5. 誤解者


悪意の人を負かして危険にする

チュラサッチャカスッタ
中部マッジマパンナーサ 12巻429頁398項

 アッギヴェサナさん。あなたはどう思いますか。「形(つまり体)は自分自身」とこのように言うには、あなたの威力で「形はこうなれ。こうなってはいけない」と、そのようにできるのですか。

 サッチャカアッギヴェサナは黙ってしまい、三度質問されて「そうではありません。ゴータマ様」と答えました。

 アッギヴェサナさん。良くお考えなさい。良く考えて言い直しなさい。あなたの後の言葉は、先の言葉と合わず、先の言葉は後の言葉と合いません。アッギヴェッサナさん。形は無常ですか、無常ではないですか。

 「無常です。ゴータマ様」。

 アッギヴェサナさん。無常な物は苦を感じさせますか、幸福ですか。

 「苦です、ゴータマ様」。

 無常で苦を感じさせるものは、当たり前に変化します。それを「自分の物、自分、自分自身」と、このように見るべきですか。

 「見るべきではありません」。

 アッギヴェサナさん。あなたはどう思いますか。このような事態の時、あなたが苦に襲われ、苦に至り、苦に沈んでいる時、あなたはその苦を「それは私の物。それは私。それは私の実体」と見ますか。

 「それは、そうではありません。ゴータマ様」。

 アッギヴェサナさん。心材を求める人が鋭い斧を持って心材を探しに森へ行き、その森で、まだ若くて内側に脇芽がない、真っ直ぐで柔らかい大きなバナナ(芭蕉)の木を見つけます。彼はそのバナナの木の根元を切り、先端を切り落とし、それから外皮を剥きますが、そこで外皮を剥いても辺材さえ見つからないのに、心材など見つかるはずがありません。

 (普通の)目がある人がそのバナナの木を見ると、絶妙の熟慮をして見ます。その人が絶妙の熟慮をして見れば、バナナの木は当然空っぽの物と分かり、心材がないと分かります。アッギヴェサナさん。バナナの木に心材があろうはずはありません。

 同じようにアッギヴェサナさん。私はあなたに何度も質問し、あなたの言葉をお浚いしていますが、あなたの言葉は空っぽで残らず溶けてしまいます。アッギヴェサナさん。あなたはヴェーサリー国の集まりで「集団を率いる人でも、自分で正しく悟った阿羅漢だと宣言している人でも、私が私の主義で反論すると恐怖で体が震え、脇から汗を流さないサマナ・バラモンを見たことがない。

 私が私の主義で反論すると心がない柱も震え、人間である動物は言うまでもない」と吹聴しました。しかし今、あなたの額から垂れた汗は衣を濡らし、床まで落ち、私の体に汗はありません。





教団員の中で怯んだことがない

ヴェーサリーの都郊外で
中部12巻146頁168項

 サーリプッタ。如行は八種類の社会の教団員、つまり王である教団員、バラモンである教団員、長者である教団員、サマナである教団員、四天王である教団員、トウ利天である教団員、悪魔である教団員、そして梵天である教団員、これら八種類の教団員の集会に行く四種類の勇気(註)があります。

 サーリプッタ。如行は王、あるいはバラモン、長者、サマナ、四天王、トウ利天、悪魔、あるいは梵天である教団員が何百といる中に行ったことがあり、集会に加わって交流し、会話し、当然そのことをよく憶えていています。

 そしてその集会で恐怖も戦慄も生じたことを思い出せません。思い出して見えなければ安全に至った人で、恐怖に至らない勇者です。

註: 四種類の勇敢さについては、第三章を参照してください。





どの教団員とも親しく交際できる

大般涅槃経
長部マハーヴァーラヴァッガ 10巻127頁99項

 アーナンダ。八種類の教団員社会は、王である教団員、バラモンである教団員、長者である教団員、サマナである教団員、四天王である教団員、トウ利天である教団員、悪魔である教団員、そして梵天である教団員です。

 アーナンダ。如行は王、あるいはバラモン、長者、サマナ、四天王、とう利天、悪魔、あるいは梵天である教団員が何百といる中に行ったことがあり、集会に加わって交流し、会話しました。私は当然そのことを、その時それらの人の肌や体と私の肌や体は同じで、その人たちの声は私の声と同じだったと良く憶えていています。更に私は彼らに説明し、解説のあるダンマでダンマの真実を説明し、受け入れて実践させ、続いて行動する勇気を生じさせ、受け取った実践の結果に満足させました。

 それらの教団員は、彼らに説いている私が誰か、つまり天人か人間か知らず、私が解説のあるダンマを説き終わると、すべての聴衆は私を知らないまま去って行き、彼らは「今行った人は誰だろう。天人か、それとも人間か」と疑念が生じるばかりでした。





ブッダが保証するダンマを否定する人に挑まれる

ラージャガハに近い異教の寺務所で
増支部チャトゥカニバータ 21巻38頁30項

 猊下が異教の修行者の施設を訪ねて、普通にある会話をされました。

 修行者のみなさん。この四つのダンマパダ(ダンマの足という意味)は素晴らしいと知られ、長くあると知られ、昔からあり、散らばらず、一度も散らばったことがなく、抜かれず、これからも抜かれず、識者であるサマナ・バラモンが反論しないと知られているダンマです。四つはどのようでしょうか。比丘のみなさん。四つとは

 貪らない(心で狙わない)こと、
 恨まない(悪意で考えない)こと、
 正しいサティ(いつでも正しく想い出す)、
 正しいサマーディ(心を常に正しく安定させる)です。

 修行者のみなさん。誰でも「私はダンマパダ、つまり貪らないことを否定し、代わりに貪りが多く、愛欲の欲貪が強いサマナ・バラモンを称賛すると規定します」と言う人がいれば、私はその人に「お出でなさい。あなたは明確に説明なさい。力を見せてもらいましょう」と挑戦します。修行者のみなさん。貪らないことを否定し、貪りが多く、すべての愛欲に強く欲情するサマナ・バラモンを称賛すること、それはあり得ません。

 修行者のみなさん。誰でも「私はダンマパダ、つまり恨まないことを否定し、代わりに恨む心があり、日常考える道具として悪意があるサマナ・バラモンを称賛すると規定します」と言う人がいれば、私はその人に「お出でなさい。あなたは明確に言い、説明なさい。威力を見せてもらいましょう」と挑戦します。修行者のみなさん。恨まないことを否定して、復讐心があり、日常考える道具として悪意があるサマナ・バラモンを称賛すること、それはあり得ません。

 修行者のみなさん。誰でも「私はダンマパダ、つまり正しいサティを否定し、代わりにサティに欠け、自覚に欠ける、サマナ・バラモンを称賛すると規定します」と言う人がいれば、私はその人に「お出でなさい。あなたは明確に言い、説明しなさい。威力を見せてもらいます」と挑戦します。修行者のみなさん。正しいサティを否定して、サティに欠け自覚に欠けるサマナ・バラモンを称賛すること、それはあり得ません。

 修行者のみなさん。誰でも「私はダンマパダ、つまり正しいサマーディを否定し、代わりに心がくるくる変わって一定しないサマナ・バラモンを称賛すると規定します」と言う人がいれば、私はその人に「お出でなさい。あなたは明確に言い、説明しなさい。威力を見せてもらいましょう」と挑戦します。修行者のみなさん。正しいサマーディを否定して、心がくるくる変わって安定しないサマナ・バラモンを称賛すること、それはあり得ません。

 修行者のみなさん。この四つのダンマパダを非難すべき、反論すべきと見る人は、現在それが原因で非難され、自分の四つの言葉で挑戦を受ける人です。四つとは何でしょうか。

 四つとは、貪りが多くすべての愛欲に欲情があるサマナ・バラモンは、それらのサマナ・バラモンを崇拝しなければなりません。恨む心があり、日常考える道具として悪意があるサマナ・バラモンは、それらのサマナ・バラモンを崇拝しなければなりません。

 サティに欠け自覚に欠けるサマナ・バラモンは、それらのサマナ・バラモンを崇拝しなければなりません。心がくるくる変わって一定しないサマナ・バラモンを称賛するサマナ・バラモンは、それらのサマナ・バラモンを崇拝しなければなりません。

 修行者のみなさん。無因論、無作用論、虚無論のヴァッサとバンニャという修行者も、このダンマパダを軽蔑すべきでない、反論すべきでないと見なしています。それはなぜでしょうか。それは悪いと悪口を言われ、嫌われるからです。





誰も反論できないように説いたダンマ

増支部マハーヴァーラヴァッガ 20巻225頁501項

 (反論する余地がある三つの教義、つまり幸不幸は過去のカンマだけが原因という教義、幸不幸は神様が生じさせるという教義、そして幸不幸は原因も縁もないという教義について話された後、次のように話されました)。

 比丘のみなさん。私が説いたダンマは誰も威嚇できない汚れのないダンマで、智者であるサマナ・バラモンの誰も貶す余地、反論する余地はありません。比丘のみなさん。そのダンマはどのようでしょうか。そのダンマは六つのダートゥ(界)、六つのパッサーヤタナ(触処)、十八のマノーパヴィチャーラ(意伺)、そして四つの聖諦です。

 比丘のみなさん。六つの界と私が言うのは、私は何に依存してでしょうか。私はこれらに、つまり土界・水界・火界・風界・空界・識界の六つある界に依存するからです。

 比丘のみなさん。六つの触処(刺激が生じる場所)と私が言うのは、何に依存して言うのでしょうか。私はこれらに、つまり目・耳・鼻・舌・体・心の六つがある触処に依存するからです。

 比丘のみなさん。十八のマノーパヴィチャーラ(心が遊ぶ所。意伺)と私が言うのは、何に依存して言うのでしょうか。私は、

 目で形を見ると、心は当然①喜びが生じる所であり、②憂いが生じる所であり、③捨が生じる所である形に遊びに行き、

 耳で声を聞くと、心は当然④喜びが生じる所であり、⑤憂いが生じる所であり、⑥捨が生じる所である声に遊びに行き、

 鼻で臭いを嗅ぐと、心は当然⑦喜びが生じる所であり、⑧憂いが生じる所であり、⑨捨が生じる所である臭いに遊びに行き、

 舌で味を味わうと、心は当然⑩喜びが生じる所であり、⑪憂いが生じる所であり、⑫捨が生じる所である味に遊びに行き、

 体で接触を感じると、心は当然⑬喜びが生じる所であり、⑭憂いが生じる所であり⑮捨が生じる所である接触に遊びに行き、

 心に生じた感情を感じると、心は当然⑯喜びが生じる所であり、⑰憂いが生じる所であり、⑱捨が生じる所である感情に遊びに行くからです。

 比丘のみなさん。私は何に依存して四つの聖諦と言うのでしょうか。それは、六つの界に依存して胎内に下りることが当然あり、胎内に下りれば名形と呼ぶ物が当然あり、名形が縁になって当然六処入があり、六処が縁になって当然触があり、触が縁になって当然受があります。比丘のみなさん。私は苦、苦の原因、苦の絶滅、苦の絶滅に至る道を、まだ受がある動物のために、このように規定しました。

 比丘のみなさん。苦に関わる聖諦はどのようでしょうか。生まれることは苦、老いは苦、死は苦、悲しみ・嘆き・体の苦、心の苦、そして心が乾くことは苦、愛していない物と会うのは苦、愛している物と離れるのは苦、何かを望んで叶わないのは苦、簡単に言えば、まだ執着のある五蘊は苦です。比丘のみなさん。これが苦についての聖諦です。

 苦の原因についての聖諦はどのようでしょうか。それは無明が縁で行があり、行が縁で識があり、識が縁で名形があり、名形が縁で六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で受があり、受が縁で欲望があり、欲望が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で、老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みが全部揃います。すべての苦の山はこのようにして生じます。比丘のみなさん。これが苦の原因についての聖諦です。

 比丘のみなさん。苦の消滅についての聖諦はどのようでしょうか。それは無明が残らず消滅することで行が消滅し、行が消滅すれば識が消滅し、識が消滅すれば名形が消滅し、名形が消滅すれば六処が消滅し、六処が消滅すれば触が消滅し、触が消滅すれば受が消滅し、受が消滅すれば欲望が消滅し、欲望が消滅すれば、取が消滅し、取が消滅すれば有が消滅し、有が消滅すれば生が消滅し、生が消滅すれば、老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みが消滅します。これが苦の消滅についての聖諦です。

 比丘のみなさん。苦の絶滅に至る実践項目である聖諦はどのようでしょうか。それは八項目から成る八正道で、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業(生活)、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。比丘のみなさん。これが苦の絶滅に至る実践項目である聖諦です。

 比丘のみなさん。私が説いたダンマは誰も威嚇できない汚れのないダンマで、智者であるサマナ・バラモンの誰も貶し反論する余地はないと言うのは、これらの項目に依存しているからです。





このダンマヴィナヤにはサマナがいると自ら主張し弟子にも主張させる

増支部チャトゥカニバータ 21巻323頁241項

 比丘のみなさん。このダンマヴィナヤには本当にサマナがいます。二番目のサマナも、このダンマヴィナヤにはいます。三番目のサマナもこのダンマヴィナヤにいます。四番目のサマナもこのダンマヴィナヤにいます。他の教義には他の教義のサマナはいません。比丘のみなさん。みなさんこのように正しく獅子吼を轟かせなさい。

 比丘のみなさん。(一番の)サマナはどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は三つのサンニョージャナ(結)がなくなって涅槃への流れに到達した最初の人で、落ちて普通になることはなく、将来確実に悟る人です。比丘のみなさん。これが(最初の)サマナです。

 比丘のみなさん。二番目のサマナはどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は三つのサンニョージャナ(結)がなくなって、そして貪りと怒りと愚かさが減ったので、この世界にもう一度だけ来て苦を終わらせることができます。比丘のみなさん。これが二番目のサマナです。

 比丘のみなさん。三番目のサマナはどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、初等の五つのサンニョージャナ(結)がなくなって(浄居天に)突然生れる人で、当然その界で円寂し当然その世界に戻りません。比丘のみなさん、これが三番目のサマナです。

 比丘のみなさん。四番目のサマナはどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は漏が絶滅したので漏を探すことができないチェトーヴィムッティ(心解脱)、パンニャーヴィムッティ(智慧解脱)を生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そして常にその中にいます。比丘のみなさん。これが四番目のサマナです。

 比丘のみなさん。一番のサマナもこのダンマヴィナヤの中にい、二番目のサマナもこのダンマヴィナヤの中に居、三番目のサマナもこのダンマヴィナヤの中に居、四番目のサマナもこのダンマヴィナヤの中に居ます。他の教義に他の教義のサマナはいません。比丘のみなさん。みなさんこのように正しく獅子吼を轟かせなさい。





ブッダが現れたから七覚支が現れた

祇園精舎で
相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻138頁505項

 比丘のみなさん。皇帝が現れることで七つの宝(註)が現れます。七つとは、宝である車輪、宝である象、宝である馬、宝である宝石、宝である女性、宝である長者、宝である大臣です。同じように比丘のみなさん。阿羅漢サンマーサンブッダである如行が現れたことで、七つの宝である七つの覚支が現れました。七つとは、七覚支のサティ、七覚支の択法、七覚支の精進、七覚支の喜悦、七覚支の軽安、七覚支のサマーディ、七覚支の捨です。

 比丘のみなさん。アラハンタサンマーサンブッダ(自力で大悟した阿羅漢正ブッダ)である如行が現れたので、このように七つの宝である七覚支が現れました。

註: 宝である象などは一番の喜びをもたらす良い物という意味で、七覚支に例えることができます。違うのは一つは世俗の物で、もう一つはダンマであるだけです。





尊敬されるために梵行をするのではない

増支部チャトゥカニバータ 21巻33頁25項

 比丘のみなさん。私がこの梵行をするのは、人を騙して信仰させるためでも、人を呼び集めて家来にするためでも、功徳である供物と称賛のためでも、教義の所有者の功徳のためでも、他の教義を倒すためでも、私がいろいろ素晴らしい人間だと大衆に理解させるためでもありません。

 比丘のみなさん。本当はこの梵行は慎むため、欲情を緩めるため、苦の絶滅のためにします。





梵行を盤石にするよう望まれる

パーサーディカスッタ
長部パーティバッカ 11巻139頁108項

 ジュンダさん。だからあなたは私が最高の智慧で説いたどのダンマも、みんなで集まって会合して、それらのダンマの要旨を要旨として、細部を細部として、良く調べて共通の理解にし、振る舞いや行動をこの梵行で素晴らしくし、永久に維持するべきです。

 そうすればその梵行は大衆の支援のためになり、大衆の幸福のためになり、世界を救うためになり、天人とすべての人間の利益、支援、幸福のためになります。

 ジュンダさん。私が最高の智慧で説いたすべてのダンマはどのようでしょうか。それは四念処、四正勤、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道です。

 ジュンダさん。私が最高の智慧で説いたダンマであるダンマのどれも、全員が集会して、会合して、そのダンマの要旨を要旨として、細部を細部として、良く調べて共通の理解にし、振る舞いをこの梵行で素晴らしくし、永久に維持するべきです。そうすればその梵行は大衆の支援のためになり、大衆の幸福のためになり、世界を救うためになり、天人とすべての人間の利益、支援、幸福のためになります。





梵行は功徳として供物はない

マハーサロパマスッタ・ラージャガハに近い鷲山にて
テーヴァダッタに
中部マッジマパンナーサ 12巻373頁352項

 比丘のみなさん。この梵行は功徳として供物がある訳ではありません。この梵行は功徳として戒が完璧になる訳ではありません。この梵行は功徳としてサマーディが完璧になる訳ではありません。この梵行は功徳としてニャーナダッサナ(知ること、見ること。智見)が完璧になる訳ではありません。

 比丘のみなさん。どのようにも悪化しないチェトーヴィムッティ(心解脱)があり、この梵行は、目指す利益であるチェトーヴィムッティがあり、チェトーヴィムッティが梵行の最後の結果です。





出家が無益にならない状態で梵行を規定した

セラスッタ
中部マッジマバンナーサ 13巻555頁609項

 セラバラモンが部下に言いました。

 「発展したみなさん。みなさんお願いです。ダンマの眼があり、外科医のようであり、英雄であり、森の中で獅子吼のように獅子吼なさった世尊によって話された、このダンマを熟考をしてください。梵天であり、計ることができない恩恵があり、悪魔と悪魔の手下を踏みつけることができた人と見て、帰依しない人は誰でしょう。カンハ氏族の生まれでも、望む人は私に続き、望まない人はお帰りください。

 私はここ、素晴らしい智慧のある方の所で出家します。サンマーサンブッダの教えが、このようにあなたの心に敵うなら、みなさんも素晴らしい智慧の方の施設で出家しましょう」。

(セラバラモンを長とするバラモン三百人が「世尊。私たちを、猊下の施設で梵行をさせてください」と拝礼しました)。

 梵行は私が良く述べておいた物で、
 実践者が自分で見える結果があり、
 時を限定せず、
 梵行に不注意でなく学習する人が出家したことは、  当然無益ではありません。





ブッダの梵行はすべてにおいて完璧

パーサーディカスッタ
長部パーティバッカ 11巻138頁107項

 ジュンダさん。今世界に生れているすべての教祖で、私のような供物と栄誉に至った教祖は一人も見えません。

 ジュンダさん。今世界に生じているすべてのサンガで、この比丘サンガのような供物と栄誉に至ったサンガ、あるいは集団は一人も見えません。

 ジュンダさん。どの梵行でも、すべてにおいて完璧、すべてにおいて豊富で、弛まず極端でなく、最高に完璧に良く述べ良く公開したと正しく言うなら、その人が正しく言うなら、この梵行こそすべてにおいて完璧、すべてにおいて豊富で、弛まず極端でなく、極めて完璧に良く述べ、良く公開したと言うべきです。





布施を妨害するという非難に対する釈明

増支部ティカニバータ 20巻205頁497項

 「ゴータマ様。私はゴータマ様が『誰でも私だけに布施をするべきで、他の人たちにするべきでない。誰でも私の弟子だけに布施をするべきで、他の人の弟子にするべきでない。私にした布施は結果が大きく、他の人にした布施は結果が小さい。私の弟子にした布施は結果が大きく、他の人の弟子にした布施は結果が小さい」とこのように言われたと聞きました。

 ゴータマ様。このように言う人は、ゴータマ様が言われたように言っていると言われますか。それともそう言ってはいない、真実でない言葉を擦り付けると言われますか。あるいは彼は公正に言っていますか。彼に同調して言う友達は非難されませんか。私たちはゴータマ様に擦り付けたくはありません』とヴァッチャ修行者が質問しました。

 ヴァッチャさん。私がそのように言ったと言う人は、私が言ったとように言うと言われません。彼は真実でないことを私になすりつけます。ヴァッチャさん。他人が布施するのを止める人は、その人は敵である人、三つの危険を作る人と言われます。

 三つとは支援者の徳にとって危険で、布施を受ける人にとって危険で、自分自身にとっても自分の根を掘って自分を排除してしまいます。ヴァッチャさん。他人が布施するのを阻止する人は、その人は敵である人、三つの危険を作る人と言われます。

 ヴァッチャさん。私は当然「釜や食器を洗った水を捨てる人は、生き物が生じている下水や汚れた水に、それらの生き物がこれによって生きられるようにと考えて捨てなさい。そうすることは徳の原因になる。人間に布施することばかり言う必要はない」と言います。

 もう一つあります。悪い戒の人への布施ではなく、戒のある人への布施は結果が大きいと言います。そして戒のある人は五つがあり五つを捨ててしまった人です。五つを捨てるとは、欲貪を捨て、復讐心を捨て、眠気を捨て、掉居(落ち着きの無さ)を捨て、疑法を捨てます。

 五つがあるとは、戒があり、セカ(学ぶこと)があり、有学のレベルのサマーディの固まりがあり、有学レベルの智慧の固まりがあり、有学レベルの滅の固まりがあり、有学レベルの解脱智見の固まりがあります。私は、五つを捨て、五つがある人への布施は、このように結果が大きいと言います。





社会のダニという非難の釈明

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻400頁622項

 ガーマニさん。過去九十一劫のうち、この劫になって私がご飯をもらうことで、どんな家系を没落させたことも思い出せません。本当はどの家も財産がたくさんあり、消費財がたくさんあり、金銀がたくさんあり、財産の道具がたくさんあり、基本の財産である籾米がたくさんある富豪で、それらの家は布施が具わり、言ったことを守ることが具わり、自制が具わっています。

 ガーマニさん。家系が没落するための八つの縁があります。つまり、

① 王の危害で家系が没落に至る。

② 盗賊の危害で家系が没落に至る。

③ 火の危害で家系が没落に至る。

④ 水の危害で家系が没落に至る。

⑤ 埋めておいた財産の場所が移動したことで家系が没落に至る。

⑥ 管理が悪いために仕事の事故が生じて家系が没落に至る。

⑦ 変わり者が生まれて、家系の財産を使い尽くす。

⑧ (すべての行の)無常

 ガーマニさん。これが家系を没落させる八つの縁です。

 ガーマニさん。家系を没落させる縁はこのように八つあります。私を「世尊は家系を没落させるために実践し、世尊は家系を衰退させるために実践し、家系を破滅させるために実践している」とこのように非難する人はガーマニさん。その人はまだその言葉を捨てず、その心を捨てず、その見方を捨てないので、閉じ込められるような地獄に沈んでいます。





「迷い」と非難された項目を修正なさる


マハーサッチャカスッタ・マハーヴァナの森で
中部ムーラパンナーサ 12巻461頁430項

 「ゴータマ様。まだ昼寝を憶えておられますか」。サッチャカが質問しました。

 アッギヴェッサナさん。憶えています。雨季の終りの月、食事を終わって托鉢から戻ると、外衣を四枚敷かせて右に傾いて眠りに就く常自覚がありました。

 「ゴータマ様。それです。サマナ・バラモンのある人たちが、ゴータマサマナは迷いで暮らしているから眠ると言うのは」。

 アッギヴェッサナさん。迷った人か迷わない人かと言われるのは、それだけの理由ではありません。どんな理由で人は迷っていると言うか、話しますから、良く心に銘じなさい。

 アッギヴェッサナさん。その人を憂鬱にし、再び生まれさせ、不安や焦燥があり、結果として苦があり、その後も生老死があるようにするどんな漏も、それを捨てることができなければ、私はその人を迷った人と呼びます。捨ててなくすことができた人は誰でも、私はその人を迷いがない人と呼びます。迷わない人になるには、漏を捨てて無くすことです。

 アッギヴェサナさん。それらの漏のすべてを、如行は捨ててなくし、根こそぎ抜いて芽のない砂糖ヤシの木のように、首を切られた椰子の木のように、二度と生じないよう、成長できないようにしました。





ブッダと同じように教えていると詐称する人たちの言葉を正す

マハードゥッカッカンダスッタ
中部ムーラパンナーサ 12巻167頁195項

 「猊下。他の教義の修行者が私たちに『先輩。ゴータマサマナは当然すべての愛欲を知り尽くすことを規定し、私たちもすべての愛欲を知り尽くすことを規定しています。先輩。ゴータマサマナは当然すべての形を知り尽くすことを規定し、私たちもすべての形を知り尽くすことを規定しています。

 先輩。ゴータマサマナは当然すべての受を知り尽くすことを規定し、私たちもすべての受を知り尽くすことを規定しています。先輩。では何が違い、何が特別な観察点で、何がゴータマサマナと私たちの説法と説法、教誨と教誨の違いを生じさせるものでしょうか』と言いました。

 猊下。私たちは他の教義の修行者の言葉を喜ばず反論もしませんでした。喜ばず反論もせず、世尊のお住まいで金言の要旨を知ることができると考えて、席を立ちました」。

 比丘のみなさん。そのような言動のある異教義の修行者に、みなさんは「先輩。何がすべての愛欲の旨味で、何が低劣な害で、何がすべての愛欲の害から出る方便で、何がすべての形の旨味で、何がすべての形の低劣な害で、何がすべての形の害から出る方便で、何がすべての受の旨味で、何がすべての受の低劣な害で、何がすべての受の害から出る方便ですか」と言うべきです。

 比丘のみなさん。他の教義の修行者はこのように質問されると答えられないので、非常に困惑します。それはなぜでしょうか。比丘のみなさん。それらの修行者は知る術がないからです。比丘のみなさん。私には、天人界、悪魔界、サマナバラモン、梵天、天人を含めたすべての動物を含めたこの世界の、如行か如行の弟子か、あるいは如行または如行の弟子から聞いた人以外に、これらの問題を託宣することで心を喜ばすべき人は一人も見えません。

註: 上記の文章は、修行者たちは、ブッダがご存知のように、愛欲、形、受について知識がないことを明らかに説いて見せています。だからこれらの話を調べて一致させることはできません。





浄解脱は美しくない感覚があると言ったという濡れ衣

パーティカスッタ
長部パーティヴァッカ 11巻36頁17項

 バッガヴァさん。私はこのように主張する主義があり、このように教えていますが、サマナバラモンの中には、ありもしない話、(中身のない)空っぽの話、虚偽、本当でない話で、ゴータマサマナと比丘たちの発言を歪曲します。つまり「ゴータマサナマは男が浄解脱に到達すると、その時彼は当然すべての物に、本当に美しくないという感覚がある」と言います。

 バッガヴァさん。私はそのように言いません。しかし当然「男が浄解脱に到達すると、その時彼は当然すべての物に、本当に美しいという感覚があります」とこのように言います。

 「猊下。それらの人達こそ歪曲者たちです。つまり自分たちの歪曲があるので、世尊とすべての比丘に無礼なことを言います。猊下。私はこのように世尊をご信頼し、そして世尊も、私が到達し、そしてその感覚の中にいるべきダンマを説くことができます」。

 バッガヴァさん。別のディッティがあり、別の忍耐があり、別のお気に入りがあるあなたにとって、それは難しすぎます。そしてまだ特に浄解脱に到達し、そして常にその感覚の中にいる努力がなく、アーチャンの基礎であるダンマがありません。バッガヴァさん。さてあなたは私への帰依を大切に維持なさい。

 「猊下。私にとってそれは難しすぎるとおっしゃるなら、猊下。私は今世尊に帰依する気持ちを大切にします。猊下」。





規定したものを規定しないと歪曲される

増支部ダサカニバータ 24巻62頁29項

(世尊が比丘たちに「カーシー地方で、パセンゴーサラ王が卓絶していることが明らかになりました。しかし変化があり、千世界で大梵天が卓絶していることが明らかになりました。

 しかし変化があり、サンヴァッタカッパ(壊劫)で極光梵天が卓絶していることが明らかになりました。しかし変化があり、すべての想がある動物の中で、識カシナから生じた想がある動物が卓絶していることが明らかになりました。しかし変化があり、すべての想がある動物の中で、内部である無形の想がある動物が卓絶していることが明らかになりました。

 しかし変化があり、八つの勝処の中で、内部である形想がある動物が卓絶していることが明らかになりました。しかし変化があり、四つの実践者の中で、楽行道速知通が卓絶していることが明らかになりました。しかし変化があり、識がある四つの分類の人の中で、無所有処の人たちが卓絶していることが明らかになりました。

 しかし変化があり、すべての外部のディッティ(見解)の中で、四つの意味で無我を説くディッティが卓絶していることが明らかになりました。しかし変化があり、すべてのパラマヤッカヴィスッティの中で、非想非非想処を維持している人たちが卓絶していることが明らかになりました。しかし変化があり、現生での涅槃を規定したすべての人の中で、無取解脱がある人たちが卓絶していると現れました」と、このように説かれた後、

 比丘のみなさん。このように主張する主義があり、このように述べる私を、サマナバラモンのある人たちは、ありもしない話、空っぽの話、虚偽、本当でない話で、ゴータマサマナと比丘たちの発言を歪曲し、「ゴータマサナマはすべての愛欲、すべての形、すべての受を知り尽くしたと規定しない。現生での涅槃、無取涅槃を望まない人だ」と言います。





魚や肉を食べることで擦り付けられる

ジーヴァカスッタ・ラージャガハ郊外のマンゴー園で
ジーヴァカ医師に
中部マッジマパンナーサ 13巻48頁57項

 ジーヴァカさん。それらの人々が「大衆がゴータマサマナに献じるためだけに動物を殺す。ゴータマサマナは知っていて、人々が犠牲にした肉を食べる」と言うのは、それらの人々は私が言ったことを言っていると言われず、彼は真実でないこと、事実でないことを私になすりつけます。

 ジーヴァカさん。私は食べるべきでない肉には「見た。聞いた。一般的に嫌悪が生じる」の、三つの理由があると言います。ジーヴァカさん。これが「その肉は食べるべきでない」と私が言う三つの理由です。

 ジーヴァカさん。食べるべき肉も三つの理由があります。つまり「見ていない。聞いていない。一般に嫌わない」の三つです。ジーヴァカさん。これが「その肉は食べるべき」と私が言う三つの理由です。





マヤカシを知っているが、マヤカシはない

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻419頁649項

 「猊下。これについては、私はゴータマサマナはマヤカシをご存知と、このようにお聞きしています。ゴータマ様。ゴータマサマナはマヤカシを知っているという人たちは、世尊が言われたように言っていますか。真実でない言葉で世尊の言葉を歪曲していないでしょうか。彼はダンマで正しく述べていますか。そして聞いたように述べる法友は非難されないでしょうか。私たちは世尊の言葉を歪曲して話したくありません。猊下」。

 ガーマニさん。ゴータマサマナはマヤカシを知っていると言う人たちは、私が述べたように言っていると言われ、真実でない言葉で私の言葉を歪曲していません。彼はダンマで正しく述べ、そして聞いた通りに述べる法友は非難される人になりません。

 「その噂は本当です。しかし猊下、私たちは「猊下はマヤカシを知っている」と言うそれらのサマナバラモンを信じませんでした。でもまだ「ゴータマサマナはマヤカシがある人です」と言う人たちがいます。

 ガーマニさん。私がマヤカシを知っていると言う同じ人が、私はマヤカシがある人だと言うのですか。

 「猊下。それはそのようです」。

 ガーマニさん。それなら、私が反対に質問させてもらいます。ふさわしく答えてください。ガーマニさん。あなたはこれをどう理解しますか。あなたはコーリヤの王族の髪が垂れ下がっている貴族達を知っていますか。

 「はい、存じています」。

 ガーマニさん。あなたはこれをどう理解しますか。コーリヤの王たちの髪が垂れ下がっている貴族にはどんな義務がありますか。

 「猊下。コーリヤの王族たちを盗賊から守り、コーリヤ王族たちのスパイを追放する義務があります。コーリヤの王族たちの髪が垂れ下がっている貴族は、このような義務があります、猊下」。

 ガーマニさん。あなたはこれをどう理解しますか。それらの貴族は戒のある人ですか、それとも悪い戒ですか。

 「猊下。私はそれらの貴族は悪い戒の人、悪い戒の人たちに含まれ、世界にある悪いダンマがあると知っています」。

 ガーマニさん。パータリヤガーマニは、コーリヤたちの王の髪が垂れ下がっている貴族達は、悪い戒があり、悪いダンマがあると知っていて、そしてパータリヤガーマニは、悪い戒があり、悪いダンマがある人だと言う人がいたら、そのように言う人は、正しく言う人でしょうか。

 「それは違います、猊下。コーリヤの人達の王の髪が垂れ下がっている貴族と私は別で、私とコーリヤの人たちの王の髪が垂れ下がっている貴族は別です、猊下」。

 ガーマニさん。あなたこそ、コーリヤたちの王の髪が垂れ下がっている貴族達は、悪い戒があり、悪いダンマがあるけれど、パータリヤガーマニは、悪い戒、悪いダンマがある人ではないと、このようになります。だから如行も、如行はマヤカシを知っていますが、如行はマヤカシのある人ではありません。

 (その後、マヤカシである十悪を話され、マヤカシの報いである苦界、悪趣、報いを受ける場所、地獄の話をなさいました)。





間違ってブッダを非難する理由

ヴェーランジャバラモンに
増支部マハーヴァーラヴァッガ アッダカニバータ 23巻175頁101項

 バラモンさん。誰かが「ゴータマサマナは形である無味がある」と、私を正しく非難する理由(観点)もあります。

 バラモンさん。どんな形・声・臭・味・触の喜びも、その喜びを如行は捨てて無くしてしまいました。根こそぎ抜き、芽が無い砂糖ヤシの木のようにし、首を切られた椰子の木のように、二度と生じないようにしました。これが、誰かが「ゴータマサマナは形である無味がある」と、私を正しく非難する理由です。あなたが言っているようではありません。

 バラモンさん。誰かが「ゴータマサマナは財産がない」と私を正しく非難する理由(観点)もあります。つまり財産、形・声・臭・味・接触のどれでも、それらの財産を、如行は捨てて無くしてしまいました。根こそぎ抜き、芽がない砂糖ヤシの木のようにし、首を切られた椰子の木のように、二度と生じないようにしました。これが、誰かが「ゴータマサマナは財産がない」と、私を正しく非難する理由です。あなたが言っているようではありません。

 バラモンさん。誰かが「ゴータマサマナはしないことばかり話す」と、私を正しく非難する理由(観点)もあります。バラモンさん。本当です。私は、不正な体、不正な言葉、不正な心(の行動)をしないと言い、罪であること、悪であることをしないと言い、いろいろあります。これが、誰かが「ゴータマサマナはしないことばかりを話す」と、私を正しく非難する理由です。あなたが言っているようではありません。

 バラモンさん。誰かが「ゴータマサマナは無くすことばかり話す」と、私を正しく非難する理由もあります。バラモンさん。本当です。私は、貪り・怒り・愚かさの絶滅を話し、罪であること、悪であることをしないと話、いろいろあります。これが、誰かが「ゴータマサマナは無くすことばかりを話す」と、私を正しく非難する理由です。あなたが言っているようではありません。

 バラモンさん。誰かが「ゴータマサマナは嫌ってばかりいる」と、私を正しく非難する理由(観点)もあります。バラモンさん。本当です。私は、不正な体、不正な言葉、不正な心の嫌らしさを述べ、罪であること、いろんな悪に到達する嫌らしさを述べます。これが、誰かが「ゴータマサマナは嫌うことばかりを話す」と、私を正しく非難する理由です。あなたが言っているようではありません。

 バラモンさん。誰かが「ゴータマサマナは破滅に導く人だ」と、私を正しく非難する理由(理由)もあります。バラモンさん。本当です。私は、貪り・怒り・愚かさを破滅させるダンマを説き、いろんな罪や悪を破滅させるダンマを説きます。これが、誰かが「ゴータマサマナは破滅に導く人だ」と、私を正しく非難する理由です。あなたが言っているようではありません。

 バラモンさん。誰かが「ゴータマサマナは焼き滅ぼす人だ」と、私を正しく非難する理由もあります。バラモンさん。本当です。私は、いろんなものがある罪悪、つまり不正な体、不正な言葉、不正な心を焼き滅ぼす話をします。バラモンさん。焼き滅ぼすべき罪悪を、如行は捨ててなくし、根こそぎ抜き、芽がない砂糖ヤシの木のようにし、首を切られた椰子の木のように、二度と生じないようにしました。

 バラモンさん。誰かが「ゴータマサマナは生まれて、浮かぶ場所がない人だ」と私を正しく非難する理由もあります。バラモンさん。つまり次に胎内で眠らなければならないこと、新しい有に生まれなければならないことを捨てられれば、私はその人を「浮かんで生まれることを知らない人」と呼びます。

 バラモンさん。次に胎内で眠らなければならないこと、新しい有に生まれなければならないことを捨ててなくし、根こそぎ抜き、芽が無い砂糖ヤシの木のようにし、首を切られた椰子の木のように、二度と生じないようにしました。

 (パーリの他の分部、律蔵マハーヴァッガ 5巻101頁79項には「ブッダは行動主義で、行動主義のダンマを説き、弟子を導くと非難する」とあり、ブッダは『そうです。私は正しい体、正しい言葉、正しい心と、様々な善を説きます』と言われています。しかしこれはブッダの時代以前からあり、正しいと見なされていることです。

 もう一つ増支部アッダカニバータ 73巻186頁102項に「ブッダは、アッサットー(利益を満たす詭弁である安心があるという主義者)で、そのダンマを説いて弟子を導くと非難している」とあり、ブッダは『そうです。私はアッサットーで、最高に安心させる道具であるダンマを説き、安心させるダンマで弟子を導きます」と言われています。これも悪い状態はないのに、なぜ悪口の中にあるのか分かりません。もしかすると、上の空で突っ走る類の安心など、別の意味があるのかもしれません)。





ブッダの道を知る日はないと、悪魔を蔑む

相応部サガータヴァッガ 15巻168頁472項

 世尊が比丘に囲まれて座って涅槃について話をしている時、悪魔が百姓の姿で鍬を担いで棒を持ち、泥だらけの体で訪ねて来て「サマナ。牛がこっちへ来るのを見なかったかね」と言いました。

 世尊が「悪魔さん。あなたの牛に何の利益があるでしょう」と言われると、悪魔は「サマナ。目もわしの物、形もわしの物、眼触に関わる物と識もわしの物。サマナ。あなたは、どうしたってわしの目から逃れることはできん」と言いました。(耳・鼻・舌・体・心についても、悪魔は同じように話しています)。

 悪魔さん。そうです。目もあなたの物、形もあなたの物、眼触に関わる物と識もあなたの物です。しかし悪魔さん。目がなく、形がなく、眼触に関わる物と識もない所では、あなたも術がありませんよ。悪魔さん。(耳・鼻・舌・体・心についても同じように話されています)。

 人が「私の物」と言う物は、

 それは私如行の物ではない。

 「私」と言う人も、私如行ではない。

 悪魔さん。

 あなたのような人は、

 私の道を知る日はないと知りなさい。

 その時罪のある悪魔は「世尊は私の言葉を知ってしまった。猊下が私の言葉を知ってしまった時、愁苦はそこで消滅した」と感じました。





凡夫はブッダを知らなすぎる 

ラージャガハとナーランダー国の間にある庭園で
長部シーラカンダヴァッガ 9巻4頁2項

 比丘のみなさん。それはまだ少なすぎ、まだ低すぎ、戒の部分だけです。つまり凡夫が如行の徳を称賛して言うことです。比丘のみなさん。凡夫が如行の徳を称賛して言うのがまだ少なく、まだ低く戒だけなのはどのようでしょうか。

 それは、凡夫が如行を称賛して「ゴータマサマナは生きている動物の命を落とさず、殺生を捨てた人で、丸太と武器を置いてしまい、罪に対して清潔で、憐れみ可愛がる心があり、すべての動物を支援したいと望んでいる」と言い、ます。

 そして「ゴータマサマナは、所有者が与えない物を取ることを捨て、盗みを捨てた人で、所有者が与えた物だけを持ち、所有者が与える物だけを望み、泥棒でない清潔な人だ」と言い、

 「ゴータマサマナは、梵行(品行)でないカンマを捨て、普段から梵行の行動をし、庶民の物である性交を避け、離れている」と言い、

 「ゴータマサマナは嘘を言うことを捨て、虚言を避け、本当のことだけを言い、誠実な言葉を維持し、発言が安定し、信じることができ、わざと世間を誤らせることを言わない」と言い、

 「ゴータマサマナは告げ口を捨て、両舌を避け、こちらで聞いたことを、こちらを陥れるために隠さずあちらに言い、あるいはあちらで聞いたことを、あちらを陥れるために隠さずこちらに言い、仲違いした人たちを一致団結させ、団結している人たちを更に団結するように援け、団結することを喜ぶ人で、団結させる言葉だけを言う」と言い、

 「ゴータマサマナは、乱暴な言葉を捨て、粗野な言葉を避け、害のなく耳に響きの良い、愛を生じさせる言葉、心を膨らますことだけを言い、庶民が話す丁寧な言葉で、大衆が求め、満足する人だ」と言い、

 「ゴータマサマナは、撒き散らす話す言葉を捨て、饒舌を避け、ふさわしい時だけ話し、真実の言葉だけを話し、利益であり、ダンマであり、ヴィナヤであり、基盤があり、証拠があり、引用の根拠があり、終わりがあり、利益に溢れたことをふさわしい時に離す」と言い、

 「ゴータマサマナはブーチャガーマとブータガーマ(註)を滅亡させることを避け、一日一回だけ食事をし、夜間や非時に食べることを避け、踊り、演奏、歌唱、合奏、そして善の敵である演じ物を避ける人で、装飾、つまり花で飾り、香りの物を塗ることを避ける人で、高くて大きな寝台で寝ることを避ける人で、金銀を受け取るのを避ける人で、籾米を受け取るのを避ける人で、生肉を受け取るのを避ける人で、

女性や少女、男女の奴隷を受け取ることを避け、羊、ヤギ、鶏、豚、象、馬牛、ロバを受け取るのを避け、田んぼや庭を受け取るのを避け、(在家の)人の遣いであちこちへ行くのを避け、売買を避け、目方をごまかさず、偽物で騙さず、計量でごまかすことを避け、祈祷のお供え物で不正をすること、そして誘惑、切ること、殺すこと、監禁、待ち伏せしての加害、盗み、恐喝を避ける人だ」と言います。

註: ブーチャガーマは場所を移されてもまた生える植物で、ブータガーマは場所に定着している植物。

(以上が小戒)



 「サマナ・バラモンのある人たちは、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上その植物、つまり根で殖える植物と株で殖える植物と実で殖える植物と芽で殖える植物と幹で殖える植物と動物を荒廃させる時、ゴータマサマナはブーチャガーマとブータガーマ(前述の分類の植物)を荒廃させるのを避ける」と言い、

 「サマナ・バラモンのある人たちは、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上蓄えた物、つまり米を蓄え、水を貯え、布を蓄え、乗り物を集め、寝具を集め、香りの良い塗る物を集め、そして財産を蓄える時、ゴータマサマナはそれらを蓄えるのを避ける」と言い、

 「サマナ・バラモンのある人たちは、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上善の敵である催し物、つまり舞踊、歌唱、演奏、軽業、講談、手拍子、鉦、太鼓、町の装飾、下賎な芸、霊前での演じもの、闘象、闘馬、闘水牛、闘牛、闘羊、闘山羊、闘鶏、闘うずら、棒舞、拳闘、戦い、力試し、出陣式、兵隊を観る人である時、ゴータマサマナは今述べた善の敵である催し物を見ることを避ける」と言い、

 「サマナ・バラモンのある人たちは、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上賭け事をする人であり、あるいは不注意の巣である遊び、つまり(一列が八目や十目の)将棋をし、お手玉をし、女奪いをし、取る将棋、動く将棋、輪投げ賭博をし、マイフン(木の棒をパスしたり投げたり、木の実を棒で飛ばしたりして遊ぶ団体ゲーム)をし、いろんな形に投げ、サイコロを投げ、

木の葉笛を吹き、とんぼ返りをし、風車で遊び、砂を計って遊び、小車で遊び、小弓で遊び、書いた文字を言い当てて遊び、心を言い当てて遊び、障害者をからかって遊んでいる時、ゴータマサマナはそのような賭け事、あるいは不注意の巣である遊びを避けてしまう」と言い、

 「サマナ・バラモンのある人たちは、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上高くて大きな寝床に寝る人でもあり、つまり脚の高い寝台、脚が虎の足の形に作られている寝台、毛足の長いヤギの毛織物、美しい刺繍の山羊毛の絨緞の上、白い山羊毛の敷物、花輪のような形の山羊毛の敷物、カポック入りの敷物、華麗な猛獣の形の敷物、毛が立っている敷物、毛が寝ている敷物、

金銀を撚り込んだ絹織物の敷物、すべての絹の敷物、(十六人の女が)踊れるくらい大きな山羊毛の敷物、象の背用の敷物、馬の背用の敷物、車の敷物、獣皮でできた敷物、ジャコウネコの毛皮でできた敷物、赤い天蓋と赤い脇息のある敷物の上で寝る時、ゴータマサマナはその高くて大きな寝床に寝ることを避けてしまう」と言い、

 「サマナ・バラモンのある人たちは、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上体を飾る人でもあり、つまり香水を塗り、按摩をし、肌を美しくする物を塗り、マッサージをし、鏡に映して見、目の輝きを美しくするために目薬を差し、花で飾り、香りの良い物を塗り、白粉、口紅、腕飾り、冠、伊達杖、豪華な印籠、短剣、美しい傘、長く垂れた三尺、しごき帯を使う時、ゴータマサマナはそれらの装身具を避けてしまう」と言い、

 「サマナ・バラモンのある人たちは、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上畜生談(出家にとってダンマの道を妨害する話)、つまり王の話、強盗の話、役人の話、兵隊の話、怖い物の話、戦争の話、米の話、水の話、布の話、寝場所の話、花の話、香りの話、親戚の話、乗り物の話、村の話、県の話、都の話、

田舎の話、女の話、男の話、勇者の話、面白い話、港の話、死者の話、世間のいろんな不思議な話、海の旅の話、破滅や繁栄の話をする時、ゴータマサマナは畜生談を避けてしまう」と言い、

 「サマナ・バラモンのある人たちは、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上反発する言葉、つまり『あなたはこのダンマヴィナヤを知り尽くしていない。私はこのダンマヴィナヤを知り尽くしている。あなたはこのダンマヴィナヤを知り尽くすことはできない。あなたの実践は間違っている。私の実践は正しい。私の言葉には利益がある。あなたの言葉には利益がない。

先に話すべきことをあなたは後に話し、後で話すべきことをあなたは先に話す。あなたが精通していたことは変化してしまった。私はあなたの言葉を否定し圧倒した。あなたは自分の言葉を撤回しなさい。それともできるなら反論しなさい』と挑発する時、ゴータマサマナは反論する言葉を避けてしまう」と言い、

 「あるサマナ・バラモンたちは、支援者が信仰によって献じた食べ物を食べ、その上常に用事を言いつかっていろんな場所へ遣いとして行く人で、『ここへ行きなさい』『そこへ行きなさい』『これを持って行きなさい』『あそこのこれを持って来なさい』と、このように言われる王の遣い、王の家来の遣い、武士の遣い、バラモンの遣い、長者の遣い、そして子供の遣いをする人である時、

 ゴータマサマナは用事を言いつかっていろんな場所へ行くのを避けてしまう」と言い、「サマナ・バラモンのある人たちは、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上まだ騙す言葉を言い、だらだらと際限なく喋り、策略で仕向ける話し方、支援者が我武者羅に布施したくなるように煽る言い方で貰い物を求め、そして価値の高い物も価値のない使い方をする時、ゴータマサマナはこのような騙す方便で貰い物を求めるのを避けてしまう」と言います。

(以上が中戒)



 「サマナ・バラモンのある人たちは、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上畜生知識による生業、つまり体の特徴を占い、吉兆や凶兆を占い、隕石、雷を占い、夢を占い、運勢を占い、ネズミがかじった布で占い、護摩を焚く儀式をし、蝋燭立ての蝋燭に点火して参列者間で手渡しして回す儀式をし、籾殻を撒く儀式をし、糠を撒く儀式をし、米を撒く儀式をし、三神を迎える点火の儀式をし、火を焚いて祭る儀式をし、

入魂の儀式をし、血を供える儀式をし、体の器官を占い、家相を見、田んぼの相を見、入魂師になり、幽霊使いになり、まじない師になって家に護符を貼り、ヘビ使い、毒消し師、サソリ使い、ネズミが齧った跡占い、鳥やカラスの鳴き声占い、年齢占い、矢を防ぐまじない、動物の足跡を占って生活している時、ゴータマサマナは畜生知識による間違った生業を避けてしまう」と言い、

「サマナ・バラモンのある人たちは、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上まだ畜生知識の間違った生業、つまり(宝石の状態、布の状態、杖の状態、奴隷などで占い、戦争で占い、星占い、天候を占い、呪文や霊媒、人を危機に遭わせる呪文、いろんな薬がある医者などの生業)をして生活する時、ゴータマサマナはそれらを避けてしまうと言います。


(以上が大戒)

 比丘のみなさん。これが凡夫が如行の徳を称賛して話す、まだ少なくまだ低い、戒のレベルだけの言葉です。

 比丘のみなさん。深遠で見え難く、知り難く、静まり、緻密で(普通の)思考が遊ぶ場所でなく、博学者だけが知ることができる高尚なダンマ、如行が最高の智慧で明らかにし、人が明らかに知ることができるように公開した、人々が如行を本当に十分正しく称賛する言葉である別のダンマもあります。

 そのダンマは何でしょうか。(ここで、いろんな話と一緒に六十二の見解を説かれました。本書の三部にある「深遠なディッティ」http://buddhadasa.hahaue.com/butuden/3-2.htmlを、更に詳しくは元のパーリ(三蔵のブッダの言葉の分部)を参照してください)。



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