否定した四種類の順世論

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻92頁176項

 順世派のバラモンが世尊を訪ね「ゴータマ様。すべての物は有りますか」と質問しました。

 バラモンさん。「すべての物は有る」とこのような主張の発言は、これはローカーヤタ(順世外道)の極致です。

 「ゴータマ様。それではすべての物は無いのですか」。

 バラモンさん。「すべての物は無い」とこのような主張の発言は、これはローカーヤタ(順世外道)の二番目です。

 「ゴータマ様。それではすべての物は同じ状態ですか」。

 バラモンさん。「すべての物は同じ状態がある」とこのような主張の発言は、これはローカーヤタ(順世外道)の三番目です。

 「ゴータマ様。それではすべての物は違う状態ですか」。

 バラモンさん。「すべての物は違う状態がある」とこのような主張の発言は、これはローカーヤタ(順世外道)の四番目です。

 バラモンさん。如行(ブッダの一人称。そのように行ったという意味。漢訳は如来)はどちらにも偏らない、中道であるダンマを説きます。

 如行は当然「無明が縁ですべての行があり、行が縁で識があり、識が縁で名形があり、名形が縁で六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが残らず生じます。すべての苦の山の発生はこのようにあります。

 無明が残らず消滅することですべての行が消滅し、行が消滅することで識が消滅し、識が消滅することで名形が消滅し、名形が消滅することで触が消滅し、触が消滅することで受が消滅し、受が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで欲が消滅し、欲が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが消滅します。

 すべての苦の発生は当然このようにあります」とこのように説きます。

 (そのバラモンはこの説法を称賛し、生涯仏教を信奉すると表明しました)。





十八種の見は、どれも六つのダンマに言及する

祇園精舎で
相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻248頁417項他



1.エシカッタジッティタサッサタディッティ

 比丘のみなさん。何があれば何に執着し何に心を埋めるので「風は吹かず、水は流れず、妊婦も出産せず、お月様もお日様も昇らず沈まず、どれも丈夫な柱のように安定している物だ」というディッティ(見解。特に邪見)が生まれるでしょうか。

 「猊下。私たちのすべてのダンマは世尊が根源で、世尊が指導者で、世尊が拠り所です。猊下。そのお話になったことの意味を、どうぞ明らかになさってください。比丘のみなさんが世尊から聞いて記憶します」とこのように申し上げたので、世尊は比丘たちによく聞くよう忠告して話されました。

 比丘のみなさん。形があれば形に執着するので、形に心を埋めるので「風は吹かず、水は流れず、妊婦も出産せず、お月様もお日様も昇らず沈まず、それぞれ丈夫な柱のように安定している物だ」というディッティが生まれます。

 (受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。これをどう思いますか。形は不変ですか、不変でないですか。

 「不変ではありません。猊下」。

 不変でないものは苦ですか、幸福ですか。

 「苦です、猊下」。

 不変でなく苦であり当たり前に変化するものでも、それに執着しなければ「風は吹かず、水は流れず、妊婦も出産せず、お月様もお日様も昇らず沈まず、それぞれ丈夫な柱のように安定している物だ」とこのようなディッティが生まれますか。

「いいえ、生まれません。猊下」。

 (受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。

  比丘のみなさん。人が見た物、聞いた物、感じた物、明らかに知った物、到達した物、探求した物、心で考察した物、これらのどれも不変ですか、不変でないですか。

 「不変ではありません。猊下」。

 不変でない物は、苦ですか幸福ですか。

 「苦です、猊下」。

 不変でなく苦であり当たり前に変化する物でも、それに執着しなければ「風は吹かず、水は流れず、妊婦も出産せず、お月様もお日様も昇らず沈まず、それぞれが丈夫な柱のように安定している物だ」と、このようなディッティが生まれますか。

 「いいえ、生まれません。猊下」。

 比丘のみなさん。これら六つ(註1)の疑念を、聖なる弟子が捨てることができた時はいつでも、その時は苦、苦を生じさせる原因、苦の消滅、苦の消滅に至らせる道の疑念を、その聖なる弟子は捨てることができたということです。

 比丘のみなさん。この聖なる弟子を「預流である聖なる弟子。落ちて普通になることはなく、(涅槃が)確実な人で、将来すべてを悟る人」と言います。

註1: 六つとは、上で述べているように五蘊と目で見た物などです。


2.アッター・アッタニヤーヌディッティ(我・我所有見) 17巻250頁419項

 比丘のみなさん。何があれば何に執着するので、何に心を埋めるので「それは私の物。それは私。それは私自身」というディッティが生まれるでしょうか。

 (以下は、ディッティが違うだけで、最後まで1番と同じ会話をされています)。


3.サッサタディッティ(一般の常見) 17巻251頁421項

 比丘のみなさん。何があれば何に執着するので、何に心を埋めるので「自分と世界は同じ。自分を捨てれば、永遠で不変で、当たり前に変化しない人になる」というディッティが生まれるでしょうか。

 (以下は、ディッティが違うだけで、最後まで1番と同じ会話をされています)。


4.ウッチェダディッティ(一般の断見) 17巻252頁423項

 比丘のみなさん。何があれば何に執着するので、何に心を埋めるので「私はいるべきでない。私の物もあるべきでない。私はいない。私の物はない」というディッティが生まれるでしょうか。

 (以下は、ディッティが違うだけで、最後まで1番と同じ会話をされています)。


5.ナッティカディッティ(虚無論) 17巻254頁425項

 比丘のみなさん。何があれば何に執着するので、何に心を埋めるので「人が寄付する道はない。人がした祭祀はない。人がした善行悪行のカンマの報いはない。この世界はない。他の世界もない。母もいない。父もいない。オッパーティカ(不還)である人もいない。正しく行った人、正しく実践した人、この世界と他の世界を最高の智慧で明らかにし世界に公開した人であるサマナ・バラモンもいない。

人はただ四大種の集まりにすぎず、死んだら当然土は土の群れに戻り、水は水の群れに戻り、火は火の群れに戻り、風は風の群れに戻り、すべての根は当然将来空と消える。すべての人は、顔を覆って死体を載せる寝台で運ばれ、残る痕跡は墓地だけ。鳩のような色をしたたくさんの骨だけ。

祭祀は結局灰になる。布施と言うものは愚かな人の規定で、何でもあると言う人の言葉で、(意味が)なく、嘘出まかせである。愚か者も学者も、体が崩壊すれば当然消えてなくなり、破滅し、死後は存在しない」というディッティが生まれるでしょうか。

 (以下は、ディッティが違うだけで、最後まで1番と同じ会話をされています)。


6.アキリヤディッティ(無作用論) 17巻256頁427項

 比丘のみなさん。何があれば何に執着するので、何に心を埋めるので「自分が行動しても、他人に行動させても、自分が斬っても、他人に斬らせても、自分で排除しても、他人に排除させても、動物が自分で悲しんでも、他人に動物を悲しませても、動物が自分で苦しめても、他人に動物を苦しめさせても、動物を足掻かせても、他人に動物を足掻かせても、息がある動物の命を奪っても、

人が与えていない物を盗っても、コソ泥を働いても、一軒から奪っても、集落全体を奪っても、道で待ち伏せして奪っても、他人の妻を犯しても、偽りを言っても、行動をした人にとって当然罪はない。

 誰かがこの地上のすべての人を、カミソリのように鋭い歯車で刻んで肉の広場にしても、そのような行動による罪は当然ない。罪になることは当然ない。ガンガ(ガンジス川)の右岸へ行って自分で殺しても、人に殺させても、自分で斬っても、他人に斬らせても、自分で退治しても、他人に退治させても、そのような行動による罪は当然ない。罪になることは当然ない。

 ガンガの左岸へ行って自分で布施しても、他人に布施させても、自分で祭祀しても、他人に祭祀させても、そのような行動による徳は当然ない。徳になることは当然ない。布施をすることにも、心の訓練をすることにも、注意深くすることにも、真実を述べることにも、当然徳は無い。徳になることはない」というディッティが生まれるでしょうか。

 (以下は、ディッティが違うだけで、最後まで1番と同じ会話をされています)。


7.アヘトゥカディッティ(無因論) 17巻257頁429項

 比丘のみなさん。何があれば何に執着するので、何に心を埋めるので「すべての動物を憂鬱にする原因も縁も無い。原因も縁もなく、生き物は憂鬱になる。すべての動物を純潔にする原因も縁もない。原因も縁もなく、動物は純潔になる。力もなく、努力もなく、人の気力もなく、人の奮闘もない。すべての動物、すべての動物、すべての生き物は、力もなく、努力もなく、当然運命と偶然で変化し、当然六つすべての幸福と苦を味わう」というディッティが生まれるでしょうか。

 (以下は、ディッティが違うだけで、最後まで1番と同じ会話をされています)。


8.サッタカーヤディッティ(七身見) 17巻259頁431項

 比丘のみなさん。何があれば何に執着するので、何に心を埋めるので「七つの群れのこの体(自然の集合物)は、作った人もなく、秩序を作った人もなく、創造者もなく、誰かが創造した秩序もなく、結果を生じさせることもなく、山のように、頑丈な柱のように安定している。それらすべての体は、浮動せず、変化せず、互いに影響されず、互いに幸福にも不幸にもされない。すべての体の七つの群れとは、土身・水身・火身・風身・幸(身)・苦(身)、命(身)だ。

これらの群れは、作った人もなく、秩序を作った人もなく、創造者もなく、誰かが創造した秩序もなく、結果を生じさせることもなく、山のように、頑丈な柱のように安定している。それらすべての体は、揺れ動かず、変化せず、互いに影響されず、互いに幸福にも不幸にもされない。誰が誰の首を斬っても、誰が誰の命を奪ったと言われない。ただ刃物が、七つの集まりである体の間を通過しただけ。

 これらの最上の生は百四十万あり、六千あり、六百あり、五百のカンマ、五つのカンマ、三つのカンマ、十分なカンマ、半分のカンマもある。六十二のパティパダー、六十二の中劫、六つの生まれ、七つの男性、四千九百のアージヴァカ、四千九百の修行者、四千九百のナーガヴァーサ、二千の根、三千の地獄、三十六のラチョーダートゥ、

七つのサンジーガッパ、七つのアサンジーガッパ、七つのニガランダガッパ、七つの天人、七つの人間、七つの妖怪、七つの池、七つの山も、七百のも、七つの崖、七百のも、七つの夢、七百の夢もある。

 この八万四千の大劫は愚者も智者も駈けて行って、最高の苦になる輪廻だ。その輪廻には、まだ熟していないカンマを終わらせる、あるいは熟したカンマの結果を味わい、実践規範つまり戒や勤め、苦行や梵行で苦を終わらせる希望のある教えはない。だから升で物を測るように、幸福と苦が終わることもない。

 その輪廻では、発展とか衰退とか、良くなるとか悪くなると言われる物は何もない。人が投げて転がした糸玉が解けて、玉でなくなれば、当然止まるように、輪廻に駈けて行く愚かな人も博学者も、自然に幸福と苦が緩んでなくなる」というディッティが生まれるでしょうか。

 (以下は、ディッティが違うだけで、最後まで1番と同じ会話をされています)。


9.サッサタローカディッティ(世常見) 17巻261頁433項

 比丘のみなさん。何があれば何に執着するので、何に心を埋めるので「世界は変わらない」というディッティが生まれるでしょうか。

 (以下は、ディッティが違うだけで、最後まで1番と同じ会話をされています)。


10.アサッサタローカディッティ(世断見) 17巻263頁435項

 比丘のみなさん。何があれば何に執着するので、何に心を埋めるので「世界は不変でない」というディッティが生まれるでしょうか。

 (以下は、ディッティが違うだけで、最後まで1番と同じ会話をされています)。


11・アンタヴァンタローカディッティ(世有限見) 17巻262頁436

 比丘のみなさん。何があれば何に執着するので、何に心を埋めるので「世界に終わりはある」というディッティが生まれるでしょうか。

 (以下は、ディッティが違うだけで、最後まで1番と同じ会話をされています)。


12.アナンタローカディッティ(世無限見) 17巻263頁437項

 比丘のみなさん。何があれば何に執着するので、何に心を埋めるので「世界に終わりはない」というディッティが生まれるでしょうか。

 (以下は、ディッティが違うだけで、最後まで1番と同じ会話をされています)。


13.タンチーヴァタンサリーラディッティ(命身同一見) 17巻264頁438項

 比丘のみなさん。何があれば何に執着するので、何に心を埋めるので「命と体は同じ」というディッティが生まれるでしょうか。

 (以下は、ディッティが違うだけで、最後まで1番と同じ会話をされています)。


14.アンニャチーヴァアンニャサリーラディッティ(命身不同見) 17巻264頁439項

 比丘のみなさん。何があれば何に執着するので、何に心を埋めるので「命と体は別」というディッティが生まれるでしょうか。

 (以下は、ディッティが違うだけで、最後まで1番と同じ会話をされています)。


15.ホティタターガトディッティ(如行死後存在見) 17巻264頁439項

 比丘のみなさん。何があれば何に執着するので、何に心を埋めるので「如行は死後も当然存在する」というディッティが生まれるでしょうか。

 (以下は、ディッティが違うだけで、最後まで1番と同じ会話をされています)。


16.ナホティタターガトディッティ(如行死後不在見) 17巻264頁441項

 比丘のみなさん。何があれば何に執着するので、何に心を埋めるので「如行は死後も当然存在しない」というディッティが生まれるでしょうか。

 (以下は、ディッティが違うだけで、最後まで1番と同じ会話をされています)。


17.ホティチャナチャホティディッティ(如行死後在不在見) 17巻264頁442項

 比丘のみなさん。何があれば何に執着するので、何に心を埋めるので「如行は死後も当然存在することもあり、しないこともある」というディッティが生まれるでしょうか。

 (以下は、ディッティが違うだけで、最後まで1番と同じ会話をされています)。


18. ネヴァホティネヴァホティディッティ(如行死後非在非不在見) 17巻264頁443項

 比丘のみなさん。何があれば何に執着するので、何に心を埋めるので「如行は死後も当然存在するのでもなく、しないのでもない」というディッティが生まれるでしょうか。

(以下は、ディッティが違うだけで、最後まで1番と同じ会話をされています)。


 比丘のみなさん。形があれば形に執着するので、形に心を埋めるので「如行は死後も当然存在するのもなく、しないのもない」というディッティが生まれます。(受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。これをどう思いますか。形は不変ですか、不変ではないですか。

 「不変ではありません、猊下」。

 不変でないものは苦ですか幸福ですか。

 「苦です、猊下」。

 無常であり苦であり当たり前に変化するものでも、それに執着しなければ、「如行は死後も当然存在するのもなく、しないのもない」と、このようなディッティが生まれるでしょうか。

 「いいえ、猊下」。

 (受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。人が見た物、聞いたこと、感じたこと、明らかにしたこと、到達した物、探求した物、心で熟考した物、これらは不変ですか、不変ではないですか。

 「不変ではありません、猊下」。

 不変でないものは苦ですか幸福ですか。

 「苦です、猊下」。

 無常であり苦であり当たり前に変化する物でも、それに執着しなければ「如行は死後も当然存在するのもなく、しないのもない」と、このようなディッティは生まれるでしょうか。

 「いいえ、猊下」。

 比丘のみなさん。これら六つ(註1)の疑念を、比丘が捨てることができた時はいつでも、その時は、苦、苦を生じさせる原因、苦の消滅の、苦の消滅に至る道の疑念も、その聖なる弟子は捨てることができたということです。

 比丘のみなさん。この聖なる弟子を、落ちて普通になることがなく、(涅槃が)確実な人で、将来すべてを悟る人、聖なる弟子である預流と呼びます。

註1: 六つとは、上で述べているように五蘊と目で見た物などです。

註: この十八の邪見は。六つの条件、つまり五取蘊と六処で感じるものに関わる縁起、あるいは縁生を知らないから生じます。言い替えればこれらの見があればあるだけ縁起を知ることができません。




縁起目次へ ホームページへ 次へ