第五章 倦怠





 王がどれほど王子の周辺を整えても、そしてすべての苦を排除し、王子がほんの僅かな苦を感じることもないようにしても、シッダッタ王子は、王が期待したような幸福を少しも感じませんでした。出ることを禁じられている城壁の外に何があるのか、知りたいと思いました。(74)

 王子が城壁の外の物に関心をもたないように、王は宴や楽しい行事を催しましたが、効果はなく、そのように閉じ込められた生活に、ますます不満がつのるばかりでした。王宮の暮らしは非常に陽気で楽しさに満ちていましたが、城壁の中にいるより、城壁の外を知りたい、王族でない子供たちはどのように暮らしているのか知りたいと思いました。そういうものが見られなければ少しも幸せではないと、繰り返し父王に言いました。(75)

 そんなある日、城壁の外のものを見たいという王子の懇願に負けて、王は「いいだろう。城外へ遊びに行って、領民がどんな暮らしをしているか見てきなさい。しかし私のたった一人の愛する息子の外出にふさわしいよう、父がいろいろ準備してからにしなさい」と言いました。(76)

 王は領民に、王子が都を視察する日を知らせ、どの家も清潔に拭いて掃除をし、外壁を塗り替え、三角旗を飾り、窓や扉などに房飾りをし、窓や扉の上は花を飾り、できる限り美しく清々しくするようにお触れを出しました。

 誰も路上で自分の仕事をしないよう、盲人や体に障害のある者、すべての病人、老人、ライ病などの者は、その日は戸外へ出ず、王子が通過する間は家の中に篭っているように厳命しました。若い元気な者、健康な者、明るく幸福な者だけが外へ出て王子を迎えるよう命じました。他にも、当日は死体を担いで墓へ運ぶことを禁じ、翌日まで家に置いておくよう命じました。(77)

 領民全員が王命に従い、道路を掃き、水を打ち、家々を白い塗料で塗り、花輪で美しく飾り、自分の家の前を垂れ下がる花房で飾り、王子が通る道の両側の木は、色とりどりの帯で飾りました。彼らは王子の目に、この都が人間の世界ではなく、天国の天人の都のように見えるよう、できる限りのことをしました。(78)

 すべての準備が整うと、シッダッタ王子が外出しました。王子は美しい馬車に乗り、領民の明るい微笑みが待っているいろんな道を通って、いろんな物に視線を投じました。領民誰もが、王子のお出ましを喜びました。中には立ちあがって一斉に「万歳。勝利は王子様に」と叫ぶ者もいました。王子の馬車の前を先導しながら、花びらを撒く人たちもいました。(79)

 王は領民たちがこのように厳格に王命に従ったことを非常に喜び、王子が都を見て歩き、このように明るく楽しく美しい物を見て、必ずや満足し、妙な考えは已むに違いないと考えました。(80)

 しかし王が綿密に練った計画は、思いがけず失敗に終わりました。ぼろ布をヒラヒラと身にまとっただけの白髪の老人が、よろよろと通りへ出て来て、誰も気づかず、止める間もありませんでした。顔はしわと老人斑だらけで、目は濁ってベタベタし、口には歯が一本もなく、腰が曲がり、骨を皮で包んだだけの手で杖を持ち、倒れないように寄り掛っていました。

 他の人たちには頓着しない様子で、口では何かぶつぶつと呟きながら、よろけた足取りで必死に歩いて道へ出てきました。老人は、あと一日食べ物を口にできなければ死んでしまうほど飢えている様子で、通行人に食べ物を乞うていました。(81)

 そこに居あわせた誰もが、王子の初めての外出の日に、道へ出てはいけないと王命が出ているにも関わらず、大胆にも道へ出て来たその老人を、非常に憎々しく思いました。人々は、王子の目に触れないうちに、急いで老人を抱えて、家に連れ戻そうとしました。(82)

 しかしその人たちの動きよりも早く、王子はその老人を見てしまいました。王子は老人の様子を見てびっくりし、何とも言いがたいものを感じ、横に座っているお気に入りの御者であるチャンナに尋ねました。

 「あれは何だ、チャンナ。人間でないに違いない。なぜあれほど曲がってしまったのだろう。なぜ私やお前のように真っ直ぐに伸ばさないのだろう。なぜあんなに震えているのだ。なぜあの者の頭は奇妙に真っ白で、私たちのようでないのだ。あの目は何だ。あの者の歯はどこへ行ったのだ。生まれた時からあのような者もいるのか。あれはどういうことなのだ。教えてくれチャンナ」。(83)

 御者のチャンナは、王子に言いました。

 「王子様。あのような者を年寄りと言います。生まれた時からあのような訳ではございません。生まれた時は他の誰もと同じです。初めは体が真っ直ぐで丈夫な若者でした。髪は真黒で目は澄んでいました。ですが長く生きているうちにああなるのでございます。王子様はあのような者を気になさらないでください。あれは年寄の話ですから」。(84)

 「どういう意味だ、チャンナ」。王子が聞きました。「あれは普通のことだというのか。この世に長くいる者はみんなあのようになるのか。そんなことはあるまい。私はあのような者を一度も見たことがない。老いるとはいったい何だ」。(85)

 「王子様、この世の者は誰でも、長生きすればみんなあの者のようになります。逃れることはできません」。(86)

 「誰でもか、チャンナ。お前もか。私もか。私の父も妃もか。誰でもあの者のようになるのか。歯はなく、髪は真っ白なあの人のように。真っ直ぐに立つことができず、腰が曲がって体が震え、動く時には杖を使わなければならない、あの人のようになるのか」。(87)

 「左様でございますとも、王子様。この世の人は誰でも、長生きすればあの人のようになります。避けることはできません。それが老いというものです」。(88)

 王子は、すぐに王宮へ戻るようチャンナに命じました。それ以上見て歩く気分でなくなりました。美しく飾られた街で、領民たちの明るく楽しい様子を楽しむことができなくなりました。一人になりたい。一人きりになって、王子が初めて遭遇した恐ろしいものに関する問題を考えたいと思いました。

 今は王子であり、王太子である自分も、王子が愛している誰もが、いつか力が尽き、命の輝きがすべて消える。必ず年を取らなければならないし、防ぐことはできないのだから。誰でも、どこの人でも、金持ちも貧乏人も、権力者も不運な人も、例外なくすべて同じようになるのだから。(89)

 王子は王宮に戻り、従者たちが準備したご馳走を出しても、いつかは必ず老いなければならないという思いが消えず、すっかり心が支配されていたので、食べることができませんでした。食膳が下げられ、踊り子や楽隊が歌や踊りを献上しても、王子は見ることもできず、音楽を聴くこともできませんでした。これらの娘の誰もがいつかは老いる、誰でもそうなる、一番美しい女性も、一番歌の上手な人も逃れることはできない、という思いに、常に心が支配されていたからです。(90)

 間もなく、楽団や踊り子を下がらせ横になりましたが、王子は眠ることができません。一晩中目が冴えて、考えるのは、王子と最愛の妃が、将来いつか二人とも老いて、昼間見た人のように白髪頭になり、顔は醜くしわだらけに萎れ、歯が抜け、吐き気を催すような状態になり、お互いに相手を喜ばせることができなくなる、ということばかりでした。(91)

 そこまで考えると王子は、この世のたくさんの人々の中に、凶悪なもの、つまり老いから逃れる方法を考えた人は一人もいないのだろうか、という疑念が生じました。そればかりか王子は、もし他のことを全部止めて、すべての力と考えを傾け努力に努力を重ねたら、自分のため、ヤショーダラ妃のため、父王のため、世界中のすべての人のためになることを発見することはできないだろうかと考えました。(92)

 路上で起きた出来事を逐一王に報告した人がいたので、王は非常に残念に思い、その晩は、王も眠ることができませんでした。王子の心を、その考えを止めさせなければ、疑うまでもなく、王子は世を捨て、出家して仙人か、行方定めぬ修行者になってしまうにちがいありません。その考えを感化する別の方法を考え始めました。(93)

 王は他の楽しく夢中になれることを幾つも探して王子に勧めましたが、それまで同様、どれも効果がありませんでした。若い王子はそういうことにまったく関心がなく、反対に、みんなが普段見ている日常の暮らしを見ることができるように、もう一度一人で誰にも知らせず都へ行かせてくださいと懇願しました。(94)

 王は初めは許したがりませんでした。王子がもう一度外出して、金持ちにも王家にも生まれなかった普通の人々が、食べるために絶えず眉から汗を垂らして稼いでいる暮らしを見れば、老仙人が予言したことは確実に現実になり、シッダッタ王子が王位を継ぐことはないに違いないと恐れたからです。(95)

 いずれにしても王は、王子に外出させて見たい物を見せなければ、王子は幸せではないと良く分かっていました。父親の情と、息子に対する愛と憐れみで、どんな結果になろうと、王自身は望まなくても、仕方なく、願いどおり王子の外出を許しました。だから王子は、望ましくない物を見せないために築かれた城壁の外へ、再び外出する機会を得ました。(96)

 今度は馬車に乗らず、徒歩で出掛けました。王子は良家の子息の服装をし、チャンナ以外には供を連れず、チャンナもいつもとまったく違う格好で、誰が見てもチャンナと分からないようにし、そして王子であることも分からないようにしました。(97)

 今度は王子を歓迎する人々はなく、美しい花や房の飾りもなく、色とりどりの三角旗もありませんでしたが、暮らしに関わるいろんな仕事で大わらわの人々が溢れている、普段の街の様子を見ることができました。(98)

 通りすぎた所では、鍛冶屋が道端に金床を置いて、大きな鎚で鋤や鎌、あるいは荷車の車輪を作るための鉄を打っていました。お金持ちの家では宝石職人や飾り職人がいろんな装身具を作って売っていました。染物屋がいっぱいある通りもあり、鮮やかな色の布を干していました。またある所は菓子屋がいっぱい並んでいて、菓子職人が菓子を作っていました。出来上がったばかりの菓子を買おうと待ち受けている人に、売っている店もありました。(99)

 その時王子は、多くの人々が自分の仕事に勤しんでいる姿を見るのが楽しく、疲れも見せず愉快そうでした。しかし突然、興味深いいろんな物を見る楽しさを、すっかり消し去る出来事が起こったので、心は萎縮し、深い悲しみが溢れ、今回も、急いで王宮へ戻らなければなりませんでした。(100)

 王子がいろんな通りを歩いていると、あまり遠くない所から、繰り返し助けを求めるような声が聞こえてきました。何があるのかと王子がそちらを見ると、埃の中に男が寝ていて、奇妙に体をくねらせていました。顔や目や体には、紫色の汚い斑点があり、立とうとする度に目玉をグルグルさせ、体を支えるために全力を注ぎ、やっと立ち上がったと思うと、その度に強く体を投げるように倒れました。(101)

 慈悲深い王子の性格で、すぐにその男に駆け寄って立ち上がらせて座らせ、頭を王子の膝に凭せ掛けました。男が少し楽になったのを見ると、どこが痛いのか、なぜ立ち上がれないのか尋ねました。男は答えようとしますが、話すことができません。息に声を出すだけの力がないので、諦めてしまいました。(102)

 チャンナが急ぎ足で追い着くと、王子が尋ねました。

 「チャンナ。この人はどうしてこうなのか教えてくれ。この人の息はどうしたのだ。なぜ私の質問に答えないのだ」。(103)

 チャンナはビックリして答えました。

 「王子様、このような人に触れてはいけません。これは病人です。血が特別なのです。この人は黒死病(ペスト)です。いま体中に燃え広がり、呼吸さえ苦しく、しまいには呼吸もできなくなります」。(104)

 「他の人もこうなのか。私もこうなるかもしれないのか」。王子が尋ねました。(105)

 「こういう人に近くで触れば、王子様だってこうなるやもしれません。どうぞその男を下ろしてください。触ってはいけません。王子様にうつって、王子様が病気になるといけませんから」。(106)

 「黒死病の他にも、このように怖しいものはあるのか、チャンナ」。(107)

 「まだまだいろんな種類がございます。どれもみな苦しいばかりです」。(108)

 「誰も治せない病気なのか。人間が治すことができないのに、人間はこういう病気に罹る。おかしいではないか」。(109)

 「さようでございます王子様。いつ病気になるか、誰も分からないのです。誰がいつ病気になるか分からないのございます」。(110)

 「誰でもなのか、チャンナ。王族たちもか。私もなのか」。(111)

 「さようでございます。王子様でもなるかもしれません」。(112)

 「もしそのようなら、この世の人はみんな、いつでも恐怖があるに違いない。今夜寝て、明日目覚めた時にはこの人と同じ病気になっているかもしれないのだから。そうなのか、チャンナ」。(113)

 「王子様、本当に左様でございます。この世の人は、いつ病気になるか誰も分かりません。そして酷くなれば死にます」。(114)

 「死ぬ? どういう意味だ。変わった言葉だ。チャンナ、死とは何だ」。(115)

 「王子様、ご覧ください」。(116)

 チャンナが指差す方を見ると、小さな集団が泣きながら道を歩いてくるのが見え、その後ろに、寝たままカチカチに固まった人を載せた木の板を、四人で担いでいるのが見えました。上に寝ている人は頬がこけ、口をだらしなく開け、一言も喋りません。担いでいる人が強く揺らしたり、躓いたりしても、一言も文句をいいません。(117)

 一行が目の前を通りすぎる間、王子は立ち止まって見ていました。なぜみんな泣いているのか、板の上で寝ている人はなぜ、もっと静かに歩くように言わないのかという疑問がわきました。そしてそれより不思議に思ったのは、その集団が少し行った所で、積み上げてあった炭の上に寝ている人を下ろし、火を点けたことです。恐ろしいことに火がどんどん燃え盛っても、頭や足が燃え始めても、焼かれている人は静かに寝ていました。(118)

 王子は震えた声でチャンナに尋ねました。

 「あれは何だ、チャンナ。なぜあの人は寝たまま焼かれているのだ」。(119)

 「王子様、あれは死んだ人です。足があってももう歩くことはできず、目はあってももう見ることはできず、耳があってももう何も聞くことはできません。あの人はもう、火でも雪でも、熱さも寒さも何も感じないのです。もうすべての感覚がないのです。死んでしまったのです」。(120)

 「死んだのか、チャンナ。死とはこれのことか。国王の息子である私も、あの男のように死ぬのか。父やヤソーダラーや、私が愛す誰もが、いま焼かれているあの貧しい人と同じに、いつかは死ぬのか」。(121)

 「はい、王子様。生きている者は誰でも、いつかは死にます。防ぐことはできません。何も変わらない物はありません。誰も死の訪れに抵抗できる人はいません」。(122)

 王子は呆然として黙ってしまいました。すべての人を支配している凶悪な死から逃れる術がないということは、何と恐ろしいことだと感じました。王も、王の子も死の威力から逃れることができないというのですから。王子は黙り込んだまま王宮へ戻ると、まっすぐに城の部屋に向かい、何時間も一人きりで、その日見たことについて考えていました。(123)

 「この世の人は誰でも、いつかは死ななければならないというのは恐ろしいことだ。それを防ぐ方法もないとは。チャンナがそう言った。しかし、それらから逃れる方法が必ずあるに違いない。私は何としてもその方法を探し出そう。自分自身のため、父上のため、ヤソーダラーのため、そしてすべての人々のために、逃げ道を探そう。恐ろしい物、つまり老いと病と死の威力の下にいる必要のない方法を、私は必ず探し出す」。(124)

 別の機会に王子が馬で城外の庭園へ出掛けた時のことです。出家者の着る渋染めの衣をまとった人に出合いました。王子がその出家の様子を深く観察すると、心の中は穏やかな幸福で満ちていることが推測できました。そこで王子は、これらの人の行動や生き方についてチャンナに尋ねました。(125)

 チャンナは、これらの人々は苦を消滅させる物を探すために世を捨てた「世捨て人」と言います、と答えました。王子はこの言葉を聞き、喜びに震えました。そして庭園のある場所に座って、一日中楽しく過しました。その間中、王子の心は家を出ることに傾いていました。(126)

 王子がたった一人で座って考え事をしていると、妃が美しい子供を産んだと報告する者がいました。しかし王子は少しも嬉しそうな様子を見せず、反対にぼんやりと小さな声で「首枷ができた、首枷ができた」と洩らしてしまいました。王子がその日そう言ったことから、命名の日に集まった人たちは、生まれたばかりの王子の名前を首枷(ラフラ)と名づけました。(127)




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