第十一章 縁起に反する教義又はディッティ





       因果の法則:縁起の要旨

  これがあれば、これが当然ある。

  これが生じたから、これが生じた。


  これが無ければ、これは当然無い。

  これが消滅したから、これが消滅する。


中部マッジマバンナーサ 13巻355頁371項
相応部ニダーナヴァッガ 16巻84頁154項







正しい見解は有と無がない見解

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻21頁43項

 ある時プラカッチャーナゴッタが、祇園精舎に滞在しておられた世尊の居室を訪ねて「猊下。正しい見解、正しい見解と言われている言葉は、当然どれほどの理由であるのですか。猊下」と質問しました。

 カッチャーナさん。この世界の動物の多くは二極、つまりアッティター(有)の極とナッティッター(無)の極に依存しています。

 カッチャーナさん。「無」という極は、世界を生じさせる原因であるダンマを、当然正しい智慧で真実のままに見る人にはありません。

 カッチャーナさん。「有」という極は、世界の消滅であるダンマを、当然正しい智慧で真実のままに見る人にはありません。

 カッチャーナさん。世界の動物の多くは欲、取、見に縛られています。しかし聖なる弟子は、心が至るもの、見の随眠である欲と取を「私の自我」と掴まず、近寄らず、至りません。当然「生じる時は、当然苦だけが生じ、消滅する時は、当然苦だけが消滅する」とこのように疑わず、当然躊躇いません。このニャーナは、他人を信じなくても、当然その聖なる弟子にあります。カッチャーナさん。正しい見解は、当然これだけの理由であります。

 カッチャーナさん。「すべての物は有る」とこのようなディッティ(見解)で主張する言葉は一つ目の極で、「すべての物は無い」とこのような見解で主張する言葉は二つ目の極です。カッチャーナさん。如行(ブッダの一人称。そのように行ったという意味。漢訳は如来)は当然、真ん中のダンマを説き、二つの極に偏りません。

 如行は当然「無明があるからすべての行があり、行があるから識があり、識があるから名形があり、名形があるから六処があり、六処があるから触があり、触があるから受があり、受があるから欲があり、欲があるから取があり、取があるから有があり、有があるから生があり、生があるから、老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが残らず生じます。すべての苦の山の発生はこのような様相であります。

 無明が消滅することで、行が消滅し、行が消滅することで識が消滅し、識が消滅することで名形が消滅し、名形が消滅することで六処が消滅し、六処が消滅することで触が消滅し、触が消滅することで受が消滅し、受が消滅することで欲が消滅し、欲が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで、老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが残らず消滅します。

 すべての苦の山の消滅は、このような様相であります」とこのように説きます。





縁起には苦を作る自分も他人も無い

竹林苑で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻23頁49項

 アチェラカッサバが世尊の許しを得て、「ゴータマ様。苦は自分で作る物ですか。ゴータマ様」と世尊に質問しました。

 そのように言ってはいけません。カッサバさん。

 「ゴータマ様。苦は他人が作ってくれる物ですか」。

 そのように言ってはいけません。カッサバさん。

 「ゴータマ様。苦は人が自分で作る物もあり、他人が作ってくれる物もあるのですか」。

 そのように言ってはいけません。カッサバさん。

 「ゴータマ様。苦は自分で作る物でもなく、誰かが作れる物ではないのですか」。

 そのように言ってはいけません。カッサバさん。

 「ゴータマ様。苦はないのですか」。

 カッサバさん。苦はない訳ではありません。本当に苦はあります。

 「ゴータマ様。もしそうなら、ゴータマ様は苦をご存知ないのでしょう」。

 カッサバさん。私は、苦を知らない訳ではありません。私は当然苦を知り、当然苦が見えます。

 「ゴータマ様。ゴータマ様は「ゴータマ様。苦は自分で作る物ですか。ゴータマ様」と質問しても「そのように言ってはいけません、カッサバさん」とお答えになり、「ゴータマ様。苦は他人が作って与える物ですか」と質問しても「そのように言ってはいけません。カッサバさん」と答えになり、「ゴータマ様。苦は人が自分で作る物もあり、

 他人が作って与える物もあるのですか」と質問しても「そのように言ってはいけません。カッサバさん」とお答えになり、「ゴータマ様。苦は自分で作る物でもなく、誰かが作れる物ではないのですか」と質問しても「そのように言ってはいけません。カッサバさん」とお答えになり、「ゴータマ様。苦はないのですか」と質問しても「カッサバさん。苦はない訳ではありません。本当に苦はあります」とお答えになり、

 「ゴータマ様。もしそうならゴータマ様は苦をご存知ないのでしょう」と質問しても「カッサバさん。私は苦を知らない訳ではありません。私は当然苦を知り、当然苦が見えます」とこのようにお答えになります。猊下。どうぞ苦の話を話してください。私に苦の説明をなさってください」。

 カッサバさん。人が初めから「行動した人が(結果を)味わう」とこのように思い込んでいれば、その人は「苦は自分が作る物」というヴァーダ(主張する主義)があり、それは当然常見に駈けて行きます。カッサバさん。人が受に触れた時「他人が行動して他人が(結果を」味わう」という思い込みがあれば、彼は「苦は他人が作ってくれる物」というヴァーダ(主張する主義)があり、それは当然断見に駈けて行きます。


 カッサバさん。如行は当然どちらの極にも偏らない中間のダンマを説きます。つまり如行は当然「無明が縁ですべての行があり、行が縁で識があり、識が縁で名形があり、名形が縁で六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが一つ残らず生じます。

 すべての苦の群れの発生は、当然このような形であります。

 無明が残らず消滅することですべての行が消滅し、行が消滅することで識が消滅し、識が消滅することで名形が消滅し、名形が消滅することで六処が消滅し、六処が消滅することで触が消滅し、触が消滅することで受が消滅し、受が消滅することで欲が消滅し、欲が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが消滅します。

 すべての苦の山の消滅はこのようにあります」とこのように説きます。

 アチェラカッサバはそのダンマの説明を称賛し、世尊に具足戒を授けてくれるようお願いし、具足戒を授かると間もなく梵行の終りである阿羅漢果を明らかにし、阿羅漢の一人になりました。





すべての教義の苦も、触から始まる

竹林苑で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻41頁76項

 アーナンダ。ラージャガハに近いリスの餌場である竹林にいた時のことです。ラージャガハの都に托鉢に行くために、朝チーヴァラをまとって鉢を持つと、托鉢するにはまだ早すぎると考え、それなら異教の修行者のお寺に寄ろうと思いました。

 アーナンダ。私が異教の修行者に近づくと、彼らは和やかに挨拶をしてきたので、適当な場所に座りました。アーナンダ。座った私に、それらの修行者が、

 「ゴータマさん。サマナ・バラモンの中には、カンマの話を教える時、当然苦は自分で自分に作る物と規定する人たちがいます。別の人たちは、カンマの話を教える時、当然苦は他人が作る物と規定します。またある人たちは、カンマの話を教える時、当然苦は自分が作る訳でも、他人が作る訳でもなく生じると規定します。これについて、我らのゴータマさんはどのように教えていますか。

 そして我々はどう言えば、ゴータマさんが言うとおりに話すことになり、事実でない言葉を擦り付けるのではない正しい発言になりますか。そして追随して言うダンマの同朋も非難されませんか」と、このように言いました。

 アーナンダ。私はそれらの異教の修行者に、

 「みなさん。私は、苦は原因と縁に依存して生じると言います。何に依存するのかは、縁である触に依存します」とこのように言う人が、私が言っているように言うと言われます。

 みなさん。その四つのカンマの話を教えるサマナ・バラモンのうち、苦は自分で作って自分で受け取ると教えるサマナ・バラモンの、彼らが規定したその苦も、必ず縁である触に依存して生じます。苦は他人が作って自分で受け取ると教えるサマナ・バラモンの、彼らが規定したその苦も、必ず縁である触に依存して生じます。

 苦は自分で作って自分で受け取るのもあり、他人が作ってくれるのもあると教えるサマナ・バラモンの、彼らが規定したその苦も、必ず縁である触に依存して生じます。苦は自分が作るのでもなく、他人が作るのでもないと教えるサマナ・バラモンの、彼らが規定したその苦も、必ず縁である触に依存して生じます。

 みなさん。その四つのカンマの話を教えるサマナ・バラモンのうち、苦は自分で作って自分で受け取ると教えるサマナ・バラモンも、触がなければ苦を感じることはありません。苦は他人が作って自分で受け取ると教えるサマナ・バラモンも、触がなければ苦を感じることはありません。

 苦は自分で作って自分で受け取るのもあり、他人が作ってくれるのもあると教えるサマナ・バラモンも、触がなければ苦を感じることはありません。苦は自分が作るのでもなく、他人が作るのでもないと教えるサマナ・バラモン、そのサマナ・バラモンも、触がなければ苦を感じることはありません」と答えました。





カンマヴァーディーの人たちと縁起の教え 

竹林苑で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻41頁76項

 アーナンダ。私がラージャガハに近い、リスの餌場である竹林にいた時のことです。朝チーヴァラをまとって鉢を持ちラージャガハの都に托鉢に行くと、ラージャガハで托鉢するにはまだ早すぎると思い、それなら異教の修行者のお寺に寄ろうと考えました。

 アーナンダ。私は異教の修行者の寺に寄り、彼らと和やかに挨拶を交わして適当な場所に座ると、アーナンダ。それらの修行者が私に、

 「ゴータマさん。サマナ・バラモンの中には、カンマの話を教える時、当然苦は自分で自分に作る物と規定する人たちがいます。別の人たちはカンマの話を教える時、当然苦は他人が作る物と規定し、またある人たちがカンマの話を教える時、当然苦は自分が作る訳でも、他人が作る訳でもなく生じると規定します。

 これについて、我らのゴータマさんはどのように教えていますか。そして私たちはどう言えば、ゴータマさんの言うとおりに話すことになり、事実でない言葉を擦り付けない、正しい発言になりますか。そして追随して言うダンマの同朋も非難されませんか」と、このように言いました。

 アーナンダ。このように質問された私は、それらの異教の修行者に

 「みなさん。私は、苦は原因と縁に依存して生じるものにすぎないと言います。苦は何に依存するのかは、苦は縁、つまり触に依存しますと、このように言う人が、私が言っていることと一致するように言うと言われます。

 みなさん。その四つのカンマの話を教えるサマナ・バラモンのうち、苦は自分で作って自分で受け取ると教えるサマナ・バラモンの、彼らが規定したその苦も、必ず縁である触に依存して生じます。苦は他人が作って自分で受け取ると教えるサマナ・バラモンの、彼らが規定したその苦も、必ず縁である触に依存して生じます。

 苦は自分で作って自分で受け取るのもあり、他人が作ってくれるのもあると教えるサマナ・バラモンの、彼らが規定したその苦も、必ず縁である触に依存して生じます。苦は自分が作るのでもなく、他人が作るのでもないと教えるサマナ・バラモンの、彼らが規定したその苦も、必ず縁である触に依存して生じます。

 みなさん。その四つのカンマの話を教えるサマナ・バラモンのうち、苦は自分で作って自分で受け取ると教えるサマナ・バラモンも、触がなければ苦を感じるでしょうか。それはできません。苦は他人が作って自分で受け取ると教えるサマナ・バラモンも、触がなければ苦を感じるでしょうか。それはできません。

 苦は自分で作って自分で受け取るのもあり、他人が作ってくれるのもあると教えるサマナ・バラモンも、触がなければ、苦を感じるでしょうか。それはできません。苦は自分が作るのでもなく、他人が作るのでもないと教えるサマナ・バラモンも、触がなければ苦を感じるでしょうか。それはできません」と答えました。

 「何て不思議でしょう、猊下。今までにありませんでした。猊下。つまりすべての要旨は、世尊が一語(触)で話されて深い意味になり、そしてその要旨を詳細に述べれば深遠なものであり、深遠に見える状態もあります。猊下」。

 アーナンダ。それならこの場合の答えを、あなたにとって明らかなものになさい。

 「猊下。たくさんの人が私に『アーナンダさん。老死は何が生じさせる原因ですか。何が作る物で、何が産む物で、何が発生源ですか』とこのように質問したら、猊下。私がこのように質問されたら、私は『老死は生が生じさせる物で、生が作る物で、生が産む物で、生が発生源です』とこのように答えます。猊下。

 猊下。たくさんの人が私に『アーナンダさん。生は何が生じさせる原因ですか。何が作るもので、何が産む物で、何が発生源ですか』とこのように質問したら、猊下。私がこのように質問されたら、私は『生は有が生じさせる物で、有が作る物で、有が産む物で、有が発生源です』とこのように答えます。猊下。

 猊下。たくさんの人が私に、『アーナンダさん。有は何が生じさせる原因ですか。何が作る物で、何が産む物で、何が発生源ですか』とこのように質問したら、猊下。私がこのように質問されたら、私は『有は取が生じさせる物で、取が作る物で、取が産む物で、取が発生源です』とこのように答えます。猊下。

 猊下。たくさんの人が私に、『アーナンダさん。取は何が生じさせる原因ですか。何が作る物で、何が産む物で、何が発生源ですか』とこのように質問したら、猊下。私がこのように質問されたら、私は『取は欲望が生じさせる物で、欲望が作る物で、欲望が産む物で、欲望が発生源です』と、このように答えます。猊下。

 猊下。たくさんの人が私に、『アーナンダさん。欲)は何が生じさせる原因ですか。何が作る物で、何が産む物で、何が発生源ですか』とこのように質問したら、猊下。私がこのように質問されたら、私は『欲望は受が生じさせる物で、受が作る物で、受が産む物で、受が発生源です』と、このように答えます。猊下。

 猊下。たくさんの人が私に、『アーナンダさん。受は何が生じさせる原因ですか。何が作る物で、何が産む物で、何が発生源ですか』とこのように質問したら、猊下。私がこのように質問されたら、私は『受は触が生じさせる物で 、触が作る物で、触が産む物で、触が発生源です』と、このように答えます。猊下。

 猊下。たくさんの人が私に、『アーナンダさん。触は何が生じさせる原因ですか。何が作る物で、何が産む物で、何が発生源ですか』とこのように質問したら、猊下。私がこのように質問されたら、私は『触は六処が生じさせる物で、六処が作る物で、六処が産む物で、六処が発生源です。

 みなさん、六触処が残らず消滅することで、触が消滅し、触が消滅することで受が消滅し、受が消滅することで欲が消滅し、欲が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有(または三界)が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが消滅します。すべての苦の山の消滅は、このようにあります。猊下。私が質問されたら、このように答えます」。





縁起の各状態で常見や断見に導く切っ掛け

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻72頁128項

 比丘のみなさん。無明が縁ですべての行があり、行が縁で識があり、識が縁で名形があり、名形が縁で六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが残らず生じます。すべての苦の山の発生はこのようにあります。

 世尊がこのように話されると、一人の比丘が「猊下。老死はどのようですか。そして老死は誰のものですか」と質問しました。

 それは問題にすべきでない問題です。比丘。誰かが「老死はどのようですか。そして老死は誰のものですか」と言っても、「老死は(前の質問と)違う状態ですか。そして老死は他の人(註1)の物ですか」と言っても同じ意味の質問で、言葉が違うだけです。

 比丘。「命と体は同じ」というディッティ(見解)があれば、梵行のような暮らしはありません。比丘。あるいは「命と体は違う」という見解でも、あれば梵行のような暮らしはありません(註2)。比丘。如行は当然真ん中のダンマを説き、二つの極に近寄りません。つまり如行は当然「生が縁で老死がある」とこのように説きます。

註1: ここでの「他の」という言葉は自分自身と反対という意味で、言い方を変えれば老死ではありません。だからこれはこのようで、そして他の物はこのようではないという対になります。仏教は「このようだ」あるいは「違う」とどちらの言い方もせず、これがあるから順々に次の物があり、それ自身の状態はない、あるいはそれ自体ではない、という真ん中で言います。

註2: 「梵行の行動もない」というのは、その人たちの行動はあっても梵行と呼ばないという意味です。彼らの行動は滅苦にならないからです。

 「猊下。生はどのようですか。そしてこの生は誰の物ですか。猊下」。

 それは問題にするべきでない問題です。比丘。誰かが「生はどのようですか。そして生は誰の物ですか」と言っても、「生は(前の質問と)違う状態ですか。そして生は他の人の物ですか」と言っても同じ意味の質問で、言葉が違うだけです。

 比丘。「命と体は同じ」というディッティ(見解)があれば、梵行のような暮らしはありません。比丘。あるいは「命と体は違う」という見解でもあれば、梵行のような暮らしはありません。比丘。如行は当然真ん中のダンマを説き、二つの極に近寄りません。つまり如行は当然「有が縁で生がある」とこのように説きます。

 「猊下。有はどのようですか。そしてこの有は誰の物ですか。猊下」。

 それは問題にするべきでない問題です。比丘。誰が「有はどのようですか。そして有は誰のものですか」と言っても、「有は(前の質問と)違う状態ですか。そして有は他の人の物ですか」と言っても同じ意味の質問で、言葉が違うだけです。

 比丘。「命と体は同じ」というディッティ(見解)があれば、梵行のような暮らしはありません。比丘。あるいは「命と体は違う」という見解でもあれば、梵行のような暮らしはありません。比丘。如行は当然真ん中のダンマを説き、二つの極に近寄りません。つまり如行は当然「取が縁で有がある」とこのように説きます。

 「猊下。取はどのようですか。そしてこの取は誰の物ですか。猊下」。

 それは問題にするべきでない問題です。比丘。誰でも「取はどのようですか。そして取は誰の物ですか」と言っても、「取は(前の質問と)違う状態ですか。そして取は他の人の物ですか」と言っても同じ意味の質問で、言葉が違うだけです。

 比丘。「命と体は同じ」というディッティ(見解)でも、あれば梵行のような暮らしはありません。比丘。あるいは「命と体は違う」という見解でも、あれば梵行のような暮らしはありません。比丘。如行は当然真ん中のダンマを説き、二つの極に近寄りません。つまり如行は当然「欲が縁で取がある」とこのように説きます。

 「猊下。欲はどのようですか。そしてこの欲は誰のものですか。猊下」。

 それは問題にするべきでない問題です。比丘。誰が「欲はどのようですか。そして欲は誰の物ですか」と言っても、「欲は(前の質問と)違う状態ですか。そして欲は他の人の物ですか」と言っても同じ意味の質問で、言葉が違うだけです。

 比丘。「命と体は同じ」というディッティ(見解)でも、あれば梵行のような暮らしはありません。比丘。あるいは、命と体は違う」という見解でも、あれば梵行のような暮らしはありません。比丘。如行は当然真ん中のダンマを説き、二つの極に近寄りません。つまり如行は当然「受が縁で欲がある」とこのように説きます。

 「猊下。受はどのようですか。そしてこの受は誰の物ですか。猊下」。

 それは問題にするべきでない問題です。比丘。誰が「受はどのようですか。そして受は誰の物ですか」と言っても、「受は(前の質問と)違う状態ですか。そして受は他の人の物ですか」と言っても同じ意味の質問で、言葉が違うだけです。

 比丘。「命と体は同じ」というディッティ(見解)でも、あれば梵行のような暮らしはありません。比丘。あるいは「命と体は違う」という見解でも、あれば梵行のような暮らしはありません。比丘。如行は当然真ん中のダンマを説き、二つの極に近寄りません。つまり如行は当然「触が縁で受がある」とこのように説きます。

 「猊下。触はどのようですか。そしてこの触は誰の物ですか。猊下」。

 それは問題にするべきでない問題です。比丘。誰が「触はどのようですか。そして触は誰の物ですか」と言っても、「触は(前の質問と)違う状態ですか。そして触は他の人の物ですか」と言っても同じ意味の質問で、言葉が違うだけです。

 比丘。「命と体は同じ」というディッティ(見解)でも、あれば梵行のような暮らしはありません。比丘。あるいは「命と体は違う」という見解でも、あれば梵行のような暮らしはありません。比丘。如行は当然真ん中のダンマを説き、二つの極に近寄りません。つまり如行は当然「六処が縁で触がある」とこのように説きます。

 「猊下。六処はどのようですか。そしてこの六処は誰の物ですか。猊下」。

 それは問題にするべきでない問題です。比丘。誰が「六処はどのようですか。そして六処は誰の物ですか」と言っても、「六処は(前の質問と)違う状態ですか。そして六処は他の人の物ですか」と言っても同じ意味の質問で、言葉が違うだけです。

 比丘。「命と体は同じ」というディッティ(見解)でも、あれば梵行のような暮らしはありません。比丘。あるいは「命と体は違う」という見解でも、あれば梵行のような暮らしはありません。比丘。如行は当然真ん中のダンマを説き、二つの極に近寄りません。つまり如行は当然「名形が縁で六処がある」とこのように説きます。

 「猊下。名形はどのようですか。そしてこの名形は誰の物ですか。猊下」。

 それは問題にするべきでない問題です。比丘。誰が「名形はどのようですか。そして名形は誰の物ですか」と言っても、「名形は(前の質問と)違う状態ですか。そして名形は他の人の物ですか」と言っても同じ意味の質問で、言葉が違うだけです。

 比丘。「命と体は同じ」というディッティ(見解)でも、あれば梵行のような暮らしはありません。比丘。あるいは「命と体は違う」という見解でも、あれば梵行のような暮らしはありません。比丘。如行は当然真ん中のダンマを説き、二つの極に近寄りません。つまり如行は当然「識が縁で名形がある」とこのように説きます。

 「猊下。識はどのようですか。そしてこの識は誰の物ですか。猊下」。

 それは問題にするべきでない問題です。比丘。誰が「識はどのようですか。そして識は誰の物ですか」と言っても、「識は(前の質問と)違う状態ですか。そして識は他の人の物ですか」と言っても同じ意味の質問で、言葉が違うだけです。

 比丘。「命と体は同じ」というディッティ(見解)でも、あれば梵行のような暮らしはありません。比丘。あるいは「命と体は違う」という見解でも、あれば梵行のような暮らしはありません。比丘。如行は当然真ん中のダンマを説き、二つの極に近寄りません。つまり如行は当然「行が縁で識がある」とこのように説きます。

 「猊下。行はどのようですか。そしてこの行は誰の物ですか。猊下」。

 それは問題にするべきでない問題です。比丘。誰が「行はどのようですか。そして行は誰の物ですか」と言っても、「行は(前の質問と)違う状態ですか。そして行は他の人の物ですか」と言っても同じ意味の質問で、言葉が違うだけです。

 比丘。「命と体は同じ」というディッティ(見解)でも、あれば梵行のような暮らしはありません。比丘。あるいは「命と体は違う」という見解でも、あれば梵行のような暮らしはありません。比丘。如行は当然真ん中のダンマを説き、二つの極に近寄りません。つまり如行は当然「無明が縁ですべての行がある」とこのように説きます。

 比丘。無明が残らず消滅することで「老死はどのようか、そして老死は誰の物か」、あるいは「老死は(前の質問と)違う状態か。そして老死は他の人の物か」でも、あるいは「命と体は同じ」と言っても、「命と体は違う」でも、あるだけすべての見解、間違って進むどんな種類の見解も、それらの見解はその人が捨ててしまったダンマ(もの)であり、その人が根を切断し、芽が腐った砂糖ヤシの木のように生きられない状態に、その後生きられない物にしたものです。

 比丘。無明が残らず消滅することで「生はどのようか、そして生は誰の物か」でも、あるいは「生は(前の質問と)違う状態か。そして生は他の人の物か」でも、あるいは「命と体は同じ」と言っても、「命と体は違う」でも、あるだけすべての見解、間違って進行するどんな種類の見解も、それらの見解はその人が捨ててしまったダンマ(もの)であり、その人が根を切断し、芽が腐った砂糖ヤシの木のように生きられない状態に、その後生きられない物にしたものです。

 比丘。無明が残らず消滅することで、「有はどのようか、そして有は誰の物か」でも、あるいは「有は(前の質問と)違う状態か。そして有は他の人の物か」でも、あるいは「命と体は同じ」と言っても、「命と体は違う」でも、あるだけすべての見解、間違って進行するどんな種類の見解も、それらすべての見解はその人が捨ててしまったダンマ(もの)であり、その人が根を切断し、芽が腐った砂糖ヤシの木のように生きられない状態にし、その後生きられない物にしたものです。

 比丘。無明が残らず消滅することで、「取はどのようか、そして取は誰の物か」でも、あるいは「取は(前の質問と)違う状態か。そして取は他の人の物か」でも、あるいは「命と体は同じ」でも、「命と体は違う」でも、あるだけすべての見解、間違って進行するどんな種類の、それらの見解はその人が捨ててしまったダンマ(もの)であり、その人が根を切断し、芽が腐った砂糖ヤシの木のようにし、生きられない状態に、その後生きられない物にしたものです。

 比丘。無明が残らず消滅することで、「欲はどのようか、そして欲は誰の物か」でも、あるいは「欲は(前の質問と)違う状態か。そして欲は他の人の物か」でも、あるいは「命と体は同じ」でも、「命と体は違う」でも、あるだけすべての見解、間違って進行するどんな種類の見解は、その人が捨ててしまったダンマ(もの)であり、その人が根を切断し、芽が腐った砂糖ヤシの木のようにし、生きられない状態に、その後生きられない物にしたものです。

 比丘。無明が残らず消滅することで、「触はどのようか、そして触は誰の物か」でも、あるいは「触は(前の質問と)違う状態か。そして触は他の人の物か」でも、あるいは「命と体は同じ」でも、「命と体は違う」でも、あるだけすべての見解、間違って進行するどんな種類の見解でも、それらの見解はその人が捨ててしまったダンマ(もの)であり、その人が根を切断し、芽が腐った砂糖ヤシの木のように生きられない状態にし、その後生きられない物にしたものです。

 比丘。無明が残らず消滅することで、「六処はどのようか、そして六処は誰の物か」でも、あるいは「六処は(前の質問と)違う状態か。そして六処は他の人の物か」でも、あるいは「命と体は同じ」でも、「命と体は違う」でも、あるだけすべての見解、間違って進行するどんな種類の見解も、それらの見解はその人が捨ててしまったダンマ(もの)であり、その人が根を切断し、芽が腐った砂糖ヤシの木のように生きられない状態にし、その後生きられない物にしたものです。

 比丘。無明が残らず消滅することで、「名形はどのようか、そして名形は誰の物か」でも、あるいは「名形は(前の質問と)違う状態か。そして名形は他の人の物か」でも、あるいは「命と体は同じ」でも、「命と体は違う」でも、あるだけすべての見解、間違って進行するどんな種類の見解も、それらの見解はその人が捨ててしまったダンマ(もの)であり、その人が根を切断し、芽が腐った砂糖ヤシの木のように生きられない状態にし、その後生きられない物にしたものです。

 比丘。無明が残らず消滅することで、「識はどのようか、そして識は誰の物か」でも、あるいは「識は(前の質問と)違う状態か。そして識は他の人の物か」でも、あるいは「命と体は同じ」でも、「命と体は違う」でも、あるだけすべての見解、間違って進行するどんな種類の見解も、それらの見解はその人が捨ててしまったダンマ(もの)であり、その人が根を切断し、芽が腐った砂糖ヤシの木のように生きられない状態にし、その後生きられない物にしたものです。

 比丘。無明が残らず消滅することで、「すべての行はどのようか、そしてすべての行は誰の物か」でも、あるいは「すべての行は(前の質問と)違う状態か。そしてすべての行は他の人の物か」でも、あるいは「命と体は同じ」でも、「命と体は違う」でも、あるだけすべての見解、間違って進行するどんな種類の見解も、その人が捨ててしまったダンマ(もの)であり、その人が根を切断し、芽が腐った砂糖ヤシの木のように生きられない状態にし、その後生きられない物にしたものです。

註: 次にもう一つの経があり、内容は一字一句すべて同じですが、後者はブッダ自身が比丘たちに話されていて、質問者はいません。




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