3. ブッダの生活


支援者に夢中にならない

マハースンニャタスッタ
中部ウパリパンナーサ 14巻243頁354項

 アーナンダ。如行(ブッダの一人称。そのように行ったという意味。漢訳は如来)は自分で正しく悟った阿羅漢であり、明(知識)と品行が完璧で、良く行った人、世界を明らかに知る人、訓練すべき人を誰よりも良く訓練する御者、天人とすべての人間の先生、明るい人、ダンマを分類して動物に教える人として世界に生まれました。

 如行は静かな住まい、つまり森、木の根元、山、谷間、洞窟、墓地、密林、野天、藁山で暮らし、如行がそのように離れて暮らすと、バラモンや長者である町の人や田舎の人が当然追ってきます。バラモンや長者である町の人や田舎の人が当然追って来ても、如行は当然気に入って欲しがらず、欲情に至らず、欲深くなりません。

 アーナンダ。この世界の先生のある人は、静かな住まい、つまり森、木の根元、山、谷間、洞窟、墓地、密林、野天、藁山で暮らし、その人がそのように離れて暮らすと、バラモンや長者である町の人や田舎の人が当然追ってきます。バラモンや長者である町の人や田舎の人が当然追って来ると、気に入って惑溺し、欲情に至り、欲深くなります。

 アーナンダ。これがアーチャンにとって、私がウパッダヴァ(危険。あるいは危険な道具)と言う物です。悪で下品な物で、すべて憂鬱で再び生まれるためになり、焦燥があり、結果として苦があり、生・老・死のためになり、当然その先生を踏みつけます。アーナンダ。その先生にとってのウパッダヴァは、このようです。





栄誉に関わるブッダの感覚

増支部パンチャカニバータ 22巻32頁30項

 (大勢のイッチャーナンガラのバラモンと長者と住民が、世尊がイッチャーナンガラの森に滞在されているという偉大な栄誉を耳にして、てんでにたくさんの齧る物、食べる物を持って来て門の前で騒がしい声を上げていたので、世尊はお世話をしていたプラナーギタに質問しました)。

 ナーギタさん、何の騒ぎですか。先を争って漁師の魚を買うような騒ぎは。

 「猊下。大勢のイッチャーナンガラのバラモンと長者と住民が、たくさんの齧る物食べる物を持って、世尊と比丘サンガにお供えしようと門の前で騒いでいます」。

 ナーギタさん。私は栄誉に触れず、栄誉も私に関わってほしくありません。ナーギタさん。ネッカンマ(離欲)の幸福、パヴィヴェカ(遠離)の幸福、ウパサマ(寂静)の幸福、サンボーディ(正覚)の幸福を私が望んで簡単便利に得られるように、望みどおりに得られず、簡単便利に得られない人たちは、これからはミハ(尿道から生じる)の幸福、ミッダ(重なって寝る人)の幸福、供物と称賛から生じる幸福を喜ぶべきです。

 「猊下。今世尊にお願いします。堪えてお受け取りください。猊下、どうか堪えてお受け取りください。今は猊下が堪えてお受け取りになる時です。今世尊はどこへ行かれても、大勢のバラモン、長者、町の人、田舎の人がそこへ追い掛けてきます。

 大雨が低い所へ流れるように、世尊がどこへ行かれても、今バラモン、長者、たくさんの町の人、田舎の人が後を追って来ます。それはなぜでしょうか。それは世尊の戒の現れがそのようにさせるからです」。

 ナーギタさん。私は栄誉に触れず、栄誉も私に関わって欲しくありません。ナーギタさん。ネッカンマ(離欲)の幸福、パヴィヴェカ(遠離)の幸福、ウパサマ(寂静)の幸福、サンボーディの幸福を、私が望んで簡単便利に得られるように、望みどおりに簡単便利に得られない人たちは、これからはミハ(尿道から生じる)の幸福、ミッダ(重なって寝る人)の幸福、供物と称賛から生じる幸福を喜ぶべきです。

 ナーギタさん。大小便は当然人が食べた物、飲んだ物、噛んだ物、嘗めた物から生じます。それは食べた物、飲んだ物、噛んだ物、嘗めた物が流れ出た物です。

 ナーギタさん。悲しみ、嘆き、苦、憂いは、当然愛した物が変化して別の物になることで生じます。それは愛する物の変化が流れ出た物です。

 ナーギタさん。人が不浄相(アスバニミッタ)に専念すれば不浄相の穢れは当然現れます。それは不浄相に専念することが流れ出た物です。

 ナーギタさん。人が六触処の無常を見ていれば触処の汚れは当然現れます。それは触処の無常を見ることが流れ出た物です。

 ナーギタさん。人が五取蘊の発生と衰退を見ていれば取の汚れは当然現れます。それは取蘊の発生と衰退を見ることが流れ出た物です。





手本になるために常に森に住む

バヤベラヴァスッタ
中部マッジマパンナーサ 12巻41頁51項

 バラモンさん。もしかしたらあなたは「今ゴータマサマナはまだ貪りがあり、まだ怒りがあり、まだ愚かさがあるに違いない。だから静かなら森で暮らしている」と、こう考えるかもしれません。

 バラモンさん。そう考えるべきではありません。バラモンさん。私は二つの利益が見えるので、静かな森に住んでいます。それは私自身の現生の幸福のため、そしてもう一つは後か来る人を支援するため(静かな森に住む実践をする気力になるため)です





団結に極めて満足なさる

増支部ティカニバータ 20巻355頁564項

 比丘のみなさん。比丘たちに分裂が生じ、争いや喧嘩が生じ、口の槍で刺し合う方向はどこでも、その方向は私にとって思い出すだけでも安楽な方向でなく、そこへ行くことなど言うまでもありません。そして私は、当然その比丘たちは揃って三種類のダンマを捨ててしまい、揃って三種類のダンマを生じさせていると確信します。

 彼らが捨てた三種類のダンマはどれでしょうか。三種類とは、愛欲から離れる考え、復讐しない考え、苦しめない考えです。そして彼らが揃って生じさせた三種類とはどれでしょうか。愛欲の考え、復讐する考え、苦しめる考えです。

 比丘のみなさん。比丘たちの気持ちが一致して楽しく、喧嘩や仲違いせず、水と乳のように心が溶け合い、互いに愛の視線で見ている方向はどの方向でも、比丘のみなさん。その方向は(苦労して)足を運ばなければならなくても、私にとって幸福な方向で、考えるだけでも言うまでもありません。そして私は、当然その比丘たちは三種類のダンマを捨ててしまい、揃って三種類のダンマを遵守してたくさんしていると確信します。

 彼らが捨てた三種類のダンマはどれでしょうか。三種類とは、愛欲の考え、復讐する考え、苦しめる考えです。彼らがたくさん生じさせているダンマはどれでしょうか。愛欲から出る考え、復讐しない考え、苦しめない考えです。この三種類のダンマは、彼らが遵守してたくさんしているものです。





大王より幸福

チュラドゥッカカンダッスッタ
中部マッジマパンナーサ 12巻187頁220項

 「ゴータマ様。マガタ国のピンピサーラ王はゴータマ様より幸福ですか。それともゴータマ様の方が幸福ですか」。

 ニグロンダとみなさん。それなら反対に私が質問させていただきます。みなさん。このように正しく答えるべきだと思うように答えてください。

 みなさんはこれをどう思いますか。マガタ国のピンピサーラ王は七日七晩体を動揺させず、沈黙し、幸福だけを享受できますか。

 「ゴータマ様。それはできません」。

 ニグロンダとみなさん。マガタ国のピンピサーラ王は六日六晩、五日五晩、四日四晩、三日三晩、二日二晩、一日一晩体を動揺させず、沈黙し、幸福だけを享受できますか。

 「ゴータマ様。それはできません」。

 ニグロンダとみなさん。私は一日一晩、あるいは二日二晩、三日三晩、四日四晩、五日五晩、六日六晩、七日七晩、自分が望むだけ体が動揺させず、沈黙し、幸福だけを享受できます。

 ニグロンダとみなさん。このようなら、みなさんはどう理解しますか。マガタ国のピンピサーラ王は私より幸福なダンマヴィハーラがありますか。それとも私はマガタ国のピンピサーラ王より幸福なヴィハーラダンマがありますか。

 「ゴータマ様。それならヴィハーラダンマがあるゴータマ様の方が幸福です」。





チェトーサマーディのニミッタの中にいれば最高に安楽

長部マハーヴァッガ 10巻118頁93項

 アーナンダ。如行がニミッタのないチェトーサマーディに入ると、心の中にすべてのニミッタを作らないことである種の受が消滅し、その感覚の中いました。アーナンダ。その時如行に最高の安楽がありました。

 アーナンダ。だからあなたたちは島である自分、拠り所である自分があり、他に拠り所はない人、島であるダンマ、拠り所であるダンマがあり、他に拠り所がない人におなりなさい。

 アーナンダ。島である自分、拠り所である自分があり、島であるダンマ、拠り所であるダンマがある比丘はどのようでしょうか。アーナンダ。このダンマヴィナヤの比丘は体の中の体を見、すべての受の中の受を見、努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえるサティがある人で、心の中の心を見、すべてのダンマの中のダンマを見、努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です。

 アーナンダ。こういうのが島である自分、拠り所である自分があり、他に拠り所がなく、島であるダンマ、拠り所であるダンマがあり、他に拠り所がない人と言われる比丘です。





雨安居中いた、非常に称賛するヴィハーラダンマ

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻412頁1764項

 比丘のみなさん。他の教義の修行者がみなさんに「ご年配。ゴータマサマナは、大半をどのヴィハーラダンマで雨安居されているのですか」と質問したら、比丘のみなさん。みなさんがこのように質問されたら、その他の教義の修行者に「ご年配。世尊はほとんどヴィハーラダンマ、つまりアーナーパーナサティで雨安居なさっています」と答えるべきです。

 比丘のみなさん。この場合、私は息を吸うサティ(自覚)がある人で、息を吐くサティがある人で、長く息を吸ったら「私は長く息を吸った」と漏らさず感じ、長く息を吐いたら「私は長く息を吐いた」と漏らさず感じ、(2章-3にあるように、アーナーパーナサティの16段階の説明をされ、http://buddhadasa.hahaue.com/butuden/2-3.html)当然、私は息を吐く度に返却を見る人だと漏らさず感じました。

 比丘のみなさん。アリヤヴィハーラ(聖精舎)でも、ブラフマヴィハーラ(梵精舎)でも、タターガタヴィハーラ(如行精舎)でも、どんなヴィハーラでも、正しくヴィハーラについて述べるならアーナーパーナサティを聖精舎・梵精舎・如行精舎と言うべきです。

 比丘のみなさん。まだ到達していない心の目標があり、それに勝るものはない努力を望んでいる有学の比丘は誰でも、アーナーパーナサティサマーディに励んでたくさんすれば、当然漏の終わりのためになります。

 比丘のみなさん。一方終わった梵行があり、するべき仕事が成功し、下ろした重荷があり、到達した自分の利益があり、終わった有のサンニョージャナ(結)があり、智慧で正しく知って解脱した阿羅漢キーナーサバである比丘は誰でも、それらの比丘がアーナーパーナサティに励んでたくさんすれば、現生での幸福な暮らしのため、常自覚のためになります。





殺生に関しても純潔な食べ物がある

ジーヴァカスッタ
中部マッジマバンナーサ 13巻52頁60項

 ジーヴァカさん。生きている動物を殺して如行あるいは如行の弟子を供養する人は誰でも、その人は当然五つの条件で恩恵でない物にたくさん遭遇します。

 その人は「この名前の動物を連れてきなさい」とこのように言います。その人は一番目の条件で当然恩恵でない物にたくさん遭遇します。

 その動物は、彼に首を縛って連れて来られた時、当然苦憂を味わいます。その人は二番目の条件で当然恩恵でない物にたくさん遭遇します。

 その人は「行って生きている動物を準備しなさい」と言います。彼は三番目の条件で当然恩恵でない物にたくさん遭遇します。

 その動物は、準備された時当然苦憂を味わい、その人は四番目の条件で当然恩恵でない物にたくさん遭遇します。

 その人は「喜ばしくない物で如行あるいは如行の弟子を喜ばす」と言われます。その人は五番目の条件で恩恵でない物にたくさん遭遇します。

 ジーヴァカさん。生きている動物を殺して如行あるいは如行の弟子を供養する人は誰でも、その人は当然このような五つの条件で恩恵でないものにたくさん遭遇します。

 このように世尊が話されると、医師ジーヴァカコーマラバッチャが「不思議です、猊下。今までありませんでした。猊下。すべての比丘は当然ふさわしい食べ物を食べます。猊下。すべての比丘は当然罪のない食べ物を食べます」と申し上げました。





急かせる言葉で生じた食べ物は食べない

相応部サガータヴァッガ 15巻245頁656項他

 (世尊がシバーラヴァーチャバラモンと稲作について問答し、世尊も不死の実がなる田んぼを作っている百姓であると主張されると、(このページの後半にある「不死の実がなる田んぼを作る」にあるように詩で反論され)バラモンは帰依して牛乳で炊いた飯を大きな盆で献じ、召し上がるようお願いました。世尊は次のような内容の詩で答えられました。

  私は急かせる言葉で生じた食べ物は食べない

  バラモンさん

  それは隈なくダンマが見える人の普通ではない

  バラモンさん

  ダンマがあれば

  ダンマの振る舞いがなければならない


  あなたは他の食べ物と水で、

  漏が終わり、煩わしいダンマが静まり、

  偉大な徳を見つけたケヴァリであるブッダを供養なさい

  それが善を目指す人の善だからです


 (そのバラモンが「それならこの牛乳飯は何方に差し上げましょう」と質問したので、「誰も食べるべき人は見えないので、捨ててしまいなさい」とお答えになりました)。





一日一度だけ食事をする

バッダーリスッタ
祇園精舎で
中部マッジマパンナーサ 13巻163頁160項

 比丘のみなさん。私は当然一か所だけで食事をします。(つまり一度食事をして立ち上ったら、その日はもう食べない)。

 比丘のみなさん。一か所だけで食事をすると、当然患いが少なく、苦が少なく、体が軽く、敏捷で力があり、安楽に感じます。

 比丘のみなさん。さあみなさんも一か所だけで食事をなさい。比丘のみなさん。みなさんが一か所だけで食事をすれば、患いが少なく苦が少なく、体が軽く敏捷で、力があり、安楽に感じます





鉢いっぱい食べることもある

マハーサクラタージスッタ
ラージャガハに近いクジャクの餌場である森で
中部マッジマパンナーサ 13巻318頁324項

 ウダージさん。弟子たちが「ゴータマサマナは小食で、日頃から小食の人の小食を称賛する」と考えて、私を崇拝、尊敬、尊重して私と一緒に住むと言うなら、それもあります。

 ウダジさん。つまり私の弟子のある人たちは、碗一杯しか食べない人もいるし、碗半分の人もいるし、マトゥム(蜜柑の一種)の実くらい、マトゥムの実の半分くらいしか食べない人もいます。

 ウダージさん。私は時にはこの鉢(註)の縁いっぱいまで食べることも、もっと溢れることもあります。このようなら、碗一杯しか食べない人、碗半分の人、マトゥム(蜜柑の一種)の実くらい、マトゥムの実の半分くらいしか食べない弟子は、私が小食で小食を称賛し、小食の弟子を褒めると理解して、そのことで私を尊敬し信頼し崇拝し、一緒に暮らしているのではありません。

註: この時は托鉢に行く時で、手に鉢を持っておられました。托鉢の前に会話するために立ち寄られました。





時には極光淨天たちのように喜悦が食べ物になる

相応部サガータヴァッガ 15巻167頁464項

 ある時、季節の祭日にパンチャサーラというバラモンの町へ托鉢に行かれると、悪魔が子供たちに贈り物を配って、魔力で住民に食べ物を献じないようにしたので、空の鉢で戻らなければなりませんでした。その上悪魔は待ち伏せして「出直して来れば食べ物をもらえ貰えるようにしてあげましょう」とからかいました。

 悪魔が如行の妨害をしているので、恩恵でないものに遭遇した

 悪魔よ、あなたは罪は結果がないと考えているのか

 心配しなければ、私は幸福で問題はない

 私は極光浄天たちのように喜悦が食べ物としてある

 その時罪のある悪魔は「世尊は私の言葉を知ってしまった。猊下は私の言葉を知ってしまったので、苦愁はそこで消滅した」と感じました。





如行の寝相

増支部チャトカニバータ 21巻331頁246項

 比丘のみなさん。この四種類の寝相はどのようでしょうか。それは死者の寝相、愛欲を貪る人の寝相、獅子の寝相、如行の寝相です。

 比丘のみなさん。死者の寝相はどのようでしょうか。比丘のみなさん。ほとんどの死者は当然仰向けに寝るので、これを死者の寝相と言います。

 比丘のみなさん。愛欲を貪る人の寝相はどのようでしょうか。愛欲を貪る人の多くは左に傾いて寝るので、これを愛欲を貪る人の寝相と言います。

 比丘のみなさん。獅子の寝相はどのようでしょうか。比丘のみなさん。百獣の王である獅子は当然右に傾いて脚に脚を重ね、脚の間に尾を挟んで寝、目覚めたら当然前半身を伸ばして後ろを観察し(寝ている間に)身じろぎした跡が見えれば当然悔しがり、見えなければ当然喜びます。これを獅子の寝相と言います。

 比丘のみなさん。如行の寝相はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘はすべての性欲が静まり、すべての悪が静まって、当然ヴィタッカ(思惟)と「(考察)、遠離から生じたピーティ(喜悦)とスッカ(幸福)がある初善に入り、そして常にその感覚の中にいます。ヴィタッカとヴィチャーラが静まることで、心の内面を明るくする物であり、一番の物であるサマーディを生じさせ、ヴィタッカもヴィチャーラもなく、

あるのはサマーディから生じたピーティとスッカだけの二禅に到達し、そしてその感覚の中にいます。ピーティが薄れることで、彼は平然と注視できる人になり、サティがあり全身に行き渡る感覚があり、そして名身で幸福を味わい、当然聖人の方々が「平然としていられる人で、サティがあり、全身に感覚が行き渡っている」と称賛する三禅に入り、そしてその感覚の中にいます。

 幸福と苦を捨てることができ、過去の喜びと憂いが消滅することで苦も幸福もなく、あるのは捨ゆえに純潔なサティだけの四禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。これを如行の寝相と言います。






すべての動物を可愛がり支援する人

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻387頁603項

 「猊下。世尊はすべての動物を可愛がり、支援する人ではないですか。猊下」。

 ガーマニさん。そうです。如行はすべての動物を可愛がり、支援する人です。

 「猊下。それならなぜ猊下は一部の人たちには寛大に、一部の人たちには寛大でなくダンマを説かれるのですか。猊下」。

 ガーマニさん。それならこのことで私からあなたに質問させてください。あなたはふさわしくお答えなさい。あなたはこれをどう思いますか。私の故郷のある長者農家は田んぼが三つあり、一つは最上の田で、一つは中程度の田で、もう一つは硬い塊があって塩を含んだ悪い田です。

 ガーマニさん。これをどう思いますか。その長者農家が種を蒔こうと思ったらら、彼はどの田んぼから先に蒔くと思いますか。良い田ですか、中くらいの田ですか、それとも固い土の塊がある塩を含んだ悪い田ですか。

 「猊下。種を蒔こうと望んでいる長者農家は、当然良い田から先に種を蒔き、それから中程度の田に蒔きます。硬い土の塊があって、塩が多い悪い田には蒔くこともあれば、蒔かないこともあります。それは最高に良くても、牛に食べさせるために蒔くだけですから」。

 ガーマニさん。最上の田は私の比丘比・丘尼に例えられ、それらの比丘・比丘尼に、私は当然初めも美しく中間も美しく終わりも美しいダンマを説き、意義も細部も純潔で完璧な梵行を公開します。ガーマニさん。それはなぜでしょうか。それは、それらのすべての比丘・比丘尼は島である私、隠遁所である私、防止するものである私、依存する物である私がいるからです。

 ガーマニさん。中くらいの田は私の清信士・清信女に例えられ、私は当然それらの清信士・清信女に、初めも美しく中間も美しく終わりも美しいダンマを説き、意義も細部も純潔で完璧な梵行を公開します。ガーマニさん。それはなぜでしょうか。ガーマニさん。それは、それらの人々は島である私、隠れ家である私、防止するものである私、依存する物である私がいるからです。

 ガーマニさん。硬い土の塊があって塩分の多い粗悪な田は、すべての異教義の修行者に例えられ、私は当然それらの人にも、初めも美しく中間も美しく終わりも美しいダンマを説き、意義も細部も純潔で完璧な梵行を公開します。ガーマニさん。それはなぜでしょうか。それは、私が説いたダンマを一つでも彼らが理解すれば、それらのすべての人々の永遠の支援と幸福の利益のためになるからです。





寝ても覚めても、すべての動物を可愛がる状態がある

相応部サガータヴァッガ 15巻162頁454項  (世尊に石の欠片が当たって、強烈な体の苦受に遭遇され、忍耐する常自覚があり、獅子の姿で寝ておられると、悪魔が訪ねて来てガーター(詩)でからかいました)。

  あなたはしょんぼりと寝ている

  それとも詩に酔われたか

  あなたの利益は何もなくなったのか

  静かな場所で一人で寝ている

  何だって寝ることだけ、眠ることだけを考える


 世尊が答えられました。

  私はしょんぼり寝ているのでも

  詩に酔ったからでもない

  私に悲しみはなく

  利益を感じている

  私はすべての動物を可愛がる思いで、

  静かな場所に一人寝ている


  矢で胸を射られた人は時々胸の中が痛み、

  矢が刺さっていても眠れるのに、

  矢が刺さっていない私が眠れないことがあるだろうか


  起きていても心は乱れず、

  眠るために悶えることもない

  すべての日夜は私を焼き炙らず

  世界のどこにも衰退は見えない

  だから私は眠りの中でも、

  世界のすべての動物を可愛がる人





義務をしている時もしていない時も、サンマーサンブッダの状態がある

ブラフマニマンタニカスッタ
中部ムーラパンナーサ 12巻597頁556項

 比丘のみなさん。その時罪がある悪魔が梵天衆の一人に乗り移って、私に「無苦の方。あなたがそのように明らかに知り、そのように大悟したら、弟子や出家にダンマを説いて導かないでください。弟子の群れ、出家の群れの喜びに至らないでください。

 比丘。あなたより前に、世界の阿羅漢サンマーサンブッダであると宣言したサマナバラモンがいて、弟子の群れ、出家者の群れを喜ばせてダンマを説いて導き、気息の不足で体が崩壊して悪い体を維持しました。

 比丘。あなたより前に世界の阿羅漢サンマーサンブッダであると宣言した(別の)サマナバラモンがいて、弟子の群れ出家者にダンマを説いて導かず、出家者の群れを喜ばせなかったので、気息の不足で体が崩壊すると緻密な体を維持しました。

 比丘。私はあなたに『無苦の方。あなたは探求心の少ない人でいて、あなたが見ているダンマのスッカヴィハーラ(幸福精舎)にいてください。話さず教えないことは善いことです。他人に教えてはいけません』と言わせていただきます」と言いました。

 比丘のみなさん。悪魔がそのように言ったので、私はその悪魔に言いました。

 罪のある悪魔さん。私はあなたを知っています。私があなたを知らないと思わないでください。罪のある悪魔さん。悪魔である方。あなたは私を可愛がる気持ちがないので、そのように言います。罪のある悪魔さん。あなたは私を可愛がる気持ちがないので、そのように言います。

 罪のある悪魔さん。あなたは私に関して「ゴータマサマナがどの人たちにダンマを説いても、その人たちは私の領域から外れる」と考えています。罪のある悪魔さん。あなたが「サンマーサンブッダと宣言している」と言ったサマナバラモンは、サンマーサンブッダではありません。罪のある悪魔さん。私こそサンマーサンブッダと宣言しているサンマーサンブッダです。

 罪のある悪魔さん。如行はすべての弟子にダンマを説いてもサンマーサンブッダであり、すべての弟子にダンマを説かなくてもサンマーサンブッダです。罪のある悪魔さん。如行がすべての弟子にダンマを説いてもサンマーサンブッダであり、すべての弟子にダンマを説かなくてもサンマーサンブッダであるのは、どうしてでしょうか。罪のある悪魔さん。

 結果である苦があり、続いて老死を生じさせる焦燥があり、新しい有に導く憂鬱であるすべての漏を、如行はすべて捨ててしまい、根源を抜いてしまい、芽が出ない砂糖ヤシの木のように生きられないようにし、先端が欠けた砂糖ヤシは、再び成長できないように、当然二度と生まれられないようにしました。





幸福の見本の一部

ラージャガハの都に近い森で
相応部サガータヴァッガ 15巻250頁669項

 バラモンさん。十四頭の牛が姿を消して六日たってもまだ見つからないということが私にはないので、バラモンさん、私は幸福な人です。

 畑の胡麻の茎が萎れて葉が二三枚しか残っていないということが私にはないので、バラモンさん、私は幸福な人です。

 ネズミたちが空っぽになった米蔵で小躍りして喜ぶことも私にはないので、バラモンさん、だから私は幸福な人です。

 (多忙で時間がないからではなく)七か月放置してある寝台を小動物に引かせることも私にはないので、バラモンさん。だから私は幸福な人です。

 後家になった(自分の)娘に一人二人の子がいるということも私にはないので、私は幸福な人です。

 髪が黄色くなって体中にゴマ粒が出る病気もなく、眠っているのに踏んだり蹴ったりして起こされることもないので、バラモンさん、私は幸福な人です。

 朝早くからやって来て「金を返せ! 金を返せ!」と催促する借金取りもいないので、バラモンさん、私は幸福な人です。





幸福に眠れる人の一人

ハッタアラバカに
増支部ティカニバータ 20巻17頁474項

 クマーラ(註)。私は幸福に眠る人で、この世界のすべての幸福に眠る人の中の一人です。

 「猊下。雪の季節の八日の間(インド歴の三月末の四日と、四月初めの四日間)は、雪が降る寒い夜があり、地面は(雨季についた足跡がこの時期乾いて)牛の足跡でデコボコして、木の葉で作った寝床はまばらで薄く、渋染の布は冷たく、その上冷たい季節風が吹きます。このように気候が悪い時、猊下は幸福に眠れないでしょう」とアラヴァカが申し上げました。

 クマーラ。私は幸福に眠る人で、この世界のすべての幸福に眠る人の中の一人です。クマーラ。反対に私が質問するので、ふさわしくお答えなさい。

 クマーラ。これをどう思いますか。長者か長者の息子の塗り上げ塗り下ろした塔のある家、隙間風が吹く穴がなく、クサビがあり、ぴったり閉まる窓がある家、その家には天蓋付きの寝台があり、毛足が四インチの黒い毛皮を敷き、獣毛で作った白い敷物を敷き、動物の毛皮を敷き、大きな花の塊があり、

ジャコウネコの皮で作った高価な敷物があり、非常に華麗な天井があり、両側に赤い枕があり、油のランプがあって四人の妻が侍っていれば、あなたはこれどう思いますか。つまりそこで寝る人は幸福ですか、幸福でないですか。

 「猊下。彼は幸福に眠る人で、この世界で幸福に眠る人の中の一人です」。

 クマーラ。炙られると当然幸福に眠れなくなる体や心の貪りから生じる熱が、その長者や長者の子息に生じるのではないですか。

 「そうですね、猊下」。

 クマーラ。その長者、あるいは長者の子息が何らかの貪りから生じる熱で暑くて寝苦しい時、如行はその貪りを根こそぎ抜くことができ、二度と芽が出ない砂糖ヤシの木のようにしました。だから私は幸福に眠る人です。

註: この時アラヴァカをクマーラ(男児。少年)と呼ばれています。





素晴らしいと仮定されている物を知り、執着しないことで滅却した

パティカスッタ
長部パーティヴァッガ 11巻29頁13項

 バッガヴァさん。私はすべての人が素晴らしいと仮定している物を残らず知っています。そして知るよりも良く知り、そしてその知ることを掴んだり撫で回したりしません。私はそれを掴んで撫で回さないので、自分だけの本当の滅却が当然私に明らかになりました。如行が知った時、当然アナヤ(いろんな苦)に至らない滅却です。

註: この場合の「素晴らしいと仮定されている物」とは、バラモンに至るため、あるいは、当時のそれらの人々が最高の徳と見なしていた、神様と一緒に暮らすために実践した結果である物です。(詳細はパティカスッタ 長部パーティヴァッガ 11巻29頁13項を参照してください)。





ブッダの座臥所

ゴーサラ地方のヴェナーガプラのバラモンと長者に
増支部ティカニバータ 20巻233頁503項

 バラモンさん。すべての高い台座、大きな寝台のどれも、つまり脚の高い寝台、脚が猛獣の脚の形に作られている寝台、毛足の長いヤギの毛織物、赤い枕が両側にある寝台(当時の上層階級の人に人気のある二十種類)は出家は求め難い物で、手に入っても、当然使用するにふさわしくありません。バラモンさん。私が簡単に難しくなく求められ、今逼迫しない三種類の高い台座、広い寝台は何でしょうか。それは天の、梵天の、聖人の広くて高い寝台です。

 バラモンさん。私がこの世界の町や村に住んで、朝チーヴァラをまとってその町や村に托鉢に行き、托鉢の食事が終わると森の縁へ行きます。私は草でも木の葉でも、そこにある物を掴んで(座を作り)、結跏趺坐して体を真っ直ぐに維持し、サティを現前に据え、私は愛欲とすべての悪が静まって、当然ヴィタッカ(思惟)とヴィチャーラ(考察)、遠離から生じたピーティ(喜悦)とスッカ(幸福)がある初禅に入り、そして常にその感覚の中にいます。

 ヴィタッカとヴィチャーラが静まることで、心の内面を明るくするものであり、一番のものであるサマーディを生じさせ、ヴィタッカもヴィチャーラもなく、あるのはサマーディから生じたピーティとスッカだけの二禅に到達し、そしてその感覚の中にいます。

 ピーティが薄れることで、彼は平然と注視できる人になり、サティがあり全身に行き渡る感覚があり、そして名身で幸福を味わい、当然聖人の方々が「平然としていられる人で、サティがあり、全身に感覚が行き渡っている」と称賛する三禅に入り、そしてその感覚の中にいます。

 幸福と苦を捨てることができ、過去の喜びと憂いが消滅することで苦も幸福もなく、あるのは捨ゆえに純潔なサティだけの四禅に到達し、その感覚の中にいます。

 バラモンさん。私がこのような時、歩いていれば、その時そこを天の歩く場所と言い、立っていれば、その時そこを天の立つ場所と言い、座っていれば、その時そこを天の座る場所と言い、眠っていれば、その時そこを天の寝床と言います。バラモンさん。これが私が望んで簡単に難しくなく手に入る、天の大きくて高いベッドです。

 バラモンさん。私がこの世界の町や村に住んで、朝チーヴァラをまとってその町や村に托鉢に行き、托鉢の食事が終わると、森の縁へ行きます。私はそこにある何か、草でも木の葉でも掴んで(座を作り)、結跏趺坐して体を真っ直ぐに維持し、サティを現前に据えます。

 測ることができない偉大な徳、恨みがなく復讐心がない完璧なメッター(慈)、測ることができない偉大な徳がある心、恨みがなく、復讐心がない完璧なカルナー(悲)のある心、測ることができない偉大な徳、恨みがなく、復讐心がない完璧なムディター(喜)、測ることができない偉大な徳がある心、恨みがなく、復讐心がない完璧なウベカー(捨)のある心を、第一の方向、第二の方向、第三の方向、第四の方向、そして上にも下にも、あるだけの世界に同じように広げます。

 バラモンさん。私がこのような時、歩いていれば、その時そこを梵天の歩く場所と言い、立っていれば、その時そこを梵天の立つ場所と言い、座っていれば、その時そこを梵天の座る場所と言い、眠っていれば、その時そこを梵天の寝床と言います。バラモンさん。これが、私が望んで簡単に難しくなく手に入る、梵天の大きくて高いベッドです。

 バラモンさん。私がこの世界の町や村に住んで、朝チーヴァラをまとってその町や村に托鉢に行き、托鉢の食事が終わると、森の縁へ行きます。私はそこにある何か、草でも木の葉でも掴んで(座を作り)、結跏趺坐して体を真っ直ぐに維持し、サティを現前に据えます。

 私は(自分の心の中を)「私は貪りを捨てることができ、根こそぎ抜くことができ、先端を切った砂糖ヤシの木のようにし、二度と芽が出ないように、存在できないようにした。私は怒りを捨てることができ、根こそぎ抜くことができ、先端を切った砂糖ヤシの木のように二度と芽が出ないように、存在できないようにした。

私は愚かさを捨てることができ、根こそぎ抜くことができ、先端を切った砂糖ヤシの木のように存在できないように、当然二度と芽が出ないようにした」と、このように(自分の心の中を)知り尽します。

 バラモンさん。私がこのような時、歩いていれば、その時そこを聖人の歩く場所と言い、立っていれば、その時そこを聖人の立つ場所と言い、座っていれば、その時そこを聖人の座る場所と言い、眠っていれば、その時そこを聖人の寝床と言います。バラモンさん。これが、私が望んで簡単に難しくなく手に入る、聖人の広くて高いベッドです。





一番多くいたヴィハーラダンマ

ジュラスンニャタスッタ
中部ウパリバンナーサ14巻226頁334項

 プラアーナンダが世尊に「猊下。世尊がナガラカというサキヤ一族の町であるサッカ区域に滞在していらっしゃったある時、そこで私は『アーナンダ。今如行は、当然ほとんどスンニャターヴィハーラ(空精舎)にいます』と、このように世尊から聞いて記憶しています。猊下。これはつまり、私は良く聞き、良く受け取り、心の中を良くし、良く記憶しているということですか」と質問しました。

 アーナンダ、そうです。あなたはそれを良く聞き、良く受け取り、心の中を良くし、良く記憶しているということです。アーナンダ。過去でも現在でも、私は当然ほとんどスンニャターヴィハーラにいます。





心がダンマカターの時もスンニャターヴィハーラにいる

マハースンニャタースッタ
中部ウパリバンナーサ 14巻236頁346項

 アーナンダ。このヴィハーラダンマは、如行が大悟した時に悟りました。つまり如行は心の中をすべてのニミッタ(外部)にしないことで内部のスンニャターヴィハーラに到達し、その感覚の中にいました。

 アーナンダ。如行がこのヴィハーラダンマにいる時、訪問者がいれば比丘でも比丘尼でも、清信士でも清信女でも、王でも王の重臣でも、異教の教祖でも他の教祖の弟子でも、アーナンダ。その場合如行はヴィヴェカ(遠離)に傾いている心があり、ヴィヴェカに密着していたので、心は世俗の物から離れ、離欲を非常に喜び、アーサヴァターニヤダンマ(漏の基盤である物)がすべてなくなり、苦から出るよう誘う説明だけをしました。

 アーナンダ。だからこの場合「私は内部のスンニャターヴィハーラに到達し、その感覚の中にいるべきだ」と望むなら、アーナンダ、その比丘はその心の内部を、安定している心、休んでいる心、一つの感情がある心、盤石な心にするべきです。

註: 心がスンニャターヴィハーラいる時、つまり意識しているニミッタ、あるいはすべての外部の感情がない時は、心は涅槃の味を感じていると観察して見なければなりません。

 そのような感情が心から消滅しなくても、特にこの場合は二つの心、あるいは二重の心が同時に働くように、ブッダのパラマーヌッタラスンニャター(最上義空)のレベルのスンニャターヴィハーラの醍醐味を休まず味わって、口は話したことがあって慣れている話ができます。正しくはどのようか、実践に熟練した方の自身の判断にお任せします。(編者)





すべてのサマナの中の高貴なサマナ

増支部チャトゥカニバータ 21巻115頁87項

 比丘のみなさん。誰かが誰かを「すべてのサマナの中の高貴なサマナ」と言うなら、その人はこの私を「すべてのサマナの中の高貴なサマナ」と呼ぶべきです。

 比丘のみなさん。私が消費するチーヴァラ(衣)のほとんどは人に懇願されて使う物で、誰にも懇願されない物はわずかです。私が食べる食べ物のほとんどは人に懇願されて食べる物で、誰にも懇願されない物はわずかです。私が消費する住まいのほとんどは人から懇願されて使う物で、誰にも懇願されない物はわずかです。

 私が消費する八物のほとんどは人から懇願されて使う物で、誰にも懇願されない物はわずかです。比丘のみなさん。こういうのをサマナの中の高貴なサマナと言います。だからこの私を、すべてのサマナの中の高貴なサマナと呼ぶべきです。

 比丘のみなさん。私が比丘のどの人たちと一緒に住んでも、それらの比丘はほとんど私に対して満足できる身業をし、満足できないのは少しです。それらの比丘のほとんど私に対して満足できる口業をし、満足できないのは少しです。それらの比丘はほとんどは私に対して満足できる意業をし、満足できないのは少しです。

 胆汁が原因、痰や風が原因、発疹が原因、季節の変化が原因、不摂生が原因、加害されたことが原因、あるいはカンマの報いが原因の病気は私にとって多くありません。私は病気が少ないです。

 比丘のみなさん。私は現生での幸福な住まいである四つの定を、最高の心に依存して簡単に、難しくなく、大変でなく得ることができ、そして漏が無くなって漏を探すことができない心解脱、智慧解脱を、生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいます。

 比丘のみなさん。誰かが誰かをすべてのサマナの中の高貴なサマナと呼ぶなら、その人はこの私を、すべてのサマナの中の高貴なサマナと言うべきです。





畔のない田のような心でいる

小部ダサカニバータ 24巻162頁81項

 猊下。如行様はどれだけのダンマを振り払ってなくし、それらから特別な解脱をなさったので、遮る物がない心がおありなのですか。

 ヴァフナさん。如行は十のダンマを振り払ってなくし、そして特別な解脱をしたので、遮る物がない心になりました。十のダンマとは何でしょうか。それは、如行は形・受・想・行・識・生・老死・苦・煩悩を振り払ってなくし、それらから特別な解脱をしたので、遮る物がない心になりました。

 ヴァフナさん。青蓮、紅蓮、白蓮は水中で生まれて成長し、水から出て水で汚れずに立っているように、ヴァフナさん。如行は、十のダンマを振り払ってなくし、それらから特別な解脱をしたので遮る物がない心になりました。





不死の実がなる田んぼ

マガタ地方フラフマナガーマ タクシナギリーの田圃で
相応部サガータヴァッガ 15巻253頁672項

 世尊はそのバラモンの性質を知られ、仲間を集めて賑やかに田植えを祝っているバラモンの田んぼに托鉢に行かれると、バラモンは傍に立っているブッダを見て、咎める言葉を言いました。

 「サマナ! わしは当然耕し、当然(種を)蒔く。耕して蒔けば食うことができる。サマナ! あんたも耕して(種を)蒔きなされ。耕して蒔けば食べることができるってもんです」。

 バラモンさん。私も当然耕し、当然蒔きます。耕して蒔けば食べることができます。

 「わしらにはゴータマさんの頸木や鋤や仕置き棒(牛馬に命令する時に使う棒)や牛は見えませんが、ゴータマさんはヨ、こう言われる」。バラモンはこのように述べて次の詩を詠みました。

  「あんたは自分は百姓だと言うが、

  わしらにはあなたの鋤が見えませんね。

  農家ならどう耕してどう蒔くのか、

  わしらに分かるように教えてください」。


 それにブッダが答えて

  『信仰が種、

  煩悩を焼き滅ぼすことが雨水、



  慙(罪を恥じること)が鋤の先刃、

  心が手綱、

  サティが(牛を叩く)仕置き棒、

  体と言葉と食べ物に関して腹を管理することが田んぼの畔、

  誠実が草を取る人、

  涅槃を喜ぶことが稲作の終り、


  私の努力が鋤を引く人で、

  努力から生じた安全な場所に引いて行き、

  到着した人は当然悲しみがない所へ行き、

  そこから戻って来ない

  耕せばこのようになる田は当然不死がある

  結果として、死ななくなり、

  耕作が終われば当然すべての苦から解脱する』と返しました。



 

時には特別に回避する

ヴェーサリー国に近いマハーヴァナの森で
律蔵マハーヴィバンガ 1巻128頁176項

 比丘のみなさん。私はこれから半月の間、隠遁したいので、食べ物を届ける比丘一人以外は誰も私を訪ねて来ないように。

 (このような遠離をパティサッリーナと言い、一日に二十時間休みなく来客を受けなければならず休息できなかった後は、よく隠遁されました。この隠遁では、生きている間に得られる幸福の中の最高の幸福である、ヴィヴェカ(遠離)の定から生じる幸福の中におられました。

 しかしブッダのようにたくさん来客を迎える必要のない人たちは、普段もたくさんヴィヴェカにいる機会があるので、このように厳格にパティサッリーナでいなければならないとありません。

 増支部マハーヴァーラバッガ 19巻412頁1363項では、三か月のパティサッリーナをされたことについて述べています。その後詳細なアーナーパーナサティを説かれています)。





まだケマヴィタッカとヴィヴェカヴィタッカは多い

小部イティウッタカ 25巻253頁216項

 比丘のみなさん。二種類のヴィタッカ(考えること。尋)、つまりケマヴィタッカ(安全について考えること)とヴィヴェカヴィタッカ(遠離について考えること)が、当然阿羅漢サンマーサンブッダである如行に要求し、非常にせがみました。

 比丘のみなさん。如行は喜びの元である侵害しないことがあり、侵害しないことを喜びます。比丘のみなさん。安穏の考えは、喜びの元である侵害しないことがあり、侵害しないことを喜ぶ如行に、この行為が、当然まだ動揺している動物も、安定している動物も、どんな動物も困らせないよう要求し、非常にせがみました。

 比丘のみなさん。如行は喜びの元であるパヴィヴェカ(静寂)がある人で、静寂を喜びます。比丘のみなさん。静寂の考えは、喜びの原因である静寂があり静寂を喜ぶ如行に、悪である物は何でも、それを私は捨てることができるよう要求し、非常にせがみました。

 比丘のみなさん。だからこのことは、みなさんも喜びの元である侵害しないことがあり、侵害しないことを喜ぶ人でいなさい。比丘のみなさん。みなさんが喜びの元である侵害しないことがあり、侵害しないことを喜ぶ人でいれば、安穏の考えは、この行為が、当然まだ動揺している動物も、安定している動物も、どんな動物も困らせないよう、みなさんに要求し、非常にせがみます。

 比丘のみなさん。みなさんは喜びの元である静寂がある人で、静寂を喜びなさい。みなさんが、喜びの元である静寂があり静寂を喜ぶ人でいれば、静寂の考えが、みなさんに悪である物は何でも、それを私が捨てられるよう要求し、非常にせがみます。





スッダヴァーサへ行く

大念処経
長部マハーヴァーラヴァッガ 10巻57頁55項

 比丘のみなさん。私はウッカッタナガラのスバガヴァンの森の、大きな二本のサーラの木が絡み合っている所で休んでいました。そこにいると「五浄居天以外に、私が生まれたことがない界を探すのは難しい。それなら五浄居天の天人に会いに行こう」という考えが生じました。その時私は、ウッカッタナガラのスバヴァナの森のクワンバヤーサーラを出発して、無煩天の天人群の中に、丈夫な男が腕を伸ばして曲げるだけの短い時間だけ現しました。

 比丘のみなさん。その部類の何百何千の天人の群れが私を訪ねて来て拝礼し、適当な場所に立っていました。

 (五浄居天の天人たちは、すべてのブッダが世界に誕生した話を、生まれ、名前、姓、戒、ダンマ、智慧、ヴィハーラダンマ、そして解脱などがどうだったか、そして自分はそのブッダの梵行をしたことがあるので、すべての愛欲の満足が緩み、その梵天宮に生まれたと話して聞かせました)。

 比丘のみなさん。その時私は無煩天の天人と一緒に無熱の五浄居天へ行き、二つの階層の天人と一緒に善現レベルの五浄居天へ行き、三つの階層の天人を伴って善見レベルの五浄居天へ行き、全員一緒に最高位、つまり阿迦膩タ階層の五浄居天へ行きました。

 (これらの天人たちは、過去のブッダの話について猊下に語ってお聞かせし、その代のブッダに会った生の梵行をした話をしました)。





教義に頑固なパカ梵天を懲らしめに行く

ブラフマニマンタニカスッタ
中部ムーラパンナーサ 12巻590頁552項

 比丘のみなさん。ある時私は、ウッカッタナガラのスバガ園の森の二本が絡みあっている大きなサラの樹の所にいました。比丘のみなさん。その時梵天たちは「このような梵天の状態は不変で、永遠で、恒常で、動きがないのは当たり前。このような梵天の状態は生まれず、老いず、死なず、動かず、生じないのだから。だからこの梵天の状態より良い、苦から出る道具である出離の状態はない」と、このように悪いディッティ(見解)がありました。

 比丘のみなさん。その時私は、心で梵天の内心のパリヴィタッカ(考え)を知り、二本絡み合っているサラの樹の所を離れ、丈夫な男が腕を伸ばして戻すだけの間、その梵天界に姿を現しました。

 比丘のみなさん。梵天たちは遠くから来る私を見て、私に「無苦の方、おいでなさい。無苦の方、良く来られました。無苦の方、あなたはここへたまにお出でになる。無苦の方、この梵天の状態は、このような梵天の状態は不変で永遠で、ずっと変わらずで、動きがないのは当たり前です。

 なぜならこのような梵天の状態は、生まれず、老いず、死なず、動かず、生じないからです。だからこの梵天の状態より、更に良い苦から出る道具である出離の状態はありません」と言いました。

 比丘のみなさん。梵天がこのように言ったので、私は「発展したパカ梵天は、無明へ行ってしまったんですか。発展したパカ梵天は、無明へ行ってしまったのですか。あなたは不変でない物を不変と言い、永遠でない物を永遠と言い、常にはない物を常にあると言い、常に一つではない物を常に一つと言い、

当たり前に動きのある物を、当たり前に動きがないと言い、そして生まれ、老い、死に、移動し、発生する物を、生まれず、老いず、死なず、移動せず、発生しないと言い、そしてもっと素晴らしい物がある出離を、それ以上に素晴らしい出離はないと言いました」と言いました。

註: この後もまだ長々と、悪魔が梵天に助太刀してブッダに反論し、ブッダに梵天に従うよう、脅したり訴えたりした話があります。梵天たちも、追随すべき例えで教義を主張して説明しました。(ブッダは)たとえばパカ梵天は、極光天、遍浄天、広果天など自分より上の梵天を知らないなど、いろんな形で梵天の言葉を修正しました。

 そしてブッダは土・水・火・風などを掴まない項目を説かれました。最後にかくれんぼをするよう挑まれて勝利し、そしてすべてにおいて梵天より上の、つまり、仏教教団員は誰でも関心を持つべき、有と無有より上にいる感覚である、仏教の核心であるガーターを述べました。梵天たちは降参し、悪魔も受け入れましたが、わざとブッダにその教えを教えないようお願いしました。

 すると悪魔に「それは世界の動物の支援になりません。悪魔が引用したサンマーサンブッダは、偽のサンマーサンブッダです」と答えられました。詳細はブラフマニマンタニカスッタ、中部ムーラパンナーサ 12巻591頁から、あるいは553項から読むことができます。

 このブッダの言葉であるスッタは非常に重要で、アートマンがあるか無いかの論争と見なすほど、ブッガラーディッターナ(人を主語にした言い方)の形の仏教の核心について述べています。非常に学ぶべきです。(編者)





特別に安定した定

マハーパリニッバーナスッタ
長部マハーヴァッガ 10巻153頁121項

 プックサさん。私がアートゥマー国の粉引き小屋にいた時のことです。その時雨が降って雷がして、粉引き小屋から遠くない所に落雷があり、農家の兄弟と牽いていた牛四頭の上に落ちました。プックサさん。兄弟二人と四頭の牛に雷が落ちた場所に、アートゥマーの人が一斉にやって来て大騒ぎをしている時、私が小屋から遠くない野外で経行をしていると、一人の男が群れから離れて私のそばへ来て跪拝して座りました。

 プックサさん。私がその座っている男に「あの群衆はなぜ集まっているのですか」と訊くと、彼は「発展した方。雨が降っている時稲光がして、粉引き小屋から遠くない所に雷が落ち、農家の兄弟二人と牽いていた牛四頭に落ちたので、街の人が一斉に集まったのです。あなたには聞こえなませんでしたか。あなたはどこのいらっしゃったのですか」と言いました。

 私は粉引き小屋の中にいました。

 「発展した方。あなたには聞こえなかったのですか」。

 全然聞こえませんでした。

 「眠ってしまっていたのですか。発展した方」。

 眠ってはいません。

 「想はありましたか」。

 ありました。

 「発展した方。雨が降って雷鳴がして落雷して、百姓の兄弟二人と牛四頭に落ちた時、あなたにはそれが聞こえなかったのですか」。

 そうです。

 プックサさん。その時その男は「実に不思議だ。今までにない。この出家は当然本当に静寂なヴィハーラダンマにいる。この人は雨が降って雷鳴りがして落雷した時、想があって目覚めていて、それでも聞こえていない」とこのように考え、私への深い尊敬を表明し、タクシナ(敬意を表す礼)をして去って行きました。





ブッダの善友

相応部サガータヴァッガ 15巻127頁383項

 アーナンダ。「善友がいる。良友がいる。善い仲間がいる」と言われる比丘は、当然どのように八正道に励んでたくさんするでしょうか。アーナンダ。この宗教の比丘は当然正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業(生活)、正しい努力、正しいサティ、ヴィヴェカ(遠離)に依存し、ヴィラーガ(離欲)に依存し、ニローダ(滅)に依存し、抜き取ることに傾いていく正しいサマーディに励んでたくさんします。

 アーナンダ。「善友がいる。良友がいる。善い仲間がいる」と言われる比丘は八正道に励んでたくさんすると言うのは、このようです。

 アーナンダ。これはこの説明で知りなさい。つまり善友、良友、善い仲間がいることは、実に梵行のすべてです。アーナンダ。本当にそうです。

 当たり前に生まれることがあるすべての動物は、私という善友に依存して当然生から解脱し、当たり前に老・病・死・嘆き・悲しみ・体の苦・心の苦・心の干乾び・憂い・すべての悩みがある人は、私という善友に依存して、当然老・病・死・嘆き・悲しみ・体の苦・心の苦・心の干乾び・憂い・すべての悩みから解脱します。

 アーナンダ。あなたはこの説明で知りなさい。つまり善友がいて、良友がいて、善い仲間がいることはこの梵行のすべてです。




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