4. 他の教義について
祇園精舎で
小部ウダーナ 25巻196頁146項
そうです、アーナンダ。そうです、アーナンダ。自分で正しく大悟した阿羅漢である如行が世界に生まれていない時はずっと、他の教義の出家者たちも尊敬され、崇拝され、拝礼され、畏怖される人であり、更にチーヴァラ(衣)や食べ物、住まい、そして八物で供養れていました。
アーナンダ。自分で正しく大悟した阿羅漢である如行が世界に生まれた時、その時他の教義の出家者たちは尊敬され、崇拝され、拝礼され、畏怖される人でなくなり、そしてチーヴァラ(衣)や食べ物、住まい、そして八物で供養される人でなくなりました。そして今如行が、比丘サンガも含めて、尊敬、崇拝、信仰、畏怖される人であり、そしてチーヴァラ(衣)や食べ物、住まい、そして八物で供養される人になりました。
世尊はこの項目を明らかにし、次のように感嘆されました。
蛍は当然、太陽が昇らない時は光っていたが、
太陽が昇れば蛍の光は消え、光はない。
同じようにすべての教祖も、
自分で正しく大悟した阿羅漢である如行が生まれない間は、機会がある。
考えるだけ(つまり悟っていない)の人たちは、当然純潔でない。
彼らの弟子も同じで、間違った見方の人は、苦から脱せない。
ブッダと他の人の教義
カッサパさん。学者であるサマナ・バラモンの中には、相応の智慧があって反論したことがあり、鹿の毛で刺すような鋭い智慧があり、自分の智慧で他人の見方を攻撃して歩く人たちがいます。それらの学者はある点では私と考えが合いますが、ある点では私と考えが合いません。
彼らが善いと言い、私も善いと言うものもあり、
彼らが善くないと言い、私も善くないと言うものもあり、
彼らが善いと言い、私は善くないと言うものもあり、
彼らが善くないと言い、私は善いと言うものあり、
私が善いと言い、彼らも善いと言うものもあり、
私が善くないと言い、彼らも善くないと言うものもあり、
私が善いと言い、彼らも善くないと言うものもあり、
私が善くないと言い、彼らは善いと言うものもあります。
私はそれらの学者に会うと、「ね、みなさん。それらすべての中で、考えが合わないものは避けておきなさい・・・・(考えが合うものだけを話す)」と言います。
他の教祖より高い四つのアッパマンニャ(無量)ダンマを説く
相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻161頁574項
他の教義の人たちが、会話しに行った比丘に質問しました。「ゴータマサマナは四無量、つまり慈・悲・喜・捨を四方に広げる教えを説く時、言葉と形式がすべて同じ他の教祖とどう違うダンマを説くのですか」と質問しました。それらの比丘たちは、世尊に拝謁してこの話をお伝えしました。
比丘のみなさん。みなさんは、そのように述べる他の教義の修行者に、「ご年配。慈心解脱、悲心解脱、喜心解脱、捨心解脱にどのように励んで、どのような行く所(趣)があり、特にどんなダンマがあり、どんな結果があり、どんな終わりがありますか」と質問すべきです。(話された時は、それぞれ慈悲喜捨の四つに分けて、悲・喜・捨の場合も慈の場合と同じように話されています)。
比丘のみなさん。そのように質問された時、他の教義の修行者全員は答えがなく、非常に狼狽しました。それはなぜでしょうか。比丘のみなさん。それはヴィナヤ(律)にないからです。比丘のみなさん。如行、あるいは如行の弟子、あるいはこの二種類の人から聞いた人以外に、天人界、悪魔界、梵天界、サマナバラモンと天人と人間も含めた人間界の誰一人、この問題に答えて満足させられる人は見えません。
比丘のみなさん。慈心解脱にどう励むとどのような行く所があり、特にどんなダンマがあり、どんな結果があり、どんな終わりがあるでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は当然七覚支のサティに励み、七覚支の択法に励み、七覚支の精進に励み、七覚支の喜悦に励み、七覚支の軽安に励み、七覚支のサマーディに励み、七覚支の捨に励みます。(話された時は、七つの覚支を一つずつ話されました)。
慈しみと一緒に行く覚支であり、ヴィヴェカ(遠離)に依存し、ヴィラーガ(離欲)に依存し、ニローダ(滅)に依存し、ヴォッサッガ(涅槃)に傾いていく覚支です。その比丘が、不浄でない物を不浄と思う想のある人になりたいと望むなら、彼は当然その不淨でない物を不浄と思える想がある人で、不浄でない物と不浄な物を不浄と思う想のある人になりたいと望むなら、
当然その不淨でない物と不浄な物を不浄と思える想がある人で、不浄でない物と不浄な物の両方を抜いてしまい、捨の人、常自覚がある人になりたいと望むなら、当然捨の人で、そのダンマに常自覚がある人です。
もう一つ、彼は当然淨解脱に到達し、その感覚の中にいます。比丘のみなさん。私は慈心解脱は淨解脱が最高にあるダンマと言います。この場合、更に上の解脱を洞察できない智慧のある比丘の解脱です。
比丘のみなさん。悲心解脱にどう励むとどのような行く所があり、特にどんなダンマがあり、どんな結果があり、どんな終わりがあるでしょうか。このダンマヴィナヤの比丘は、当然七覚支のサティに励み、七覚支の択法に励み、七覚支の精進に励み、七覚支の喜悦に励み、七覚支の軽安に励み、七覚支のサマーディに励み、七覚支の捨に励みます。(話された時は、七つの覚支を一つずつ話されました)。
悲しみと一緒に行く覚支であり、遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存し、涅槃に傾いていく覚支です。その比丘が、不浄でない物を不浄と思う想のある人になりたいと望むなら、彼は当然その不淨でない物を不浄と思える想がある人で、彼が不浄でない物と不浄な物を不浄と思う想のある人になりたいと望むなら、
当然その不淨でない物と不浄な物を不浄と思える想がある人で、不浄でない物と不浄な物の両方を抜いてしまい、捨の人、常自覚がある人になりたいと望むなら、彼は当然捨の人で、そのダンマに常自覚がある人です。
もう一つ、彼は形想を越えることで瞋恚想を維持できないことで、心の中をいろんな想にしないことで、心の中を「無限の空」にする空無辺処に到達し、その感覚の中にいます。比丘のみなさん。私は悲心解脱は、空無辺処が非常にあるダンマと言います。この場合、更に上の解脱が洞察できない類の智慧がある比丘の解脱です。
比丘のみなさん。喜心解脱にどう励むと、どのような行く所があり、特にどんなダンマがあり、どんな結果があり、どんな終わりがあるでしょうか。このダンマヴィナヤの比丘は、当然七覚支のサティに励み、七覚支の択法に励み、七覚支の精進に励み、七覚支の喜悦に励み、七覚支の軽安に励み、七覚支のサマーディに励み、七覚支の捨に励みます。(話された時は、七つの覚支を一つずつ話されました)。
喜びと一緒に行く覚支であり、遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存し、涅槃に傾いていく覚支です。その比丘が、不浄でないものを不浄と思う想のある人になりたいと望むなら、彼は当然その不淨でない物を不浄と思える想がある人で、彼が不浄でない物と不浄な物を不浄と思う想のある人になりたいと望むなら、
当然彼はその不淨でない物と不浄な物を不浄と思える想がある人で、不浄でない物と不浄な物の両方を抜いてしまい、捨の人、常自覚がある人になりたいと望むなら、当然捨の人で、そのダンマに常自覚がある人です。
もう一つ、彼は空無辺処を越えることで心の中を「無限の識」にする識無辺処に到達し、その感覚の中にいます。比丘のみなさん。私は、喜心解脱は、識無辺処が非常にあるダンマと言います。この場合、更に上の解脱が洞察できない類の智慧がある比丘の解脱です。
比丘のみなさん。捨心解脱にどう励むとどのような行く所があり、特にどんなダンマがあり、どんな結果があり、どんな終わりがあるでしょうか。このダンマヴィナヤの比丘は、当然七覚支のサティに励み、七覚支の択法に励み、七覚支の精進に励み、七覚支の喜悦に励み、七覚支の軽安に励み、七覚支のサマーディに励み、七覚支の捨に励みます。(話された時は、七つの覚支を一つずつ話されました)。
捨と一緒に行く覚支であり、遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存し、涅槃に傾いていく覚支です。その比丘が、不浄でない物を不浄と思う想のある人になりたいと望むなら、彼は当然その不淨でない物を不浄と思える想がある人で、不浄でない物と不浄な物を不浄と思う想のある人になりたいと望むなら、
当然その不淨でない物と不浄な物を不浄と思える想がある人で、不浄でない物と不浄な物の両方を抜いてしまい、捨の人、常自覚がある人になりたいと望むなら、当然捨の人で、そのダンマに常自覚がある人です。
もう一つ、彼は識無辺処を越えることで心の中を「無」にする無所有処に到達し、その感覚の中にいます。比丘のみなさん。私は、捨心解脱は、無所有処が非常にあるダンマと言います。この場合、更に上の解脱が洞察できない類の智慧がある比丘の解脱です。
他の権利のように年数に関わらないニッダサ比丘を規定する
「猊下。今朝私がサーヴァッディーに托鉢に行った時、まだ早すぎると考えて他の教義の修行者の施設に立ち寄ると、彼らは集会をしている最中で、『ご年配。十二年間純潔で完璧な梵行をした人は誰でも、その比丘をニッダサ比丘(阿羅漢の同義語)と呼ぶべきです』とこのように話していました。世尊。このダンマヴィナヤのニッダサ比丘を規定するのに、年数だけで規定できますか」。
サーリプッタ。このダンマヴィナヤのニッダサ比丘を年数だけで規定することはできません。サーリプッタ。ニッダサ比丘と規定するもの(基準)はこの七つで、私は最高の智慧で規定して明らかにします。七つとはどれでしょうか。七つとは、このダンマヴィナヤの比丘は、
1.教条を遵守することに強い喜びがあり、これからも教条を遵守する強い愛がある人です。
2.ダンマを熟考することに強い喜びがあり、これからもダンマを熟考する強い愛がある人です。
3.望みを排除することに強い喜びがあり、これからも望みを排除する強い愛がある人です。
4.隠遁することに強い喜びがあり、これからも隠遁する強い愛がある人です。
5.努力を始めることに強い喜びがあり、これからも努力を始める強い愛がある人です。
6.サティで自分を維持することに強い喜びがあり、これからもサティで自分を維持する強い愛がある人です。
7.ディッティで洞察することに強い喜びがあり、これからもディッティで洞察する強い愛がある人です。
サーリプッタ。これが私が最高の智慧で明らかにし、そして公開するニッダサを規定する七つのものです。サーリプッタ。この七つのニッダサを規定する物がある比丘は、十二年でも、二十四年でも、三十六年でも、四十八年でも、純潔で完璧な梵行をすれば、当然ニッダサ比丘と呼びます。
(他の場所では、ニッダサを規定する七つを、信仰、慙、愧、バーフサッチャ、勤精進、サティ、智慧があることと言われています:増支部サッタカニバータ 23巻40頁40項)。
ニャーナ(智)という言葉の意味を規定する
パーラディカスッタ
長部パーティヴァッカ 11巻147頁118項
ジュンダさん。それは確実にあり得ます。つまりすべての他の教義の修行者が「ゴータマサマナは当然際限なく遠い過去に言及するニャーナダッサナ(智見)を規定するが、なぜ際限なく遠い未来のニャーナダッサナを規定しないのだ。どういうことだ」と言うことです。
ジュンダさん。それらすべての異教の修行者は、既定すべき物を、愚かで幼稚な人がしているように、いろんな非智見をいろんな智見と理解しています。
ジュンダさん。当然如行が思い出したいだけ如行にあります。サターヌサーリニャーナ(思い出したことに添って駆けるニャーナ)、遠い未来に言及するニャーナは悟りから生じたニャーナは「この生は最後の生だ。今、新しい有は二度とない」と、当然如行に生じました。
註: 仏教の意味のニャーナは、過去に言及しても未来に言及しても特に限界があり、異教の教祖が言っているように際限がなくはありません。上記の内容を観察すれば、自分で理解できます。
「自我」に関した教えを規定して主張する
相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻486頁801項
(ヴァッチャゴッタ修行者が「自我はあるのですか」と質問すると黙ってしまわれ、「自我はないのですか」と質問すると黙ってしまわれたので、修行者は去って行きました。プラアーナンダが黙ってしまわれた理由を質問しました)。
アーナンダ。私がヴァッチャゴッタ修行者に「自我はありますか」と質問された時「ある」と答えれば、ある種のサマナバラモンのディッティと同じで、「自我はないのですか」と質問された時「ない」と答えれば、ある種のサマナバラモンのディッティと同じです。
アーナンダ。「自我は有る」と答えれば、「すべてのダンマは無我である」というニャーナを生じさせる助けになりますか。
「いいえなりません、猊下」。
アーナンダ。「自我はない」と答えれば、迷っているヴァッチャ修行者を「過去に私の自我はあったのか、それとも確実にあり、今は自我はないものになった」と更に混乱に至らせます。
常に苦行を貶すばかりではない
カッサパさん。私のことを「ゴータマサナマはすべての苦行を貶し、すべてみすぼらしい暮らしの苦行者を軽蔑する」と、このように非難するサマナ・バラモンは、私が言っているように言わず、彼らは真実でないこと、偽り、事実でないことを私になすりつけます。
カッサパさん。みすぼらしい暮らしをしている苦行者を、普通の人間の目を超えた純潔な天の目で見ると、ある人は体が崩壊して死んだ後、悪趣、報いを受け取る場所、地獄に生まれ、ある人は体が崩壊して死んだ後、善趣、天国に生まれるのが見えます。
カッサパさん。普通の人間の目を超えた純潔な天の目で見ると、苦が少ない苦行者は、体が壊れて死んだ後、悪趣・報いを受ける場所・地獄に生まれる人もあり、体が壊れて死んだ後、善趣、天国に生まれる人もいるのが見えます。
カッサパさん。私は当然、これらの苦行者の「来ること、行くこと、死ぬこと、生まれること」がこのように見えるのに、どうしてすべての苦行を一様に、苦行者はみすぼらしい人生だと、貶すでしょうか。
すべての供物を貶さない
増支部チャトゥカニバータ 21巻54頁39項
ウッチャヤバラモンが「ゴータマ様は、当然供物を称賛なさいますか」と質問しました。
バラモンさん。私はすべての供物を称賛しませんが、すべての供物を非難しません。
バラモンさん。牛が殺され、山羊や羊が殺され、鶏や豚が殺され、いろんな動物が殺される類の、他の動物を苦しめる生贄は称賛しません。それはなぜでしょうか。それは、阿羅漢又は阿羅漢果に到達した人は当然、他の動物を苦しめるこの種の供物に近づかないからです。
バラモンさん。一方牛が殺されない、山羊や羊が殺されない、鶏や豚が殺されない、いろんな動物が殺されない類の、他の動物を苦しめない供物、つまり家に代々伝わっているニッチャダーナ(常施)を私は称賛します。それはなぜでしょうか。それは、阿羅漢でも、阿羅漢果に到達した人でも、当然、この種の供物に関わるからです。
他の教義に接す、ブッダの純潔な心
ニグローダさん。あなたの疑念は「ゴータマサマナがこのように言ったのは、弟子が欲しいからかもしれない」とこのようかもしれません。ニグローダさん。これはすぐにそのように見ないでください。あなたの先生である人を、今後もあなたの先生になさい。
ニグローダさん。あなたの疑念は「ゴータマサマナは私の説明(教義)を変えさせたいから、このように言う」とこのようかもしれません。ニグローダさん。これはあなたはすぐにそう考えてはいけません。その方の解説はその方の解説にしておきなさい。
ニグローダさん。あなたの疑念は「ゴータマサマナは、(その教義の生活様式の)生活から移動させたいのでこのように言う」とこのようかもしれません。ニグローダさん。これはすぐにそう考えないでください。あなたの生活は、これからもあなたの生活にしておきなさい。
ニグローダさん。あなたの疑念は「私の教義で悪に数える悪であるダンマは何でも、ゴータマサマナは、私たちにその悪のダンマを維持させたいからこう言う」と、このようかもしれません。ニグローダさん。これはすぐにそう考えないでください。それらのダンマは、これからも今までどおり、あなたの先生の教義に従って悪のダンマに入れておきなさい。
ニグローダさん。あなたの疑念は「私の教義で善に数える善であるダンマは何でも、ゴータマサマナは、私たちにその善のダンマを止めさせたいからこう言う」と、このようかもしれません。ニグローダさん。これはすぐにそう考えないでください。それらのダンマはこれからも今までどおり、あなたの先生の教義に従って善のダンマにしておきなさい。
ニグローダさん。このようです。私は弟子が欲しいからそのように言うのではなく、あなたの解説を変えさせたいからそのように言うのではなく、あなたの生活を変えさせたいからそのように言うのではなく、あなたの先生の教義で悪に数える物の中にあなたがいるように望む人ではなく、そして私は、あなたの先生の教義で善に数える善である物を、あなたが止めるのを望む人だからでもありません。
ニグローダさん。あなたがまだ捨ててない悪であるすべてのダンマは憂鬱なもので、新しい有に導く物で、苦になり、報いである苦があり、その後生老死になり、私が捨てるためにダンマを説いている悪のダンマです。
みなさんが教えを実践すればすべての憂鬱なダンマを捨て、純潔なすべてのダンマは極めて発展します。みなさんは素晴らしい智慧で、生きているうちに智慧と発達した人であることの完璧さを明らかにします。
例外もある規則
カッサパさん。以前異教の教祖だった人で、このダンマヴィナヤで出家を望み、具足戒を望む人は誰でも、その人は当然四か月一緒に住まなければならず、四か月が過ぎると、その比丘のみなさんの疑念や嫌悪が無くなるので、当然比丘になるために具足戒を授け、出家させます。 しかし私は、これについては、人によって違いがあるのを知っています。
(このようなブッダの言葉は至る所にあります。ブッダが、四か月パリヴァーサ(一緒に住むこと)必要がないと見る異教の教祖は、特例として呼んですぐに出家させ、後で具足戒を授けて僧にします。特別な人、特別な時、特別な場所の付帯条件がある幾つもの規則は、ダンマラージャ(ダンマの王)だからです。これらの話は、ブッダの言葉の解説の所々でハッキリと説明してあります)。
他の人たちと違うカンマの教えを説く
アーナンダ。すべてのサマナバラモンの中のある①サマナバラモンは、「発展したみなさん。罪であるカンマはあり、悪の行為の報いもあります」とこのように述べます。そのサマナバラモンのこの言葉を、私は認めます。
②そのサマナバラモンが続けて「私は殺生をし、窃盗をし、愛欲の誤った行為をし、虚偽を言い、告げ口をし、乱暴な言葉を言い、冗長なおしゃべりをし、貪りが多く、恨む心があり、誤った見解の人が、体が崩壊して死んだ後苦界、悪趣、報いを受ける場所、地獄へ行くのを見ました」と述べるのはどれも、そのサマナバラモンのこの言葉も、私は認めます。
③しかしそのサマナバラモンが「発展したみなさん。殺生をし、窃盗をし、愛欲の誤った行為をし、虚偽を言い、告げ口をし、乱暴な言葉を言い、冗長なおしゃべりをし、貪りが多く、恨む心がある誤った見解の人は全員、体が崩壊して死んだ後苦界、悪趣、報いを受ける場所、地獄へ行きます」と述べるのはどれも、そのサマナバラモンのこの言葉を私は認めません。
④そのサマナバラモンが「これを知る人たちは誰でも、その人たちは正しく知ると言われ、違うように知る人は誰でも、その人たちは誤って知ると言われます」と述べるのはどれも、そのサマナバラモンのこの言葉を、私は認めません。
⑤そのサマナバラモンが知識の力で、ディッティ(邪見)を撫で回すことで、「これだけが真実で、他のは無益」と、このように心を埋め、彼が自分で知っている、自分で見ている、自分で明らかな言い方しをする、そのサマナバラモンの言葉を私は認めません。それはなぜでしょうか。アーナンダ。それは、如行の非常に広いカンマの分類のニャーナは、当然それと違うからです。
※
アーナンダ。すべてのサマナバラモンの中で、①「発展したみなさん。美しいカンマはあり、正しい行いの報いもあります」と、このように述べるサマナバラモンは誰でも、そのサマナバラモンのこの言葉は、私は認めます。
②そのサマナバラモンが続けて、「私は殺生を避け、窃盗を避け、愛欲の誤った行為を避け、虚言、告げ口、乱暴な言葉、冗長なおしゃべりを避け、貪りと恨む心がある人でなく、正しい見解の人が、体が崩壊して死んだ後善趣、天国へ行くのを見ました」と述べるのはどれも、そのサマナバラモンのこの言葉も、私は認めます。
③しかしそのサマナバラモンが、「殺生を避け、窃盗を避け、愛欲の誤った行為を避け、虚言、告げ口、乱暴な言葉、冗長なおしゃべりを避け、貪りと恨む心がある人でなく、正しい見解の人は全員、体が崩壊して死んだ後善趣、天国へ行きます」と述べるのはどれも、そのサマナバラモンのこの言葉を、私は認めません。
④そのサマナバラモンが「これを知る人たちは誰でも、その人たちは正しく知ると言われ、違うように知る人は誰でも、その人たちは誤って知ると言われます」と述べるのはどれも、そのサマナバラモンのこの言葉を、私は認めません。
⑤そのサマナバラモンが知識の力で、ディッティを撫で回すことで、「これだけが真実で、他のは無益です」と、このように心を埋め、彼が自分で知っている、自分で見ている、自分で明らかな言い方しをします。そのサマナバラモンの言葉も、私は認めません。それはなぜでしょうか。アーナンダ。それは、如行の非常に広大なカンマの分類のニャーナは、当然それと違うからです。
※
アーナンダ。すべてのサマナバラモンの中で、①「発展したみなさん。美しいカンマもなく、正しい行いの報いもありません」と、このように述べるサマナバラモンは誰でも、そのサマナバラモンのこの言葉を、私は認めません。
②そのサマナバラモンが続けて「しかし私は殺生を避け、窃盗を避け、愛欲の誤った行為を避け、虚言、告げ口、乱暴な言葉、冗長なおしゃべりを避け、貪りと恨む心がある人でない正しい見解の人が、体が崩壊して死んだ後苦界、悪趣、報いを受ける所、地獄へ行くのを見ました」と述べるのはどれも、そのサマナバラモンのこの言葉を、私は認めます。
③一方そのサマナバラモンが「殺生を避け、窃盗を避け、愛欲の誤った行為を避け、虚言、告げ口、乱暴な言葉、冗長なおしゃべりを避け、貪りと恨む心がある人でなく、正しい見解の人は全員、体が崩壊して死んだ後苦界、悪趣、報いを受ける所、地獄へ行きます」と述べるのはどれも、そのサマナバラモンの言葉を、私は認めません。
④そのサマナバラモンが「これを知る人たちは誰でも、その人たちは正しく知ると言われ、違うように知る人は誰でも、その人たちは誤って知ると言われます」と述べるのはどれも、そのサマナバラモンの言葉を、私は認めません。
⑤そのサマナバラモンが知識の力で、ディッティを撫で回すことで、「これだけが真実で、他のは無益です」と、このように心を埋め、彼が自分で知っている、自分で見ている、自分で明らかな言い方しをします。そのサマナバラモンの言葉を、私は認めません。それはなぜでしょうか。アーナンダ。それは、如行の、非常に広大なカンマの分類のニャーナは、当然それと違うからです。
罪を作って死後地獄へ行く人についての説明
アーナンダ。そのすべての人の中の、現在の世界で殺生をし、窃盗をし、愛欲の誤った行為をし、虚偽を言い、告げ口をし、乱暴な言葉を言い、冗長なおしゃべりをし、貪りが多く、恨む心がある誤った見解の人は、体が崩壊して死んだ後、当然苦界、悪趣、報いを受ける場所、地獄へ行きます。それは過去において、その人が結果として苦がある罪のカンマの行動をしたからです。
あるいは死ぬ時誤った見解がある人は、それが原因でその人は、体が崩壊して死んだ後、当然苦界、悪趣、報いを受ける場所、地獄へ行きます。
現生で殺生をし、窃盗をし、愛欲の誤った行為をし、虚偽を言い、告げ口をし、乱暴な言葉を言い、冗長なおしゃべりをし、貪りが多く、恨む心がある誤った見解の人は、生きているうちに、現生で、あるいはその後、あるいはもっと後で当然そのカンマの報いを味わいます。
罪を作って死後天国へ行く人についての説明
アーナンダ。それらすべての人の中の、現在殺生をし、窃盗をし、愛欲の誤った行為をし、虚偽を言い、告げ口をし、乱暴な言葉を言い、冗長なおしゃべりをし、貪りが多く、恨む心がある誤った見解の人で、体が崩壊して死んだ後、当然善趣、天国へ行く人は誰でも、それは過去において、結果として幸福がある善いカンマの行動したからです。
あるいはその後、結果として幸福がある善いカンマの行動をしたから、あるいは死ぬ時正しい見解の人は、それが原因でその人は体が崩壊して死んだ後、当然善趣、天国へ行きます。
一方、その人が殺生をし、窃盗をし、愛欲の誤った行為をし、虚偽を言い、告げ口をし、乱暴な言葉を言い、冗長なおしゃべりをし、貪りが多く、恨む心があり、誤った見解だったことは、彼は当然、その場で、しばらく後で、あるいはずっと後で、そのカンマの結果を味わいます。
罪を避けて死後天国へ行く人についての説明
アーナンダ。それらすべての人の中で、現在殺生を避け、窃盗を避け、愛欲の誤った行為を避け、虚言、告げ口、乱暴な言葉、冗長なおしゃべりを避け、貪りと恨む心がある人でない正しい見解の人で、体が崩壊して死んだ後、当然善趣、天国へ行く人は誰でも、それは過去において、結果として幸福がある善いカンマの行動をしたから、あるいはその後結果として幸福がある善いカンマの行動をしたから、あるいは死ぬ時、正しい見解が身についている人だからです。
一方、彼が現在殺生を避け、窃盗を避け、愛欲の誤った行為を避け、虚言、告げ口、乱暴な言葉、冗長なおしゃべりを避け、貪りと恨む心がある人でない正しい見解の人であることは、その場で、しばらく後で、あるいはずっと後で、彼は当然そのカンマの結果を味わいます。
罪を避けて死後地獄へ行く人についての説明
アーナンダ。それらすべての人の中で、現在殺生を避け、窃盗を避け、愛欲の誤った行為を避け、虚言、告げ口、乱暴な言葉、冗長なおしゃべりを避け、貪りと恨む心がある人でない正しい見解の人が、体が崩壊して死んだ後、悪趣、報いを受ける場所、地獄へ行くのは、それは過去において、彼が結果として苦がある罪のカンマの行為をしたからです。
あるいはその後、結果として苦がある罪のカンマの行為をする、あるいは、死ぬ時、誤った見解が身についている人は、それが原因で体が崩壊して死んだ後、当然悪趣、報いを受ける所、地獄へ行きます。
一方、現在の世界で殺生を避け、窃盗を避け、愛欲の誤った行為を避け、虚言、告げ口、乱暴な言葉、冗長なおしゃべりを避け、貪りと恨む心がある人でなく、正しい見解の人であることは、彼は当然その場で、しばらく後で、あるいはずっと後で、そのカンマの報いを味わいます。
アーナンダ。述べたような理由で、するべきでないカンマとして現れるするべきでないカンマもあり、するべきカンマとして現れるするべきでないカンマもあり、そしてするべきカンマとして現れる本当にするべきカンマもあり、するべきでないカンマとして現れるするべきカンマもあります。
「幸不幸は古いカンマだけが原因」という教義を冷笑なさる
比丘のみなさん。学者が揃って熟考し、調査し、どのように審査しても、どんなに引っくり返して見ても、美しいカンマを作らないように誘導する三つの教義があります。
比丘のみなさん。その三つの教義はどのようでしょうか。三つの教義とは、
(1)サマナとバラモンのある人たちは、「幸福を受け取り、苦を受け取り、苦でも幸福でもない物を受け取る人は、すべては過去に作ったカンマのせいだ」と見、そう言います。
(2)サマナとバラモンのある人たちは、「幸福を受け取り、苦を受け取り、苦でも幸福でもない物を受け取る人は、すべては神様がそうさせるから」と見、そう言います。
(3)サマナとバラモンのある人たちは、「幸福を受け取り、苦を受け取り、苦でも幸福でもない物を受け取る人は、すべては原因や縁はない」と見、そう言います。
比丘のみなさん。私はその三つの教義のうち「幸福を受け取り、苦を受け取り、苦でも幸福でもないものを受け取る人は、すべては過去に作ったカンマのせいだ」と見、そう言うサマナ・バラモンを訪ねて、彼の主張について質問しました。
「それなら(今)動物を殺し、盗みをし、純潔に関して誤った行動をし、嘘を言い、暴言を言い、仲違いさせる言葉を言い、無駄話をし、貪欲な心があり、復讐心があり、異常な人である、これらの(どれか一つ)は、過去に作ったカンマのせいでなければなりません。このように過去に作ったカンマだけに夢中になっていれば、それらの人は「これはするべき。これは今後するべきでない」と努力をする気がなくなります。
本気で義務と非義務を行わなければ、あるいは避ければ、自分を管理するサティがない人たちは、自分を『ダンマで正しいサマナ』と呼べる物は何もありません」と、このように私は言いました。
比丘のみなさん。これが、その見方と言葉のあるサマナ・バラモンにとって、ダンマによる圧力の一番目です。
幸不幸は神の思し召しという教義を冷笑する
比丘のみなさん。私はその三つの教義のうち「幸福を受け取り、苦を受け取り、苦でも幸福でもないものを受け取る人は、すべて神がそうさせるからだ」と見、言うサマナ・バラモンを訪ねて、彼の主張について質問しました。
「それなら(今)動物を殺し、盗みをし、純潔に関して誤った行動をし、嘘を言い、暴言を言い、仲違いさせることを言い、無駄話をし、貪欲な心があり、復讐心があり、異常な人である、これらの(どれか一つ)は、神様が作った物でなければなりません。このように神がさせるとだけ夢中になって信じていれば、それらの人は「これはするべき、これは今後するべきでない」という項目をする気がなくなり、努力したくなくなります。
本気で義務と非義務を行わなければ、あるいは避ければ、それら自分を管理するサティがない人たちは、自分を「ダンマで正しいサマナ」と呼べる物は何もありません」と、このように私は言いました。
比丘のみなさん。これが、そのような見方と言葉のあるサマナ・バラモンにとって、ダンマによる圧力の二番目です。
幸不幸には原因も縁もないという教義を冷笑する
比丘のみなさん。その三つの教義のうち、私は「幸福を受け取り、苦を受け取り、苦でも幸福でもない物を受け取る人は、すべて原因や縁は何もない」と見、言うサマナ・バラモンを訪ね、彼の主張について質問しました。
「それなら(今)動物を殺し、盗みをし、純潔に関して誤った行動をし、嘘を言い、暴言を言い、仲違いさせることを言い、無駄話をし、貪欲な心があり、復讐心がある異常な人は、これらの(どれか一つ)は、何も原因や縁がないことになります。このように原因も縁もないことだけが重要部分と夢中になって信じていれば、「それらの人は、これはするべき、これは今後するべきでないと」いう項目をする気がなくなり、努力したくなくなります。
本気で義務と非義務を行わなければ、あるいは避ければ、それら自分を管理するサティがない人たちは、自分を「ダンマで正しいサマナ」と呼べる物は何もありません」と、このように私は言いました。
比丘のみなさん。これが、その見方と言葉のあるサマナ・バラモンにとって、ダンマによる圧力の三番目です。
自我があるという教義の人たちを塞ぐ方法
ポッタパーダさん。「死後幸福だけがあり、病気を探すことができない自分がある」と主張する主義、見解のあるサマナバラモンたちがいます。私はそれらのサマナバラモンを訪ねて、「ご年配のみなさん。みなさんは『死後幸福だけがあり、病気を探すことができない自分がある』と主張する主義、見解があると聞きました」と言いました。
彼らが「本当です」と答えた時、私は彼らに「それではみなさん、幸福だけの世界を見て知っているのですか」と言いました。
彼らが「いいえ」と答えた時、私は彼らに「それではみなさん、一晩中幸福だけがある自分を見て知っているのですか」と言いました。
彼らが「いいえ」と答えた時、私は彼らに「それではみなさん。当然、これが幸福だけの世界を明らかにする道、パティパダーだと知っているのですか」と言いました。
彼らが「いいえ」と答えた時、私は彼らに「それではみなさん。幸福しかない世界に至った天人が、『友よ、善い実践の友よ。幸福だけの世界を明らかにするために真っ直ぐ実践する友よ。私もそのように実践したので幸福だけの世界に到達しました』と言う声を聞いたことがありますか」と言うと、彼らは「いいえ」と答えました。
ポッタパーダさん。あなたはこれをどう思いますか。彼がこのように言う時、それらのサマナバラモンの言葉は、当然誰もついて来ない言葉ではないですか。
「確かにそうです、猊下」。
ポッタパーダさん。ある男が「私はこの田舎の美しい娘がほしい」と言い、田舎の人達が「発展した方。あなたが望んでいる娘はどの階層ですか。武士階級ですか、バラモン階級ですか、町人の階級ですか、それとも労働者階級ですか」と聞くと、彼は「分かりません」と答えます。
田舎の人たちが、続けて「発展した方。あなたが望んでいる娘は、名は何で氏は何ですか。背は高いですか低いですか。それとも中背ですか。色黒ですか、それとも小麦色、あるいは金色ですか。どの村、あるいはどの町、あるいはどの都に住んでいますか」と聞くと、彼は「分かりません」と答えます。
田舎の人たちが続けて「あなたが望んでいる田舎の娘は、あなたも知らず、見たことがないんですね」と聞くと、彼は「そうです」と答えるようなものです。
ポッタパーダさん。あなたはこれをどう思いますか。彼がこのように言った時、それらのサマナバラモンの言葉は、当然誰もついて来ない言葉になるのではないですか。
「確かにそうです、猊下」。
ポッタパーダさん。あるいは、ある男が(城に登るための)梯子を作って、四辻に立っていると、人々が「発展した方。あなたが梯子を作って掛けるという城は東にありますか、南ですか。西にありますか、それとも北ですか。高い城ですか、それとも低いですか。それとも中くらいですか」と聞くと、
そう聞かれて「私は知りません」と答え、人々が続けて「発展した方。あなたが掛けるために梯子を作った城を、あなたは見たことがなく、知らないのですね」と聞くと、男は「そうです」と答えるようなものです。
ポッタパーダさん。あなたはこれをどう思いますか。彼がこのように言う時、それらのサマナバラモンの言葉は、当然、誰もついて来ない言葉になるのではないですか。
「確かにそうです、猊下」。
そのような主張する主義やディッティ(見解。邪見)のあるサマナバラモンの言葉も、同じです。
マッカリの主義は世界を消滅させる教義と明言なさる
比丘のみなさん。糸状の物で織ったすべての布の中で、ケサカンバラ(人毛で織った布)が最も粗末な布です。ケサカンバラは冬は非常に冷たく、夏は非常に暑く、色も美しくなく、臭いがあって生地が堅いです。同じように比丘のみなさん。凡夫サマナのいろんな教義の中で、マッカリヴァーダを最悪と見なします。
比丘のみなさん。無益な人マッカリは「カンマはない。行動もない。努力もない(つまりこの世界はカンマの結果と言ってはいけない。カンマ自体もない)」という言葉と、見方の教えがあります。
比丘のみなさん。遠い昔の阿羅漢サンマーサンブッダのみなさんも、それらの方誰もが「カンマはあり、行動があり、努力がある」と言い、無益の人マッカリは、それらの阿羅漢サンマーサンブッダに対して「カンマはない、行為はない、努力はない」と反論します。
比丘のみなさん。現在阿羅漢サンマーサンブッタである私も「カンマはある、行為はある、努力はある」と言い、無益の人マッカリは「カンマはない、行為はない、努力はない」と、私に反論します。
比丘のみなさん。河口に魚の罠を仕掛ける人は、魚を支援するためでなく、いろんな魚の苦のため、死滅のため、滅亡のためにするように、無益の人マッカリが世界に生まれたのは、支援するためでなく、人間を罠に掛ける人のように、非常にたくさんの動物の苦のため、死滅のため、滅亡のためです。
ホームページへ | 次へ |