大悟するための熟考

パタマスッタ
増支部ティカニカーヤ 20巻332頁543項

 比丘のみなさん。大悟する前、私がまだボーディサッタだった時、「世界の旨味は何だろう。世界の害は何だろう。世界から出る方便は何だろう」という疑問が生じました。

 比丘のみなさん。「世界を考える時生じる喜びが世界の旨味だ。不変でなく、苦であり、当たり前に変化する世界が世界の害だ。世界に溺れる威力で生じる欲情をすっかり取り除くこと。これが世界から出る方便だ」という考えが生まれました。

 比丘のみなさん。まだ世界の旨味を旨味と知らない時、世界の害を害と知らない時、世界から出る方便を真実のままに知らない時、その間は天人、悪魔、梵天の世界とサマナ・バラモンと天人、すべての人間を含めた動物群のアヌッタラサンマーサンボーディニャーナ(阿耨多羅三貘三菩提智)を知ったと感じませんでした。

 比丘のみなさん。私がこのように世界の旨味を旨味と知り、世界の害を害と知り、世界から出る方便を真実のままに知った時、天人、悪魔、梵天も含めた世界とサマナ・バラモン、天人とすべての人間を含めた動物群のアヌッタラサンマーサンボーディニャーナ(阿耨多羅三貘三菩提智)を大悟したと感じました。

 それは「私の解脱は劣化することはない。この生は最後の生であり、この有は新たな有を生むことはない」というニャーナダッサナ(知ること見ること。智見)が生じたからです。





大悟するための探求遊行

トゥティヤスッタ
増支部ティカニカーヤ 20巻333頁554項

 比丘のみなさん。私は世界の旨味(動物の心を誘惑する物)を探し回り、世界の旨味を発見し、世界にあるだけの旨味を自分の智慧で良く見ました。

 比丘のみなさん。私は世界の害(凶悪)を探し回り、世界の害を発見し、世界にあるだけの害を自分の智慧で良く見ました。

 比丘のみなさん。世界から出る方便を探し回り、出る方便を発見し、世界にあるだけの出る方便を自分の智慧で良く見ました。

 比丘のみなさん。私がまだ世界の旨味を旨味と知らなかった時、世界の害を害と知らなかった時、出る方便を出る方便と真実のままに知らなかった時、その間はまだ、私は天人、悪魔、梵天を含めた世界、サマナ・バラモンとすべての人間を含めた動物群のアヌッタラサンマーサンボーディニャーナ(阿耨多羅三貘三菩提智)を大悟した人と感じませんでした。

 比丘のみなさん。私がこのように世界の旨味を旨味と知り、世界の害を害と知り、世界から出る方便を真実のままに知った時、天人、悪魔、梵天を含めた世界とサマナ・バラモン、天人とすべての人間を含めた動物群のアヌッタラサンマーサンボーディニャーナを大悟した人になったと感じました。

 それは「私の解脱は再び悪化することがない。この生が最後の生であり、この有は新たな有を生むことはない」と知る物、見る物であるニャーナダッサナ(知ること見ること。智見)が生じたからです。





大悟する前にヴィタッカを支配する

デーヴァダーウィタッカスッタ
中部マッジマパンナーサ 12巻232頁252項

 比丘のみなさん。悟っていない時、私がまだボーディサッタだった時、すべてのヴィタッカ(考えること)を二つに分けるべきだという考えが生じました。比丘のみなさん。愛欲の考え、復讐の考え、加虐の考えを一つの部類に、愛欲を捨てる考え、復讐心を捨てる考え、加虐心を抑える考えをもう一つの部類に分類しました。

 比丘のみなさん。私が不注意な人間でなく、努力があり、自分をこのように追いやった時、愛欲の考えが生じると「愛欲の考えが生じた。愛欲の考えは当然自分を苦しめ、他人を苦しめ、あるいは自分と他人の両方を苦しめ、智慧が消滅し、困窮の側であり、涅槃にならない」と、ハッキリと知りました。比丘のみなさん。このように熟慮すると愛欲の考えは維持できなくなりました。

 比丘のみなさん。そして生じてくる愛欲の考えと、生じている愛欲の考えを完全に終わらせました。比丘のみなさん。私が不注意な人間でなく、努力があり、自分をそのように追い遣った時、復讐の考えが生じると「復讐の考えが生じた。復讐の考えは当然自分自身を困らせ、他人を困らせ、あるいは自分と他人の両方を困らせる。智慧が消滅し、困窮の側であり、涅槃にならない」とハッキリ知りました。

 比丘のみなさん。このように熟慮すると復讐の考えは維持できませんでした。比丘のみなさん。そして生じてくる復讐の考えと、生じている復讐の考えを完全に終わらせました。

 比丘のみなさん。私が不注意な人間でなく、努力があり、自分をそのように追い遣った時、加虐の考えが生じると「加虐の考えが生じた。加虐の考えは当然自分自身を苦しめ、他人を苦しめ、あるいは自分と他人の両方を苦しめる。智慧の消滅になり、困窮の側であり、涅槃にならない」とハッキリ知りました。比丘のみなさん。このように熟慮すると加虐の考えは維持できなくなりました。比丘のみなさん。そして生じてくる加虐の考えと、生じている加虐の考えをすっかり終わらせました。

 比丘のみなさん。比丘が何らかの考えをたくさん考えれば、当然心はそのような状態に傾いていきます。比丘が愛欲の考えをたくさん考えることは、離欲の考えを捨ててしまうことで、心は愛欲の考えに傾いていきます。比丘が復讐の考えをたくさん考えれば、当然心はそのような状態に傾いていきます。比丘が復讐の考えをたくさん考えることは復讐しない考えを捨ててしまうということで、その人の心は更に復讐の考えに傾いていきます。

 比丘が加虐の考えをたくさん考えれば、当然心はそのような状態に傾いていきます。比丘が加虐の考えをたくさんすれば、加虐しない考えを捨ててしまうということで、その人の心は動物を苦しめる考えに傾いていきます。

 比丘のみなさん。雨期が終わる秋節の頃、牛飼いは籾米がいっぱいある狭い場所で牛を飼わなければならず、彼は害が見えるので、つまり籾米のことで処刑されたり、投獄されたり、非難されたりや罰金を科されたりする害を考えるので、牛が籾米を食べないように常に棒で牛を叩いていなければならないように、比丘のみなさん。私もすべての悪の害や劣悪さが見え、愛欲から出ることの功徳、すべての善、清浄さが見えました。

 比丘のみなさん。私が注意深い人間で努力があり、このように自分を追い遣った時、離欲の考えが生じ、・・・・復讐しない考えが生じ、・・・・加虐しない考えが生じ「加虐しない考えが生じた」と明らかに知りました。加虐しない考えは自分を苦しめず、他人も苦しめず、自分と他人の双方を苦しめることにならず、智慧を発展させ涅槃になると、一晩中加虐しない考えを考えても、加虐しない考えから生じる危険は見えず、

一日中加虐しない考えを考えても、加虐しない考えから生じる危険は見えず、昼も夜も加虐しない考えを考えても、加虐しない考えを捨てることから生じる危険は見えませんでした。

 比丘のみなさん。「あまり長いこと熟慮し過ぎると体が疲れてしまう。身体が疲労し、心が弱っている時はサマーディから離れる」と考えたので、私は心を休ませ、心が乱れないよう安定した一つの感情になるよう維持しました。

 比丘のみなさん。何らかの感情についてたくさん考えれば、心はそういう状態に傾いていき、愛欲を捨てる考えについて熟慮すれば、離欲の考えをたくさんしたということで、心は愛欲から出る考えに傾いていきます。復讐しない考えについてじっくり考えれば、復讐する考えを捨ててしまうということで、その人の心は復讐しない考えに傾いていきます。加虐しない考えをじっくり考えれば、加虐する考えを捨ててしまうということで、その人の心は動物を苦しめない考えに傾いて行きます。

 比丘のみなさん。暑季の終りの頃は籾米を全部家の中に運び終っているので、牛飼いは牛を飼うことができ、木陰や野原で放牧する時は、牛の群れを確認するだけ(で十分)なのと同じです。

 比丘のみなさん。私は始めた努力を緩めることなく、私のサティは混乱することなく、体が静まって揺れなくなり、心は一つの感情で安定しました。比丘のみなさん。私は愛欲とすべての悪が静まってヴィタッカ・ヴィチャーラ(熟考)があり、ヴィヴェカ(群れから離れること。遠離)から生じたピーティ(喜悦)とスッカ(幸福)がある初禅に達し、その感覚の中にいました。

 (この後は、四禅定で悟りについて述べた部分と同文)。





悟りの前にサマーディニミッタを規定なさる

ウパキレーサスッタ
中部ウパリパンナーサ 14巻302頁452項

 アヌルッダとみなさん(註1)。そのニミッタを全部記憶するべきです。私がまだ大悟する前、まだボーディサッタだった時、明るい光といろんな形が見え、その後間もなく、その光と見えていた形が消滅したのを記憶しています。「何が原因で何が縁で、見えていた光と形が消えたのだろう」という疑問が生じました。

 アヌルッダとみなさん。そう考えていると「私にヴィチキッチャ(躊躇い)が生じた。私のサマーディが揺らいだのは躊躇いが原因だ。サマーディが揺らげば当然光も、形を見ることも消滅する。私は二度と疑念が生じないようにする」という知識が生じました。

 その後間もなく、その光と見えていた形が消滅したのを記憶しています。そして「何が原因で何が縁で、見えていた光と形が消えたのだろう」という疑問が生じました。アヌルッダとみなさん。そう考えていると「私にアマナシカーラ(不作意)が生じた。私のサマーディは不作意が原因で揺らいだ。サマーディが揺らげば光も、見えていた形も消滅する。私は再び疑念と無作意が生じないようにする」という知識が生じました。

 その後間もなく、その光と見えていた形が消滅したのを記憶しています。そして「何が原因で何が縁で、見えていた光と形が消えたのだろう」という疑問が生じました。アヌルッダとみなさん。そう考えていると「私にティーナミッダ(沈鬱と眠気)が生じた。私のサマーディは睡魔が原因で揺らいだ。サマーディが揺らげば光も、見えていた形も消滅する。私は再び疑念と無作意と睡魔が生じないようにする」という知識が生じました。

 その後間もなく、その光と見えていた形が消滅したのを記憶しています。そして「何が原因で何が縁で、見えていた光と形が消えたのだろう」という疑問が生じました。アヌルッダとみなさん。そう考えていると「私に恐怖が生じた。私のサマーディは恐怖が原因で揺らいだ。

サマーディが揺らげば光も見えていた形も消滅する。例えば男が遠い所を旅していて、命を狙う人が道の両側から現れれば当然それが原因で恐怖が生じるのと同じだ。だから私は、再び疑念と無作意と睡魔と恐怖が生じないようにする」という知識が生じました。

 その後間もなく、その光と見えていた形が消滅したのを記憶しています。そして「何が原因で何が縁で、見えていた光と形が消えたのだろう」という疑問が生じました。アヌルッダとみなさん。そう考えていると「私に興奮が生じた。私のサマーディは興奮が原因で揺らいだ。

サマーディが揺らげば光も見えていた形も消滅する。宝の鉱脈を探している男が、一度に五つもの鉱脈を発見すればそれが原因で興奮するのと同じだ。私は再び疑念と無作意と睡魔と恐怖と興奮が生じないようにする」という知識が生じました。

 その後間もなく、その光と見えていた形が消滅したのを記憶しています。そして「何が原因で何が縁で、見えていた光と形が消えたのだろう」という疑問が生じました。アヌルッダとみなさん。そう考えていると「私に粗暴が生じた。私のサマーディは粗暴が原因で揺らいだ。サマーディが揺らげば光も見えていた形も消滅する。私は再び疑念と無作意と睡魔と興奮と粗暴が生じないようにする」という知識が生じました。

 その後間もなく、その光と見えていた形が消滅したのを記憶しています。そして「何が原因で何が縁で、見えていた光と形が消えたのだろう」という疑問が生じました。アヌルッダとみなさん。そう考えていると「私に過剰な努力が生じた。私のサマーディは過剰な努力が原因で揺らいだ。

サマーディが揺らげば光も見えていた形も消滅する。両手でスズメを捕まえる時、力を入れすぎれば小鳥は手の中で死んでしまうのと同じだ。だから私は再び疑念と無作意と睡魔と興奮と粗暴さと過剰な努力が生じないようにする」という知識が生じました。

 その後間もなく、その光と見えていた形が消滅したのを記憶しています。そして「何が原因で何が縁で、見えていた光と形が消えたのだろう」という疑問が生じました。アヌルッダとみなさん。そう考えていると「私に努力の緩みが生じた。私のサマーディは努力の緩みが原因で揺らいだ。

サマーディが揺らげば光も見えていた形も消滅する。両手でスズメを捕まえる時に力が足りなければ小鳥は手をすり抜けて飛んで逃げてしまうのと同じだ。だから私は再び疑念と無作意と睡魔と興奮と粗暴と過剰な努力の緩みが生じないようにする」という知識が生じました。

 その後間もなく、その光と見えていた形が消滅したのを記憶しています。そして「何が原因で何が縁で、見えていた光と形が消えたのだろう」という疑問が生じました。アヌルッダとみなさん。そう考えていると「私に欲求が生じた。私のサマーディは欲求が原因で揺らいだ。サマーディが揺らげば光も見えていた形も消滅する。私は再び疑念と無作意と睡魔と興奮と粗暴さと過剰な努力と努力の緩みと欲求が生じないようにする」という知識が生じました。

 その後間もなく、その光と見えていた形が消滅したのを記憶しています。そして「何が原因で何が縁で、見えていた光と形が消えたのだろう」という疑問が生じました。アヌルッダとみなさん。そう考えていると

「私に種々想が生じた。私のサマーディは種々想が原因で揺らいだ。サマーディが揺らげば光も見えていた形も消滅する。私は再び疑念と無作意と睡魔と興奮と粗暴さと過剰な努力と努力の緩みと欲求と種々想が生じないようにする」という知識が生じました。

 その後間もなく、その光と見えていた形が消滅したのを記憶しています。そして「何が原因で何が縁で、見えていた光と形が消えたのだろう」という疑問が生じました。アヌルッダとみなさん。そう考えていると「私に過剰な観察が生じた。

私のサマーディは観察の過剰が原因で揺らいだ。サマーディが揺らげば光も見えていた形も消滅する。私は再び疑念と無作意と睡魔と興奮と粗暴と努力の過剰と努力の緩みと欲求と種々想と過剰な観察が生じないようにする」という知識が生じました。

 さてアヌルッダとみなさん。私は、躊躇い(など)は心の随煩悩であると明確に知ったので、心の随煩悩である躊躇い(など)を捨ててしまいました。

 アヌルッダとみなさん。私が注意深く、努力がある時、そのように自分を追い遣ると、当然光は記憶するけれど形が見えず、あるいは形は見えても光を記憶しないことが一晩中だったり、一日中だったり、あるいは一昼夜だったりしました。私に「何が原因で一晩中、昼中、あるいは昼も夜も、光は記憶しても形が見えず、あるいは形は見えても光を記憶しないのだろう」という疑問が生じました。

 アヌルッダとみなさん。私に「私が心の中でニミッタを作らず、光のニミッタを作っている時は、当然光を記憶しているが形は見えない。心の中で光のニミッタを作らないで、形のニミッタを作っている時は、形は見えるが光は記憶しないことが、夜中のこともあり、昼中のこともあり、終日のこともある」という知識が生じました。

 アヌルッダとみなさん。私に「注意深く努力がある人で、そのように自分を追い遣ると、当然少し光を記憶すると少し形が見え、無限に光を記憶すると、無限に形が見える。何が原因で何が縁で、少し光を記憶すると少し形が見え、無限に光を記憶すると無限に形が見えるのだろう」という疑問が生じました。

 アヌルッダとみなさん。私に「私のサマーディが少ない時は目も少しで、目が少しだから少しの光しか憶えず、形も少ない。サマーディが多い時は目が無限に多いので、私は無限に光を憶え、見える形も無限に多い。それが昼中のこともあり、夜中のこともあり、一昼夜のこともある」という知識が生じました。

 アヌルッダとみなさん。私が、躊躇い(などは)は心の随煩悩であると明らかに知り、そしてそれを捨てることができた時、その時「私の心の随煩悩はどれも、捨ててしまった。今私は三つのサマーディに励んだ」という感覚が生じました。

 さてアヌルッダとみなさん。私はヴィタッカ(考えること。尋)とヴィチャーラ(伺)があるサマーディ、ヴィタッカはないがヴィチャーラは適度にあるサマーディ、ヴィタッカもヴィチャーラもないサマーディ、ピーティ(喜悦)のあるサマーディ、喜悦のないサマーディ、喜びになるサマーディ、そしてウベカー(捨)になるサマーディに励みました。

 アヌルッダとみなさん。ヴィタッカとヴィチャーラがあるサマーディ(それら三種も)は私が励んだ自然で、その時私に「この解脱は二度と悪化することはない。これが最後の生であり、新たに生じる有はない」と知るニャーナ(知ること。智)が生じました。

註1: この時アヌルッダとナンディヤとキムピラの三人のテーラ(長老)に話していますが、「アヌルッダとみなさん」と呼び掛けられています。学習者、特にサマーディの学習者はこの部分を熟考して学ばなければなりません。





悟りの前に過去の五欲から心を離す

チャトゥッタスッタ
相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻121頁173項

 比丘のみなさん。大悟する前、私がまだボーディサッタだった時、「以前自分が触れたことがある過去の五欲が、変化によって消滅したことは事実だが、私の心が駆けて行く時は、ほとんど過去の五欲に向かい、現在や未来の五欲に駆けて行くことは非常に少ない」という感覚が生じました。

 比丘のみなさん。続いて私に「注意深さとサティを、自分の利益を望む私の心を護る物にするべきだ。かつて触れたことがある過去の五欲は変化によって消滅したのだから」という納得が生じました。

 比丘のみなさん。だからみなさんの心が駆けて行く時は、ほとんどはかつて味わったことがあり、変化によって消滅した過去の五欲に向かい、現在や未来の五欲に向かうことは極めて少ないです。

 比丘のみなさん。だから自分の利益を望む人は注意深さとサティを心の防具にするべきです。かつて触れたことがある過去の五欲は変化によって消滅したからです。





悟りの前に如意足を発見なさる

パタマスッタ
相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻362頁1205項

 比丘のみなさん。大悟する前、私がまだボーディサッタだった時、如意足に励む実践方法は何だろうという疑問が生じました。

 比丘のみなさん。私に「その比丘(註)は当然作るダンマが揃っている四如意足に励み、主な仕事であるチャンダに依存するサマーディがある。このような状態で、私のチャンダは当然委縮せず、停滞して内部で委縮せず、外部に飛散しない状態がある。そして私は前はこうだったからこれからこうなる、これからこうだから前はこうだ、下がこうだから上はこうで、上がそうだから下はそうで、夜は昼のように、昼は夜のように」と、過去と未来を感じました。

 あなたは当然夢中になる物がない解放した心で、このように明るさのある心の訓練に励みなさい。

 (あとの三項は、如意足のチャンダ(欲)が、精進・念・熟考に代わるだけで、すべて同文です。ブッダはこのように考えて、如意足を発見されました)。

註: この種の出家比丘は、ブッダが生まれる前からいました。





悟りの前に五蘊を考えられる 

パンチャマスッタ
相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻34頁59項

 比丘のみなさん。私が大悟する前、まだボーディサッタだった時、私に「形の旨味は何だろう。形の害は何だろう。形から出る方便は何だろう。受の旨味は何だろう。想の旨味は何だろう。行の旨味は何だろう。識の旨味は何だろう。受の害は何だろう。想の害は何だろう。行の害は何だろう。識の害は何だろう。受から出る方便は何だろう。想から出る方便は何だろう。行から出る方便は何だろう。識から出る方便は何だろう」という疑問が生じました。

 比丘のみなさん。私に「形に依存して生じる喜びと幸福は何でも、それが形の旨味だ。形は無常であり苦であり当然変化すること、どんな状態であれその状態が形の害だ。満足の威力で生じる欲情を捨てること、それが形から出る方便だ」という知識が生じました。

 比丘のみなさん。私に「受に依存して生じる喜びと幸福は何でも、それが受の旨味だ。受は無常であり苦であり当然変化すること、どんな状態であれその状態が受の害だ。満足の威力で生じる欲情を捨てること、それが受から出る方便だ」という知識が生じました。

 比丘のみなさん。私に「想に依存して生じる喜びと幸福は何でも、それが想の旨味だ。想は無常であり苦であり当然変化すること、どんな状態であれその状態が想の害だ。満足の威力で生じる欲情を捨てること、それが想から出る方便だ」という知識が生じました。 

 比丘のみなさん。私に「行に依存して生じる喜びと幸福は何でも、それが行の旨味だ。行は無常であり苦であり当然変化すること、どんな状態であれその状態が行の害だ。満足の威力で生じる欲情を捨てること、それが行から出る方便だ」という知識が生じました。

 比丘のみなさん。私に「識に依存して生じる喜びと幸福は何でも、それが識の旨味だ。識は無常であり苦であり当然変化すること、どんな状態であれその状態が識の害だ。満足の威力で生じる欲情を捨てること、それが識から出る方便だ」という知識が生じました。

 比丘のみなさん。私がまだ五取蘊の旨みを旨味と知らず、害を害と知らず、出る方便を出る方便と真実のままに知らなかった時、その間中、まだ天人界・悪魔界・梵天界を含めたこの世界と、サマナ・バラモンと、天人と人間を含めた動物群の、アヌッタラサンマーサンボーディニャーナ(阿耨多羅三貘三菩提智)を大悟したと感じませんでした。

 比丘のみなさん。私が五取蘊の旨味を旨味と知り、害を害と知り、出る方便を出る方便と真実のままに知った時、その時天人界・悪魔界・梵天界を含めたこの世界の、サマナ・バラモンと、天人と人間を含めた動物群の、アヌッタラサンマーサンボーディニャーナを悟ったと感じました。

 それで「この解脱は再び劣化することはない。この生が最後の生だ。この有は新たな有を生むことがない」と知る道具、見る道具であるニャーナダッサナ(真実を見る智慧。智見)が私に生じました。





悟りの前に受を詳細に探求なさる

ヴェーダナーサンユッタ 相応部18巻289頁439項

 比丘のみなさん。大悟する前、まだ私がボーディサッタだった時、私に「何が受だろう。何が受の発生だろう。何が受を発生させる道だろう。何が受の消滅だろう。何が受の消滅に至らせる道だろう。何が受の旨味だろう。何が受の害だろう。何が受から出る方便だろう」という疑問が生じました。

 比丘のみなさん。私に「この三つの受、つまり幸受、苦受、不苦不幸受、これを私は受と呼ぶ。受の発生は当然触の発生によってある。欲は受を発生させる道で、受の消滅は、当然触の消滅によってある。素晴らしい八項目があるマッガ(道)が、受の消滅に至らせる道だ。

すなわち正しい見方、正しい考え、正しい発言、正しい仕事、正しい生活、正しい努力、正しく思い出すこと、正しい専心だ。受に依存して生じるどんな幸福や喜びも、その幸福や喜びが受の旨味だ。受は不変でなく、苦であり、どんな状況でも当たり前に変化がある、その状況が受の害だ。満足の威力による欲情を出してしまえること、受の満足によって欲情する満足を出してしまうこと、それが受から脱す方便だ」と、このような知識が生じました。

 比丘のみなさん。「これが受の発生。これが受を発生させる道。これが受の消滅。これが受の消滅に至らせる道。これが受の旨味。これが受の害。これが受から出る方便」という目、ニャーナ、智慧、明、明るさが、私に生じました。





悟りの前に五蘊にちなんだ探究をなさる

チャッタスッタ
相応部カンダヴァッガ 17巻36頁61項

 比丘のみなさん。私は形の旨味を探し回って形の旨味を発見し、あるだけの形の旨味を、あるだけの智慧で良く見ました。

 比丘のみなさん。私は形の害を探し回って形の害を発見し、あるだけの形の害を、あるだけの智慧で良く見ました。

 比丘のみなさん。私は形から出る方便を探し回って形から出る方便を発見し、あるだけの形から出る方便を、あるだけの智慧で良く見ました。

 (受・想・行・識も内容は同文です。そして後ろに「形などの害を発見しないうちは、まだそれを大悟したとは言われない。それらを発見した時、大悟した、最後の生だ、新たな有を生じさせない有と言うことができる」とあります。ブッダが探究しされた物は後二つあり、つまり四大種と六処入ですが、名前が違うだけで内容はすべて同じなので、ここでは省略します)




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