大悟する前に苦の連鎖を探求なさる

ダサマスッタ
相応部ニダーナヴァッガ 16巻11頁26項

 比丘のみなさん。大悟する前、私がまだボーディサッタだった時、「この世界の動物は、生・老・死、移動、そしてまた生れることのすべてに至る。それは世界の動物が苦、つまり老死から脱す方法を知らないから、苦つまり老死の苦から脱すことができないのだ」という考えが生まれました。

 比丘のみなさん。私に「何があるから老死があるのだろう。何が老死の縁だろう」という疑問が生じました。比丘のみなさん。私が絶妙に考えたので、智慧で次のような考えが生じました。

 生があるから老死がある。生が縁だから老死がある。

 有があるから生がある。有が縁だから生がある。

 取があるから有がある。取が縁だから有がある。

 欲があるから取がある。欲が縁だから取がある。

 受があるから欲がある。受が縁だから欲がある。

 触があるから受がある。触が縁だから受がある。

 六処があるから触がある。六処が縁だから触がある。

 名形があるから六処がある。名形が縁だから六処がある。

 識があるから名形がある。識が縁だから名形がある。

 行があるから識がある。行が縁だから識がある。

 無明があるから行がある。無明が縁だから行がある。


 無明が縁ですべての行が生じ、行が縁で識が生じ、識が縁で名形が生じ、名形が縁で六処が生じ、六処が縁で触が生じ、触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じ、欲が縁で取が生じ、取が縁で有が生じ、有が縁で生が生じ、生が縁で老死、悲しみ、苦、愁苦、苦悩が生じる。苦の固まりはこのように生じると。

 比丘のみなさん。「苦が揃って発生する! このように苦が揃って生じる」と、今まで私が聞いたことのないダンマに、眼、ニャーナ(知ること。智)、智慧、明、光りが生じました。



 比丘のみなさん。私に「何がなければ老死がないのだろう。どうすれば消滅するのだろう」という疑問が生じました。比丘のみなさん。絶妙に考えたので、智慧で次のような考えが生じました。

 生がなければ老死はない。生が消滅すれば老死も消滅する。

 有がなければ生はない。有が消滅すれば生も消滅する。

 取がなければ有はない。取が消滅すれば有も消滅する。

 欲がなければ取はない。欲が消滅すれば取も消滅する。

 受がなければ欲はない。受が消滅すれば欲も消滅する。

 触がなければ受はない。触が消滅すれば受も消滅する。

 六処がなければ触はない。六処が消滅すれば触も消滅する。

 名形がなければ六処はない。名形が消滅すれば六処も消滅する。

 識がなければ名形はない。識が消滅すれば名形も消滅する。

 行がなければ識はない。行が消滅すれば識も消滅する。

 無明がなければ行はない。無明が消滅すれば行も消滅する、とこのように。

 無明が消えればすべての行が消え、行が消えれば識が消え、識が消えれば名形が消え、名形が消えれば六処が、六処が消えれば触も消え、触が消えれば受も消え、受が消えれば欲が消え、欲が消えれば取が消え、取が消えれば有が消え、有が消えれば生が消え、生が消えれば老死、悲しみ、苦、愁苦、苦悩も消える。すべての苦はこのように消滅する、と。

 比丘のみなさん。「苦の消滅だ! 苦はこのように絶滅する」と、今まで私が聞いたことのないダンマに、目、ニャーナ、智慧、明、光が生じました。





大悟する前に苦の連鎖を探求なさる(別の経)

祇園精舎で
マハーヴァーラヴァッガ 相応部16巻126頁250項

 比丘のみなさん。大悟する前、私がまだボーディサッタだった時「世界の生き物は困苦に至り、当然生まれ、当然老い、当然死に、当然移動し、そして当然生まれる。世界の動物が苦つまり老死から脱出する方便を知らなければ、苦つまり老死からの脱出は現れない」という考えが生まれました。

 比丘のみなさん。私に「何があるから老死があるのだろう。何が縁で老死があるのだろう」という疑問が生じました。比丘のみなさん。絶妙に考えたので、智慧で次のような考えが生じました。

 生があるから老死がある。生が縁だから老死がある。

 有があるから生がある。有が縁だから生がある。

 取があるから有がある。取が縁だから有がある。

 欲があるから取がある。欲が縁だから取がある。

 受があるから欲がある。受が縁だから欲がある。

 触があるから受がある。触が縁だから受がある。

 六処があるから触がある。六処が縁だから触がある。

 名形があるから六処がある。名形が縁だから六処がある。

 識があるから名形がある。識が縁だから名形がある。

 比丘のみなさん。私に「何があれば識があるのだろう。何が縁で識があるのだろう」という疑問が生じました。

 比丘のみなさん。心の中を絶妙にしたので、智慧によって私に「名形があるから識がある。名形が縁で識がある」という最高の知識が生じました。

 比丘のみなさん。私に「識は当然名形から引き返し、当然通り過ぎない。これだけの理由で世界の動物は生まれ、老い、死に、移動し、生まれなければならない。これは名形が縁で識が生じ、識が縁で名形が生じ、名形が縁で六処が生じ、六処が縁で触が生じ、触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じ、欲が縁で取が生じ、取が縁で有が生じ、有が縁で生が生じ、生が縁で老死、悲しみ、苦、愁苦、苦悩が生じる。苦の固まりはこのように生じる」と、明らかな知識が生じました。

 比丘のみなさん。「揃って生じた! 揃って生じた!」と、今まで私が聞いたことのないダンマに、目が生じ、ニャーナ(知ること。智)が生じ、智慧が生じ、光りが生じました。 



 比丘のみなさん。私に「何がなければ老死がないのだろう。どうすれば消滅するのだろう」という疑問が生じました。比丘のみなさん。絶妙に考えたので、智慧で次のような考えが生じました。

 生がなければ老死はない。生が消滅すれば老死も消滅する。

 有がなければ生はない。有が消滅すれば生も消滅する。

 取がなければ有はない。取が消滅すれば有も消滅する。

 欲がなければ取はない。欲が消滅すれば取も消滅する。

 受がなければ欲はない。受が消滅すれば欲も消滅する。

 触がなければ受はない。触が消滅すれば受も消滅する。

 六処がなければ触はない。六処が消滅すれば触も消滅する。

 名形がなければ六処はない。名形が消滅すれば六処も消滅する。

 識がなければ名形はない。識が消滅すれば名形も消滅する。

 比丘のみなさん。私に、「何が無ければ識がないのだろう。何が消滅すれば識が消滅するのだろう」と言う疑問が生じました。比丘のみなさん。心の中を絶妙にしたので、智慧で私に「名形がなければ識はない。名形が消滅すれば識が消滅する」という知識が生じました。

 比丘のみなさん。私に「この悟りのための道に私は到達した。つまりこれら、名形が消滅することで識の消滅があり、識が消滅することで名形の消滅があり、名形が消滅することで六処が消滅し、六処が消滅すれば触が消滅し、触が消滅すれば受が消滅し、受が消滅すれば欲が消滅し、欲が消滅すれば取が消滅し、取が消滅すれば有が消滅し、有が消滅すれば生が消滅し、生が消滅すれば老死、悲しみ、苦、愁苦、苦悩も消える。あらゆる苦悩はこのように消滅する」という、明らかな知識が生じました。

 比丘のみなさん。「苦の消滅だ! 苦の消滅だ!」と、今まで私が聞いたことのないダンマに、目が生じ、ニャーナが生じ、智慧が生じ、光が生じました。





大悟する前に順にアディデーヴァ智見の努力をなさる

カヤーシーサ村にて比丘たちに
増支部アッダカニバータ 23巻311頁161項

 比丘のみなさん。大悟する前、まだ私がボーディサッタだった時、光を記憶することはできましたが、すべての形は見えませんでした。

 比丘のみなさん。私に「私が光を記憶することができ、すべての形も見えれば、それは更に潔癖なニャーナダッサナ(智見)になるだろう」というが考えが生じました。比丘のみなさん。また別の時、私が注意深い人で、自分を追い遣る努力があると、光を記憶することもでき、すべての形も見えました。しかしそれらすべての天人と一緒に居ないで、連絡もせず返答もしませんでした。

 比丘のみなさん。私に「私が光などを記憶することから天人に答えることまでできれば、それは最高に潔癖なニャーナダッサナになるだろう」という考えが生じました。比丘のみなさん。また別の時、私が不注意でない人で、努力があり、そのように自分を追い遣っていると、それらの天人に返答することができましたが、その天人がどの天人界から来たか分かりませんでした。

 比丘のみなさん。私に「私が光などを記憶することができ、その上その天人がどの天人界から来たか分かれば、それは私のより純潔なニャーナダッサナになるだろう」という考えが生じました。比丘のみなさん。また別の時、私が不注意でない人で、努力があり、自分を追い遣っていると、その天人がどの天人界から来たのかは分かりましたが、どんな業の報いで、この世界からその天人の世界に生まれたのか分かりませんでした。

 比丘のみなさん。私に「私が光などを記憶することができ、その天人がどんな業の報いでこの世からその天人の世界に生まれたか分かれば、それは私の更に純潔なニャーナダッサナになるだろう」という考えが生じました。比丘のみなさん。また別の時、私が努力があり、自分を追い遣っている不注意でない人になると、その天人たちは、このような業の報いで、 この世界からその天人の世界に生まれたと分かりました。

 しかし天人は何を食べているのか、通常どんな苦や幸福を味わっているのか、どれくらい寿命があるのか、どれほど維持できるのか、私はこれらの天人と一緒に暮らしたことがあるのかないのか、ということは分かりませんでした。比丘のみなさん。私が不注意でない人になり、努力があり、自分を追い遣っていると、私がその天人と一緒にいたことがあるか否かが分かりました。

 比丘のみなさん。八転がある天人についての私のニャーナダッサナが、まだ完璧に純潔でない間は、まだ天人界・悪魔界・梵天界を含めたこの世界と、サマナ・バラモンと、天人と人間を含めた動物群の、アヌッタラサンマーサンボーディニャーナ(阿耨多羅三貘三菩提智)を悟ったと宣言しませんでした。

 比丘のみなさん。八転がある天人に関わる私のニャーナダッサナ(智見)が完璧になった時、天人界・悪魔界・梵天界のこの世界と、サマナ・バラモンと、天人と人間の動物群に、アヌッタラサンマーサンボーディニャーナ(阿耨多羅三貘三菩提智)を悟ったと宣言しました。 

 それは「この解脱は二度と劣化することはない。この生が最後の生であり、この有は新たな有を生じさせることはない」と知る物、見る物である智慧が私に生じたからです。





大悟する前に臆病を攻撃なさる

パヤペーラワスッタ
祇園精舎でチャーヌッサソーピーバラモンに 
中部マッジマパンナーサ 12巻29頁30項

 バラモンさん。大悟する前、私がまだボーディサッタだった時、「静かな住まい、つまり森や寂しい森は住み良い所ではない。心が落ち着かず、一人でいることを喜ぶのは難しい。すべての森はまだサマーディのない比丘の心を持ち去ってしまうようだ」と感じました。

 バラモンさん。体のカンマ(業)が純潔でないサマナ・バラモンが、静かな住まい、つまり森や寂しい森に住むと、彼らの純潔でない身業によって悪である臆病を呼び寄せます。一方私は純潔でない身業があり、そして静かな住まいつまり森や寂しい森に住んでいたのではありません。

 私は、純潔な身業があり、静かな住まいつまり森や寂しい森に住んでいる聖人方の中の純潔な身業のある聖人の一人でした。バラモンさん。私は自分自身の身業の純潔さが見えたので、森の中で毛が寝ていました(逆立たない)。

 バラモさん。純潔でない口業、純潔でない意業の、純潔でない仕事をし、貪欲ですべての愛欲に強く欲情し、復讐心があり、悪の考えがあり、睡魔に襲われていて、心が散漫で、疑いや疑念があり、自惚れて人を蔑み、驚いて大騒ぎをし、臆病で、供物や賞賛を目いっぱい期待し、怠け者で努力がなく、サティを捨てて自覚がなく、落ち着きがなく、

間違った方向を向いた心で、智慧が劣って、際限なく喋ってばかりいるサナマ・バラモンは誰でも、静かな住まいつまり森や寂しい森に住むと、彼の(いずれか一つの)純潔でない身業の害によって、悪である臆病を呼び寄せます。

 しかし私は、(何らかの罪のある)不純な口業のある人でなく、純潔な口業(など)がありました。私は、純潔な口業(等)があり、静かな住まいつまり森や寂しい森に住んでいるすべての聖人の中の、その聖人の中の一人でした。バラモンさん。私は自分の口業(等々)の純潔が見えたので、淋しい森に住んでも、毛が寝ていました。

 バラモンさん。私は「(太陰暦の)十四日、十五日(つまり満月の日)、そして上弦下弦と特定できる夜は、神聖とされる林、神聖とされる森、神聖とされる樹木などは、どれも身の毛が逆立つほど恐ろしいので、そのような所に住むべきだ。時には自分の臆病や恐怖心が見えるかもしれない」と決心し、バラモンさん、私はそれと特定できる日も、そのような場所にいることができました。

 バラモンさん。私がそのような場所に住んでいると、森の動物が忍び寄って来たり、孔雀が枯れた木の枝を落としたり、風で木の葉やゴミが落ちたりました。すると「ほら、臆病が私を訪れた」と驚きと恐怖が生じました。「なぜ私は恐怖の心配ばかりするのだろう。それなら臆病が生じる行動で臆病を抑えてしまおう」という考えが生じました。

 バラモンさん。経行をしている時恐怖が生じたらわざと歩いて臆病を抑え、その間中立ち止まらず座らず横になりませんでした。立っている時恐怖が生じたらわざと立って臆病を抑え、その間中歩かず座らず横になりませんでした。座っている時恐怖が生じたらわざと座って臆病を抑え、その間中歩かず立ち上がらず横になりませんでした。バラモンさん。横になっている時臆病が生じたらわざと横になったまま臆病を抑え、その間中、歩か、立たず座りませんでした。





大悟する前にたくさん訓練したダンマ

アッタマスッタ
増支部パンチャカニバータ 22巻94頁68項

 比丘のみなさん。大悟する前、私がまだボーディサッタだった時、五つのダンマの訓練をしました。五つのダンマとは何でしょうか。五つとは、変化させるダンマが揃っていて、チャンダ(満足。向上心)、ヴィリヤ(精進)、チッタ(集中力)、ヴィマンサー(省察)の四項がある如意足に、私は五番目に無限の努力を加え、それに励んでたくさんしました。

 比丘のみなさん。私が五番目に無限の努力があるダンマに励んでたくさんすると、心は最高の智慧で明らかにするべきダンマに傾き、そのダンマでまだ処入があるうちに証人になる能力に達しました。

 比丘のみなさん。もしいろんな神通力があるべきだと望めば、つまり一人の人を多数の人にし、複数の人を一人にし、隠れているものを明らかにし、明らかなものを隠し、壁や塀や山を支障がないようにすり抜けて難なく行き来し、水に潜るように地面に潜ったり地面から出、陸上を歩くように水上を歩き、翼のある鳥のように飛び、結跏趺坐していながら月や太陽を掌で撫でたければ、私はまだ処入があるうちにそれらの神通力で証人になる能力に達しました。

 比丘のみなさん。私は漏が終わって漏を探すことができないチェトーヴィムッティ(心解脱)・パンニャーヴィムッティ(智慧解脱)を、生きているうちに最高の智慧で明らかにし、その感覚の中にいるべきだと望めば、その知識で私はまだ処入があるうちに、証人になる能力に達しました。





大悟する前に最も多くいたヴィハーラダンマ

祇園精舎にて
相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻399頁1324項

 比丘のみなさん。体の揺れあるいは心の揺れも、サマーディに励んでたくさんすれば、その威力でそれらは生じられないので、比丘は当然そのサマーディを重荷でなく、難しくなく、大変でなく得ることができます。

 比丘のみなさん。体の揺れあるいは心の揺れは、どのサマーディに励んでたくさんすれば、その威力で生じないでしょうか。比丘のみなさん。体の揺れあるいは心の揺れはアーナーパーナサティサマーディに励んでたくさんすれば、その威力で当然生じることはできません。比丘のみなさん。人がどのようにアーナーパーナサティサマーディに励めば、体の揺れや心の揺れが生じないでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は森、あるいは木の根元、あるいは空き家に行っても結跏趺坐し、体を真っ直ぐに維持してサティを現前に据え、その比丘は息を吐いてもサティがあり、息を吸ってもサティがあります。

 長く息を吐いたら、息を長く吐いたとハッキリと知り、長く息を吸ったら、長く息を吸ったとハッキリと知り、

 短く息を吐いたら、短く息を吐いたとハッキリと知り、短く息を吸ったら、短く息を吸ったとハッキリと知り、

 彼は当然「すべての体を知り尽くす人になると息を吐いている」、「すべての体を知り尽くした人になると息を吸っている」という教えを心に留めて練習し、

 彼は当然「カーヤサンカーラ(身行。この場合は呼吸のこと)を静めた人になると息を吐いている」、「カーヤサンカーラを鎮めた人になると息を吸っている」という教えを心に留めて練習し、


 彼は当然「私はピーティを知り尽した人になると息を吐いている」、「ピーティを知り尽した人になると息を吸っている」という教えを心に留めて練習し、

 彼は当然「私はスッカを知り尽した人になると息を吐いている」「スッカを知り尽くした人になると息を吸っている」という教えを心に留めて練習し、

 彼は当然「チッタサンカーラを知り尽くした人になると息を吐いている」「チッタサンカーラを知り尽くした人になると息を吸っている」という教えを心に留めて練習し、

 彼は当然「チッタサンカーラを鎮めた人になると息を吐いている」「チッタサンカーラを鎮めた人になると息を吸っている」と心に留めて練習し、


 彼は当然「私は心を知り尽くした人になると息を吐いている」「心を知り尽くした人になると息を吸っている」という教えを心に留めて練習し、

 彼は当然「心を喜ばせた人になると息を吐いている」「心を喜ばせた人になると息を吸っている」という教えを心に留めて練習し、

 彼は当然「心を安定せさた人になると息を吐いている」「心を安定させた人になると息を吸っている」という教えを心に留めて練習し、

 彼は当然「心を解放させた人になると息を吐いている」「心を解放させた人になると息を吸っている」という教えを心に留めて練習し、


 彼は当然「無常が見える人になると息を吐いている」「無常が見える人になると息を吸っている」という教えを心に留めて練習し、

 彼は当然「薄れるダンマが見える人になると息を吐いている」「薄れるダンマが見える人になると息を吸っている」という教えを心に留めて練習し、

 彼は当然「消滅であるダンマが見える人にななると息を吐いている」「消滅であるダンマが見える人になると息を吸っている」という教えを心に留めて練習し、

 彼は当然「返却するダンマが見える人になると息を吐いている」「返却するダンマが見える人になると息を吸っている」という教えを心に留めて練習します。

 比丘のみなさん。人がこのようにアーナーパーナサティサマーディに励めば、体の揺れ、心の揺れは当然あり得ません。


 比丘のみなさん。私も同じで、大悟する前、まだボーディサッタだった時、当然ほとんどこのヴィハーラダンマ、つまりアーナーパーナサティサマーディにいました。私がほとんどこのダンマヴィハーラにいると、体も辛くなく、目も大変でなく、そして取がないので心も漏から脱しました。

 比丘のみなさん。比丘が体がきつくないよう、目が疲れないよう、そして取が無くなって心が漏から出るようにと、このように望むなら、その比丘は心の中をアーナーパーナサティサマーディで良くしなさい。

 比丘のみなさん。だからこれは、比丘が自分の家に関わる考えがすっかり消えてしまうべきだと望むなら、その比丘は心の中をアーナーパーナサティサマーディで良くしなさい。

 比丘のみなさん。比丘が不浄でない物に不浄という感覚のある人になるべきだと望むなら、その比丘は心の中をアーナーパーナサティサマーディで良くしなさい。

 比丘のみなさん。比丘が不浄な物に不浄でないという感覚のある人になるべきだと望むなら、その比丘は心の中をアーナーパーナサティサマーディで良くしなさい。

 比丘のみなさん。比丘が不浄な物にも不浄でない物にも不浄という感覚のある人になるべきだと望むなら、その比丘は心の中をアーナーパーナサティサマーディで良くしなさい。

 比丘のみなさん。比丘が不浄な物にも不浄でない物にも不浄でないという感覚のある人になるべきだと望むなら、その比丘は心の中をアーナーパーナサティサマーディで良くしなさい。

 比丘のみなさん。比丘が不浄な物も不浄でないものも気にしない人になるべきだと望むなら、その比丘は心の中をアーナーパーナサティサマーディで良くしなさい。

 (この後も、初禅、二禅、三禅、四禅、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処、そして想受滅を望むなら、心の中をアーナーパーナサティサマーディで良くしないさいと、同じ文章が続きます)。




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