1.仏教の公開について
仏教の公開
比丘のみなさん。私は人間の物も天の物も、すべての首枷が外れた人で、みなさんも人間の物も天の物も、すべての首枷が外れた人です。比丘のみなさん。大衆の幸福と世界を可愛がるため、天人と人間の幸福と支援のために遊行なさい。二人同じ方向へ行ってはいけません。
比丘のみなさん。みなさん初めも美しく中間も美しく終わりも美しくダンマを説き、要旨も細部も純潔完璧に梵行を公開なさい。目の中の埃が少ない動物もいます。それらの動物は、当然ダンマを聞かないことで得るべき恩恵が衰退します。ダンマを知り尽す動物も必ずいます。
比丘のみなさん。私もダンマを説くためにウルヴェーラーセーナーニガマに行きます。
大悟する時に使った教え
1. 王子。如行は事実でなく、利益がなく、他人に愛されず、拠り所にならない言葉はどれもハッキリと分かるので、当然その言葉を言いません。
2. 如行は真実でも利益がなく、他人に愛されず拠り所にならない言葉はどれもハッキリと分かるので、当然その言葉を言いません。
3. 如行は真実で利益があっても、他人に愛されず拠り所にならない言葉はどれもハッキリ分かるので、当然その言葉を言うふさわしい時を選びます。
4. 如行は真実でなく利益がなく、しかし他人に愛される拠り所である言葉はどれもハッキリと分かるので、当然その言葉を言いません。
5. 如行は真実であっても利益がなく、しかし他人に愛される拠り所である言葉はどれもハッキリとわかるので、当然その言葉を言いません。
6. 如行は真実であって利益があり、そして他人に愛される拠り所になる言葉はどれもハッキリ分かるので、当然その言葉を言ふさわしい時を知る人です。
それはなぜでしょうか。王子。如行はすべての動物を可愛がる気持ちがあるからです。
一般人の規則と違う発言の規則がある
「ゴータマ様。『私はこのように見た』と見たように言う人でも、『私はこのように聞いた』と聞いたように言う人でも、『私はこのように(耳・鼻・体で)触れた』と触れたように言う人でも、『私はこのように心で明らかに知った』と心で明らかに知ったように言う人でも、そのような発言の罪はそれらの人にはないと私は考え、そう言います」。
バラモンさん。私は見たことは何でも「述べるべき」あるいは「述べるべきでない」と言わず、聞いたことは何でも「述べるべき」あるいは「述べるべきでない」と言わず、触れたものは何でも「述べるべき」あるいは「述べるべきでない」と言わず、心で明らかに知った物は何でも「述べるべき」あるいは「述べるべきでない」と言いません。
バラモンさん。見たことで不善を発展させ、善を衰退させる物について述べるなら、私はそれは「述べるべきでない物」と言います。しかし見たことで不善を衰退させ、善を発展させる物について述べるなら、私はそれを「述べるべき物」と言います。
(聞いたこと、触れたこと、心で明らかに知ったことについても、見たことと同じように話されています)。
ダンマを説く様子
比丘のみなさん。私は最高の知識のためにダンマを説き、最高に知らないためではありません。私は当然道理があるダンマを説き、道理がなくはありません。私は当然不思議な(ビックリする)ダンマを説き、不思議がなくはありません。
比丘のみなさん。私が道理がある不思議なダンマを最高に知るために説き、道理がなく、不思議でもなく、最高に知らないために説くのでなければ、訓誡は誰もが行動すべきものであり、教えは誰もが行動すべきものです。
比丘のみなさん。みなさんが「世尊はサンマーサンブッダで、ダンマは世尊が大悟された物で、僧サンガは善く実践する人」と喜び、満足し、歓喜するに十分です。
ダンマを説く時のサマーディニミッタ
アッギヴェッサナさん。私は何百もの教団員にダンマを説く人なので、もしかしたら「プラゴータマサマナは私だけにダンマを説かれているのかもしれない」と考える人がいるかもしれないと、常に思っています。アッギヴェッサナさん。如行が大衆が明らかに知る利益のために正しくダンマを説いている間は、あなたはそのように見てはいけません。
アッギヴェッサナさん。私は、ダンマを説き始めた時からその話の終わりまで、すべての人が私はこのようだと聞いたことがあるように、当然心を本当の内面のサマーディニミッタに据え、心を維持し、心を安定させ、一つの心にしています。
註: これは、四六時中ダンマを説くサティがあるという意味ではありません。つまり話される時は話すサティがあり、話し言葉が途切れている間に、もしあるならブッダに常にあったような空に関わるサマーディで、ダンマを説いている間中内部のサマーディから離れた心はないということです。編者
愛欲耽溺と苦行耽溺に関して中道のダンマを説く
比丘のみなさん。出家が関わるべきでない二極に突っ走る物があります。二極に突っ走る物とは何でしょうか。それは低い行動であり、庶民の物凡夫の物であり、聖人の物でなく利益がないすべての愛欲と関わること。そして聖人の物でなく利益がない自分を苦しめる努力をすることの二つです。
比丘のみなさん。そのような二極に走らない中道である実践は、如行だけが大悟した実践項目であり、目を生じさせる実践項目、ニャーナ(知ること。智)を生じさせる実践項目で、静まるため、最高に知るため、完璧な悟りのため、涅槃のためになります。
「ある」と「ない」について
ジャーヌソーニバラモンが世尊に拝謁して「ゴータマ様。すべての物はあるのですか」と質問しました。
バラモンさん。すべての物は有るというディッティ(見解)で主張する言葉は、これは一つの端です。
「ゴータマ様。すべての物はないのですか」。
バラモンさん。すべての物はないというディッティで主張する言葉は、これは二つ目の端です。
バラモンさん。如行は当然その二つの端に近寄らない中道のダンマを説きます。
(その後、本当に自分である物があると言えないようにさせる縁起の流れを説いています)。
「その人」と「他の人」について
ある時祇園精舎で、一人のバラモンが世尊に拝謁して、「ゴータマ様。その人が行動して、その人が味わうのですか」とお尋ねしました。
バラモンさん。その人が行動してその人が味わうというディッティ(見解)で主張する言葉は、これは一つの極です。
「ゴータマ様。その人が行動して他の人が味わうのですか」。
バラモンさん。その人が行動して他の人が味わうというディッティで主張する言葉は、これは二つ目の極です。
バラモンさん、如行は当然その二つの極に近寄らない中道のダンマを説きます。
(その後、動物も人も自分もないので、行為者であるその人も他人もいないと説く縁起の流れを説いています)。
「自分で作る」と「他人が作る」について
猊下。私が「ゴータマ様。幸福と苦は自分で作るものですか」とお尋ねしても「そのように言ってはいけません、ティマパルッカさん」とお答えになり、「ゴータマ様。幸福と苦は他人が作って与えるものですか」とお尋ねしても「そのように言ってはいけません。ティマパルッカさん」と答えになり、
「ゴータマ様。幸福と苦は、人が自分で作る物もあり、他人が作って与える物もあるのですか」とお尋ねしても「そのように言ってはいけません。ティマパルッカさん」とお答えになり、「ゴータマ様。幸福と苦は、自分で作る物でもなく、誰かが作れる物でもないのですか」とお尋ねしても「そのように言ってはいけません。ティマパルッカさん」とお答えになり、
「ゴータマ様。幸福と苦はないのですか」とお尋ねしても「ティマパルッカさん。幸福と苦はない訳ではありません。本当に幸福と苦はあります」とお答えになり、「ゴータマ様。もしそうなら、ゴータマ様は幸福と苦をご存知ないのでしょう」とお尋ねしても「ティマパルッカさん。私は、幸福と苦を知らない訳ではありません。私は、当然幸福と苦を知り、当然幸福と苦が見えます」とこのようにお答えになります。
ゴータマ様。どうぞ幸福と苦の話を話してください。私に幸福と苦の説明をしてください。
ティマパルッカさん。人が初めから「受と受を味わう人は同じ」と思い込んでしまっていても、私は「幸福と苦は人が自分で作る物」と言いません。
ティマパルッカさん。人が受に触れて「受と受を味わう人は違う」思い込んでしまっても、このようでも私は「幸福と苦は他人が作ってくれる物」と言いません。
ティマパルッカさん。如行は当然二極に偏らない中道でダンマを説きます。
(その後、動物も人も自分もないので、行為者であるその人も他人もいないと説く縁起の流れを説いています)。
別の経
チェラカッサパが世尊に拝謁して、次のように質問しました。
「猊下。苦は自分で作る物ですか」。
そのように言ってはいけません、カッサパさん。
「猊下。苦は他人が作ってくれる物ですか」。
そのように言ってはいけません。カッサパさん。
「猊下。苦は人が自分で作る物もあり、他人が作ってくれる物もあるのですか」。
そのように言ってはいけません。カッサパさん。
「猊下。苦は自分で作る物でもなく、誰かが作る物でもないのですか」。
そのように言ってはいけません。カッサパさん。
「猊下。苦はないのですか」。
カッサパさん。苦はない訳ではありません。本当に苦はあります。
「猊下。もしそうなら、ゴータマ様は苦をご存知ないのでしょう」。
カッサパさん。私は、苦を知らない訳ではありません。当然苦を知り、当然苦が見えます。
「猊下。世尊は「猊下。苦は自分で作る物ですか」とお尋ねしても「そのように言ってはいけません、カッサパさん」とお答えになり、「猊下。苦は他人が作って与える物ですか」とお尋ねしても「そのように言ってはいけません。カッサパさん」と答えになり、
「猊下。苦は、人が自分で作るものもあり、他人が作って与えるものもあるのですか」とお尋ねしても「そのように言ってはいけません。カッサパさん」とお答えになり、「猊下。苦は、自分で作るものでもなく、誰かが作れるものでもないのですか」とお尋ねしても、「そのように言ってはいけません。カッサパさん」とお答えになり、
「猊下。苦は無いのですか」とお尋ねしても、「カッサパさん。苦は無い訳ではありません。本当に苦はあります」とお答えになり、「猊下。もしそうなら、世尊は苦をご存知ないのでしょう」とお尋ねしても「カッサパさん。私は、苦を知らない訳ではありません。私は、当然苦を知り、当然苦が見えます」とこのようにお答えになります。
猊下。世尊。どうぞ苦の話を話してください。私に苦の説明をなさってください」。
カッサパさん。人が初めから「行動した人が(結果を)味わう」とこのような思い込みがあれば、その人は「苦は自分が作る物」というヴァーダ(主張する主義)があり、それは当然サッサタ(恒常と信じる主義。常見)に駈けて行きます。
カッサパさん。人が受に触れた時「他人が行動する、他人が(結果を」味わう」という思い込みがあれば、彼は「苦は他人が作った物をもらう」というヴァーダがあり、それは当然ウッチェダ(消滅と信じる見解。断見)に駈けて行きます。
カッサパさん。如行は当然どちらの極にも偏らない中間のダンマを説きます。
(その後、動物も人も自分もないので、行為者であるその人も他人もいないと説く、縁起の流れを説いています)。
「何か一つ」と「他のもの」について
世尊が縁起の生起型を説き終わると、一人の比丘が「猊下。老死はどのようですか。老死は誰のものですか」と質問しました。
それは問題にするべきでない問題です、比丘。「老死はどのようですか。そして老死は誰の物ですか」でも、「老死は(前のお尋ねと)違う状態ですか。そして老死は他の人の物ですか」でも、このように質問する人は誰でも、二人が述べる言葉は同じ意味で言葉が違うだけです。
比丘。「命と体は同じ」という見解があれば梵行のような生活はありません。比丘。あるいは「命と体は違う」という見解でもあれば梵行のような生活はありません。
比丘。如行は当然真ん中のダンマを説き、二つの極に近寄りません。つまり如行は当然「生が縁で老死がある」とこのように説きます。
(生、有、取、欲、受、触、処、名形、識、行の場合も、同じ質問と回答があります)。
「同じ」と「違う」について
「ゴータマ様。すべての物は有るのですか」。
バラモンさん。「すべての物は有る」とこのように主張する言葉、これはローカーヤタ(順世外道)の頂点です。
「ゴータマ様。それではすべての物は無いのですか」。
バラモンさん。「すべての物は無い」とこのように主張する言葉、これはローカーヤタ(順世外道)の二番目です。
「ゴータマ様。それではすべての物は同じ状態ですか」。
バラモンさん。「すべての物は同じ状態がある」とこのように主張する言葉、これはローカーヤタ(順世外道)の三番目です。
「ゴータマ様。それではすべての物は違う状態ですか」。
バラモンさん。「すべての物は違う状態がある」とこのように主張する言葉、これはローカーヤタ(順世外道)の四番目です。
バラモンさん。如行はどちらにも偏らない中道であるダンマを説きます。
(この後「何でも、他の物と同じとか違うと比較できる絶対的な実体がある」と言えないようにさせる、縁起の流れを説いています)。
何は何だと、一方的に規定しない
(世尊は一方的に何かを規定する人ではありませんが、次の文章にあるように、同じ名前で呼ぶ物を、ふさわしい部分とふさわしくない部分に分ける主義です。仏教教団員は中道の枠内にいるために最高に慎重にするべきです)。
そうです、長者さん。そうです、長者さん。それらの無益な人はダンマで正しく威嚇されるべき人です。
長者さん。私は当然すべての苦行をはするべき、あるいはするべきでないと言いません。私はどれを遵守するにも遵守すべき、あるいは遵守すべきでないと言いません。私はすべての努力を維持すべき、あるいは維持すべきでないと言いません。私はすべての振り落すことを振り落すべき、あるいは振り落すべきでないと言いません。私はすべての解脱を解脱すべき、あるいは解脱すべきでないと言いません。
長者さん。どんな苦行でもしている時悪が発展し善が衰退するなら、私はその種の苦行は、すべきでないと言います。しかしどんな苦行でもしている時悪が衰退し善が発展するなら、その種の苦行はすべきと言います。
長者さん。どんな遵守でも遵守している時悪が発展し善が衰退するなら、私はその種の遵守はすべきでないと言います。しかしどんな遵守でも遵守している時悪が衰退し善が発展するなら、その種の遵守はするべきと言います。
長者さん。どんな努力でも維持している時悪が発展し善が衰退するなら、私はその種の努力は維持すべきでないと言いますが、どんな努力でも維持している時悪が衰退して善が発展するなら、その種の努力は維持すべきと言います。
長者さん。どんな降り落とすことでも振り落としている時悪が発展し善が衰退するなら、私はその種の振り落すことをすべきでないと言います。しかしどんな振り落すことでも振り落している時悪が衰退して善が発展するなら、その種の振り落すことをすべきと言います。
長者さん。どんな解脱でも解脱している時悪が発展し善が衰退するなら、私はその種の解脱はすべきでないと言います。しかしどんな解脱でも解脱している時悪が衰退して善が発展するなら、その種の解脱はすべきと言います。
(この話に関しては、この章の三番目の「発言する時に、一般と違う教えがある」を読むべきです)。
決定のダンマと不決定のダンマを説く
ポッタパーダさん。それらの修行者はすべての人より本当に目のない盲目の人と言います。それらの人の中で、目がある人はあなただけです。ポッタパーダさん。私はエカンシカ(一方的に規定して説くべき)も規定して説き、アネカンシカ(一方的に規定して説くべきでない)も規定して説きます。
ポッタパーダさん。私が決定すべきでないと規定して説くダンマはどのようでしょうか。ポッタパーダさん。私が決定すべきでないと規定して説くダンマは、
①世界は不変とか、
②世界は不変でないとか、
③世界に終わりがあるとか、
④世界に終わりはないとか、
⑤命と体は同じとか、
⑥命と体は別とか、
⑦如行は死後、当然存在するとか、
⑧如行は死後、当然存在しないとか、
⑨死後、当然存在するのもあり、当然存在しないのもあるとか、
⑩死後、当然いるでもなく、当然いないでもないなどです。
ポッタパーダさん。なぜ私はこれらのダンマを、決定すべきでないダンマと規定して説くのでしょうか。ポッタパーダさん。これらのダンマは深い意義がなく、ダンマがなく、梵行の初めでなく、倦怠のため、欲情の弛緩のため、滅のため、静まるため、最高の知識のため、悟りのため、涅槃のためにならないからです。だからこれらのダンマを、私はアネカンシカダンマ、決定すべきでないダンマと規定して説きます。
ポッタパーダさん。私が決定すべきと規定して説くダンマはどのようでしょうか。ポッタパーダさん。私が決定すべきと規定して説くダンマは、これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に到達する道です。
ポッタパーダさん。なぜ私はこれらのダンマを決定すべきダンマと規定して説くのでしょうか。ポッタパーダさん。これらのダンマは、意義があり、ダンマがあり、梵行の初めであり、倦怠のため、欲情の弛緩のため、滅のため、静まるため、最高の知識のため、悟りのため、涅槃のためになるからです。だからこれらのダンマを、私はエカンシカダンマ、決定すべきダンマと規定して説きます。
非常に注意深くダンマを説く
比丘のみなさん。獅子という獣の王は夕暮れになると住んでいる巣穴から出て伸びをし、四方を見渡して三回獅子吼し、それから餌を探しに出掛けます。
その獅子が象に飛びかかる時は、極めて注意深く飛びかかり、迂闊ではありません。野牛に飛びかかる時は極めて注意深く飛びかかり、迂闊ではありません。牛に飛びかかる時は極めて注意深く飛びかかり、迂闊ではありません。ヒョウに飛びかかる時は極めて注意深く飛びかかり、迂闊ではありません。ウサギや猫などの小動物に飛びかかる時でも極めて注意深く飛びかかり、迂闊ではありません。それはなぜでしょうか。
獅子は獅子の策略が衰退してはいけないと考えるからです。
比丘のみなさん。獅子とは自分で大悟した阿羅漢である如行の代名詞で、教団員(比丘・比丘尼・清信士・清信女)にダンマを説くことが、如行の獅子吼です。
比丘のみなさん。如行が比丘のみなさんにダンマを説く時は極めて注意深く説き、迂闊ではありません。比丘尼のみなさんにダンマを説く時は極めて注意深く説き、迂闊ではありません。清信士のみなさんにダンマを説く時は極めて注意深く説き、迂闊ではありません。清信女のみなさんにダンマを説く時は極めて注意深く説き、迂闊ではありません。乞食や猟師たちなど一般の低い階層の凡夫にダンマを説く時も極めて注意深く説き、迂闊ではありません。それはなぜでしょうか。
比丘のみなさん。如行はダンマを重要と見る人で、ダンマを尊重するからです。
ダンマを下へ置くために説き、掴むためではない
比丘のみなさん。男が長旅をしていると大きな川があり、こちら側は危険がいっぱいで恐ろしく、向こう側は安全ですが、向こう岸へ渡る船や橋がありません。彼は状況を熟考して「それなら自分で乾いた草、乾いた木、木の枝、そして木の葉を集めて筏を作ろう。そして手と足で努力すれば、安全に渡れるに違いない」と考えます。その人がそのように安全に渡ると、
「この筏は私にとって非常に恩がある。それなら頭上に載せて、あるいは肩に担いで持って行くのはどうだろう」と逡巡するようなものです。比丘のみなさん。みなさんはどう考えますか。その男はそうすると思いますか。
「猊下。それはありません」。
比丘のみなさん。彼はどうするべきでしょうか。彼は筏を陸へ引き上げるべきですか。それとも水に浮かべたままにして、彼自身は望みどおり離れて行くだけですか。私が説いたダンマも筏のように、自分を苦から抜き出すためで、持っているためではありません。比丘のみなさん。みなさんは筏に例えられる私が説いたすべてのダンマを捨ててしまうべきです。ダンマでない物については言うまでもありません。
ヴィナヤを規定した様子
サーリプッタ。お待ちなさい。如行はヴィナヤを規定する時を知る人です。
サーリプッタ。サンガ(僧集団)に衰退、あるいは衰退の基盤である行動がまだない間は、当然教祖は教条を規定してすべての弟子にパーティモッッカを説きません。サーリプッタ。サンガに衰退あるいは衰退の基盤である行動が現れた時、その時教祖は当然教条を規定し、それらの衰退、あるいは衰退の基盤である行動を排除するために、すべての弟子にパーティモッカを説きます。
サーリプッタ。サンガができて間がなく、まだ大きくないうちは、サンガに衰退、あるいは衰退の基盤である行動は現れません。サーリプッタ。長く維持して大きくなると、その時サンガに衰退あるいは衰退の基盤である行動が現れるので、その時教祖は当然教条を規定し、それらの衰退あるいは衰退の基盤である行動を排除するために、すべての弟子にパーティモッカを説きます。
サーリプッタ。布教が十分でなく、まだサンガが大きくないうちは、衰退あるいは衰退の基盤である行動は現れません。サーリプッタ。十分布教してサンガが大きくなると、その時サンガに衰退、あるいは衰退の基盤である行動が現れます。その時教祖は当然教条を規定し、それらの衰退、あるいは衰退の基盤である行動を排除するために、すべての弟子にパーティモッカを説きます。
サーリプッタ。まだサンガが大きくないうちは供物が豊かでなく、衰退、あるいは衰退の基盤である行動は現れません。サーリプッタ。供物が豊かでサンガが大きくなると、その時サンガに衰退、あるいは衰退の基盤である行動が現れます。その時教祖は当然教条を規定し、それらの衰退、あるいは衰退の基盤である行動を排除するために、すべての弟子にパーティモッカを説きます。
サーリプッタ。このサンガはまだ高い徳があり、下劣がなく、黒点がなく、まだ純潔純白で義が維持されています。ね、サーリプッタ。これら五百人の比丘の中の一番遅い人でも、落ちて普通になることがない、悟ることが確実な預流です。
ヴィナヤを規定した理由
比丘のみなさん。如行はこの二つの利益の威力に依存してすべての弟子に教条を規定しました。
(それぞれの対について十回、合わせて十組話されましたが、ここでは学習しやすいように、次のように、一度に十組を引用します)。
サンガを良く維持するため、そしてサンガが平穏に暮らすため、
頑固で困った人を脅すため、そして愛している戒があるすべての比丘が平穏に暮らすため、
自分が見た(今感じている)ダンマに生じるすべての漏を塞ぐため、そして将来動物が到達するダンマに生じるすべての漏を排除するため、
自分が見たダンマに生じるすべての罪業を塞ぐため、そしてこれから動物が到達するダンマに生じるすべての罪業を排除するため、
自分が見たダンマに生じるすべての罪を塞ぐため、そしてこれから動物が到達するダンマに生じるすべての罪を排除するため、
自分が見たダンマに生じるすべての危害を塞ぐため、そしてこれから動物が到達するダンマに生じるすべての危害を排除するため、
自分が見たダンマに生じるすべての悪を塞ぐため、そしてこれから動物が到達するダンマに生じるすべての悪を排除するため、
すべての在家を可愛がるため、そして下賤な望みのあるすべての比丘と絶縁するため、
すべてのまだ帰依していない人の帰依のため、そして帰依している人は更なる帰依のため、
サッダンマ(正法)を厳守するため、そしてすべてのヴィナヤを守るため、
比丘のみなさん。如行はこの二つの利益の威力に依存して、すべての弟子に教条を規定しました。
(続いて、あと二十九の様式を規定するために、ヴィナヤを規定する十組の利益を解かれています。
つまり、パーティモッカ、パーティモックダデーサ、パーティモッカッタパナ、パワーラナー、パワーラナーッタパナ、タッカニヤマンマ、ニワッサカンマ、パッバージャニヤカンマ、パティサーラ、ニーヤカンマ、ウカケパニヤカンマ、パリヴァーサナパダー、ニャッティカンマ、ニャッティドゥティカンマ、ニャッティチャトゥッタカンマ、まだ規定してない、規定した物をまだ抜いていない、
サンムージャーヴィナヤ、サティヴィナヤ、アムーラハヴィナヤ、パティンニャータカラナ、イェーブイヤシカー、ティティナヴァッターラカを規定するタッサパーピヤシカーで、合計三十の、十組の利益に依存して規定したヴィナヤです。
ブッダの「非難」の言葉の中のダンマの核心
スディンナさん。あなたは元の妻と同衾していると聞きましたが、事実ですか。
「世尊。事実です」。
無効の人! それはふさわしくなく、適合せず、適してなく、利益にならず、するべきでありません。
無効の人! 私がこのように良く述べたダンマヴィナヤに出家して来て、なぜ生涯純潔で完璧な梵行ができないのですか。
無効の! 私がいろんな角度からダンマを説いたのは倦怠のためであり、欲情するためではありません。
私がいろんな角度からダンマを説いたのは弛緩のためであり、強く掌握するためではありません。
私がいろんな角度からダンマを説いたのは執着しないためであり、執着するためではありません。
無効の人! このダンマで私が倦怠のためにダンマを説くと、反対にあなたは欲情を考え、私が緩むためにダンマを説くと、反対にあなたは強く掴むことを考え、私が執着しないためにダンマを説くと、反対にあなたは執着する考えをしました。
無効の人! 私がいろんな角度からダンマを説いたのは貪りに倦怠するため、陶酔から覚めるため、渇きをなくすため、愛着を抜き取るため、輪廻を断つため、欲望を終わらせるため、薄れるため、消滅のため、涅槃のためではないですか。
無効の人! 愛欲を捨てる方便をいろんな角度から話したでしょう。愛欲想を意識することをいろんな観点で教えたでしょう。愛欲の渇きを消滅させる方便をいろんな側面から話したでしょう。愛欲の考えを抜くことをいろんな角度から教えたでしょう。
無効の人! あなたの性器を女性の性器に入れるより、毒ヘビの口に入れる方があなたにとって良いことです。無効の人! あなたの性器を女性の性器に入れるより、猛毒のある黒コブラの口に入れる方があなたにとって良いことです。無効の人! あなたの性器を女性の性器に入れるより、燃え盛っている炭の穴に投げ込む方があなたにとって良いことです。それが原因で死んでも、まだ苦界、悪趣・報いを受ける場所・地獄には至らないからです。
無効の人! あなたが死後苦界や悪趣、報いを受ける場所、地獄に至らなければならないのは、当然低劣な行動であり、庶民の行動であり、隠さなければならない下賎な行動であり、まだ夫婦でなければいられない動物の行動であるダンマを享受することによります。
無効の人! あなたはたくさんの悪の先鞭をつけました。無益な人! このような行為はまだ信仰がない人に信仰を生じさせず、信仰がある人の信仰を強くせず、信仰のない人の信仰を失わせ、信仰のある人の何人かを転向させるだけです。
(ブッダはスディンナという比丘をいろいろ非難され、それから養い難い人、満足しない人、野心のある人、足るを知らないこと、集団と交わること、怠けることの害を話され、その後養い易い人、満足する人、野心のない人、足るを知ること、集団とまじわらないこと、怠けないことの徳を話され、それからその場にふさわしいダンマの説明をされ、その後言われました)。
比丘のみなさん。このようなら私は十項、つまりサンガを良く維持するため、サンガの平穏のため、頑固な人を脅すため、戒を愛す比丘の安楽のため、現生の漏を塞ぐため、後生の漏を駆除するため、まだ帰依してない人の帰依のため、帰依している人が更に帰依するため、サッダンマ(正法)の安定のため、サンガの規律であるヴィナヤを護るため、その利益の力に依存して、教条を規定します。
輪廻する識がない宗教の教えを説く
サーティさん。あなたは「私は、この識(魂)が当然駆けて行き当然輪廻する。他の物ではないと世尊が説かれたように、ダンマを知り尽くしている」というディッティ(邪見)が生じたと聞きましたが、本当ですか。
「猊下。それは『その識が当然駆けて行き当然輪廻する。他の物ではない』と世尊が説かれたように、私は当然ダンマを知り尽くしています」。
サーティさん。その識はどの様ですか。
「それは、その有の善業、悪業の報いを味わって感じる人、話す人の状態です」。
無益な人! あなたが、このように私が説いたダンマを知り尽くしてるのは、誰に説いた時ですか。
無益な人! 私は『識はたくさんの説明で説いた縁起のダンマ(縁に依存して生じるもの)』と言います。縁がなければ識の発生もない。そうではないですか。
無益な人! そのようなら、当然私に自分が間違って信じている言葉を擦り付けると言います。当然徳でないものにたくさん遭遇します。無効の人! これが苦のためになり、永遠にあなたのためになりません。
(その時、比丘全員を呼んで言われました)。
比丘のみなさん。みなさんこれをどう理解しますか。サーティケヴァッタプッタ比丘を、まだこのダンマヴィナヤの僧の員数に入れるべきですか。
「到底できません、猊下」。
(比丘全員がこのように答えると、ケーヴァッタの子であるサーティ比丘は、黙り込んで恥じ入り、項垂れて返答せず黙していました。世尊は視線を投げて言われました)。
無益な人! あなたは自分の下賤なディッティが明らかになりました。私はここで比丘のみなさんに質問します。
(比丘全員に尋ねられ、サーティ比丘が言ったように述べていないことが明らかになると、識の発生を、六処全部の縁起で説明なさいました)。
本当の仏教の類のカンマの教えを説く
プンナさん。この四種類のカンマは、私が最高の智慧で明らかにして広く公開しました。四つのカンマは何でしょうか。
プンナさん。黒い報いがある黒いカンマもあり、白い報いがある白いカンマもあり、黒白の報いがある黒白のカンマがあり、黒くも白くもない報いがあり、カンマの終わりになる黒くも白くもないカンマもあります。
プンナさん。この場合の人は当然苦になる身行・口行・意行を作り、そして苦になる世界に至り、苦がある触に触れ、当然地獄の動物のように苦だけがある受を味わいます。プンナさん。これを黒い報いがある黒いカンマと言います。
プンナさん。この場合の人は、当然苦にならない身行・口行・意行を作り、そして苦にならない世界に至り、苦がない触に触れ、当然天人たちのように幸福だけがある受を味わいます。プンナさん。これを白い報いがある白いカンマと言います。
プンナさん。この場合の人は、当然苦になったり幸福になったりする身行・口行・意行を作り、そして苦になり幸福になる世界に至り、苦と幸福がある触に触れ、当然人間、天人の一部、報いを受ける動物たちのように苦と幸福がある受を味わいます。プンナさん。これを黒白の報いがある黒白カンマと言います。
プンナさん。この場合の人は、黒い報いがある黒いカンマを捨てる意図があり、白い報いがある白いカンマを捨てる意図があり、黒白の報いがある黒白カンマを捨てる意図があります。プンナさん。これを黒くも白くもない報いがありカンマの終わりになる、黒くも白くもないカンマと言います。
プンナさん。これが、私が最高の智慧で明らかにして広く公開した四つのカンマです。
註: 四つのカンマの話は他に何か所もあり、細部が同じのもあり、違うのもあります。増支部チャトゥカニパーダ 21巻303頁232項は四つとも上記と同じで、増支部チャトゥッカニパーダ 21巻318頁235項は五戒の破戒でカンマを説かれ、五戒があることで説かれ、あとの二つのカンマも同じように説かれています。
増支部チャトゥカニパーダ 21巻320頁238項は一番、二番、三番のカンマは同じで、四番目のカンマは七覚支で説かれ、聞き手は比丘のことも、他の人たちのこともあります。(編者)
すべての動物のための岸守り
比丘のみなさん。愛らしく陶酔させる物が原因で男が川を泳いで下っていると、岸に立っている知識者である男がその男を見て、「発展した方。あなたは可愛い物、気に入った物のために川を泳いで下っていますが、下流には波や渦のある淵があり、鬼や羅刹がいるので、そこに至れば死ぬか死ぬほどの苦を味わわなければなりませんよ」と叫びます。
比丘のみなさん。川を泳いで下っている男がそれを聞いて、両手両足で流れに逆らって必死で泳いで戻るようなものです。
比丘のみなさん。この例えは、内容を理解させるために私が作りました。これが要旨です。
つまり
「水の流れ」とは欲望で、
「愛らしく陶酔させる物」とは六内処入で、
「下流に淵がある」とは五下分結(サンニョージャナの初め五つ)で、
「波」とは怒りと困窮で、
「渦」とは五欲で、
「鬼や羅刹」とは女性で、
「波に逆らう」とは出離のことで、
「両手両足で努力する」とは努力を始めることで、
「岸に立っている知識者である男」とは阿羅漢サンマーサンブッダである私です。
鹿の群れを放すようにすべての動物を解放する
比丘のみなさん。大きな鹿の群れが広い森の大きな低地に棲んでいると、そのシカの群れにとって安全でない、利益や支援にならない男が、鹿の群れが自由に便利に安全に通れる道を塞いで危険な道を開け、おとりのオスとメスの鹿を置いておくようなものです。比丘のみなさん。このような行動によって、その鹿の群れはその後破滅に至ります。
比丘のみなさん。その大きな鹿の群れにとって安全で、利益や支援を望む男が現れて、鹿の群れが自由に便利に安全に通れる道を開け、危険な道を塞いで、おとりのオスとメスの鹿を外してしまいます。比丘のみなさん。このような行動によって、その鹿の群れはその後発展繁栄に至ります。
比丘のみなさん。この例えは意義を教えるために私が作りました。
大きな低地はすべての愛欲の代名詞で、
大きなシカの群れはすべての動物の代名詞で、
危険を望む男は罪のある悪魔の代名詞で、
危険な道は八つがある誤った道、つまり誤った見解、誤った考え、誤った言葉、誤った業、誤った生業(生活)、誤った努力、誤ったサティ、誤ったサマーディの代名詞で、
オスのおとりの鹿は欲貪の代名詞で、
メスのおとりの鹿は無明の代名詞で、
安全を望む男は阿羅漢サンマーサンブッダである如行の代名詞で、
安全な道は八つがある正しい道、つまり正しい見解、正しい志向、正しい言葉、正しい業、正しい生業(生活)、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディの代名詞です。
比丘のみなさん。このように安全で便利で自由に行き来できる道は私が開放した道で、危険な道を塞ぎ、オスのおとり、メスのおとりも、私は取り除いてしまったということです。
比丘のみなさん。可愛がる人であり、可愛がることに依存した利益を求める教祖が弟子のにみなさんするべきことは何でも、私はみなさんにしました。比丘のみなさん。ほら、木の根元、ほら、空き家。比丘のみなさん。みなさん煩悩を焼く努力をなさい。油断をしてはいけません。後で焦燥する人になってはいけません。これが私がみなさんに繰り返し教える言葉です。
道に賢い人として自分で仕分ける
ティッサさん。一人は道に賢くなく、もう一人は道に賢い二人の男がいて、道に賢くない男が道に賢い男に道について尋ねると、道に賢い男は「発展した方、おいでなさい。ほら、この道をしばらく行くと二又が見えるので、左は避け、右の道を行きなさい。しばらくすると深い森の縁が見え、更にしばらく行くと大きな湿地が見え、更にしばらく行くと断崖が見え、更にしばらく行くと平坦で気持ちの良い区域が見えます」と答えます。
ティッサさん。この例えは、理解させるために私が作りました。
道に賢くない男とは凡夫を意味し、
道に賢い男とは阿羅漢サンマーサンブッダである如行を意味し、
二又の道は疑念を意味し、
左の道は八つがある誤った道、つまり誤った見解、誤った考え、誤った言葉、誤った業、誤った生活、誤った努力、誤ったサティ、誤ったサマーディを意味し、
右の道は八つがある正しい道、つまり正しい見解、正しい志向、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディを意味し、
深い森の縁とは無明を意味し、
広い湿地とはすべての愛欲を意味し、
断崖とは怒りや恨みを意味し、
平坦で気持ちがよい区域とは涅槃を意味します。
ティッサさん。喜びなさい。ティッサさん。私が述べ、私が援け、私が繰り返し教えたように喜びなさい。
世尊はこのように言われると、プラティッサは世尊の言葉に満足し、非常に喜びました。
すべてのブッダと同じように教える
カンダラカさん。遠い過去のすべてのサンマーサンブッダ、それらのブッダはみな、比丘が正しい実践をするよう、極めてこのように、つまり今私が比丘サンガに正しい実践をするよう教えるのと同じように教えました。
カンダラカさん。遠い未来のすべてのサンマーサンブッダ、それらのブッダもみな、比丘が正しい実践をするよう、極めてこのように、つまり今私が比丘サンガに正しい実践をするよう教えるのと同じように教えます。
カンダラカさん。漏が終り、梵行が終り、するべき仕事が終って重荷を下ろすことができ、到達した自分の利益があり、完全に終わったサンニョージャナ(結)があり、正しく知り尽くすことで特別な解脱をした阿羅漢である比丘たちがこの比丘サンガの中にいます。そして常に戒があり、常に勤めがあり、智慧があって自分を護るものである智慧で生きている有学である比丘(預流、一来、不還)も、この比丘サンガにいます。
誰も異議を唱えられない教祖
「ゴータマ様。この世界に誰も異議を唱えられない教祖はいますか」。
ロヒッチャさん。世界の誰も意義を唱えられない教祖はいます。
「ゴータマ様。そのような教祖はどのようですか」。
ロヒッチャさん。如行はこの世界に、知識と徳行が具わった人、良く行った人、世界を明らかに知る人、訓練すべき人を誰よりも良く訓練できる人、すべての天人と人間の先生、智者、目覚めた人、ダンマで明るい人、ダンマを分類して動物に教える人、自分で正しく悟った阿羅漢として生まれました。
長者、あるいは後からその家に生まれる人は当然そのダンマを聞き、聞けば当然如行に信仰が生じ、その人は如行を信仰することで後を追い、当然「在家は窮屈で埃の来る道。出家は開かれた機会。所帯を持って、良く磨いたほら貝のように純潔な梵行を行うのは簡単ではない。それなら髪と髭を下ろし、袈裟をまとい、家を出て出家し、家のない人になろう」とこのように熟慮して見ます。
その後大なり小なりの財産を捨て、大なり小なりの親戚を捨て、髪と髭を下ろし、袈裟をまとって家を出て家のない出家になります。
このように出家した比丘は、パーティモッガで細心の注意を払い、行儀とゴーチャラ(好んで行く場所)が完璧になり、普段から小さな物でもすべての罪の害が見え、すべての教条をするべきものと受け入れて遵守し、善である身業と口業と意業が揃い、純潔な生業があり、戒が完璧で、すべての根で管理している門があり、サティと自覚があり、サンドーサ(知足)があります。
ロヒッチャさん。戒が完璧な比丘は、どのようでしょうか。このダンマヴィナヤの比丘は、殺生を捨て、殺生を避け、丸太と武器(刃物)を置いてしまい、恥を知り、慈しみと憐れみに至り、すべての生類を支援することを望んでいます。
彼は盗みを捨て、窃盗を避け、人から与えられた物だけを所有し、与えられる物だけを望む盗人でない清潔な人で、愛欲の振る舞いを捨て、愛欲の振る舞い(つまり誤った振る舞い)を避け、母が愛護し、父が愛護し、兄弟が愛護し、姉妹が愛護し、親戚が愛護し、ダンマが愛護する女性、夫がある女性、借金のかたの範囲にいる女性、
婚約をしている女性に対してそれらの間違った振る舞いがない人で、梵行でないカンマを捨て、普段から梵行の振る舞いをし、庶民の物である性交を回避し、近づかない行動をします。
ロヒッチャさん。このように戒が完璧な比丘は初禅に到達して、その感覚の中にいます。ロヒッチャさん。弟子はどの教祖によってでも、今見える偉大な徳に到ります。ロヒッチャさん。これが、世界の誰も意義を唱えられない教祖です。このような教祖への異議申し立ては、誰のものでも真実でなく、ダンマがなく、罪があります。
(二禅、三禅、四禅の場合も、初禅と同じように話されています)。
教えることができる
ニグローダさん。私は「おいでなさい。自慢せず、策略がなく、生まれつき真直な知識者である人が、私が繰り返し教え説いているダンマを私が教えるように実践すれば、それに勝る物はない、家を出て出家し正しく家のない人になった良家の子息が望んでいる梵行の終り(つまり阿羅漢果)を、生きているうちに、七年以内に、自分自身の最高の智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいることができます」とこのように言っています。
ニグローダさん。七年を撤回してもいいです。六年以内に自分自身の最高の智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいることができます」とこのように言っています。
ニグローダさん。六年を撤回してもいいです。五年以内に・・・・、四年、三年、二年、一年を撤回してもいいです。
ニグローダさん。七か月、六か月、五か月、四か月、三か月、二か月、一か月、半月を撤回してもいいです。
ニグローダさん。おいでなさい。自慢せず、策略がなく、生まれつき真直ぐな性質である人が、私が繰り返し教え説いているダンマを私が教えるように実践すれば、それに勝る物はない、家を出て出家し正しく家のない人になった良家の子息が望んでいる梵行の終り(つまり阿羅漢果)を、生きているうちに、七日で自分自身の最高の智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいることができます。
二種類の見依を排除するために四念処を説く
ジュンダさん。四つの念処を私が説いて規定したのは、過去の蘊に行くのも、未来の蘊に行くのもディッティニッサヤ(見依)を捨ててしまうため、通過してしまうためです。
どの四つの念処でしょうか。ジュンダさん。四つとは、このダンマヴィナヤの比丘は①平素から体の中の体が見え、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の満足と不満を出してしまえる人で、
②平素からすべての受の中の受が見え、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の満足と不満を抜き出してしまえる人で、
③平素からすべての心の中の心が見え、煩悩を焼く努力があり、自覚があり、サティがあり、世界の満足と不満を抜き出してしまうことができる人で、
④平素からすべてのダンマの中のダンマが見え、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の満足と不満を抜き出してしまうことができます。
ジュンダさん。この四つの念処を私が説いて既定したのは、過去の蘊に行くのも、未来の蘊に行くのも、ディッティニッサヤを捨ててしまうため、通過してしまうためです。
註: 四念処がある比丘は当然、「動物、人、自分、他人」という感覚がないので、自分と世界は不変という、このような見方が生じる道はありません。編者
自分で見えるように識を教えられる
カッチャーナさん。一番初め(過去世)を知らず、一番終わり(来世)を知らないサマナ・バラモンの誰でも、「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にないと、私は知りました」と宣言するなら、それらのサマナ・バラモンは、ダンマで正しく威嚇されるにふさわしいです。カッチャーナさん。
しかし過去の話はさておき、未来の話はさておき、知識者であり、自慢をせず、欺瞞がなく、真っ直ぐな生まれの人はお出でなさい。私が教え、ダンマを説きます。私が教えたように実践すれば、捕縛具つまり無明から特別に正しく解脱すると言われているように、間もなくこのように自分で知り、自分で本当に見えます。
カッチャーナさん。布団の上に仰向けに寝ている赤ん坊は、五回目に首の所を捕縛具である糸で縛られ、すべての根の発達に依存してこれらの捕縛具から脱せば、彼は「捕縛具から解放された」と感じ、残っている捕縛具はないように、カッチャーナさん。知識者で自慢をせず、欺瞞がなく、素性が真っ直ぐな人はお出でなさい。私が教え、ダンマを説きます。
私が教えたように実践すれば、捕縛具つまり無明から特別に正しく解脱すると聞いているように、このように間もなく自分で知り、自分で本当に見えます。
最高に教えることができる
王子。五つの努力にふさわしい物は何でしょうか。五つとは、王子、このダンマヴィナヤの比丘は、
(1) 信仰のある人で、当然教祖の悟りを「このような理由で教祖は自分で正しく大悟した人で、知識と徳行が具わった人で、良く行った人で、世界を明らかに知る人で、訓練すべき人を誰よりも良く訓練する人で、すべての天人と人間の先生で、ダンマを分類して動物に教える人だ」と、このように信じます。
(2) 病気が少なく患いが少ない人で、安定して食べ物を消化する火界(熱)があり、熱すぎず冷えすぎない中くらいで、努力をするに適しています。
(3) 自慢をせず計略がない人で、教祖や智者やすべての梵行仲間に対して、ありのままの自分を公開しています。
(4) 悪である物を捨てるため、善である物に到達するために努力を始めた人で、明るく安定し、善であるすべての仕事を投げ捨てません。
(5) 智慧がある人で、発生と消滅を認識する智慧があり、煩悩を突き刺す道具、正しく苦を終わらせる道具である素晴らしい智慧がある人です。
王子。これらが、五つの努力にふさわしいものです。
王子。これら五つがある比丘が指導者である如行を得れば、生きているうちに、七年以内に、家を出て出家し正しく家のない人になった良家の子息の望みである、これ以上に素晴らしい物はない梵行の終りを明らかにし、そしてその感覚の中にいます。
王子、七年を撤回してもいいです。
王子、六年を撤回してもいいです。
王子、五年を撤回してもいいです。
王子、四年を撤回してもいいです。
王子、三年を撤回してもいいです。
王子、二年を撤回してもいいです。
王子、一年を撤回してもいいです。
王子、七か月を撤回してもいいです。
王子、六か月を撤回してもいいです。
王子、五か月を撤回してもいいです。
王子、四か月を撤回してもいいです。
王子、三か月を撤回してもいいです。
王子、二か月を撤回してもいいです。
王子、一か月を撤回してもいいです。
王子、半月を撤回してもいいです。
王子、七日七晩を撤回してもいいです。
王子、六日六晩を撤回してもいいです。
王子、五日五晩を撤回してもいいです。
王子、四日四晩を撤回してもいいです。
王子、三日三晩を撤回してもいいです。
王子、二日二晩を撤回してもいいです。
王子、一日一晩を撤回してもいいです。
これらの五つの努力にふさわしい比丘が指導者である如行に出合い、私が夕方教えを説けば、翌朝には最高の美徳に到達し、朝方教えを説けば夕方には素晴らしい功徳に到達できます。
「ああプットー。ああダンマ。ああダンマは世尊が良く説かれた物です。世尊が夕方教えを説かれると、良家の子息は翌朝には素晴らしい功徳に到達し、世尊が朝方教えを説かれると、夕方には素晴らしい功徳に到達するからです」。ボーディ王子は、不思議な気持ちでそうお答えしました。
天人や人間が公開できる形で梵行を公開する
比丘のみなさん。過去のサンマーサンブッダのみなさんが歩いた古道である道の跡はどのようでしょうか。それは八正道です。すなわち正しい見解、正しい望み、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。比丘のみなさん。これが過去のサンマーサンブッダのみなさんが歩いた古道の跡です。
私がその道を歩いて行き、その道を歩いていると老死を知り、老死が生じる原因を知り、老死の消滅を知り、老死の消滅に到達する道を知りました。
(この後、生、有、取、欲、受、触、処入、名形、識、行のそれぞれを、老死の場合と同じように、四つの状態で話されています)。
比丘のみなさん。私がその道を知ると、比丘、比丘尼、清信士、清信女のみなさんに話しました。
比丘のみなさん。私が教えた梵行は盤石で、繁栄している梵行で、広まっている梵行で、多くの人々に知られ、非常に堅固に安定して、人間と天人のみなさんが良く公開することができます。
美酒のような梵行を公開する
比丘のみなさん。私がこのように善く述べたダンマは伏せていた物を裏返したようなダンマで、閉じていた物を開けたようなダンマで、公開して轟かせたようなダンマで、如行が全部切り取ったボロの部分があるダンマです。
比丘のみなさん。このダンマは私がこのように善く述べたダンマで、信仰で出家した良家の子息が「皮と腱と骨だけを残して体の中の肉と血は干からびても、人の力、男の努力で到達するべきどんな利益もまだその利益に至らないうちは、男の努力を止めることはない」とこのように、努力を始めるにふさわしいダンマです。
比丘のみなさん。この梵行は醍醐味のある最高の酒のように美味で、教祖も目の前にいます。比丘のみなさん。だからまだ到達していない物に到達するために、まだ踏みしめていない物を踏みしめるために、まだ明らかにしていな物を明らかにするために努力を始めなさい。そうすればみなさん全員の出家であることは低劣でなく不毛でなく、結果があり儲けがあります。
みなさんがどんな人々の衣、食べ物、住まい、治療薬を消費しても、それらの人々の私たちへの行為は大きな結果大きな功徳があります。比丘のみなさん。みなさんこのように心に銘じなさい。
比丘のみなさん。怠け者は当然苦で暮らし、すべての下賎な悪と混じり、当然自分の偉大な利益を衰退させます。比丘のみなさん。一方始めた努力がある人は当然幸福に暮らし、すべての下賎な悪が静まって、当然自分の偉大な利益を完璧にします。比丘のみなさん。素晴らしい行動による素晴らしいダンマへの到達が、当然あります。
続いて実践する人が自分で「正しい」と見える道を説く
カッサパさん。続いて実践する人が「ゴータマサマナは常日頃、時にふさわしく述べ、真実を正しく述べ、意義を述べ、ダンマを述べ、ヴィナヤを述べる」と自分で知り自分で見える道がありパティパダー(道)があります。
カッサパさん。その道はどのようで、そのパティパダーはどのようでしょうか。その道は八項目がある素晴らしい道、つまり正しい見方、正しい望み、正しい言葉、正しい仕事、正しい生業、正しい努力、正しく思い出すこと、正しい専心です。
カッサパさん。これが、続いて実践する人が「ゴータマサマナは常日頃時にふさわしく述べ、真実で正しく述べ、意義を述べ、ダンマを述べ、ヴィナヤを述べる」と自分で知り自分で見える道でありパティパダー(道)です。
六段階の結果がある善く説かれたダンマを説く
(最低でも天国がある)
比丘のみなさん。ダンマは私が良く説いたダンマであり、伏せていたものを裏返したようにしたダンマであり、閉じていた物を開いた物にしたダンマであり、如行が公開して轟かせたダンマであり、如行がクズの分部を全部削り落としたダンマです。
比丘のみなさん。私がこのように良く説き、如行が全部切り捨てたクズの部分があるダンマに、漏が終わり梵行が終わり、しなければならない仕事は成功し、重荷を下ろすことができ、自分が到達した利益があり、終わったサンニョージャナ(輪廻に結び付ける物。結)があり、知る物である智慧で正しく解脱した阿羅漢である比丘が生まれれば、誰でもそれらの比丘の輪廻は、当然その後規定するためにありません。(一番の結果)
比丘のみなさん。ダンマは私が善く説いたダンマであり、伏せていた物を裏返したようにしたダンマであり、閉じていた物を開いたものにしたダンマであり、如行が公開して轟かせたダンマであり、如行がクズの分部を全部削り落としたダンマです。
比丘のみなさん。私がこのように善く説き、如行が全部切り捨てたクズの部分があるダンマの中の、初等の五つのサンニョージャナが捨てられてなくなったすべての比丘、それらすべての比丘はオッパーティカ(不還)であり、その有で般涅槃する人であり、当然その世界に戻って来ません。(二番の結果)
比丘のみなさん。ダンマは私が善く説いたダンマであり、伏せていた物を裏返したようにしたダンマであり、閉じていた物を開いた物にしたダンマであり、如行が公開して轟かせたダンマであり、如行がクズの分部を全部削り落としたダンマです。
比丘のみなさん。私がこのように善く説き、如行が全部切り捨てたクズの部分があるダンマの中の、初等の三つのサンニョージャナが捨てられ、貪りと怒りが軽くなったすべての比丘、それらすべての比丘は一来であり、この世界に一度だけ戻って来て苦を終わらせます(三番の結果)
比丘のみなさん。ダンマは私が善く説いたダンマであり、伏せていた物を裏返したようにしたダンマであり、閉じていた物を開いた物にしたダンマであり、如行が公開して轟かせたダンマであり、如行がクズの分部を全部削り落としたダンマです。
比丘のみなさん。私がこのように善く説き、如行が全部切り捨てたクズの部分があるダンの中の、初等の三つのサンニョージャナを捨てられたすべての比丘、それらすべての比丘は当然預流であり、当然落ちて普通になることはなく、将来確実に般涅槃する人です。(四番の結果)
比丘のみなさん。ダンマは私が善く説いたダンマであり、伏せていた物を裏返したようにしたダンマであり、閉じていた物を開いた物にしたダンマであり、如行が公開して轟かせたダンマであり、如行がクズの分部を全部削り落としたダンマです。
比丘のみなさん。私がこのように善く説き、如行が全部切り捨てたクズの部分があるダンマの随法行者、随信行者である比丘が生まれれば、それらすべての比丘は将来行く場所であるサンボーディがあります。(五番の結果)
比丘のみなさん。ダンマは私が善く説いたダンマであり、伏せていた物を裏返したようにしたダンマであり、閉じていた物を開いた物にしたダンマであり、如行が公開して轟かせたダンマであり、如行がクズの分部を全部削り落としたダンマです。
比丘のみなさん。私がこのように善く説き、如行が全部切り捨てたクズの部分があるダンマに、美徳は信仰だけ愛だけの人たちが生まれれば、その人たちすべては将来行く場所である天国があります。(六番の結果)
知って教えないことは教えることより遥かに多い
世尊が地面に落ちているシーサパー(註)の木の葉を掴んで多くの比丘たちに言われました。
比丘のみなさん。みなさんはどう思いますか。私が掴み上げたシーサパーの木の葉と、まだ木についているシーサパーの葉はどちらが多いですか。
「猊下。世尊が手で掴まれている木の葉は少しで、まだ木についている葉の方が多いです」。
比丘のみなさん。同じように私が最高の智慧で知って教えないダンマは、教えている部分より多いです。比丘のみなさん。なぜ私はその部分のダンマを教えないのでしょうか。比丘のみなさん。その部分のダンマには梵行の初めである利益がなく、倦怠のためにならず、欲情の弛緩のためにならず、消滅のためにならず、鎮まるためにならず、究極の知識のためにならず、悟りのためにならず、涅槃のためにならないからです。
比丘のみなさん。私が教えるダンマは何でしょうか。比丘のみなさん。私が教えるダンマは「苦はこのよう、苦が生じる原因はこのよう、苦の消滅はこのよう、苦の消滅に到達する実践項目はこのよう」という項目です。比丘のみなさん。なぜこの部分のダンマを教えるのでしょうか。
比丘のみなさん。この部分のダンマは利益があり、梵行の初めであり、倦怠のためになり、欲情の弛緩のためになり、消滅のためになり、鎮まるためになり、究極の知識のためになり、知り尽すため、涅槃のためになるので、私は教えます。
註: サンスクリット語辞典には無憂樹とあり、dlbergia siaaoo ツルサイカチ(ローズウッドなどの属)と訳している本もあります。
ブッダの言葉はすべて一致する
比丘のみなさん。如行がアヌッタラサンマーサンボーディニャーナ(無上正菩提智)を悟った夜から、アヌパーディセサニッバーナ(無余依涅槃)で般涅槃するまで、如行が教え諭し説明するどの言葉も、それらすべては当然一貫して矛盾はありません。
比丘のみなさん。(更に)如行は述べたように行動し、行動するように述べます。
世界の学者と論争しない教え
比丘のみなさん。私は当然世界と論争を述べませんが、世界は当然私と論争します。比丘のみなさん。ダンマヴァーディー(ダンマ主義者)である人は、当然世界の誰とも論争しません。
比丘のみなさん。世界の知識者が「ない」と仮定した物(同じに知っている)は何でも、私も「ない」と言い、比丘のみなさん。世界の知識者が「ある」と仮定した物は、私も「ある」と言います。
比丘のみなさん。世界の知識者が「ない」と仮定し、私も「ない」と言う物は何でしょうか。比丘のみなさん。不変で永遠で確実で当たり前に変化のない形は、世界の知識者がないと仮定し、私も「ない」と言います。(受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。比丘のみなさん。これが世界の学者が「ない」と仮定し、私も「ない」と言う物です。
比丘のみなさん。世界の学者が「ある」と仮定し、私も「ある」と言う物は何でしょうか。
比丘のみなさん。不変でなく苦であり当たり前に変化がある形は、世界の知識者は有ると規定し、私も有ると述べます。(受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。比丘のみなさん。これが世界の知識者が「有る」と仮定し、私も「ある」と言う物です。
苦と苦の消滅だけを教える
比丘のみなさん。私がこのように教え、このように述べても、サマナ・バラモンの中にはありもしない言葉で「人を誤った道に導いて破滅させるゴータマサマナは、当然動物・人・自分と他人の自我の消滅、破滅、無を規定して教える」とこのようになすりつける人がいます。比丘のみなさん。それらのサマナ・バラモンは私が述べていないこと、あるいは言わないこと、あり得ないこと、ありもしない言葉をなすりつけます。
比丘のみなさん。過去でも現在でも、私が規定して教えるのは「苦と苦の消滅の話」だけです。
比丘のみなさん。苦と苦の消滅について話すことに対して、誰かが皮肉を言い当てこすって揶揄しても、如行はそれが原因で怒り不満に思って腹を立てることはありません。
比丘のみなさん。同じことで尊敬し称賛し崇拝しても、如行は嬉しいとか大喜びする感覚はありません。あるいは恍惚としません。尊敬し称賛し崇拝する人がいれば、如行は当然「今まで全身に自覚があったように、今も全身に自覚がある」と、このように考えます。
最も多く教えた教え
「ゴータマ様。弟子のみなさんをどのように導かれるのですか。特にゴータマ様の教誨は、当然すべての弟子で経過し、ほとんどはどのような部分、つまり分類があるのですか。
アッギヴェッサナさん。私はこのようにすべての弟子を導き、更に私の教誨は当然すべての弟子で経過し、ほとんどは「形は不変でなく、受は不変でなく、想は不変でなく、すべての行は不変でなく、識は不変でなく、すべてのダンマは自分ではない」とこのような部類の部分があります。
アッギヴェッサナさん。私は当然このように弟子を導き、特に私の教誨は、当然このようにすべての弟子で経過し、このような部分があります。
段階的に訓練する規則がある
バラモンさん。このダンマヴィナヤで私は、段階的に勉強し段階的に行動し、段階的に実践する規則を規定することができました。
バラモンさん。熟練した馬の調教師が調教可能な馬を手に入れると、初めに轡(クツワ)を受け入れさせる訓練をし、それから他の訓練をするように、バラモンさん。如行が訓練する人を受け入れると、初めに「おいでなさい比丘。
あなたは戒があり、パーティモッカ(二二七戒)で慎重にし、作法とゴーチャラ(好んで行く場所)が完璧で、普段から小さな物でも、すべての罪の危険が見え、すべての教条を遵守する人におなりなさい」と、当然このように提言します。
バラモンさん。その比丘が戒のある人になったら、如行は当然「お出でなさい比丘。あなたはすべての根に注意深い人になり、目で形を見てもニミッタで(つまり全体を美しいとか、醜いと)捉えず、アヌパヤンチャナ(部分に分けて、その部分を美しいとか醜いと)で捉えません。
罪と悪つまり貪りと憂いはいずれかの根に注意しないことが原因で感情にそって流れて行くので、その根に注意を払い、眼根を慎む人になりなさい」とこのように提言します。(耳根・鼻根・舌根・身根・意根の場合も、同じように話されています)。
バラモンさん。その比丘が根を慎む人になったら、如行は当然「お出でなさい比丘。あなたはいつでも食べ物の適度を知る人になりなさい。遊びのため、酔うため、飾るために食べず、『この体を維持するため、命を維持するため、困難を防ぐため、梵行を援けるためだけに食べる。私は古い受(飢え)を排除してしまい、新しい受(食べ過ぎ)は生じさせない。寿命を進めること、食べ物による害がないこと、安楽は私にある』と絶妙な熟慮をしてから食べなさい」とこのように提言します。
バラモンさん。その比丘が食べ物の適度を知る人になったら、如行は当然「お出でなさい比丘。覚める(眠らない、眠くならない、ぼんやりしない)道具であるダンマに努力がある人になりなさい。歩くこと座ることで昼から宵まで、初更が終わるまで、心にあるすべての障害物を完全に清浄に拭い、
中更には右に傾いて足に足を重ねて獅子のように眠り、起き上がる常自覚があり、夜の終りには起き上がって、歩くこと、座ることで障害物を心から完全に清浄に拭いなさい」とこのように提言します。
バラモンさん。その比丘が目覚める道具であるダンマの努力があるようになったら、如行は当然「お出でなさい比丘。あなたは常自覚が完璧な人になり、前進、後退、振り向く、ちらっと見る、屈む、伸びる、外衣や内衣(チーヴァラ)を維持する、食べる、飲む、噛じる、嘗める、大小便の排泄、行く、止まる、座る、寝る、眠る、目覚め、話す、黙っていることを周到に自覚しなさい」とこのように提言します。
バラモンさん。その比丘が(今述べたように)常自覚があるようになったら、如行は当然「お出でなさい比丘。あなたは静寂な住まい、つまり森、木の根元、山、谷間、洞窟、墓地、密林、露天、藁の山(のいずれか)に住み、食事の後、托鉢から戻ったら結跏趺坐して体を真っ直ぐに維持し、サティを現前に据え、世界の貪りを捨て、貪りのない心があり、絶えず貪りを拭いなさい。
加害する復讐心を捨て、復讐心のない心があり、憐れむ人で、すべての生き物の役に立つことを願い、加害する道具である復讐心を、絶えず心から拭いなさい。昏沈睡眠(眠気と沈鬱)を捨て、昏沈睡眠のない心があり、心の明るさだけを目指す人であり、全身に行き渡るサティがあり、絶えず心から昏沈睡眠を拭いなさい。
疑念を捨て、疑念を越えてしまい、すべての善について(疑念で)「これは何ですか、これはどんなですか」と言う必要がなく、絶えず心から疑念を拭いなさい」とこのように提言します。
その比丘が、心を憂鬱にし智慧の力を弱めるものである五蓋を捨てた時、愛欲とすべての悪が静まって、ヴィタッカ(尋)・ヴィチャーラ(伺)があり、ヴィヴェカ(遠離)から生じたピーティ(歓喜)とスッカ(幸福)がある初禅に到達し、そして常のその感覚の中にいます。
ヴィタッカ・ヴィチャーラが静まることで、比丘は心の内面を明るくする物であり、一つだけの感情があるサマーディを生じさせる物であり、ヴィタッカ・ヴィチャーラがなく、
あるのはサマーディから生じたピーティとスッカだけ二禅に達し、そして常にその感覚の中にいます。ピーティが薄れることで比丘は捨にいる人であり、サティサンパチャンニャ(常自覚)があり、名身でスッカ(幸福)を味わい、聖人の方々が「この禅定に達した人は捨にいる人で、サティがあり幸福に暮らす」と言われる三禅に達し、そして常にその感覚の中にいます。
幸福と苦を捨ててしまえることで、憂いと過去の憂いが消滅することで、苦も幸福もなく、あるのは捨による純潔な自然であるサティだけの四禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。
バラモンさん。最高の努力から生じた安全なダンマである涅槃をまだ望んでいる、まだ阿羅漢果に到達していない有学である比丘は誰でも、今述べた教えは、それらすべての比丘のための教えです。一方梵行が終わり、しなければならない仕事が成功し、下ろした重荷があり、到達した自分の利益があり、完全に終わったサンニョージャナ(結)があり、すべてを知り尽すことで解脱し漏が終わった阿羅漢である比丘は誰でも、これらの比丘たちにとって、これらすべてのダンマは現生で幸福に暮らすため、そして常自覚のためです。
段階的に弟子を訓練する
アッギヴェッサナさん。調教される象が調教師の言葉で立ち上がって座ることを憶えたら、その後調教師は「不動」と呼ばれる訓練をします。鼻に盾を結んでおいて、投槍を持った人が首の上に座り、そしてたくさんの人が周りを囲んで、調教師が長い投槍を持って象の前に立って不動という状態を教え、
その象が前足、後ろ足、前身、後進、頭、耳、牙、尾、鼻を動かさなければ、王にふさわしい象で、当然槍、刀、矢、敵の攻撃に耐え、陣太鼓、でんでん太鼓、ほら貝、各種の両面太鼓の鳴り響く音に耐え、体を捩る、凶暴、暴れるなどの行動がなくなれば、王にふさわしい象、王が使う象で、王の体の一部と言うことができます。
アッギヴェッサナさん。同じように如行は自分で正しく大悟した阿羅漢サンマーサンブッダとしてこの世界に生まれ、知識と品行が完璧で、良く行った人であり、世界を明らかに知り、訓練するべき人を誰よりも良く訓練する御者であり、天人と人間の先生であり、明るい人、ダンマを分類して動物に教える人として生まれました。
如行は天人と悪魔、梵天、サマナバラモンを含めたこの世界の人間の群を、最高の智慧で明らかにし、他の動物に教えました。如行は初めも美しく、中間も美しく、終わりも美しく、義も言葉も純潔完璧なダンマを説き、梵行を公開しました。
長者や長者の子息、あるいはこれからどこかの家系に生まれる人がそのダンマを聞くと如行への信仰が生じ、信仰がある人は当然「在家は窮屈で埃の在り処。出家は極めて(伸び伸びする)チャンス。家を治めてサンガのように完璧で純粋な梵行をするのは容易ではない。それなら髪と髭を落として袈裟(渋染めの布)をまとい、家を出て出家し、家に関わらない人になろう」と、このように熟慮して見ます。
その後彼は大小の財産と大小の親戚を捨て、髪と髭を剃って家を出て出家し、家に関わらない人になります。アッギヴェッサナさん。これだけで、当然彼は(森から出た象のように)広々した場所へ行ったと言われます。
アッギヴェッサナさん。すべての天人と人間には魅惑する五欲があるので、如行は出家した良家の子息に「比丘。お出でなさい。あなたは戒のある人になり、パーティモッガで細心の注意を払い、行儀とゴーチャラ(好んで行く場所)が完璧で、どんな小さな物でもすべての罪の危険が見え、すべての教条を遵守なさい」と提言します。
アッギヴェッサナさん。その比丘が戒のある人になったら、如行は当然「お出でなさい比丘。あなたはすべての根に注意深い人になり、目で形を見てもニミッタ(つまり全体を美しいとか、醜いと)で捉えず、アヌパヤンチャナ(部分に分けて、その部分を美しいとか醜いと)で捉えません。
罪悪つまり貪りと憂いは、いずれかの根に注意しないことが原因で感情に流れて行くので、私はその根を封鎖し、眼根を維持して慎む人です」とこのように提言します。
(耳根・鼻根・舌根・身根・意根の場合も、同じように話されています)。
アッギヴェッサナさん。その比丘が根を慎む人になったら、如行は当然「お出でなさい比丘。あなたはいつでも食べ物の適度を知る人になりなさい。遊びのため、酔うため、飾るために食べず、『この命を経過させるため、体を維持するため、困難を防ぐため、梵行を援けるためだけに食べる。
私は古い受(飢え)を駆除してしまい、新しい受(食べ過ぎ)は生じさせない。寿命を進めること、食べ物による害がないこと、安楽は私にある』と絶妙な熟慮をしてから食べなさい」とこのように提言します。
アッギヴェッサナさん。その比丘が食べ物の適度を知る人になったら、如行は当然「お出でなさい比丘。覚める(眠らない、眠くならない、ぼんやりしない)道具であるダンマに努力がある人におなりなさい。
歩くこと座ることで、昼から宵まで、初更が終わるまで、心のすべての障碍を完全に清浄に拭い、中更には右に傾いて足に足を重ねて獅子のように眠り、起き上がる常自覚があり、夜の終りには起き上がって、歩くこと座ることで心の障害物を完全に清浄に拭いなさい」とこのように提言します。
アッギヴェッサナさん。その比丘が目覚める道具であるダンマの努力があるようになったら、如行は当然「お出でなさい比丘。あなたは常自覚が完璧な人になり、前進、後退、振り向く、ちらっと見る、屈む、伸びる、外衣やチーヴァラを維持する、食べる、飲む、噛る、嘗める、大小便の排泄、行く、止まる、座る、寝る、眠る、目覚める、話す、黙っていることを周到に自覚しなさい」とこのように提言します。
アッギヴェッサナさん。その比丘が(今述べたように)常自覚があるようになったら、如行は当然「お出でなさい比丘。あなたは静寂な住まい、つまり森、木の根元、山、谷間、洞窟、墓地、密林、野天、藁の山(のいずれか)に住み、食事の後、托鉢から戻ったら結跏趺坐して体を真っ直ぐに維持し、サティを現前に据え、世界の貪りを捨てて貪りのない心があり、絶えず貪りを拭いなさい。
加害する復讐心を捨て、復讐心がない心があり、憐れむ人ですべての動物の利益になることを願い、加害する道具である復讐心を絶えず心から拭いなさい。眠気と寂しさを捨て、眠気と寂しさのない心があり、心の明るさだけを目指す人になり、全身に行き渡るサティがあり、絶えず心の眠気と寂しさを拭いなさい。
疑念を捨て、疑念を越えてしまい、すべての善について(疑念で)「これは何ですか、これはどんなですか」と言う必要がなく、絶えず心から疑念を拭いなさい」と、このように提言します。
アッギヴェナサさん。その比丘が、心を憂鬱にし智慧の力を弱める物である五蓋を捨て、体の中の体が見え、すべての受の中の受が見え、心の中の心が見え、すべてのダンマの中のダンマが見える人になり、罪を焼く努力があり、全身に自覚があり、憂いと喜びを出してしまうサティがある人である時はいつでも、
象の調教師が地面に太い杭を打ち込んで、野生の象として正常な野蛮な習性を除去するため、野蛮な考えと野蛮な習性である焦燥を捨てさせるために、家を喜び、人間が満足する習性に慣れさせるために象を杭に繋ぐように、
アッギヴェナサさん。この四つの念処は、家のような習性を無くすため、家のような考えを排除するため、家のような焦燥を駆除するため、真理に到達するため、涅槃を明らかにするために聖なる(聖人である)弟子の心を繋ぐ物です。
(この後、その弟子が四つの禅定と三つの知識に到達することを、ブッダが悟られた要旨のように、長々と話されてから、続いて次のように話されました)。
その比丘は「生は終わった。梵行は終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならない仕事は他にない」とはっきりと知ります。
アッギヴェナサさん。その比丘は当然寒さ、暑さ、飢え、渇き、アブ、蚊、風、陽射し、そしてすべての地を這う生き物との接触に耐える人で、生まれつき悪意の言葉、良くない発言に耐える人で、生じている強烈な体の苦受に耐え、心の楽しみを殺すことができます。その比丘は貪りと怒りと愚かさを完全に排除し、心を染める渋のような煩悩を吐き出してしまった人です。
そして供養(尊敬の理由により食事を持て成す)されるべき人、奉仕されるべき人、布施を受けるべき人、合掌されるべき人で、そしてそれ以上の徳田はない最高の徳田です。
アーギヴェナサさん。テーラ(長老)である比丘、中くらいの比丘、あるいはまだ新参の比丘でも、キーナーサヴァ(阿羅漢)にならずに死ねば、当然まだ訓練が終わらなくて死んだ、亡くなったと見なされます。年老いた、あるいは中年、あるいは若くても、まだ訓練が終わっていない王の象が死ねば、死んだ、亡くなったと見なされるのと同じです。
アッギヴェナサさん。テーラである比丘、中くらいの比丘、あるいは新参比丘でも、キーナーサヴァ(阿羅漢)になって死ねば、当然訓練が終わって死んだ、亡くなったと見なされます。年老いた、あるいは中年、あるいは若くても、良く訓練し終わった王の象が死ねば、調教が終わって死んだ、亡くなったと見なされるのと同じです。
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