不注意で暮らすことの縁起

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻97頁143項

 比丘のみなさん。平素から不注意で暮らしている比丘と、平素から注意深く暮らしている比丘の状態を説明します。みなさん、これをお聞きなさい。比丘のみなさん。平素から不注意で暮らす比丘はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。根つまり目に注意していない比丘は、目で感じる領域であるすべての形にしがみつきます。比丘にしがみついている心があれば当然パモーダヤ(歓喜)はなく、歓喜がなければピーティ(喜悦)もなく、喜悦がなければパッサッディ(軽安)もなく、軽安がなければ、その比丘は当然苦で暮らします。

 苦があれば心は当然安定せず、心が不安定ならばすべてのダンマは現れず、すべてのダンマが現れなければ、その比丘は当然平素から本当に不注意で暮らす人と見なされます。

 比丘のみなさん。根つまり耳に注意していない比丘は、耳で感じる領域であるすべての声にしがみつきます。その比丘にしがみついている心があれば当然歓喜はなく、歓喜がなければ喜悦もなく、喜悦がなければ軽安もなく、軽安がなければその比丘は当然苦で暮らします。

 苦があれば心は当然安定せず、心が不安定ならばすべてのダンマは現れず、すべてのダンマが現れなければ、その比丘は当然、平素から本当に不注意で暮らす人と見なされます。

 比丘のみなさん。根つまり鼻に注意していない比丘は、鼻で感じる領域であるすべての臭いにしがみつき、その比丘にしがみついている心があれば、当然歓喜はなく、歓喜がなければ、喜悦もなく、喜悦がなければ、軽安もなく、軽安がなければ、その比丘は当然苦で暮らします。

 苦があれば心は当然安定せず、心が不安定ならば、すべてのダンマは現れず、すべてのダンマが現れなければ、その比丘は当然、平素から本当に不注意で暮らす人と見なされます。

 比丘のみなさん。根つまり舌に注意していない比丘は、舌で感じる領域であるすべての味にしがみつきます。その比丘にしがみついている心があれば当然歓喜はなく、歓喜がなければ喜悦もなく、喜悦がなければ軽安もなく、軽安がなければその比丘は当然苦で暮らします。

 苦があれば心は当然安定せず、心が不安定ならばすべてのダンマは現れず、すべてのダンマが現れなければ、その比丘は当然、平素から本当に不注意で暮らす人と見なされます。

 比丘のみなさん。根つまり体に注意していない比丘は、体で感じる領域であるすべての接触にしがみつきます。その比丘にしがみついている心があれば当然歓喜はなく、歓喜がなければ喜悦もなく、喜悦がなければ軽安もなく、軽安がなければその比丘は当然苦で暮らします。

 苦があれば心は当然安定せず、心が不安定ならば、すべてのダンマは現れず、すべてのダンマが現れなければ、その比丘は当然、平素から本当に不注意で暮らす人と見なされます。

 比丘のみなさん。根つまり心に注意していない比丘は、心で感じる領域であるすべての想念にしがみつきます。その比丘にしがみついている心があれば当然歓喜はなく、歓喜がなければ喜悦もなく、喜悦がなければ軽安もなく、軽安がなければその比丘は当然苦で暮らします。

 苦があれば心は当然安定せず、心が不安定ならばすべてのダンマは現れず、すべてのダンマが現れなければ、その比丘は当然、平素から本当に不注意で暮らす人と見なされます。

 比丘のみなさん。こういうのが「平素から不注意で暮らす人」です。

 (平素から注意深く暮らす人の場合は、反対の意味で話されています。学習者は自分で対照してみてください)。

註: 学習者は、この経は、縁起と言うものにはいろんな形があり、いつでも「無明が縁で行があり」で始まる必要はないと見せていると観察して見なければなりません。





パパンチャサンニャーサンカーサムダーチャラナの縁起

マドゥピンディカスッタ
中部ムーラパンナーサ 12巻226頁248項

 ご年配のみなさん。目と形に依存して眼識が生じ、三つのダンマ(目+形+眼識)の会合が触です。触が縁で受があり、どんな受でも味わう人は当然その受を感じ(想)、どんな受でも味わう人は当然その受を考え(ヴィタッカ)、どんな受でも考える人は当然その受によって遅れ(パパンチャ)、

どんな受ででも遅れる人は、過去でも現在でも、遅らせるもの(パパンチャサンニャーサンカー)であるいろんな種類の想が目で明らかに知るすべての形の受が原因で当然その人を包囲します。

 ご年配のみなさん。耳と声に依存して耳識が生じ、三つのダンマ(耳+声+耳識)の会合が触です。触が縁で受があり、どんな受でも味わう人は当然その受を感じ(想)、どんな受でも味わう人は当然その受を考え、どんな受でも考える人は当然その受によって遅れ、どんな受ででも遅れる人は、過去でも現在でも、遅らせる物であるいろんな種類の想が、耳で明らかに知るすべての声の受が原因で当然その人を包囲します。

 ご年配のみなさん。鼻と臭いに依存して鼻識が生じ、三つのダンマ(鼻+臭い+鼻識)の会合が触です。触が縁で受があり、どんな受でも味わう人は当然その受を感じ(想)、どんな受でも味わう人は当然その受を考え、どんな受でも考える人は当然その受によって遅れ、どんな受ででも遅れる人は、過去でも現在でも、遅らせる物であるいろんな種類の想が、鼻で明らかに知るすべての臭いの受が原因で当然その人を包囲します。

 ご年配のみなさん。舌と味に依存して舌識が生じ、三つのダンマ(舌+味+舌識)の会合が触です。触が縁で受があり、どんな受でも味わう人は当然その受を感じ(想)、どんな受でも味わう人は当然その受を考え、どんな受でも考える人は当然その受によって遅れ、どんな受ででも遅れる人は、過去でも現在でも、遅らせる物であるいろんな種類の想が、舌で明らかに知るすべての味の受が原因で当然その人を包囲します。

 ご年配のみなさん。体と接触に依存して身識が生じ、三つのダンマ(体+接触+身識)の会合が触です。触が縁で受があり、どんな受でも味わう人は当然その受を感じ(想)、どんな受でも味わう人は当然その受を考え、どんな受でも考える人は当然その受によって遅れ、どんな受ででも遅れる人は、過去でも現在でも、遅らせる物であるいろんな種類の想が、体で明らかに知るすべての接触の受が原因で当然その人を包囲します。

 ご年配のみなさん。心と想念に依存して意識が生じ、三つのダンマ(心+想念+意識)の会合が触です。触が縁で受があり、どんな受でも味わう人は当然その受を感じ(想)、どんな受でも味わう人は当然その受を考え、どんな受でも考える人は当然その受によって遅れ、どんな受ででも遅れる人は、過去でも現在でも、遅らせる物であるいろんな種類の想が、心で明らかに知るすべての想念の受が原因で当然その人を包囲します。



 ご年配のみなさん。その人に目があり、形があり、眼識があれば触の規定を規定すること、これはあり得ます。触を規定することがあればその人が受の規定を規定することはあり得、受を規定することがあればその人が想の規定を規定することはあり得、想を規定することがあれば、

その人がヴィタッカの規定を規定することはあり得、ヴィタッカを規定することがあればその人が遅れさせる行動(パパンチャサンニャーサンカーサムダーチャラナ)規定を規定することはあり得ます。

 ご年配のみなさん。その人に耳があり、声があり、耳識があれば触の規定を規定することはあり得、触を規定することがあればその人が受の規定を規定することはあり得、受を規定することがあればその人が想の規定を規定することはあり得、想を規定することがあればその人がヴィタッカの規定を規定することはあり得、ヴィタッカを規定することがあれば、その人が遅れさせる行動規定を規定することはあり得ます。

 ご年配のみなさん。その人に鼻があり、臭いがあり、鼻識があれば触の規定を規定することはあり得、触を規定することがあればその人が受の規定を規定することはあり得、受を規定することがあればその人が想の規定を規定することはあり得、想を規定することがあればその人がヴィタッカの規定を規定することはあり得、ヴィタッカを規定することがあれば、その人が遅れさせる行動規定を規定することはあり得ます。

 ご年配のみなさん。その人に舌があり、味があり、舌識があれば触の規定を規定することはあり得、触を規定することがあれば、その人が受の規定を規定することはあり得、受を規定することがあれば、その人が想の規定を規定することはあり得、想を規定することがあればその人がヴィタッカの規定を規定することはあり得、ヴィタッカを規定することがあれば、その人が遅れさせる行動規定を規定することはあり得ます。

 ご年配のみなさん。その人に体があり、接触があり、身識があれば触の規定を規定することはあり得、触を規定することがあればその人が受の規定を規定するこ都はあり得、受を規定することがあればその人が想の規定を規定することはあり得、想を規定することがあればその人がヴィタッカの規定を規定することはあり得、ヴィタッカを規定することがあればその人が遅れさせる行動規定を規定することはあり得ます。

 ご年配のみなさん。その人に心があ、想念があり、意識があれば触の規定を規定することはあり得、触を規定することがあればその人が受の規定を規定することがあり得、受を規定することがあればその人が想の規定を規定することはあり得、想を規定することがあればその人がヴィタッカの規定を規定することはあり得、ヴィタッカを規定することがあれば、その人が遅れさせる行動規定を規定することはあり得ます。

  註:これは、プラマハーカッチャーナが、比丘たちに話したものです。





随眠を捨てるのを遅らせる妄想の縁起

ムドゥピンディカスッタ
中部ムーラパンナーサ 12巻222頁245項

 世尊がダンダパニサーカヤと会話し終わると、ある比丘が、

 「猊下。世尊は普段どのようにお話になるので、天人界、悪魔界、梵天界を含めた世界の、サマナ・バラモンと天人と人間を含めた動物群の誰一人反論する人がなく、世界に存在なさっているのですか。更にどのような方法ですれば、すべての愛欲がない人、何がどうなのか質問する原因である疑念がなくなった人、煩悶がなくなった人、小さな有、大きな有に欲望がないバラモンである人に、すべての想が眠らないようにすることができますか、猊下」と質問しました。

 比丘。遅らせる物であるいろんな想(随眠である思い込みあるいは理解。註1)は当然何らかの感情が原因で人を包囲します。原因であるどんな感情もその人を陶酔させ、称賛させ、惑溺させるための感情としてなければ、それが貪随眠、瞋恚随眠、見随眠、疑法随眠、慢随眠、有貪随眠、無明随眠の終りです。

 そしてそれは刃のない武器の使用、刃のある武器の使用、争い、奪い合い、「貴様」「テメエ」と乱暴な言葉を使うこと、告げ口をすること、そしてあらゆる嘘を言うことの終わりであり、それらの罪悪であるダンマは当然残らず消滅します(註2)。

註1: この場合の想は単なる記憶ではなく、例えば幸想=幸福という思い込み、自我想=自分という思い込みなどの思い込み、あるいは理解のことで、取によって生じ、生じれば当然随眠を起こし、そしてその度に習性を増やすので、その度に遅らせ、あるいは滅苦を難しくします。

註2:ブッダが質問に直接答えないのは、二番目の質問の答えと一緒にできるからで、良く熟慮して見れば、分かります。

 『それは刃のない武器の使用、刃のある武器の使用、争い、奪い合い、「貴様、テメエ」と乱暴な言葉を使うこと、告げ口をすること、そしてあらゆる嘘を言うことの終わりです』というのが、『日頃どのように話されますか』という一番の質問の答えです。

 (世尊はこのように話されると居室へ入って行かれました。このブッダヴァチャナの要旨をまだ理解できない比丘たちがプラマハーカッチャーナを訪ねて解説を求めると、プラマハーヴァッガカッチャーヤナは、次のように述べました)。

 ご年配のみなさん。世尊が「比丘。遅らせる物であるいろんな想(随眠である思い込み)は当然何らかの感情が原因で人を包囲します。その感情がその人を夢中にさせ、称賛させ、陶酔させるためになければ、それが貪随眠、瞋恚随眠、見随眠、疑法随眠、慢随眠、有貪随眠、無明随眠の終りです。

 そしてそれは、刃のない武器の使用、刃のある武器の使用、争い、奪い合い、「貴様」「テメエ」と乱暴な言葉を使うこと、告げ口をすること、そしてあらゆる嘘を言うことの終わりであり、それらの罪悪であるダンマは、当然残らず消滅します」と概略で説明され、内容を詳細に分類せずにお住まいへ行かれた話は、ご年配のみなさん。私は当然世尊が概略で話され、詳細に説明なさらなかった説明の要旨をこのように詳しく知っています。

 ご年配のみなさん。目と形に依存して眼識が生じ、三つのダンマ(目+形+眼識)の会合が触で、触が縁で受があります。どんな受でも味わう人は当然その受を感じ(想)、どんな受でも感じる人は当然その受を考えること(ヴィタッカ)があり、どんな受でも考える人は当然その受によって遅れる行動があり(註3)、何らかの受で遅れる人は、過去でも現在でも、遅らせるものであるいろんな想が、目で明らかに知るすべての形の受が原因で当然その人を包囲します。

 ご年配のみなさん。耳と声に依存して耳識が生じ、三つのダンマ(耳+声+耳識)の会合が触で、触が縁で受があります。どんな受でも味わう人は当然その受を感じ(想)、どんな受でも感じる人は当然その受を考えること(ヴィタッカ)があり、どんな受でも考える人は当然その受によって遅れる行動があり、どんな受ででも遅れる人は、過去でも現在でも、遅らせるものであるいろんな想が、耳で明らかに知るすべての声の受が原因で当然その人を包囲します。

 ご年配のみなさん。鼻と臭いに依存して鼻識が生じ、三つのダンマ(鼻+臭い+鼻識)の会合が触で、触が縁で受があります。どんな受でも味わう人は当然その受を感じ(想)、どんな受でも感じる人は当然その受を考えること(ヴィタッカ)があります。どんな受でも考える人は当然その受によって遅れる行動があり、どんな受でで遅れる人は、過去でも現在でも、遅らせるものであるいろんな想が、耳で明らかに知るすべての臭いの受が原因で当然その人を包囲します。

 ご年配のみなさん。舌と味に依存して舌識が生じ、三つのダンマ(舌+味+舌識)の会合が触で、触が縁で受があります。どんな受でも味わう人は当然その受を感じ(想)、どんな受でも感じる人は当然その受を考えること(ヴィタッカ)があり、どんな受でも考える人は当然その受によって遅れる行動があり、どんな受ででも遅れる人は、過去でも現在でも、遅らせるものであるいろんな想が、舌で明らかに知るすべての味の受が原因で当然その人を包囲します。

 ご年配のみなさん。体と接触に依存して身識が生じ、三つのダンマ(体+接触+身識)の会合が触で、触が縁で受があります。どんな受でも味わう人は当然その受を感じ(想)、どんな受でも感じる人は当然その受を考えること(ヴィタッカ)があり、どんな受でも考える人は当然その受によって遅れる行動があり、どんな受ででも遅れる人は、過去でも現在でも、遅らせるものであるいろんな想が、体で明らかに知るすべての接触の受が原因で当然その人を包囲します。

 ご年配のみなさん。心と想念に依存して意識が生じ、三つのダンマ(心+想念+意識)の会合が触で、触が縁で受があります。どんな受でも味わう人は当然その受を感じ(想)、どんな受でも感じる人は当然その受を考えることがあり、どんな受でも考える人は当然その受によって遅れる行動があり、どんな受ででも遅れる人は、過去でも現在でも、遅らせるものであるいろんな想が、心で明らかに知るすべての想念の受が原因で当然その人を包囲します。

註3:学習者は、受は随眠を捨てるのを遅らせる重要な物の一つである縁起の状態があると観察して見なければなりません。



 ご年配のみなさん。その人に目があり形があり眼識があれば、触の規定を規定する(註4)ことはあり、触を規定することがあれば、その人が受の規定を規定することはあり、受を規定することがあれば、その人が想の規定を規定することはあり、想を規定することがあれば、その人がヴィタッカの規定を規定することはあり、ヴィタッカを規定することがあれば、その人が遅らせる行動の規定を規定する(註5)ことがあります。

 ご年配のみなさん。その人に耳があり声があり耳識があれば、その人が触の規定を規定することはあり、触を規定することがあれば、その人が受の規定を規定することはあり、受を規定することがあれば、その人が想の規定を規定することッはあり、想を規定することがあれば、その人がヴィタッカの規定を規定することはあり、ヴィタッカを規定することがあれば、その人が遅らせる行動の規定を規定することがあり得ます。

 ご年配のみなさんその人に鼻があり臭いがあり鼻識があれば、その人が触の規定を規定することはあり、触を規定することがあれば、その人が受の規定を規定することはあり、受を規定することがあれば、その人が想の規定を規定することッはあり、想を規定することがあれば、その人がヴィタッカの規定を規定することはあり、ヴィタッカを規定することがあれば、その人が遅らせる行動の規定を規定することがあります。

 ご年配のみなさん。その人に舌があり味があり舌識があれば、その人が触の規定を規定することはあり、触を規定することがあれば、その人が受の規定を規定することはあり、受を規定することがあれば、その人が想の規定を規定することッはあり、想を規定することがあれば、その人がヴィタッカの規定を規定することはあり、ヴィタッカを規定することがあれば、その人が遅らせる行動の規定を規定することがあります。

 ご年配のみなさん。その人に体があり接触があり身識があれば、その人が触の規定を規定することはあり、触を規定することがあれば、その人が受の規定を規定することはあり、受を規定することがあれば、その人が想の規定を規定することッはあり、想を規定することがあれば、その人がヴィタッカの規定を規定することはあり、ヴィタッカを規定することがあれば、その人が遅らせる行動の規定を規定することがあります。

 ご年配のみなさん。その人に心があり想念があり意識があれば、その人が触の規定を規定することはあり、触を規定することがあれば、その人が受の規定を規定することはあり、受を規定することがあれば、その人が想の規定を規定することッはあり、想を規定することがあれば、その人がヴィタッカの規定を規定することはあり、ヴィタッカを規定することがあれば、その人が遅らせる行動の規定を規定することがあります。

註4: 触の規定とは、触に関して、その人の感覚で「このような種類がある」「このようにある」「これ以外はない」と言うことです。他の項目、受の規定なども同じ意味です。

註5: 遅らせる行動を規定するとは、想の包囲を規定すること、つまり遅らせる物であるいろんな随眠である理解を規定することです。



※(反対の意味)

 ご年配のみなさん。その人に目がなく形がなく眼識がなければ、その人が触の規定を規定することはあり得ません。触を規定しなければその人が受を規定することはあり得ず、受を規定しなければその人が想を規定することはあり得ず、想を規定しなければその人がヴィタッカを規定することはあり得ず、ヴィタッカを規定しなければその人が遅らせる行動を規定することはあり得ません。

 ご年配のみなさん。その人に耳がなく声がなく耳識がなければ、その人が触の規定を規定することはあり得ません。触を規定しなければその人が受を規定することはあり得ず、受を規定しなければその人が想を規定することはあり得ず、想を規定しなければその人がヴィタッカを規定することはあり得ず、ヴィタッカを規定しなければその人が遅らせる行動を規定することはあり得ません。

 ご年配のみなさん。その人に鼻がなく臭いがなく鼻識がなければ、その人が触の規定を規定することはあり得ません。触を規定しなければその人が受を規定することはあり得ず、受を規定しなければその人が想を規定することはあり得ず、想を規定しなければその人がヴィタッカを規定することはあり得ず、ヴィタッカを規定しなければその人が遅らせる行動を規定することはあり得ません。

 ご年配のみなさん。その人に舌がなく味がなく舌識がなければ、彼が触を規定することはあり得ません。触を規定しなければその人は受を規定することができず、受を規定しなければその人が想を規定することができず、想を規定しなければその人がヴィタッカを規定することはできず、ヴィタッカを規定しなければその人が遅らせる行動を規定することはあり得ません。

 ご年配のみなさん。その人に体がなく接触がなく身識がなければ、その人が触の規定を規定することはあり得ません。触を規定しなければその人が受を規定することはあり得ず、受を規定しなければその人が想を規定することはあり得ず、想を規定しなければその人がヴィタッカを規定することはあり得ず、ヴィタッカを規定しなければその人が遅らせる行動を規定することはあり得ません。

 ご年配のみなさん。その人に心がなく想念がなく意識がなければ、その人が触の規定を規定することはあり得ません。触を規定しなければ受を規定することはあり得ず、受を規定しなければその人が想を規定することはあり得ず、想を規定しなければその人がヴィタッカを規定することはあり得ず、ヴィタッカを規定しなければその人が遅らせる行動を規定することはあり得ません。

 ご年配のみなさん。世尊が「比丘。遅らせる物であるいろんな種類の想(思い込み)は当然何らかの感情が原因で人を包囲し、その感情がその人を夢中にさせ、称賛させ、陶酔させるためになければ、それが貪随眠、瞋恚随眠、見随眠、疑法随眠、慢随眠、有貪随眠、無明随眠の終りです。

 そしてそれは刃のない武器の使用、刃のある武器の使用、争い、奪い合い、「貴様」「テメエ」と乱暴な言葉を使うこと、告げ口をすること、そしてあらゆる嘘を言うことの終わりで、それらの罪悪であるダンマは、当然残らず消滅します」と概略で説明され、内容を詳細に分類せずにお住まいへ去られた話は、ご年配のみなさん。私は当然、世尊が概略で話され、詳細に説明なさらなかった説明の要旨を、このように詳しく知っています。

 ご年配のみなさん。みなさんが望むなら世尊を訪ねてこの項目を質問なさり、みなさん、世尊が託宣なさったように記憶なさい。

 (それらの比丘たちが世尊を訪ねてこの話を奏上すると、世尊自身が話されるのと同じで正しいと太鼓判を押され、プラマハーヴァッガカッチャーヤナは非常に智慧のある学者だと称賛されました)。

註: 学習者は、たった一つの縁起の状態、ここでは、目でも耳でも鼻でも舌でも体でも心でも無明触から生じる受は、随眠、つまり以前から受に平伏し陶酔する習性を捨ててしまうことを遅らせると観察して見なければなりません。受を味わえば味わうほど随眠は塗り重ねられ、幸受は貪りの類の随眠の威力を増やし、苦受は怒りの類の随眠の威力を増うあし、不苦不幸受は痴随眠の威力を増やします。

 どのように随眠の力が増えるのか、すべての縁起の形態で知ることができます。つまり縁起式に有・生を作る習性が増えます。だから一つだけの縁起の状態でも、この経で述べている状態の受が、ここではその受の思い込みを意味する想という名の中に隠れているので、注意してください。





妄想障碍の消滅の縁起 

インダサーラ洞窟で
サッカパンハスッタ
長部マハーヴァッガ 10巻310頁255項

 「無苦でいらっしゃる猊下。天人、人間、阿修羅、ナーガ、群れになっているすべてのカンダッパは、罪業がなく、刑罰がなく、敵がなく、苦しめ合いがない人になりたいと願っているのに、罪業のない、刑罰のない、敵のない、苦しめ合いがない人として暮らせないように縛りつけている物は何ですか。猊下」。

 天人の統領である方。縛りつけている物は嫉妬と物惜しみですよ。

 「スガタ猊下。このことに関して私の疑問は消えました。世尊のご託宣を聞いたので、そのことについて誰かに訊かなければならないことはもうありません。無苦でいらっしゃる方。それでは嫉妬と物惜しみの根源は何で、何が集で、何が生むもので、何が発生源ですか。何があれば嫉妬と物惜しみがあり、何がなければ嫉妬と物惜しみがないのでしょうか。猊下」。

 天人の統領である方。愛している物と嫌っている物には根源であるチャンダ(満足)があります。チャンダがなければ愛している物も嫌っている物もありません。

 「無苦でいらっしゃる方。そのチャンダは何が根源で、何が集で、何が生むもので、何が発生源ですか。何があればチャンダがあり、何がなければチャンダがないのでしょうか。スガタ様」。

 天人の統領である方。チャンダはヴィタッカ(考えること)が根源で、ヴィタッカが集で、ヴィタッカが生むもので、ヴィタッカが発生源です。ヴィタッカがあればチャンダがあり、ヴィタッカがなければチャンダはありません。

 「無苦でいらっしゃる方。そのヴィタッカは何が根源で、何が集で、何が生むもので、何が発生源ですか。何があればヴィタッカがあり、何がなければヴィタッカがないのでしょうか。猊下」。

 天人の統領である方。ヴィタッカは妄想(迷執の想)が根源で、妄想が集で、妄想が生むもので、妄想が発生源です。妄想があればヴィタッカがあり、妄想がなければヴィタッカはありません。

 「無苦でいらっしゃる方。どのような実践をする比丘が妄想の消滅に至らせる実践項目を実践する人と呼ばれるのですか。猊下」。

 天人の統領である方。如行は当然喜びは二種類あると言います。味わうべき喜びが一つと味わうべきでない喜びが一つです。

 天人の統領である方。如行は当然憂いは二種類あると言います。味わうべき憂いが一つと味わうべきでない憂いが一つです。

 天人の統領である方。如行は当然捨は二種類あると言います。味わうべき捨が一つと味わうべきでない捨が一つです

 天人の統領である方。「如行は当然喜びは二種類、つまり味わうべき喜びが一つと味わうべきでない喜びが一つある」と言ったのは、私は何の理由に依存して言ったのでしょうか。

 天人の統領である方。二つの喜びのうち「この喜びを味わうとすべての悪であるダンマが当然発展し、すべての善のダンマが当然衰退する」と知っている喜び。このような状態のある喜びは、味わうべきでない喜びです。天人の統領である方。そのような喜びの中で「この喜びを味わうとすべての悪であるダンマが当然衰退し、すべての善のダンマが当然発展する」と知っている喜ぶ、このような状態のある喜びは、味わうべき喜びです。

 天人の統領である方。その二つの喜びのうち、どの喜びにヴィタッカもヴィチャーラもあり、どの喜びにヴィタッカもヴィチャーラもなくても、ヴィタッカもヴィチャーラがない喜びの方がヴィタッカもヴィチャーラもある喜びより緻密です。

 天人の統領である方。「如行は当然喜びは二種類あると言います。味わうべき喜びが一つと、味わうべきでない喜びが一つです」と言ったのは、この理由に依存して言いました。

 (この後、憂いと捨についても、喜びの場合の「私は何の理由に依存して言ったのでしょうか」以下と同じように話されています)。

 天人の統領である方。このような(述べたように喜びと憂いと捨を知る状態の)実践をする比丘を、妄想障碍の消滅に至らせる実践項目を実践する人と言います。




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