涅槃にも夢中にならない
比丘のみなさん。自分で正しく大悟した阿羅漢である如行(ブッダの一人称。そのように行ったという意味。漢訳は如来)は、涅槃を涅槃と明らかに知り、涅槃を涅槃と明らかに知っても涅槃のと思い込まず、涅槃によってと思い込まず、私の涅槃と思い込まず、涅槃に陶酔して溺れませんでした。それはなぜでしょうか。涅槃は、如行がすべて知り尽した物だからです。
比丘のみなさん。自分で正しく大悟した阿羅漢である如行は、涅槃を涅槃と明らかに知り、涅槃を涅槃と知っても「涅槃の」と思い込まず、「涅槃によって」と思い込まず、「私の涅槃」と思い込まず、涅槃に陶酔して溺れませんでした。それはなぜでしょうか。
それは「陶酔は苦の原因であり、そして有があれば生があり、生き物に生まれれば必ず老いと死があると知ることですべての欲望がこのように終り、消滅し、振り捨て、抜いたので、如行はアヌッタラサンマーサンボーディニャーナ(無上正菩提智)を大悟したからです」と私は言います。
誰よりも世俗のことに安定がある
比丘のみなさん。天人・悪魔・梵天を含めた、サマナ・バラモンと天人と人間を含めた世界の動物群の人々が揃って見た、聞いた、味わった、感じ、明らかに知った、出会った、探求して発見した物は、それは私も知っています。
比丘のみなさん。天人・悪魔・梵天と、サマナ・バラモンと天人と人間を含めた世界の動物群の人が揃って見たもの聞いたもの、味わい、感じ、明らかに知り、出会い、探求して見つけた物は、それは私も最高の智慧で明らかに知っています。それは如行にとって明らかになっている物なので、それが如行(の心)に入ること(つまり夢中になる)はできません。
比丘のみなさん。天人・悪魔・梵天と、サマナ・バラモンと天人と人間も含めた動物群の人が揃って見た物、聞いた物、味わい、感じ、明らかに知り、出会い、探求して見つけた世界の物は、「私はそれを良く知っている」と言うべきです。私が「知っている物もあり、知らない物もある」と言えば、それは私にとって偽りになり、「知っているでもなく、知らないでもない」と言えば、それは私にとって損害です。
比丘のみなさん。だから如行は見なければならない物を見ても見たと思い込まず、見ないと思い込まず、見なければならない物と思い込まず、自分は見た人の一人と思い込みません。(聞いたこと、感じたこと、明らかに知ったことも、同じ内容です)。
比丘のみなさん。だから如行はすべての見たこと、聞いたこと、味わったこと、感じたことに、そのように正常でいられる人と言われます。そして私は、如行より安定した緻密な人はいないと言います。
出家してから大悟するまで、受の支配より上にいる
アッギヴェッサナさん。訓練した体、訓練した心がある人はどのようでしょうか。アッギヴェッサナさん。このダンマヴィナヤの聞いたことがある聖なる弟子に受が生じると、幸受に触れているその聖なる弟子は幸福を喜んで欲情する人でなく、幸福を欲情するに至らず、その聖なる弟子の幸受は当然消滅します。
苦受が当然生じると、苦受に触れているその聖なる弟子は当然悲しまず、苦しまず、泣き嘆かず、胸を叩いて泣かず、迷いに至りません。
アッギヴェッサナさん。その幸受がこのようにその聖なる弟子に生じても、訓練した心がある人なので心を支配せず、その苦受がこのようにその聖なる弟子に生じても、訓練した心がある人なので心を支配しません。アッギヴェッサナさん。幸受も心を支配し続けず、苦受も心を支配し続けないので、彼は当然「訓練した体、訓練した心がある人」と呼ばれます。
「ゴータマ様。私はゴータマ様に帰依します。ゴータマ様は訓練した体と訓練した心がある方だからです」。
アッギヴェッサナさん。この言葉は、本当に私のことを述べた言葉です。私はもっとはっきり言います。アッギヴェッサナさん。私が髪と髭を下ろして渋染めの衣をまとって出家して家のない人になって以来、幸受が生じて私の心を支配すること、あるいは苦受が生じて私の心を支配すること、これはあり得ません。
「ゴータマ様。生じて心を支配し続ける幸受は、ゴータマ様には当然生じないに違いありません。生じて心を支配し続ける苦受は、ゴータマ様には当然生じないに違いありません」。
アッギヴェッサナさん。なぜあり得ないのでしょうか。
(この後、出家してから学ぶ所、つまりアーラーラカーラーマ仙人、ウダカラーマプッタ仙人を探した話から、ニグロンダという勤めを手本にしてアッタキラマーヌヨガ(自苦行専修)をし、愛欲を避ける例えが(心に)生じた話まで、それから強烈な苦のある厳格な苦行を完璧にした話をされ、それでもブッダの心は支配されなかったと主張されました。
苦行を止めて心の努力をした時、四つの形禅定と三つの明から幸福が生じ、「ブッダの心を支配することができるどんな受もない」と主張されているように、最高の幸受もブッダの心を支配することはできませんでした)。
アッギヴェッサナさん。私は歯で歯を噛み、舌で上あごを押し、心で心を抑えて熱くなるまで強く圧迫しました。アッギヴェッサナさん。私が歯で歯を噛み、舌で上あごを押し、心で心を抑えて熱くなるまで強く圧迫すると、両脇から汗が流れ落ちました。
アッギヴェッサナさん。私は始めた努力を弱めることなく、サティが混乱することもありませんでした。非常に耐え難い努力の力に突き刺されたので、体は動揺するばかりで静まりませんでした。アッギヴェッサナさん。このように生じた苦受も心を支配しませんでした。
アッギヴェッサナさん。私は鼻と口の呼吸を我慢しました。アッギヴェッサナさん。私が鼻と口での呼吸を我慢すると、両方の耳の穴から空気が出る鍛冶屋のフイゴのような音が非常に大きく聞こえました。アッギヴェッサナさん。
しかし私は始めた努力を弱めることはなく、サティが呆けることもありませんでした。非常に耐え難い努力の力に突き刺されたので、体は動揺するばかりで静まりませんでした。アッギヴェッサナさん。このように生じた苦受も心を支配しませんでした。
アッギヴェッサナさん。私は鼻と口と両耳での呼吸を我慢しました。鼻と口と両耳での呼吸を我慢すると、非常に強い風が脳天を突き刺してえぐりました。アッギヴェッサナさん。しかし私は始めた努力を弱めることなく、サティが呆けることもありませんでした。非常に耐え難い努力の力に突き刺されたので、体は動揺するばかりで静まりませんでした。アッギヴェッサナさん。このように生じた苦受も、心を支配しませんでした。
アッギヴェッサナさん。私は鼻と口と耳で息を吸うのを我慢すると、頑健な男に紐で頭を縛り上げられたように、頭全体に痛みを感じました。しかし私は始めた努力を弱めることなく、サティが呆けることもありませんでした。非常に耐え難い努力の力に刺されたので、体は動揺するばかりで静まりませんでした。アッギヴェッサナさん。このように生じた苦受も、心を支配しませんでした。
アッギヴェッサナさん。私が鼻と口と耳で息を吸うのを我慢すると、非常に強い風が下に吹き、腹の底を突き刺し、牛の屠殺人、あるいはその賢い弟子に腹の底をえぐられたようでした。しかし私は始めた努力を弱めることなく、サティが呆けこともありませんでした。非常に耐え難い努力に突き刺されるので、体は動揺して静まりませんでした。アッギヴェッサナさん。このように生じた苦受も心を支配しませんでした。
アッギヴェッサナさん。私が鼻と口と耳で息を吸うのを我慢すると、力の強い男二人に脇を掴まれて炭火の上に投げられて焼かれているように、体中が熱く感じました。しかし私は始めた努力を弱めることなく、サティが呆けることもありませんでした。非常に耐え難い努力の力に刺されたので、体は動揺するばかりで静まりませんでした。アッギヴェッサナさん。このように生じた苦受も、心を支配しませんでした。
(次に幸受を受け取ってもその幸受は心を支配しない話をされました)。
アッギヴェッサナさん。私が粗い食べ物を食べて体力をつけると、愛欲とすべての悪が静まったので、ヴィタッカ(思惟)・ヴィチャーラ(考察)があり、ピーティ(喜悦)とスッカ(幸福)がある初禅に到達し、その感覚の中にいました。アッギヴェッサナさん。このように私に生じた幸受も心を支配しませんでした。
アッギヴェッサナさん。ヴィタッカとヴィチャーラが静まったことで、ヴィタッカもなくヴィチャーラもなく、あるのはピーティとスッカだけの、心の内面を明るくする物であり、心にサマーディを生じさせる物である二禅に到達し、その感覚の中にいました。アッギヴェッサナさん。このように私に生じた幸受も心を支配しませんでした。
アッギヴェッサナさん。ピーティが薄れることで、聖人の方々が「この定を得た人は捨にいる人で、サティがあり幸福でいる」と言われる三禅に到達し、その感覚の中にいました。このように私に生じた幸受も心を支配しませんでした。
アッギヴェッサナさん。幸福と苦を捨てたことで、過去のすべての喜びが薄れることで、苦も幸福もなく、あるのは捨ゆえに純粋な自然であるサマーディだけの四禅に到達し、その感覚の中にいました。このように私に生じた幸受も心を支配しませんでした。
心が安定し、純潔で清浄で煩悩がなくなった時、仕事にふさわしいしなやかな自然になり、敏捷になり、そのように安定すると、私は心を宿命智に傾けました。
アッギヴェッサナさん。これがその夜に私が到達した一番の明です。不注意でなく、罪を焼く努力があり、自分を追い遣る人に生じるように、無明が追放されて明が生じ、闇が追放されて明るさが生じ、そしてその感覚の中にいました。アッギヴェッサナさん。このように私に生じた幸受も心を支配しませんでした。
心が安定し、純潔で清浄で煩悩がなくなった時、仕事にふさわしいしなやかな自然になり、敏捷になり、そのように安定すると、私は心を死生智に傾けました。アッギヴェッサナさん。これがその夜に私が到達した二番の明です。
不注意でなく、罪を焼く努力がある自分を追い遣る人に生じるように、無明が追放されて明が生じ、闇が追放されて明るさが生じ、その感覚の中にいました。アッギヴェッサナさん。このように私に生じた幸受も心を支配しませんでした。
心が安定し、純潔で清浄で煩悩がなくなり、仕事にふさわしいしなやかな自然になり、敏捷になり、そのように安定すると、私は心を漏尽智に傾けました。アッギヴェッサナさん。これが、その宵に私が到達した三番の明です。不注意でなく、罪を焼く努力があり、自分を追い遣る人に生じるように、無明が追放されて明が生じ、闇が追放されて明るさが生じ、そしてその感覚の中にいました。
アッギヴェッサナさん。このように私に生じた幸受も心を支配しませんでした。
(三つの知識に関した詳細は第二部の「大悟の状態」http://buddhadasa.hahaue.com/butuden/2-5.htmlで読むことができます)。
自身の美徳を主張できる
(1) カッサパさん。戒実践者であるサマナ・バラモンは、戒のいろんな美徳を語ります。カッサパさん。素晴らしいパラマシーラ(至上の戒)にどれだけの理由があっても、その素晴らしい最上戒で私と並ぶ人は誰も見えません。私を越える人がどこにいるでしょうか。私こそ本当にアディシーラ(高い戒)を極めた人です。
(2) カッサパさん。苦行実践者であるサマナ・バラモンは、いろんな苦行で煩悩を遮る恩恵を語ります。カッサパさん。どれだけの理由で最高に素晴らしい苦行で煩悩を遮る苦行ができても、私と並ぶ人は誰も見えません。究極の、そして素晴らしい苦行で煩悩を遮ることで私を越える人がどこにいるでしょうか。私こそ本当にアディグッチャ(つまりアディチッタ=高い心)を極めた人です。
(3) カッサパさん。智慧実践者であるサマナ・バラモンは、いろんな智慧の恩恵を語ります。カッサパさん。素晴らしいパラマパンニャー(至上の智慧)がどれだけの理由で生じても、それで私と並ぶ人は誰も見えません。素晴らしい智慧で私を越える人がどこにいるでしょうか。私こそ本当にアディパンニャー(高い智慧)を極めた人です。
(4) カッサパさん。解脱実践者であるサマナ・バラモンは、いろんな解脱の恩恵を語ります。カッサパさん。最高で、そして素晴らしいパラマヴィムッティ(至上解脱)がどれだけの理由で現れても、私と並ぶ人は誰も見えません。素晴らしい解脱で私を越える人がどこにいるでしょうか。私こそ本当にアディヴィムッティ(高い解脱)を極めた人です。
ブッダがサンマーサンブッダであることを試すよう主張なさる
比丘のみなさん。熟慮する智慧があり、他人の心を知るニャーナがない比丘が、如行はサンマーサンブッダかどうかを知るために如行を試す方法があります。
(比丘全員が説いてくださいとお願いしたので、次の言葉を話されました)。
比丘のみなさん。熟慮する智慧はあっても他人の心を知るニャーナがない比丘は、如行を二つのダンマで試すべきです。つまり目と耳で知ることができる悲しみのダンマが如行にあるかどうか、目と耳で知ることができるダンマを試します。そうすれば当然、目と耳で知ることができる悲しみのダンマは、如行にないと知ります。
そのように知ったら、当然更に、目と耳で知ることができる悲しみが混じっているダンマが、如行にあるかどうか試すべきです。そうすれば目と耳で知ることができる悲しみが混じっているダンマは、如行にないと知ります。
そのように知ったら、当然更に、目と耳で知ることができる純潔なダンマが如行にあるかどうか、試すべきです。そうすれば目と耳で知ることができる純潔なダンマは如行にあると知ります。
そのように知ったら、当然更に、この方はこの善であるダンマに到達し、いつまでも永遠に到達しているか、あるいは今到達したばかりか試すべきです。そうすれば、この方はこの善であるダンマに到達し、いつまでも永遠に到達していると知ります。
そのように知ったら、当然更に、この方は栄誉があり、響き渡る名誉があり、この栄誉に関わる低劣な罪が多少はこの方にあるかどうかと試すべきです。
比丘のみなさん。(この試験をしなければならないのは)まだ栄誉で輝き、響き渡る名誉が無い間は、低劣な罪はその比丘にはまだなく、栄誉で輝き、響き渡る名誉があれば多少の低劣な罪が生じるからです。そうすれば、この方は栄誉があり響き渡る名誉がある比丘でも、この栄誉に関わる低劣な罪はないと知ります。
そのように知ったら、当然更に、この方はラーガがなく愛欲を味わう人でないので、バユーパラッタ(危険を喜ぶ人)ではないかどうか試すべきです。そうすればこの方はラーガがなく、愛欲を味わう人でないので、バユーパラッタ(危険を喜ぶ人)ではないと知ります。
比丘のみなさん。他の人がその比丘に「あの方はラーガが終わって愛欲を味わわないので、危険を喜ぶ人でない、とあなたが言うどんな理由、聞いて知っているどんな話があるのですか」と質問したら、比丘のみなさん。比丘が正しく託宣するなら、
「それは確かです。その方が僧の群れの中にいる時も、一人でいる時も、その中に善い振る舞いの人も、悪い振る舞いの人もいます。集団に教えていると、アーミサ(餌)に関わっている人たちもアーミサに関わらない人たちもいます。しかしその方はそれを理由にその人を軽蔑しません。一方私は世尊自身から直接『私は危険を喜ぶ人ではありません。ラーガがなく、ラーガがないから愛欲を味わわないので、危険を喜ぶ人ではありません』と聞きました」と 託宣するべきです。
比丘のみなさん。如行は、人が「目と耳で知ることができる悲しみのダンマが如行にあるかどうか」と更に質問すべき人です。比丘のみなさん。如行が託宣する時は「ありません」と託宣します。
目と耳で知ることができる悲しみが混じったダンマは如行にありますかと質問されれば、如行が託宣する時は「ありません」と託宣します。
目と耳で知ることができる純潔なダンマは如行にありますかと質問されれば、如行が託宣する時は、目と耳で知ることができる純潔なダンマは如行にあると託宣します。如行に純潔なダンマがあること、それが道であり、純潔なダンマがあること、それが遊ぶ場所(ゴーチャラ)です。しかし如行はダンマヨー(純潔なダンマが作った人)ではありません。
比丘のみなさん。弟子はダンマを聞くためにこのような見解のある教祖を訪ねるべきで、教祖は当然その弟子に、極めて高度で極めて緻密になるダンマ、黒いダンマと白いダンマを比較をまじえて説きます。
比丘のみなさん。教祖が当然その状態でダンマを説いた時、その弟子はそのダンマを最高に知ることで、説かれたすべてのダンマの中の特に幾つかのダンマに至り、当然教祖に「世尊はサンマーサンブッダであり、プラタムは善く説かれた物で、弟子である僧は善く行動する人」と、当然教祖に帰依します。
比丘のみなさん。他の人がその比丘に「『世尊はサンマーサンブッダであり、プラタムは善く説かれた物であり、世尊の弟子僧は良く説く人』とあなたが言うどんな理由があり、聞いて知っているどんな話がありますか」と質問したら、比丘のみなさん。比丘が正しく託宣するなら、「友よ。私がダンマを聞くために世尊を訪ねると、世尊は私たちに黒いダンマと白いダンマを比較する部分がある、極めて高度で極めて緻密なダンマを説かれます。
友よ。世尊は当然私たちにその状態でダンマを説けば、その弟子は当然説かれたすべてのダンマの中の特に幾つかのダンマを最高に知ることに至り、当然『世尊はサンマーサンブッダであり、プラタムは善く説かれた物で、弟子サンガは善く行動する人』と教祖に帰依します」と託宣するべきです。
比丘のみなさん。如行に対する誰の信仰も、これらの状況、これらの言葉で結ばれている信仰は、根があり基礎がある信仰です。比丘のみなさん。この信仰を私は、「根源である見解のある信仰、安定した信仰で、サマナもバラモンも、天人も梵天も、世界の誰も引っ張って行くことはできない」と言います。
比丘のみなさん。如行をダンマで試すには当然このようにします。そして如行は、このようにダンマで良く試された人です。
註: 上記の内容は「ブッダはサンマーサンブッダかどうか」、ブッダの心を知るチェトーパリニャーナ(他人の心を知る力)がない私たち一般人が、「サンマーサンブッダである」と確信することができる利益があります。これを理解するために極力努力してください。
更にこれらの内容は、ある人には、聞いて理解が難しいです。ブッダは尋問される被告のように、普通の言葉を使って独自の意味を持たせているので、読者は特に注意深くなければなりません。例えば『比丘』という言葉が、ブッダ自身を意味していることもあります。(編者)
聖道以外に他の苦行をしたので純潔でないと主張する
悪魔に
世尊が大悟されて間もない頃、遠離する場所に滞在されていると、「私は苦行から出ることができて非常に良かった。利益がないすべての苦行から脱出して非常に良かった。私は脱出して菩提智に到達した」という考え(パリヴィタッカ)が生じました。
その時、罪のある悪魔が世尊の考えを自分の心で知って、滞在先へ訪ねて来て詩で言いました。
苦行をした青年は
当然彼を純潔にする苦行から離れない
純潔でないあなたは
自分は純潔だと理解して
純潔な道を投げ捨てた
その時世尊は、これは罪がある悪魔だと知られ、詩で威嚇されました。
他の苦行はどんな種類でも
どれも利益をもたらす苦行ではない
舟を森に引き上げるのに使う竿や櫂のように
利益はないと知ったから
私は大悟するために
戒とサマーディと智慧があるマッガ(道)に励んで
最高の純潔に到達した
悪魔さん
私こそあなたを掃滅する人ですよ
その時罪のある悪魔は「世尊は私の言った言葉を知っている。苦と憂いはそこで消滅してしまった」と感じました。
ブッダの梵行は十分純潔
バラモンさん。誰が欠けず突き出ず、汚れずまだらでなく、純潔で完璧に梵行を行う人か正しく言うなら、その人は「如行」と特定して言うべきです。バラモンさん。私は当然欠けず突き出ず、汚れずまだらでなく、純潔で完璧な梵行をします。
「ゴータマ様。梵行の欠ける、突き出る、汚れる、まだら、というのはどのようですか」。
バラモンさん。この世界のサマナ・バラモンと自称する人は、自分は正しい梵行者だと宣言し、女性と性交をしないのは事実ですが、女性に付ききりで撫でたり揉んだり叩いたり浴びせたり、体を拭いたりしてもらうのを喜びます。このように女性に侍られると彼は喜びでゾクゾクします。
バラモンさん。これが梵行の欠け、突出、シミ、まだらです。私は「この人の梵行は純潔でなく、まだ性交に関わっている。まだ生・老・死・憂い・嘆き・苦悶・悩みから脱せず、まだ苦から脱せない」と言います。
バラモンさん。この世界のサマナ・バラモンのある人は、自分は正しい梵行をしていると宣言し、女性と性交をせず、そして女性に撫でたり、揉んだり叩いたりされるのを喜ばないのは事実ですが、彼はまだ女性とひそひそ話をしたり、からかってふざけ合うのをゾクゾクするほど喜びます。
バラモンさん。これが梵行の欠け、突出、シミ、まだらです。私は「この人の梵行は純潔でない。まだ性交に関わっている。まだ生・老・死・憂い・嘆き・苦悶・悩みから脱せず、まだ苦から脱せない」と言います。
バラモンさん。この世界のサマナ・バラモンのある人は、自分は正しい梵行をしていると宣言し、女性と性交をせず、そして女性に撫でたり揉んだり叩くなどの奉仕されるのを喜ばず、女性とひそひそ話をしたり、からかってふざけ合うのを喜ばないのは事実ですが、まだ女性と目を合わせ、そのようにすることをぞくぞくするほど喜びます。
バラモンさん。これが梵行の欠け、突出、シミ、まだらです。私は「この人の梵行は純潔でなく、まだ性交に関わっている。まだ生・老・死・憂い・嘆き・苦悶・悩みから脱せず、まだ苦から脱せない」と言います。
バラモンさん。この世界のサマナ・バラモンのある人は、自分は正しい梵行をしていると宣言し、女性と性交をせず、そして女性に撫でたり、揉んだり叩くなどの奉仕をされるのを喜ばず、女性とひそひそ話をしたり、からかってふざけあうのを喜ばず、女性と目を合わせることも喜ばないのは事実ですが、笑い声でも話し声でも、歌声でも泣き声でも、壁の外でも塀の外でも、女性の声を聞くのが好きで、声を聞くのをゾクゾクするほど喜びます。
バラモンさん。これが梵行の欠け、突出、シミ、まだらです。私は「この人の梵行は純潔でなく、まだ性交と関わっている。まだ生・老・死・憂い・嘆き・苦悶・悩みから脱せず、まだ苦から脱せない」と言います。
バラモンさん。この世界のサマナ・バラモンのある人は、自分は正しい梵行をしていると宣言し、女性と性交をせず、そして女性に撫でたり、揉んだり叩くなどの奉仕をされるのを喜ばず、女性をからかってふざけるのを喜ばず、女性と目を合わせることを喜ばず、女性の声を聞くことを喜ばず、過去に女性とふざけ合い笑い合ったことを思い出すのを喜ばないのは事実ですが、
長者や長者の息子たちが女性を侍らせて五欲で満たされているのを見ると、彼はゾクゾクするほど喜びます。バラモンさん。これが梵行の欠け、突出、シミ、まだらです。私は「この人の梵行は純潔でなく、まだ性交と関わっている。まだ生・老・死・憂い・嘆き・苦悶・悩みから脱せない。まだ苦から脱せない」と言います。
バラモンさん。この世界のサマナ・バラモンのある人は、自分は正しい梵行をしていると宣言し、女性と性交をせず、そして女性から撫でたり、揉んだり叩くなどの奉仕を受けるのを喜ばず、女性をからかってふざけるのを喜ばず、また女性と目を合わせることを喜ばず、女性の声を聞くことを喜ばず、かつて女性とふざけ合い笑い合ったことを思い出すのを喜ばず、
長者や長者の息子たちが五欲で満たされているのを見て非常に喜ばないのは事実ですが、「この戒、この勤め、この苦行、あるいはこの梵行で、私は天人の一人になる」と祈願して、何らかの天人に生まれることを望んで梵行をしています。
バラモンさん。これが梵行の欠け、突出、シミ、まだらです。「この人の梵行は純潔でなく、まだ性交と関わっている。まだ生・老・死・憂い・嘆き・苦悶・悩みから脱せず、まだ苦から脱せない」と私は言います。
バラモンさん。自分がまだ捨てられないこの七つの、いずれかの性交との関わりが見えている間は、その時私は、天人、悪魔、梵天を含めた、サマナ・バラモン、天人とすべての人間を含めたこの世界の動物群にアヌッタラサンマーサンボーディニャーナ(最高に正しい智)を大悟したと宣言しませんでした。
バラモンさん。自分がまだ捨てられない、この七つのいずれかの性交との関わりが見えなくなった時、その時当然私は、天人、悪魔、梵天を含めた、サマナ・バラモン、天人とすべての人間を含めたこの世界の動物群にアヌッタラサンマーサンボーディニャーナ(最高に正しい知識)を大悟したと宣言し、「私の解脱は悪化しない。この生は最後の生だ。今、新たに生まれることはない」というニャーナダッサナ(知ったと見ること。智見)が生じました。
洞察したことだけを話される
比丘のみなさん。私はまだ、動物が意図して行動して集めるカンマを明らかに知らなかったので、即座に結果があるカンマでも、その後に結果があるのカンマでも、もっと後に結果があるカンマでも、そのカンマの終りを述べませんでした。比丘のみなさん。私はまだ動物が意図して行動して集めるカンマを明らかに知らなかったので、苦の終りを述べませんでした。
比丘のみなさん。悪の意図があり、体の仕事が罪に至ることはいろいろあり、儲けである苦があり、結果である苦は三種類あります。悪の意図がある言葉の仕事が罪に至ることはいろいろあり、儲けである苦があり、結果である苦が四種類あります。悪の意図がある心の仕事が罪に至ることはいろいろあり、儲けである苦があり、結果である苦は三種類あります。
(その後、冒頭の題目として挙げた悪の側のすべての身業、口業、意業を細かく分類し、それから善の側、そしてカンマの終り、苦を終わらせる行動と言うに十分な本当に善であるすべての身業、口業、意業を、同様に細かく分類されました)。
その後維持する必要がないもの
比丘のみなさん。これらの四つのダンマは、如行が(止める意図で)慎重に維持する必要がない物です。四つとは何でしょうか。
(1) 比丘のみなさん。如行は体の行儀作法が純潔清浄なので、「誰も私の不正な体について知らないで」と、このように如行が維持(隠す)しなければならない不正な行動は、当然如行にはありません。
(2) 比丘のみなさん。如行は言葉の行儀が純潔清浄なので、「誰も私の不正な言葉について知らないで」と、このように如行が維持(隠す)しなければならない不正な言葉は、当然如行にはありません。
(3) 比丘のみなさん。如行は心の行儀が純潔清浄なので、「誰も私の不正な心について知らないで」と、このように如行が維持(隠す)しなければならない不正な心は、当然如行にはありません。
(4) 比丘のみなさん。如行は生活が純潔清浄なので、「誰も私の不正な生活について知らないで」と、このように如行が維持(隠す)しなければならない不正な生活は、当然如行にはありません。
世界の境域から脱すことに賢い
比丘のみなさん。私はこの世界のことに賢く、他の世界のことに賢い人で、閻魔の居場所である輪廻に賢く、閻魔の居場所でない非輪廻に賢い人です。これらの話は聞くべき、信じるべきと見なす人は誰でも、それらの人々にとって永遠に幸福のためになります。
この世界と他の世界を如行は良く知る人で、明解に開示しました。悪魔が行けない場所、閻魔が行けない場所も如行は明らかに知り、明確に理解し、明快に開示しました。すべての動物がその中に入れるよう、如行は不死の都の門を解放し、罪のある悪魔の流れを塞ぎ、毒を無くしました。
比丘のみなさん。努力から生じる安全なダンマを、非常に喜び、望む人におなりなさい。
世界のダンマを知っても、公開しても、夢中にならない
比丘のみなさん。世界のダンマは世界にあり、如行はそのダンマを当然大悟し、当然知り尽しました。大悟して知り尽した時、当然教え、当然説き、当然規定し、当然維持し、当然公開し、当然分類して説明し、当然伏せてあった物を裏返したようにしました。
比丘のみなさん。世界のダンマとは何でしょうか。
比丘のみなさん。形は世界のダンマで、如行は当然、世界のダンマである形を大悟し、知り尽しました。悟って知り尽した時当然教え、当然説き、当然規定し、当然維持し、当然公開し、当然分類して説明し、当然伏せてあったものを裏返したようにしました。
比丘のみなさん。如行が教え、説き、規定し、維持し、公開し、分類して説明し、伏せてある物を裏返したようにしても、ある人は知らず見えません。比丘のみなさん。愚かな人、凡人、闇の人、目のない人、このように知らず見えない人は、私は彼らに何もできません。
(受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。
比丘のみなさん。緑の蓮、桃色の蓮、あるいは白い蓮は水中で生まれ、水中で育ちますが、水を突き抜けて立ち、濡れていないように、比丘のみなさん。私はこの世界に生まれ、この世界で育ったことは事実ですが、世界を支配し、世界を見ていても、世界で汚れることはありません。
深遠なディッティを知る(六十二見)
比丘のみなさん。他の動物には見え難い、他の動物が知り難い、静寂で緻密で、考察で推測できない領域であり、繊細で博学者だけが知ることができる深いダンマがあります。それを如行は究極の智慧で自ら明らかにして、如行を真実のままに正しく称賛する人に称賛をもたらすダンマを、他人に教えました。比丘のみなさん。そのダンマはどのようでしょうか。
比丘のみなさん。この世界のサマナ・バラモンのある人たちは、
1.何千もの自分の生を思い出すことができたので、自分と世界の何でも不変と規定します。
2.(最高で)十の壊劫・成劫を思い出すことができたので、自分と世界の何でも不変と規定します。
3.(最高で)四十の壊劫・成劫を思い出すことができたので、自分と世界の何でも不変と規定します。
4.いつでも思考で憶測するので、自分と世界の何でも不変と規定します。
(以上の四つを「サッサタヴァーダ=すべて不変」と言います)。
5.首領から移動した生だけ思い出すことができるので、自分と世界は不変なものもあると規定します。
6.キッダーパドシカー(戯耽)天人だった生だけを思い出せるので、自分と世界の幾つかは不変と規定します。
7.マノーパドシカー(意憤)天人だった生だけを思い出せるので、自分と世界の幾つかは不変と規定します。
8.常に考えて推測するので、自分と世界の幾つかは不変と規定します。
(以上は「エカッチャサッサタヴァーダ=幾つかは不変」と言います)
9. 何らかの努力に依存してチェトーサマーディ(心三昧)に達したので、確信して自分と世界は終わりがあると規定します。
10.何らかの努力に依存してチェトーサマーディに達したので、確信して自分と世界は終わりがないと規定します。
11.何らかの努力に依存してチェトーサマーディに達したので、確信して自分と世界は終わりがあったりなかったりすると規定します。
12.自分の耽溺に依存して、世界は終わりがあることもないこともあると規定して言葉が揺れます。
(以上の四つを、アンターナンティカヴァーダと言い、終わりがあるのとないのとに関わっています)。
13.虚言を恐れて言葉が揺れ、一定しない発言をし、私はそうではなく、こうでもないと規定します。(善と悪に関わる)。
14、取を恐れて言葉が揺れ、一定しない発言をし、私はそうではなく、こうでもないと規定します。(善と悪に関わる)。
15.詰問を恐れて言葉が揺れ、一定しない発言をし、私はそうではなく、こうでもないと規定します。(善と悪に関わる)。
16、惑溺によって発言が揺れて一定しない。(例えば来世はあるとか、カンマの結果はあるなど、ローギヤディッティに関わる)。
(以上の四つをアマラヴィカケーイカヴァーダと言い、発言が一定しません)。
17.無想生物に生まれ、そして想が生じたので死ななければならなかった生だけを思い出せたので、自分と世界は自然に生まれると規定します。
18.常に思考に依存して推測して、自分と世界を自然に生まれると規定します。
(上の二つは、「アディッチャサマウッパンニカヴァーダ=自然に生じる」と言う人たちです)。
(以上四種十六のディッティは、過去の蘊について言及する人たちです)
19.形がある自分は病気がない自分で、死んだら想がある動物になると規定します。
20.形がない自分は病気がない自分で、死んだら想がある動物になると規定します。
21.形がある自分と形がない自分は病気がない自分で、死んだら想がある動物になると規定します。
22.形があるでもなく、ないでもない自分は病気がない自分で、死んだら想がある動物になると規定します。
23.終りがある自分は病気がない自分で、死んだら想がある動物になると規定します。
24.終りがない自分は病気がない自分で、死んだら想がある動物になると規定します。
25.終りがある自分と終わりがない自分は病気がない自分で、死んだら想がある動物になると規定します。
26.終りがあるでもなく、ないでもない自分は病気がない自分で、死んだら想がある動物になると規定します。
27.同じ想がある自分は病気がない自分で、死んだ後は想がある動物になると規定します。
28.違う想がある自分は病気がない自分で、死んだら想がある動物になると規定します。
29.少し想がある自分は病気がない自分で、死んだら想がある動物になると規定します。
30.無限に想がある自分は病気がない自分で、死んだら想がある動物になると規定します。
31.幸福しかない自分は病気がない自分で、死んだら想がある動物になると規定します。
32.苦しかない自分は病気がない自分で、死んだら想がある動物になると規定します。
33.幸福と苦がある自分は病気がない自分で、死んだら想がある動物になると規定します。
34.幸福も苦もない自分は病気がない自分で、死んだら想がある動物になると規定します。
(以上の十六は「サンジーヴァーダ=想がある人たち」と言います)。
35.形がある自分は病気がない自分で、死んだら想がない動物になると自分を規定します。
36.形がない自分は病気がない自分で、死んだら想がない動物になると自分を規定します。
37.形があり形がない自分は病気がない自分で、死んだら想がない動物になると自分を規定します。
38.形があるでもなく、ないでもない自分は病気がない自分で、死んだら想がない動物になると自分を規定します。
39.終りがある自分は病気がない自分で、死んだら想がない動物になると自分を規定します。
40.終りがない自分は病気がない自分で、死んだら想がない動物になると自分を規定します。
41.終りがあり、終わりがない自分は、病気のない自分で、死んだら想がない動物になると自分を規定します。
42.終りがあるでもなく、ないでもない自分は病気がない自分で、死んだら想がない動物になると自分を規定します。
(以上の八つを「アサンジーヴァーダ=想がない人たち」と言います)。
43.形がある自分は病気がない自分で、死んだら想があるでもなく、ないでもない動物になると自分を規定します。
44.形がない自分は病気がない自分で、死んだら想があるでもなく、ないでもない動物になると自分を規定します。
45.形がある自分とない自分は病気がない自分で、死んだら想があるでもなく、ないでもない動物になると自分を規定します。
46.形があるでもなく、ないでない自分は病気がない自分で、死んだら想があるでもなく、ないでもない動物になると自分を規定します。
47.終りがある自分は病気がない自分で、死んだら想があるでもなく、ないでもない動物になると自分を規定します。
48.終りがない自分は病気がない自分で、死んだら想があるでもなく、ないでもない動物になると自分を規定します。
49.終りがあり終わりがない自分は病気がない自分で、死んだら想があるでもなく、ないでもない動物になると自分を規定します。
50.終りがあるでもなく、ないでもない自分は病気がない自分で、死んだら想があるでもなく、ないでもない動物になると自分を規定します。
(以上の八つを、「ネヴァサンジナーサンジーヴァーダ=想がないのではない人たち」と言います)。
51.四大形種で生じた自分は、死んだら消滅すると規定します。
52.欲界のカーヤディパ(天の体)は、死んだら消滅すると規定します。
53.考えでできているカーヤディパは、死んだら消滅すると規定します。
54.空無辺処の動物は死んだら消滅すると規定します。
55.識無辺処の動物は死んだら消滅すると規定します。
56.無所有処の動物は死んだら消滅すると規定します。
57.非想非非想処の動物は死んだら消滅すると規定します。
(以上の七つを、「ウッチェダヴァーダ=死んだら消滅する」と言います。
58.五欲で満たされることを現生での涅槃と規定します。
59.初禅の幸福を現生での涅槃と規定します。
60.二禅の幸福を現生での涅槃と規定します。
61.三禅の幸福を現生での涅槃と規定します。
62.四禅の幸福を現生での涅槃と規定します。
(以上の五つを「ダンマニッバーナヴァーダ=現生での涅槃論の人たち」と言います)。
(上の五種四十四は、未来の蘊について言及する人たちです)。
比丘のみなさん。過去の蘊、未来の蘊、あるいは過去と未来の蘊でも、それらを規定するサマナ・バラモンは誰でも一方に偏った見解があり、いろんな見解を説明する言葉を述べます。どれも当然この六十二のいずれかに依存して述べていて、これ以外にありません。
漁師や漁師の賢い見習いが水の中の大きな動物を全部網の中で生かしておこうと考えて、小さな淵全体に網を張って管理していると、どこで水面に浮かんでも魚は網の輪の中にいるように、彼らは網にかかった魚のようにこの六十二の物に支配され、その中だけで生かされています。
比丘のみなさん。如行はこの六十二の物を「それはディッティの基盤で、そのように掴んでいる人は、当然将来そのような行く(逝く)所、バヴァ(有)がある」と、明らかに知り、その原因を明瞭以上に明瞭に知りました。明らかに知ったので執着せず、執着しないので自分の内部が冷静に静まりました。
すべてのヴェーダナー(受)の発生、維持できないこと、心を魅惑する物であること、下劣さ、そしてそれから出る方便を明らかに知ったので、如行は取で執着しない解脱した人になりました。
両極と真ん中を知る
人(涅槃を目指す人)は、低劣な物であり、庶民の物、凡人の物であり、聖人の物でなく、利益がない幸福であるカーマスッカ(愛欲の幸福)に陶酔するべきではありません。そして聖人の物でなく、利益がなく、自分を苦しめるための自分を困難にする努力をするべきではありません。
どちらの極にも偏らない中道である実践項目は如行が大悟した物であり、明らかに見て目にした物であり、明らかに知ってニャーナ(知ること。智)にした物であり、静かさのため、知り尽くすための究極の知識のため、涅槃のためになります。
比丘のみなさん。庶民の物、凡人の物であり、聖人の物でなく、利益がない、低劣な幸福である愛欲に関わる幸福がある人の喜びがないようにするダンマはどれも、苦でなく、困窮させず、心の中を干乾びさせず、焼き炙らない中道であるダンマです。それゆえに敵でないと言われます。
比丘のみなさん。苦であり、聖人の物でなく、利益がない、まだ自分を困らせないダンマはどれも、そのダンマは苦でなく、困窮させず、心の中を干乾びさせず、焼き炙らない中道です。だから敵でないと言われます。
比丘のみなさん。それらのダンマの中で、如行が悟って明らかにし、明らかに見て目にし、明らかに知ってニャーナ(智)にする中道であるダンマはどれも、当然静寂のため、知り尽すための最高の知識のため、そして涅槃のためになります。そのダンマは苦でなく、困窮させず、心の中を干乾びさせず、焼き炙らない中道なので、敵でないと言われます。
如行が「如行が大悟した中道は二極に偏らない」と言うのは何を意味しているでしょうか。それは八項目ある聖道で、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業(生活)、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。
比丘のみなさん(註)。「これが苦である素晴らしい真実。この素晴らしい真実である苦は知ることが出来た物。この素晴らしい真実である苦を私はすべて知り尽した」
「これが素晴らしい真実である苦を生じさせる原因。素晴らしい真実である苦を生じさせる原因は、捨てるべき物。素晴らしい真実である苦を生じさせる原因を、私はすべて捨ててしまった」、
「これが素晴らしい真実である苦の消滅。素晴らしい真実である苦の消滅は明らかにすべき物。素晴らしい真実である苦の消滅を、私は明らかにした」、
「これが素晴らしい真実である苦の消滅に至る道・苦の消滅に至る道は励むべき物。苦の消滅に至る道に、私は励んだ」と、このように、私の目、ニャーナ(智)、知識(明)、光が、私が聞いたことがないダンマに生じました。
註: 最後の部分は相応部19巻529頁1666項、マルガダーヤヴァンで五比丘に話したもの。
サキヤプッティヤサマナの涅槃になる安楽行を保証する
ジュンダさん。それはあるに違いありません。つまり他の教義の修行者たちが「サキヤプッティヤサマナたちはこれら四つの安楽行(幸福と関わっていること。欲楽耽溺)のある暮らしをしている」と、このように述べたら、ジュンダさん。他の教義の修行者たちがこのように述べたら、
みなさんは彼らに「そう言わないでください」と言わなければなりません。それらの修行者はみなさんに正しく言っていませんが、真実でないことを擦りつける訳でもありません。
ジュンダさん。これら四つの安楽行は、倦怠、欲情の弛緩になり、消滅、鎮静になり、最高の知識、知り尽すこと、涅槃のためになります。
四つは何でしょうか。ジュンダさん。四つとは、このダンマヴィナヤの比丘は愛欲とすべての悪が静まって、ヴィタッカとヴィチャーラ(考えること。尋伺)、ヴィヴェカ(遠離)から生じるピーティ(喜悦)とスッカ(幸福)がある初禅に到達し、そしてその感覚の中にいます。これは安楽行の一つです。ジュンダさん。まだあります。
比丘はヴィタッカとヴィチャーラが静まることで、心の内面を明るくするもので、一つだけの感情のサマーディを生じさせ、ヴィタッカヴィチャーラはなく、あるのはサマーディ(三昧)から生じたピーティとスッカだけの二禅に到達し、その感覚の中にいます。これは安楽行の一つです。ジュンダさん。まだあります。
比丘はピーティが薄れることで捨にいてサティと自覚があり、そして当然名身で幸福を味わい、聖人の方々が「この定を得た人は捨にいる」と言う三禅に到達し、その感覚の中にいます。これは安楽行の一つです。ジュンダさん。まだあります。
比丘は幸福と苦を捨てることができることで、過去のすべての喜びが薄れることで、苦も幸福もなく、あるのは捨ゆえに純粋な自然であるサティだけの四禅に到達し、その感覚の中にいます。これは安楽行の一つです。
ジュンダさん。この四つの安楽行は倦怠のため、欲情の弛緩のため、消滅、鎮静のため、最高の知識を知り尽すため、涅槃のためになります。
ジュンダさん。それはあります。つまり他の教義の修行者たちが「サキヤプッティヤのサマナたちは、この四つの安楽行(幸福と関わっていること。欲楽耽溺)のある暮らしをしている」と、このように述べることです。
ジュンダさん。他の教義の修行者たちがこのように述べたら、みなさんは彼らに「そう言わないでください。それらの修行者は、みなさんに正しく言っているのではありませんが、真実でないことを擦りつける訳でもありません」と言わなければなりません。
バラモンサッチャ
修行者のみなさん。私はこの四つのバラモンサッチャ(バラモンであること。バラモンの意義)を究極の智慧で明らかにし、広く公開しました。四つのバラモンサッチャとは何でしょうか。
修行者のみなさん。このダンマヴィナヤのバラモンは「すべての動物を殺すべきではない」と言います。このように言うバラモンは「真実を言う。嘘言ではない」と言われます。そしてそのバラモンも、その真実を言うことは「私はサマナだ。私はバラモンだ。私はあの人より善い。私は彼らと同じ。私は彼より劣る」と考える原因になると捉えず、その中にある何らかの真実を素晴らしい智慧で知って、すべての動物を可愛がり憐れむために実践するだけです。
修行者のみなさん。もう一つ、バラモンは「愛欲はどれも不変でなく苦であり、当たり前に変化する」と言います。このように言うバラモンは嘘言でなく、真実を言うと言われます。
そしてそのバラモンもその真実を言うことが「私はサマナだ。私はバラモンだ。私はあの人より善い。私は彼らと同じ。私は彼より劣る」と考える原因になると捉えません。その中にある何らかの真実を素晴らしい智慧で知って、すべての愛欲を消滅させるため、愛欲の欲情を緩めるために実践をするだけです。
修行者のみなさん。もう一つ、バラモンは「バヴァ(有)はどれも不変でなく苦であり、当たり前に変化する」と言います。このように言うバラモンは嘘を言うのではなく、真実を言うと言われます。
そしてそのバラモンもその真実を言うことが「私はサマナだ。私はバラモンだ。私はあの人より善い。私は彼らと同じ。私は彼より劣る」と考える原因になると捉えません。その中にある何らかの真実を素晴らしい智慧で知って、すべての有を消滅させるため、有の欲情の弛緩のため、倦怠のために実践するだけです。
修行者のみなさん。もう一つバラモンは「自分である物は何もない。すべての、あるいはどんな憂慮も、自分と言わない。そして自分の物である物は何もない。すべての、あるいはどんな憂慮も、自分の物と言わない」と言います。このように言うバラモンは嘘言ではなく、真実を言うと言われます。
そしてそのバラモンも、その真実を言うことが「私はサマナだ。私はバラモンだ。私はあの人より善い。私は彼らと同じ。私は彼より劣る」と考える原因になると捉えません。その中にある何らかの真実を素晴らしい智慧で知って、何も気掛かりがない系統の実践をするだけです。
修行者のみなさん。これが、素晴らしい智慧で明らかにして本当に分かるように公開した四つのバラモンサッチャです。
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