2. 弟子について


どの集団より素晴らしい集団がある

小部チャトゥッカニバータ 21巻45頁34項

 比丘のみなさん。すべての集団、すべてのグループが幾つあっても、如行の弟子群の誰でも、それらの集団より素晴らしい集団はないと言います。すなわち人を八段階四組に並べた集団で、世尊の弟子サンガは、供物で崇拝を受けるにふさわしい僧サンガで、迎えられるにふさわしく、表敬で迎えられるにふさわしい僧サンガで、一般の人が合掌するべき人で、これに勝るものがない最高の世界の徳田です。

 比丘のみなさん。僧集団に帰依する人は誰でも、それらの人たちは素晴らしい集団に帰依すると言われ、報いは素晴らしい報いです。





最高の徳がある僧サンガ

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻191頁284項

 比丘のみなさん。この比丘教団はデタラメではありません。比丘のみなさん。この比丘教団はめちゃくちゃではありません。この比丘教団員は、要旨だけのダンマに立っています。

 比丘のみなさん。崇拝すべき、迎えるべき、表敬するべき、合掌すべき、世界の最高に素晴らしい徳田である状態の教団がどのようでも、この比丘集団はそのような状態があります。この比丘教団員はそのような状態があります。

 比丘のみなさん。布施を少ししても結果が大きく、たくさんすれば結果は更に倍増する状態がある教団がどのようでも、この比丘集団はそのような状態があります。この比丘教団員はそのような状態があります。

 比丘のみなさん。世界の人が見るのが難しい状態がある教団がどのようでも、この比丘集団は、そのような状態があります。この比丘教団員はそのような状態があります。

 比丘のみなさん。何十キロも歩いて道が尽きるまで歩かなければならなくても、食糧を携えて行かなければならないほどでも見に行くべき状態がある教団がどのようでも、この比丘集団はその状態があります。この比丘教団はそのような状態があります。

 比丘のみなさん。この比丘集団には漏が終わり、梵行が終わり、するべき仕事が成功し、下ろすことができた重荷があり、苦労して到達した自分の利益があり、終わった有のサンニョージャナ(動物を輪廻に結ぶ煩悩。十結)があり、正しくすべてを知って解脱した阿羅漢である比丘たちがいます。このような比丘たちもいます。

 比丘のみなさん。この比丘集団には初等のサンニョージャナ(十結)の五つが終わり、そこで般涅槃し、当然その世界に戻って来ないオッパーティカ(不還)である比丘たちもいます。このような比丘たちもこの比丘集団の中にいます。

 比丘のみなさん。この比丘集団には初等のサンニョージャナの三つが終わり、貪り・瞋り・痴が薄くなり、この世界にもう一度だけ戻って来る一来である比丘たちもいます。このような比丘たちもこの比丘集団の中にいます。

 比丘のみなさん。この比丘集団には初等のサンニョージャナの三つが終わり、当然落ちることがなく、将来確実に悟る預流である比丘たちもいます。このような比丘たちもこの比丘集団の中にいます。

 比丘のみなさん。この比丘集団には四念処、四正勤、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道、慈、悲、喜、捨、不浄、無常想、アーナーパーナサティに継続してしなければならない努力がある比丘たちもいます。このような比丘たちもこの比丘集団の中にいます。

 (パーリの他の箇所に同じように僧集団を称賛した言葉があります。「この比丘集団の中には阿羅漢、不還、一来、預流、そして高い徳のために実践している比丘がいる」と述べる代わりに、「(四つの形禅定で)天人に達した比丘、(四梵住で)梵天に達した比丘、(四つの無形禅定で)不動に達した比丘、そして(四聖諦を明らかに知ることで)聖人に達した比丘がいる」という言葉になっている点が違うだけです。 増支部チャトゥカニパーダ 21巻248頁190項)





どの施設にもすべてのレベルの聖人がいる

中部マッジマバンナーサ 13巻251頁255項

 「ゴータマ様は除外して、すべての漏が終わって漏を探すことができない心解脱、智慧解脱を、生きているうちに最高の智慧で明らかにし、その感覚の中にいるゴータマ様の弟子である比丘はいますか」。

 ヴァッチャさん。います。そのような人は百人でもなく二百人でもなく三百人でもなく四百人でもなく五百人でもなく、非常にたくさんいます。

 「ゴータマ様は除外して、それらの比丘も除外して、すべての漏が終わって漏を探すことができない心解脱、智慧解脱を、生きているうちに最高の智慧で明らかにし、その感覚の中にいるゴータマ様の弟子である比丘尼はいますか」。

 ヴァッチャさん。います。そのような人は百人でなく二百人でもなく三百人でもなく、四百人でもなく五百人でもなく非常にたくさんいます。

 「ゴータマ様は除外して、それらの比丘と比丘尼は除外して、白衣を着た在家で、梵行をし、初等のサンニョージャナ五つが終わり、そこで般涅槃して当然その世界に戻って来ないオッパーティカ(不還)であるゴータマ様の弟子である清信士はいますか」。

 ヴァッチャさん。います。そのような人は百人でなく二百人でもなく三百人でもなく、四百人でもなく五百人でもなく非常にたくさんいます。 

 「ゴータマ様は除外して、それらの比丘・比丘尼は除外して、白衣を着た在家で愛欲を味わい、教えで行動し、教誨に従った行動をし、疑念を越え疑いがなく、勇敢な行動であるダンマに至り、自分の教祖の教えに関して他人を信じる必要がないゴータマ様の弟子である清信士はいますか」。

 ヴァッチャさん。います。そのような人は百人でなく二百人でもなく三百人でもなく、四百人でもなく五百人でもな、非常にたくさんいます。 

 「ゴータマ様は除外して、それらの比丘・比丘尼、梵行をする清信士、そしてそれらの愛欲を味わう清信士は除外して、白衣を着た在家で梵行をし、初等のサンニョージャナの五つが終わり、そこで般涅槃して当然その世界に戻って来ないオッパーティカ(不還)であるゴータマ様の弟子である清信女はいますか」。

 ヴァッチャさん。います。そのような人は百人でなく二百人でもなく三百人でもなく四百人でもなく五百人でもなく、非常にたくさんいます。

 「ゴータマ様は除外して、それらの比丘・比丘尼は除外して、梵行をする清信士と愛欲を味わう清信士は除外して、白衣を着た在家で愛欲を味わい、教えで行動し、教誨に従った行動をし、疑念を越え疑いがなく、勇敢な行動であるダンマに至り、自分の教祖の教えに関して他人を信じる必要がないゴータマ様の弟子である清信女はいますか」。

 ヴァッチャさん。います。そのような人は百人でなく二百人でもなく三百人でもなく四百人でもなく五百人でもなく、非常にたくさんいます。 





何百人ものサンガの運営

長部パービヴァッガ 11巻83頁48項

 比丘のみなさん。人間の寿命が八万年になった時、自分で正しく悟った阿羅漢であり、明と品行が完璧で、良く行き、世界を明らかに知り、訓練すべき人を誰よりも良く訓練する人であり、明るい人であるメッテッヤという名のブッダが世界に生まれて、現在の私のようにダンマを分類して動物に教えます。

 メッテッヤブッダは天人界・悪魔界・梵天界も含めたこの世界と、サマナ・バラモンと天人と人間の動物群を最高の智慧で明らかにして、現在の私のように他の人に教えることができます。

 メッテッヤブッダは、初めも中間も終わりも美しく、意義も細部も純潔で完璧な梵行を、今の私のように公開します。

 メッテッヤブッダは、今何百の比丘サンガを統率している私のように、何千もの比丘サンガを統率します。





学習について比丘にする方法

小部ティカニバータ 20巻307頁531項

 カッサバ氏の比丘が「世尊は気難しく、口うるさく諭しすぎる」と思い、後になって間違いであり悪であると考え、世尊の住まいを訪ねて罪を許してくださいと申し上げると、罪を許され、次のように言われました。

 カッサバさん。長老である比丘でも勉強したくなければ、学習を遵守する比丘を褒めず、学習を望まない比丘を学習好きにするために誘わず、学習を望む比丘の長所を、ふさわしい時に真実に従って褒めません。カッサバさん。私はそのような長老比丘を褒めません。それはなぜでしょうか。

 その長老比丘とお付き合いのある他の比丘たちが、「教祖はこの比丘をお褒めになった」と理解し、その長老比丘を手本にするからです。カッサバさん。だから私はこのような長老比丘を褒めません。

 (この後、学習を望まない中堅の比丘、新参の比丘についても、長老比丘と同じように話されています)。

 カッサバさん。勉強を望む長老である比丘は、学習を遵守する比丘を褒め、学習を望まない比丘を学習好きにするために誘い、学習を望む比丘の長所を、ふさわしい時に真実に従って褒めます。カッサバさん。私は当然そのような長老比丘を褒めます。それはなぜでしょうか。

 その長老比丘とお付き合いのある他の比丘たちが、「教祖はこの比丘をお褒めになった」と理解し、その長老比丘を手本にするからです。カッサバさん。だから私はこのような長老比丘を褒めます。

 (この後、学習を望む中堅の比丘、新参の比丘についても、長老比丘と同じように話されています)。





多少の比丘だけを「ブッダの人」と保証する

増支部チャトゥカニバータ 21巻33頁26項

 比丘のみなさん。騙す人で、頑固で騒がしく喋り、自慢して他人を軽蔑し、心が散漫な比丘は誰でも、それらの比丘は私の人ではありません。比丘のみなさん。それらの比丘はこのダンマヴィナヤから逸れてしまったので、当然このダンマヴィナヤで豊かな発展に至りません。

 比丘のみなさん。騙さない人で騒がしく喋らず、自分を維持する智慧があり、頑固でなく心が安定している比丘は誰でも、それらの比丘は私の人と呼ばれます。比丘のみなさん。それらの比丘はこのダンマヴィナヤから逸れていないので、当然このダンマヴィナヤで豊かな発展に至ります。





頑固な弟子も頑固でない弟子もいる

サドゥキコーパマスッタ
中部マッジマパンナーサ 13巻181頁177項

 ウダージさん。このダンマヴィナヤの無益な人たちは、私が「みなさん、この悪を捨ててしまいなさい」と言うと、「なぜこんな小さな取るに足らないこの種の悪を。このサマナは細かすぎる」とこのように言います。その無益な人はその悪を捨てず、私と学習を愛すたくさんの比丘に悪意を抱きます。ウダージさん。それらの無益な人の悪は当然力があり、頑丈で粘りがあり、堅い心材のように腐食を知らない捕縛具になります。

 ウダージさん。一方このダンマヴィナヤの良家の子息は、私が「みなさん、この悪を捨ててしまいなさい」と言うと、「なぜこんな取るに足らない、この種の小さな悪を言わなければならないのだろう。それは私たちの世尊が捨てるよう、振り払うよう教えていらっしゃる」とこのように言います。それらの良家の子息はその悪も捨ててしまい、そして私と学習を求めるたくさんの比丘にも悪意を抱きません。

 ウダージさん。それら良家の子息は悪を捨てる人、野望が少ない人で、体毛が寝ていて(恐怖で逆立つ必要がない)、他人が与える物で生活し、鹿のような心(つまり一度叩かれると、二度と叩かれないようにする)があります。ウダージさん。その良家の子息の悪は、当然力がなく、力の衰えた、芯がない腐敗した捕縛具です。





ブッダの友達として行動するよう要求する

マハースンニャタスッタ
中部ウパリヴァンナーサ 14巻244頁354項

 アーナンダ。あなたたちは友人として私に要求し、敵として要求してはいけません。そうすれば、永遠にみなさんを支援する利益、幸福になります。

 アーナンダ。すべての弟子は敵対するために教祖に要求し、友人になるために要求してはいけないのはどのようでしょうか。

 アーナンダ。この場合、可愛がることの利益を求めて可愛がる教祖は、すべての弟子に「これはみなさんたちのためになります。これはみなさんたちの幸福になります」とタンマを説いても、それらの弟子は良く聞かず、耳を掘って聞かず、すべてを知ろうと決意せず、教祖の教えを故意に違うものにしてしまいます。アーナンダ。このような弟子はみな、「友人として要求しないで、敵対するために教祖に要求する人」と言います。

 アーナンダ。友人として教祖に要求し、敵対するために要求しない弟子たちはどのようでしょうか。アーナンダ。この場合可愛がることの利益を求めて可愛がる教祖が「これはみなさん全員のためになります。これはみなさん全員の幸福になります」とタンマを説くと、これらの弟子たちは当然良く聞き、耳を掘って聞き、すべてを知ろうと決意し、そして教祖の教えを故意に違うものにしません。

 アーナンダ。このような弟子のみなさんを、敵として教祖に要求しないで友達として教祖に要求する人と言います。

 アーナンダ。だからこのことはみなさん、友達として教祖に要求なさい。敵として要求しなければ、これはみなさん全員の幸福になり、利益になります。

 アーナンダ。私は土鍋屋が(まだ成型したばかりの)まだ濡れている土鍋を扱うように、みなさんを大切に扱う努力はしません。アーナンダ。私は休まず叱ります。アーナンダ、私は休まず咎めます。固い芯がある人は耐えられます。





ブッダの弟子は、五蘊の無我を熟慮して解脱する

チュラサッチャカスッタ
中部マッジマパンナーサ 13巻433頁401項

 「発展なさったゴータマ様。ゴータマ様のお弟子がどんな実践をなされば、教えの実践者、訓戒に素直な人で、疑義を越えることができ、これはどう?と誰かに訊く必要がなく、勇敢で教祖の教えに関して他人を信じる必要がないと言われますか」。

 アッギヴェサナさん、この宗教の私の弟子は正しい智慧で真実のままに、形・受・想・行・識のどれも、過ぎた物もまだ来ない物も、今生じている物も、内部の物も外部の物も、粗くても緻密でも、悪くても良くても、近くでも遠くても、すべては形・受・想・行・識に過ぎず、それは自分の物ではなく、自分でもなく、自分自身でもないと、熟慮して見ます。

 アッギヴェサナさん。これだけの実践で、私の弟子は当然「教えの実践者、訓戒に素直な人で、疑義を越えることができ、これはどう?と誰かに訊く必要がなく、勇敢で、教祖の教えについて他人を信じる必要がない」と言われます。

 「ゴータマ様。ゴータマ様のお弟子がどんな実践をなされば漏が終わり、梵行が終わり、するべき仕事が成功し、下ろしてしまった重荷があり、到達した自分の利益があり、有のサンニョージャナが終わって正しく知る道具である智慧で解脱した阿羅漢と言われますか」。

 アッギヴェッサナさん。この場合の比丘は「形・受・想・行・識のどれも、過ぎた物でもまだ来ない物でも、今生じている物でも、内部の物でも外部の物でも、下品でも上品でも、悪くても善くても、近くても遠くても、すべてはただの形・受・想・行・識であり、それは自分の物でなく、自分でもなく、自分自身でもない」と正しい智慧で真実のままに見ることで執着を断って、解脱した人です。

 アッギヴェサナさん。これだけの実践で、私の弟子は当然「漏が終わり、梵行が終わり、するべき仕事は成功し、下してしまった重荷があり、到達した自分の利益があり、有のサンニョージャナが終わり、正しく知る道具である智慧で解脱した阿羅漢」と呼ばれます。

 アッギヴェッサナさん。このような状況で解脱した比丘は、当然三つのアヌッタリヤ(無上)、つまり見無上、道無上、解脱無上があります。

 このような解脱があれば、当然「世尊は悟った人で、当然悟るためにダンマを説き、自分を訓練した人で、当然自分を訓練するためにダンマを説き、静まった人で、当然静まるためにダンマを説き、越えた人で、当然超えるためにダンマを説き、般涅槃した人で、当然般涅槃するためにダンマを説く」と如行に礼拝し、尊敬し、尊重し、崇拝します。





ブッダの弟子は命を失い戒を失わない

小部ウダーナ 25巻155頁118項

 比丘のみなさん。海は当然水位が一定していて岸から溢れないように、比丘のみなさん。私がすべての弟子のために規定したどんな教条も、私のすべての弟子は命を失わなければならなくても、当然その教条を犯すことはありません。

 比丘のみなさん。私がすべての弟子のために規定した教条のどの項目も、私のすべての弟子はたとえ命を失わなければならなくても、当然その教条を犯すことがないのは、あり得ない不可思議なことです。すべての比丘がこれを見ると、当然このダンマヴィナヤに極めて満足する、二つ目です。





弟子は涅槃のためになる話だけを聞くように

マハースンヤタースッタ
中部ウパリバンナーサ 14巻241頁351項

 (空、不動、イリヤーパタ(威儀路)、ウバトカター(二つの解説)、ウバトヴィタッカ(二つの考え)、五取蘊に関した自覚がある人の話をされた後、それらのダンマに自覚があることについて話されました)。

 アーナンダ。これらの述べたようなダンマは善だけに関わり、敵、つまり煩悩から出る聖人のダンマで、世界を越えた状態を生じさせるロークッタラで、悪魔が推測できる物ではありません。アーナンダ。あなたはこれをどう思いますか。弟子は何の利益の威力を見て、教祖の側近くに付いて来るのですか。

 「猊下。すべてのダンマは世尊が根源で、世尊が指導者で、世尊に依存しています。猊下。善いことでしょう。どうぞその言葉の意味を明らかにしてください。比丘は世尊から聞いて記憶します」。

 アーナンダ。弟子がスッタ、応頌文法を聞くためにだけ教祖に付いて歩くのはふさわしくありません。それはなぜでしょうか。アーナンダ。その種のすべてのダンマはみなさんは(既に)聞き、言葉で記憶し、心に留め、集め、ずっと前からディッティで善く洞察しているダンマだからです。

 アーナンダ。一方最高に削るためになるカター(説明)はどれも、心の熟慮に快適で、涅槃だけのためになり、離欲、解脱、寂静、神通、正菩提、そして涅槃のためになります。すなわち小欲カター、知足カター、遠離カター、アサンサッガカター、精進律義カター、戒カター、三昧カター、智慧カター、解脱カター、解脱智見カターです。アーナンダ。このようなカターを聞くために、弟子は当然教祖の側近くに付いて来るにふさわしいです。





弟子がダンマの相続者になり財産の相続者にならないよう望む

ダンマダーヤーダスッタ
中部マッジマパンナーサ 1巻21頁21項

 比丘のみなさん。みなさんは財産の相続者にならず、私のダンマ相続者(つまりダンマの遺産を受け継ぐ人)におなりなさい。みなさんに関わる私の心配は「どうしたらすべての弟子が財産の相続者でなく、ダンマの相続者になるか」ということです。

 比丘のみなさん。みなさんがダンマの相続者でなく財産の相続者になれば、みなさんは人々から「教祖の弟子のみなさんは財産の相続者であり、ダンマの相続者ではない」と烙印され、私も彼らから一斉に「教祖の弟子のみなさんは財産の相続者であり、ダンマの相続者ではない」と責められます。

 比丘のみなさん。みなさんが揃ってダンマの相続者になり、そして財産の相続者にならなければ、みなさんは「教祖の弟子のみなさんは揃ってダンマの相続者であり、財産の相続者ではない」と褒められ、私も彼らから一斉に「教祖の弟子のみなさんは揃ってダンマの相続者であり、財産の相続者ではない」と褒められます。

 比丘のみなさん。だからこれはみなさん、私のダンマ相続者におなりなさい。財産の相続者になってはいけません。私のみなさんに関わる心配は、「どうしたらすべての弟子が財産の相続者でなく、ダンマの相続者になるか」です。





ブッダが行動したように行動するよう

小部トゥカニバータ 20巻64頁251項

 比丘のみなさん。私はまだ二つのダンマを感じることができます。つまりすべての善に満足しないことと、努力が後退しない人であることです。比丘のみなさん。私は当然「皮と腱と骨だけを残して、肉と体中の血は干乾びてしまえ。人が力と努力と男の忍耐で到達するどんな利益も、まだその利益に到達するまでは努力を休むことはない」と、このように不退転の決意をしました。

 比丘のみなさん。大悟は弛まないことで私が到達したものであり、無上安穏も弛まないことで私が到達したものです。

 比丘のみなさん。みなさんも「皮と腱と骨だけを残して、肉と体中の血は干乾びてしまえ。人が力と努力と男の忍耐で到達するどんな利益も、まだその利益に到達するまでは努力を休むことはない」と、このように不退転の決意をなさい。

 比丘のみなさん。みなさんもそれ以上に素晴らしい物がない、家を出て正しく出家し、家のない人になった良家の子息が欲しがる利益である梵行の終わりを、生きているうちに、間もなく、確実に最高の智慧で明らかにし、その感覚の中にいなさい。

 比丘のみなさん。だからこの場合はみなさん。「皮と腱と骨だけを残して肉と体の中の血は干乾びてしまえ。人が力と努力と男の忍耐で到達するどんな利益も、まだその利益に到達するまでは努力を休むことはないと、このように不退転の決意をする」と、このように心に留めておきなさい。比丘のみなさん。みなさん。このように心に留めておきなさい。





ブッダが説いたダンマで仲違いしない

キンティスッタ
中部ウパリバンナーサ 14巻41頁42項

 比丘のみなさん。みなさんは私に対して「ゴータマサマナはチーヴァラ(衣)のために、あるいは食べ物のために、住む場所のために、あるいはああなるためこうなるためにダンマを説く」と、このような考えや思いがありますか。

 「猊下。私たちは世尊に関してそのような考えや思いはありません」。

 比丘のみなさん。みなさんは私に関してそのような考えや思いはないと聞いたと言うことです。それならみなさんは、私に関してどのような考えがありますか。

 「猊下。私たちは世尊に関して『世尊は可愛がる人で、支援する利益を求め、可愛がることに依存してダンマを説かれる』とこのような考えがあります。猊下」。

 比丘のみなさん。みなさんにはそのような考えがあると聞いたということです。比丘のみなさん。だからこれは、私がみなさんに最高の智慧で説いたすべてのダンマ、つまり四念処、四正勤、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道と言い、みなさんそれらのダンマに一致団結する人で、互いを喜び合って仲違いをせず、そして学習なさい。





無上解脱のために努力をなさい

律蔵 マハーヴァッガ 4巻42頁35項
相応部サガータヴァッガ 15巻153頁425項

 比丘のみなさん。私は心の中を絶妙にして、絶妙で正しい努力でそれ以上に素晴らしいヴィムッティ(解脱)はないヴィムッティに到達し、明らかにしました。

 比丘のみなさん。みなさんも心の中を絶妙にして、絶妙で正しい努力でそれ以上に素晴らしいヴィムッティ(解脱)はないヴィムッティに到達し、明らかになさい。

 その時罪のある悪魔が世尊の住まいを訪ねて来て、次のガーター(詩)で威嚇しました。

  サマナよあなたは

  私に、天人と人間両方の悪魔の首枷で繋がれた人 

  悪魔の首枷で繋がれたあなたは私から逃げられない


 世尊が応えました。

  私は天のも人間のも、

  悪魔の首枷から脱した


  私は悪魔の首枷から脱した人で、

  私こそあなたを掃滅した人になる

  悪魔よ

 罪のある悪魔は「世尊は私が言った言葉を知っている。世尊は私の言った言葉を知ってしまったので、愁苦はそこで消滅した」と感じました。





すべての階層の弟子比丘をサーキヤプッティヤサマナと見なす

サーヴァッティー国に近いお寺で
小部ウダーナ 25巻157頁118項

 比丘のみなさん。ガンガ(ガンジス川)やヤムナー、アジラヴァディー、サラブー、マヒーなどのような大きな川が海に流れて注ぐ時は、当然自分の古い名前を捨てて、全部同じ「海」という新しい名前になるように、比丘のみなさん。

四つすべての階級(カースト)も同じで、カッティヤ(武士)もバラモン(司祭)もヴェッサ(商人)も、スドゥッタラ(労働者)も、出家して私が公開したタンマヴィナヤに入れば当然全員が自分の古い名前と家名を捨て、当然新たに「サカヤプティヤのサマナたち」と呼ばれます。

 比丘のみなさん。カッティヤ(武士。王族)もバラモン(司祭)もヴェッサ(商人)も、あるいはスドゥッタラ(労働者)も、この四つのどの階級でも出家して私が公開したタンマヴィナヤに入れば、当然自分の古い名前と家名を捨てて、新たに「サカヤプティヤのサマナ」と呼ばれるのはあり得ない非常に不可思議なことの四番目です。このタンマヴィナヤのすべての比丘がこの項目を見ると、当然このタンマヴィナヤに非常に満足する四つ目です。





すべての弟子をわが子と見なす

小部イティウタカ 24巻308頁280項

 比丘のみなさん。私は乞われるべきバラモンで、掌はいつも湿っていて、最後の体(訳注:新しい生はないという意味)を維持し、私を越える医師はいない手術の名医です。

 みなさんは私の子であり、口から生まれた王子であり、ダンマによって作られ、ダンマで生まれたダンマの相続人であり、財産の相続人ではありません。





成功した手本の弟子について説く

相応部マハーヴァーラヴァッガ 25巻308頁280項

 そうです、そうです、サーリプッタ。一方的に如行に最高の帰依がある聖人である弟子は誰でも、彼は当然如行、あるいは如行の言葉を疑わず、あるいはためらいがありません。

 サーリプッタ。聖人である弟子が信仰のある人なら、すべての悪を捨てるため、すべてのダンマに到達するための努力があり、力があり、精励努力があり、すべての善の仕事を投げ出さない人になるよう望むべきです。サーリプッタ。その聖人である弟子の努力は、当然彼の根(インドリア)、つまり精進です。

 サーリプッタ。聖人である弟子が信仰のある人で努力を始めた人なら、サティがあり、最高に自分を守るものであるサティが完璧にあり、気づくことができ、すっと前にしたこと話したことも思い出すことができる人になるよう望むべきです。サーリプッタ。その聖人である弟子の努力は、当然彼の根、つまりサティです。

 サーリプッタ。聖人である弟子が信仰のある人で努力を始めた人なら、ヴォッサッガー(棄捨)ラマナを得る行動をし、心の安定を得る人にになるよう、つまり心に一つだけの感情があるよう望むべきです。サーリプッタ。その聖人である弟子の努力は、当然彼の根、つまりサマーディです。

 サーリプッタ。聖人である弟子が信仰のある人で努力を始めた人なら「輪廻は人が知ることができない終わりと初めがあるもので、遮る無明があり、縛る欲望があり、今駆けている、今回遊しているすべての動物には当然現れない。闇の固まりである無明の跡形のない消滅もある。

 それは静かな物、緻密な物、つまりすべての行が静まった物、すべてのウパディ(依)を返却、欲望の終り、弛緩、消滅、涅槃だ」と、明らかに知る人になるよう望むべきです。サーリプッタ。その聖人である弟子の努力は、当然彼の根、つまり智慧です。

 サーリプッタ。その聖人である弟子はこのように精進を維持し、このように(サティで)思い出し、このように(サマーディで)安定し、(智慧で)このように明らかに知ります。彼は当然「私がかつて、あるいは今聞いたことがあるダンマはどれも、私は名形で触れてその感覚の中にいて、智慧で洞察して見えている」と、最高に信じています。サーリプッタ。その聖人である弟子の信じることは、当然彼の根、つまり信仰です。





神通力のある弟子群がいる

サンガーラヴァバラモンに
増支部ティカニバータ 20巻217頁500項

 バラモンさん。この三種類の神通力があります。三種類とは何でしょうか。三種類とは、神通神変、読心神変、教誨神変です。

 バラモンさん。神通神変はどのようでしょうか。

 バラモンさん。この世界のある人はいろんな技法の神通力の行動をします。一人を何人もの姿にし、何人もを一人にし、隠されている場所を見える場所にし、見えている場所を見えない場所にし、空を歩くように壁を通り抜け、塀を通り抜け、山を通り抜けてどこでも支障なく行くことができ、水の中のように大地に潜ったり浮かんだりすることができ、

地面を歩くように水面を歩くことができ、翼のある鳥のように空を行くことができ、結跏趺坐して座ったままで、最高に威力のある月と太陽を手で撫でることができ、そして梵天界まで体の威力を見せることができます。

 バラモンさん。読心神変はどのようでしょうか。バラモンさん。この世界のある人は当然他の動物、他の人たちの心を「あなたの心はこのようだ。あなたの心にはこれがある。あなたの心にはこのような症状がある」等々と心の考えを読むことができ、どんなに多くても全部当てることができます。

 またある人は人間の声や天人の声を聞き、そして「あなたの心はこうで、あなたの心にはこれがあり、あなたの考えはこのようで」と考えを読むことができ、どんなにたくさん読んでも全部当てることができ、間違いません。

 ある人は、熟考(ヴィタッカ・ヴィチャーラ)している人の熟考する声を自分の心で聞くことができ、そして「この人が維持している意行はどのようで、心のどの段階でこういう名前のヴィタッカが生じた」と自分の心で当てることができます。どんなにたくさん読んでも全部当てることができ、間違いません。バラモンさん。これが読心神変です。

 バラモンさん。教誨神変はどのようでしょうか。バラモンさん。ある人は当然「このように熟考なさい。そのように考えてはいけません。心の中をこのようになさい。心の中をそのようにしてはいけません。これを捨ててしまいなさい。これに到達してその中にいなさい」とこのように教え諭します。バラモンさん。これが教誨神変です。

 「ゴータマ様。ゴータマ様以外にこの三つの神通力がある方は何人くらいいらっしゃるのですか」。

 バラモンさん。百人ではなく、二百人でもなく、三百人でもなく、四百人でもなく、五百人でもなく、この三つの神変がある人はそれ以上です。

 「ゴータマ様。それでそれらの比丘はどこにいらっしゃるのですか」。

 バラモンさん。この比丘サンガにいます。





必要な時は弟子の子守になる

増支部パンチャカニバータ 22巻6頁7項

 比丘のみなさん。まだ仰向けに寝ているだけの赤ん坊が、子守がぼんやりしている時に木屑や瓦の欠片を掴んで呑み込み、子守がそれを見つけると急いで出す方法を探す努力をし、簡単に取り出せなければ子供の頭を左手で支え、右手の指を(赤ん坊の口に)入れて引っ掛けて掬い出します。たとえ血が出てもしなければなりません。それはどうしてでしょうか。

 その赤ん坊が痛みを受け取ることは事実ですが、赤子の安全を願い、赤子を助けたいと願い、赤子を可愛がる子守は、その赤ん坊が可愛いいのでそのようにしなければなりません。その子が大きくなって物事が分かってくると、子守は「この子は自分で身を護れ、二度と無知になることはない」と考えて手を離し、過剰に口うるさくしません。

 比丘のみなさん。これも同じです。比丘が信仰で、羞恥心で、恐れで、精進で、そして智慧でしなければならない善の仕事をしない間は、私はその比丘を管理しなければなりません。しかしその比丘が、信仰で、慚(恥)で、愧(恐れ)で、精進で、そして智慧でしなければならないすべての善の仕事ができれば、「今はこの比丘は自分で自分を管理できる。二度と不注意になることはない」と考えてその比丘の心配はなくなります。





サーリプッタは右腕

セラスッタ
中部マッジマパンナーサ 13巻554頁609項

 セラさん。私はダンマラージャ(法王)である王で、私を超える王はいません。私は当然ダンマの車輪(法輪)、誰も抵抗して後退させることができないダンマ車輪を公開してダンマで経過させます。

 「ゴータマ様。あなた様は『サンブッダだ、これ以上に素晴らしい王はいないダンマラージャだ』と託宣なさり、「私は当然ダンマ車輪を公開し、ダンマで経過させる」とおっしゃいます。それであなた様に次ぐ方はどなたですか。どなたが教祖様が公開なさったダンマ車輪を公開できますか」と、セラバラモンが質問しました。

 セラさん。サーリプッタが如行に次ぐ人です。当然私が公開したアヌッタラダンマチャック(無上法輪)であるダンマを公開することができます。バラモンさん。知るべきことを知り、励むべきことに励み、捨てるべき物を捨てたので、私はブッダになりました。あなたは私への懐疑をなくし、私を信頼なさい。

 バラモンさん。継続してサンブッダに会うことは当然できません。それらの方々は世界に次々と現れるのは難しい人です。バラモンさん。私は、私を超える人は誰もいない、矢を抜き取ったサンブッダで、肩を並べる人がいない梵天で、悪魔と悪魔の手下を踏みつけた人で、すべての敵の群れを支配下に治めた、どこにも危険がない愉快な人です。





サーリプッタはダンマチャクラを公開するブッダと同等の人

増支部パンチャカニバータ 22巻167頁132項

 比丘のみなさん。聖水灌頂を受けた皇帝の皇太子は五つの徳がある人で、当然父親が回転させた車輪を本当のダンマで転し続けることができます。そしてその車輪は、同じ人間である敵が抵抗して、手で押し戻すことができない車輪です。五つの徳はどのようでしょうか。

 五つとは、その皇帝の皇太子は原因を知り、結果を知り、適度を知り、時を知り、領民を知っています。比丘のみなさん。これら五つの徳がある皇帝の皇太子は、父親が回転させた車輪をその後転させ続けることができ、そしてその車輪は、同じ人間である敵が抵抗して手で押し戻すことができない車輪です。

 比丘のみなさん。同じようにサーリプッタは五つの徳があるので、それに勝る車輪はない如行が転がしたダンマの車輪を、本当に正しく転がし続けることができます。そしてそのダンマの車輪は、サマナあるいはバラモン、天人、梵天、あるいは世界の誰も抵抗して押し戻すことができないダンマの車輪です。五つの徳はどのようでしょうか。

 五つとは、サーリプッタは原因を知り、結果を知り、適度を知り、時を知り、教団員を知っています。比丘のみなさん。サーリプッタはこれら五つの美徳があるので、これ以上に素晴らしい車輪はない如行が回転させたダンマの車輪を、その後回転させ続けることができます。そしてそのダンマの車輪は、サマナあるいはバラモン、天人、梵天、あるいは世界の誰も抵抗して手で押し戻すことができないダンマの車輪です。





サーリプッタをダンマ王子と称賛する

アヌパダスッタ
中部ウパリバンナーサ 14巻116頁154項

 比丘のみなさん。サーリプッタは博学者で非常に智慧があり、ぎっしり詰まった智慧があり、心の明るさを生じさせる智慧があり、鋭敏な智慧があり、濃厚な智慧があり、煩悩を突き刺す智慧があります。比丘のみなさん。サーリプッタは半月の間に、ダンマのヴィパッサナーを順に洞察しました。比丘のみなさん。その話の、これはサーリプッタが明らかに洞察した段階的なダンマです。

 (その後、初禅、二禅、三禅、四禅、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処に到達する話を、あらゆる角度から詳細に話されてから、言われました)。

 比丘のみなさん。続いてサーリプッタは非想非非想処をすべて越えて想受滅に到達し、その感覚の中にい、更に智慧で見ることで彼のすべての漏は完全に終わりました。サーリプッタはそのサマーパティ(入定)から出るサティがあります。彼にそのサマーパティから出るサティがあれば、当然すべての消滅したダンマ、変化したダンマを「これらすべてのダンマの、無かった物はあるようになり、あった物は消滅した」と見ます。

 サーリプッタはそれらのダンマを意に関せず、依存する煩悩、縛り付ける煩悩がない特別な解脱をし、捕縛する煩悩がなく、範囲を限定しない心があります。彼は当然、これ以上の出る道具である方便はなく、彼にとってそれ以上することもないと知りました。

 比丘のみなさん。威力があり、聖人の戒、聖人のサマーディ、聖人の智慧、聖人の解脱がこのように満ちている人について正しく言うなら、その人は「サーリプッタさんこそ、そのような人です」と言うべきです。

 比丘のみなさん。プラスガタの口から生まれ、ダンマから生まれダンマに作られた王子、ダンマの相続者であり財産の相続者ではない人について正しく言うなら、その人は「サーリプッタさんこそ、そのような人です」と言うべきです。

 比丘のみなさん。サーリプッタは如行が回転させた車輪より素晴らしい物がないダンマの車輪を回転させることができ、本当に正しく回転させることができます。





ブッダと同等の神通力とサマーパティがある大長老

祇園精舎にて
相応部ニダーナ 16巻248頁497項

 比丘のみなさん。私はどれだけ望んでも、当然愛欲とすべての悪が静まってヴィタッカ(思惟)とヴィチャーラ(思考)、ヴィヴェカ(遠離)から生じたピーティ(喜悦)とスッカ(幸福)がある初禅に達し、望んだだけその感覚の中にいることができます。

 カッサパも、彼がどれだけ望んでも、当然愛欲とすべての悪が静まってヴィタッカとヴィチャーラ、ヴィヴェカ(遠離)から生じたピーティとスッカがある初禅に到達し、望んだだけその感覚の中にいることができます。

 比丘のみなさん。私は当然ヴィタッカとヴィチャーラが静まって、一つの感情しかないサマーディを生じさせ、ヴィタッカ・ヴィチャーラはなく、あるのはサマーディから生じたピーティとスッカだけの、心の内面を明るくするものである二禅に到達し、…三禅に到達し、四禅に到達し、空無辺処に到達し、識無辺処に到達し、無所有処に到達し、非想非非想処に到達し、想受滅に到達し、どれだけ望んでも望んだだけその感覚の中にいることができます。

 カッサパも、当然ヴィタッカ・ヴィチャーラが静まって、一つの感情しかないサマーディを生じさせ、ヴィタッカ・ヴィチャーラがなく、あるのはサマーディから生じたピーティとスッカだけの心の内面を明るくする物である二禅に到達し、…三禅に到達し、四禅に到達し、空無辺処に到達し、識無辺処に到達し、無所有処に到達し、非想非非想処に到達し、想受滅に到達し、どれだけ望んでも望んだだけその感覚の中にいることができます。

 (この後六神通、つまり神足通、天耳智通、他心智通、宿命通、天眼通、漏神通についてプラマハーカッサパはブッダと同じ能力があると、上記と同様に話されています)。





ブッダと弟子は、常に教えが一致する

マハータンハーサンカヤスッタ
中部ムーラパンナーサ 12巻440頁447項

 『老死は縁、つまり生によってある』という言葉は、こういうのは私が述べた言葉です。比丘のみなさん。老死は縁、つまり生によってあるのですね。そうですか。どうですか。

 「猊下。老死は縁、つまり生によってあります。これは『老死は縁、つまり生によってある』でなければなりません。これは確かです、猊下」。

 『生は縁、つまり有によってある』という言葉は、こういうのは私が述べた言葉です。比丘のみなさん。生は縁、つまり有によってあるのですね。そうですか。どうですか。

 「猊下。生は縁、つまり有によってあります。これは『生は縁、つまり有によってある』でなければなりません。これは確かです、猊下」。

 『有は縁、つまり取によってある』という言葉、こういうのは私が述べた言葉です。比丘のみなさん。有は縁、つまり取によってあるのですね。そうですか。どうですか。

 「猊下。有は縁、つまり取によってあります。これは『有は縁、つまり取によってある』でなければなりません。これは確かです、猊下」。

 「取は縁、つまり欲によってある」という言葉は、(以下省略)

 「欲は縁、つまり受によってある」という言葉は、(以下省略)

 「受は縁、つま触によってある」という言葉は、(以下省略)

 「触は縁、つまり六処によってある」という言葉は、(以下省略)

 「六処は縁、つまり名形によってある」という言葉は、(以下省略)

 「名形は縁、つまり識によってある」という言葉は、(以下省略)

 「識は縁、つまり行によってある」という言葉は、(以下省略)

 『すべての行は縁、つまり無明によってある』という言葉は、こういうのは、私が述べた言葉です。比丘のみなさん。行は縁、つまり無明によってあるのですね。そうですか。どうですか。

 「猊下。行は縁、つまり無明によってあります。これは『行は縁、つまり無明によってある』でなければなりません。これは確かです、猊下」。

 比丘のみなさん。そうです、そうです。比丘のみなさん。みなさんもこのように述べ、私も『これがあればこれがある。これが生じたからこれが生じた。無明が縁ですべての行があり、行が縁で識があり、識が縁で名形があり、名形が縁で六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で、老死、悲しみ、愁い、苦、すべての悩みが一斉に生じます。苦の塊の発生は、当然このようにしてあります』とこのように述べます。





ブッダより厳格な弟子

マハーサクルタジッスッタ
中部マッジマパンナーサ 13巻318頁324項

 ウダージさん。私の弟子は碗一杯しか食べない人もいるし、碗半分の人もいるし、マトゥム(蜜柑の一種)の実くらいの人も、マトゥムの実の半分くらいしか食べない人もいます。ウダージさん。私は時には鉢の縁すれすれまで食べることも、それ以上のこともあります。

 ウダージさん。私の弟子は糞拭衣を守り、粗末なチーヴァラを維持しています。彼らは墓地や市場のゴミ捨て場やごみの山などから縁が擦り切れた布を拾って集め、外衣を作って維持している人もいます。ウダージさん。私は時には長者たちが献じた柔らかい生地のチーヴァラをまといます。

 ウダージさん。私の弟子は托鉢を勤めとし、路地を歩くことを勤めとして遵守し、普通の比丘のための食べ物を喜び、家の前を歩いていて食事に招く人がいても、喜んで受けない人もいます。ウダージさん。私は時には黒くないご飯と何種類もの汁とおかずがある食事をします。

 ウダージさん。私の弟子は木の根元に住むことを勤めとし、(広い)野外にいることを勤めとして遵守する人もいます。彼らは(一年のうち)八カ月も集会や隠れた場所に行きません。ウダージさん。私は開け閉めできる窓があり、ピッタリしたクサビがあり、隙間風が入らない、上も下も塗り上げた塔のある家に住むこともあります。

 ウダージさん。森に住むことを勤めとする私の弟子は森を静かな住まいとし、パーティモッカ(二二七戒)を聞くために半月ごとにサンガに来ます。ウダージさん。私は時には比丘、比丘尼、清信士、清信女、王、王の側近、異教の教祖、そして異教の弟子の群れと混じっています。

 ウダージさん。もし私の弟子が、ゴータマサマナは小食(等々)だからと考えて私を尊敬し、崇拝し、敬って私と住むなら、碗一杯(等々)しか食べない弟子は、その理由で私を尊敬、崇拝、敬いません(註)。

註: 弟子にそのパティパダーの努力を緩めさせるという意味ではなく、弟子たちが教祖と一緒に住むのは、教祖が小食(等々)だからという理由からではなく、ブッダのニヤヤーニカダンマ(苦から解脱させるダンマ)の事を考えるからと、その修行者に分からせるために比較されたにすぎません。時にはこれらの頭陀行を厳格に守る時もあるとハッキリと説かれています。

 しかしある時期はある種の頭陀を捨てて、ブッダの義務だけに専心する必要があるのであって、ブッダが維持して来られた頭陀が弟子よりも劣ると明言していません。生涯頭陀を遵守したプラカッサパなどは、後から出家した比丘の手本になるためで、それにブッダの義務をする必要がなかったので、ブッダより(頭陀をする)機会がありました。(編者)





ブッダの義務においても弟子と対等に

小部イティウタカ 25巻291頁263項

 比丘のみなさん。この三つの分類の人が世界に生まれる時、当然大衆の支援のため、幸福のため、世界を助けるため、天人とすべての人間を援けるため、幸福のために生まれます。どの三つでしょうか。三つとは、

 比丘のみなさん。如行は自分で正しく悟った人、知識とが完璧で良く行った、世界を明らかに知った阿羅漢サンマーサンブッダとしてこの世界に生まれました。誰も勝る人がない訓練すべき人を訓練する御者であり、すべての天人と人間の先生であり、目覚めた人で、ダンマを分類して動物に教えます。如行は初めも中間も終わりも美しいダンマを説き、意義も細部も完全に完璧な梵行を公開しました。比丘のみなさん。これが一番の人です。

 比丘のみなさん。まだあります。教祖のその弟子は阿羅漢キーナーサバで、梵行が終わり、するべき仕事が成功し、重荷を下ろすことができ、後を追って自分の利益に到達することができ、動物を有に繋ぐものが完全に終わり、正しく知ることで解脱しました。その弟子は、初めも中間も終わりも美しいダンマを説き、意義も細部も完全に完璧な梵行を公開します。比丘のみなさん。これが二番目の部類の人です。比丘のみなさん。

 まだ他にいます。教祖のその弟子は有学で、まだ実践をしなければならない人で、聞くことが沢山ある人で、戒と勤めを理解する人です。その弟子は当然初めも中間も終わりも美しいダンマを説き、意義も細部も完全に完璧な梵行を公開します。比丘のみなさん。これが三番目の部類の人です。

 比丘のみなさん。この三つの分類の人が世界に生まれる時は、当然大衆の支援のため、幸福のため、世界を助けるため、天人とすべての人間を援けるため、幸福のために生まれます。





ブッダの弟子になる人がいる理由 

マハーサクルタジスッタ
中部マッジマパンナーサ 13巻321頁329項

 ウダージさん。すべての弟子が私を尊敬し、敬い、信頼し、崇拝し、そして私と一緒に住む理由は五つあります。五つはどのようでしょうか。

 ウダジさん。私の弟子は「ゴータマサマナは最高の戒蘊がある」と、アディシーラ(高い戒。増上戒)で私に満足します。これが、すべての弟子が私を尊敬し、敬い、信頼し、崇拝し、そして私と一緒に住む理由の一番です。

 ウダージさん。私の弟子は「ゴータマサマナは、本当に知った時『知った』と言い、本当に見た時『見た』と言う。ゴータマサマナは最高の知識のためにダンマを説き、最高でない知識のためではない。ゴータマサマナは道理のあるダンマを説き、道理がなくはない。ゴータマサマナは神通力のあるダンマを説き、神通力がないダンマではない」と知る道具、見る道具である極めて発展した智慧で私に満足します。

 これが、すべての弟子が私を尊敬し、敬い、信頼し、崇拝し、そして私と一緒に住む理由の二番目です。

 ウダージさん。私の弟子は「ゴータマサマナは最高の智慧蘊がある」、そして「ゴータマサマナは先々のことを話す系統と見ない。あるいは世尊が敵の言葉を正しく押さえて静めることは、あり得ない」と、アディパンニャー(高い智慧。増上慧)で、私に満足します。これがすべての弟子が私を尊敬し、敬い、信頼し、崇拝し、そして私と一緒に住む理由の三番目です。

 ウダージさん。私の弟子が何らかの苦に襲われると、あるいは支配されると、当然私に、素晴らしい真実である苦、素晴らしい真実である苦の原因、素晴らしい真実である苦の絶滅、素晴らしい真実である苦の絶滅に至る道について質問します。質問されると、私は彼らに託宣し、問題に答えることで彼らの心を潤します。これが、すべての弟子が私を尊敬し、敬い、信頼し、崇拝し、そして私と一緒に住む理由の四番目です。

 ウダージさん。実践項目は、私がすべての弟子に教えた物で、すべての弟子は教えで実践し、当然四念処に励むことができます。つまりこの宗教の比丘は平素から体の中の体を見、平素からすべての受の中の受を見、平素から心の中の心を見、平素からすべてのダンマの中のダンマを見、罪を燃やす努力があり、広い知識があり、喜びと憂いを出してしまうサティがあります。

 そのような実践で、私の弟子の多くはアビンニャーヴォーサナバーラミー(つまり阿羅漢果)に到達し、そしてその感覚の中にいます。

(この部分は、菩提分、サマーパティ、そして八明まで、長々と話されていますが、必要ないので割愛します)。

 これが、すべての弟子が私を尊敬し、敬い、信頼し、崇拝し、そして私と一緒に住む理由の五番目です。

 ウダジさん。この五つの理由で、すべての弟子は私を尊敬し、敬い、信頼し、崇拝し、そして私と一緒に住みます。(「弟子の方が却って厳しい」と述べたように、ブッダが小食であること、いろんな頭陀があることなどの理由からではありません)。





パーティモッカを説き始めた理由

律蔵マハーヴァッガ 4巻203頁149項

 比丘のみなさん。ここです、私が静かな所にいると「それなら私は、比丘のみなさんにパーティモッカと規定して説いたすべての教条を許可しよう。パーティモッカは比丘のみなさんのカンマの菩薩堂になる」というパリヴィタッカ(考え)が生じました。  比丘のみなさん。私はパーティモッカを説くのを許可します。





今後、弟子と一緒に菩薩堂を造らない

サーヴァーディーに近い寺の菩薩堂で
小部サマナヴァッガ 25巻152頁116項

 菩薩堂を造ろうとしている僧の群れの中に破廉恥な比丘がいたので、世尊は菩薩堂を造られませんでした。その比丘が三度言っても出て来ないので、モッガラーナがサンガの権威で腕を掴んで引き出して強制的に追放し、「猊下。あの人は私が追放しました。教団はもう純潔です。世尊。どうぞ比丘たちにパーティモッガを説いてください」と申し上げねばなりませんでした。

 不思議です、モッガラーナ。腕を掴んで引き出さなければならないほど無益な人は今までいませんでした。モッガラーナ。比丘のみなさん。今より私は菩薩堂を造りません。パーティモッカも説きません。比丘のみなさん。今からみなさんで菩薩堂を造り、パーティモッカを説きなさい。比丘のみなさん。如行が純潔でない教団員の中で菩薩堂を造り、パーティモッカを説く時ではありません。




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