終わりはないとか、命と体は同じとか、命と体は別とか、如行は死後当然存在するとか、如行は死後当然存在しないとか、如行は死後当然存在することもあり当然存在しないこともあるとか、如行は死後当然いるでもなく当然いないでもないなど、様々な見解が生まれる原因であり縁です。

(2)ヴァッチャゴータさん。見えないから、世界は不変でないとか、世界は終わりがあるとか、世界には終わりはないとか、命と体は同じとか、命と体は別とか、如行は死後当然存在するとか、如行は死後当然存在しないとか、如行は死後当然存在することもあり当然存在しないこともあるとか、如行は死後当然いるでもなく当然いないでもないなど、様々な見解が生まれます。

 ヴァッチャゴータさん。これが世界は不変でないとか、世界は終わりがあるとか、世界には終わりはないとか、命と体は同じとか、命と体は別とか、如行は死後、当然存在するとか、如行は死後、当然存在しないとか、如行は死後当然存在することもあり当然存在しないこともあるとか、如行は死後、当然いるでもなく当然いないでもないなど、様々な見解が生まれる原因であり縁です。

(3)ヴァッチャゴータさん。完璧に到達しないから、世界は不変でないとか、世界は終わりがあるとか、世界には終わりはないとか、命と体は同じとか、命と体は別とか、如行は死後当然存在するとか、如行は死後当然存在しないとか、如行は死後当然存在することもあり当然存在しないこともあるとか、如行は死後当然いるでもなく当然いないでもないなど、様々な見解が生まれます。

 ヴァッチャゴータさん。これが世界は不変でないとか、世界は終わりがあるとか、世界には終わりはないとか、命と体は同じとか、命と体は別とか、如行は死後当然存在するとか、如行は死後当然存在しないとか、如行は死後当然存在することもあり当然存在しないこともあるとか、如行は死後当然いるでもなく当然いないでもないなど、様々な見解が生まれる原因であり、縁です。

(4)ヴァッチャゴータさん。段階的に知らないから、

(以下「世界は不変でないとか」から「これが縁です」まで一番と同じです)。

(5)ヴァッチャゴータさん。洞察しないから、

 (以下「世界は不変でないとか」から「これが縁です」まで一番と同じです)。

(6)ヴァッチャゴータさん。周到に規定しないから、

 (以下「世界は不変でないとか」から「これが縁です」まで一番と同じです)。

(7)ヴァッチャゴータさん。規定しようとしないから、

(以下「世界は不変でないとか」から「これが縁です」まで一番と同じです)。

(8)ヴァッチャゴータさん。絶えず判断しないから、

(以下「世界は不変でないとか」から「これが縁です」まで一番と同じです)。

(9)ヴァッチャゴータさん。詳細に熟慮しないから、

(以下「世界は不変でないとか」から「これが縁です」まで一番と同じです)。

(10)ヴァッチャゴータさん。特別に規定しないから、

(以下「世界は不変でないとか」から「これが縁です」まで一番と同じです)。

(11)ヴァッチャゴータさん。①形、②形を生じさせる原因、③形の消滅、④動物を形の消滅に至らせる実践項目を明らかにしないから、世界は不変でないとか、世界は終わりがあるとか、世界には終わりはないとか、命と体は同じとか、命と体は別とか、如行は死後当然存在するとか、如行は死後当然存在しないとか、如行は死後当然存在することもあり当然存在しないこともあるとか、如行は死後当然いるでもなく当然いないでもないなど、様々な見解が生まれます。

 ヴァッチャゴータさん。これが世界は不変でないとか、世界は終わりがあるとか、世界には終わりはないとか、命と体は同じとか、命と体は別とか、如行は死後当然存在するとか、如行は死後当然存在しないとか、如行は死後当然存在することもあり当然存在しないこともあるとか、如行は死後当然いるでもなく当然いないでもないなど、様々な見解が生まれる原因であり縁です。


 上の要旨は「形蘊に関わる場合の、四聖諦の四つ状態がある十辺執見が生じる原因は何で縁は何か」という問題の質問と回答です。受蘊、想蘊、行蘊、識蘊の場合でも、同じように質問、回答されています。

 学習者は、規定方法は十一もあり、五蘊を規定し、それぞれの蘊に四つの意味を規定するので二百二十の認識になり、そしてそれぞれが十の見解を生じさせることができるので、見解の発生する道あるいは見解が生じない道は二千二百あると観察して見なければなりません。すべては四聖諦、つまり生起と滅、両方の縁起を隠す物です。





触は六十二見の縁

アムバラッディカー苑で
ブラフマジャーラスッタ
長部シーラカンダヴァッガ 9巻53頁64項

 比丘のみなさん。サッサタヴァーダ(恒常論)のサマナ・バラモンは誰でも、四つの物で当然自我と世界は不変と規定します。これは触が縁だからあることで、そのすべてのサマナ・バラモンに触がなければ、それぞれ自分の見に沿った受を感じること、それはあり得ません。

 比丘のみなさん。エカッチャサッサティカ-エカッチャアサッサティカヴァーダ(一分常論)のサマナ・バラモンは誰でも、四つの物で当然自我と世界を不変と規定したり、不変ではないと規定したりします。これは触が縁だからあることで、そのすべてのサマナ・バラモンに触がなければ、それぞれ自分の見に沿った受を感じること、それはあり得ません。

 比丘のみなさん。アンターナンティカヴァーダ(辺無辺論)のサマナ・バラモンは誰でも、四つの物で当然自我と世界を終わりがないと規定し、あるいは終りがあると規定します。これは触が縁だからあることで、そのすべてのサマナ・バラモンに触がなければ、それぞれ自分の見に沿った受を感じること、それはあり得ません。

 比丘のみなさん。アマラーヴィカケピヴァーダ(不死僑乱論)のサマナ・バラモンは誰でも、四つの物で当然揺れ動いて固定しない発言に至ります。これは触が縁だからあることで、そのすべてのサマナ・バラモンに触がなければ、それぞれ自分の見に沿った受を感じること、それはあり得ません。

 比丘のみなさん。アディッチャサムッパンニカヴァーダ(無因論)のサマナ・バラモンは誰でも、二つの物で当然自我と世界は偶然生じると規定します。これは触が縁だからあることで、そのすべてのサマナ・バラモンに触がなければ、それぞれ自分の見に沿った受を感じること、それはあり得ません。

(以上の十八は、ブッパンターヌディッティ(過去隋見)です)


 比丘のみなさん。ウッダマーカタニカサンジーヴァーダ(死後有想論)のサマナ・バラモンは誰でも、十六の物で当然死後に識がある自我を規定します。これは触が縁だからあることで、そのすべてのサマナ・バラモンに触がなければ、それぞれ自分の見に沿った受を感じること、それはあり得ません。

 比丘のみなさん。アヌッダマーカタニカサンジーヴァーダ(死後無想論)のサマナ・バラモンは誰でも、八つの物で当然死後識のない自我を規定します。これは触が縁だからあることで、そのすべてのサマナ・バラモンに触がなければ、それぞれ自分の見に沿った受を感じること、それはあり得ません。

 比丘のみなさん。ウッダマーカタニカネヴァサンジーナーサンジーヴァーダ(死後有想無識論)のサマナ・バラモンは誰でも、八つの物で当然死後、識があるのでもなく、識がないのでもない自我を規定します。これは触が縁だからあることで、そのすべてのサマナ・バラモンに触がなければ、それぞれ自分の見に沿った受を感じること、それはあり得ません。

 比丘のみなさん。ディッティダンマニッバーナヴァーダ(現世涅槃論)のサマナ・バラモンは誰でも、五つの物で当然生きている動物の現生での涅槃を規定します。これは触が縁だからあることで、そのすべてのサマナ・バラモンに触がなければ、それぞれ自分の見に沿った受を感じること、それはあり得ません。

(以上の四十四は、パランターヌディッティ(未来隋見)です)。


 比丘のみなさん。プッバンタカッピカヴァーダでも、アパランタカッピーカヴァータでも、プッバンタアパランタカピカヴァータでも、それらのサマナ・バラモンは誰でも、過去の蘊、未来の蘊に言及し、そして六十二のものでアディムッティパダ(自分たちの見解による、動物の最高の解脱)であるディッティを規定します。

 これは触が縁だからあることで、そのすべてのサマナ・バラモンに触がなければ、そのように自分の見で受を感じること、それはあり得ません。

註: 学習者は、触一つが六十二見を含めたすべての望まない物を生じさせる凶悪で重要な物と、ここでの重要点を特に観察して見なければなりません。「触」という言葉を遊び半分で学習しないでください。あるいは「触は六十二見の原因」という言葉を聞いても、滑稽な言葉と思わないでください。

 あるいは戯言と思って無関心になり、理解する気持ちを失くさないでください。それは、縁起の話、あるいは六十二見を本当に理解できなくなる始まりです。

 ここでの「触」は無明触という意味で、無明が混じっている触で、内六処と外六処のただの接触ではありません。つまりダンマーラマナ(想念。法界)である何らかの受がある意触を狙う最後の段階なので、最初から最後まで無明に混じって触れる機会を与えるので、無明触と言います。受のすべての段階を通過することから、心がその見のある受に触れる段階まですべての見を生じさせ、最後には頑固な強い見(見解)になります。





六十二見は縁起を知らない人の間違った感覚

アムバラッディカー苑で
ブラフマジャーラスッタ
長部シーラカンダヴァッガ9巻50頁51項

 比丘のみなさん。サッサタヴァーダ(恒常論)のサマナ・バラモンは誰でも、四つの物で当然自我と世界を不変と規定します。それはそれらを知る道具であるニャーナ(知ること。智)がないすべてのサマナ・バラモンの感覚にすぎず、欲のある人の心の驚愕動揺でしかありません。

 比丘のみなさん。エカッチャサッサティカ-エカッチャアサッサティカヴァーダ(一部常論)のサマナ・バラモンは誰でも、四つの物で当然自我と世界を不変と、あるいは不変ではないと規定します。それはそれらを知る道具であるニャーナがないすべてのサマナ・バラモンの感覚にすぎず、欲のある人の心の驚愕動揺でしかありません。

 比丘のみなさん。アンターナンティカヴァーダ(辺無辺論)のサマナ・バラモンは誰でも、四つの物で当然自我と世界を終わりがない、あるいは終りがあると規定します。それはそれらを知る道具であるニャーナがないすべてのサマナ・バラモンの感覚にすぎず、欲のある人の心の驚愕動揺でしかありません。

 比丘のみなさん。アマラーヴィカケピヴァーダ(不死僑乱論)のサマナ・バラモンは誰でも、四つの物で当然揺れ動いて固定しない発言に至ります。それはそれらを知る道具であるニャーナがないすべてのサマナ・バラモンの感覚にすぎず、欲のある人の心の驚愕動揺でしかありません。

 比丘のみなさん。アディッチャサムッパンニカヴァーダ(無因論)のサマナ・バラモンは誰でも、二つの物で当然自我と世界は偶然生じると規定します。それはそれらを知る道具であるニャーナがないすべてのサマナ・バラモンの感覚にすぎず、欲のある人の心の驚愕動揺でしかありません。

(以上の十八は、ブッパンターヌディッティ(前際隋見)です)


 比丘のみなさん。ウッダマーカタニカサンジーヴァーダ(死後有想論)のサマナ・バラモンは誰でも、十六の物で当然死後に識がある自我を規定します。それはそれらを知る道具であるニャーナがないすべてのサマナ・バラモンの感覚にすぎず、欲のある人の心の驚愕動揺でしかありません。

 比丘のみなさん。アヌッダマーカタニカサンジーヴァーダ(死後無想論)のサマナ・バラモンは誰でも、八つの物で当然死後識のない自我を規定します。それはそれらを知る道具であるニャーナがないすべてのサマナ・バラモンの感覚にすぎず、欲のある人の心の驚愕動揺でしかありません。

 比丘のみなさん。ウッダマーカタニカネヴァサンジーナーサンジーヴァーダ(死後有想無想論)のサマナ・バラモンは誰でも、八つの物で当然死後識があるのでもなく、識がないのでもない自我を規定します。それはそれらを知る道具であるニャーナがないすべてのサマナ・バラモンの感覚にすぎず、欲のある人の心の驚愕動揺でしかありません。

 比丘のみなさん。ディッティダンマニッバーナヴァーダ(現世涅槃論)のサマナ・バラモンは誰でも、五つの物で当然生きている動物の現生での涅槃を規定します。それはそれらを知る道具であるニャーナがないすべてのサマナ・バラモンの感覚にすぎず、欲のある人の心の驚愕動揺でしかありません。

(以上の四十四は、パランターヌディッティです)。


 比丘のみなさん。プッバンタカッピカヴァーダでも、アパランタカッピーカヴァータでも、プッバンタアパランタカピカヴァータでも、それらのサマナ・バラモンは誰でも、過去の蘊、未来の蘊に言及し、そして六十二の物でアディムッティパダ(自分たちの見解による、生き物の最高の解脱)であるディッティを規定します。

 それはそれらを知る道具であるニャーナがないすべてのサマナ・バラモンの感覚にすぎず、欲のある人の心の驚愕動揺でしかありません。

註: 学習者は、六十二見は縁起を知らない人の心の感覚にすぎず、感情が触れると、その人の感覚から興奮、散漫、驚愕動揺が生じ「それはこのようだ」と自分の感覚で自分の考えを決定し、そして「これだけが真実で、他のは無効だ」という見解になり、触れてくる感情の状態、あるいは縁起が見えない人の様々な心の状態次第で、様々な奇妙な見解が生じると観察して見なければなりません。縁起を知る物、見る物であるニャーナがある人なら、これらのディッティ(見解)は当然生じません。





(縁起の)触は六十二見の出所

アムバラッディカー苑
ブラフマジャーラスッタ
長部シーラカンダヴァッガ9巻57頁90項

 比丘のみなさん。すべてのサマナ・バラモンの中の、当然自我(自分)と世界は不変と規定するサッサタヴァーダのどの人たち(四派)も、

 不変な物もあり不変でないのもあると規定するサマナ・バラモンのどの人たち(四派)も、

 終りがあるとか終わりがないとか規定するサマナ・バラモンのどの人たち(四派)も、

 一定せず流動する発言で規定するサマナ・バラモンのどの人たち(四派)も、

 偶然生じると規定するサマナ・バラモンのどの人たち(二派)も、

 過去の蘊に言及する見を規定するサマナ・バラモンのどの人たち(十八派)も、

 死後も識があると規定するサマナ・バラモンのどの人たち(十六派)も、

 死後識はないと規定するサマナ・バラモンのどの人たち(八派)も、

 死後識はあるのでもなくないのでもないと規定するサマナ・バラモンのどの人たち(八派)も、

 (死後は)無になると規定するサマナ・バラモンのどの人たち(七派)も、

 現生での涅槃を規定するサマナ・バラモンのどの人たち(五派)も、

 上記の合計四十四派の未来の蘊に言及するサマナ・バラモンのどの人たちも、過去の蘊に言及するディッティを規定する人たちも、未来の蘊に言及するディッティを規定するサマナ・バラモンのどの人たちも、すべては過去と未来である蘊に言及するブッバンターパランターヌディッティの人たちで、六十二見で、いろんな自分たちの見解による、動物の最高の解脱であるディッティを規定します。

 比丘のみなさん。これらのサマナ・バラモンのすべては六つの触処で触れることで、それぞれの見解に従って受を感じます(註1)。これらのサマナ・バラモンの受が縁で欲があり、欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みがあります。

 比丘のみなさん。比丘が当然六触処の発生、維持できないこと、味、害、脱す方便を真実のままに明らかに知れば、その時その比丘は当然すべてのサマナ・バラモンの誰よりも、(六触処)をハッキリと知ったと言われます。

 比丘のみなさん。過去の蘊、未来の蘊、過去と未来の蘊について言及するディッティを規定するサマナ・バラモンのどの人たちも、すべてはこのように過去と未来の蘊に言及するプッバンタパランターヌディッティの人で、そしていろんなもので自分たちの見解による、動物の最高の解脱であるディッティを規定します。それらのサマナ・バラモンのすべてはその六十二の見で網の中に囚われているので、どこで頭をもたげても網の中です。

 比丘のみなさん。猟師と漁師の手慣れた息子が沼や池などの狭い領域を目の詰んだ網で囲むと、その範囲内のすべての生き物は網の中に囚われたと言い、どこかに出てくれば網の中で、どこに出てきてもその網の中にいるようなものです。比丘のみなさん。これも同じで、過去の蘊に関心を持ち、未来の蘊に関心を持ち、過去の蘊と未来の蘊に関心を持って規定するサマナ・バラモンのどの人たちも、

すべてブッバンターパランターヌディッティ(過去未来隋見)のある人で、過去の蘊と未来の蘊である蘊に関心を持ち、いろんな物があるアディムッティパダ(個々の見解による動物の最高の解脱の道。勝解処)である見解の規定に言及します。そのすべてのサマナ・バラモンは、この六十二の(邪見の基盤である)物の網の中に囚われているので、どこへ行って頭を持ち上げても、その網の中です。

 比丘のみなさん。如行の体(名形の集合)は有へ導く欲が断ち切られて維持しています。その体が維持している間は、天人とすべての人間は(如行の)体が見えますが、最後に体の崩壊によって命が終わればその体は見えません。

 比丘のみなさん。マンゴーの房を切れば茎で繋がっているすべての実が一緒に落ちるように、比丘のみなさん。如行の体(名形の集合)は有へ導く欲が断ち切られて維持しているので、その体が維持している間は、天人とすべての人間は(如行の)体が見えますが、体の崩壊によって命が終わればその体は見えません。

 (世尊がこのように話されると、プラアーナンダが「不思議です、猊下。今までにありませんでした、猊下。このダンマの説明は何という名前ですか。猊下」と申し上げました。

 アーナンダ。それならこのダンマの説明を「アッタジャーラ(自我(自分)網)」あるいは「ダンマジャーラ(ダンマ網)」「プラジャーラ」「ディッティジャーラ(見網)」「アヌッタラサンガーマヴィチャヤ(至上戦勝)」とでも記憶なさい。

註1: ここで「感じる」というのは心で想念を感じることで、どんな見解でもその人が受を味わうことは、当然その人の見解の威力になる感覚を生じさせます。だから違う見解があれば同じ感情が触れても、その人は当然自分の見解に従った別の感覚が生じ、同じ感情から生じた受は意味が違うことが、いつでも元からあるディッティを育てる見解があるようにする原因です。

 これを「触あるいは受はディッティを作り、ディッティを育てる原因」と言います。触、あるいは受がないだけでは、当然見ディッティが生じる道はありません。


註: 学習者は六触処の原因、維持できないこと、旨味、害、そして出る方便を真実のままに知っていれば、それはその六十二見より素晴らしい知識であるとここで話されたブッダバーシタの要点を観察して見なければなりません。

 この六十二の見解は触処に関する六つの状態、特に、触とは何か、何が触の根源か、触が維持できないことはどのようか、何が触の味か、何が触の害か、何が触に威力の上にいる方便か、合わせて六つの状態を知らないことから生じます。

 触に関わる真実のままの六つの知識とは縁起のすべての知識です。触は無明・行・識などから生じ、触の旨味である受・欲が生じ、それから触の低劣な害である取・有・生が生じ、そして滅側の縁すべてが維持できないこと、あるいは触の威力から脱す方便が結果です。

 六十二の見解が生じる隙がないためには、このように触と縁起の流れ全てに関した知識があることです。ここでの触は前の話で述べた「無明の接触」であることを忘れないでください。




縁起目次へ ホームページへ 次へ