第七章 ご慈悲





 川のほとりでチャンナと別れた後、乞食(こつじき)をする出家となったシッダッタ王子は、マガタ国を目指して南へ歩き始め、そしてピンピサラ王が治めるラージャガハという街に到着しました。(147)

 その都で、王子は他の出家と同じように、鉢を持って乞食をして歩きました。しかし人々の目には、普通の出家とは様子が違って見えました。他の出家者といろんなところが違っていたので、特別に良い食事を持って来て王子の鉢に献じました。(148)

 ある程度食べ物が溜まると、王子は良い場所を探して食事にしました。しかし、その日貰った食べ物を王子がどのように感じたか考えてみてください。王子として生まれ、最高級の食ベ物しか見たことがなく、お付きの者たちが至れり尽せりの給仕をしていました。

 粗末な食べ物、しかも一つの鉢で混ざってしまった物など、見たこともありませんでした。鉢の中を覗き込むと吐き気を催し、胃が口から飛び出しそうでした。鉢の中にはいろんな食べ物が何種類も、何が何だか分からないほど交じり合っていました。王子はどうしてもそれを食べることができず、食べずに捨ててしまいたいと思いました。(149)

 しかし王子はそのような考えを抑え、次のように考えました。

 「シッダッタよ。お前は偉大な王の宮殿で生まれた。食べ物はすべて、望み通り上等な物ばかりだった。ご飯も上等な物だったし、汁や料理も上等な物がいっぱいあった。しかしその食事をせずに、家も無く、慈悲深い人が恵んでくれる食べ物をもらって食べる修行者になる固い決心をした。

 今はもう家のない修行者だと思っているのに、食べ物を捨てようとしている。そういうのか。家のない修行者が食べる、人から貰った食べ物を食べたくないと思っている。お前は、そうすることがふさわしいと思うのか」(150)

 王子は多くの出家の習慣に従って、自分の心を乞食の生活にふさわしく調整するために、さまざまな理由を上げて自らを説得しました。葛藤の末、王子は頑なな思いあがりに勝利し、一鉢に入れられた食べ物を嫌う気持が消えました。そして静かに落ちついてその食べ物を食べ始めました。その後も同じような物を食べ続けなければならないことを、苦に感じることもありませんでした。(151)

 その頃ラージャガハの人々は、その朝托鉢に現れた新顔の出家について、その並外れた優雅さ気高さは普通の出家とは比較にならないと、しきりに噂していました。噂はたちまちに広がり、ピンピサラ王の耳に届いたので、王は人を遣わして、見慣れない人が誰なのか調査させました。(152)

 王の遣いは、ほどなくシッダッタ王子についての情報をすべて知ることができたので、王宮へ戻り、その修行者はサーキヤ族の王の長男で、王太子でありながら老病死から人間を救う方法を探求するために、すべての物を捨てて出家して比丘になった人ですと、王に告げました。(153)

 そう聞いたピンピサラ王は非常に驚きました。そのように一般の教えを超えた不可思議なものを探求するために出家した人など、見たことも聞いたことも無かったからです。しかし聞いてみると、非常に尊くあり有難いように感じ、真実文武に長けた王子にふさわしく、そして実現できそうなこと、成功しそうなことだと思いました。(154)

 王はシッダッタ王子に会いに行き、どうかこの都に留まって、王子が目的を叶え易いように、王に食事やその他の世話をさせてくれるようお願いしました。しかしシッダッタ王子は、探し求めるものに出会うまでは、どこであろうと一ヶ所に留まることはできません、と言って辞退ました。そこで王は、王子が探求しているものに到達したら、真っ先にこの都を訪れて、王や領民たちに教えを説いて救ってくれるよう、お願いしました。(155)

 シッダッタ王子はラージャガハの街を出ると、真っ直ぐにいろいろな仙人や修行者が住んでいる、山深い田舎に向かいました。王子はそれらの人々から教えを受け、そして真実の人生、死、そして凶悪な物、つまり命に関わる苦に完全に勝利するために、それらに関する真実を知りたいと望みしました。(156)

 王子が道を歩いていると、山の方から立ち込めた埃が降りて来て、たくさんの動物のひづめの音が聞こえてきました。近づくと、雲のように立ち込めた埃の中から、大きな羊の群れが出てくるのが見えました。哀れな動物の群れは、都に向かって追い立てられていました。長い列の最後尾に、一匹の子山羊が脚に怪我をして血を流し、痛そうにびっこを引きながら群れの後を追っていました。(157)

 王子はこの子山羊を見て母山羊の様子を観察すると、まだ他にも子山羊がいるので、あちこち心配な様子で歩みが滞りがちでした。王子の心は哀れみがいっぱいになり、子山羊を抱き上げると、群れの後をついて歩きました。「哀れな動物よ。私は山の上の仙人たちに会いに行くところだが、お前の苦を減らしてやるのも、山の上で仙人たちと経を唱え、バーヴァナーするのと同じ善だ」と言いながら。(158)

 群れの後を山羊飼いが歩いているのを見て、夕方放牧地から戻るのではなく、こんな昼の時刻にどこへ向かって追っているのかと尋ねました。その人々は、今夜の王様の大祭祀に供えるために、昼のうちに山羊と羊を百匹ずつ都へ連れて行くように、ずっと前に命令があったので、命令に従っていると答えました。王子は「私も一緒に行こう」と言って、常に小さな子山羊を腕に抱いたまま、山羊の群れについて歩きました。(159)

 渡し場まで来た時、一人の女がまっすぐに王子に近づくと、恭しくお辞儀をして、「私の素晴らしい王子様、どうぞ私にお慈悲をください。死を治すことのできる菜種はどこにあるのか教えてください」と言いました。王子の怪訝そうな様子を見ると、「王子様、お忘れですか。昨日都で、私が死にそうな重病の子供をお見せして、一人子なので死なないようにする薬についてお尋ねしました。

 その時王子様は、私が、誰も死人を出したことの無い家から黒い菜種を見つけてくれば、助けられるかも知れないとおっしゃいました」と言いました。(160)

 シッダッタ王子は微笑み、穏やかな声で言いました。「それであなたは、その菜種をもう見つけたのですか」。女はひどく悲しそうな顔をして、「いいえまだです、王子様。私はどの家もどの家も探したのに、まだおっしゃるような菜種は見つかりません。そして誰もがやると言うのですが、私が、まだ一度も死人を出したことが無い家の菜種が欲しいと言うと、その人たちは「お前はおかしなことを言う」と言います。

 その人達の家はどこも死んだ人がいると言います。何人も死んでいる家もあり、奴隷が死んだという家もあり、父が死んだと言う人、母が死んだという人、息子が死んだという人、娘が死んだと言う人、どの家もみな、誰かが死んでいます。だから私は、そのような菜種はどこでも探すことができません。一人息子が死ぬ前に、私はその菜種を探します。死人を出したことの無い家はないのでしょうか」(161)

 王子は、すすり上げ始めた女に答えました。

 「あなたは自分で言ったではありませんか。死人を出したことの無い家はないと。あなたは自分で真実を見つけました。このような苦は、世界中であなただけにあるのではないことが分かったでしょう。世界はあなたと同じ理由で泣く人ばかリだということが、自分で分かったでしょう。さあ、家へ帰って、死んだ息子の遺体を埋めなさい。私は、あなたとすべての人の悲しみを鎮めるものを探しに行きます。もし見つけたら、ここへ戻ってきてそれをあなたに説いて教えます」。(162)

 シッダッタ王子は、刻々と死が近づいている山羊について都まで行きました。そして大祭祀が催される王宮へ行くと、神々に祈祷をしているバラモンたちの列に並びました。その時祭壇に火が灯され、バラモンたちは、今到着したばかりの動物を生贄にする準備をしました。バラモンの長が、最初に連れてこられた羊の頭を切り落とそうと刀を振り上げた時、シッダッタ王子が前に進み出てそれを制しました。(163)

 王子はピンピサラ王に向かって言いました。

 「お止めください王様。これらのバラモンたちに、哀れな動物の命を奪わせないでください」。

 そう言うと、王子が何をするのか誰も分からないうちに、王子は急いで羊を繋いでいた縄を切り、群れの中に帰しました。王子が動物を解き放つのを止めようと、誰一人、王も、祭りをとりしきるバラモンの長でさえも考えませんでした。それと言うのも、王子の神々しさと気高さが、その場の人々の気持を捕えてしまっていたからです。(164)

 王子は、王と儀式を執り行うバラモンと、それから祭儀を見に来ている人々に、命というものは非常に不思議なもので、誰でも命を奪うことはできるが、一度失われた命は、誰も元通りに戻すことはできないと教えました。王子は「生きている物は何でも、人間と同じように自分の命を愛し、死を恐れています。なのになぜ人間は、生老病死の友である動物が愛している命を、非常に不思議な物である命を、力で奪おうとするのでしょう」と、周囲を取り囲んでいる人々に言いました。(165)

 「人が慈悲を受けたいと望むなら、慈悲を与えるべきです。人間が命を奪う者であるなら、世界を支配している自然の法則によって、報いとして命を奪われます」。王子は人々に尋ねました。「血を楽しみ、血に喜びを求める王は、本当に善い王ではないのではないでしょうか。他者の苦や命に喜びを見出す者は、王というより悪霊ではないでしょうか」。(166)

 「自分が将来幸福になりたいと願うなら、どんなに下等な動物をも苦しめるべきではありません。困苦や憂悶の種を蒔く者が、その結果を刈り取らなければならないのは、疑うべくもありません」と結論しました。(167)

 シッダッタ王子は王と、儀式を執り行うバラモンたちと、ラージャガハの人々に向かって、以上の言葉を、真実慈悲に満ちた穏やかで丁寧な、しかし王とバラモンたちの心を変えるほど、強さと威厳に満ちた態度で言いました。(168)

 その時から王は、領内で動物を生贄にする祭儀を禁ずる命令を出しました。動物の命を奪わない、花や果物や菓子などを供えるだけの儀式にさせました。(169)

 ピンピサラ王は、もう一度シッダッタ王子に領内に留まり、みんなに動物への慈悲を教えてくれるようお願いしました。王子は王の好意に感謝を表明しましたが、「まだ探しているものが見つからないので、どこか一ヶ所に留まることはできません。これから知識のある哲学者たちを訪ねて、あちこち旅をします」と答えました。(170)




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