問題130 : 「俺、俺のもの」の根拠

質問 : 彼は先生のことを、「俺、俺のもの」という感覚とは何かを、説明して明らかにしていないと非難しています。これには何と言いますか。

答 : これは彼が勝手に言っています。私は詳細以上に詳細に、明瞭以上に、「俺、俺のもの」はマヤカシで、欲望から生じた取の威力による感覚でしかないと書いています。欲望とは強烈に求める気持ちで、そしてその欲望が、欲しがっている人である「自分」という考えを作り出します。この説明はたくさんあり、そして多くの講義の中でハッキリ、明らかになっています。

私がタイ語で「俺、俺のもの」と言うのは、アハンカーラ(我慢。俺)・ママンカーラ(我所有。俺のもの)、マーナヌサヤ(慢隋眠)のことです。だから「俺、俺のもの」と呼ぶものは何か、という理解が生じるように、最高の努力をして来たと主張させていただきます。勉強しなければ知ることができず、知らないから間違っているとか、意味がないとか、規定がないと愚かに非難します。こういうのは言わない方が良いです。さて、他に何かありますか。

 

問題131 : 俺、俺のものとは、パーリ語のアハンカーラ・ママンカーラ・マーナヌサヤ

質問 : 彼は先生のことを、常識で「俺、俺のもの」の話をする。そして論理に弱く、おまけに真実と矛盾する。だから聖人は俺が生じることが少なく、どんどん減ってまったく生じない、と言うことになる、と非難しています。これには何と言われますか。

答 : 「俺、俺のもの」の話を、常識で話すことはできません。欲望、取、界、生を説明する教えで話さなければなりません。特に縁起の教えです。それには、経典と自分の心で見ることができるタンマの、二つに受け入れる基礎があり、そして初等の聖人には、減少して行って、最後にはまったく無くなる自分があります。最高の聖人は、アハンカーラ・ママンカーラ・マーナヌサヤを厳格に断たなければなりません。まだこのように主張させていただきます。さて次。

 

問題132 : 「俺、俺のもの」を厳格に断つのは阿羅漢だけ

質問 : 彼は、心から「俺、俺のもの」を厳格に捨てれば阿羅漢だ、と先生が言っているが、本当は「俺、俺のもの」を捨てたのはソーダーバン(預流者)でしかない、と先生を非難しています。これには何と言いますか。

答 : それは、有身見(体を自分のものと執着すること)を我語取(自分の考えに執着すること)と同一と見る誤解です。有身見を捨てても、まだ我語取を全部捨てていません。本当の我語取がどんなものかを理解すれば、「俺、俺のもの」を完全に捨てることは、我語取をすべて捨てることであり、どんな種類の取も残らないことが分かります。我語取をすっかり捨て去るので、ソーダーバン(預流者)だけでなく、当然完璧な阿羅漢です。

 「俺、俺のもの」を厳格に捨てれば、阿羅漢レベルで、我語取とアハンカーラ・ママンカーラ・マーナヌサヤをすっかり捨て去ることであり、有身見を捨てただけのソーダーバン(預流者)ではないと主張させていただきます。そして「有身見と我語取は同じ」という間違った説明を止めてしまい、我語取には幾つものレベルがあるとしてください。

この間違いがいつどこで生じたかは知りませんが、三蔵の小部に、このように矛盾する形で書かれています。私たちは、経典にあるからと言って信じてはいけないという、カーラーマ経の教えを使って、正しく掌握し直さなければなりません。一般的な大きな教えと矛盾したら、理解を改めなければなりません。

「スッテー オーサーレータッパン ヴィンイェー スンタスセータッパン」と言うような、どこにもある一般の教えに反しないようにしてください。それで十分です。だから「有身見と我語取は同じ」と説明することは、仏教の一般の教えと矛盾します。さて、他に何かありますか。

 

問題133 : 縁起の生は、いつでも取から生じる

質問 : 彼は、先生が非常に重要な教えである縁起の話を、「生とは、取が生まれること」と、間違って見るように歪曲したと非難しています。この真実はどうですか。

答 : 「生まれるとは取が生まれること」、それが深遠で重要で、非凡な教えです。母親の腹から生まれることなら普通の話です。しかし母親の腹から生まれることも本当にあります。生の一種で、本当にある、母親の腹から生まれることです。しかしこれには猛毒はありません。何も毒はありません。取によって、煩悩によって生れることには、猛毒があります。

取による生を支配できれば、母親の腹から生まれる生も支配できるので、何も問題は残りません。だからどうか、自分という取が生まれる意味の「生まれること」に興味を持ってください。私たちに利益を与えようと目指した、縁起の教えの結果を受け取り、利益があります。さて次。

 

問題134 :取は生、と教える

質問 : 彼は先生が、「取とは生」と教えていると非難しています。これはどうですか。

答 : これはなぜ、どこで教えたか、どの本で話しているか明示しないのですか。私は、取は我語取の形で生じると、つまり「俺、俺のもの」という感覚が生じると言っています。この取は界を生じさせ、つまり「俺、俺のもの」がある完璧な生を生じさせます。界も完璧に自分があるタイプの生を生じさせます。

大雑把な言い方をすれば、取と言うことができます。特に我語取は、自分が生まれることである生です。しかし細かく分類して明解に言えば、我語取が界を生じさせ、界が生を生じさせると言わなければなりません。それは生という言葉と同じ完璧な自分です。

 「取は生」と言うことがあれば、それは一まとめにした言い方です。そしてかつてこのように言ったことがあるかどうか、思い出せません。しかし仮に、本当にこのように言ったことがあったとすれば、どうぞこの場合は、まとめて言ったとしてください。

 まとめて言うのでなければ、つまり順に話すなら、取が界を生じさせ、界が生を生じさせると言わなければなりません。生は生で、界は界で、取は取です。さて、他に何がありますか。

 

問題135 : 特に我語取を強調する

質問 : 彼は、先生は四つの取の意味の、特に我語取だけを選んで説明する。それは「俺、俺のもの」の話がお気に入りだからで、残りの他の取は捨ててしまうと先生を非難しています。これには何と言いますか。

答 : 私は我語取の話を非常に強調し、非常によく話し、興味を持つようにしつこくお願いします。なぜなら我語取を根絶できれば、他の取は、自然に消滅するからです。興味を持てば、時間を無駄にする、あるいは遅らせる必要がありません。我語取に興味を持って、そして絶滅させてしまえば、すべての取は全部絶滅してしまいます。欲取(欲情への執着)、見取(見解への執着)、戒禁取(戒や儀式への執着)は、我語取に基礎があります。

 「他の教義、他のディアラティーは、初めの三つの取、つまり欲取、見取、戒禁取だけしか語らず、我語取については語らない。しかしこのディアラティーは、我語取について語り、そして厳しく我語取を攻撃するように言う」という、ブッダの言葉があります。

 仏教は、他のディアラティーが言及することがない我語取を非常に強調しています。だから私が特に我語取の話を重視するのは、この利益のためで、それが最高の近道です。この取を破壊したいと望めば、根と幹を同時に破壊するように、他の取も同時に破壊され、そして一族郎党は自然に消滅します。こういうことなので、我語取を非常に強調します。さて、他に何かありますか。

 

問題136 : 執着している死と、執着していない死

質問 : 彼は、先生のヒト語タンマ語の「死」は狭い説明で、五種類あるブッダのタンマ語の死、つまり世俗死、反復死、刹那死、正断死、生滅死のように緻密で深遠でないと非難しています。

答 : 私が興味あるのは、はっきりと見える死だけで、アビダンマの教えの五種類のように、複雑で面倒な分類をして時間を無駄にしません。それは時間の無駄だと主張させていただきます。今言っている死は体の死を意味するので、その死を自分の死として執着しなければ、苦はありません。

 煩悩欲望によって生じた自分は、煩悩欲望が消滅した時に死にます。それがタンマ語の死で、死人を棺に入れるのは、ヒト語の死です。ヒト語の死は、タンマ語の死次第です。ヒト語の死が苦になるのは、まだタンマ語の死がないから、つまり煩悩欲望を絶滅させられないからです。

時間を無駄にしないで目的に直行するために、必要のないことをたくさん話す必要はありません。ヒト語の死は死んで棺に入り、タンマ語の死は、自分という取が滅すこと。これで十分です。それらの膨れ上がった文字に夢中になって、時間を無駄にしないでください。みなさんに、このように主張します。さて、他にありますか。全部話してしまいましょう。

 

問題137 : アビダンマ(論蔵)を学んだのかどうか

質問 : 彼が、先生はアビダンマを学んだことがなく、学んだのはヴィナヤ(律)とスッタ(経)だけだと非難しています。これの真実はどうなっていますか。

答 : これは前に話しました。本当のアビダンマ(無上のタンマ)はスッタ(経蔵)にあります。本物の滅苦の話は経蔵にあります。アビダンマ(論蔵)の説明は、滅苦の実践をする人にとって、膨れ上がった話です。私は膨れ上がったアビダンマで時間を無駄にしたくありません。

私には本当のアビダンマ、つまりブッダが、最高のタンマでありローグッタラタム(世俗を脱すタンマ)であると言った、空の話、無我の話があります。空に関するタンマはどれもロークッタラタムであり、アビダンマなので、これで十分です。膨張したアビダンマで時間を無駄にし、そして仏教の滅苦のための実践をしないで、無駄に死ぬ必要はありません。

 アビダンマを勉強していないという非難は、事実ではありません。私は膨れ上がっていないアビダンマだけを選んで勉強しています。ヴィナヤとスッタを学ぶのは当然で、学ばなければなりません。そしてスッタ(経)は、滅苦だけで十分です。

論蔵、あるいは論蔵から溢れだしたアビダンマは、海に捨ててしまってもいいアビダンマですと、ここでもう一度、繰り返させていただきます。細々したのも一緒に捨ててしまっても、この世界は、滅苦に関して何も欠けません。本当に滅苦ができる経蔵の中の重要な教えは、海に捨てないでください。海に捨ててはいけません。ほんの一部でもいけません。このように主張させていただきます。

 さらに、問題を審判するためのマハーパテーサ(四大法経)では、「スッテー オーサテータッパン ヴィナヤ スンタッセータッパン」と言っているだけで、アビダンマという言葉について何も言及していません。これは、後の時代に生れて問題になる、アビダンマを審判するためです。

 

問題138 : 話して陶酔させ、仲間にする

質問 : 彼は、先生は話が上手で、聞き手を陶酔させて迷わせ、外皮レベルのタンマを普及させる戦力にすると、先生を非難しています。これには何と言いますか。

答 : 話が上手いか上手くないかは、聞く人の判断にお任せします。聞く人が陶酔するなら、きっと聞く人は愚かな人で、知性のある人は、多分陶酔しません。それに迷って間違ったタンマを布教する戦力として仲間入りしません。

  私は間違ったタンマ、あるいは浅い外皮レベルのタンマを広めるつもりはないと主張させていただきます。いつでも、深遠なタンマを浅い方法で、簡単に理解できるものにして広める努力をしています。

 だから、テープに録音されているものも、本やいろんな書物に印刷されたものも、前からある講義の言葉を勉強してください。どこが浅くて外皮レベルのタンマか、そして講義のどこが聞く人を陶酔させて騙すもの、あるいは外側のタンマを広める仲間にするか、調べてみてください。

 これは自分で勝手に言っています。私は、「そうする意図はありません」と言う権利があります。話が上手いか上手くないかは、主張できません。主張できるのは、私は精いっぱい、本物で正しい、利益のあるタンマを、理解できるように話す努力をしていることだけです。

 どうぞみなさん、私の主張はこのように誠意がある、このように努力がある、このような望みがある、プッタタートという名にふさわしく、いつでもブッダに仕える純粋な意図があると、知ってください。他に何かありますか。

 

問題139 : パヤーシ王のように間違った見解

質問 : 彼は、先生は「死んでまた生まれる魂はない」という見方をする、パヤーシ王のように間違った見解だと非難しています。これに何と言いますか。

答 : 死んでまた生まれる魂があると信じるなら、それは他のディアラティーです。死んでまた生まれる自分があると主張する人は、常見(霊魂不滅という見解)であり、他のディアラティーであると、たくさんの経にハッキリと現れています。パヤーシ王は、プン プラスード氏のように物質面しか見ない人だったので、死んで生まれる魂はないと見ました。

彼は物質面しか見ないで、それで死んで生まれる魂はないと言ったパヤーシ王のようだと、勝手に言います。仏教も自分はない、その種の魂はない、生まれる自分はないと主張しています。なぜならそれは常見だからです。

 仏教は、死んで生まれる自分ではない「魂=識」と呼ぶものがあると信じます。死んで生まれる自分である魂があるという教えは、ブッダが生まれる以前からあった教えで、ブッダは他のディアラティーと同じことを繰り返す必要はありませんでした。

 ブッダにはブッダの無我の教えがあり、形、受、想、行、識は自分ではなく、自分にはなれません。輪廻の原因は無明、欲望、取で、この原因が残っていれば、心は消滅することができないので、輪廻になります。

 私も常見のような、死んで生まれる自分であるものはないと主張します。そして断見である「何もない」という主張もしません。作りだす原因があれば存在し、変化し、原因が無くなれば作り出して変化することはないという、真ん中にいます。

 存在しているものも、変化しているものも自分ではなく、自分という意味はありません。これが仏教の教えの正しさです。そして物質面しか見ないパヤーシ王の見解を繰り返しません。魂は触−受−欲望−自分という取を生じさせる出発点でしかありません。さて他に何かありますか。

 

問題140 : 科学のようにタンマを説明する

質問 : 彼は先生のことを、三蔵の内容を、発展した科学の時代の人の見解に合わせて説明する努力をしていると非難しています。これには何と言われますか。

答 : 私は、科学が発展した時代の人が考え、感じているような、発展した科学の知識を有益に使いたいと思います。なぜなら仏教は科学であり、哲学ではないからです。哲学は仮定の話で、観察する事実は必要なく、何かを仮定し、そして理論を探して取り囲み、これは真実だと言い、みなさん受け入れて実践してくださいと言います。こういうのが哲学です。仏教はこうではありません。

 仏教は科学で、心の問題でも科学なので、仮定に依存せず、本物に依存して本物を取り上げて来て見ます。たとえば苦も心の話も、何の話でも、本物を持ってきて、そして、真実を見るヴィパッサナーの力のある集中した心で見なければなりません。仏教はこのように科学です。仏教は哲学だと言う集団の人たちにつられて、迷って寝言を言わないでください。それは西洋人が良く調べもせずに言うことです。

 西洋の哲学者である研究者は、仏教には神様がいないので、仏教は宗教ではなく、Religion ではなく、ただの哲学、Philosophy だと説明しています。私たちタイ人も良く調べないで一緒に愚かになり、仏教を哲学にしてしまいました。哲学であり得ない仏教、あり得るのは科学でしかない仏教の真実に反します。

しかしこの仏教を、哲学としてくどくどと話すこともできるので、西洋人が書いたテキストに、「仏教の哲学」という名前があります。こういうのは多いです。これは勝手に言っています。そして哲学という言葉の原理にも反します。仏教は仮説を立てて理論で包囲しません。こういう手法は、全部捨ててしまいます。

 科学的な手法では、見ることの中に苦が現れなければなりません。ここで言う「見る」とは、智慧で、ヴィパッサナーで、集中した心で見ることです。見るだけで、どんな理論も介入させず、理屈で考えず、前からある、あるいは前から信じている知識に導かれて考えません。これが科学の形です。アビダンマとヴィパッサナーを噛み合わせて学ぶのは良く注意してください。アビダンマの考えを導いていくだけです。

 現代人が科学で繁栄していることが事実なら、彼らが簡単に、そしてほんの少しの誤りもなく仏教を理解するために、非常に大きな利益があるので、私は、仏教の真実と一致する説明をする努力をしていると、つまり科学であり、哲学ではないと主張させていただきます。

 現代の世界の人が、科学で発展すれば非常に良く、仏教を早く簡単に理解することができます。どうかそうなってください。みなさん、仏教を学んで理解するため、仏教を全世界の役に立てるために、科学の原則と、科学者と手を組んでください。真実はこのようです。さて、何かあれば話します。

 

問題141 : 三蔵のヒト語、タンマ語

質問 : ヒト語タンマ語を認めるのは、三蔵を直接学んだことがない人だけだと、先生を非難しています。この真実はどうですか。

答 : 私はこういう原則に依拠する必要がなく、たとえばヒト語では、「ブッダは亡くなって火葬された」と言い、タンマ語では「ブッダは今でもいる」と言うというような、簡単に見える教えに依拠します。ヒト語では地獄は地下にあり、極楽は空の上にありますが、タンマ語では、地獄も極楽も人の六根(六処)にあります。

 ヒト語とタンマ語が同じだったことがあるかどうか、まったく別の道を歩いていると、観察して見てください。このような二種類の言葉の使い分けは、教育のある人は使い分けることができます。直接三蔵を学んだことがある人は、タンマ語を簡単に、たくさん使えるようになります。三蔵の重要な内容は、タンマ語を使って話しているからです。

 ヒト語は、簡単で浅い当たり前の話、意味を解釈する必要のない話をするためで、一方タンマ語で話す深いレベルの話は、いつでも意味を解釈しなければなりません。

 ヒト語を基準にすると縁起は一つの形の説明になり、タンマ語を基準すれば、また別の形の説明になり、全然違います。ヒト語で縁起を説明するのは、普通の人に対して道徳面の利益があり、徳や罪を捉える自分があります。ヒト語の縁起は道徳面の利益がありますが、第一義諦の面では使い物になりません。

 タンマ語で縁起を説明した時だけ、第一義諦の高い利益があります。利益とは、自分、徳、罪の意味を抜き取ることができ、そして聖果である涅槃に到達することです。三蔵のヒト語とタンマ語の使い方について、このように主張させていただきます。さて、他に何か言うことがありますか。

 

問題142 : 縁起のすべての言葉を説明しない

質問 : 彼は先生が、縁起の言葉、一つ一つについてタンマ語で説明することに関心がなく、生や死などを選んで説明していると非難しています。これには何と言いますか。

答 : 率直に言って、言葉はハッキリしていて、解釈する必要はありません。それ以上説明する必要はありません。しかし意味が曖昧でヒト語と混同するタンマ語、たとえば「生」などは、私も特に関心を持って、明解に説明します。全部の言葉を分かりやすく説明する必要はありません。明白な言葉は、何も口うるさく説明する必要はありません。

はっきりしない、曖昧で、誤解すると害がある言葉は、細かく説明して明白にし、タンマ語の意味を理解させなければなりません。縁起のそれぞれの言葉は、意味や重さが同じでないので、いくつかの言葉は、タンマ語を非常に強調しなければなりません。

 いずれにしても、今教えられていることは正しくありません。たとえば「触」という言葉を、目が形に触れることを触と説明するのは、縁起の教えでは間違っています。ヒト語で正しいだけです。子供のホームレスでも、目が形に触れれば触だと言うことができます。これは低級すぎるヒト語です。

 タンマ語なら、目が形に関わると眼識が生じ、三つのタンマ、つまり目と形と眼識が接触することを触と言うと、ブッダが言った教えにしなければなりません。タンマ語の縁起の正しい触は、三つがあります。つまり目、形、眼識が接触することを触と言います。

 しかし子供のホームレスの言葉では、目が形に触れることを触と言います。それは仏教の教えでは正しくありません。触という言葉を例に、この言葉でさえタンマ語で正しく説明しなければならないということを、つまり触とは何かという奥深い自然の真実をお見せしました。

 そしてまだ他に、愚かな触、賢い触、愚かな受、賢い受、愚かな欲、賢い欲があります。そして愚かな欲から取が生まれ、界が生じ、タンマ語の隠された意味がある「生」が生じます。

 だから私は、どの言葉を説明しなければならないかという必要によって、どう説明しなければならないかという理由によって、説明しなければなりません。そうすればブッダの望みどおりの正しい本物の知識を得ることができます。これが、どうしてたくさん説明している言葉と、少し説明している言葉があるのか、ということの真実です。

あるいはまったく説明しない言葉もあります。たとえば目、耳、鼻、舌、体、心などは、ヒト語でもタンマ語でも、みんな知っているので、説明する必要はありません。話はこのようなので、説明は同じでなく、たくさん説明する言葉もあれば、少ししか説明しない言葉もあります。このように理解してください。さて、他に何かありますか。

 

問題143 : 爬虫類の生

質問 : 彼は先生が、生という言葉の説明を、自分という感覚が生まれることと説明する時、自分を鳥や爬虫類と感じることの説明はどうするのかと、先生を非難しています。

答 : 自分という無明による感覚から生じる「生」は、タンマ語の「生」であり、抽象面の「生」です。鳥や爬虫類の「自分」について話せば、鳥や爬虫類は人ほど愚かでないので、自分という感覚がなく、人のように強く「自分」と考えません。良く見てください。自分がないので、人のような苦はありません。だから同じ教えを使う必要はありません。

 鳥や爬虫類は、自分と執着して、そのような「生」が生じることがないので、あるのは母親の腹から、あるいは鳥や爬虫類の卵から生まれることしかないので、同じレベルで話すことはできません。真実はこのようです。さて、他に何かありますか。

 

問題144 : ヒト語の「生」は三つから成る

質問 : 彼は、ヒト語の生は母親の腹から生まれることですが、しかし彼は、タンマ語の「生」は三つ、つまり月経があること、父と母が一緒に暮らすこと、カンダッパが腹へ入ることがであり、「俺、俺のもの」という心に生じる感覚だけではないと見ています。これは、真実はどうですか。

答 : ヒト語の「生」は母親の腹から生まれることです。三つの会合、つまり月経があること、両親が一緒にいること、、カンダッパが腹へ入ること、それはつまりヒト語の生です。しかしそれだけではまだ生と呼ばず、三全部そろって生き物が生まれれば、それを「生」と言います。生まれた時に「生」と言います。胎内にいる子は、まだ生とは言いません。むしろヒト語で言う「受胎」です。パーリ語の意味ではこうです。

 「生」「生まれる」とは、母親の腹から生まれ落ちた時に生と呼びます。そしてこれはヒト語の生で、タンマ語の生ではありません。誤解しています。煩悩欲望から「俺、俺のもの」が生まれれば、それがタンマ語の生で、ヒト語の生は、生殖が正しく成立し、そして子が生まれれば、ヒト語の生と言います。矛盾するものは何もありません。ヒト語の生は人の体を基準にし、タンマ語の生は人の心を基準とします。さて、他に何かありますか。

 

問題145 : 生の説明をして自分の見解を押しつける

質問 : 彼は、先生がタンマ語の「生」を説明する努力をするのは、タンマの説明を自分の見解と一致させる利益のためだけだと、非難しています。これには何と言われますか。

答 : これは、自分の見解と一致させるためにだけ説明して、得をしていると非難しています。私の見解はブッダの教えになるので、何か道具を探してやる必要も、賞賛して囲む必要もありません。ブッダの教えでは、二つの生があります。

 ヒト語の生は母親の腹から生まれること、そしてタンマ語の生は、私たちに欲望・取があればいつでも生まれます。タンマ語で生を語るのはタンマ語のためであり、変えたりねじ曲げたりして侵害する必要はありません。私の見解はブッダの教えになります。ブッダの教えで熟慮して真実を見、それでそういう見解になります。

 本当の自分の考えはなく、あるのはブッダの教えになっていく見解だけです。それは十分あるので、それ以上応援する必要はありません。これらの支援に頼る必要はありません。だから、タンマ語で生の説明をするのは、本当のタンマで正しくするためと主張させていただきます。彼が言っているように、自分の見解を応援するためではありません。さて、まだ何かありますか。

 

問題146 : ヒト語とタンマ語は矛盾しない

質問 : 今日最後の問題です。彼は「識が滅すから名形が滅す」というパーリ(ブッダの言葉)は、明らかな言葉なので、言葉の意味をそのまま把握できるので、好き勝手に歪曲するタンマ語で説明する必要はないと反論しています。先生はこれに何と言いますか。

答 : 何も歪曲しません。歪曲する必要がありません。識が滅して名形が滅し、識が生じて名形が生じます。はっきりしているので、歪曲する手伝いをしたくありません。しかし私は識の発生と滅亡を見ます。ヒト語の意味でもいいし、タンマ語の意味でもいいです。

 タンマ語の識が「生れる」のは、それが義務を行なっている時で、まだ義務を行なわなければ、生まれていないという意味です。たとえばこの目ですが、目が目の義務を行なった時目が生じ、目が働きを終われば目は消滅します。タンマ語ではこのように言います。

 しかしヒト語では目は既にあり、あるいはいつでも生じていて、生じたり滅したりしないと捉えています。これがどれくらい愚かか賢いか、同じ程度か、比較して見てください。

 一人は、目はいつでもあると言い、もう一人は、目は働きをする時に生じ、働きが終われば滅すと言います。つまりタンマ語では、私たちは常に目があるわけではなく、ヒト語ではいつでも目があると見なします。

 識も同じです。識が生じるのは、識が識の働きをする時で、識が識の働きをしない時、識は滅します。しかしヒト語では、私たちの識はいつでもあると見なします。彼らには、識がなければ私たちは死に、識が生じれば生まれるという、別の意味があります。これがヒト語の識の意味です。

常見(霊魂不滅の考え)の自分になるもので、このようです。だから良く勉強し、それぞれの言葉には二種類の意味があると発見するよう努めてください。特にこの、生まれて滅すものは誤解しやすいです。

 タンマ語の「生まれる」という言葉は、それが義務を行なっている時を意味し、それが働きをしない時は滅します。目、耳、鼻、舌、体、心、あるいはどこかの感覚は、働きがあれば、働いていれば、「生じた」と言い、働きが終われば、それは滅します。

 これがタンマ語の意味です。このように理解すれば、今あるような、ヒト語もタンマ語も知らない人の質問はありません。そしてヒト語とタンマ語に関して何も知らない人と話して、時間を無駄にするべきではありません。興味があって知りたければ、タンマ語はどのようか、ヒト語はどのようかを理解し、勉強して明らかにします。

 みなさん、ヒト語とタンマ語の使い方に興味を持ってください。そのパーリ経典の内容は、ヒト語だけで捉えるのと、タンマ語で正しく捉えるのとでは違ったものになります。利益があるのは、タンマ語で正しく捉えるからです。どの宗教の教典も同じです。仏教のも、キリスト教のも、どの教典も同じで、ヒト語とタンマ語で話されています。

ヒト語で話せば一つの話し方になり、タンマ語で話せばもう一つの話し方になり、すぐに矛盾が生じます。良く話して理解し合えなければ、ややこしい解釈の問題が生じ、何かの利益のために使えません。教典があまり役に立たないのは、タンマ語で意味を解釈することが少なく、あるいはできず、あるいは仕方が正しくなく、それで自分の中で明らかな、ヒト語の解釈だけで掌握するからです。

 

 いよいよ齢を揶揄する儀式も、これで終わりということです。今年のこの日を、泥を洗い落とす形で、問題に答えて理解し合う機会にしました。善意で投げられた泥でも、こちらの不注意で汚れた泥でも、あるいは泥が飛び散る場所に立っていたために偶然ついた泥でも、どんな種類の泥でも、すべて洗い落とさなければなりません。

 泥で汚れた人生は揶揄するべきなので、揶揄します。揶揄するのは泥を洗い落とすのと同じです。この齢を揶揄することを、泥を洗い落とすのと同じと捉えてください。ヒト語の泥は、投げつけられたら洗い、タンマ語の泥は誤った見解なので、正しい見解でタンマ語の泥を洗わなければなりません。

 泥が無くなれば問題がないので、快適に暮らせます。泥と呼ぶもの、つまり飛び散り、振りかかってくる愚かさや迷いによって、鬱陶しくも煩わしくもありません。みなさん全員が、私と一緒に泥を洗い落してください。みなさんにどんな泥があるか、急いで調べて、考えてみて、そして洗い落してしまってください。そうすれば清潔で、安楽で、正常になります。

 最初の朝の部から、私が何を話したか、復習して考えて見ます。齢を揶揄することについて、どう揶揄すると話したでしょうか。それにはいろんな方法があり、今年はたまたま泥を洗うことで齢を揶揄しました。つまり行為者の煩悩次第の、悪意による中傷、叱責、非難、罵倒などの形の問題に答えました。

 私はこの泥を洗い落とさなければならないからです。そして私は、洗って間違った見解を世界から無くして、正しい見解にするように努力しました。そうすれば功徳のある行動になります。

 この行事にご参加のみなさん、利益があるなら価値があると言います。私はみなさんに、何の利益も得られない、時間の浪費をさせません。そんなことをすれば、私は閻魔大王に責められます。今みなさんは何とか見合う利益があったので、この問題はありません。

 そして取り上げて回答し、共通の理解にし、そして正しい方法で進行して来たいろんな話には、どんな教えがあったか、どんな説明があったか、どんな項目があったか、細かな意味はどうだったかを記憶していってください。

 つまりみなさんは、何の利益もなく来ましたが、質疑応答や説明から、受け取るべき利益を受け取ったということです。それは抽象的な利益です。もう一方の物質から生じる利益は、たとえば二十四時間断食をするようなのは、きっと賢く、強くしたと思います。それも同様に涅槃の原因と縁です。

 心は自分で支配できなければなりません。でなければ非常に危険です。タンマの道で支配できない心は、鬼であり、焼き滅ぼす悪魔ですよ。私たちは何としてもも心を支配できなければなりません。鬼や悪魔にしないで、私たちの望みどおり、有益に使えるものであってください。

そうすれば私たちは人間に生まれたこと、そして仏教に出合ったことが無駄になりません。みなさんがこの利益を得られ、人間に生まれたこと、そして仏教に出合ったことが無駄にならないよう望みます。私の齢を揶揄する儀式に参加したことも、人間に生まれてきたこと、そして仏教に出合ったことを無駄にしないことです。

 お出でいただいた方にもう一度、贈り物をくださった方にもう一度お礼を申し上げます。そして受け入れに落ち度がありましたら、習慣に従ってお詫びします。みなさんが私に、閻魔大王に抗弁する理由を作ってくださったと主張します。もし彼が、価値に見あう利益もなく、人に時間を無駄にさせたと非難したら、みなさんは、何とか見合う利益があったと、みなさんの心に生じた感覚による証人です。

そうすれば損失とは言いません。損失は何もなく、無駄になったものは何もなく、良い時間になります。労力もお金も、無駄に使いません。少なくとも見合う利益を受け取るため、あるいは越える価値の、つまり儲けのある使い方をします。それはみなさんが、この知識をどれだけたくさん受け取ることができたかどうかに懸っています。

 この講義も、そろそろ終りの時刻になりましたので、齢を揶揄する儀式を、今日のところはこれで閉式します。みなさんが知識を受け取り、銘々の能力に応じて仏教の道で進歩するために、みなさん一人ひとりの仏教教団員であることの援けになることを望んで、講義を終わらせていただきます。これで今年の齢を揶揄する儀式を閉式させていただきます。 


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