縁起以上の縁起

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻35頁68項

 比丘のみなさん。私は知っている人、見えている人のためにすべての漏の終りを説きます。知らない人、見えない人のためではありません。比丘のみなさん。すべての漏の終りは当然何を知っている人、何が見えている人にあるでしょうか。

 比丘のみなさん。すべての漏の終りは「形はこのよう、形が生じる原因はこのよう、形が維持できないことはこのよう」、「受はこのよう、受が生じる原因はこのよう、受が維持できないことはこのよう」、「想はこのよう、想が生じる原因はこのよう、想が維持できないことはこのよう」、「すべての行はこのよう、すべての行が生じる原因はこのよう、すべての行が維持できないことはこのよう」、「識はこのよう、識が生じる原因はこのよう、識が維持できないことはこのよう」と、このように形を知っている人、見えている人にあります。

(1) 比丘のみなさん。すべての漏の終りがあれば、その漏の終りのニャーナが当然あります。比丘のみなさん。私は、そのニャーナも住む場所があるニャーナで、住む場所がないニャーナではないと言います。

(2)比丘のみなさん。ニャーナの住む場所は何でしょうか。答えは「ヴィムッティ(解脱)は、終わりのニャーナの住む場所であるダンマです」であるべきです。比丘のみなさん。私は解脱も住む場所があるダンマで、住む場所がないダンマではないと言います。

(3)比丘のみなさん。解脱の住む場所は何でしょうか。答えは「ヴィラーガ(離欲)が解脱の住む場所であるダンマです」であるべきです。比丘のみなさん。私は離欲も住む場所があるダンマで、住む場所がないダンマではないと言います。

(4)比丘のみなさん。離欲の住む場所は何でしょうか。答えは「ニッピダー(厭離)が離欲の住む場所であるダンマです」であるべきです。比丘のみなさん。私は遠離も住む場所があるダンマで、住む場所がないダンマではないと言います。

(5)比丘のみなさん。遠離の住む場所は何でしょうか。答えは「ヤターブータニャーナダッサナ(如実智見)が終わることの遠離の住む場所であるダンマです」であるべきです。比丘のみなさん。私は如実智見も住む場所があるダンマで、住む場所がないダンマではないと言います。

(6)比丘のみなさん。如実智見の住む場所は何でしょうか。答えは「サマーディ(三昧)が如実智見の住む場所であるダンマです」であるべきです。比丘のみなさん。私はサマーディも住む場所があるダンマで、住む場所がないダンマではないと言います。

(7)比丘のみなさん。サマーディの住む場所は何でしょうか。答えは「スッカ(幸福)がサマーディの住む場所であるダンマです」であるべきです。比丘のみなさん。私は幸福も住む場所があるダンマで、住む場所がないダンマではないと言います。

(8)比丘のみなさん。幸福の住む場所は何でしょうか。答えは「パッサッティ(軽安)が幸福の住む場所であるダンマです」であるべきです。比丘のみなさん。私は軽安も住む場所があるダンマで、住む場所がないダンマではないと言います。

(9)比丘のみなさん。軽安の住む場所は何でしょうか。答えは「ピーティ(喜悦)が軽安の住む場所であるダンマです」であるべきです。比丘のみなさん。私は喜悦も住む場所があるダンマで、住む場所がないダンマではないと言います。

(10)比丘のみなさん。喜悦の住む場所は何でしょうか。答えは「パモーダヤ(歓喜)が喜悦の住む場所であるダンマです」であるべきです。比丘のみなさん。私は歓喜も住む場所があるダンマで、住む場所がないダンマではないと言います。

(11)比丘のみなさん。歓喜の住む場所は何でしょうか。答えは「信仰心が歓喜の住む場所であるダンマです」であるべきです。比丘のみなさん。私は信仰心も住む場所があるダンマで、住む場所がないダンマではないと言います。

(12)比丘のみなさん。信仰心の住む場所は何でしょうか。答えは「苦が信仰心の住む場所であるダンマです」であるべきです。比丘のみなさん。私は苦も住む場所があるダンマで、住む場所がないダンマではないと言います。

(13)比丘のみなさん。苦の住む場所は何でしょうか。答えは「生が苦の住む場所であるダンマです」であるべきです。比丘のみなさん。私は生も住む場所があるダンマで、住む場所がないダンマではないと言います。

(14)比丘のみなさん。生の住む場所は何でしょうか。答えは「有が生の住む場所であるダンマです」であるべきです。比丘のみなさん。私は有も住む場所があるダンマで、住む場所がないダンマではないと、私は言います。

(15)比丘のみなさん。有の住む場所は何でしょうか。答えは「取が有の住む場所であるダンマです」であるべきです。比丘のみなさん。私は取も住む場所があるダンマで、住む場所がないダンマではないと、私は言います。

(16)比丘のみなさん。取の住む場所は何でしょうか。答えは「欲が取の基盤であるダンマです」であるべきです。比丘のみなさん。私は欲も住む場所があるダンマで、住む場所がないダンマではないと言います。

(17)比丘のみなさん。欲の住む場所は何でしょうか。答えは「受が欲の住む場所であるダンマです」であるべきです。比丘のみなさん。私は受も住む場所があるダンマで、住む場所がないダンマではないと、私は言います。

(18)比丘のみなさん。受の住む場所は何でしょうか。答えは「触が受の住む場所であるダンマです」であるべきです。比丘のみなさん。私は触も住む場所があるダンマで、住む場所がないダンマではないと言います。

(19)比丘のみなさん。触の住む場所は何でしょうか。答えは「六処が触の住む場所であるダンマです」であるべきです。比丘のみなさん。私は六処も住む場所があるダンマで、住む場所がないダンマではないと言います。

(20)比丘のみなさん。六処の住む場所は何でしょうか。答えは「名形が六処の住む場所であるダンマです」であるべきです。比丘のみなさん。私は名形も住む場所があるダンマで、住む場所がないダンマではないと言います。

(21)比丘のみなさん。名形の住む場所は何でしょうか。答えは識が名形の住む場所であるダンマです」であるべきです。比丘のみなさん。私は識も住む場所があるダンマで、住む場所がないダンマではないと言います。

(22)比丘のみなさん。識の住む場所は何でしょうか。答えは「すべての行が識の住む場所であるダンマです」であるべきです。比丘のみなさん。私はすべての行も住む場所があるダンマで、住む場所がないダンマではないと言います。

(23)比丘のみなさん。すべての行の住む場所は何でしょうか。答えは「無明がすべての行の住む場所であるダンマです」であるべきです。

 (漏の終りを入れると、二十四になります)。

 比丘のみなさん。今述べた理由で、

 すべての行は、住む場所である無明があると言われ、

 名形は、住む場所である行があると言われ、

 六処は、住む場所である名形があると言われ、

 触は、住む場所である六処があると言われ、

 受は、住む場所である触があると言われ

 欲は、住む場所である受があると言われ、

 取は、住む場所である欲があると言われ、

 有は、住む場所である取があると言われ、 

 生は、住む場所である有があると言われ、

 苦は、住む場所である生があると言われ、


 信仰は、住む場所である苦があると言われ、

 歓喜(パモーダヤ)は、住む場所である信仰があると言われ、

 喜悦(ピーティ)は、住む場所である歓喜があると言われ、

 軽安(パッサティ)は、住む場所である喜悦があると言われ、

 幸福(スッカ)は、住む場所であるパッサッティがあると言われ、

 サマーディ(三昧)は、住む場所である幸福があると言われ、

 ヤターブータニャーナダッサナ(如実智見)は、住む場所であるサマーディがあると言われ、

 ニッピダー(厭離)は、住む場所である如実智見があると言われ、

 ヴィラーガ(離欲)は、住む場所である厭離があると言われ、 

 ヴィムッティ(解脱)は、住む場所である離欲があると言われ、

 終わりのニャーナは、住む場所である解脱があると言います。


 比丘のみなさん。山に大雨が降ると雨水は低い場所に流れ、当然山の窪み、岩の窪み、そしてすべての渕を満たします。山の窪み、岩の窪み、そしてすべの渕がいっぱいになると、当然すべての小さな沢の水が満ち、すべての小さな沢が満ちると当然すべての大きな沢が満ち、すべての大きな沢が満ちると当然すべての小さな川の水が満ち、すべての小さな川の水が満ちると当然すべての大きな川の水が満ち、すべての大きな川の水が満ちると当然海の水も満ちます。

 比丘のみなさん。同じようにすべての行は住む場所である無明があると言われます。識は住む場所である行があると言われ、名形は住む場所である識があると言われ、六処は住む場所である名形があると言われ、触は住む場所である六処があると言われ、受は住む場所である触があると言われ、欲は住む場所である受があると言われ、

取は住む場所である欲があると言われ、有は住む場所である取があると言われ、生は住む場所である有があると言われ、苦は住む場所である生があると言われ、信仰は住む場所である苦があると言われ、

 歓喜は住む場所である信仰があると言われ、喜悦は住む場所である歓喜があると言われ、軽安は住む場所である喜悦があると言われ、幸福は住む場所である喜悦があると言われ、サマーディは住む場所である幸福があると言われ、如実智見は住む場所であるサマーディがあると言われ、

厭離は住む場所である如実智見があると言われ、離欲は住む場所である厭離があると言われ、解脱は住む場所である離欲があると言われ、終わりのニャーナ(智)は住む場所である解脱があると言われます。





無明の食べ物の縁起

増支部ダサカニパータ 24巻120頁61項

 比丘のみなさん。無明の最初は当然現れません。今まで無明はありませんでした。無明は後から生じたばかりです。比丘のみなさん。このような言葉は、誰も(註1)が言うべき言葉です。そして「無明はこれによって、これが縁で現れた」とも言うべきです。

 比丘のみなさん。その無明も食べ物がある自然で、私は食べ物がない自然ではないと言います。何が無明の食べ物でしょうか。答えは「五蓋が無明の食べ物」であるべきです。

 比丘のみなさん。五蓋も食べ物がある自然で、私は食べ物がない自然ではないと言います。何が五蓋の食べ物でしょうか。答えは「三悪行」であるべきです。

 比丘のみなさん。三悪行も食べ物がある自然で、私は食べ物がない自然ではないと言います。何が三悪行の食べ物でしょうか。答えは「根を慎まないこと」であるべきです。

 比丘のみなさん。根を慎まないことも食べ物がある自然で、私は食べ物がない自然ではないと言います。何が根を慎まないことの食べ物でしょうか。答えは「常自覚がないこと」であるべきです。

 比丘のみなさん。常自覚がないことも食べ物がある自然で、私は食べ物がない自然ではないと言います。常自覚がないことの食べ物は何でしょうか。答えは「不如理作意」であるべきです。

 比丘のみなさん。不如理作意も食べ物がある自然で、私は食べ物がない自然ではないと言います。何が不如理作意の食べ物でしょうか。答えは「信仰がないこと」であるべきです。

 比丘のみなさん。信仰がないことも食べ物がある自然で、私は食べ物がない自然ではないと言います。信仰がないことの食べ物は何でしょうか。答えは「サッダンマ(正法)を聞かないこと」であるべきです。

 比丘のみなさん。サッダンマを聞かないことも食べ物がある自然で、私は食べ物がない自然ではないと言います。何がサッダンマを聞かないことの食べ物でしょうか。答えは「善人と付き合わないこと」であるべきです。

 比丘のみなさん。このような状態で、善人と付き合わないことが十分になると、当然正法を聞かないことも十分になり、

 正法を聞かないことが十分になると、当然不如理作意も十分になり、

 不如理作意が十分になると、当然常自覚がないことも十分になり、

 常自覚がないことが十分になると、当然根を慎まないことも十分になり、

 根を慎まないことが十分になると、当然三悪行も十分になり、

 三悪行が十分になると、当然五蓋も十分になり、

 五蓋が十分になると、当然無明も十分になります。

 比丘のみなさん。無明の食べ物は当然このようにあり、そしてこのように十分になります。

 比丘のみなさん。山に大雨が降ると雨水は低い場所に流れ、当然山の窪み、岩の窪み、そしてすべての渕を満たします。山の窪み、岩の窪み、そしてすべての渕がいっぱいになると、当然すべての小さな沢の水が満ち、すべての小さな沢が満ちると当然すべての大きな沢の水が満ち、

すべての大きな沢が満ちると当然すべての小さな川の水が満ち、すべての小さな川の水が満ちると当然すべての大きな川の水が満ち、すべての大きな川の水が満ちると当然海の水も満ちます。比丘のみなさん。海の食べ物はこのような様相であり、このように満ちます。

  比丘のみなさん。同じように善人と交際しないことが十分になると当然サッダンマを聞かないことも十分になります。サッダンマを聞かないことが十分になると当然信仰がないことも十分になり、信仰がないことが十分になると当然不如理作意が十分になり、不如理作意が十分になると当然常自覚がないことも十分になり、

常自覚がないことが十分になると当然根を慎まないことも十分になり、根を慎まないことが十分になると当然三悪行も十分になり、三悪行が十分になると当然五蓋も十分になり、五蓋が十分になると当然無明も十分になります。

 比丘のみなさん。無明の食べ物は当然このようにあり、そしてこのように十分になります。

註1: この「ウッチャティ」という言葉は、今まで「如行は当然述べる」と訳され、伝統になっていますが、よく考えて見ると、ブッダも含めた智者である「誰でも」言うべきで、ブッダだけに限定しないと見えます。

註: 学習者は、この内容は縁起の状態があると観察して見なければなりません。つまり無明が縁起の流れを作り出す働きをする前から、直接無明を作り出す無明の縁起の状態です。





有欲の縁起

増支部ダサカニパータ 24巻124頁62項

 比丘のみなさん。有欲(バヴァタンハー)の最初は当然現れません。今まで有欲はありませんでした。有欲は後から生じたばかりです。比丘のみなさん。このような言葉は、誰もが言うべきです。そして「有欲は当然、これがあるからこれが縁で現れる」とこのようにも言うべきです。

 比丘のみなさん。私は、有欲も食べ物がある自然で、食べ物がない自然ではないと言います。何が有欲の食べ物でしょうか。答えは「無明が有欲の食べ物」であるべきです。

 比丘のみなさん。私は、無明も食べ物がある自然で、食べ物がない自然ではないと言います。何が無明の食べ物でしょうか。答えは「五蓋が無明の食べ物」であるべきです。

 比丘のみなさん。私は、五蓋も食べ物がある自然で、食べ物がない自然ではないと言います。何が五蓋の食べ物でしょうか。答えは「三悪行」であるべきです。

 比丘のみなさん。私は、三悪行も食べ物がある自然で、食べ物がない自然ではないと言います。何が三悪行の食べ物でしょうか。答えは「根を慎まないこと」であるべきです。

 比丘のみなさん。私は、根を慎まないことも食べ物がある自然で、食べ物がない自然ではないと言います。何が根を慎まないことの食べ物でしょうか。答えは「常自覚がないこと」であるべきです。

 比丘のみなさん。私は、常自覚がないことも食べ物がある自然で、食べ物がない自然ではないと言います。常自覚がないことの食べ物は何でしょうか。答えは「不如理作意」であるべきです。

 比丘のみなさん。私は、不如理作意も食べ物がある自然で、食べ物がない自然ではないと言います。何が不如理作意の食べ物でしょうか。答えは「信仰がないこと」であるべきです。

 比丘のみなさん。私は、信仰がないことも食べ物がある自然で、食べ物がない自然ではないと言います。信仰がないことの食べ物は何でしょうか。答えは「サッダンマを聞かないこと」であるべきです。

 比丘のみなさん。私は、サッダンマを聞かないことも食べ物がある自然で、食べ物がない自然ではないと言います。何がサッダンマを聞かないことの食べ物でしょうか。答えは「善人と付き合わないこと」であるべきです。

 比丘のみなさん。このように善人と付き合わないことが十分になると、当然正法を聞かないことも十分になります。

 正法を聞かないことが十分になると、当然不如理作意も十分になり

 不如理作意が十分になると、当然常自覚がないことも十分になり、

 常自覚がないことが十分になると、当然根を慎まないことも十分になり、

 根を慎まないことが十分になると、当然三悪行も十分になり、

 三悪行が十分になると、当然五蓋も十分になり、

 五蓋が十分になると、当然無明が十分になり、

 無明が十分になると、当然有欲が十分になります。

 比丘のみなさん。比丘のみなさん。有欲の食べ物は、当然このようにあり、そしてこのように十分になります。

 比丘のみなさん。山に大雨が降れば雨水は低い場所に流れ、当然山の窪み、岩の窪み、そしてすべての渕を満たします。山の窪み、岩の窪み、そしてすべての渕がいっぱいになると、当然すべての小さな沢に水が満ち、すべての小さな沢が満ちると当然すべての大きな沢の水が満ち、

すべての大きな沢の水が満ちると当然すべての小さな川の水が満ち、すべての小さな川の水が満ちると当然すべての大きな川の水が満ち、すべての大きな川の水が満ちると当然海の水も満ちるのと同じです。比丘のみなさん。海の食べ物はこのような様相であり、このように満ちます。

 同じように比丘のみなさん。善人と交際しないことが十分になると当然サッダンマを聞かないことも十分になります。サッダンマを聞かないことが十分になると当然信仰がないことも十分になり、信仰がないことが十分になると当然不如理作意が十分になり、不如理作意が十分になると当然常自覚がないことも十分になり、常自覚がないことが十分になると当然根を慎まないことも十分になり、

根を慎まないことが十分になると当然三悪行も十分になり、三悪行が十分になると当然五蓋も十分になり、五蓋が十分になると当然無明も十分になり、無明が十分になると有欲も十分になります。比丘のみなさん。有欲の食べ物は当然このような様相であり、そしてこのように十分になります。





明と解脱の食べ物の縁起

増支部ダサカニパータ 24巻122頁61項

 比丘のみなさん。明と解脱も食べ物がある自然で、食べ物がない自然ではないと私は言います。それでは何が明と解脱の食べ物でしょうか。答えは「七覚支が明と解脱の食べ物」であるべきです。

 比丘のみなさん。七覚支も食べ物がある自然で、食べ物がない自然ではないと私は言います。

 では何が七覚支の食べ物でしょうか。答えは「四念処が七覚支の食べ物」であるべきです。

 比丘のみなさん。四念処も食べ物がある自然で、食べ物がない自然ではないと私は言います。では何が四念処の食べ物でしょうか。答えは「三善行」であるべきです。

 三善行も食べ物がある自然で、食べ物がない自然ではないと私は言います。では何が三善行の食べ物でしょうか。答えは「根を慎むこと」であるべきです。

 比丘のみなさん。根を慎むことも食べ物がある自然で、食べ物がない自然ではないと私は言います。では何が根を慎むことの食べ物でしょうか。答えは「如理作意」であるべきです。

 比丘のみなさん。如理作意も食べ物がある自然で、食べ物がない自然ではないと私は言います。では何が如理作意の食べ物でしょうか。答えは「信仰」であるべきです。

 比丘のみなさん。信仰も食べ物がある自然で、食べ物がない自然ではないと私は言います。では何が信仰の食べ物でしょうか。答えは「サッダンマ(正法)を聞くこと」であるべきです。

 比丘のみなさん。サッダンマを聞くことも食べ物がある自然で、食べ物がない自然ではないと私は言います。ではサッダンマを聞くことの食べ物は何でしょうか。答えは「善人との交際」であるべきです。

 比丘のみなさん。このような状態で善人との交際が十分になると当然正法を聞くことも十分になり、正法を聞くことが十分になると、当然如理作意も十分になり、如理作意が十分になると、当然常自覚も十分になり、常自覚が十分になると、当然根を慎むことも十分になり、

根を慎むことが十分になると、当然三善行も十分になり、三善行が十分になると、当然四念処も十分になり、四念処が十分になると、当然七覚支も十分になり、七覚支が十分になると、当然明と解脱が十分になります。比丘のみなさん。明と解脱の食べ物は当然このようにあり、このように十分になります。

 比丘のみなさん。山に大雨が降ると雨水は低い場所に流れ、当然山の窪み、岩の窪み、そしてすべての渕を満たします。山の窪み、岩の窪み、そしてすべての渕がいっぱいになると、当然すべての小さな沢に水が満ち、すべての小さな沢が満ちると当然すべての大きな沢の水が満ち、

すべての大きな沢の水が満ちると当然すべての小さな川の水が満ち、すべての小さな川の水が満ちると当然すべての大きな川の水が満ち、すべての大きな川の水が満ちると当然海の水も満ちます。比丘のみなさん。海の食べ物はこのような状態であり、このように満ちます。

 比丘のみなさん。同じように善人との交際が十分になると当然サッダンマを聞くことが十分になります。サッダンマを聞くことが十分になると当然信仰も十分になり、信仰が十分になると当然如理作意も十分になり、如理作意が十分になると当然常自覚も十分になり、常自覚が十分になると当然根を慎むことも十分になり、

根を慎むことが十分になると当然三善行も十分になり、三善行が十分になると当然四念処も十分になり、四念処が十分になると当然七覚支も十分になり、七覚支が十分になると当然明と解脱が十分になります。比丘のみなさん。明と解脱の食べ物は当然このような状態であり、このような状態で十分になります。





明と解脱の縁起(概略)

鹿林苑で
相応部マハーヴァーラヴァッガ19巻105頁394項

 修行者クンダリヤが世尊に、「ゴータマ様。私はいろんなお寺を回って教団員に質問をするのが好きです。ゴータマ様。朝食べるために出掛けて朝食が終わると、私の日課はあちらの寺、こちらの寺、あちらの庭園、こちらの庭園を回って歩くことです。そこで裸行をするサマナ・バラモンを見て、愉しみのためにこのように言うこともあり、愉しみのために質問する時けなすこともあります。ゴータマ様は何を心を愉しませる物にしていらっしゃるのですか」と質問しました。

 クンダリヤさん。如行は明と解脱の結果があることを心を愉しませるものにしています。

 「ゴータマ様。では人が励んでたくさんしたら当然明と解脱を十分にするものはどのダンマですか」。

 クンダリヤさん。七覚支ですよ。

 「ゴータマ様。では人が励んでたくさんしたら当然七覚支を十分にするものはどのダンマですか」。

 クンダリヤさん。四念処ですよ。

 「ゴータマ様。では人が励んでたくさんしたら当然四念処を十分にするものはどのダンマですか」。

 クンダリヤさん。三善行ですよ。

 「ゴータマ様。では人が励んでたくさんしたら、当然三善行を十分にするものはどのダンマですか」。

 クンダリヤさん。人が励んでたくさんしたら三善行を十分にするのは根律儀ですよ。

 クンダリヤさん。人がどのように根律儀に励んでたくさんしたら、三善行が十分になるでしょうか。

 クンダリヤさん。この場合の比丘は目で満足できる形を見ても当然貪りで注目せず、野望で望んで貪りを生じさせないので、彼の体は安定し心も良く安定して、内部で良く解脱します。更にその人が満足できない形を見ても当然愚かにならず、怒りのある心でなく、怒りが支配しない心悪意のない心があり、その人の体は安定し心も安定し、内部が良く解脱します。

 耳で満足できる声を聞いても当然貪りで注目せず、野望で望んで貪りを生じさせず、その人の体は安定し心も良く安定して、内部で良く解脱しています。更に満足できない声を聞いても当然愚かにならず、怒りのある心でなく、怒りに支配されない心悪意のない心があり、その人の体は安定し心も安定し、内部が良く解脱します。

 鼻で満足できる臭いを嗅いでも当然貪りで注目せず、野望で望んで貪りを生じさせず、その人の体は安定し心も良く安定して、内部で良く解脱しています。更に満足できない臭いを嗅いでも当然愚かにならず、怒りのある心でなく、怒りに支配されない心悪意のない心があり、その人の体は安定し心も安定し、内部が良く解脱します。

 (味・接触・考えの場合も、形の場合と同じように話されています)。

 クンダリヤさん。比丘が目で形を見ても安定した人であり、煩悩に支配されない心があり、満足できる物でも満足できない物でも、すべての形に異常になる心がなく、体が安定し、心が安定し、内部で解脱した人で、

 耳で声を聞いても安定した人であり、煩悩に支配されない心があり、満足できる物でも満足できない物でも、すべての形に異常になる心がなく、体が安定し、心が安定し、内部で解脱する人で、

 鼻で臭いを嗅いでも安定した人であり、煩悩に支配されない心があり、満足できる物でも満足できない物でも、すべての形に異常になる心がなく、体が安定し、心が安定し、内部で解脱する人です。

 (味・接触・考えの場合も、形の場合と同じように話されています)。

 クンダリヤさん。人がこのように励んでたくさんした根律儀は三善行を十分にします。

 クンダリヤさん。人がどのように三善行に励んでたくさんすれば四念処が十分になるでしょうか。クンダリヤさん。この場合の比丘は、

①当然身悪行を捨てるために身善行に励み、

②当然口悪行を捨てるために口善行に励み、

③当然意悪行をすてるために意善行に励みます。


 クンダリヤさん。人がこのように励んでたくさんした三善行は四念処を十分にします。

 クンダリヤさん。人がどのように四念処に励んでたくさんすれば七覚支が十分になるでしょうか。クンダリヤさん。この場合の比丘は、

①当然、常に体の中の体を熟慮して見る人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを排除します。

②当然、常にすべての受の中の受を熟慮して見る人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを排除します。

③当然、常に心の中の心を熟慮して見る人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを排除します。

④当然、常にすべてのダンマの中のダンマを熟慮して見る人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを排除します。


 クンダリヤさん。人がこのように励んでたくさんした四念処は七覚支を十分にします。

 クンダリヤさん。人がどのように七覚支に励んでたくさんすれば明と解脱が十分になるでしょうか。クンダリヤさん。この場合の比丘は ①当然ヴィヴェカ(遠離)に依存し、ヴィラーガ(離欲)に依存し、手放すことに傾いていく七覚支のサティに励み、

②当然厭離に依存し、離欲に依存し、手放すことに傾いていく七覚支の択法に励み、

③当然厭離に依存し、離欲に依存し、手放すことに傾いていく七覚支の精進に励み、

④当然厭離に依存し、離欲に依存し、手放すことに傾いていく七覚支の喜悦に励み、

⑤当然厭離に依存し、離欲に依存し、手放すことに傾いていく七覚支の軽安に励み、

⑥当然厭離に依存し、離欲に依存し、手放すことに傾いていく七覚支のサマーディに励み、

⑦当然遠離に依存し、離欲に依存し、手放すことに傾いていく七覚支の捨に励みます。

 クンダリヤさん。人がこのように励んで十分にした七覚支は明と解脱を十分にします。

 世尊がこのように話されると修行者クンダリヤは説法を称賛し、そして自分は三宝を受け入れ、生涯清信士となることを表明しました。

註: 学習者は、この縁起は幾つでもない状態だけを説いたもので、根律義と三善行と四念処、七覚支、そして明と解脱だけですが、それでも前の項目で説いているように詳細に説明することもできると観察して見なければなりません。




帰依所の縁起

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻288頁968項

 バラモンであるアヌナーバが「ゴータマ様。この五つの根は領域が違い、ゴーチャラ(好んで行く場所)が違うので、互いの領域とゴーチャラが接しません。五根とは眼根・耳根・鼻根・舌根・身根で、スガタ様。何がこれらの根の帰依所(駈けて行く所)ですか。何がそれらの根の領域とゴーチャラに達すのですか」と質問しました。

 バラモンさん。心は根が駈けて行く所です。心は当然根のゴーチャラと鏡域と付き合います。

 「ゴータマ様。心が駈けて行く所は何ですか」。

 バラモンさん。サティです、心が駈けて行く所は。

 「ゴータマ様。サティが駈けて行く所は何ですか」。

 バラモンさん。ヴムッティ(解脱)です、サティが駈けて行く所は。

 「ゴータマ様。ヴィムッティが駈けて行く所は何ですか」。

 バラモンさん、ニッバーナ(涅槃)です、ヴィムッティが駈けて行く所は。

 「ゴータマ様。ニッバーナが駈けて行く所は何ですか」。

 バラモンさん。問題の終りを通り越してしまい、終わりがありません。彼らがしている梵行は、目標である涅槃があり、行く先に涅槃があり、涅槃で終りです。

註: 学習者は、この経の観察すべき点は、通常私たちが「依存するもの」「帰依するもの」と訳しているパティサラナという言葉は、この場合「心が駈けて行く所」を意味していると観察して見なければなりません。この意味を掴んでください。

 もう一つ、この経の内容は、あまり聞いたことがない特に変わったダンマを説いたものと言うことができます。それは「根が心に駈けて行き、心がサティに駈けて行き、サティが解脱に駈けて行き、解脱が涅槃に駈けて行く」です。これを理解すれば非常に利益があります。




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