六処に地獄と天国を見る
比丘のみなさん。みなさんの幸運です。比丘のみなさん。みなさんが善い物を得ることです。比丘のみなさん。梵行をする時を、みなさんも特別に得られます。
比丘のみなさん。(触の処になる)触処と呼ばれる六つの地獄を私は見ました。その地獄では、人が目でどんな形を見ても、当然望ましくない形だけが見え、望ましい形は見えず、憎々しい形だけが見え、可愛らしい形は見えず、満足できない形だけが見え、満足できる形は見えません。(声・臭・味・触・考えの場合も、目で見る形の場合と同じように話されています)。
比丘のみなさん。みなさんの幸運です。みなさんが善い物を得ることです。比丘のみなさん。梵行をする時を、みなさんも特別に得られます。
比丘のみなさん。(触の処になる)触処と呼ばれる六つの地獄を私は見ました。その地獄で人が目でどんな形を見ても、当然望ましくない形だけが見え、望ましい形は見えず、憎々しい形だけが見え、可愛らしい形は見えず、満足できない形だけが見え、満足できる形は見えません。(声・臭・味・触・考えの場合も、目で見る形の場合と同じように話されています)。
比丘のみなさん。みなさんの幸運です。みなさんが善い物を得ることです。比丘のみなさん。梵行をする時を、みなさんも特別に得られます。
註: これらについてアッタカターでは「その名前の地獄は地下にあり、一般に言われているようなすべての地獄に含まれる。その名前の天国は空にあり、一般に言われているようなすべての天国に含まれる」と説明しています。しかし私はそのように見ません。つまりまだ生きている人の六処にあり、望みどおりに管理あるいは実践できます。だからブッダは「梵行をする時は幸運」と言われています。(編者)
梵天界を知る
ヴァーセッダさん。マナサーカタガーマで生まれて育った人でも、マナサーカタガーマの道について訊かれると、しどろもどろですぐに答えられないこと、あるいは訳の分からない答え方をすることがあります。
しかし私は、梵天界、あるいは実践者を梵天界に至らせるパティパダー(道)について誰かに訊かれても、しどろもどろ、あるいは訳の分からない返答をすることはありません。ヴァーセッダさん。私は梵天たちを知り、梵天界を知り、実践した人を梵天界に至らせるパティパダーを知っています。
「ゴータマ様。私が梵天たちと一緒に暮らせる道を説いてくださいとお願いしたように、ゴータマサマナは梵天と一緒に暮らす人になる道を教えられると聞きました。ゴータマ様。どうぞバラモンに生まれた人の地位を引き上げてください」。
ヴァーセッダさん。それなら心の中を良くしてお聞きなさい。話します。ヴァーセッダさん。如行(ブッダの一人称。行ったようなという意味。漢訳は如来)は阿羅漢サンマーサンブッダとして世界に生まれ、初めも中間も終わりも美しいダンマを説き、意義も細部もまったく純潔完璧な梵行を公開しました。
長者あるいは長者の息子等がそのダンマを聞くと家を出て出家し、家のない人になれば、戒が完璧になり、慎しんでいる門があり、すべての根に常自覚があり、足るを知る人で、静寂な住まいに住み、蓋を捨てます。自分が捨てた五蓋を熟慮して見れば喜びが生じ、喜びが生じれば喜悦が生じ、心が喜悦すれば体が静まり、静まった体がある人は当然幸福な受を味わい、幸受を味わう人は当然心を安定させることができます。
その人は慈しみと一緒に経過する心で当然一番の方向、二番の方向、三番、四番の方向へ広げ、すべての世界、すべての場所、上も下も、投げる方へも、慈しみの心、恨みのない心、復讐心のない広い心、無限に偉大な徳のある心を広げ、その感覚の中にいます。
ヴァーセッダさん。体が丈夫なホラ貝吹きは、楽に四方に聞こえるようにホラ貝を吹くことができるように、このように励んだ限界付きのカンマは(限界付のないカンマである慈心解脱の中に)当然残っていません。ヴァーセッダさん。これが梵天と一緒に住む人になる道です。
(この後、悲、喜、捨についても同じように話され、どれも梵天と一緒に暮らす人になる道と言われています)。
註: パーリの他の場所にもこの経と同じように梵天界と梵天に行くことについて述べたものがあり、違うのは簡単に述べ、段階的な実践を解いていないだけで、ブラフマダンマ、あるいはアッパマンヤーブラフマヴィハーラを説いています。中部マッジマニカーヤ 12巻663頁729項
五つのガティと涅槃を知る
サーリプッタ。これが五つのガティ(行く所。趣)で、地獄、畜生の生まれ、餓鬼の境域、人間、天人です。
サーリプッタ。私は当然地獄を知り、地獄へ行く道を知り、人を地獄へ行かせる実践項目を知り、そしてどのように実践した人も体が崩壊して死んだ後、当然苦界、悪趣、報いを受ける場所、地獄へ行く実践を知っています。
サーリプッタ。私は当然畜生の生まれを知り、畜生の生まれに行く道を知り、人を畜生の生まれに行かせる実践項目を知り、そしてどの実践をした人も体が崩壊して死んだ後、当然畜生の生まれになる実践を知っています。
サーリプッタ。私は当然餓鬼の境域を知り、餓鬼の境域へ行く道を知り、人を餓鬼の境域へ行かせる実践項目を知り、そしてどの実践した人も体が崩壊して死んだ後、当然餓鬼の境域になる実践を知っています。
サーリプッタ。私は当然人間を知り、人間界に行く道を知り、人を人間界へ行かせる実践項目を知り、そしてどの実践した人も体が崩壊して死んだ後、当然人間界に至る実践を知っています。
サーリプッタ。私は当然天人を知り、天人界へ行く道を知り、人を天人界へ行かせる実践項目を知り、そしてどの実践した人も体が崩壊して死んだ後、当然善趣、天国界へ至る実践を知っています。
サーリプッタ。私は当然涅槃を知り、涅槃へ行く道を知り、人を涅槃へ行かせる実践項目を知り、そしてどの実践した人もすべての漏が終わって漏がないチェトーヴィムッティ(心解脱)・パンニャーヴィムッティ(智慧解脱)を最高の智慧で、生きているうちに最高の智慧で明らかにして、その感覚の中にいる実践を知っています。
四如意足で奇跡を見せられる
比丘のみなさん。みなさんこれをどう思いますか。私はどのダンマに励んでたくさんしたからこのようにたくさんの神通がある人で、このようにたくさんの神通力があるのでしょうか。
「猊下。私たちすべての弟子は世尊が根源で、世尊が指導者です。どうぞその要旨を説明してください。すべての比丘が記憶することができます」とお答えしました。
比丘のみなさん。四如意足に励んでたくさんしたので、如行はこのような神通があり、このように神通力のある人になりました。四如意足とはどれでしょうか。
比丘のみなさん。このことは、如行は当然主な仕事であるチャンダ(満足。喜び)に依存したサマーディにするダンマが揃っている四如意足に励みました。このような状況で私のチャンダは当然得られ、衰退せず、厳格すぎず、内面も揺れず、外部へ拡散することもありません。
如行は当然これからあることと過ぎたことの両方の感覚があり、過去は未来と同じ、未来は過去と同じ、下は上と同じ、上は下と同じ、昼は夜と同じ、夜は昼と同じという感覚がある人で、当然光のある心で、自分が開いた心で、このように何も覆う物がない状態の心に励みました。
(この後、主として精進、心、省察に依存したサマーディを、同じ内容で説かれています)。
比丘のみなさん。このように四如意足に励んでたくさんしたので、如行はこのような奇跡、このような神通力のある人で、当然いろんな奇跡を見せることができ、一人の人を大勢の姿にし、大勢の人を一人にし、隠れた場所を明らかな場所にし、明らかな場所を隠れた場所にし、空気の中を歩くように支障なく壁や塀を通り抜け、水に潜るように大地に潜って浮かび出ることもでき、
地面を歩くように水面を歩くことができ、翼のある鳥のように、結跏趺坐したまま空を行くことができ、掌で月や太陽を撫でることができ、そして梵天界まで体の威力を見せることができます。
三転十二の状態の如意足のニャーナがある
比丘のみなさん。「これが主な仕事としてチャンダ(満足)に依存したサマーディがあり、作る物が全部揃っている四如意足だ」と、私が聞いたことがないダンマに、目、ニャーナ(知ること。智)、知識、光が生じました。
比丘のみなさん。「この、主な仕事としてチャンダに依存したサマーディがあり、作る物が全部揃っている四如意足は生じさせておくべきダンマだ」と、私が聞いたことがないダンマに目、ニャーナ、知識、光が私に生じました。比丘のみなさん。「この、主な仕事としてチャンダに依存したサマーディがあり、作る物が全部揃っている四如意足を私は生じさせた」と、私が聞いたことがないダンマに目、ニャーナ、知識、光が生じました
比丘のみなさん。「これが、主な仕事としてヴィリヤ(精進)に依存したサマーディがあり、作るものが全部揃っている四如意足だ」と、私が聞いたことがないダンマに、目、ニャーナ、知識、光が生じました。比丘のみなさん。「この、主な仕事としてヴィリヤに依存したサマーディがあり、作る物が全部揃っている四如意足は生じさせておくべきダンマだ」と、私が聞いたことがないダンマに目、ニャーナ、知識、光が生じました。
比丘のみなさん。「この、主な仕事としてヴィリヤに依存したサマーディがあり、作る物が全部揃っている四如意足を私は生じさせた」と、私が聞いたことがないダンマに目、ニャーナ、知識、光が生じました。
比丘のみなさん。「これが、主な仕事としてチッタに依存したサマーディがあり、作る物が全部揃っている四如意足だ」と、私が聞いたことがないダンマに、目、ニャーナ、知識、光が生じました。比丘のみなさん。「この、主な仕事としてチッタに依存したサマーディがあり、作る物が全部揃っている四如意足は生じさせておくべきダンマだ」と、私が聞いたことがないダンマに目、ニャーナ、知識、光が生じました。
比丘のみなさん。「この、主な仕事としてチッタに依存したサマーディがあり、作るものが全部揃っている四如意足を私は生じさせた」と、私が聞いたことがないダンマに目、ニャーナ、知識、光が生じました。
比丘のみなさん。「これが、主な仕事としてヴィマンサー(智慧)に依存したサマーディがあり、作るものが全部揃っている四如意足だ」と、私が聞いたことがないダンマに、目、ニャーナ、知識、光が生じました。比丘のみなさん。「この、主な仕事としてヴィマンサーに依存したサマーディがあり、作る物が全部揃っている四如意足は生じさせておくべきダンマだ」と、私が聞いたことがないダンマに目、ニャーナ、知識、光が生じました。
比丘のみなさん。「この、主な仕事としてヴィマンサーに依存したサマーディがあり、作る物が全部揃っている四如意足を私は生じさせた」と、私が聞いたことがないダンマに目、ニャーナ、知識、光が生じました。
一劫でも存在するための四如意足がある
アーナンダ。人が四如意足に励んでたくさんし、乗り物のようにし、敷台のようにし、安定させてすべてをよく訓練すれば、堅忍不抜になり始めます。その人が望めば、彼は一劫でも、あるいは一劫以上でも存在することができます。
アーナンダ。如行はその四如意足に励んでたくさんし、乗り物のようにし、敷台のようにし、すべてをよく訓練したので堅忍不抜になり始めました。如行が望めば、如行は一劫でも、あるいは一劫以上でも存在できます。
それぞれの世界
アーナンダ。月と太陽の光がすべての方向を照らす面積の、それだけの面積の世界が千あり、その千の世界に月が千、太陽が千、シネル山が千、ジャンブ半島が千、アマラゴーヤナ(牛貨州)が千、ウッタラクル(クル州)が千、ウッバヴィデーハ(勝身州)が千、海が四千、大王が四千、四天王が一千、とう利天が千、夜摩が千、
兜率天が千、楽変化天が千、他化自在天が千、梵天が千あるもの、これを小千世界と言います。小千世界の大きさの世界を千倍にしたものを大千世界と言い、大千世界の大きさの世界を千倍にした物を三千世界と言います。
アーナンダ。如行が決意すれば、当然話して三千世界に広く知らせることも、あるいはどれだけ声を聞かせることもできます。
「猊下。どんな方法でできますか、猊下」。
アーナンダ。如行がここにいて光を発して三千世界を照らし、それらの動物がその光を感じたら、如行の声を轟かせてそれらの動物に聞かせます。こうです、アーナンダ。如行は三千世界に話して全体に聞かせること、あるいはどれだけでも聞かせることができます。
愚かな人には奇跡に見えない奇跡がある
「猊下。世尊は私に、人間の普通の奇跡より凄い奇跡をお見せになりません」。
スナッカンダさん。私はあなたに「スナッカンダさん。あなたは私たちと暮らしなさい。私は人間の普通の奇跡よりすごい奇跡を見せます」と言いましたか。
「いいえ、おっしゃいません。猊下」。
それともあなたが私に「猊下。私は世尊と一緒に暮らし、世尊は人間の普通よりすごい奇跡を私に見せます」と言いましたか。
「いいえ、おっしゃいません」。
無効の人! このようなら(約束した相手は)誰もいないので、あなたは誰に返すと言うのですか。スナッカンダさん。あなたはこれをどう思いますか。人間の普通よりすごい奇跡を私が起こしたことがあってもなくても、正しく苦を終わらせる利益のために私が説いたダンマのどれでも、実践する人を正しい苦の終りに導くでしょうか。
「猊下。人間の普通よりすごい奇跡を世尊がお見せになってもならなくても、正しく苦を終わらせる利益ために世尊が説かれたダンマはどれでも、実践する人を正しい苦の終りに導きます。猊下」。
スナッカンダさん。そう聞くことができれば、誰も人間の普通よりすごい奇跡を起こして見せる人はいません。無効の人! あなたは自分の過ちがどれほどか見なさい。
「猊下。世尊は、多くの人が素晴らしいと仮定する物を私に規定なさいませんでした」
スナッカンダさん。私はあなたに「スナッカンダさん。あなたは私と暮らしなさい。私は、多くの人が素晴らしいと仮定するものをあなたに規定します」と言ったことがありますか。
「いいえ、ありません。猊下」。
それともあなたが私に「猊下。私は世尊と一緒に暮らし、世尊は多くの人が素晴らしいと仮定するものを私に規定します」と言いましたか。
「いいえ、おっしゃいません」。
無効の人! このようなら(約束する相手は)誰もいないので、あなたは誰に返すと言うのですか。スナッカンダさん。あなたはこれをどう思いますか。多くの人が素晴らしいと仮定する物を私が規定してもしなくても、正しく苦を終わらせる利益のために私が説いたダンマのどれでも、実践する人を正しい苦の終りに導くでしょうか。
「猊下。多くの人が素晴らしいと仮定する物を世尊が規定なさってもなさらなくても、正しく苦を終わらせる利益のために世尊が説かれたダンマはどれでも、実践する人を正しい苦の終りに導きます。猊下」。
スナッカンダさん。そう聞くことができれば、多くの人が素晴らしいと仮定するものを、誰も規定する人はいません。無効の人! あなたは自分の過ちがどれほどかを見なさい。
註: この二度の応酬は、ブッダが説かれたダンマに最高の奇跡があると説いています。つまり別の形の奇跡を見せても見せなくても、そのダンマは当然いつでも滅苦ができます。しかし愚かな人はこのような状態が最高の奇跡と見えず、反対に、愚かな人にとって珍しくて不思議な物と言うべき類の奇跡をして見せてもらいたがります。
しかしそれでもリッチャヴィープッタであるスナッカンダに、奇跡のような状態になった幾つかの話を思い出すよう促しているように、ブッダもそのレベルの奇跡を見せています。例えばクックラヴァッタィコチェラカが、ブッダの予言通りに七日後に本当に死んだ話。
そして非常に厳格な振る舞いで、多くの人が阿羅漢と見なしているカーラマッチャコチェラカが、ブッダが予言したとおりに、最後には還俗して妻帯した話などです。スナッカンダリッチャヴィープッタは「奇跡を見せない」とブッダに幻滅して非難した自分の言葉に追い詰められました。(編者)
三種類の奇跡
ケヴァッタさん。これは私が最高の智慧で明らかにし、そして開示して他人に教えた三つの奇跡です。三つは何でしょうか。三つとは神通神変、読心神変、教誨神変です。
(1) ケヴァッタさん。神通神変はどのようでしょうか。ケヴァッタさん。この場合の比丘はいろんな手法の奇跡の行動をし、一人を何人もの姿にし、何人もを一人にし、隠されている場所を見える場所にし、見えている場所を見えない場所にし、空を歩くように壁を通り抜け、塀を通り抜け、山を通り抜けてどこでも支障なく行くことができ、水中のように大地に潜ったり浮かんだりすることができ、
地面を歩くように水上を歩くことができ、結跏趺坐したままで翼のある鳥のように空を行くことができ、非常に威力のある月と太陽を手で撫でることができ、そして梵天界まで体の威力を見せることができます。
ケヴァッタさん。信仰のある良家の子息がその見世物を見て信仰のない別の良家の子息に「不思議だ」と言うと、信仰のない良家の子息は「ガンダリー(註1)という知識がある。その比丘はその知識で奇跡を見せただけだ(奇跡ではない)」と答えます。ケヴァッタさん。あなたはどう思いますか。信じない人、信仰のない人は、当然信仰のある人にそのように答えるのではないですか。
「そう答えるでしょうね。猊下」。
ケヴァッタさん。私は奇跡を見せることの害がこのように見えるので、奇跡に当惑、不愉快、嫌悪を感じます。
註1: ガンダーラという修行者によって書かれた呪文。もう一つはガンダーラ地方でという説もある。
(2) ケヴァッタさん。読心神変はどのようでしょうか。ケヴァッタさん。この場合の比丘は当然他の動物、他の人たちの心を、「あなたの心はこのようだ。あなたの心にはこれがある。あなたの心にはこのような症状がある」等々と心の感覚を読み、考えを読むことができます。
ケヴァッタさん。信仰のある良家の子息がそれを見て信仰のない他の良家の子息に「不思議だ」と言うと、信仰のない良家の子息は当然信仰のある良家の子息に「マニカーという知識がある。その比丘が心を推量してそのように言うのはその知識だ(奇跡ではない)」と反論します。ケヴァッタさん。あなたはこれをどう思いますか。信じない人、信仰のない人は当然信じる人、信仰のある人にこのように答えるのではないですか。
「そう答えるべきです。猊下」。
ケヴァッタさん。私はこのように奇跡を見せることの害が見えるので、奇跡に対して当惑、不愉快、嫌悪を感じます。
(3) ケヴァッタさん。教誨神変はどのようでしょうか。ケヴァッタさん。この場合の比丘は当然「このように熟慮なさい。そのように考えてはいけません。心の中をこのようになさい。心の中をそのようにしてはいけません。これを捨ててしまいなさい。これに到達してその感覚の中にいなさい」とこのように教え諭します。ケヴァッタさん。私はこれを教誨神変と呼びます。
ケヴァッタさん。これら(註)が、私が最高の智慧で明らかにし、公開して他人に教えた三つの奇跡です。
註: この間に、戒、サンドーサ、常自覚等々を、ブッダの教戒神変と説かれています。
如行と呼ばれる四つの理由
比丘のみなさん。如行は世界のすべての状態を知ったので、自らを世界(註)から引き抜くことができました。如行は世界を生じさせる原因をすべて知ることができたので、世界を生じさせる原因を捨てることができました。
如行は世界の消滅をすべて知ることができたので、世界の消滅を明らかにすることができました。如行は世界の消滅に至る道をすべて知ることができたので、世界を消滅させる道を生じさせることができました。
比丘のみなさん。天人と悪魔と梵天を含めた人間世界と、サマナ・バラモンと天人と人間を含めた動物群のどんなアーヤタナ(処)も見て、聞いて、嗅いで、味を見て、触って明らかにし、到達し、探求し、本気で追跡したので、如行はそのアーヤタナをすべて知ることができました。だから如行という名前があります。
比丘のみなさん。如行が大悟した夜から般涅槃する夜まで、その間に如行がどんな言葉を説明て繰り返し教えても、すべての言葉は当然同じで、違う物はありません。だから如行と呼ばれます。
比丘のみなさん。如行が何を話しても話したように行動し、どう行動しても行動しているように話します。だから如行と呼ばれます。
比丘のみなさん。天人界・悪魔・梵天を含めた世界と、サマナ・バラモンと天人と人間を含めた動物群の誰も、如行を支配できる人はいない最高の人で、すべての物を厳然と見る人で、(ダンマで)最高に威力があるただ一人の人です。だから如行と呼ばれます。
註: ここでいう「世界」とは「苦」のこと。
如行と呼ばれる理由
ジュンダさん。過去の話でも真実でなく利益がなければ、如行は当然それを託宣しません。ジュンダさん。過去の話で真実でも利益がなければ、如行は当然それを託宣しません。ジュンダさん。過去の話でも真実で利益があれば、如行は当然その問題を託宣するにふさわしい時を知る人です。
ジュンダさん。未来の話でも真実でなく利益がなければ、如行は当然それを託宣しません。ジュンダさん。未来の話も真実でも利益がなければ、如行は当然それを託宣しません。ジュンダさん。未来の話でも真実で利益があれば、如行は当然その問題を託宣するにふさわしい時を知る人です。
ジュンダさん。現在の話でも真実でなく利益がなければ、如行は当然それを託宣しません。ジュンダさん。現在の話でも真実でも利益がなければ、如行は当然それを託宣しません。ジュンダさん。現在の話でも真実で利益があれば、如行は当然その問題を託宣するにふさわしい時を知る人です。
ジュンダさん。このような理由で如行はカーラヴァーディン(時語者)、サッチャヴァーディン(実語者)、ブータヴァーディン(実語者)、アッタヴァーディン(義語者)、ダンマヴァーディン(説法者)、過去と未来と現在のすべてのダンマのヴィナヤヴァーディン(律語者)です。そういう理由で如行と呼ばれます。
如行の同義語
ヴァーセッタさんとみなさん。サマナあるいはバラモン、天人、悪魔、梵天、あるいは世界の誰のでも、如行に対して安定していて根を下ろし、盤石に維持している信仰は、他の方向へ引っ張って行くことはできません。その人は「私は世尊の御口から生まれた子、王子であり、ダンマによって生まれ、ダンマが作った、ダンマの相続人です」とこのように述べるべきです。
それはなぜでしょうか。ダンマカーヤ(法身)、ブラフマカーヤ(梵身)、ダンマブータ(法体)、ブラフマブータ(梵体)などの言葉は、如行の代名詞だからです。
別の経
比丘のみなさん。サマナという言葉は如行の代名詞です。
比丘のみなさん。バラモンという言葉は如行の代名詞です。
比丘のみなさん。ヴェーダグー(ヴェーダの達人)という言葉は如行の代名詞です。
比丘のみなさん。ビラッコ(医師)という言葉は如行の代名詞です。
比丘のみなさん。ニッマロという言葉は如行の代名詞です。
比丘のみなさん。ヴィマロ(無垢の人)という言葉は如行の代名詞です。
比丘のみなさん。ニャーニー(智のある人)という言葉は如行の代名詞です。
比丘のみなさん。ヴィマット(解脱者)という言葉は如行の代名詞です。
次第住に熟達した時サンマーサンブッダであると宣言した
アーナンダ。私がまだ九次第住(註)に自由に出入りできない時、その間中、私はまだ、天人界・悪魔界・梵天界を含めた世界の、サマナ・バラモンと天人と人間を含めた動物群に、アヌッタラサンマーサンボーディニャーナ(無上正菩提智)を大悟したと宣言しませんでした。
アーナンダ。私が九次第住に自由に出入りできるようになった時、その時私は天人界・悪魔界・梵天界を含めた世界の、サマナ・バラモンと天人と人間を含めた動物群に、アヌッタラサンマーサンボーディニャーナを大悟したと宣言しました。更に「私の解脱は悪化しない。この生は最後の生だ。今二度と生まれる有はない」と見る智慧、知る智慧が私に生じました。
註: 九次第住に何があったかは、第二章の「大悟の前の離欲と次第住サマーパティ」を読んでください。http://buddhadasa.hahaue.com/butuden/2-4.html
五取蘊を四転で知った時、アビサマブッダであると宣言した
比丘のみなさん。すべての取蘊は五つあります。五つは何でしょうか。五つとは形取蘊、受取蘊、想取蘊、行取蘊、識取蘊です。
比丘のみなさん。私がまだ五取蘊を四転で知らない時、その間私は、天人界・悪魔界・梵天界を含めた世界の、サマナ・バラモンと天人と人間を含めた動物群に、アヌッタラサンマーサンボーディニャーナ(無上正菩提智)を大悟したと宣言しませんでした。
比丘のみなさん。私が五取蘊を四転で知った時、その時私は、天人界・悪魔界・梵天界を含めた世界のサマナ・バラモンと天人と人間を含めた動物群に、アヌッタラサンマーサンボーディニャーナを大悟したと宣言しました。
比丘のみなさん。「四転で」とはどのようでしょうか。それは「形」「形の発生」「形の消滅」「形の消滅に至らせる実践」です。私はそのすべて知りました。(受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。
四聖諦を完璧に知った時アビサマブッダであると宣言した
比丘のみなさん。四聖諦に三転と十二の状態がある私のニャーナダッサナ(智見)が完全で純潔で清潔なニャーナでない間は、その間中私は天人界・悪魔界・梵天界を含めた世界の、サマナ・バラモンと天人と人間を含めた動物群に、アヌッタラサンマーサンボーディニャーナ(無上正菩提智)を大悟したと宣言しませんでした。
比丘のみなさん。四聖諦に三転と十二の状態がある私のニャーナダッサナが完全に純潔で清潔なニャーナになった時、その時私は天人界・悪魔界・梵天界を含めた世界の、サマナ・バラモンと天人と人間を含めた動物群に、アヌッタラサンマーサンボーディニャーナを大悟したと宣言しました。
パーリ(ブッダの言葉)の他の部分では、
五根を五つの状態、つまり生まれること、維持できないこと、旨味、害、出る方便で知った時、:相応部 19巻270頁494項
世界を三つの状態、旨味、低劣な害、世界から出る方便で知った時、
五取蘊を三つの状態、旨味、低劣な害、出る方便で知った時、
ダートゥを三つの状態、旨味、低劣な害、出る方便で知った時、:相応部16巻205頁407項
六内処入を三つの状態、旨味、低劣な害、出る方便で知った時、:相応部18巻11頁15項
六外処入を三つの状態、旨味、低劣な害、出る方便で知った時、:相応部18巻12頁16項
六転がある受に踏み込むニャーナダッサナがあった時、
六根を五つの状態、誕生、維持できないこと、味、低劣な害、出る方便で知った時、:相応部19巻272頁906項
淫欲想に繋がれることから脱した時、:小部23巻57頁47項
阿羅漢サンマーサンブッダと呼ばれる理由
比丘のみなさん。この四つの素晴らしい真実があります。どの四つでしょうか。四つとは苦である素晴らしい真実。苦を生じさせる原因である素晴らしい真実。苦の消滅である素晴らしい真実。苦の消滅に至る道である素晴らしい真実です。これが四つの素晴らしい真実です。
比丘のみなさん。この四種類の素晴らしい真実を大悟したので、如行は「アラハンタサンマーサンブッダ」という名があります。
比丘のみなさん。だからこの場合はみなさん「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と知る努力をするべきです。
阿羅漢サンマーサンブッダという名前の理由(別の経)
比丘のみなさん。阿羅漢サンマーサンブッダである如行は倦怠、弛緩、消滅、そして執着しないことで形から解脱したので、サンマーサンブッダという名があります。比丘のみなさん。智慧解脱した比丘も倦怠、弛緩、消滅、そして執着しないことで形から解脱したので、智慧解脱者という名があります。(受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。
比丘のみなさん。この場合如行と智慧解脱者である比丘の、違いである目的、違いを生じさせる行動は何でしょうか。
比丘のみなさん。阿羅漢サンマーサンブッダである如行は、まだ生じさせていない道(マッガ)を作り、まだ誰も教えていない道を作り、誰も述べて述べられている道にしていない道を作ったので、如行はマッガンニュー(道を知る人)であり、マッガヴィドゥ(道を明らかに知る人)であり、マッガコヴィド(マッガに賢い人)です。
比丘のみなさん。この世界のすべての弟子は、後から追ってくる人マッガーヌガー(道を歩く人)です。
比丘のみなさん。これが、如行と智慧解脱者である比丘の違いである目的、違いを生じさせる行動です。
阿羅漢サンマーサンブッダという名前の理由(別の経)
比丘のみなさん。この四つの如意足があります。四つとは何でしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は当然、作るダンマが揃っている主な仕事であるチャンダ(満足)に依存したサマーディがある四如意足に励み、当然作るダンマが揃っている主な仕事であるヴィリヤ(精進)に依存したサマーディがある四如意足に励み、
作るダンマが揃っている主な仕事であるチッタ(心)に依存したサマーディがある四如意足に励み、作るダンマが揃っている主な仕事であるヴィマンサー(熟慮、あるいは智慧)に依存したサマーディがある四如意足に励みます。
比丘のみなさん。この四つの如意足に励んでたくさんしたので、如行は阿羅漢サンマーサンブッダという名があります。
比丘のみなさん。「これが、主な仕事であるチャンダ(満足)に依存したサマーディがあり、作る物が全部揃っている四如意足」と、私が聞いたことがないダンマに、目、ニャーナ、知識、光が生じました。
比丘のみなさん。「主な仕事であるチャンダ(満足)に依存したサマーディがあり、作る物が全部揃っている四如意足を生じさせるべきだ」と、私が聞いたことがないダンマに、目、ニャーナ、知識、光が生じました。
比丘のみなさん。「主な仕事であるチャンダ(満足)に依存したサマーディがあり、作る物が全部揃っている四如意足を、私は生じさせた」と、私が聞いたことがないダンマに、目、ニャーナ、知識、光が生じました。(ヴィリヤ如意足、チッタ如意足、ヴィマンサー如意足についても、チャンダ如意足と同じように話されています)。
アヌッタラプリサダンマサーラティーという名がある理由
比丘のみなさん。私が「人々が、如行はすべての人を訓練する人の中で、それ以上の人がいない御者と言う人です」と言うのは、私は何に依存して言うのでしょうか。
比丘のみなさん。象使いの訓練を受けるべき象が訓練項目を知れば、一方向だけ、つまり東、西、北、南に駆けて行くことができます。比丘のみなさん。馬の調教師の訓練を受けるべき馬が訓練項目を知れば、一方向だけ、つまり東、西、北、南に駆けて行くことができます。
比丘のみなさん。阿羅漢サンマーサンブッダの薫陶を受けるべき人が訓練項目を知れば、八方すべてに駆けて行くことができ、形がある人は当然すべての形を見、これが一番の方向で、内部の無形に想がある人は当然外部のすべての形を見、これが二番目の方向で、「美しい」という感覚だけに傾く人、これが三番目の方向です。
形想をすべて越えることができて瞋恚想が消滅したことで、心の中をいろんな想にしないので、心の中を「無限の空」にする空無辺処に到達した人、これが四番目の方向で、空無辺処をすべて越えることができたので、心の中を「無限の識」にする識無辺処に到達した人、これが五番目の方向で、
識無辺処をすべて越えることができたので、心の中を「無」にする無所有処に到達した人、これが六番目の方向で、無所有処をすべて越えることができたので非想非非想処に到達した人、これが七番目の方向で、非想非非想処をすべて越えることができたので想受滅に到達した人、これが八番目の方向です。
比丘のみなさん。阿羅漢サンマーサンブッダが訓練すべき人が訓練項目を知れば、八方向すべてに駆けて行くことができます。
比丘のみなさん。私が「如行は人々がすべての人を訓練する人の中で、それ以上の人がいない御者と言う人です」と言うのは、これに依存して言います。
ヨーガッケーミと呼ぶ理由
比丘のみなさん。みなさんにヨーガッケーミーパリヤーヤ(安穏者の教え)というダンマの説明をします。みなさん、お聞きなさい。
比丘のみなさん。ヨーガッケーミーパリヤーヤというダンマの説明はどのようでしょうか。
比丘のみなさん。望ましく、可愛らしく、満足できる物で、可愛い形があり、欲の基盤であり、欲情の基盤である形がある、これらのすべての形を如行は捨て、根を抜き、芽が出ないようにされた砂糖ヤシのように存在できないように、生きられないようにし、当然二度と芽が出ないないようにしました。そして如行は、それらすべての形を捨てるためにヨーガカンマを教えます。
だから如行はヨーガッケーミー(自分と他人の両方に安全な行動をする人)です。(声・臭・味・触・すべての考えの場合も、形の場合と同じように話されています)。
比丘のみなさん。これがヨーガッケーミイーパリヤーヤというダンマの説明です。
自分で大悟した教祖
「発展なさったゴータマ様。自分が見たダンマの神通に到達するためのバーラミーの極みに至ったサマナバラモンたちは、それぞれの教義や教え、梵行を規定します。発展なさったゴータマ様。それらの教義や教えや梵行を規定するサマナバラモンのうち、ゴータマ様はどの部類ですか」。
バーラダヴァーチャさん。私は、自分が見たダンマの神通に到達するためのバーラミーの極みに至ったすべてのサマナバラモンたちの、それぞれ違う標準を述べます。
バーラダヴァーチャさん。自分が見たダンマの神通に到達するためのバーラミーの極みに至ったサマナバラモンのある人は言い伝えてきた教義や教えや梵行があり、トライヴェーダのように教義や梵行を規定します。これが一つ。
バーラダヴァーチャさん。自分が見たダンマの神通に到達するためのバーラミーの極みに至ったサマナバラモンのある人は、一つだけの教義を標準として、思索家のように教義や梵行を規定します。これが一つ。
バーラダヴァーチャさん。自分が見たダンマの神通に到達するためのバーラミーの極みに至ったサマナバラモンのある人は、今まで聞いたことがないすべてのダンマの中の、最高のダンマを自分自身で知る物である智慧に導かれて教義や梵行を規定します。これが一つです。
バーラダヴァーチャさん。私もそれらのサマナバラモンの中の一人と知るべきです。
すべての挙措に一切智ではない
ヴァッチャさん。「ゴータマサマナは一切智で、当然すべてのことを知っている。すべてが見える人で、いつでもすべての物が見え、いつどこでも見える知識を託宣する。私が外出しても止まっていても、眠っていても、目覚めていても、知ること見ることは当然休まず現れている」とこのように言う人たちは誰でも、その人たちは私と同じように言わず、事実でないこと、真実でないことを私に擦り付けます。
ヴァッチャさん。私は心を宿命智に傾けたいと思って住んだことがある蘊等を思い出し…(註)、心を天眼智に傾けたいと思って天眼智に傾けた時、チェトーヴィムッティ(心解脱)・パンニャーヴィムッティ(智慧解脱)を明らかにし、そしてその感覚の中にいました。
ヴァッチャさん。「ゴータマサマナは三つの知識がある」とハッキリと言う人は誰でも、「真実でない言葉を私に塗りつけないと言われ、ダンマで正しい発言であり、その人から聞いて言う人も、誰かに非難されることはありません。
註:「大悟の状態」参照。http://buddhadasa.hahaue.com/butuden/2-5.html
大人物と主張なさる
(ヴァッサカーラバラモンが世尊に拝謁して言いました)。
「発展なさったゴータマさん。私たちは四つのダンマがある人を大人物、大哲学者と規定します。四つのダンマとは何でしょうか。発展なさったゴータマさん。この世界の人で、自分が聞いたことがある、聞くべき話がたくさんある博識者で、人が言った格言の要旨を知り、どんなに長く話しても、話された言葉を吟味するサティがあり、しなければならない在家の仕事に賢く、勤勉で、それらの仕事を怠けず、
その仕事を成功させる方便を熟慮検討する智慧があり、それらの仕事を自分ですることができ、人にもさせることもできる人は、ゴータマさん。私たちはこの四つのダンマがある人を、大人物、大哲学者と規定します。賛同なさるなら賛同し、反論なさるなら反論してください」。
バラモンさん。私はあなたに賛同も反論もしません。私も四つのダンマがある人を大人物、大哲学者と規定します。四つのダンマは何でしょうか。
バラモンさん。この世界の人は大衆の幸福のために大衆を援ける人で、その上たくさんの人を集めてアリヤニャーヤダンマ、つまり美しいダンマ、善であるダンマを植え付ける人です。
更に彼が何かを熟考しようと決意すればそれを熟考することができ、熟考したくないと願えばそれを熟考しないこともでき、何かを考えようと決意すれば考えることができ、それを考えないと決意すれば考えないこともできます。彼はすべての考えの流れより上の、心を支配する力があるからです。
更に彼は現生で幸福に暮らす道具であり、心を高めるダンマである四つの禅定を、簡単に、大変でなく、望みどおりに得ることができる人です。
更に彼は生きているうちに最高の智慧で、漏がないので漏を探すことができないチェトーヴィムッティ・パンニャーヴィムッティ(心解脱・智慧解脱)を明らかにして、そして常にその感覚の中にいます。
バラモンさん。あなたに賛同も反論もしませんが、私はこの四つのダンマがある人を、大人物、大哲学者と規定します。(ヴァッサカーラバラモンは世尊の言葉を非常に喜びました)。
バラモンさん。あなたは示唆する言葉を言いました。では私がハッキリと言いましょう。私こそ大衆の幸福のために大衆を援ける人で、会衆をアリヤニャーヤダンマ、つまり美しいダンマ、善であるダンマがある人です。
私こそ、何かを熟考しようと決意すればそれを熟考することができ、熟考したくないと願えばそれを熟考しないこともでき、何かを考えようと決意すれば考えることができ、それを考えないと決意すれば考えないこともでき、すべての考えの流れより上の、心を支配する力があります。
私こそ、現生で幸福に暮らす道具であり、心を高めるダンマである四つの禅定を、簡単に、大変でなく、望みどおりに得ることができる人です。
私こそ、生きているうちに最高の智慧で、漏がないので漏を探すことができないチェトーヴィムッティ(心解脱)・パンニャーヴィムッティ(智慧解脱)を明らかにし、そして常にその感覚の中にいる人です。
すべての動物より素晴らしいと誰もが認める
比丘のみなさん。足がない生物、二足の生物、あるいは四足の生物でも、形のある生物、あるいは形のない生物でも、想がある動物、あるいは想がない動物、想があるでもなくないでもない動物でも、いるだけすべての生物の中で、阿羅漢サンマーサンブッダである如行はすべての動物の中で最も素晴らしい人と、当然誰もが言います。
比丘のみなさん。ブッダに帰依している人たちは誰でも、素晴らしい人に帰依している人と呼ばれ、素晴らしいものに帰依すれば、報いも素晴らしい報いになります。
比較になる人がいない
比丘のみなさん。一番の人が世界に現れる時は、当然肩を並べる人がいない、誰も同位の人がいない、好敵手がいない、追随する人がいない、近い人がいない、同等の人がいない、比較できる同じような人がいない人として、そしてすべての二足の動物より素晴らしい人として生まれます。一番の人とは誰でしょうか。自分で正しく大悟した阿羅漢である如行こそ、一番の人です。
比丘のみなさん。これが、世界に現れる時当然肩を並べる人がなく、誰も一緒にいる友がなく、好敵手もなく、追随する人もなく、近い人もなく、同等の人がなく、比較できる同じような人がいない人であり、そしてすべての二足の動物より素晴らしい一番の人です。
何にも拝礼しない
バラモンさん。この世界と天人界・悪魔界・梵天界、サマナ・バラモンと天人と人間も含めた動物群で、私が拝礼すべき、立ち上がって迎えるべき、席を整えて迎えるべき人は誰も見えません。なぜなら如行が誰かに拝礼し、立ち上がて座を作れば、その人の頭は粉々になる(註)に違いないからです。
註: これは、自分の先生に拝礼されたら私たちは苦しく感じるという言い回しです。それとも文字通りか、解釈次第です。
ダンマラージャ
セラさん。私は私を超える人がいないダンマラージャ(ダンマの王)です。私は、誰も抵抗して戻すことができないダンマの車輪をダンマで回転させます。
「ゴータマ様。あなた様はサンブッダで、それより優れた人がいないダンマラージャで、ダンマの車輪を転がすと宣言なさいました。それであなた様の筆頭弟子はどなたですか。お弟子の中で、あなた様が転がしている車輪を継承して転がすことができるのはどなたですか」。
セラさん。私が転がしている車輪は、これより素晴らしい物がないダンマチャック(法輪)で、私によって生まれたサーリプッタは、当然私に続いてその車輪を転がします。セラさん。私は知るべきことを最高の智慧で知り、生じさせるべき物を生じさせ、捨てるべき物を捨てたので、私はサンブッダです。
ダンマを尊重するダンマラージャ
比丘。ダンマラージャ(法王)であるダンマのある皇帝は、ダンマだけに依存し、ダンマを尊重し、ダンマを畏敬し、勝旗であるダンマがあり、先端であるダンマがあり、統治者であるダンマがあり、当然ダンマで守護し、そして庶民、王族、属国の王、軍隊、バラモンと長者、町と田舎の庶民、サマナとバラモン、そしてすべての鹿と鳥をダンマで正しく統治し、「どんな敵も手で回転を止めることができない車輪をダンマで回転させる人」と呼ばれます。
比丘。同じように阿羅漢サンマーサンブッダである如行は、ダンマだけに依存し、ダンマを尊重し、ダンマを畏敬し、勝旗であるダンマがあり、先端であるダンマがあり、統治者であるダンマがあり、当然ダンマで守護し、「こういうのは実行するべき、こういうのは実行するべきでない」と身業・口業・意業を管理し、
それ以上に素晴らしい物がないダンマの車輪を前進させることができ、そして天人界・悪魔界・梵天界と、サマナ・バラモンと天人と人間の動物群、あるいはこの世界の誰も、抵抗して回転を止めることができない車輪を回転させる人です。
(大悟してサンマーサンブッダになった周辺の話をきちんと整理した後、続いて次の話をなさいました)。
ブッダ自身の拠り所
比丘のみなさん。ネランジャラー川に近いウルヴェーラー村で大悟したばかりの頃、羊飼いが休憩するガジュマルの木の下にいる時、比丘のみなさん。私が静かな場所にいると、「尊敬する物がない人、拠り所である物がない人は当然苦がある。私はサマナ・バラモンのどなたを尊敬したら良いだろう」という考えが生じました。
比丘のみなさん。「天人界・悪魔界・梵天界と、サマナ・バラモンと天人と人間の動物群の中に、私以上に戒とサマーディと智慧が完璧な人、私が尊敬して依存すべき人は誰も見えない」という考えが生じました。
比丘のみなさん。「それなら私が大悟したダンマのどれでも、私はそのダンマを尊敬尊重して依存すべきだ。そうしよう」という考えが生じました。大梵天が私の内心の考えを知り、丈夫な男が腕を伸ばして曲げるだけの時間、梵天界から姿を消して私の前に現れました。比丘のみなさん。大梵天は布を左肩に掛けて右肩を出し、右膝を地面について合掌し、
「そうです世尊。そうです、世尊。過去のアラハンタサンマーサンブッダのどなたも、ダンマを尊敬し、ダンマに依存しました。未来に大悟するアラハンタサンマーサンブッダのどなたも、ダンマを尊敬し、ダンマに依存します。猊下。現在のアラハンタサンマーサンブッダも、どうぞダンマを尊敬し続けてください」と言いました。
大梵天はそう言うと、続けて、
「過去のサンブッダのどなたも、未来のサンブッダのどなたも、そして世界の悲しみを最高に無くした現在のサンブッダも、それらのサンブッダはみなダンマを尊敬していて、そして尊敬し続けます。これはブッダとして当たり前です。だから自分を愛し、偉大な徳を願い、仏教を思う人は、サッダンマ(正法)を尊敬なさいました」と言いました。
比丘のみなさん。大梵天はこう言うと、私に跪拝してタクシナ(敬意を表す作法)をし、そこから消えました。私は大梵天の勧めと、自分にふさわしい行動を理解し、自分で大悟したダンマのすべてを尊敬尊重して、そのダンマの中にいます。
比丘のみなさん。更に僧サンガに偉大な徳があれば、その時私はその僧サンガ(註)も尊敬します。
註: 僧は、このブッダの言葉を重く受け止めてください。
バラモンたちに幻滅される
比丘のみなさん。大悟したばかりの頃、ネランジャラー川に近いウルヴェーラー村の羊飼いが休憩するガジュマルの木の下にいた時、比丘のみなさん。老人、年寄、生まれて久しい高齢のバラモンが、休んでいる私を大勢で近くへ来て、親しく話し掛けました。
比丘のみなさん。それらのバラモンが私に「ゴータマさん。ゴータマサマナは年寄、老人、生まれて久しい年長のバラモンに拝礼せず、立って迎えず、座る場所を勧めないと聞いたが、これは事実かね。それはふさわしくないのではないかね」と言いました。
比丘のみなさん。私に「これらの高齢のバラモンは、テーラ(長老。つまり年寄という言葉の本当の意味)、あるいは私をテーラにしたダンマを知らない」という考えが生まれました。
比丘のみなさん。人は八十、九十、百歳の年寄でも、時にふさわしくないこと、真実でないことを言い、利益がないこと、ダンマでないこと、ヴィナヤでないことを言い、根拠がないこと、出所がないこと、終わりがないこと、利益がないことを言うなら、その人は本当に「愚かなテーラ」と見なすに至ります。
比丘のみなさん。まだ若い青年で、まだ髪が真っ黒な、発展盛りの若年期でも、時にふさわしいことを言い、真実を言い、利益があることを言い、ダンマでありヴィナヤであることを言い、根拠があり、出所が明らかなこと、終わりがあること、利益があることを言うなら、その人は本当に「博学者であるテーラ」と見なすにふさわしいです。
悪魔が般涅槃するよう奏上する
アーナンダ。大悟したばかりの頃、ネランジャラー川に近いウルヴェーラー村の羊飼いが休憩するガジュマルの木の下にいる時、罪のある悪魔が私を訪ねて来て適当な場所に立ち、「世尊、どうぞ般涅槃してください。猊下。どうぞ般涅槃して下さい。今あなたが般涅槃するにふさわしい時です」と言いました。
私は「罪のある悪魔さん。私の弟子である比丘、比丘尼、清信士、清信女がまだ賢くなく、まだ忠告を受けてなく、まだ勇敢でなく、まだ博学でなく、ダンマの維持やダンマにふさわしいダンマの実践、正しい実践、ダンマでの実践ができないうちは、自分の先生の知識を学ばなければならないので、
(如行は)まだ般涅槃しないで、生じて来る主義主張をダンマで平定するまで、サッダンマを教え、説明し、規定し、制定し、公開し、分類し、浅くし、不可思議なダンマを説きます。罪のある悪魔さん。この梵行(つまり宗教)が繁栄して盤石になり、大衆の知る所になり、天人と多くの人間が良く公開できるまで、私は涅槃しません」と悪魔に言いました。
ダンマを説くことに挫ける
王子。私に「私が到達したダンマは深いダンマで、他の動物には見え難く、他の動物には知り難いダンマで、静まった緻密なダンマで、考察で簡単に踏み込める境域でなく、学者だけが知ることができる緻密なものだ。これらの動物は喜びである愛着がある。愛着を喜び、愛着に溺れ、喜びである愛着があり、その愛着に夢中になるその動物にとって、これ(愛惜)が縁である縁起になるのは非常に難しい。
すべてのサンカーラ(行)が静まったダンマ、つまりウパティ(依)をすべて抜いたダンマ、欲望の終り、欲情の弛緩、絶滅、そして涅槃を見るのは、非常に困難だ。これらをすべて知る必要がない動物にダンマを説かなければならないなら、私にとって難儀で徒労だ」という考えが生じました。
ああ、王子。私が今まで聞いたことがないこれらの不思議な詩が、私に明らかになりました。
今、私が苦難で到達したダンマを説くべきではない
貪りと怒りに囚われた動物は
このダンマを簡単に知ることはできない
貪りで欲しがる動物は、闇に包まれ
深遠なダンマの流れに至らせるダンマは
微塵も見ることはできない
とこのように。
王子。このように熟慮して見ると、心は望みが減る方に傾き、ダンマを説く方に傾きませんでした。
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