殺戮し合うことの縁起

カンマーサダンマニガマで
マハーニダーナスッタ
中部マハーヴァーラヴァッガ 10巻69頁59項

 アーナンダ。このような様相で、

 受に依存して欲が生じ、

 欲に依存して探求(註1)が生じ、

 探求に依存して獲得が生じ、

 獲得に依存して決定が生じ、

 決定に依存して満足による欲情が生じ、

 満足による欲情に依存して、平伏惑溺が生じ、

 平伏惑溺に依存して心を奪われることが生じ、

 心を奪われることに依存して吝嗇が生じ、

 吝嗇に依存して、惜しむことが生じ、

 惜しむことに依存して惜しむことから生じる話、つまり刃のない武器の使用、刃のある武器の使用、争い、奪い合い、「テメエ」「貴様」と乱暴な言葉を使うこと、告げ口と、あらゆる真実でない発言が生じ、様々な罪悪であるダンマが、このように一斉に生じ(ると言うことができ)ます。これは既に話した内容です。

註1: ここでの探求とは欲望での探求という意味で、明による探求、あるいは如実正智慧による探求ではありません。

 アーナンダ。これは、私が「各種の罪悪であるダンマ、つまり刃のない武器の使用、刃のある武器の使用、争い、奪い合い、「テメエ」「貴様」と乱暴な言葉を使うこと、告げ口をすること、そしてあらゆる嘘を言うことは、当然惜しむことから生じる問題によって揃って生じる」と述べておいたような詳細な説明を知らなければなりません。

 アーナンダ。どんな種類のどんな状態でも、誰にも惜しんで妨害することがなければ、惜しんで妨害することがない時は惜しんで妨害することがすべて消滅するので、各種の罪悪であるダンマ、つまり刃のない武器の使用、刃のある武器の使用、争い、奪い合い、「テメエ」「貴様」と乱暴な言葉を使うこと、告げ口をすること、そしてあらゆる真実でない発言が現れて、どこかに一斉に生じるでしょうか。

 「いいえ生じません。猊下」。

 アーナンダ。だからこれらの罪悪であるダンマ、つまり刃のない武器の使用、刃のある武器の使用、争い、奪い合い、「テメエ」「貴様」と乱暴な言葉を使うこと、告げ口をすること、そしてあらゆる嘘を言うことが揃って生じることの原因、発生源、集、縁は惜しんで妨害することです。

 アーナンダ。「吝嗇に依存して惜しんで妨害することがある」という言葉は、このようなのは私が述べた言葉です。アーナンダ。これは、私が「吝嗇に依存して、惜しんで妨害することがある」と述べておいたように詳細な説明を知らなければなりません。

 アーナンダ。どんな種類どんな状態でも、誰にも吝嗇がなければ、吝嗇がない時は吝嗇がすべて消滅するので、各種の罪悪であるダンマ、つまり刃のない武器の使用、刃のある武器の使用、争い、奪い合い、「テメエ」「貴様」と乱暴な言葉を使うこと、告げ口をすること、そしてあらゆる嘘を言うことがどこかに現れて、どこかに一斉に生じるでしょうか。

 「いいえ生じません。猊下」。

 アーナンダ。だからこの話しの原因、発生源、集、縁は吝嗇です。

 アーナンダ。「心を奪われることに依存して吝嗇がある」という言葉は、このようなのは私が述べた言葉です。アーナンダ。これは、私が「心を奪われることに依存して、吝嗇がある」と述べておいたように詳細な説明を知らなければなりません。

 アーナンダ。どんな種類どんな状態でも、誰も心を奪われなければ、心を奪われない時は心を奪われることが消滅するので、各種の罪悪であるダンマ、つまり刃のない武器の使用、刃のある武器の使用、争い、奪い合い、「テメエ」「貴様」と乱暴な言葉を使うこと、告げ口をすること、そしてあらゆる嘘を言うことがどこかに現れて、どこかに一斉に生じるでしょうか。

 「いいえ生じません。猊下」。

 アーナンダ。だからこの話の原因、発生源、集、縁は心を奪われることです。

 アーナンダ。「惑溺に依存して心を奪われることがある」という言葉は、このようなのは私が述べた言葉です。アーナンダ。これは、私が「惑溺に依存して、心を奪われることがある」と述べておいたように詳細な説明を知らなければなりません。

 アーナンダ。どんな種類でもどんな状態でも、誰にも惑溺がなければ、惑溺がない時は惑溺がすべて消滅するので、各種の罪悪であるダンマ、つまり刃のない武器の使用、刃のある武器の使用、争い、奪い合い、「テメエ」「貴様」と乱暴な言葉を使うこと、告げ口をすること、そしてあらゆる嘘言がどこかに現れて、どこかに一斉に生じるでしょうか。

 「いいえ生じません。猊下」。

 アーナンダ。だからこの話の原因、発生源、集、縁は惑溺です。

 アーナンダ。「満足による欲情に依存して、惑溺がある」という言葉は、このようなのは私が述べた言葉です。アーナンダ。これは、私が「満足による欲情に依存して、惑溺がある」と述べておいたように詳細な説明を知らなければなりません。

 アーナンダ。どんな種類でもどんな状態でも、誰にも満足による欲情がなければ、満足による欲情がない時は満足による欲情がすべて消滅するので、各種の罪悪であるダンマ、つまり刃のない武器の使用、刃のある武器の使用、争い、奪い合い、「テメエ」「貴様」と乱暴な言葉を使うこと、告げ口をすること、そしてあらゆる嘘言がどこかに現れて、どこかに一斉に生じるでしょうか。

 「いいえ生じません。猊下」。

 アーナンダ。だからこの話の原因、発生源、集、縁は満足による欲情です。

 アーナンダ。「願望に依存して満足による欲情がある」という言葉は、このようなのは私が述べた言葉です。アーナンダ。これは、私が「願望に依存して、満足による欲情がある」と述べておいたように詳細な説明を知らなければなりません。

 アーナンダ。どんな種類でもどんな状態でも、誰も願望がなければ、願望がない時は願望がすべて消滅するので、各種の罪悪であるダンマ、つまり刃のない武器の使用、刃のある武器の使用、争い、奪い合い、「テメエ」「貴様」と乱暴な言葉を使うこと、告げ口をすること、そしてあらゆる嘘言がどこかに現れて、どこかに一斉に生じるでしょうか。

 「いいえ生じません。猊下」。

 アーナンダ。だからこの話の原因、発生源、集、縁は願望です。

 アーナンダ。「手に入れることに依存して願望がある」という言葉は、このようなのは私が述べた言葉です。アーナンダ。これは、私が「手に入れることに依存して、願望がある」と述べておいたように詳細な説明を知らなければなりません。

 アーナンダ。どんな種類でもどんな状態でも、誰にも手に入れることがなければ、手に入れることがない時は手に入れることがすべて消滅するので、各種の罪悪であるダンマ、つまり刃のない武器の使用、刃のある武器の使用、争い、奪い合い、「テメエ」「貴様」と乱暴な言葉を使うこと、告げ口をすること、そしてあらゆる嘘言がどこかに現れて、どこかに一斉に生じるでしょうか。

 「いいえ生じません。猊下」。

 アーナンダ。だからこの話の原因、発生源、集、縁は手に入れることです。

 アーナンダ。「求めることに依存して獲得がある」という言葉は、このようなのは私が述べた言葉です。アーナンダ。これは、私が「求めることに依存して、獲得がある」と述べておいたように詳細な説明を知らなければなりません。

 アーナンダ。どんな種類でもどんな状態でも、誰にも求めることがなければ、求めることがない時は求めることがすべて消滅するので、各種の罪悪であるダンマ、つまり刃のない武器の使用、刃のある武器の使用、争い、奪い合い、「テメエ」「貴様」と乱暴な言葉を使うこと、告げ口をすること、そしてあらゆる嘘言がどこかに現れて、どこかに一斉に生じるでしょうか。

 「いいえ生じません。猊下」。

 アーナンダ。だからこの話の原因、発生源、集、縁は求めることです。

 アーナンダ。「欲望に依存して求めることがある」という言葉は、このようなのは私が述べた言葉です。アーナンダ。これは、私が「欲望に依存して、求めることがある」と述べておいたように詳細な説明を知らなければなりません。

 アーナンダ。どんな種類でもどんな状態でも、誰にも欲がなければ、欲がない時は欲がすべて消滅するので、各種の罪悪であるダンマ、つまり刃のない武器の使用、刃のある武器の使用、争い、奪い合い、「テメエ」「貴様」と乱暴な言葉を使うこと、告げ口をすること、そしてあらゆる嘘言がどこかに現れて、どこかに一斉に生じるでしょうか。

 「いいえ生じません。猊下」。

 アーナンダ。だからこの話の原因、発生源、集、縁は欲望です。

註: 学習者は、上の内容は「縁生、つまり縁起の状態がある。受から始まって欲、探求、獲得、愛着、欲情、惑溺、心を奪われること、吝嗇、惜しんで防ぐこと、そして惜しんで防ぐことから生じるいろんな話を生じさせる」と観察して見なければなりません。

 全部で十一種、それに結果である争いを合わせると十二種です。この縁起は、普通の縁起の一つで、受の所に入って欲を生じさせます。

 ここで取り上げて明らかにさせるのは、縁起という言葉の広い意味はどれくらいの範囲があるのか、あらゆる角度から学習者に理解させるためです。他のすべての形の縁起も同じように対比して見てください。

 最も重要なことは、この話は、仏教は紛争、分裂、殺戮から、戦争、世界大戦までの原因、発生源を、個人の分部でも、集団、世界の大きな社会でも、真実である心理学の面から明らかに指摘して見せていることです。





カラヴィヴァーダニローダの縁起

カラヴィヴァーダスッタ
小部スッタニパータ 25巻502頁418項

  (これらの文章は一行対一行の詩の形で訳されています。読む時は質問を読み終わってから答えを読み、そして両方を対比して見てください。編者)

(1)

  紛争分裂は何が原因であるのでしょうか。

  嘆き、悲しみ、吝嗇、傲慢、尊大、

  そして唆して分裂させることも

  何が原因で生じるのかお教え下さい


紛争分裂は愛する物が原因で生じ

嘆き、悲しみ、吝嗇、傲慢、尊大、

そして唆して分裂させることも同じです

(2)

  貪る人を世界に回遊させる原因である、

  一般人誰もが後生のために望む、

  希望と希望が叶うことは何が発生源でしょうか


この世界の愛する物は原因であるチャンダ(喜びによる満足)があり

それは貪る人を世界に輪廻させる原因です

希望と希望が叶うことはチャンダが原因で

それは一般人に後生のために望ませます

(3)

  この世界のチャンダは、何が発生源でしょうか

  あるいはいろんな決意、

  すべてサマナが話されている

  怒り、虚言、そして疑惑も含めて

  それらは何から生じるのでしょうか


世界で話されている喜びと悲しみ、

チャンダは当然、この二つに依存して生じます

すべての物質の衰退を見て、

世界の動物はいろんな決意をします

怒り、虚言、疑念も

喜び悲しみの二つがある時にあります

疑問があって知りたい人は、

サマナが話されているこれらを知るために

ニャーナ(智)に導くために学習すべきです

(4)

  喜びと悲しみは何が発生源でしょうか

  何がなければどちらもないのでしょうか

  衰退と発展を感じる時、

  その二つは何が発生源かお教え下さい


喜びと悲しみは触が発生源です

触がなければどちらもありません

衰退と発展を感じても、

私はあなたにこの触が発生源と言います。

(5)

  触はこの世界の何が発生源でしょうか

  支配している考えは何から発生するのでしょうか

  何がなければ自分という執着がないのでしょうか

  何がなければ触は触れないのでしょうか


触は名形に依存して当然この世界に生じます

支配しているすべての考えは望みが発生源としてあり

望みがなければ自分の物という執着はなく

ルーパダンマ(形の物)がなければ触が触れて生じません

(6)

  形がなくなるのはどのように個人を維持している時でしょうか

  幸福でも苦でも、どうしたら無くせるでしょうか

  それがないことをお教え下さい

  私の心はそれを知りたいと望んでいます


普通の想がない人

異常な想がない人

ニローダサマーパッティにいない人

想がない人でない(つまり無形禅定にいない)人

このような状況に自分を維持している人は形がありません

解脱を遅らせる物(つまり欲・慢・見)は発生源である想があるからです

(7)

  何を質問してもそれを説明してくださる

  また違う質問をさせていただきますのでお答えください

  世界の人の純潔を述べる智者たちは、

  ある人たちは純潔はこれだけと言い、

  また別の人たちはそれよりも最高に高い別の物と言います


ある人たちが純潔はこれだけと言い、

自分は学者だと言って世界の人の純潔を述べる

自分の教義を述べる別の人たちは、

「アヌパーディセサ(註1)」のレベルについて話すのに賢いです

その二派の人たちはまだ邪見に依存していると知っているムニーは

どちらも邪見に依存する習性があると熟慮して見ています

ムニーがそのように知れば解脱するので争いに至りません

哲学のある人でありその後二度と有と無に至りません

註1: ここでは「死後は一切何もない」と言う断見の話。

註: 学習者は、争いは解脱して阿羅漢にならないうちは、まったく無くすことはできないと観察して見なければなりません。パパンチャサンカーの発生源である想の基盤である形と無形があるので、まだ阿羅漢に到達していません。このパーリは非常に興味深い縁起の形で説かれています。





二人暮らしの縁起

祇園精舎で
相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻43頁66項

 プラミガジャーラが世尊に「猊下、どれほどの理由で比丘は二人暮らしの人と呼ばれるのですか。猊下」と質問しました。

 ミガジャーラさん。望ましい物、愛して欲しくなる物である、満足すべき目で見るすべての形、欲望の住処であり欲情の基盤である可愛い形があり、比丘がその形にうっとりして褒めちぎって平伏すれば、その形にうっとりして褒めちぎって平伏している比丘に当然ナンディ(喜び。満足)が生じます。ナンディがあれば当然強い欲情があり、強い欲情があれば当然心を奪われることがあります。

 ミガジャーラさん。陶酔の威力で心を奪われる比丘を、私は「二人暮らしの人」と呼びます。

 ミガジャーラさん。望ましい物、愛して欲しくなる物である、満足すべき耳で聞くすべての声、欲望の住処であり欲情の基盤である可愛い声があり比丘がその声にうっとりして褒めちぎって平伏すれば、その声にうっとりして褒めちぎって平伏している比丘に、当然ナンディが生じます。ナンディがあれば当然強い欲情があり、強い欲情があれば当然心を奪われることがあります。

 ミガジャーラさん。陶酔の威力で心を奪われる比丘を、私は「二人暮らしの人」と呼びます。

 ミガジャーラさん。望ましいもの、望ましい物、愛して欲しくなる物である、満足すべき鼻で嗅ぐすべての臭い、欲望の住処であり欲情の基盤である可愛い臭いがあり、比丘がその臭いにうっとりして褒めちぎって平伏すれば、その臭いにうっとりして褒めちぎって平伏している比丘に、当然ナンディ(歓び)が生じます。ナンディがあれば当然強い欲情があり、強い欲情があれば当然心を奪われることがあります。

 ミガジャーラさん。陶酔の威力で心を奪われる比丘を、私は「二人暮らしの人」と呼びます。

 ミガジャーラさん。望ましい物、愛して欲しくなる物である、満足すべき舌で知るすべての味、欲望の住処であり欲情の基盤である可愛い味があり、比丘がその味にうっとりして褒めちぎって平伏すれば、その味にうっとりして褒めちぎって平伏している比丘に、当然ナンディが生じます。ナンディがあれば当然強い欲情があり、強い欲情があれば当然心を奪われることがあります。

 ミガジャーラさん。陶酔の威力で心を奪われる比丘を、私は「二人暮らしの人」と呼びます。

 ミガジャーラさん。望ましい物、愛して欲しくなる物である、満足すべき体で感じるすべての接触、欲望の住処であり欲情の基盤である可愛い接触があり、比丘がその接触にうっとりして褒めちぎって平伏すれば、その形にうっとりして褒めちぎって平伏している比丘に、当然ナンディが生じます。ナンディがあれば当然強い欲情があり、強い欲情があれば当然心を奪われることがあります。

 ミガジャーラさん。陶酔の威力で心を奪われる比丘を、私は「二人暮らしの人」と呼びます。

 ミガジャーラさん。望ましい物、愛して欲しくなる物である、満足すべき心で知るすべての想念、欲望の住処であり欲情の基盤である可愛い想念があり、比丘がその考えにうっとりして褒めちぎって平伏すれば、その考えにうっとりして褒めちぎって平伏している比丘に、当然ナンディ(歓び)が生じます。ナンディがあれば当然強い欲情があり、強い欲情があれば当然心を奪われることがあります。

 ミガジャーラさん。陶酔の威力で心を奪われる比丘を、私は「二人暮らしの人」と呼びます。

 ミガジャーラさん。このような暮らしをする比丘は、静寂な森や密林の中の家に隠れ住んでも妨害する音が少なく、ガタガタした騒音がなく、人肌から吹く風がなく、人間の隠れ家としてこのように遠離にふさわしい場所でも、それでもその比丘を私は、二人暮らしの人と呼びます。

 それはなぜでしょか。それは、その比丘が捨てられない欲望がその比丘の伴侶なので、私はその比丘を二人暮らしの人と呼びます。

註: 学習者は、このブッダの言葉はヒト語とタンマ語の意味の違いを説明していると観察して見なければなりません。タンマ語で「二人暮らし」と言うのは今感情に生じている欲望を意味し、心の中まで入っているので、ヒト語の「二人暮らし」より堅固な伴侶です。





一人暮らしの縁起

祇園精舎で
相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻43頁67項

 プラミガジャーラが世尊に「猊下、どれほどの理由で比丘は一人暮らしの人と呼ばれるのですか。猊下」と質問しました。

 ミガジャーラさん。望ましい物、愛して欲しくなる物である、満足すべき目で見るすべての形、欲望の住処であり欲情の基盤である可愛い形があっても、比丘がその形にうっとりせず、褒めちぎって平伏しなければ、その形にうっとりせず、褒めちぎって平伏しない比丘のナンディ(喜び。満足)は当然消滅し、ナンディがなければ当然強い欲情がなく、強い欲情がなければ当然心を奪われることもありません。

 ミガジャーラさん。陶酔の威力によって心を奪われない比丘を、私は「一人暮らしの人」と呼びます。

 ミガジャーラさん。望ましい物、愛して欲しくなる物である、満足すべき耳で聞くすべての声、欲望の住処であり欲情の基盤である可愛い声があっても、比丘がその声にうっとりせず、褒めちぎって平伏しなければ、その形にうっとりせず褒めちぎって平伏しない比丘のナンディ(歓び)は当然消滅し、ナンディがなければ当然強い欲情がなく、強い欲情がなければ当然心を奪われることもありません。

 ミガジャーラさん。陶酔の威力によって心を奪われない比丘を、私は「一人暮らしの人」と呼びます。

 ミガジャーラさん。望ましい物、愛して欲しくなる物である、満足すべき鼻で嗅ぐすべての臭い、欲望の住処であり欲情の基盤である可愛い臭いがあっても、比丘がその臭いにうっとりせず、褒めちぎって平伏しなければ、その臭いにうっとりせず褒めちぎって平伏しない比丘のナンディ(歓び。満足)は当然消滅し、ナンディがなければ当然強い欲情がなく、強い欲情がなければ当然心を奪われることもありません。

 ミガジャーラさん。陶酔の威力によって心を奪われない比丘を、私は「一人暮らしの人」と呼びます。

 ミガジャーラさん。望ましい物、愛して欲しくなる物である、満足すべき舌で味わうすべての味、欲望の住処であり欲情の基盤である可愛い味があっても、比丘がその味にうっとりせず、褒めちぎって平伏しなければ、その味にうっとりせず、褒めちぎって平伏していない比丘の、ナンディは当然消滅し、ナンディがなければ当然強い欲情がなく、強い欲情がなければ、当然心を奪われることもありません。ミガジャーラさん。陶酔の威力によって心を奪われない比丘を、私は「一人暮らしの人」と呼びます。

 ミガジャーラさん。望ましい物、愛して欲しくなる物である、満足すべき体で感じるすべての接触、欲望の住処であり欲情の基盤である可愛い接触があっても、比丘がその接触にうっとりせず、褒めちぎって平伏しなければ、その形にうっとりせず、褒めちぎって平伏していない比丘のナンディは当然消滅し、ナンディがなければ当然強い欲情がなく、強い欲情がなければ、当然心を奪われることもありません。

 ミガジャーラさん。陶酔の威力によって心を奪われない丘を、私は「一人暮らしの人」と呼びます。

 ミガジャーラさん。望ましい物、愛して欲しくなる物である、満足すべき心で知るすべての想念、欲望の住処であり欲情の基盤である可愛い想念があり、比丘がその想念にうっとりせず、褒めちぎって平伏しなければ、その形にうっとりせず褒めちぎって平伏していない比丘のナンディは当然消滅し、ナンディがなければ当然強い欲情はなく、強い欲情がなければ当然心を奪われることもありません。

 ミガジャーラさん。陶酔の威力によって心を奪われない比丘を、私は「一人暮らしの人」と呼びます。

 ミガジャーラさん。このように暮らす比丘は、至る所に比丘や比丘尼や清信士、清信女、王や王の重臣や異教の教祖や教祖の弟子で溢れている町に住んでいても、それでもその比丘を私は、一人暮らしの人と呼びます。それはなぜでしょか。それは、その比丘の伴侶である欲望、その欲望をその比丘は捨ててしまったので、私はその比丘を、一人暮らしの人と呼びます。




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