真理の覚正とその結果の縁起

中部マッジマバンナーサ 13巻602頁657項

 バーラダヴァーチャ氏のカーパディカ青年が世尊に「ゴータマ様。サッチャーヌポダ(真実を知ること)は、当然どれほどの理由でありますか。人は当然どれほどの理由で真理を知るのですか。私はゴータマ様が真理をお知りになったことについてお尋ねします」と質問しました。

 バーラダヴァーチャさん。このダンマヴィナヤの比丘がどこかの村や町に住むと、長者や長者の息子がその比丘に近づいて、内心で三つのダンマ、つまり貪りの基盤であるダンマ、怒りの基盤であるダンマ、すべての愚かさの基盤であるダンマについて、

「この年長者の方は、その人の心を支配すると、知らなければ知ったと言い、見えなければ見えたと言う、あるいは他人を苦にするダンマ、他の大勢の人を永久に利益のないダンマに誘う貪りの基盤であるダンマがあるだろうか」と熟考します。

 彼がその比丘について熟慮すると「貪りの基盤であるダンマはこの方にはない。更にこの方の身正行、口正行は、貪りのない人の正行の状態になる。更にこの方がどんなダンマを説いても、そのダンマは深くて見え難く知り難いダンマで、緻密なダンマ静まるダンマで、思考で簡単に到達できる領域ではない。そのダンマは高尚なダンマで博学者だけが知ることができる。そのダンマは貪りの多い人が正しく説けるダンマではない」とこのように知ります。

 彼がその比丘について熟考すると、当然「貪りの基盤であるダンマがない純潔な人だ」と知り、それから彼が更にその比丘の怒りの基盤であるダンマ、愚かさの基盤であるダンマについて熟考すると「怒りの基盤であるダンマ、愚かさの基盤であるダンマは、この方にはない。更にこの方の身正行、口正行は、貪りのない人の正行の状態になる。更にこの方がどんなダンマを説いても、

そのダンマは深くて見え難く知り難いダンマで、緻密なダンマ静まるダンマで、思考で簡単に到達できる範囲ではない。そのダンマは高尚なダンマで、博学者だけが知ることができる。そのダンマは怒り、愚かさの多い人が正しく説けるダンマではない」とこのように知ります。

 彼がその比丘について熟考すると、当然「怒りの基盤であるダンマ、愚かさの基盤であるダンマがない純潔な人だ」と知ります。その時彼は、

①その比丘に対して信仰が生じ、信仰が生じれば、

②当然訪ねて行き、訪ねて行けば

③当然近くに座り、近くに座れば、

④当然耳を傾け、耳を傾ければ、

⑤当然ダンマを聞き、ダンマを聞けば

⑥当然ダンマを維持し、

⑦当然、自分が維持しているすべてのダンマの内容を熟考し、ダンマの内容を熟考すれば、

⑧全てのダンマは、当然批判に耐え、ダンマの批判に耐えることがあれば、

⑨当然満足が生じ、満足が生じた人は、

⑩当然勤勉努力があり、勤勉努力のある人は、

⑪当然ダンマのバランスを考え、ダンマのバランスを考えれば、

⑫安定させるダンマは、当然安定します。


 彼がこのように自分を追い遣れば、当然第一義の真理を名形で明らかにし、当然そのダンマを洞察して、智慧で見えています。

 バーラタヴァーチャさん。これだけの理由で人は当然真理を知る人になれます。私はこれだけの理由で真理を知ったと規定します。しかしサッチャーヌパッティ(真理に到達すること)はまだありません。

 「ゴータマ様。真理への到達はどれほどの理由であるのですか。人は当然どれほどの理由で真理を知ることができるのですか。そして私はどれほどの理由で真理を期待できますか。ゴータマ様。真理への到達はどれほどの理由であるのですか。人はどれほどの理由で真理に到達できるのですか。そして私はゴータマ様に真理への到達についてお尋ねします」。

 バーラタヴァーチャさん。それらすべてのダンマと付き合うこと、励んでたくさんすることが真理への到達です。バーラタヴァーチャさん。真理への到達は当然これだけの理由であります。人はこれだけの理由で真理に到達し、そして私はこれだけの理由で真理への到達を規定します。

(1)「ゴータマ様。それなら、何と言うダンマが真理への到達に恩恵のあるダンマですか。私たちは真理への到達に恩恵のあるダンマについてお尋ねします」。

 バーラタヴァーチャさん。ダンマで安定することが真理への到達に恩恵のあるダンマです。人がダンマで安定しなければ、その人は真理に到達できません。ダンマに安定することで真理に到達できます。だからダンマで安定することは真理への到達にとって恩恵のあるダンマと言います。

(2)「ゴータマ様。それなら、何と言うダンマが、ダンマに安定させる恩恵のあるダンマですか。私たちはダンマに安定させることに恩恵のあるダンマについてお尋ねします」。

 バーラタヴァーチャさん。ダンマのバランスを考えることが、ダンマに安定させることに恩恵のあるダンマです。人がダンマのバランスを維持しなければ彼は真理に到達できません。ダンマのバランスをとることで真理に到達できます。だからダンマのバランスを考えることはダンマに安定することにとって恩恵のあるダンマと言います。

(3)「ゴータマ様。それなら何と言うダンマがダンマのバランスを熟慮することに恩恵のあるダンマですか。私たちはダンマのバランスを熟慮することに恩恵のあるダンマについてお尋ねします」。

 バーラタヴァーチャさん。ウッサーハ(勤勉努力)がダンマのバランスを考えることに恩恵のあるダンマです。勤勉でなければ真理に到達できません。勤勉努力で彼は真理に到達できます。だから私は、勤勉であることはダンマのバランスを考えることにとって恩恵のあるダンマと言います。

(4)「ゴータマ様。それなら何と言うダンマが勤勉努力することに恩恵のあるダンマですか。私たちは敢行することに恩恵のあるダンマについてお尋ねします」。

 バーラタヴァーチャさん。チャンダ(満足)が勤勉に恩恵のあるダンマです。チャンダがなければ真理に到達できません。チャンダがあることで、彼は真理に到達できます。だから私は、チャンダがあることは勤勉努力をすることにとって恩恵のあるダンマと言います。

(5)「ゴータマ様。それなら何と言うダンマがチャンダに恩恵のあるダンマですか。私たちはチャンダに恩恵のあるダンマについてお尋ねします」。

 バーラタヴァーチャさん。すべてのダンマが熟慮に耐えることがチャンダに恩恵のあるダンマです。すべてのダンマが熟慮に耐えなければ真理に到達できません。すべてのダンマが熟慮に耐えることで、彼は真理に到達できます。だから私は、すべてのダンマが熟慮に耐えることはチャンダにとって恩恵のあるダンマと言います。

(6)「ゴータマ様。それなら何と言うダンマがすべてのダンマが熟慮に耐えることに恩恵のあるダンマですか。私たちはすべてのダンマが熟慮に耐えることに恩恵のあるダンマについてお尋ねします」。

 バーラタヴァーチャさん。要旨を熟考することがすべてのダンマが熟慮に耐えることに恩恵のあるダンマです。要旨を熟考しなければ真理に到達できません。要旨を熟考することで、彼は真理に到達できます。だから要旨を熟考することはすべてのダンマが熟慮に耐えることにとって恩恵のあるダンマと言います。

(7)「ゴータマ様。それなら何と言うダンマが要旨を熟考することに恩恵のあるダンマですか。私たちは要旨を熟考することに恩恵のあるダンマについてお尋ねします」。

 バーラタヴァーチャさん。ダンマを維持することが要旨を熟考することに恩恵のあるダンマです。ダンマを維持しなければ真理に到達できません。ダンマを維持することで、彼は真理に到達できます。だからダンマを維持することは要旨を熟考することにとって恩恵のあるダンマと言います。

(8)「ゴータマ様。それなら何と言うダンマがダンマを維持することに恩恵のあるダンマですか。私たちはダンマを維持することに恩恵のあるダンマについてお尋ねします」。

 バーラタヴァーチャさん。ダンマを聞くことがダンマを維持することに恩恵のあるダンマです。ダンマを聞かなければ真理に到達できません。ダンマを聞くことで、彼は真理に到達できます。だからダンマを聞くことはダンマを維持することにとって恩恵のあるダンマと言います。

(9)「ゴータマ様。それなら何と言うダンマがダンマを聞くことに恩恵のあるダンマですか。私たちはダンマを聞くことに恩恵のあるダンマについてお尋ねします」。

 バーラタヴァーチャさん。耳を傾けることがダンマを聞くことに恩恵のあるダンマです。耳を傾けなければ真理に到達できません。耳を傾けることで、彼は真理に到達できます。だからダンマを聞くことはダンマを維持することにとって恩恵のあるダンマと言います。

(10)「ゴータマ様。それなら何と言うダンマが、耳を傾けることに恩恵のあるダンマですか。私たちは耳を傾けることに恩恵のあるダンマについてお尋ねします」。

 バーラタヴァーチャさん。側に座ることがダンマを聞くことに恩恵のあるダンマです。側に座らなければ彼は真理に到達できません。側に座ること、彼は真理に到達できます。だから側に座ることは耳を傾けることにとって恩恵のあるダンマと言います。

(11)「ゴータマ様。それなら何と言うダンマが、側に座ることに恩恵のあるダンマですか。私たちは側に座ることに恩恵のあるダンマについてお尋ねします」。

 バーラタヴァーチャさん。訪ねて行くことが側に座ることに恩恵のあるダンマです。訪ねて行がなければ真理に到達できません。訪ねて行くことで彼は真理に到達できます。だから訪ねて行くことは側に座ることにとって恩恵のあるダンマと言います。

(12)「ゴータマ様。それなら何と言うダンマが、訪ねて行くことに恩恵のあるダンマですか。私たちは訪ねて行くことに恩恵のあるダンマについてお尋ねします」。

 バーラタヴァーチャさん。信仰が訪ねて行くことに恩恵のあるダンマです。信仰がなければ彼は真理に到達できません。信仰があるから彼は真理に到達できます。だから信仰があることは、訪ねて行くことにとって恩恵のあるダンマと言います。

 「ゴータマ様。私が真理の維持について、サッチャーヌボタについて、真理への到達について、そしてそれらのどんなことについてもゴータマサマナにお尋ねすると、発展したゴータマ様はそれを託宣なさいました。そのご託宣は私たちの気に入るものであり、私たちにふさわしく、私たちはこのご託宣に満足しています。

 ゴータマ様。今まで私たちは「下層(スーダラ)の生まれの成り上がり者である、ハゲ頭のサマナたちに何がある。何もダンマを知る人にしない」と考えていました。今ゴータマ様がすべてのサマナに対するサマナの愛を生じさせ、サマナにすべてのサマナへの信仰を生じさせ、サマナにすべてのサマナへの尊敬を生じさせました。ゴータマ様。素晴らしいです。猊下。素晴らしいです。

 。ゴータマ様。伏せてあった物を裏返したようで、閉じていた物を開いたようで、道に迷った人に道を教えるようで、目のある人にすべての形が見える下ように、闇の中に置いてある灯火のようです。世尊がいろんな様式で公開されたダンマも同じです。猊下。私は帰依するものである世尊と、ダンマとサンガに到達しました。世尊。どうぞ私を、今日から生涯帰依する清信士と見なしてください。

註: 学習者は、縁起と呼ぶものの状態は、ダンマの到達の縁起の状態を説いているこの経のように、いろんな状態があると観察して見なければなりません。





聖なる弟子が不注意で暮らすことの縁起

榕樹苑で
相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻500頁1600項

 ナンディヤサッカ王が世尊に「猊下。猊下が不注意で暮らす人とおっしゃる聖なる弟子には、当然四つの預流支のどれもないのですか」と質問しました。

 ナンディヤさん。四つの預流支のすべてが当然ない人は誰でも、私は「凡夫の側にいる人」と呼びます。ナンディヤさん。聖なる弟子で不注意で暮らす人と、注意深く暮らす人がどのようかを説明します。これを聞いて役立てなさい。

 ナンディヤさん。このダンマヴィナヤの聖なる弟子は「このような理由で世尊は煩悩から遠い人で、自分自身で正しく悟ることができ、知識と品行が完璧な人、良く行った人、世界を明らかに知る人、訓練するべき人を誰よりも良く訓練できる人で、天人とすべての人間の先生であり、智者、目覚めた人、ダンマに明るい人であり、ダンマを分類して生き物に教える発展した人」と、ブッダにこのように安定して揺るぎない完璧な帰依があります。

 その聖なる弟子はこのダンマを喜ぶだけで、昼のパヴィヴェーカ(遠離)、夜のパティサラナ(帰依)のために更に努力をしません。

 その聖なる弟子がこのように油断のある人なら、当然パモーダヤ(歓喜)もなく、

 歓喜がなければピーティ(喜悦)もなく、

 喜悦がなければパッサッティ(軽安)もなく、

 軽安がなければ当然苦で暮らし、

 苦のある人は当然心が安定せず、

 心が安定しない人はすべてのダンマが現れず、

 すべてのダンマが現れなければ、その聖なる弟子は当然油断で暮らす人に数えられます。

 (二番目の預流支つまりダンマアヴァッチャッパサーダも三番目のサンガアヴェッチャッパサーダも四番目のアリヤカンタシーラも同じように話されています)。

 ナンディヤさん。こういうのが油断で暮らす聖なる弟子です。

 (油断なく暮らす聖なる弟子について、反対の意味で説かれています。学習者は自分で対比してください)。

註: 学習者は、ナンディヤサッカがこのダンマヴィナヤの教えと違って、預流支の四つがない人を「聖なる弟子」と呼んでいますが、ブッダはその種の人物を聖なる弟子と区別していること、そして一番の聖人預流でも、阿羅漢になるまで高いレベルに到達する努力を継続しなければ、油断がある人に落ちていると話されていることを観察して見なければなりません。

 この経のもう一つ興味深いことは、遠離は昼のもので帰依は夜のもの、智者に熟慮判断してもらう理解し難いものと話されていることです。更に縁起と呼ぶものにはいろんな意義があり、不注意で暮らす人のために説いた「無明が縁で行があり」で始まる必要はないことです。





解脱智見が依存する場所に欠ける縁起

増支部ダサカニパータ 24巻338頁210項他

 比丘のみなさん。誤った戒があればアヴィパティサーラ(無悔恨。焦燥しないこと)も居場所を失くし、

 悔恨があれば、誤った無悔恨のある人の歓喜は居場所を失くし、

 歓喜がなければ、誤った歓喜がある人の喜悦も居場所を失くし、

 喜悦がなければ、誤った喜悦がある人の軽安も居場所を失くし、

 軽安がなければ、誤った軽安のある人の幸福も居場所を失くし、

 幸福がなければ、誤った幸福のある人の正しいサマーディも居場所を失くし、

 正しいサマーディがなければ、誤ったサマーディのある人の如実智見も居場所を失くし、

 如実智見がなければ、誤った如実智見のある人の厭離も居場所を失くし、

 厭離がなければ、誤った厭離がある人の離欲も居場所を失くし、

 離欲がなければ、誤った離欲がある人の解脱見智も、居場所を失くします。

 比丘のみなさん。誤った枝と葉がある木は外皮も豊かでなく、内皮も豊かでなく、辺材も豊かでなく、芯も豊かでないように、比丘のみなさん。悪い戒、誤った戒があれば悔恨がないことも居場所を失くします。

 無悔恨がなければ、誤った無悔恨のある人の歓喜は居場所を失くし、

 歓喜がなければ、誤った歓喜がある人の喜悦も居場所を失くし、

 喜悦がなければ、誤った喜悦がある人の軽安も居場所を失くし、

 軽安がなければ、誤った軽安のある人の幸福も居場所を失くし、

 幸福がなければ、誤った幸福のある人の正しいサマーディも居場所を失くし、

 正しいサマーディがなければ、誤ったサマーディのある人の如実智見も居場所を失くし、

 如実智見がなければ、誤った如実智見のある人の厭離も居場所を失くし、

 厭離がなければ、誤った厭離がある人の離欲も居場所を失くします。

 (その後、反対の意味で、つまり完璧な戒があり、豊かな居場所があり、悪い戒と反対の結果がある側を、同じように最後まで話されています)。





他で話されているもの


 比丘のみなさん。常自覚がなければ誤った自覚のある人の慙(罪を恥じること)と愧(罪を恐れること)も居場所を失くし、

 慚と愧がなければ、誤った慚と愧のある人の根律儀も居場所を失くし、

 根律儀がなければ、誤った根律儀がある人の戒も居場所を失くし、

 戒がなければ、誤った戒のある人の正しいサマーディも居場所を失くし、

 正しいサマーディがなければ、誤ったサマーディがある人の如実智見も居場所を失くし、

 如実智見がなければ、如実智見がない人の厭離離欲も居場所を失くし、

 厭離離欲がなければ、誤った厭離離欲がある人の解脱智見も居場所を失くします。

 比丘のみなさん。誤った枝と葉がある木は、外皮も豊かでなく、内皮も豊かでなく、辺材も豊かでなく、芯も豊かでないように、比丘のみなさん。常自覚がなければ誤った自覚のある人の慙(罪を恥じること)と愧(罪を恐れること)も居場所を失くし、

 慚と愧がなければ、誤った慚と愧のある人の根律儀も居場所を失くし、

 根律儀がなければ、誤った根律儀がある人の戒も居場所を失くし、

 戒がなければ、誤った戒のある人の正しいサマーディも居場所を失くし、

 正しいサマーディがなければ、誤ったサマーディがある人の如実智見も居場所を失くし、

 如実智見がなければ、如実智見がない人の厭離離欲も居場所を失くし、

 厭離離欲がなければ、誤った厭離離欲がある人の解脱智見も居場所を失くします。

 (その後、反対の意味で、つまり完璧な常自覚があり、豊かな居場所がある悪い戒と反対の結果がある側を、同じように最後まで話されています)。





阿羅漢果の完璧さのための縁起

祇園精舎で
増支部エカダサカニパータ 24巻335頁208項

 プラアーナンダが「猊下。善である戒は何が目指す利益ですか。何が功徳ですか」と質問しました。

 アーナンダ。善である戒はアヴィッパティサーラ(無悔恨)が目指す功徳です。

 「猊下。では無悔恨は何が目指す功徳ですか」。

 アーナンダ。アヴィッパティサーラは、パモーダヤ(歓喜)が目指す功徳です。

 「猊下。では歓喜は何が目指す功徳ですか」。

 アーナンダ。歓喜はピーティ(喜悦)が目指す功徳です。

 「猊下。では喜悦は何が目指す功徳ですか」。

 アーナンダ。喜悦はパッサッティ(軽安)が目指す功徳です。

 「猊下。では軽安は何が目指す功徳ですか」。

 アーナンダ。軽安はスッカ(幸福)が目指す功徳です。

 「猊下。では幸福は何が目指す功徳ですか」。

 アーナンダ。幸福は、サマーディ(三昧)が目指す功徳です。

 「猊下。ではサマーディは何が目指す功徳ですか」。

 アーナンダ。サマーディはヤターブータニャーニャダッサナ(如実智見)が目指す功徳です。

 「猊下。では如実智見は何が目指す功徳ですか」。

 アーナンダ。如実智見は、ニッピダー(厭離)が目指す功徳です。

 「猊下。では遠離は何が目指す功徳ですか」。

 アーナンダ。遠離はヴィラーガ(離欲)が目指す功徳です。

 「猊下。では離欲は何が目指す功徳ですか」。

 アーナンダ。離欲はヴィムッティニャーナダッサナ(解脱智見)が目指す功徳です。

 アーナンダ。このような状態で、善である戒は、目指す功徳である無悔恨があり、

 無悔恨は、目指す功徳である歓喜があり、

 歓喜は、目指す功徳である喜悦があり、

 喜悦は、目指す功徳である軽安があり

 軽安は、目指す功徳でである幸福があり、

 幸福は、目指す功徳であるサマーディがあり、

 サマーディは、目指す功徳である如実智見があり、

 如実智見は、目指す功徳である厭離があり、

 遠離は、目指す功徳である離欲があり、

 離欲は、目指す功徳である解脱智見があります。

 アーナンダ。善である戒は当然このように、順々に阿羅漢果を満たします。

註: 学習者は「どのように固定した規則か」という重要な状態、つまりこの経と他のたくさんの経で述べているのと一致する言うことができるダンマの順を観察して見なければなりません。ここで述べている順は、戒-無悔恨-歓喜-喜悦-幸福-サマーディ-如実智見-厭離-離欲-解脱智見です。

 そしてもう一つ特に観察して見なければならないのは、歓喜は流れの初めに欠かすことができないものであること、そして幸福とサマーディは分けられないものであること、そしてこの十一のものは「戒・サマーディ・智慧」という言葉の説明でもあることです。戒は善であり、貪りのため、天国のために維持するのではなく、解脱のために維持します。





真理の縁起

カーシー国のキータギリ町で
キータギリスッタ
中部マッジマバンナーサ 13巻233頁239項

 比丘のみなさん。私は当然、初歩のレベルの行動だけで阿羅漢果の満足を経験すると言いません。比丘のみなさん。阿羅漢果の満足を経験するには、当然段階的な学習、段階的な実践、段階的に行動によってあります。

 比丘のみなさん。阿羅漢果の満足に経験するには、当然どのように段階的に学び、段階的な実践、段階的な行動をするのでしょうか。比丘のみなさん。

 この場合の人は信仰が生じた人で、当然訪ねて行き、

 訪ねて行けば当然近くに座り、

 近くに座れば当然耳を傾け、

 耳を傾ければ当然ダンマを聞き、

 ダンマを聞けば当然ダンマを維持し、

 当然自分が維持しているダンマの意義を熟考し、

 そのダンマの意義を熟慮熟考すれば、当然すべてのダンマは検証に耐え、

 ダンマが検証に耐えれば当然チャンダ(満足、喜び)が生じ、

 チャンダが生じれば当然努力があり、

 努力があれば当然(真実の探求のために)判断の均衡を考え、

 均衡のある判断をして当然そのダンマを維持し、

 そのダンマに自分を追い遣る人は、当然体で真理(ボロマサッチャ)を明らかにし、当然智慧で真理を洞察します。





良く解脱した心(スヴィムッティ)の縁起

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻179頁245項他

 比丘のみなさん。不変でない目を不変でないと見る比丘は、そのような見方は正しい見解です。

 正しく見ていれば当然倦怠し、

 ナンディ(歓び)が終わればラーガ(貪り)が終り、

 ラーガが終わればナンディが終り、

 ナンディとラーガが終われば、心は良く解脱したと言うことができます。

 (残りの内六処五つ、つまり耳・鼻・舌・体・心と、六つの外六処、つまり形・声・香・味・触・考えについても、目の場合と同じように話されています)。





他で話している要点


 比丘のみなさん。みなさん、目に如理作意の行動をなさい。そして目が不変でないことを熟慮して真実のままに見なさい。比丘のみなさん。比丘が目に如理作意の行動をし、熟慮して目は無常の物であると真実のままに見れば、当然目に倦怠します。

 歓びが終われば、貪りが終り、

 貪りが終われば、歓びが終り、

 歓びと貪りが終われば、

 心は良く解脱(スヴィムッティ)したと言うことができます。

 (残りの内処、つまり耳・鼻・舌・体・心と、六外処、つまり形・声・香・味・触・考えについても、目の場合と同じように話されています)。

註: 学習者は、解脱の側の縁起は無明と反対の明から始まると観察して見なければなりません。ここでは明の代わりに正しい見解という言葉を使っています。

 もう一つ正しい見解から始まる「ヴィムッティ(解脱)」の頭に「ス(正しいとか善いとかいう意味の接頭語)」という文字を一字加えるだけで、本当に正しくなるというのを、教えと見なすべきです。大きな教えである解脱の流れと一致します。つまり正しい見方から始まり、それから倦怠、欲情の弛緩、そして解脱に至り、ダンマを増やすのは三つの要旨の周辺の言葉を説明するためです。





自分だけの般涅槃の縁起

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻57頁93項

 比丘のみなさん。形は無常の物で、無常である物は何でも、それは苦で、苦である物は何でも、それは無我で、無我である物何でも、それは自分の物でなく、自分ではなく、自分自身でもありません。みなさん、これを正しい智慧でこのように真実のままに見なければなりません。

 (受・想・行・識の場合も形の場合とすべて同じように話されています)。

 比丘のみなさん。人がそれを正しい智慧で、このように真実のままに見れば、すべての過去の見は当然ありません。すべての過去の見がなければ、すべての未来の見もなく、すべての未来の見がなければ、強く執着して撫でまわすことも当然ありません。

 強く執着して撫でまわすことがなければ、心は当然形・受・想・行・識の欲情が薄くなり、執着がないことで当然すべての漏から解脱します。

 心が解脱することで心は(心の状態を)維持し、

 心が維持されることで心は喜びで明るくなり、

 心が喜びで明るくなることで驚愕しなくなり、

 驚愕しないことで当然自分だけの般涅槃します。

 その人は当然「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にない」とハッキリと知ります。

註: 学習者は、般涅槃は死ぬ時、あるいは死んだ後にあるものでなく、まだ感覚がある心、まだ生きている心にあると観察して見なければなりません。般涅槃は死ぬ時、あるいは死んで行く時にあるという誤解は、何の利益もない非常に愚かな迷信です。

 学習者のみなさんはこれに特に関心をもって、般涅槃は完全に冷えること、焼き炙る煩悩がないこと、あるいは煩悩が尽きた後どんな受の妨害もないことと見なければなりません。そして「自分だけの」という言葉があれば、実際に感じている人の心の感覚なので、当然死の時にはあり得ないと主張できます。





四取の消滅の縁起

祇園精舎で
小獅子吼経
中部ムーラパンナーサ 12巻132頁156項

 比丘のみなさん。この四つの取があります。四つはどのようでしょうか。四つとは欲取、見取、戒禁取、我語取です。

 比丘のみなさん。この四つの取は何が根源で、何が集(作る物)で、何が生む物で、何が発生源でしょうか。比丘のみなさん。この四つの取はタンハー(欲望)が根源で、欲が集で、欲が生む物で、欲が発生源です。

 比丘のみなさん。では欲は何が根源で、何が集で、何が生む物で、何が発生源でしょうか。比丘のみなさん。欲は受が根源で、受が集で、受が生む物で、受が発生源です。

 比丘のみなさん。受は何が根源で、何が集で、何が生む物で、何が発生源でしょうか。比丘のみなさん。受は触が根源で、触が集で、触が生む物で、触が発生源です。

 比丘のみなさん。触は何が根源で、何が集で、何が生む物で、何が発生源でしょうか。比丘のみなさん。触は六処が根源で、六処が集で、六処が生む物で、六処が発生源です。

 比丘のみなさん。六処は何が根源で、何が集で、何が生む物で、何が発生源でしょうか。比丘のみなさん。六処は名形が根源で、名形が集で、名形が生む物で、名形が発生源です。

 比丘のみなさん。名形は何が根源で、何が集で、何が生む物で、何が発生源でしょうか。比丘のみなさん。名形は識が根源で、識が集で、識が生む物で、識が発生源です。

 比丘のみなさん。識は何が根源で、何が集で、何が生む物で、何が発生源でしょうか。比丘のみなさん。識はすべての行が根源で、すべての行が集で、すべての行が生む物で、すべての行が発生源です。

 比丘のみなさん。すべての行は何が根源で、何が集で、何が生む物で、何が発生源でしょうか。

 比丘のみなさん。比丘が無明を捨てることができた時、その時はいつでも明が生じます。明が生じたことでその比丘が無明をすべて吐き出すことができれば、その人は当然欲取に執着せず、当然見取に執着せず、当然戒禁取に取着せず、我語取に執着しません。

 執着しなければ驚愕せず、驚愕しなければ当然自分だけの般涅槃をし、当然「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にない」と明らかにと知ります。





世界の終りの縁起

小部ウダーナヴァッガ 25巻208頁161項

 世尊は涅槃に関したダンマの詩で比丘たちを誘われ、比丘たちが非常に良く聞いているのをご覧になって、次のように感嘆されました。

 『動揺は当然欲と見解(註)が住んでいる比丘にある。

 動揺は当然欲と見解が住んでいない比丘にはない。


 動揺がなければ当然軽安があり、

 軽安があれば当然心を傾けることはなく、


 心を傾けることなければ当然来ること行くことはなく、

 来ること行くことがなければ当然移動と生まれることはなく、


 移動と生まれることがなければ、この世界の何もなく、

 他の世界にもなく、二つの世界の間にもない。

 これが苦の終り』。

 註:この場合の見解(ディッティ)は特に邪見を意味します。




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