大悟する前の離欲の努力と次第住サマーディ

増支部ナヴァカニバータ 23巻457頁245項

 アーナンダ。大悟する前、私がまだボーディサッタだった時、「ネッカンマ(愛欲を避けること。離欲)は成功の道だ。パヴィヴェカ(愛欲が静まった生活。遠離)は成功の道だ」という知識が生じました。しかしそれでも私の心は走って行かず、駆けて行かず、維持できず、出で行けませんでした。「ネッカンマは静かだ」と見えていたのに。

 アーナンダ。引き続き「何が私の心をそのようにする原因であり、縁なのだろう」という考えが私に生じました。アーナンダ。「すべてのカーマ(愛欲)の害がまだ見えず、それについてたくさん考えたことがなく、そして愛欲から出る功徳も受け取ったことがなくまだ味を知らないから、私の心はそのようなのだ」という考えが生じました

 アーナンダ。続いて私に「それなら、すべての愛欲の害が見え、それについて沢山考えることができ、愛欲を回避する功徳を受け取ってその功徳を余さず味わえば、それが、離欲は静かだと見ることで私の心が走って行き、駆けて行き、維持させる条件になる」という考えが生じました。

 アーナンダ。その後、私は全面的にそのようにしたので、私の心は走って行って帰依し、駆けて行き、維持でき、脱出して、それは静かさだと見えていたように離欲に行きました。

 アーナンダ。そのようになると、愛欲とすべての悪が静まったことで、私はヴィタッカ(思惟。尋)・ヴィチャーラ(考察。伺)、ヴィヴェカ(遠離)から生じたピーティ(喜悦)・スッカ(幸福)がある初禅に到達し、その感覚の中にいました。

 アーナンダ。私がヴィハーラダンマつまり初禅にいても、まだ心の中を愛欲にする想の威力が生じて妨害しました。これはまだ私にとって(心の)病気です。幸福な人でも、病気があると苦が生じて妨害するのと同じです。

 アーナンダ。続いて私に「その病気を排除するために、それならヴィタッカ・ヴィチャーラを鎮めることで、心の内部を明るくする物であり、一つの感情しかないサマーディを生じさせ、ヴィタッカ・ヴィチャーラはなく、あるのはサマーディから生じたピーティ(喜悦)とスッカ(幸福)だけの二禅に到達し、その感情の中にいるべきだ」という考えが生じました。

 アーナンダ。それでも私の心は走って行かず、駆けて行かず、維持できず、脱出してアヴィタッカダンマ(つまり二禅)に行きませんでした。それは静かだと見えていたのに。アーナンダ。続いて私に「私の心をこのようにさせる原因は何で縁は何だろう」という考えが生じました。

 アーナンダ。私に「私にはまだヴィタッカダンマの害が見えず、それについて沢山考えず、そしてまだアヴィタッカダンマの功徳を受け取らず、まだ味を知らないから、私の心はこのようなのだ」という考えが生じました。

 アーナンダ。続いて私に「もしヴィタッカ(考えること)の害が見え、そして沢山考え、アヴィタッカダンマ(考えないもの)の功徳を受け取ってその功徳を余さず味わえれば、それが私の心を走って行かせ、駆けて行かせ、維持し、脱出して、それは静かだと見えているアヴィタッカに行く条件になる」という考えが生まれました。

 アーナンダ。その後私は全面的にそのようにしたので、私の心は走って行き、駆けて行き、維持でき、脱出してそれは静かだと見えていたアヴィタッカダンマ(つまり二禅)に行きました。

 アーナンダ。そのようになると、私はヴィタッカ(思惟)・ヴィチャーラ(考察)を鎮めたことで、心の内部を明るくするものであり、一つの感情しかないサマーディを生じさせ、ヴィタッカ・ヴィチャーラはなく、あるのはサマーディから生じたピーティ(喜悦)とスッカ(幸福)だけの二禅に到達しました。

 アーナンダ。ヴィハーラダンマつまり二禅にいても、心をヴィタッカにする想の威力が生じて妨害しました。これはまだ私にとって(心の)病気です。幸福な人に苦が生じるのは病気だからなのと同じです。

 アーナンダ。続いて「この病気を排除してしまうために、それならピーティ(喜悦)が薄れることで捨にいてサティと自覚があり、そして名形で幸福を味わえば、聖人が『この定を得た人は捨にいる人で、サティがあり幸福に暮らす』と言われる三禅に到達し、その感覚の中にいるに違いない」という考えが生じました。

 アーナンダ。それでも私の心はまだ走って行かず、駆けて行かず、維持できず、脱出してニッピーティカジャーナ(つまり三禅)に行きませんでした。私には、それは静かだと見えていたのに。

 アーナンダ。続いて私に「何が私の心をこのようにする原因で、何が縁だろう」という考えが生じました。アーナンダ。「まだ私に見えないピーティの害が見えず、それについて沢山考えず、そしてニッピーティカジャーナ(つまり三禅)の功徳もまた私は受け取らず、まだ味を知らないから、私の心はそのようなのだ」という考えが生じました。

 アーナンダ。続いて私に「ピーティの害が見えれば、そしてそれについて沢山考え、ニッピーティカジャーナ(つまり三禅)の功徳を受け取り、その功徳を余さず味わえば、それは私の心が走って行き、駆けて行き、維持でき、それは静かだと見えているように、脱出してニッピーティカジャーナにいく条件になる」という考えが生まれました。

 アーナンダ。その後全面的にそのようにしたので、私の心は走って行き、駆けて行き、維持でき、脱出して、それは静かだと見ていたニッピーティカジャーナに行きました。

 アーナンダ。そのようにすると、私はピーティが薄れたのでウベカーが生じ、サティと自覚があり、そして当然名形で幸福を味わい、聖人の方々が「この定を得た者はウベカーにいる人で、サティがあり、幸福に暮らす」と言われる三禅に到達し、その感覚の中にいました。

 アーナンダ。私がヴィハーラダンマ、つまり三禅にいても、心の中をピーティにする想の威力が生じて妨害しました。これは私にとってまだ(心の)病気です。病気のために、幸福な人でもまだ苦が生じて妨害するのと同じです。

 アーナンダ。続いて私に「この病気を排除するために、幸福と苦を捨ててしまうことで、喜びと憂いが消えてなくなることで、苦も楽もなく、あるのは捨による純潔正常な自然であるサティだけの四禅に到達する」という考えが生まれました。アーナンダ。それでも私の心はまだ走って行かず、駆けて行かず、維持できず、脱出してその四禅に行きませんでした。それは静かだと見ていたのに。

 アーナンダ。続いて私に「何が私の心をこのようにする原因で、何が縁だろう」という考えが生じました。アーナンダ。「まだ私に見えないウベカースッカ(捨にいる幸福)の害が見えず、それについて沢山考えることができず、そして幸福でも苦でもない功徳もまた私は受け取ったことがなく、まだ味を知らないから、私の心はそのようなのだ」という気持ちが生じました。

 アーナンダ。続いて私に「ウベカースッカ(捨の幸福)の害が見えれば、そしてそれについて沢山考え、幸福でも苦でもない功徳を受け取り、その功徳を余さず味わえば、それは私の心は走って行き、駆けて行き、維持でき、脱出して、それは静かだと見えているアドゥカマスッカ(不苦不幸。つまり四禅)に行く」という考えが生まれました。

 アーナンダ。その後全面的にそのようにしたので、私の心は走って行き、駆けて行き、維持でき、脱出して、それは静かだと見えていたアドゥカマスッカ(つまり四禅)に行きました。アーナンダ。そのようにすると、私は幸福も苦も捨てたので、過去の喜びと憂いを捨てたので、苦も楽もない、あるのはウベカーによる純潔な自然であるサティだけの四禅に到達し、その感覚の中にいました。

 アーナンダ。私がヴィハーラダンマつまり四禅にいても、心の中をウベカーにする想の威力が生じて妨害しました。これはまだ私にとって(心の)病気です。幸福な人でも、病気のためにまだ苦が生じて妨害するのと同じです。

 アーナンダ。続いて私に「この病気を駆除するために、ルーパサンニャー(形を意識すること。形想)を越えることで、パティガサンニャー(ぶつかって来た感情を意識すること。瞋恚想)が維持できないことで、心の中をいろんな状態に意識しないことで、心の中を「無限の空」にする空無辺処に到達するはずだ」という考えが生まれました。

 アーナンダ。それでも私の心はまだ走って行かず、駆けて行かず、維持できず、脱出してその空無辺処に行きませんでした。それが静かさだと見えていたのに。

 「何が私の心をこのようにする原因で、何が縁だろう」という考えが生じました。アーナンダ。「すべての形の害がまだ見えず、それについて沢山考えることができず、そして空無辺処の功徳もまた受け取ったことがなく、まだ味を知らないから私の心はそのようなのだ」という気持ちが生じました。

 アーナンダ。続いて「すべての形の害が見えれば、そしてそれについて沢山考え、空無辺処の功徳を受け取り、その功徳を全面的に味わえば、それは私の心が走って行き、駆けて行き、維持でき、脱出して、それは静かだと見えているように空無辺処に行く条件になる」という考えが生じました。アーナンダ。その後全面的にそのようにしたので、私の心は走って行き、駆けて行き、維持でき、脱出して、それは静かだと見えていた空無辺処に行きました。

 アーナンダ。そのようになるとすべての形想を越えたので、瞋恚想が存在できないので、心の中のいろんな想にしないので、心を「無限の空」にする空無辺処に到達し、その感覚の中にいました。アーナンダ。私がヴィハーラダンマ、つまり空無辺処にいても、心の中をすべての形にする想の威力が生じて妨害しました。これは私にとってまだ(心の)病気です。病気のために、幸福な人でもまだ苦が生じて妨害するのと同じです。

 アーナンダ。続いて私に「この病気を排除するために、空無辺処のすべてを越えることで、心の中を無限の識にする識無辺処に到達するに違いない」という考えが生まれました。アーナンダ。それでも私の心はまだ走って行かず、駆けて行かず、維持できず、脱出してその識無辺処に行きませんでした。それは静かだと見ていたのに。

 アーナンダ。私に「何が私の心をこのようにする原因で、何が縁だろう」という考えが生じました。アーナンダ。「まだ私に見えない空無辺処の害が見えず、それについて沢山考えることができず、そして識無辺処の功徳もまた受け取ったことがなくまだ味を知らないから、私の心はそのようなのだ」という気持ちが生じました。

 アーナンダ。続いて「空無辺処の害が見えれば、そしてそれについて沢山考え、識無辺処の功徳を受け取り、その功徳を余さず味わえば、それは私の心が走って行き、駆けて行き、維持し、脱出し、それは静かだと見えているように、識無辺処に行く条件になる」という考えが生まれました。

 アーナンダ。その後全面的にそのようにしたので、私の心は走って行き、駆けて行き、維持でき、脱出し、それは静かだと見ていた心を無限の識にする識無辺処に行きました。

 アーナンダ。私は空無辺処をすべて越えたので、心の中を無限の識にする識無辺処に到達し、その感覚の中にいました。アーナンダ。私がヴィハーラダンマ、つまり識無辺処にいても、心の中を空無辺処にする想の威力が生じて妨害しました。これは私にとってまだ(心の)病気です。病気のために、幸福な人でもまだ苦が生じて妨害するのと同じです。

 アーナンダ。続いて私に「この病気を排除するために、識無辺処のすべてを越えることで、心の中を『何もない』とする無所有処に到達するに違いない」という考えが生まれました。アーナンダ。それでも私の心はまだ走って行かず、駆けて行かず、維持できず、脱出して、その無所有処に行きませんでした。それは静かだと見えていたのに。

 「何が私の心をこのようにする原因で、何が縁だろう」という考えが生じました。アーナンダ。「まだ私に見えない識無辺処の害が見えず、それについて沢山考えることができず、そして無所有処の功徳もまた私は受け取ったことがなく、まだ味を知らないから、私の心はそのようなのだ」という気持ちが生じました。

 アーナンダ。続いて「私に識無辺処の害が見えれば、そしてそれについて沢山考え、無所有処の功徳を受け取り、その功徳を全面的に味わえば、それは私の心が走って行き、駆けて行き、維持でき、脱出して、それは静かだと見えている無所有処に行く条件になる」という考えが生まれました。アーナンダ。その後全面的にそのようにしたので、私の心は走って行き、駆けて行き、維持でき、脱出して、それは静かだと見ている無所有処に行きました。

 アーナンダ。私は識無辺処のすべてを越えることができたので、心の中を「何もない」とする無所有処に到達し、その感覚の中にいました。アーナンダ。私がヴィハーラダンマ、つまり無所有処にいても、心の中を識無辺処にする想の威力が生じて妨害しました。これは私にとってまだ(心の)病気です。病気のために、幸福な人でもまだ苦が生じて妨害するのと同じです。

 アーナンダ。続いて私に「この病気を排除するために、無所有処のすべてを越えてしまうことで、非想非非想処に到達するに違いない」という考えが生まれました。アーナンダ。それでも私の心はまだ走って行かず、駆けて行かず、維持できず、脱出してその非想非非想処に行きませんでした。それは静かさだと見ていたのに。

 「何が私の心をこのようにする原因で、何が縁だろう」という考えが生まれました。アーナンダ。「まだ私に無所有処の害が見えず、それについて沢山考えることができず、そして非想非非想処の功徳もまた私は受け取ったことがなく、まだ味を知らないから、私の心はそのようなのだ」という気持ちが生じました。

 アーナンダ。続いて私に「無所有処の害が見えれば、そしてそれについて沢山考え、非想非非想処の功徳を受け取り、その功徳を全面的に味わえば、それは私の心が走って行き、駆けて行き、維持でき、脱出して、それは静かだと見えている非想非非想処に行くに違いない」という考えが生まれました。

 アーナンダ。その後全面的にそのようにしたので、私の心は走って行き、駆けて行き、維持でき、脱出して、それは静かだと見ている非想非非想処に行きました。アーナンダ。私は無所有処をすべて越えたことで非想非非想処に到達し、その感覚の中にいました。
 アーナンダ。私がヴィハーラダンマつまり非想非非想処にいても、心の中を無所有処にする想の威力が生じて妨害しました。これは私にとってまだ(心の)病気です。病気のために幸福な人でも、まだ苦が生じて妨害するのと同じです。


 アーナンダ。続いて私に「それならこの病気を排除するために、非想非非想処のすべてを越えることで、想受滅に到達するに違いない」という考えが生まれました。アーナンダ。それでも私の心はまだ走って行かず、駆けて行かず、維持できず、脱出してその想受滅に行きませんでした。それは静かさだと見ていたのに。

 「何が私の心をこのようにする原因で、何が縁だろう」という考えが生じました。アーナンダ。「まだ私には非想非非想処の害が見えず、それについて沢山考えることができず、そして想受滅の功徳もまた私は受け取ったことがなく、まだ味を知らないので、私の心はそのようなのだ」という気持ちが生じました。

 アーナンダ。続いて私に「非想非非想処の害が見えれば、そしてそれについて沢山考え、想受滅の功徳を受け取り、その功徳を全部味わえば、それは私の心は走って行き、駆けて行き、維持し、脱出して、それは静かだと見えている想受滅に行く」という考えが生まれました。

 アーナンダ。その後全面的にそのようにしたので、私の心は走って行き、駆けて行き、維持でき、それは静かだと見ているように脱出して想受滅に行きました。アーナンダ。私は非想非非想処を越えて想受滅に達し、絶えずその感覚の中にいました。(その後病気はありません)。更に智慧で(四聖諦が)見えたので、すべての漏は終わりに達しました。





大悟する前に努力を誓願する

増支部ドゥカニバータ 20巻64頁251項

 比丘のみなさん。私は二種類のダンマ、つまりすべての善に満足しないこと、そして努力が後退しない人であることについて知りました。

 比丘のみなさん。「皮と腱と骨だけを残してこの体の血と肉は乾いてしまえ。力と奮闘努力で到達するまだ到達していない利益に到達するまで、努力を辞めることはない」とこのように、不退転の努力を続けました。比丘のみなさん。油断をしないことで大悟に至り、油断をしないことで最高に安全なダンマに到達しました。




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