第十六章 神通力





 世尊が比丘たちと一緒にあとこちの田舎へ遊行すると、人々は連れ立ってブッダを見るため、ブッダのダンマを聞くために集まって来て、大勢の人がブッダとブッダのタンマに帰依し、世尊の弟子になりました。同時に、他の宗教を説き、いろんな方法で人々を帰依させる教祖も多数存在しました。

 それらの教祖たちは、時々奇跡と呼ばれる普通でない奇妙なことを見せて、人々を驚かせました。たくさんの人はそれらの行為を信じて賞賛し、それらの教義を待ちうけて聞き、その教祖の弟子になるのがほとんどでした。(351)

 そのような出来事を見たたくさんの比丘たちが、世尊にも他の教祖がやっているように、人々を信仰させ弟子にするために、神通力と呼ばれる不思議な現象を人々に見せてくださいとお願いしました。ブッダはその比丘たちに、そのような神通力や不思議な現象で人々を騙すのは恥ずかしいことだと言いまいした。しかしブッダは、別の本当の奇跡で人々を摩訶不思議な気持にさせることができました。(352)

 ブッダはそれらの比丘たちに言いました。

 「すべての如行が起す神通力は一つだけです。つまり、人々が煩悩と欲望に包まれていると見れば、人々に煩悩や欲望を捨てさせ、大衆が怒りと復讐の奴隷に陥っていると見れば、人々を怒りと復讐の奴隷から開放させ、人々が無知と愚かさで盲目になっていると知れば、彼らを真夜中の闇より深い無知と愚かさから脱出させます。比丘のみなさん。私が行なうのは、このたった一つの奇跡だけです。誰もが嫌い軽蔑する、別の神通力を起こそうとは思いません」。(353)

 ある時ブッダに「ビンドーラさんは他の阿羅漢より非常に神通力があり、モッカラーナさんと並ぶことができますね。誰かが神通力を試すために高所に置いておいた鉢を、浮き上がって取って来ることができます」と言う人がいました。ブッダはビンドーラのそのような行為を快く思わず、ビンドーラに鉢を持って来るよう命じました。ビンドーラが鉢を持って来ると、比丘たちの前でその鉢を小さな破片になるまで破壊するよう命じました。

 そして、今後そのような奇跡で一般の愚かな人々を騙して信仰させる行為を禁じ、人々を信じさせるために規律に反してそのような行為をした者は、ブッダあるいはすべての比丘たちと一緒に住むことはできないと言いました。比丘は人を信仰させるため、あるいは何らかの寄進をさせるために、決して奇跡を見せてはならないこの規律は、仏教の重要な規律の一つとして受け継がれています。(354)

 ブッダは、普通の人々が溺れてしまうような奇跡を使って信仰させることを望まれませんでした。それでも人々は、ブッダは最高の教祖であると感じ、ハッキリと分かり、ブッダに敬意を表し信仰する人はどんどん増えました。そして至る所で、必需品の寄進がそれまでより非常に増えたので、他の教義の弟子たちはそれを見て、不満に感じました。(355)

 ある時ブッダと比丘たちはゴーサンピーの都へ行きました。そこには有名な教祖とその弟子たちがたくさん住んでいて、その弟子たちが一斉に、比丘たちとブッダを信仰する人々を、いろんな悪口や野蛮な言葉で罵りました。

 アーナンダはブッダに、彼らがどこにでも待ち受けていて、特に托鉢の時、比丘たちを汚い言葉で罵ることを報告し、比丘全員でゴーサンピーの都を出て、毎朝托鉢の時に罵られないようにしてくださいと、すべての比丘を代表としてお願いしました。(356)

 アーナンダが話し終わるまで、ブッダは黙って聞いていましたが、最後にアーナンダにこう応えました。

 「アーナンダ。もし私たちが他の所へ行って、そこでも罵られたら、その時はどうしますか」。

 「もしそうなら、また他の所へ行くべきです」。

 「また新しい所でも罵られ軽蔑されたらどうしますか」。

 「また別の所へ行きます、スガタ様」。(357)

 ブッダはしばらく黙っていましたが、非常に柔和な目でアーナンダを見て言われました。

 「ほんの少し、それなりの我慢をするだけで、あちこち移動する苦労はありません。次に行く所が、誰も罵る人がいない土地かどうかは確かではありませんが、私たちが忍耐をすれば、ここをそういう所にすることができます。忍耐をすることで、出家者全員が敵に完勝できます」。(358)

 「アーナンダ。戦場に連れ出された象をご覧なさい。混戦状態の中では体を突き刺されますが、周りから飛んでくる槍や矢などに頓着せず、向かってくる敵陣の中に突進して攻撃し、すべてを踏み潰してしまいます。アーナンダ。私はその象のようにしたい。私はここに、この街にいて、すべての気力と体力で、正しい教えを説き広め、これらの低劣な人たちを、強く囚われている煩悩の囲いから開放させてやる努力を止めません。

 私は、私や弟子たちに浴びせられる敵方の悪口など少しも気にしません。それは天を汚そうとして、天に向かって唾を吐くようなものです。彼らは、唾で天を汚すことはできず、後で自分の顔の上に落ちてくるという事実を知るだけです。同じように、私たちを罵倒する哀れな人たちには、後でその言葉が自分に戻ってきます。私たちはそんなことを気に留めないのですから」。(359)

 ブッダはアーナンダや他の比丘たちの願いを聞き入れず、引き続きコーサムピー国に滞在しました。ブッダの忍耐は、その後間もなく現実となって実を結び、コーサムピーの人々は、ブッダと比丘たちは、他の教義の弟子たちの言葉に一言も言い返さず、賞賛すべき忍耐があると見て、誰もが、誰にも悪口を言ったことがない人に悪言を言った他の教義の弟子たちを非常に嫌い、憎みました。

 多数のコーサムピーの良家の子息たちが、そのようなブッダと比丘たちの行動を称賛し、一斉にブッダの教えを信仰し、出家して比丘になりました。(360)

 いずれにしてもコーサムピーの出家者は、比丘になっても喧嘩好きな性分が直らない人たちもいました。誰の行動の方が正しいとか善いとかいう、つまらない些細なことですぐに揉め事になり、双方の捉え方が違って合意できないので、諍いになりました。

 どちらが正しいか間違っているか決定的な判断をしないで、ブッダは静かに暮らすために争う気持を抑えなさいと言いましたが、双方が強情で諍いを止めようとせず、言い争いを続けていました。ブッダが、喧嘩や争いなどの悪い態度は、小さな見解の違いというより過ちや悪が原因であると教えても、意に介しませんでした。(361)

 これらの比丘たちがブッダに従わず、忠告を聞こうとしないのを見て、ブッダはそれらの比丘たちを残したままゴーサンピーの都を出発してしまいわれました。ブッダが彼らを置き去りにして出発してしまったこと、置き去りにされた比丘たちは、在家と変わらない喧嘩好きだと知った人々は、そろって托鉢の食事や必需品の支援を止めてしまいました。

 こうした行為は、すぐに比丘たちを反省させることができました。比丘たちは喧嘩を止めて妥協をし、ブッダの忠告をきちんと守ったので、ブッダは、その後一緒に住んで一緒に旅するのを認めました。(362)




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