問 : 彼は、猊下は「心はいつも繰り返している」と教えていらっしゃると言います。

答 : 一人の人の輪廻の初めから、仮定で何劫でも、その人が涅槃に到達して心が消滅するまで、いつも反復している心でないものは何なのですか。しかし仏教では、実体があるもの、あるいは行動をする人と捉えないよう教えています。だから、「涅槃への到達は、到達者なしに存在する」と言っています。つまりあるのは心だけです。常に繰り返していても、自分、あるいは行動する人と執着するべきではありません。苦も心、幸福も心、幸福でも苦でもないのも心、死ぬのも心、生れるのも心等々。

だから私は、心は常に反復していると言います。それがどんな変化をしても、本当は、心は頻繁に生滅しているものでも、(佛教新聞一九三八年四号、二七五ページから三〇八ページで説明しているように)、輪廻があると仮定するなら、その輪が断たれるまでその輪廻の中で反復している人、と仮定しなければなりません。このような状態を不変と呼ばないのは、常に変化しているからです。私が二十年来、人間同朋にこのように口が酸っぱくなるほど言っているのを、サッサタディティ(常見)と規定できるのは、何か必要性に迫られている人だけじゃないですか。

問 : 猊下は、私たち人は取から解脱する心があり、そして自分の解脱を喜ぶと主張なさいますか。

答 : 当然です。私はそのような状態はあると主張します。

問 : ならば猊下は、現世である種の涅槃への到達を主張なさるのですね。

答 : もちろん。

問 : これです。彼が、猊下はディッタタンマニバーナディティだと非難する原因は。

答 : それは、非難している人がこの言葉を理解していない証拠です。これに関した邪見は、愛欲の幸福、初禅、二禅、三禅、そして四禅を、現在の涅槃とするという意味です。私が「人は現世で涅槃に到達することができ、そして満足することができる」と主張するのとは別問題です。そしてこれらの行動(涅槃への到達)は、長い輪廻を必死で繰り返して七転八倒した後、取がなくなった心のもので、どこにも自分はありません。

 あるのは自分、あるいはまだ取がある心の自分だけです。あなたは取が絶滅した類の心を望みなさい。当然心に智慧があれば、自分の取による信仰と愚かさがないことを意味します。私はまだ、みなさんこの種の心をお持ちなさいと主張します。

問 : 私がもう一つ考えるのは、猊下が「これはそれではない」は念処全部の要旨だとおっしゃいますが、なぜ他では、「歩いたら歩いていると知り、立ったら立ったと知り、座ったら座ったと知る」云々とこのように話す人ばかりなのでしょうか。全部こうです。私は、歩いたら歩いたと知るなどというのは、猫でも犬でも知っていると思います。人について言う必要、あるいは念処について言う必要はないと思いますが、違うでしょうか。

答 : それは、あなたが経の言葉を理解していないことが分かります。猫や犬も、あなたが言うように知っています。でなければちゃんと歩けません。しかし猫が知っているのは、本能の話ばかりで、歩けば歩いたと知るだけです。ブッダの言葉は、「今歩いているものは自分ではない。人でもなく、私でもなく、彼でもない。原因と縁のあるものの集まりにすぎず、原因と縁の威力下で動いている」という意味です。正しく言えば、原因と縁の威力で変化して行くので、私が歩いていると捉えるべきではありません。あるいは歩いているあの人この人はいません。

立っていてもこの感覚がいっぱいで、座った時もこの感覚がいっぱいで、寝てもこの感覚がいっぱいで、食べて飲んで排泄等々をしても、このような感覚で満ちているように、ブッダは「歩いたら何が歩いているか知り、座ったら何が座ったか知り、寝たら何が寝たか知り、食べたら何が食べたか知る」(つまり行動があるだけで行動する人はいない)と言ったのを、「歩いたら歩いたと知る、座ったら座ったと知る」と短く唱えました。つまり念処の要旨、あるいは本当の意味です。そして私は、『今歩いている、座っている、寝ている等々のサンカーラの集まり全体は、「それ」ではない』と非常に短くしました。

それはサンカーラ(行)でしかなく、ヴィサンカーラ(無行)ではありません。私たちは躊躇うことなく一心に手放すことに専心します。それができれば、感情(心の概念)、あるいは貪りと怒りの原因であるその感情から生じる受(感覚)を引っ掴みません。猫や犬でもできると非難してはいけません。犬や猫ができるのは、あなたが言ったようなのだけです。あまり言いすぎると、あなたが怒ります。

問 : 私は、仏教教団員は怒らないと、もし怒れば仏教教団員ではないと、常に心で唱え念じています。怒っている人が仏教教団員でないのは、ブッダを囲んで座ることができないからです。ブッダを囲んで座ることができなければ、仏教教団員ではありません。仏教教団員とは、ブッダを囲んで座る人という意味だからです。中にはわざと私に文句を言う人がいますが、私は気づくことができるので怒りません。それで、私の慢性病の治療をしてくださる医師である猊下に怒ったら、私はどうかしてしまいます。

答 : 今私であるヤツ、罵られている私、怒らないよう努力している私。それも多くて、少なくないですね。

問 : なぜでしょうか。

答 : それも本来の心ではないからです。

問 : 丁度良かったです。その言葉も私には理解が難しくて良く分からない言葉です。

答 : どこも理解しにくくは見えません。彼が涅槃は国であり都であり、シヴァ神のいる所、光り輝く水晶などそのようなものだと言うのは、「本来の心」よりも、何よりも理解が難しいです。本来の心は、文字どおりに捉えてください。つまりそれがあれば、まだ貪瞋痴が無いことを意味します。誰でも煩悩は生じたばかりと認めなくてはなりません。あなたが自分は怒らないと信じているのは、まだ本来の心ではないと言います。本来の心には、自分がいると感じる信仰がありません。

問 : まだ感覚がなかったら、心と呼ぶことができますか。

答 : では涅槃は国ですか。だから揃って都と呼ぶのですか。

問 : それは、行きたいと思わせる仮定です。

答 : これも同じように、ほしいと思わせるための仮定です。涅槃を国にする仮定より、何よりぴったりした仮定です。

問 : 「本来の心」は三蔵の中にありますか。

答 : いいでしょう。三蔵が基準とするのを認めた上で、あなたが思うような三蔵からの言葉ではないという言葉を投げ、私もあなたに、涅槃は都というのは、三蔵にあるか質問したいです。あなたが、涅槃は都、あるいは水晶の星やそのようなものと三蔵にあるのを見つけてきたら、私も本来の心という言葉を、三蔵の中に見つけましょう。

問 : 未来が判断する道具です。しかしこの仮定は必要ですか、と伺いたいです。

答 : どんな仮定でも、私たちを仮定から出させる方便になるなら、あるいは簡単に仮定を越えることができるなら、当然非常に必要です。方便、あるいは目的に早く到達できる手っ取り早い方法である仮定を使うなら、私は嫌いません。そしてこの問題は、全部門を開放しなければならないということを忘れてはいけません。つまり自分の仮定だけ正しいと信じてはいけません。他人が仮定したのも正しくなければなりません。この問題に関して、私は門を広く開けているので快適です。宗派はありません。

大乗でも小乗でも、仏教でも仏教でなくても、誰のどんな種類の仮定でも、倦怠、性欲の減退、手放すために利益があれば、勉強している同朋の目に入れ耳に入れてあげたいと思うだけです。人それぞれ合うものが違います。そして学習者は人種を問いません。タンマに人種はありません。ブッダに人種はありません。涅槃はどの民族にも所有権はありません。味見ができるどんな機会にも、「民族のないタンマ」の味を見る機会をもってください。だから三蔵にない仮定の言葉でも、あるいは人種の違う人の言葉でも嫌わないでください。

特に「本来の心」は、あなたが、自分たちの仮定である「涅槃は都」という言葉を嫌わないのと同じようにする方が良いです。その方が、あなたをより本当の仏教教団員にします。つまり傲慢が少なくなり、より公正を愛すようになり、タンマを広めて民族共通のものにする機会が増えます。つまり本当のブッダの望みであり、幾人かの人の見解によるブッダではありません。

問 : 学習のための教えとして、「本来の心」という言葉の意味を定義するなら、どう定義なさいますか。

答 : この言葉は、北の経典にあります。つまり大乗の一派だけ、それに一時代だけですが、他の時代よりも良い結果を生じさせた時代です。彼らはこの言葉の意味を、アサンカタ(無為)、あるいは涅槃と同じに定義しています。違うのは形のものと仮定して規定している点だけです。私たちが涅槃は都と仮定するのと同じようです。しかし教えとして見る意味は他のものより明瞭です。つまり作るものが何もないことを意味します。作るもの、つまり変化がなければ、過去も現在も未来もありません。真実を言えば、「本来の心」、あるいは「中間の心」、あるいは「後の心」はありません。

しかし「本来の心」と仮定で呼んで、学習の基礎にする意味を生じさせます。だから一部の、しかし少なくない聴衆の利益のために、意味で規定しました。「何かが加工することができない心」は、ヴィサンカーラの都であり、ブッダが初めて発見した都です。しかし、ここで言っている「心」あるいは「都」という言葉は、冒頭で述べた涅槃は不死の都、あるいはシヴァ神のいる場所という言葉と同じように、独自の意味があるということを忘れないでください。

問 : 時間になる前に、ブッダダンマの山の説明をなさった第二回の講義について、少し質問させてください。徳と善という言葉を、どうして猊下は完璧に区別する努力をなさるのですか。二つは同じものなのに、あるいは少なくとも同船できるくらい近いものなのに。

答 : あなたも知っているように、私はハッキリしないのは好きじゃありません。それに、文字面だけを捉えません。真実のままを教えにします。熟慮して見れば、一般の仏教教団員が善を積むのは二種類あります。仏教の教えでもそうなっています。

 ある人たちは商取引のように、見返りのために徳や善を積み、そして自分の煩悩欲望と合致する結果を狙います。それは流れに身を任せることであり、際限なく新しい界に転生する成り行きになります。こういうのを私は、「徳」と規定します。もう一つは、犠牲(譲ること)で善を行ない、煩悩を削り、欲望に逆らい、あるいは欲望を炙ります。それは流れに逆らうことであり、滅尽、つまり涅槃になります。

こういうのを、私は「善」と規定します。このように完璧に区別するのは、誰が何を望んでも、初めから正しく知ることができるように、ハッキリ見るためです。本当は徳もいいです。しかし風船のように美しく、善は刀のように美しいです。徳が欲しがり徳しか望まないのは、その人の権利です。遊ぶ風船がある子供のように、誰でも遊ぶものが無いより良いと言います。しかし大人になれば、大人らしい遊びをしたくなるので、非難されないように、大人らしい遊びをする機会がなければなりません。

だから刀で遊んで、草を刈ります。それは本当の子供の遊びより高いので、一緒にはできません。そんな訳で私に、ある集団を奮起させる、あるいは向上するよう刺激する義務があるなら、私はハッキリと区別して、彼らに良く見えるようにしなければなりません。何が何だかよく分からないまま、文字通りの曖昧なままにしておかないで、行動する原則にできるよう説明します。そしてそれらの人たちのために、言葉の曖昧さを防ぐために、徳はこうで、善はこうだと、今言ったように言葉の意味を完璧に規定しました。

特に、「飛んで行きたい」何人でもない人たちと、手短に話すためです。要するに、欲望と煩悩の威力の結果のためにする善は、再び生まれ、徳と言い、欲望や煩悩に撫で回されないためにする善は、二度と生まれなくなり、善と言います。

問 : ではなぜ、この二つは同じ行動なのですか。同じ布施をしても、一人は刀を手に入れ、もう一人は風船を手に入れます。

答 : これは変ではありません。する人の心のレベル次第です。積善(寄付)をして名前を目立つように表示したい人もいるし、非常にたくさん寄付して、名前を出したがらない人もいます。これは初めから、つまりする前から心にあるもの、あるいは心が受け取るものが違うことを表しています。する前も、している時も、大きな開きがあるのは当たり前です。

 一人の僧が将来の職業の役に立つように一所懸命勉強し、もう一人は仏教を伝承するために勉強しても、同じ机に座って同じように勉強しますが、二人の結果は違います。神秘的なものはありません。しかし敢えて答えるなら、初めに言ったように、心のレベルが違うからです。外面の行動は確かではないので、「カンマ」である心を重要と見なければなりません。

 同じビンの酒でも、心臓の働きを良くする薬として飲めば薬と言いますが、酔うために飲めば、「赤銅色の水」と呼びます。洗浄に使ったり、アルコールの代わりにランプに使ったりすれば、また違う形になるのと同じで、固定したものではないので、行動の意図を重要視します。名前だけを基準にして意味に注目しなければ曖昧なので、私は意味を説明し、何人もいないこの学習者の共通の理解にするために線引きをします。

問 : 徳という言葉と善という言葉は、同じ意味で入れ替えて使えるものはありませんか。

答 : タイ語にもパーリ語にもあります。タイ語ではいつでも「徳善」と繋げて呼びます。慣れ、あるいは口癖で、あるいは二つ一緒に言いたいのかもしれません。時と場合によります。たとえば善美、善と美は違います。善でも美しくないこともあります。美しくても善でないこともあります。善で美しいこともあります。離して言うこともあり、くっ付けて言うこともあります。

 代用することもしないこともありますが、両方について言っています。巷の、あるいは世俗のレベルのタイ語で「徳善」という言葉は、寄せ集めて同じ物のように繋げています。しかし言葉の定義の段階、あるいはタンマの完璧な専門用語では、完璧に区別できます。ローグッタラになるのを善と呼び、ローギヤになるのを徳と呼んでしまいます。どんな徳も、ローグッタラ徳と呼ぶことはできませんが、ローグッタラ善は、どこででも呼ばれています。

 善という言葉は、ローギヤ善のように世俗のレベルでも使うことができます。しかしパーリ語を知らない一般の人が簡便なように、ローギヤ善を「徳」とします。パーリ語では、プンヤービサンター    クサラービサンターなどと代用できるように、この二語を一度にまとめて述べているのもあります。

このような時は、「ブッダが今言っているのは、ローグッタラのレベルだろうか」と見なければなりません。もしそうでなければ、ただの徳とします。しかしローグッタラのレベルに言及しているなら、ブッダは同時に二つのレベルの話をしているという意味です。どのようにするかは、つまり徳と呼ぶか、善と呼ぶかはその人次第です。たとえばアングッタラニカーヤ(増支部)のチャトゥカニバータ、バッカ(トライL.23.M.73)に、「チャッタロー メー ビッカヴェー(以下省略)」、

意味は「この四種類の徳と善の原因は、幸福の原因であり、美しさをもたらすものであり、結果として幸福があり、極楽へ行く成り行きになり、望ましく好ましく満足できるもので利益になる。この四種類の幸福とは何だろうか」です。そしてブッダ・プラタム・僧への揺るがない信仰と、アリヤカンタシーラの四種類についても説かれています。あなたは、そのすべての言葉は、極楽、あるいは高くても愛欲の幸福だけを説明していると見ることができます。

このような場合の善という言葉は、疑うまでもなく徳という言葉の中に含まれます。ここでは、まだカーマヴァチャラ(欲界)にいる、つまりまだ愛欲を望む人たちに話しているからです。このような時の善とは、直接世俗の善であり、その後のアヌプッビカター(次第説法)のような段階では捨てなければなりません。

問 : アヌプッピカターとはどんなものですか。

答 : 最初に布施や持戒や極楽を好むように教え、それから極楽の害が見えて、極楽を嫌うように教え、それから極楽に関わらないことに満足するように教えます。この五つの段階を、アヌプッビカター(次第説法)と言います。つまり布施、持戒、極楽、カーマーディーナヴァ(愛欲の不利益) ネーガカンマーニソン(離欲の利益)です。「飛んで行きたい」人たちの間では、非常にたくさん教えられています。

問 : それでは、風船に近いものになったのはどこですか。

答 : たとえばサンユッタニカーヤ(相応部)のサガータヴァッガ(トライ、L,25 N,3)、その他たくさんの場所でそう言っています。ある天人が、私には金言があるのでお耳に入れさせてくださいと言いました。

ウパニヤティ チーヴィッタマッパマーヤン

チャルーパニータッサ ナ サンティ ターナー

エータン バヤン マラネー ペッガマーノー

プニャーニ カジラーダ スカーヴァハーニ

ブッダはそれを聞かれ、「良い。金言と言うことができる」と言われました。しかし、誰の言葉の方が良いか、私のも聞いて見てくださいと言って、ブッダの言葉を言われました。

ウパニーヤティ チーヴィッタマッパマーヤン

チャプーパニータッサ ナ サンティ ターナー

エータン バヤン ナラネー ペッガマーノー

ローガーミサン パチャヘー サンティペッゴー

 天使の言葉は、『命は老いに引きずられ、寿命は短い。老いに引きずられて行く身に、抵抗できるものは無い。死の危険を見たら、急いで幸福をもたらす布施をするべきだ』という意味です。ブッダの言葉は、『命は老いに引きずられ、寿命は短い。老いに引きずられて行く身は、抵抗できるものはない。死の危険を見たら、世俗の餌を捨て、涅槃に注目するべきだ』という意味です。

 ここの「世俗の餌」という言葉は、どこで勉強したマハー(パーリ語の段をもつ僧)の方に訊いても、「徳、あるいはこの世、あるいは過去世で積んだ徳の結果である五欲」と答えます。すべての天人はまだ低い心で徳に埋もれていたがるので、命の危険が見えたら、急いで徳を積まなければならない、とだけ言っています。しかし心が世俗から脱した聖人は、反対に徳への関心を止め、徳から出て涅槃に注目するよう、そして徳の威力を抑えるように言います。

 どうしてかは、徳はもう一度生まれなければならないようにさせるので、また死に遭遇するからです。ね。あなたは「まだ居る」人たちは、世俗の餌を探して食べなければならないと見ることができます。一方「飛んで行く」人たちは、どの世界、人間界、天界、梵天界でも、世界の餌の味の中毒を止めなければなりません。

陶酔の基盤である類の善の最後に極楽があることは、一瞬美しく見せて壊れるので、風船に譬えられると思います。しかし世俗の餌をぶった切る類の善は、刀に譬えるべきです。そして大切して、初めには徳と呼んだ善に使います。「こんなにたくさんある」と徳に酔う人たちの掌中にある時の「徳」と「善」という言葉の複雑さがどれくらいか、何とかあなたに理解してもらえたと思います。

聖人は徳も善も捨てる努力をして、最後には向こう側へ渡ることができます。初めの段階では、徳から善へ移動してください。そしてハッキリ見えるように境界線を引いたら、導火線に火がついたような騒ぎ、中国人の火事騒ぎのようです。滑稽だと思いませんか。三蔵の第一五巻だけでも、「徳は世俗の餌であり、涅槃は世俗の餌の中毒から脱すこと。涅槃が欲しければ急いで徳から離れなさい」と、徳と涅槃が反対であることを対比して見せる説明がいっぱいです。

問 : あと二つ三つ例をお聞きしたいです。

答 : 四ページに、天人が自分の言葉を披露したとあります。

『時は流れ、多くの夜が過ぎ去り、

年齢の順は、当然順に捨てて行く。

死の危険が見えたら、

急いで、幸福をもたらす徳を積みなさい』

ブッダが熟慮させるために言った言葉は

『時は流れ、多くの夜が過ぎ去り

 年齢の順は、当然順に捨てて行く

 死の危険が見えたら、

 世俗の餌を捨てて、涅槃に注目するべきだ』

八ページには、極楽に酔っている一人の天人が、

『輝かしい名誉のトウ利天レベルの天人が住んでいる歓喜園(帝釈天の住まいの北にある御苑)を見たことがない人は、幸福に出合った人と言われない』と寝ぼけたことを言いました。友達の天人が、「あなたは愚かなので、阿羅漢の方々が『すべてのサンカーラは不変ではなく、発生と衰退があるのは当たり前。生じたら消滅する』と言っているのを知らない。これらのサンカーラを静めてしまえば、そうすれば幸福になる」と教えてやりました。

あなたが、すべてのサンカーラという言葉の意味を、正しく理解するよう望みます。つまり原因と縁の威力で回転し循環して行くものすべてを意味します。歓喜園も同じです。ほとんどすべての庶民が知っているように、棺の中で寝ている死体を意味するだけではありません。

九ページには、ある天人が金言を披露したのがあります。

「子供がある人は、当然子供に夢中になり、

牛を持っている人は牛に夢中になる

 私たちが夢中になるのは、ウパディ(依。煩悩の一種)があるから

 ウパディのない人は、夢中にならない」

 ブッダは自分の言葉を披露しました。

「子供のある人は、子供で泣かなければならない

 牛がいる人は、牛で悲しまなければならない

 人が泣くのは、ウパディがあるから

 ウパディのない人は、泣くことがない」

 あなたがウパディという言葉の意味を理解されるよう望みます。ウパディとは、自分があり、自分のもの、他人のものがある、ほとんど好きな物、気に入った物と決めた物質はあると執着させる原因である煩悩という意味です。「急いで幸福をもたらす徳を積むべきだ」という文中の、徳がね、ウパディです。非常に見つけにくく、そして非常に危険ですが、目を騙して風船に見せます。天人はウパディが好きで陶酔し、聖人は反対にウパディを嫌悪します。

問 : なるほど。だから縁日で売っているガスを充填した風船を、「極楽船」と呼ぶのですね。風船の本当にふさわしい意味は、心に虜にする物という意味ではないですか。

答 : 三蔵の同じ巻の一九五ページには、次のようにあります。

「トウ利天レベルも、夜摩天のレベルも、兜卒天のレベルも、楽変化天のレベルも、そして他化自在天のレベルも、すべての天人は、すべて拘束するもの、つまり五欲で縛られているので、悪魔の威力で、全世界が灼熱で、全世界が燻され、全界が燃え上がっていて、全体がグラグラ揺れている世界へ戻らなければならない。悪魔が行かない所は揺れず、グラグラしないので、凡人が遊ぶ所ではない。悪魔よ、私の心はそこを好んでしまった」とあります。この言葉から、風船はどれだけ拘束し、熱く、揺れ、そして凡人が遊ぶ所か、対比して見てください。

問 : 猊下が「徳はウパディだ」と非難なさると、きっとまた誹謗されるに違いありません。

答 : 誹謗されてもいいです。三蔵にお供えできます。第一五巻の三四二ページには、八人もの聖人に献じた徳から生じる徳でも、ウパディに関わるものと見なすと、明らかに説明されています。そしてウパディは業果(報い)としてあるとしています。パーリ語では、『チャッタロー チャ パティパンナー チャッチャロー チャ バレー (以下省略)』とあります。ウパディと呼ぶものは、非常に理解し難いものの一つだと、忠告させていただきます。

問 : そんな……。 猊下は彼らに罵られるのがお好きのようですね。

答 : 罵られることで、「向こう岸の話」であるブッダのタンマを熟慮する人が増えるなら、彼に罵られるのも好きです。万策尽きて、これからどう脚を踏み出したら良いか分からないからです。もう一つ、「非難は計測する道具」と考えたことはありませんか。自分を測って見たくはないですか。何も投資が要らない偉大な勝利、そして二度と負けないことは、罵られることから生じます。

問 : 私には理解できません。それに私の心は望みません。教えにはどうありますか。

答 : あなたが三蔵好きなら、いつものように三蔵を引用します。しかし考えて本当に見えてから信じるよう、個人的に忠告させていいただきます。内容は、

「粗暴なことを言うヤクザな人は、当然それを自分の勝利と見なす。智者は忍耐を自分の勝利と見なす。怒った人に対して怒り返すことは、初めに怒った人より悪い。怒った人に怒り返さない人は、非常に困難な戦いに勝った人と呼ばれる。そして双方、つまり自分の側と敵側、双方にとって利益になる行動をする人でもある。相手が怒ってしまったと知った人は、誰でも双方、つまり自分と敵側の利益を守るために、サティを持って静めなさい。その件に関わる賢くない族だけが、この人は弱虫と考える」とあります。パーリ語の学習者なら、自分で開いて見てください。(三、L.15.N240

問 : 猊下の奉仕が、お望み通りの成功を遂げられますよう、祈念させていただきます。私は、猊下のお名前である「プッタタート」という言葉の意味(ブッダの奴隷という意味)が、ぼんやりと見えて来ました。しかし、常に火事で騒ぐ中国人のように大騒ぎする必要があるのでしょうか。

答 : 私はそのように大騒ぎをするつもりはありません。そして騒ぎを起こすつもりもありません。仏教教団員の個人的なグループ、何人でもない世界で勉強しているからです。騒ぎになったのは偶々です。しかし「何らかの結果のためにわざと騒ぎを起こす人がいる」と言う人もいます。私はどんな理由で騒ぎになっても、いつでも、「向こう岸」の話であるタンマが明らかになるよう願っています。

 騒ぎが起こると、興味を持つ人、そして真実を探す人がいるとあなたも見ているように、(誰かが)悪い意図でしても害はありません。考えれば考えるほど見えるからです。そしてプラタム(教え)は当然、タンマを熟慮する人を護ります。誤りは、必ず誤った人のものになるので、間違いと知ったら、正しくする方法を探さなければなりません。

 そうでなければ成り行き任せなので、誰も責められません。罵られることは心配いりません。誰でも罵られる機会はあります。ブッダも、あるいは命や心が無いもの、たとえば空や雨も、いつも罵られます。しかし私が心配しているのは、私たちタイ仏教教団員の進歩です。このことに同情する気持ちがあるなら、更に高いレベルの真実について考えるように後押しをしてください。

問 : 高いと言うのは、どのレベルを意味しますか。

答 : その後はブッダ・プラタム・僧に依存する必要がなく、自分を拠り所にできるレベルに達す高さです。

問 : それはどんなことを意味しますか。とても怖いように見えます。

答 : 自分があるレベルにいれば、生老病死などの苦があるので、ブッダ・プラタム・僧などに依存しなければなりません。ブッダは、自分が無いレベルまで自分を高めることを知るよう教えています。そうすれば誰も、ブッダ・プラタム・僧に頼らなければならないほど苦しみ、困窮しません。私たちが生老病死のない「向こう岸」へ行ったら、何のために、誰かに依存しなければならないでしょう。

 あなたは、阿羅漢も帰依しなければならないと、あるいは阿羅漢はその後もまだ、ブッダ・プラタム・僧に依存しなければならないと聞いたことがありますか。あるいは(ブッダ・プラタム・僧の)三つともあなたの中にあれば、あるいはそれがあなた自身なら、あなたのブッダ・プラタム・僧への帰依は、二度と拠り所にする必要のない状態になるためではありません。

 あなたやあなたの友達のほとんどが出て行けないのは、その拠り所が理解できないからではなく、行く手を塞いでいるヒマラヤのような拠り所に貼りついているからではないですか。あなたの首は短すぎて、どんなに首を伸ばしてもヒマラヤの峰は越えられません。ここにいれば、際限なく(あなたの見方による)信仰をし続けるだけです。出て行ければ、一旦拠り所を信じて、それから自分が他人の拠り所になります。

 あなたがどちらを選ぶか、誰も強制しません。お願いしたいのは、自分が「行かない」ことを選んだ時、寝転がって、他人が行くのを妨害しないことだけです。その上誰か越えて行く人がいると、その人に腹を立てます。

問 : 猊下がどんなに挑発なさっても、私は決して怒りません。しかし誰にも依存しないレベルまで行くのは、とても怖いです。私はまだ阿羅漢も、あるいはブッダでも何かに依存しているのではないかと疑っています。

問 : 阿羅漢の頭領であるブッダも含めた阿羅漢が、「生が終わり、梵行が終わり、しなければならない用事が終わり、結果のためにしなければならない用事はない」と豪語されています。もしあなたが、阿羅漢の方々が拠り所に依存していると言うなら、何の結果のために依存するのか、阿羅漢にはどんな苦があるのか考えてみてください。

 あの方たちがする最善は、後からブッダを追って来る人の目になるために、素晴らしいもの、世界の主格であるタンマ、あるいはご自身が到達した真実を尊重することだけです。ブッダ・プラタム・僧ではありませんが、野蛮人にも彼らの拠り所はあります。カニにも拠り所である巣穴があり、巣穴へ逃げて行く方法があります。だからすべての生き物は、何かしら拠り所がなければならないと見なさなければなりません。

 高レベルの人間は、ブッダ・プラタム・僧を拠り所にすることを知っています。更に高くなると、ブッダの教えどおり、自分を自分の拠り所にすることを知っています。次にもっと高くなったら、あなたはどうしますか。

問 : 拠り所の信仰は、拠り所へに依存しなければならないことから脱して終わるのですか。

答 : そのとおりです。

問 : もしそうなら、今から拠り所を捨てた方が良いのではありませんか。

答 : あなたにできるなら、その方が確実に良いです。まだ生老病死を怖がる人が、どうやったら心の拠り所をすべて捨てることができるか、試しにやって見てください。生じる結果は、自己欺瞞か、あるいはそれまで依存していたものよりもっと悪い他のものを拠り所にします。

問 : 結局拠り所を完全に捨てるのはどこですか。

答 : すべてのものに実体があると信じる取が無くなる所です。

問 : 取は何によって存在できるのですか。

答 : 根(ね)によってで、根はすべてのものを真実ありのままに知らない無明があることで存在します。

問 : では、徳は無明を無くすものではないのですか。

答 : 人が、美味しい甘さを嫌いになると思いますか。それとも、人は耐え難い痛みを嫌いになると思いますか。徳とは欲界、形界、無形界の高い幸福の名前です。酔えば酔うほど、迷えば迷うほど入り浸って、非常に長い付き合いになります。無明を消滅させるものは智慧、あるいは何が何かを知る「明」で、徳と呼ぶものではありません。だからブッダは、徳も罪も捨て、欲望や取を消滅させることに換え、駆け回るのを止めるよう教えています。今あるだけでも、酔わせるに余りあります。更に変わったものを増やしてはいけません。

問 : 駆け回るのを止めるのは誰ですか。

答 : 風船を割ることができ、刀を持てる人です、駆け回るのを止めるのは。

問 : そうしたら菩薩堂や本堂は減りますか。

問 : それでも、タイだけでも、ブッダ在世時の何千倍もあります。いずれにしても役に立つ菩薩堂や本堂は、刀を持って風船の束は吊るさない人の手腕で今後も存在し続けるでしょう。

問 : 猊下はきっと、とてもご満足でしょうね。

答 : これに関わる必要が無ければ、私は満足です。世界のヒマラヤは今、自然に少しずつ崩壊しています。あなたにはまだ見えませんか。

(終わり)


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