第九章 真実を理解する





 翌朝、近くに住んでいるスジャダーという淑女が、上等な牛乳で炊いたお粥を、王子の住んでいる所へ持って来て献じました。その淑女は、「私が、私の望む成功に巡り合ったように(祈願して子供を授かった)、どうぞ王子様も、望まれる成功に巡り合われますよう」と言いました。王子はその淑女の献じるものを拒まず、受け取って食べ、満足と、非常に体力と気力を生じさせる栄養を感じました。(203)

 それから王子は菩提樹の所へ歩いて行きました。菩提樹は、今日まで大悟を記念する木になっています。スジャダーが「王子様、私が成功したように、どうぞ成功なさってください」と言った言葉が、その木の根元に行くまで、王子の耳に響いていました。(204) 〔この女性は神聖な物に祈願して子を授かったお礼として、一部を王子に献じました〕。

 その時王子は木の根元の東面に、ソーダディヤという名の草刈から献じられた八束の草を敷いて座りました。そして「たとえこの体が干乾び、肉がなくなり、骨と筋と皮以外には何も残らなくても、求める物に出合うまで、目指した物に到達するまで、つまり自分とすべての人間たちを苦から解脱させ、今後は、いい加減飽き飽きしている生と死を繰り返さない人になれる方法を発見するまでは、ここを立ち上がるまい」と決意して発願しました。

 要するに王子は、涅槃と言われるものに到達しなければ、何があってもそこから立ちあがらないと、固く決意して菩提樹の木の根元に座りました。(205)

 このような発願は非常に困難です。現代社会には、昔の人がしたような発願をする人はいません。当時のインドには数多くの修行者がいて、自分が最も良い、最高と思う物に到達するために、何年間も苦行や厳しい心の修行をしていました。

 しかし彼らが得た物は永遠ではない、時間の経過に耐えることができない、一時的な幸福でした。彼らに天国の幸福をもたらした努力が消えると、その満足すべき世界と別れ、望まない物でいっぱいの低い世界に戻らざるを得ませんでした。(206)

 譬えれば、箱にたくさん貯めた金銀を使い始めたのと同じで、すぐに終わってしまい、残るのは箱だけで、また貯めなければなりません。同様に不変でない幸福に出合った修行者は、その幸福が終わったら再び苦に耐えて、果てしなく苦行を繰り返さなければなりませんでした。(207)

 その人は、果てしなく天国と地上の間を往復しなければなりません。こうような行動は、臼を転がしながら山を登るようなもので、絶えず臼が足の上に転がり落ちてくるので、力を出して、際限なく臼を押し上げなければなりません。(208)

 シッダッタ王子がここで目指したのは、自分自身とすべての人類に、臼を転がしながら山を登らせるような物ではありません。王子は、ウルヴェーラー村の菩提樹の木の根元で、消滅したり衰退することがない永久不変の物で、一度出合った人は、その後獲得し続ける努力をする必要がない物を探求しました。王子は、永久不変の物を発見するための努力を、それを発見できなければ、そこで体を破滅させても微動だにしないと発願しました。(209)

 王子は心の力を一つに集中して低級な自然と闘い、心を、以前に何度も経験した永久不変でない一時的な幸福より上に引き上げ、固い決意で、苦は何から生じるかという真実を探求するために、世俗の考えをすべて捨てました。(210)

 しかし王子の心は一つのことだけを考える代わりに、繰り返し過ぎた日の幸福を考えました。父の宮殿で養育されていた時代に受けた喜びや楽しい場面が、しばしば脳裏に浮かびました。(211)

 かつて住んでいた美しい寝室や、快い庭園の広場や、心に残る蓮池の美しい情景や、世話をし、機嫌をとってくれた人々の記憶が、心にくっきりした映像になって甦りました。そして美しい妃や我が子の姿も浮かびました。子は美しく、そして後に父親に大きな喜びをもたらす相がありました。

 父の姿も浮かびました。今はもう老いて白髪頭になり、政務ができないほど年をとっても、側で国政を助け、王位を引き継ぐ王太子がいないので、傷心しているだろうと思いました。(212)

 深い静寂の中で、心にそのようにたくさんの映像が浮かんだ後、非常に思いがけない考えが浮かび上がりました。

 「シッダッタよ。お前が他の人と同じように家を継いでいれば、お前は、大きな徳と権力と能力のある王になれたのに、それを回避し、自分以外の誰も考えたことがない物を探求するために、国民や価値のある物を捨てた。もしかしたら探し出すことなど出来ないかもしれないのに。

 しかもそのような物は存在しないものかもしれないのに。かつては本当にあり、お前の心で確かな幸福だと感じたいろんな物を捨て、自分自身も本当にあるかどうか分からない物を探しているお前が、バカでも愚かでもないとどうして分かるのだ」。(213)

 「シッダッタよ。もしお前が世俗の素晴らしい物を捨てて、お前がそれより良いと思う物を探すなら、どうして他の修行者がしているような修行に励まないのだ。みんな食事を制限したり、体を苦しめる修行をしている。あるいは布施を好む人達の誰もがしているようにお供えをしないのだ。

 お前は他人の方法はすべて間違っていて、自分の方法だけが正しいと思うのか。それにしても、なぜお前は、満足すべき幸福に満足できないのだ。たとえそれが求めるように永久不変でなくても」。(214)

 「シッダッタよ。命は実に短いものだ。誰でも必ず遠からず死ぬ。お前も遠からず死ぬのだ。残されている短い時間に、生きているうちに手に入るだけの幸福を、どうして味わわないのだ。お前は今後どのような幸福も味わわないのか。愛もある。名声もある。高い地位もある。尊敬崇拝もある。

 お前が求めればすべて確実に十分にあり、撫でまわすことも味わうこともできる。空中の宮殿でも、幻でも夢でもない。なぜ誰も探究したことが無い物を探究するために、寂しい森の中で自分を苦しめるようなことをするのだ」。(215)

 生と死を超える方法を探すために菩提樹の木の根元に座った夜に、このような考えが王子の心に生じました。それらの考えは、王子が捨てた様々な楽しいことを回想させ、王子に求める物を見つけ出す能力があるのか、探求が上手く行っているか躊躇させましたが、王子は目標を転向しようと考えませんでした。これらの考えが王子を唆そうとすればするほど、王子は心を強制して初めの目標に向かわせました。(216)

 「邪魔者よ去れ。お前が何者か分かっている。お前は人間を騙して、善や美や、偉大なこと、素晴らしいことを止めさせる悪霊だ。今後は、私が出家して探求していることを転向させようと邪魔をするな。悪魔よ。私の心は深く根を張った。私は求める物を得るまでここに座らなければならない。たとえ血や肉が干乾びて、骨と皮以外には何も残らなくても、私は座らなければならない」と、王子は叫びました。(217)

 シッダッタ王子はそこに座って奮闘努力をし、すべての生き物の愁苦を取り除くことができる物を探すために、全力で取り組みました。そして世界中のすべての悪の根を完全に断つことができ、永久に変わることも終わることもない、無常より上にある幸福であり、善である物をもたらすものを発見しました。苦の原因と苦の消滅をこのように詳細に順序立てて知るために熟慮することを、順行も逆行も、どちらも「縁起を熟慮する」と言います。(218)

 王子は心を集中させ、心を唆し妨害していた悪い考えを振り払って、すっかり追い出した時、目指す物に到達し、心は波風のない静寂な池の水面のように静まりました。過去の幸福を回顧することによる妨害という悪はことごとく消滅し、その後王子が求めているもの、求めていることに対する疑念は生じませんでした。(219)

 静かに安定したサマーディ(三昧。専心)の中で、心の力を一つに集めて偉大な力にし、一つだけの目標、無明を攻撃することだけに向け、菩提樹の木の根元で、サーキヤ族の息子であるサマナ、ゴータマ シッダッタ王子は大悟して、ゴータマ ブッダという名前のサンマーサンブッタになりました。この時代この世界に生きているすべての人に、今この世界に生きているすべての人に、真理の光をもたらした人です。(220)

 今ブッダは他のすべての人と反対の、澄みきった明るさを得ました。私たちの明るさは、何らかの種類の闇の中でさ迷っています。今ブッダは眠りから覚めました。私たちの目覚めは、ただ寝ぼけているだけで、私たちの目覚めと反対の目覚めです。今王子は、他の人々と違う知識があります。他の人々の知識は何らかの類の妄信にすぎません。(221)

 この時からブッダは、人生の本当の意味を一つ残らず、根本から明察できるようになり、今、なぜ人間は生と死を繰り返さなければならないのかを知り、人間が生と死を完全に消滅させるために、どう攻撃するべきかも知りました。(222)

 最初にブッダが鋭い智慧で明らかに見たものは、ブッダ自身の生と死の長い長い順番でした。いろんな形の動物だったことや、いろんな人生を送ったことなどすべて、上等なものから下等なものまで、悪劣なものから素晴らしいものまで、下品なものから上品なものまで、そして最後にスッドーダナ王とマーヤー妃の王子として生まれたことまででした。この明察をブッペーニヴァーサヌ サティ ニャーナ(宿命智)と言います。(223)

 ブッダは深い智慧で熟慮し、洞察し続けると、すべての動物が生まれて来て死んで行き、自分の行なったカンマによるいろんな状態で、別の場所に生まれることを知りました。自分で作った良いカンマで幸福な人に生まれてくる人があり、自分で作った悪いカンマで生まれて来て不幸になる人がいることが、明瞭に見えました。

 それらはすべて動物自身のカンマによるもので、この世界でも、どの世界でも、幸福や不幸に生まれさせるのはカンマ以外の何物でもないと明らかに見えました。このように明察をすることをチュトゥババータヤーン(天眼通)と言います。(224)

 そして最後に、ブッダがその重要な夜に出合った最大のものは、人間が尽きることの無い世界の変化に身を任せることは、少しも安全でも正しいことでもないと知り、人が海に浮かぶ船のように幸福と不幸の間を上下しなければならないのは、少しも良いことではないと、少しの疑念もなく明らかに見えました。(225)

 ブッダは、世界の変化の波のままに、飛び上がったり飛び降りたりするために生まれさせる原因は、人々がマヤカシである世界に時々生じるちっぽけな幸福を愛し、執着することだと知りました。ブッダは、首輪に付いた肉のように、すべての動物が、この世に生まれ変わる首かせに繋がれているのが見えました。仕掛けられた僅かな餌を貪っているからです。(226)

 ブッダは、このように生まれる首かせに繋がりたくない人は、たった一つ方法があることを知りました。つまり自分が出合って見た、すべての喜びへの欲を消滅させること、そして煽情的なものに溺れる自分を放置しないこと、そしてこの世界が人間を誘惑するために用意したものを野望しないことです。(227)

 それからブッダは、最後まで実践すれば、魅惑的なものを野望し、惑溺することから離れられる方法を知りました。更に高く善いものに出合うので、その人は魅力だけしかない、苦であり、まやかしの幸福である、変化する世界の物に、二度と満足することがなく、本物で永遠の幸福、つまり涅槃に到達することができます。

 このマッガ、あるいは道を、ブッダは「八つの素晴らしい道」と呼びました。素晴らしいものを望んで目指す人が歩く、八項目ある道だからです。四つの見方、つまり苦、苦の原因、滅苦、そして八項目ある滅苦の仕方を、これをまとめてアーサヴァッカヤニャーナ(漏尽通)と言います。(228)

 すべての悪から逃れるためにブッダの教えで歩く、八項目の素晴らしい道の初めの項目を、サンマーディティと言い、正しい見解です。正しい見解とは、世界のすべての物を正しく見るという意味です。その人自身の命は常に変化していて、本当に永遠で実体のある物ではなく、もし近くで強く関われば、一方的に苦をもたらすと見ます。

 この正しい見方は、この世界でもどこの世界でも、善を行なえば当然幸福をもたらし、悪を行なえば当然いつでも苦をもたらすと見ることを意味します。(229)

 八項目ある道の二つめをサンマーサンガッパと言い、正しい志向です。この正しい志向というのは、世界のすべての物はどんな状態か真実を見て、それらの物に近づいて惑溺することから離れることです。正しい志向には、まだこの世界に惑溺している他の動物の心と体に、苦痛を感じるほど危害を加えないという意味もあります。愛して哀れんで、それらの動物がその時受けている苦から脱せるよう、できる限り支援をしようとすることです。(230)

 三つめはサンマーヴァーチャーと言って、正しい言葉です。真実を言い、きれいな言葉を話し、愛と団結を生むような話、そして利益になることだけを話します。別の言い方をすれば嘘を言うこと、粗暴な話し方、告げ口、そして意味のないお喋りを避けるという意味です。(231)

 四つめは、サンマーカムマンタと言って、正しい行いです。殺生をしない、窃盗をしない、他人が愛しているものに行きすぎたことをしない、そして飲むと酔って誰もが望まないことをしてしまうほどサティ(自覚)を失わせる水を飲まない、とう意味です。(232)

 五つめは正しい生業で、サンマーアーチヴァと言います。誰にも、あるいはどんな動物にも危害を加えない職業で身を養うという意味です。(233)

 六つめは正しい努力で、サンマーヴァーヤーマと言います。考えや気持が、悪い考えや行動を生じさせない努力、生じてしまった悪い考えと悪い行ないを終りにする努力という意味です。また善い考えと善い行いが生じるよう努力するという意味もあります。そしてそれらの善を維持する、あるいはより確かなものにする努力をも意味します。(234)

 七つめは正しく思い出すことで、サンマーサティと言います。それ以上のものと、あるいは真実以上に誤解しないために、私たちの体は本当は何か、どんなものか、どれだけのものかを忘れないように自覚する、あるいは思っているという意味です。体のいろんな動きや行動や義務は、自然に経過するものと正しく思い出し、何らかの結果が出たら、それ以上の誤解や愛や嫌悪をしてはいけない、という意味です。

 この正しく思い出すことは、この他にも、私たちの心は、考えも感じ方も変化するので、いつも前進していて、止まること、繰り返すことはないという意味もあります。そして最後に、涅槃と呼ぶ完璧な脱出をするために、ブッダが大悟して教えたいろんな実践項目を忘れないで思い出すことを意味します。(235)

 八項目の道の最後は心を正しく維持することで、サンマーサマーディと言います。心が散漫になるのを放置しないで、自分が知りたい、あるいは理解したい物を正しく理解するため、あるいはしたいことを成功させる行動のために、自分が維持するべきと思う状態で安定しているよう心を管理します。(236)

 以上が、今はブッダとなったゴータマ シッダッタ王子が、二千五百年以上前に菩提樹の木の下で発見した、八つの素晴らしい道のすべてです。(237)

 最後の三項目、つまり正しい努力と、正しい自覚、正しい心の維持には広い意味があり、ブッダの近くで実践する人は、家を捨てて出家するくらい精一杯行動すれば完璧になる機会がある、というほどです。いずれにしても、僧であってもなくても、誰でも、一人一人の生活にふさわしい程度に、その項目の意味通りに、この三項の教えを実践できます。(238)

 初めの二項目、正しい見解と正しい志向も、最善を極められるのは、ブッダが見えたのと同じようにすべての物の真実が見え、理解できるまで熟慮する練習を、何年も努力した人だけです。と言っても、誰でも自分でできる範囲で、この二項目を実践する努力をするべきです。

 時には自分の周りの全ての物が、それまでのように愛らしく美しく見えず、また時には、いつか必ずこの世の偽りに満ちた物を捨てて、より良く、より進歩した、より永遠なものに関心を持てる確信が生まれます。(239)

 しかし八項目の真ん中の三項目は、どんな種類の人も自分の力の限り実践することができます。すべての人は、言葉でも行動でも、誰にも危害を加えない職業を営むよう努めるべきです。誰でも悪いことを言うのを避け、悪い行ないを避ける努力をするべきであり、また努力することが出来ます。

 そしてそれは、自分の考えをコントロールできるようにするため、そして明と本当の明察に到達するまで心を訓練し、自分の道の障害物を取り除く行為と同じなので、その人は十分な結果を受け取ります。それはブッダが発見し、教えた「智慧(智)」と呼ばれる明察と明です。(240)

 このように本当の智慧に到達すると、その後心はどの世界の何にも、執着して惑溺することはありません。そしてそのように執着しないので、心はどの世界にも名と形(心と体)を生じさせません。この項目は、この世に生まれなければ、それ以後、この世に生まれた人に生じる苦が現れることはなく、すべての苦が終り、残らず消滅するという意味です。(241)

 これこそがブッダが菩提樹の下で発見したもの、つまり八項目の素晴らしい道(八正道)です。それは、正しい見解、正しい目標、正しい言葉、正しい業、正しい職業、正しい努力、正しい自覚、そして正しい専心です。このすべてをまとめた別の呼び方は、「三つの実践」と言い、体と言葉の行為、そして洞察を生じさせる心の訓練である「戒、サマーディ、智慧」です。(242)




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