大悟する前の重要な夢

増支部パンチャカニバータ 22巻267頁196項

 比丘のみなさん。大悟する前、まだ私がボーディサッタだった時、五つの重要な夢が、阿羅漢サンマーサンブッダである如行(ブッダの一人称。漢訳は如来)に現れました。五つは何でしょうか。それは、

 この大陸が如行の大きな寝台で、高峰ヒマラヤが枕で、左手は東側の海に凭れ掛け、右手は西の海に凭れ掛け、両足は南の海に垂れ下がっていました。比丘のみなさん。これが、阿羅漢サンマーサンブッダである如行が大悟する前、ボーディサッタであった時に現れた重要な夢の一つ目です。

 まだあります。臍から茅の芽が出て高く伸びて空に届きました。比丘のみなさん。これが阿羅漢サンマーサンブッダである如行が大悟する前、ボーディサッタであった時に現れた重要な夢の二つ目です。

 まだあります。体が白くて頭が黒いたくさんの(蚕のような)虫が足から這い上がって膝まで来ました。比丘のみなさん。これが阿羅漢サンマーサンブッダである如行が大悟する前、ボーディサッタだった時に現れた重要な夢の三つ目です。

 まだあります。色の違う四種類の鳥が四方からたくさん飛んで来て足元にうずくまると、全部真っ白になりました。比丘のみなさん。これが阿羅漢サンマーサンブッダである如行が大悟する前、ボーディサッタであった時に現れた重要な夢の四つ目です。

 まだあります。如行は大便の固まりである大きな山の頂上へ歩いて登り、そして大便で汚れませんでした。比丘のみなさん。これが阿羅漢サンマーサンブッダである如行が大悟する前、ボーディサッタであった時に現れた重要な夢の五つ目です。


 比丘のみなさん。この大陸が如行の大きな寝台で、高峰ヒマラヤが枕で、左手は東側の海に凭れ掛け、右手は西の海に凭れ掛け、両足は南の海に垂れ下がっていた一つ目の重要な夢は、サンマーサンブッダである如行が、アヌッタラサンマーサンボーディニャーナ(至上正菩提智)大悟することを知らせるためで、

 臍から茅の芽が出て空に届くまで伸びる二つ目の重要な夢は、阿羅漢サンマーサンブッダである如行が四聖諦をすべて悟って開示し、どれほど人間と天人に教えるかを知らせるためで、

 体が白くて頭が黒い幼虫が足から膝まで這う三つ目の重要な夢は、たくさんの白衣を着た在家が、生涯如行を拠り所にすることを知らせるためで、

 色の違う四種類の鳥が四方から飛んで来て足元に下りると、全部が白くなった四つ目の重要な夢は、四つの身分、つまりカッティヤ(士族)、ブラフマ(祭司)、ヴェッサ(庶民)、スドゥッタラ(賎民)の身分の人が家を出て、如行が家に関わらないよう開示したダンマヴィナヤで出家すると、それ以上に素晴らしい物がない解脱を明らかにすることを知らせるためで、

 如行が、大きな大便の固まりである山の頂上へ歩いて登り、大便で汚れていない五つ目の重要な夢は、如行が供え物と八物、つまり衣と食べ物、住まい、そして八物(八種類の生活用品)がたくさんありますが、如行はそれらの供え物に溺れることなく、食べる時は、害を見ることで食べ、苦から出る智慧があることを知らせるためです。





大悟の状態

ボーディラージャクマラスッタ他
中部マッジマパンナーサ 13巻457頁505項他

 王子。私が粗い食べ物を食べて体力をつけると、愛欲とすべての悪が静まって、ヴィタッカとヴィチャーラ(考えること)、ヴィヴェカ(遠離)から生じたピーティとスッカ(喜悦と幸福)がある初禅に到達し、その感覚の中にいました。

 ヴィタッカとヴィチャーラが静まって、一つだけの感情があるサマーディを生じさせ、ヴィタッカ・ヴィチャーラはなく、あるのはサマーディから生じたピーティとスッカだけの、心の内面を明るくする物である二禅に到達し、その感覚の中にいました。

 ピーティ(喜悦)が薄れることで、捨にいてサティと自覚があり、そして当然名身で幸福を味わい、聖人方が「この定にいる人は捨にいる人で、サティがあり幸福だ」と言う三禅に到達し、その感覚の中にいました。 幸福と苦を捨てることができ、過去のすべての喜びが薄れて、苦も幸福もなく、あるのは捨ゆえに純粋な自然であるサティだけの四禅に到達し、その感覚の中にいました。

 心が純潔清浄で明るく安定し、煩悩がなく、仕事にふさわしいしなやかな自然になり、このように動揺がない状態を維持できた時、私は心を宿命智に傾け、かつて暮らしたことがある蘊について思い出しました。

 一つの生、二つの生、三つの生、四つの生、五つの生、十の生、二十の生、三十の生、四十の生、五十の生、百の生、千の生、十万の生、幾つもの壊劫から幾つもの成劫、幾つもの壊劫と幾つもの成業まで、その有にいた時はこういう名前で、こういう姓で、こういう身分で、こういう食べ物があり、このような幸福と苦を味わい、何歳で命が終わり、その有が終わるとこの有に生まれたと思い出しました。

 私はかつて暮らした生の、このように状態と状況を幾つでも思い出すことができました。王子。これがその夜の初更に到達した一つ目のヴィッチャー(明)で、不注意がなく、罪を焼く努力があり、自分を追い遣る人にふさわしく、闇が追放されて、光が生じました。

 私は、心が純潔清浄で明るく安定し、煩悩がなく、仕事にふさわしいしなやかな自然になり、このように動揺がない状態を維持できた時、心を天眼智に傾けて普通の目より純潔な目になり、当然すべての動物が死んで行き、生まれて来るのが見え、下品か上品か、身分が良いか悪いか、苦があるか幸福があるかが見えました。

 「発展した方々。これらの生き物は不正な体、不正な言葉、不正な心があり、すべての聖人を非難することを言い、誤った見解で、誤った見解の威力で仕事を営み、体が壊れて死んだ後は揃って悪趣、悪の報いを受ける場所、地獄へ行きます。発展した方々。こちらの人たちは正しい体、正しい言葉、正しい心があり、聖人を非難せず、正しい見解であり、正しい見解の威力で仕事を営み、体が壊れて死んだ後は当然揃って善趣、天国界へ行きます」と、カンマで到達する動物の群れが明らかに見えました。

 人間の目を超えた純潔な天の目があったので、当然すべての動物が死んで行き、生まれて来るのが見え、下品か上品か、身分が良いか悪いか、苦があるか幸福があるかが見え、カンマで到達する動物群がハッキリと見えました。王子。これが、不注意でなく罪を焼く努力があり、自分を追い遣る人にふさわしく、その夜の中更に到達した二つ目のヴィッチャー(明)で、闇が追放されて光が生じました。

 心が純潔清浄で明るく安定し、煩悩がなく、仕事にふさわしいしなやかな自然になり、このように動揺がない状態を維持できた時、私は心を漏尽智に傾け、「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道、これがすべての漏、これがすべての漏の原因、これがすべての漏の消滅、これがすべての漏の消滅に至る道」と、真実のままに明らかに知りました。

 このように知り、このように見えた時、心が欲漏、有漏、無有漏から脱し、心が素晴らしい脱出をすると「心が解脱した」と知るニャーナ(知ること。智)が生じ明が生じ、闇が追放されて光が生じ「生は終わった。梵行は終わった。しなければならない仕事は成功した。このようになる(解脱する)ためにしなければならない他の仕事はない」とハッキリと知りました。

 王子。これがその夜の中更に到達した三つ目のヴィッチャー(明)で、不注意でなく、罪を焼く努力があり、自分を追い遣る人にふさわしく闇が追放されました。





大悟したもの 

イシパタナマルガダーヤヴァナで
相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻528頁1664項

 比丘のみなさん。出家が関わるべきでない二極があります。二極とは何でしょうか。

 それはすべての愛欲の探求に夢中になることで、低劣な行動であり、庶民の物であり、凡夫の物であり、聖人の物でなく利益がありません。もう一つは苦を招いて自分を苦しめる努力(苦行)で、それは聖人の物でなく、利益がありません。この二つです。

 比丘のみなさん。二つの極端に走らない中道である実践は私だけが大悟した実践項目で、目を生じさせる実践項目であり、ニャーナを生じさせる実践項目であり、鎮まるため、最高の知識のため、悟り、涅槃のためになります。

 比丘のみなさん。二つの極端に走らない中道である実践はどのようでしょうか。比丘のみなさん。中道である実践項目は、八項目の素晴らしい道である実践項目です。八つとはどれでしょうか。正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しく想い出すこと、正しい心の安定です。

 比丘のみなさん。これが目を生じさせる実践項目であり、ニャーナを生じさせる実践項目であり、静まるため、最高の知識のため、涅槃のために知り尽くすためになる、私が大悟した中道である実践項目です。

 比丘のみなさん。これが苦に関する素晴らしい真実です。つまり生は苦、老いは苦、病は苦、死は苦、愛していないものと出逢うことは苦、愛するものと離れることは苦、望んで叶わないことは苦、要するに取のある五蘊は苦です。

 比丘のみなさん。これが苦の発生源についての素晴らしい真実です。つまり再び生まれさせる物であり、その感情に極めて恍惚とさせる物であり、陶酔の威力による欲情がある物であり、すなわち愛欲の欲望、存在の欲望、存在したくない欲望です。

 比丘のみなさん。これが苦の消滅である素晴らしい真実です。つまりその欲望が薄れて残らず消滅することで、欲望を振り捨て、返却し、放棄し、居場所をなくすことです。

 比丘のみなさん。これが生き物を苦の消滅に到達させる実践項目である素晴らしい真実です。すなわち八項目ある素晴らしい道である実践項目で、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しく思い出すこと、正しい心の安定です。

 比丘のみなさん。「これが素晴らしい真実である苦。この素晴らしい真実である苦を認識するべき。この素晴らしい真実である苦を如行はすべて知った」と、私がそれまで聞いたことがないものに目が生じ、ニャーナが生じ、智慧が生じ、明が生じ、光が生じました。

 比丘のみなさん。「これが素晴らしい真実である苦の発生源。この素晴らしい真実である苦の発生源は認識するべき。この素晴らしい真実である苦の発生源を如行はすべて知った」と、私がそれまで聞いたことがないものに目が生じ、ニャーナが生じ、智慧が生じ、明が生じ、光が生じました。

 比丘のみなさん。「これが素晴らしい真実である苦の消滅。この素晴らしい真実である苦の消滅は認識するべき。この素晴らしい真実である苦の消滅を、如行はすべて知った」と、私がそれまで聞いたことがない物に目が生じ、ニャーナが生じ、智慧が生じ、明が生じ、光が生じました。

 比丘のみなさん。「これが素晴らしい真実である、生き物を苦の消滅に到達させる実践項目。この素晴らしい真実である、生き物を苦の消滅に到達させる実践項目は認識するべき。この素晴らしい真実である生き物を苦の消滅に到達させる実践項目を、如行はすべて知った」と、私がそれまで聞いたことがない物に目が生じ、ニャーナが生じ、智慧が生じ、明が生じ、光が生じました。

 比丘のみなさん。真実のままに知る道具であり、四聖諦の三転、十二の状態があるニャーナダッサナ(知ること、見ること)が純潔清潔でない間は、私はまだアヌッタラサンマーサンボーディニャーナ(至上正菩提智)を大悟したと、天人界・悪魔界・梵天界を含めたこの世界と、サマナ・バラモンと、天人と人間を含めた動物群に宣言しませんでした。

 比丘のみなさん。真実のままに知る道具であり、四聖諦に三転、十二の状態があるニャーナダッサナが純潔で清潔になった時、私はアヌッタラサンマーサンボーディニャーナを大悟したと、天人界・悪魔界・梵天界を含めたこの世界と、サマナ・バラモンと、天人と人間を含めた動物群に宣言しました。





大悟は過去のブッダの足跡を踏むこと

祇園精舎で
相応部マハーヴァッガ 16巻128頁253項

 比丘のみなさん。密林へ入った人が人間が歩いた痕跡のある古道を見つけて、その道を歩いて行くと、昔たくさんの人間が暮らしていた都、豊かな庭園、豊かな木々、豊かな池、城壁の残骸があり、心地よい場所がある昔の都の残骸を発見するようなものです。

 比丘のみなさん。その後、その人は王や王の重臣に「お知らせ申し上げます。私が密林に入りますと、人間が歩いた古道を見つけ、その道を歩いて行くと、昔たくさんの人間が暮らしていた昔の都の残骸を発見しました。豊かな庭園、豊かな木々、豊かな池、城壁の残骸があり、心地よい場所がありました。どうぞその場所を調査なさって都にしてください」と奏上します。

 比丘のみなさん。その後王または王の重臣がその場所を調査して都にすると、その都は豊かに繁栄し、大勢の人が住み、どこも人で溢れる豊かな繁栄に至ります。比丘のみなさん。同じように私はたくさんのサンマーサンブッダが歩いた古い道を発見しました。比丘のみなさん。たくさんのサンマーサンブッダが歩いた古道とは何でしょうか。それは八正道、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業(生活)、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。これがたくさんのサンマーサンブッダが歩いた古い道です。私がその道を歩いて行くと、老死、老死の原因、老死の消滅、老死の消滅に至る実践規範を、極めて明らかに知りました。

(この後、生・有・取・欲望・受・触・処入・名形・識・行について、老死の場合と同じような四つの形で述べられています)。





大悟は、触処の五つの様相を明らかに知ること

パッチャッタヤスッタ
ウパリ 中部14巻40頁41項

 (祇園精舎に滞在しておられたある時、比丘全員を呼んでいろんなディッティ(見解。邪見)があるサマナバラモンを種類別に分けて話されました。つまり未来について言及するアハランターヌディッティを五つ、すなわちサンジーヴァーダ(有想論)、アサンジーヴァーダ(無想論)、ネヴァサンジーヴァーダ(非想論)、ウッチェーヴァーダ(断見論)、デッィッティダンマニッバーナ(現生での涅槃)、

そして過去に言及するディッティがあるプッパンターヌディッティ十六と、そしてパランターヌディッティも、プッパンターヌディッティも振り捨ててしまい、そしてすべての段階のニャーナから生じる餌のない幸福を涅槃と見なし「自分は静まった人で、取はない」と理解しているディッティダンマニッバーナについて話され、そして「それは彼らの取にすぎない。

如行は、その取はそれらの人が作った粗いディッティであり、取が静まったダンマであり、それらは多くの人が作られればある。それらの取から出る道具であるダンマは、それらの取に戻らないと知っている」と明言された後、続いて次のように話されました)。


 比丘のみなさん。このダンマこそ、如行だけが大悟した、これに勝るダンマはない素晴らしく静まったダンマです。それはつまり、六つの処が生じる原因、消滅、旨味、低劣な害、脱出する方便を真実のままに明らかに知ることで執着しないで解脱したことです。

 比丘のみなさん。このダンマこそ、如行だけが大悟した、これに勝るダンマはない、素晴らしく静まったダンマです。それは六つの処が生じる原因、消滅、旨味、低劣な害、脱出する方便を真実のままに明らかに知ることで執着しないで解脱したことです。





大悟によって光が生じる

サッタマスッタ
増支部チャトゥカニバータ 21巻177頁127項

 比丘のみなさん。如行がアヌッタラサンマーサンボーディ(無上正菩提)を大悟した時、その時すべての天人が生じさせる威力より偉大な無限に偉大な光が、天人界・悪魔界・梵天界を含めた世界と、サマナ・バラモンと、天人と人間の動物群に現れました。

 広大で遮る物がなく、しかし暗闇で視識を生じさせることができず、このように威力のあるお月様とお日様の光も届かない地獄界にも、無限で偉大な光、すべての天人が生じさせる光より威力のある光が現れました。そこに生まれた動物は、その光によって互いに知ることができ、「発展したみなさん。ここに生まれた人は、私たち以外にもいますlと口々に叫びました。

 比丘のみなさん。これが阿羅漢サンマーサンブッダである如行が生まれたことで生じた、今までになかった不思議なことの三つ目です。





大悟による地震

ヴェーサリー国パーヴァーラチェディーにて
増支部アッダカニバータ 23巻323頁167項

 アーナンダ。大地震を起こさせる原因と縁は八つあります。

 アーナンダ。如行がアヌッタラサンマーサンボーディニャーナ(無上三貘正菩提智)を大悟した時、その時当然大地が揺れ、当然振動しました。アーナンダ。これが、大地震が起こる原因と縁の五番目です。





大悟した感覚

パーサラーシスッタ
中部マッジマパンナーサ 12巻323頁320項

 比丘のみなさん。私が当たり前に生老病死があり、当たり前に悲しみがあり、当たり前に憂鬱がある人だった時、自分も当たり前に生・老・病・死・悲しみ、憂愁があるものと知ったので、当たり前に生がない、老いがない、病・死・悲しみ・憂愁がない、それ以上のものがない努力から生じた安全である涅槃を探求し、その涅槃に到達しました。

 更に「私の解脱は悪化しない。今回の生が最後の生だ。新たに生まれる有はもうない」と知る道具、見る道具である智慧が生じました。





大悟したばかりの頃いたヴィハーラダンマ

祇園精舎で
スッタ1 相応部19巻16頁48項

 比丘のみなさん。私は大悟したばかりの頃住んだことがあるヴィハーラダンマと同じヴィハーラダンマの国(註)に住んでいました。このようにヴィハーラダンマにいる時、私は当然、

 誤った見解や正しい見解が縁で当然受があり、

 誤った考えや正しい考えが縁で当然受があり、

 誤った言葉や正しい言葉が縁で当然受があり、

 誤った業や正しい業が縁で当然受があり、

 誤った生活や正しい生活が縁で当然受があり、

 誤った努力や正しい努力が縁で当然受があり、

 誤ったサティや正しいサティが縁で当然受があり、

 誤ったサマーディや正しいサマーディが縁で当然受があり、

 正しいサマーディや正しいサマーディが静まることが縁で当然受があり、

 チャンダ(満足による喜び)やチャンダが静まることが縁で当然受があり、

 ヴィタッカ(自問の類の考え)が縁で当然受があり、

 識が縁で当然受があり、

 チャンダ、ヴィタッカ、静まっていない識が縁で当然受があり、

 チャンダ、ヴィタッカ、静まった識が縁で当然受があり、

 到達するための努力に至ることが縁で当然受がある、と、このように明らかに知りました。

註: ここでの国とは、大地は体の生活の基盤であるように、心の感覚を意味します。このように原語の形を残しておくのは、読者に、タイ語にはあまりないパーリ語の手がかりを知らせるためです。このパーリ語は、ブッダが大悟したばかりの頃、今日で述べられているような状態の受に対して明らかにする類のダンマヴィハーラに居られたと、説明しています。





(別の経)

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻17頁50項

 比丘のみなさん。私は、私が大悟したばかりの頃住んだことがあるヴィハーラダンマと同じヴィハーラダンマの国に住んでいます。このようにヴィハーラダンマにいる時、私は当然、

 誤った見解や誤った見解が静まったことが縁で当然受があり、

 正しい見解や正しい見解が静まることが縁で当然受があり、

 誤った考えや誤った考えが静まることが縁で当然受があり、

 正しい考えや正しい考えが静まることが縁で当然受があり、

 誤った言葉や誤った言葉が静まることが縁で当然受があり、

 正しい言葉や正しい言葉が静まることが縁で当然受があり、

 誤った業や誤った仕業が静まることが縁で当然受があり、

 正しい業や正しい仕業が静まることが縁で当然受があり、

 誤った生活や誤った生業が静まることが縁で当然受があり、

 正しい生活や正しい生業が静まることが縁で当然受があり、

 誤った努力や誤った努力が静まることが縁で当然受があり、

 正しい努力や正しい努力が静まることが縁で当然受があり、

 誤ったサティや誤ったサティが静まることが縁で当然受があり、

 正しいサティや正しいサティが静まることが縁で当然受があり、

 誤ったサマーディや誤ったサマーディが静まることが縁で当然受があり、

 正しいサマーディや正しいサマーディが静まることが縁で当然受があり、

 チャンダやチャンダが静まることが縁で当然受があり、

 ヴィタッカやヴィタッカが静まることが縁で当然受があり、

 想や想が静まることで当然受があり、

 まだ静まっていないチャンダ(満足)、ヴィタッカ(考えること)、想が縁で当然受があり、

 静まったチャンダ、ヴィタッカ、想が縁で当然受があり、
 到達する努力をする条件に到達することが縁で当然受があると、このように明らかに知りました。




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