託宣しないこと

チュラマールンカヨヴァーダスッタ
中部マッジマパンナーサ 13巻147頁149項



 マールンカヤプッタさん。如行はあなたに「私の施設で梵行をなさい。私はあなたに十の見解を託宣をします」と言ったことがなく、そしてあなたも私に「私は世尊のお寺で梵行をし、世尊は私に十の見解を託宣なさる」と言っていないと、あなたが話していると聞きました。それなら誰が誰に梵行を返上すると言う無益の人でしょうか。

 マールンカヤプッタさん。たとえ誰が「世尊が十の問題に解答するまでは、私は世尊の施設で梵行をしない」と言っても、私は十の見解の問題を託宣しません。そしてその人は本当に無駄死にします。

 マールンカヤプッタさん。ある男が猛毒を塗った矢で射られ、相談役や親戚一族が腕の良い外科医を呼んで来ると、その男は「私に矢を射た人は武士かバラモンか、商人か町人か、何という名前のどこの一族で、射た弓は矢走りの溝のある弓か、それとも中国式か等々を知らない。それを知るまで矢を抜きたくない」と言うのと同じです。

 マールンカヤプッタさん。その人は知りたがっていることを知ることができず、本当に死んでしまいます。この例えも同じで、その人が「世尊が十の問題を託宣なさるまでは、私はまだ世尊のお寺で梵行をしない」と言い、私がその問題に託宣しなければ、彼は本当に無駄死にします。

 マールンカヤプッタさん。「世界は不変」(十の見解のいずれか一つ)という変わらない見解があれば、梵行をするのですか。

 「そうではありません、猊下」。

 「世界は不変」(十の見解のどれか一つを)という変わらない見解があっても、生・老・死・悲しみ・嘆き・体の苦・心の苦・そして苦である心の干乾びを現生で排除できると規定しました。だからマールンカヤプッタさん。あなたは私が託宣しないことを私が託宣しないと記憶し、私が託宣したことを私が託宣したと記憶なさい。

 マールンカヤプッタさん。私が託宣しないことは何でしょうか。私が託宣しないことは、

世界は不変。

世界は不変でない。

世界に終わりはある。

世界には終わりはない。

命と体は同じ。

命と体は違う。

死んだら当然もう一度今までと同じように生まれる。

死んだら二度と同じようにならない。

死んだら生まれるのもあり、生まれないのもある。

死んだら当然生まれるでもなく生まれないでもない、です。

 なぜ託宣しないのでしょうか。マールンカヤプッタさん。それは当然利益がなく、梵行の糸口でなく、苦の倦怠、欲情の緩み、消滅、抑制、最高の知識、すべてを完璧に知ること、そして涅槃のためにならないからです。だから私は託宣しません。





十辺執見を託宣しない理由

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻478頁792項

 「ゴータマ様。他の教祖である修行者が質問されると、世界は不変、不変でない・・・(中略)・・・如行が死んだら当然生まれるのでもなく、生まれないでもないと託宣する理由は何でしょうか。ゴータマ様が質問されると、世界は不変、不変でない・・・(中略)・・・如行が死んだら当然生まれるのでもなく、生まれないでもないと託宣なさらない縁は何でしょうか」。

 ヴァッチャさん。他のすべての教義の修行者は、当然目、耳、鼻、舌、体、心を「それは自分。それは私自身」と見ます。だからそれらの教義の修行者が質問されると、世界は不変とか、不変でないとか・・・(中略)・・・如行が死んだら当然生まれるのでもなく、生まれないでもないと託宣します。

 ヴァッチャさん。阿羅漢サンマーサンブッダである如行は、当然目・耳・鼻・舌・体・心を「それは自分ではない。それは私自身ではない」と見るので、如行が質問されると、世界は不変とか、不変でないとか・・・(中略)・・・如行が死んだら当然生まれるのでもなく、生まれないでもないと託宣しません。





(別の意味)

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻478頁792項

 ヴァッチャさん。他のすべての教義の修行者は当然形を自分と見、あるいは自分には形があると見、あるいは形の中の自分と見ます。

 (受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。

 ヴァッチャさん。だからそれらの教義の修行者が質問されると、世界は不変とか、不変でないとか・・・中略・・・如行が死んだら当然生まれるのでもなく生まれないでもないと託宣します。

 ヴァッチャさん。一方阿羅漢サンマーサンブッダである如行は当然形を自分と見ず、あるいは自分には形があると見ず、あるいは形の中の自分と見ません。

 (受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。

 だから如行は質問されても、世界は不変とか不変でないとか・・・中略・・・如行が死んだら当然生まれるのでもなく生まれないでもないと託宣しません。





四如行についての十辺執見を託宣しない理由

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻461頁761項

 「猊下。猊下は『如行は死んだ後当然いるのですか』と質問されると、『それは私は託宣しません』と言われ、『如行は死んだ後当然いないのですか』と質問されると、『それは私は託宣しません』と言われ、『如行が死んだ後は当然まだいるのもあり、まだいないのもあるのですか』と質問されると、『それは私は託宣しません』と言われ、

『如行が死んだ後当然まだいることもなく、まだいないこともないのですか』質問されると、『それは私は託宣しません』と言われるのはなぜですか」と、パセンディコーサラ王が質問しました。

 大王。人が如行をどんな形に規定しても、その形を如行はすべて捨ててしまい、根源を抜いてしまい、芽がない砂糖ヤシの木のように生きられないように、当然再び生まれられない物にしました。

 大王。如行は形と見なすことから外れた深遠な状態で、大洋のように見積もることができず、推測が難しい人で、「如行が死んだ後は当然まだいる」とも、「如行は死んだ後当然いない」とも、「如行が死んだ後は当然まだいることもあり、いないこともある」とも、「如行が死んだ後当然まだいることもなく、いないこともない」とも、当然言うことはできません。

 (受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の場合も、形蘊の場合と同じように話されています)。





十見に関わらない理由

アッギヴァッチャゴータラスッタ
中部マッジマバンナーサ 13巻243頁247項

 「ゴータマ様。何の害が見えているので、このようにこれらのディッティ(見解。この場合は邪見)のどれにも至らないのですか」。

 ヴァッチャさん。「世界は不変」というディッティは、ディッティを引っ掴むだけで前途多難にするディッティであり、敵であるディッティであり、ディッティの変更であり、ディッティの束縛であり、苦のためになり、衝撃のためになり、困難のためになり、焦燥のためになり、倦怠、欲情の弛緩のためにならず、消滅、鎮静のためにならず、最高に知ること、完璧に知ること、涅槃のためになりません。

 (「世界は不変ではない」などの二項目から十項目までのディッティの場合も、初めのディッティの場合と同じように話されています)。

 「ゴータマ様。ゴータマサマナのディッティはおありですか」。

 ヴァッチャさん。私はディッティというものを全部取り出して捨てました。ヴァッチャさん。あるのは「形はこのよう、形が生じる原因はこのよう、形が維持できないことはこのよう」と如行が見た真理だけです。

 (受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。

 だから私は「如行は、すべての思い込み、すべての望み、すべてのアハンカーラ(私という感覚。我慢)、アママンカーラ(私の物という感覚。我所有)、マーナヌサヤ(傲慢)の終わり、倦怠、消滅、放棄、返却、執着しないことで、特別な解脱をしました」と述べます。





託宣すること

チュラマールンカヨヴァーダスッタ
中部マッジマパンナーサ 13巻152頁152項

 マールンカヤプッタさん。私が託宣することは何でしょうか。私が託宣するのは「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」です。では、なぜそれを宣言するのでしょうか。それには利益があり、梵行の初めであり、欲情の弛緩、倦怠、消滅、鎮静、最高に知ること、すべてを知ること、そして涅槃のためになるからです。だから私は託宣します。

 マールンカヤプッタさん。だからこのことは、私が託宣しないことは託宣しないと、私が託宣することは私が託宣すると、このように記憶なさい。





ブッダの託宣に満足する人

大獅子吼経
長部シーラカンダヴァッガ 9巻220頁272項

 カッサパさん。ある時私がラーチャガハの都に近い鷲山にいると、ある方の梵行仲間であるニグローダという名前の人が罪を憎む問題について質問しました。罪を憎むことについて質問されたので私は託宣し、私が託宣すると、その方の友人は思いの外喜びました。

 「猊下。猊下のダンマを聞いて思いの外不満な人がいるでしょうか。私は世尊のダンマを聞いて、思いの外満足しました。猊下。実に美しいです。非常に美しいです。伏せた物を裏返したようで、閉じた物を開いたようで、道に迷って人に道を教えるようで、あるいは目のある人に形が見えるように闇の中で明かりを灯したようです。

 猊下。世尊がたくさんの言い回しで説かれたダンマには、たくさんの例えがあります。猊下。どうぞ世尊とダンマとサンガを拠り所にさせてください。世尊の所で、私に具足戒をお授けください」。





聞く人を喜ばせるために託宣しない

中部マッジマパンナーサ 13巻21頁202項

 アヌルッダとみなさん。この宗教の清信女が「こういう名の清信女が亡くなった。彼女は下五結がなくなりました。その人は新しく生まれる有で般涅槃し、その世界に戻らないオッパーティカ(不還)だと世尊が託宣なさった人です」と、このような知らせを聞きました。彼女がまだ生きていた時、その清信女は「この女性は戒があり、智慧があり、正常な生活をし、このように手放すことがある」と自分自身の目で見、常々耳にしていました。

 その清信女は亡くなった清信女の信仰・戒・学習・布施・智慧を思い偲ぶと、当然そのようになるように心を傾けました。アヌルッダとみなさん。このように思い出す清信女に、当然安楽な暮らしがあります。

 アヌルッダとみなさん。如行は大衆を欺くため、大衆を勧誘するため、供物や称賛の結果のために、このようにして大衆に知られるために、亡くなった弟子を「この人はあのブーミ(境)に生まれ、あの人はこのブーミ(境)に生まれた」と託宣しません。アヌルッダとみなさん。

 信仰があり偉大な徳を知り、偉大な徳を喜ぶ良家の子息もいて、それらの子息がその託宣を聞くと、当然同じようになるために心を傾けます。これは当然、それらの良家の子息の永遠の利益になります。





前もって託宣を考える必要はない

アバヤラーチャクマラスッタ
中部マッジマパンナーサ 13巻92頁95項

 アバヤ王子が「猊下。博学者である王、博学者であるバラモン、博学者である長者、博学者であるサマナは、当然問題を抱えると猊下に質問しますが、猊下はそれらの問題の答えを、こう質問されたらこう答えようとあらかじめ想定して考えておかれるのですか。それともそれらの答えは、質問された時、猊下にとって明らかになっているのですか」と質問しました。

 王子。その前に私に質問させてください。あなたがこう答えるべきだと思うようにお答えください。王子。あなたは車のいろんな部品をすべて知っていますか。

 「猊下。私はすべて知っています」。

 王子。誰かがあなたに「車のこの部分は何と言いますか」と質問する人がいたら、あなたはどう考えますか。誰かにこう聞かれたらこう答えようと前もって考えておかなければなりませんか。それとも質問された時答えが明らかに現れていますか。

 「猊下。私は車道楽なので車の部品に精通し、知り尽しています。車の部品について明らかになっているので、答えはその時私にとって明らかに現れ、前もって考えておく必要はありません」。

 王子。それと同じです。博学者である王、博学者であるバラモン、博学者である長者、博学者であるサマナが問題を質問した時、当然それらの問題の答えは私にとって明らかに現れています。それはなぜでしょうか。王子。それは如行が特に良く洞察した物であり、如行はそのダンマダートゥを良く洞察した人なので、答えはその時如行にとって明らかに現れているからです。





訓練を受け入れない人を殺す

増支部チャトゥカニバータ 21巻150頁111項

 ね、ケーシさん。あなたは馬の調教の達人で、その名は鳴り響いています。あなたがどのように馬を調教するのか、知りたいです。

 「猊下。私は当然調教可能な馬を(馬の性質次第で)優しく調教し、過激に調教し、優しく過激に調教します」。

 ケーシさん。優しく訓練しても過激な訓練をしても優しく過激な訓練をしても、馬が訓練を受け入れなかったらあなたはどうしますか。

 「猊下。家の名を辱めないために馬を殺してしまいます。世尊は当然訓練するべき人を誰よりも良く訓練する御者です。世尊はどのような方法で訓練すべき人を訓練なさいますか」。

 ケーシさん。私も当然訓練できる人を優しく訓練し、過激な訓練をし、優しく過激な訓練をします。ケーシさん。その三つの方法のうちの「優しい訓練」は、正しい体はこのよう、正しい体の結果はこのよう、正しい言葉はこのよう、正しい言葉の結果はこのよう、正しい心はこのよう、正しい心の結果はこのよう、天人はこのよう、人間はこのよう、と繰り返し教えます。

 ケーシさん。その三つの方法のうちの「過激な訓練」は、不正な体はこのよう、不正な体の結果はこのよう、不正な言葉はこのよう、不正な言葉の結果はこのよう、不正な心はこのよう、不正な心の結果はこのよう、地獄はこのよう、畜生の生まれはこのよう、餓鬼の境域はこのようと繰り返し教えます。

 ケーシさん。その三つの方法のうちの「優しくて過激な方法」は、正しい体、正しい体の結果はこのよう、不正な体、不正な体の結果はこのよう、正しい言葉、正しい言葉の結果はこのよう、不正な言葉、不正な言葉の結果はこのよう、正しい心、正しい心の結果はこのよう、不正な心、不正な心の結果はこのよう、天人はこのよう、人間はこのよう、地獄はこのよう、畜生の生まれはこのよう、餓鬼の境域はこのようと、繰り返し教えます。

 「猊下。その訓練すべき人が、優しい方法でも過激な方法でも優しく過激な方法でも訓練を受け入れない時は、世尊はどうなさいますか」。

 ケーシさん。訓練すべき人が、三つのどの方法でも訓練を受け入れなければ、私は彼を殺してしまいます。

 「猊下。それは殺生で、世尊にふさわしくないのではありませんか。それでも世尊は殺してしまうと言われますか」。

 ケーシさん。殺生は当然私にふさわしくありません。しかし訓練すべき人が三つのどの方法でも訓練を受け入れないなら、如行はその人を、今後教えるべき人と見なしません。智者である梵行仲間もその人を今後教えるべき人と見なしません。ケーシさん。これが、聖人のヴィナヤの善い殺し方です。つまり如行と梵行仲間が揃って、その人をその後教えるべき人と見なしません。





弟子でも到達しない人がいる理由 

ガナカモッガラーナスッタ
中部ウパリパンナーサ 14巻85頁101項

 「ゴータマ様のお弟子は、ゴータマ様がこのように繰り返し教えられると、全員が最高の結果である涅槃に到達なさるのですか。それとも到達しない方もおられるのですか」と、バラモンであるガナカモッガラーナが質問しました。

 バラモンさん。私の弟子は私がこのように繰り返し教えても、最高の結果である涅槃に到達する人たちはごくわずかで、到達しない人たちもいます。

 「猊下。涅槃があり、動物が涅槃に至る道もあり、(歩いて行くよう)誘うゴータマ様がおられるのに、到達する人が少なく到達しない人がいる原因は何で、縁は何ですか」。

 バラモンさん。私が反対に質問するのでお答えなさい。

 あなたはラージャガハへ行く道に精通していますね。ラージャガハへ行く人が訪ねて来て「発展した方。私はラージャガハへ行こうと思うので、道を教えてください」と言うと、あなたは「この道がラージャガハへ行く道で、しばらく行くとこういう名の村があり、それからこういう名の町が見え、ラージャガハの楽しそうな庭園と森が見え、楽しそうな場所、楽しそうな蓮池が見えます」とこのように教えます。

 その人は、あなたが繰り返し教え、このように繰り返し指示しても、それでも道を間違えて、反対の方向へ行き、(あなたが同じように道を教えた)別の人は、無事にラージャガハへ到着します。バラモンさん。ラーチャガハの都はあり教えるあなたがいるのに、一人は道に迷い、もう一人は無事に到着する原因は何で縁は何ですか。

 「ゴータマ様。それは私にはどうしようもございません。私はただ道を教えるだけですから」。

 バラモンさん。同じように涅槃があり、涅槃に到達する道もあり、誘う私がいて、私がこのように休まず教えている弟子でも、最高の成功である涅槃に到達する人たちは少なく、ある人たちは到達しないのは、バラモンさん。これは私にもどうしようもありません。私はただ道を教えるだけですから。





一般人のためにローグッタラを規定した

エスカーリースッタ
中部マッジマパンナーサ 13巻614頁665項

 「発展なさったゴータマ様。バラモンのみなさんは当然四つの財産を規定しています。つまりバラモンの財産を規定し、カッティヤ(武士)の財産を規定し、ヴェッサ(農)の財産を規定し、スドゥッタラ(町人)の財産を規定しています。

 発展なさったゴータマ様。バラモンは四つの財産のうち、乞食行をバラモンが身に着けている財産と規定しています。バラモンが自分の財産である乞食行を蔑んで自分の義務以外の仕事をするなら、彼はふらふら歩き回って他人の物をくすねる牛飼いの子供と同じです。ゴータマ様。これが、バラモンたちが規定したバラモンの財産です。

 発展なさったゴータマ様。バラモンはその四つの財産のうち、弓と矢をカッティヤが身に着けている財産と規定しています。もしカッティヤたちが自分たちの財産である弓矢を軽んじ、自分の義務外の仕事をするなら、あちこち歩き回って他人の物をくすねる牛飼いの子供と同じです。

 発展なさったゴータマ様。バラモンはその四つの財産のうち、農業と牧畜をヴェッサが身に着けている財産と規定しています。ヴェッサたちが自分たちの財産である農業と牧畜を軽んじ、自分の義務外の仕事をすれば、あちこち歩き回って他人の物を盗む牛飼いの子供と同じです。発展なさったゴータマ様。バラモンはその四つの財産のうち、鎌と天秤棒をスドゥッタラの財産と規定しています。

 スドゥッタラたちが自分たちの財産である鎌と天秤棒を軽んじ、自分の義務外の仕事をするなら、ふらふら歩き回って他人の物をくすねる牛飼いの子供と同じです。バラモンはこの四つの財産を規定しました。この場合ゴータマ様はどうおっしゃいますか」。

 バラモンさん。世界の人すべてが「みなさん、この四つの財産を規定しましょう」と、バラモンのそのような規定を受け入れているのですか。

 「いいえ。ゴータマ様」。

 バラモンさん。それならこれは、財産のない極貧の人に「旦那。この肉は旨そうだ。だがオアシを支払わなければならないよ」と言って、望んでいない肉を吊るして見せる人と同じです。バラモンさん。すべてのバラモンが受け入れていないのに、バラモンがこれら四つの財産を規定したのと同じです。バラモンさん。私は素晴らしいロークッタラダンマ(世俗から出る教え。第一義諦)を、人が身に着ける財産と規定します。

 母あるいは父の代々の家系に思い至ると、カッティヤの家系に生まれた人はカッティヤと見なされ、バラモンの家系に生まれた人はバラモンと見なされ、ヴェッサの家系に生まれた人はヴェッサと見なされ、スドゥッタラの家に生まれた人はスドゥッタラと見なされます。

 バラモンさん。何かに依存して生じた火はそれから生じた火と見なされ、薪に依存して燃える火は薪から生じた火と見なされ、木屑に依存して生じれば木屑から生じた火と見なされ、枯草に依存して生じれば枯草から生じた火と見なされ、牛糞に依存して生じれば牛糞から生じた火と見なされます。

 同じようにバラモンさん。私は素晴らしいロークッタラダンマを人の財産と規定します。母あるいは父の昔からの家系に思い至れば、どの身分に生まれても、その人はその身分と見なされます。

 バラモンさん。カッティヤの家から出家した子息が、如行が公開したダンマヴィナヤに依存して、殺生を避ける人、盗みを避ける人、邪淫を避ける人、虚言を避ける人、飲酒を避ける人になり、虚言を避けて捨て、告げ口を避けて捨て、悪口、無駄口、饒舌を避けて捨て、貪りのない人、復讐心のない人、正しい見解のある人になれば、当然成功し、動物を苦から出す道具である善の結果に満足します。

 バラモンさん。バラモンの家から出家した子息も、(当然同じになります)。

 バラモンさん。あなたはどう理解しますか。恨みがなく加害がない教義のダンマでメッター(慈しみ)に励むにふさわしいのはバラモンたちだけですか。カッティヤ(武士)はふさわしくないですか。ヴェッサ(農家)はふさわしくないですか。スドゥッタラ(町人)はふさわしくないですか。

 「ゴータマ様。そのようなことはございません。カッティヤもふさわしく、ヴェッサもふさわしく、スドゥッタラもふさわしく、すべての人はその教義のダンマで加害のないメッター(慈しみ)に励むにふさわしいです」。

 同じように、バラモンさん。カッティヤの家系でもバラモンの家系でも、ヴェッサの家系でもスドゥッタラの家系でも、そこから出家した子息は、如行が公開したダンマヴィナヤに依存して殺生を避ける人、盗みを避ける人、邪淫を避ける人、虚言を避ける人、飲酒を避ける人になり、

虚言を避けて捨て、告げ口を避けて捨て、悪口、無駄口、饒舌を避けて捨て、貪りのない人、復讐心のない人、正しい見解の人になれば、当然成功し、動物を苦から出す道具である善の結果に満足します。

 バラモンさん。あなたはこれをどう思いますか。水浴用の捩じった布を持って川へ行って体を清潔に擦るのは、バラモンたちだけにふさわしいですか。カッティヤはふさわしくないですか。ヴェッサはふさわしくないですか。スドゥッタラはふさわしくないですか。

 「ゴータマ様。そのようなことはございません。カッティヤもふさわしく、ヴェッサもふさわしく、スドゥッタラもふさわしく、すべての人は水浴用の捩じった布を持って川へ行って、体を清潔に擦るのにふさわしいです

 同じようにバラモンさん。カッティヤの家系でも、バラモンの家系でも、ヴェッサの家系でも、スドゥッタラの家系でも出家した子息は、如行が公開したダンマヴィナヤに依存して殺生を避ける人、盗みを避ける人、邪淫を避ける人、虚言を避ける人、飲酒を避ける人になり、

虚言を避けて捨て、告げ口を避けて捨て、悪口、無駄口、饒舌を避けて捨て、貪りのない人、復讐心のない人、正しい見解の人になれば、当然成功し、動物を苦から出す道具である善の結果に満足します。

 バラモンさん。あなたはこれをどう思いますか。聖水注頂礼を受けた国王が、いろんな家系の何百人もの人を集めて「みなさん、カッティヤ(武士)の家系、バラモン(司祭)の家系、そして王族の方は、サーカの木、サーラの木、あるいはサララ、パトゥマカ、チャンダナの木の(いずれか一つ)に願を掛けた火つけ木と擦って火を点けなさい。

 チャンダーラ(賤民)の家系、猟師の家系、竹細工の家系、車鍛冶の家系、ゴミ捨ての家系の生まれの方は犬の餌箱の木、豚の餌箱の木、染め物をする箱の木、あるいはヒマの丸太に、願を掛けた火つけ木と擦って火を点けなさい」とこのように命じます。

 バラモンさん。あなたはこれをどう思いますか。カッティヤの家系、バラモンの家系、そして王族の生まれの人のサーカの木、サーラの木、あるいはサララ、パトゥマカ、チャンダナの木から生じた火は炎があり、色があり、輝きがあり、火を使ってしたいいろんな仕事に使えますが、

チャンダーラの家系、猟師の家系、竹細工の家系、車鍛冶の家系、ゴミ捨ての家系の生まれの人の犬の餌箱の木、豚の餌箱の木、染め物をする箱の木、ヒマの丸太から生じた火は炎がなく、色がなく、輝きがなく、そして火を使ってしなければならないいろんな仕事に使えませんか。

 「ゴータマ様。そのようなことはございません」。

 バラモンさん。これも同じです。カッティヤの家系からでも、バラモンの家系からでも、ヴェッサの家系からでも、スドゥッタラの家系からでも出家した子息は、如行が公開したダンマヴィナヤに依存して殺生を避ける人、盗みを避ける人、邪淫を避ける人、虚言を避ける人、飲酒を避ける人になり、

虚言を避けて捨て、告げ口を避けて捨て、悪口、無駄口、饒舌を避けて捨て、貪りのない人、復讐心のない人、正しい見解の人になれば、誰でも当然成功し、動物を苦から出す善の結果に満足します。





誰でもその時心にあるダンマにブッダがいるよう

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻146頁216項

 「ヴァッカリさん。お止めなさい。この腐った体を見ても何の利益もありません。ヴァッカリさん。ダンマが見える人は私が見え、私が見える人はダンマが見えます。ヴァッカリさん。ダンマが見えれば私が見え、私が見えればダンマが見えるからです」。


中部ムーラパンナーサ 12巻359頁346項

 「縁起が見える人はダンマが見えると言われ、ダンマが見える人は縁起が見えると言われます」。



小部イティウタッカ 25巻300頁272項

 「比丘のみなさん。比丘が私の衣の縁を掴んで私の後から足跡を踏んで歩いても、彼に貪りが多く強いラーガがあり、復讐心や加害する考えがあり、忘れたサティがあって常自覚がなく、心がサマーディでなく揺れてばかりで根を慎まなければ、その比丘は私から離れていると言われ、私もその比丘から本当に遠くにいます。

 それはなぜでしょうか。比丘のみなさん。それは、その比丘はダンマが見えず、ダンマが見えなければ私が見えないと言われるからです」。

 「比丘のみなさん。その比丘が、たとえ(私から)百ヨージャナ(160キロ)離れていても、彼に貪りが少なく強いラーガがなく、復讐心や加害する考えがなく、安定したサティがあって常自覚があり、心がサマーディでエカッガッター(一境心)に到達して根を慎んでいれば、その比丘は私の近くにいると言われ、私もその比丘の本当に近くにいます。

 それはなぜでしょうか。比丘のみなさん。それは、その比丘はダンマが見え、ダンマが見えれば私が見えると言われるからです」。

註: 心にダンマがあり、心でダンマを考えている人は当然心でダンマが見えるという意味です。ブッダは「ブッダが見える」ようにダンマを見るように望まれました。





世界の動物が最高に三宝を知るのは自分の漏が終わった時だけ

中部ムーラパンナーサ 12巻340頁332項

 バラモンさん。野生の象探しが象がいる山に行って、幅も長さも大きな象の足跡を発見すると、その象探しが賢ければ「これは将軍だぞ! マハーナーク(大龍)象かも」と推測しません。それはなぜでしょうか。バラモンさん。それは野生の象の中には足跡が大きなヴァーマニカーという種類の象がいるので、その種類の象の足跡ということもあるからです。

 その足跡を追って歩いて行くと、幅も長さも大きな足跡が見え、そして高い所の木の皮に象の牙の跡が見え、高い所の枝が折れているのも見え、そして木の根元、あるいは広い所を歩いている姿、膝をついている姿、あるいは寝ている姿が見えてから、彼は「この大将はマハーナーガ象だ」と確信します。

 バラモンさん。これも同じです。如行は自分で正しく悟ったアラハンタサンマーサンブッダとしてこの世界に生まれ、知識と品行が完璧で、良く行った人であり、世界を明らかに知り、訓練するべき人を誰よりも良く訓練する御者、天人と人間の先生、明るい人、ダンマを分類して生き物に教える人として生まれました。如行は初めも美しく、中間も美しく、終わりも美しいダンマを説き、義も細部も純潔完璧な梵行を公開しました。

 その時、長者あるいは長者の子息がそのダンマを聞くと、信仰で出家し、すべての比丘の学習と仕事が完璧になり、聖人の物である戒、聖人のものである根律儀、聖人の物である常自覚が完璧になり、静かな住まいに住み、食べる時間内に托鉢から戻ると、足を組んで座り、体を真っ直ぐに立て、サティをしっかりと据え、心から蓋を拭き取ります。

 その比丘が心を憂鬱にし智慧を後退させる五蓋を捨てれば、愛欲とすべての悪が静まって、ヴィタッカとヴィチャーラ、ヴィヴェカ(遠離)から生じたピーティ(喜悦)とスッカ(幸福)がある初禅に到達し、その感覚の中にいます。バラモンさん。これが「如行の足跡」「如行の体が擦った跡」「如行の牙の跡」と呼ぶ物です。

 しかしその聖なる弟子である比丘は、「世尊はサンマーサンブッダであり、プラタムは善く説かれたものであり、世尊の弟子は善く実践する人」という確信はまだありません。

 バラモンさん。まだあります。比丘は二禅に到達し、三禅に到達し、四禅に到達し、その感覚の中にいます。

 バラモンさん。これが「如行の足跡」「如行の体が擦った跡」「如行の牙の跡」と呼ぶものです。しかしその聖なる弟子である比丘は、まだ「世尊はサンマーサンブッダであり、プラタムは善く説かれた物であり、世尊の弟子は善く実践する人」という確信はありません。

 (詳しくは、本書115ページ、116ページ、「悟りの状況」を参照してください)。   

  http://buddhadasa.hahaue.com/butuden/2-5.html

 その比丘は、心が安定し、純潔清浄になると、心を宿命智に傾け、当然過去に暮らしたことがある、幾つもの蘊を思い出し、・・・・・心を天眼智に傾け、・・・・・心を漏尽智に傾け、「これが漏、これが漏が生じる原因、これが漏の消滅、これが漏の消滅に至る実践項目」と明らかに知ります。バラモンさん。これも「如行の足跡」「如行の体が擦った跡」「如行の牙の跡」と呼ぶものです。

 しかしその聖なる弟子である比丘は、まだ「世尊はサンマーサンブッダであり、プラタムは善く説かれたものであり、世尊の弟子は善く実践する人」という確信がありません。しかし今「世尊はサンマーサンブッダであり、プラタムは善く説かれた物であり、世尊の弟子は善く実践する人」と確信しつつあります。

 その聖なる弟子が、心が愛欲漏からも有漏からも無明漏からも解脱するまで、(漏尽智で)このように知り、このように見ていれば、「解脱した」と知るニャーナがあり、「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にない」と明らかに知ります。

 バラモンさん。これだけの理由でその聖なる弟子である比丘は、当然「世尊はサンマーサンブッダであり、プラタムは善く説かれた物であり、世尊の弟子は善く実践する人」という確信に至ります。

 バラモンさん。象の足跡で例えた話は、当然このように広大です。

註: 人が最高に明らかに知っている三宝の徳も、私たちが一般に理解していることと違って、知るのは自分が阿羅漢である時だけと観察して見なければなりません。それは漏の終わり、あるいは涅槃の徳が染みわたっていなければ涅槃を悟った人の特徴を洞察できず、最高に教えることがないからです。それがプラタムと僧を最高に良く知らない理由です。(編者)




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