第四章


根律義・根に慎重にすること




 比丘のみなさん。それは木の根元! それは静かな場所!

 みなさん。実践しなさい。

 みなさん、不注意であってはいけません。

 みなさん、後で焦燥する人ではいけません。

 (増支部 サッタカニパーダ他)




 この章の説明であるパーリは次のようです。

 比丘のみなさん。みなさんが更にしなければならない仕事は何でしょうか。

 それは「私はすべての根の門を管理する人になり、目で形を見、耳で声を聞き、鼻で臭いを嗅ぎ、舌で味を味わい、体で接触を感じ、心でダンマーラマナを知ってもニミッタで捉えず、言葉でも捉えない。罪と悪である貪りと喜びは、根に注意しないことが原因で、人に流れて行く。私はそれらの根を塞ぐために実践し、すべての根を慎重に維持する」と、心に留めることです。

マハーアッサプラスッタ 中部ムーラパンナーサ 12巻 499頁 465項



説明

概略

 根律義(インドリサンヴァラ)戒は、四清浄戒の二番目の項目です。根律義は、形・音・味・臭い・接触・心に自然に生じる感覚が、愛させ、満足させ、喜ばせないよう、あるいは自分の心に怒りや恨みや焦燥が生じないよう、目・耳・鼻・舌・体・心の六つを慎むことです。

 この実践項目は、パーリ全般に集めきれないほど引用元があります。ここでは、初めの部分に現れている阿羅漢の後を追うことの教えである、パーリ・アッサプラスッタからだけ引用しています。

 これからパーリといろんなアッタカター(解説書)、清浄道論などの特別なテキストの説明の言葉を集めて、この段階の阿羅漢の後を追う講義をします。この章の項目は次のようです。

1.根律義戒とは何か

2.根律義戒に関わるその他いろいろ



1.根律義戒とは何か




1.根律義戒は、阿羅漢の後を追うことに、どのように必要か

 本来は功徳の部分で述べるべきですが、阿羅漢の後を追うことに更に喜びが生じるために、この問題を取り上げて述べます。

 この問題に答えるために、もう一度チットゥパバーダカンの、「阿羅漢の後を追う希望のある良家の子息は、四つ全部の戒、つまりパーティモッカ戒、根律義戒、命清浄戒、そして断戒などで拭き清め、純潔な戒を維持する人になるので、十憂慮を断つ」という項目を、振り返って見る必要があります。

 上述の要旨は、根を慎むことは、パーティモッカで慎むことに続いて、阿羅漢の後を追う最初の段階で当然必要な仕事であると説明しています。パーティモッカは体と言葉、あるいは粗い部分と直接外部である行儀で、根律義はもう一段階繊細で高い戒で、名の物である心も、この段階の戒で慎重にします。それがサマーディの段階であるべきであっても。

 ダンマの実践の段階に根律義がなければ、パーティモッカサンヴァラは非常に維持しにくく、前進することなど言うに及びません。根律義がなければパーティモッカは消滅するばかりで、前進できません。だから増支部 ダサカニパーダで「比丘のみなさん。何が三不正行の食べ物でしょうか。答えは根に慎重にしないことです」と言われています。(パトマスッタ 増支部)

 根に慎重にしなければ、体と言葉と心の不正が生じて成長するという意味です。阿羅漢の足跡を追うには、純潔に満ちた進歩がなければなりません。だからどの歩みも、段階的に清浄清潔にしなければなりません。

 読者は、ここでは「みなさんが更にしなければならない仕事は」という言葉がある説明であるパーリ(ブッダの教えである経)で観察できます。これは、忠告して気づかせ、前進し続けさせる言葉です。

 「この宗教の智慧ある比丘のすべてのダンマの中のダンマとは、根を慎むこと、足ることを知る、パーティモッカで慎むことで、初歩と見なします」というもう一か所のパーリのように、これらの戒は、初めに過ぎないからです。

 阿羅漢の後を追う人は、避けることで根律義の段階を通過しなければなりません。省略したり、緩めたりしてはいけません。

2.根とは何か

 この段階の阿羅漢の足跡を追うことは、根律義(インドラサンヴァラ)戒という名前があります。サンヴァラとは何で、戒とは何か。この二つの問題は三章で説明し、そこで、この二語だけの説明はしないと述べました。だからここでは、根とは何かという問題だけです。

 根とは何か。物、あるいは種属、長であり自由である大きな物という意味で(ダンマパダ ビックヴァッガ 小部)、ここでは目・耳・鼻・舌・体・心、合わせて六種類です。他では、信仰・精進(五根)などもあり、女性・男性・阿羅漢など(十二根)もあります。すべて同類である物の長である重要な物、あるいは鷲は鳥の長であるように、一分野である義務の中の重要な物を、すべて根と呼びます。

 目・耳・鼻・舌・体・心はどのように重要でしょうか。目などがあるこれらのアーヤタナ(処。気管)の一つ一つ、一分野の十分な根(インドラ)です。つまり形を見ることは当然目に権利があり、声を聞くことは耳にあるなど、良い結果があるか、あるいは衰退してこの分野が悪くなるかは、すべてこの気管の行動次第です。

 あるいはもう一つの例えは、六種類は重要な人が管理し注意しなければならない人を探すのと同じです。もし最高に善い結果をもたらさなければ、最悪の結果を招きます。阿羅漢でなければ、凶悪な強盗になるからです。取り上げて一部を優秀とする重要な物なので、これらの気管をインドラ(根)、あるいは「重要人物」と呼びます。

 ここでの目・耳・鼻・舌・体・心とは何でしょうか。ここではそのような名前の気管と、同時にそのアーヤタナ(六処)に常に義務がある神経と識を意味します。目は眼球と呼ぶ気管と、同時に情報を伝達する神経を意味し、耳・鼻・舌・体も同じ説明です。心は中心、あるいはいろんな感情を受けとって集め、受け取っておく時、新しい話に加工します。あるいは新しい考えになります。

 ここでの心は、考えることができる脳で、その時目や耳に依存しないで、自分の話を加工して喜んだり怒ったりします。話を自分で考える人などが、「もしこのようなら、そのような味があれば喜び、あるいはぶつかって来た人が、そのようにぶつかり返せば、誰も連絡してくる人がいないので、いらいらと怒るなど、喜んだり怒ったりする」と、勝手に欲情して陶酔します。

 目・耳・鼻・舌・体・心の六種類のうち、ここで特に述べるのは眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識です。どの言語でも、当然その話だけの重要な言葉の規定があります。あるいは他の言葉のようですが、特に重要な言葉と呼ぶ、意味に広さの違いがあります。

 目・耳などの、もう一種類の精一杯の呼び方は、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根と言うのもあります。粗く見れば、根と見させるのは心だけで十分と理解でき、その他は情報を伝達する人、あるいは分隊です。どれも心へ行かなければならないからです。

 しかしそのようにしなかったのは、感情、あるいは門と呼ぶ物が六つあるからです。心も感情を受け取ることができる門の一つで、人の考えを加工します。財産狂いの考え、あるいは寝て夢見るのはハッキリ見えます。だから喜びや怒りが生じる門を六つとします。

 門とは何か。それは目・耳・鼻・舌・体・心と呼ぶ器官である物質です。しかし物質である物を意味し、物質を重要とする部分と言います。その器官にある識は含めませんが、名の物(抽象)の部分もあります。ドヴァーラという言葉は普通は門と訳し、いろんな物を受け入れ、排出する所です。門である目・耳・鼻・舌・体・心は、家の門と同じです。

 心も家のようで、いろんな感情は出入りする人で、それぞれの心(全部ではない)は家の主人のようです。この話の比喩はいろんなパーリのテキストで見ることができ、「白アリの塔は、オオトカゲが出入りするための六つの穴がある」とあります。これが体です。

 私たちは外部の五つである目・耳・鼻・舌・体にだけ注意するのでは十分ではなく、内部の門である心も注意しなければなりません。だから門は六つあります。

 パーリ語の門という言葉は、人が番をするべき、注意すべき、維持するべき場所という意味です。注意深く維持しない所はどこでも、当然危険が生じると説明しています。

 そこは門と呼ばれ、人が見守って維持すべき場所と呼ばれます。通常人間の家は注意し、維持しなればならないように、体、あるいはカーヤナガラの門である目・耳・鼻・舌・体・心も、注意深く維持しなければなりません。

 そうでなければ、普通の門に油断するより、更に凶悪な危険を受け取ります。阿羅漢の後を追う人は、心を強盗である煩悩と、すべての睡眠から脱させて安全にするために、家の門より深遠なこの門を維持しなければなりません。


3.すべての門の根を管理するとは、どのような行動か
 アヌルッタ大長老は「滅苦の努力をする人は、最高のサティを、六門の目の範囲のように意識して、その目の範囲についているすべての煩悩を殺す」と述べました。これは阿羅漢の足跡の一つです。

 マハーカッチャーヤナ長老は、「目がまだ良くても盲目のように、耳がまだ良くても聾のように、舌がまだ良くても唖のように、力があっても力尽きた人のように、いろんな話が生じたら死んだように寝てしまいなさい」と述べました。(テーラガーター 小部)

 これは阿羅漢の足跡の一つで、最高に広い意味のある足跡です。目・耳・鼻・舌・体・心に慎重にするだけでなく、すべての苦の出入り口を、固く塞ぐことだからです。

 ブッダ自身、実子であるプラ・ラフラに、「ラフラ。あなたは火のようにバーヴァナー(生じさせる。成らせる)をしなさい。あなたが火のようにバーヴァナーすれば、喜ばしい触、あるいは喜ばしくない触が生じても、あなたの心を支配できません」と言われています。(マハーチュラーフローカヴァーダスッタ 中部)ここでの意味は、火は何に対しても喜んだり怒ったりしないという意味です。

 燠にくべるために持って来る物は、善くても悪くても、清潔でも不潔でも、どのように悪臭でも芳香でも、当然同じように燃え尽きます。人が心をこのように規定すれば、目・耳・鼻・舌・体・心の触は、効力のない物です。

 他のパーリ(ダサマスッタ ボーディヴァッガ ウダーナ)で、プラ・パーヒヤダールチリヤに、「バーヒヤさん。あなたは、形を見たら見たとだけ、声を聞いたら聞いたとだけ、臭いを嗅いだら界だとだけ、味を味わったら味わったとだけ、体に触れたら触れたとだけ、心で感じたら感じたとだけ心に留めるべきです。バーヒヤさん。あなたはこのように心に銘じなさい。
そうすればいつでも、あなたが形を見れば見ただけ、声を聞けば聞いただけ(等々)で、その時あなたはいません。あなたがなければいつでも、その時あなたはこの世界にも、他の世界にも、二つの世界の間にも現れません。それが苦の終わりです」と話されています。
 上記のブッダの言葉は、根に慎重にすることを説かれただけでなく、最高の功徳を説かれています。教えは、根に慎重にすることは戒の段階である低い物でなく、阿羅漢果に到達するまで高くなることができると指摘しています。

 根に慎重にする人は誰でも、内部も外部も、すべての物の無我が見えるまでヴィパッサナーと見え、特別なニャーナが生じ、無我観が生じ、その人は苦の終わりである涅槃に到達します。

 これは、根律義戒にすぎない形を見て平然としていることだけでなく、その平然としている時に、ダートゥであること、形・音・臭い・味・接触・考えが空であることから、形などに依存しているすべての触と受に注目し、述べたように解脱が生じるという意味です。

 「あなた」という言葉がないのは、すべての物を動物・人物・自分・彼と見ないからです。このように見ることは、愛欲・有欲・無有欲を完全に無くすことができるので、どの世界にも、二度と生まれる必要はありません。

 ブッダゴーサ師が著した清浄道論は、直接どのように行動を慎むという説明を述べてなく、根律義をする人の例を集めて述べておきました。話は、

 プラ・チッタグッタ長老は、クルンタカ洞窟に六十年以上住んでいて、その洞窟に描いてある七人のブッダの大放棄の絵を見たことがありませんでした。一団の比丘が遊びに行って見て、その話について問うと、その方は「まだ見たことがない」と答えました。

 顔を上げて何も見たことがなく、一年過ぎたのが分かるのは、洞窟の入り口に、一度キンゴウカンの花の蕊が落ちているのを見るからです。

 王が宮殿での食事に招聘すると、その方は辞退され、最後に王は、都中の乳児の母である女性の乳房を封印し、乳を飲むのを禁止する方便を使わなければなりませんでした。長老は子供たちの命を考え、招聘を受けなければなりませんでした。

 王と王妃が食事を献上し、お見送りをすると、「大王、お健やかに」と祝辞を述べただけでした。比丘たちが、なぜ王妃にも述べないのか尋ねると、そこで見上げて、誰が誰と見ないので「王、王妃」と考えず、王と規定しているだけと答えました。

 一方「根に慎重にしない」と呼ぶ行動を、プラ・ブッダゴーサ師は第一義で詳細に深遠に、状態の描写をしています。師は、学ぶ人が心を翻すよう、そして自分で慎重にすると呼ぶ行動を知るよう目指されました。師が第一義で述べたかなり長い要旨の言葉は、次のようです。

 「慎むことと慎まないことは、普通は目や耳などにあるのではない。形が目に触れた時にサティが生じ、あるいはサティがぼやけた時にある。話はこのように段階的で、形が目の流れになり、バヴァンガチッタが二つの時に消滅する成り行きになるので、その感情を占領する義務をする心が生じる。

 その心が消滅すると、眼識と呼ぶ心が生じる。そうすれば感情を知る心が生じ、感情を熟慮する心、感情を味わい、味を知る心、それぞれが義務をして終わる。

 そして消滅し、それでもまだ、慎むか慎まないかの機会ではない。しかしこれから感情の味を知って心が駆けて行く時、破戒の考えがあり、サティがぼやけ、後で大変なことになると知らずに忍耐できず、あるいは倦怠のいずれか一つが生じる。それが根に慎重にしないことである」。

 「心が根を慎まないよう誘う時、生じた他の心のどの部分の初めも慎まないと言われ、目玉も慎みがないと言われる。(昔の)国の門を閉め、庶民が家や倉の門を閉めても盗族は入ることができ、国中安全でないと言われるのと同じである。心が誘惑される一瞬だけでも、破戒の気持ちが生じれば、他の時のすべての門も慎みがないと言われる。目・耳・鼻・舌・体・心も、全部同じである」。

 この説明で、根である一つ一つの門にある心を管理することを望まれたと見ることができます。しかし目、あるいは目玉である門である根を慎むと言わないで、普通の言い回しで「目を慎む、耳を慎む、鼻を慎む」などと言いました。すべての根の門を管理するという説明は門の管理と呼ばれます。だからすべての根を維持しておくことです。

 もう一つの例を述べると、根律義に関して、私が自分自身を訓練する道具にしている教えでは、感情が触れた時だけ、当面だけ慎む訓練でなく、避けるべきと見たら「敵である感情」に会わせないよう避ける方便があるべきです。そして触れてしまった時はいつでも、何としても勝たなければなりません。この方法は、同時に結果がある方法です。

 「避ける」という最初の方法は、プラ・アーナンダに女性に対して実践するよう教えられた教えで、「会わない。あるいは見ないのが善い。見る必要があるなら、話さない。話さなければならないなら、前もってサティを管理しておきなさい」と言われています。これは、必要がなければ、あるいはその感情に勝てないと見たら、その感情を避ける方が善いということです。

 避けることができるのに、悪い感情と直面するのは不注意であり、今実践中で、まだ最高に至らず、そして本人としては最高に混乱している人にとって、利益のない危険を冒すことです。心はクルクル変わりやすい自然なので、しょっちゅう機会を与えるべきではありません。

 防止しておく方が、後で解決するより良いです。後では往々にして解決できません。あるいは手遅れになります。昔も今も、出家のほとんどは事前の防止を軽く見るので破滅に至ったと現れています。

 それらの感情は、出会ったばかりの時は凶悪な物ではありませんが、時々付き合っていると凶悪になり、隙を見つけると、一瞬心がうっかりするだけで最高に凶悪な危険になる種類もあります。だから予防である回避のほうが、解決するより良いです。必要がなければ、危険になる感情と付き合うべきではありません。「油断は死の道」と言われたブッダバーシタを掴んでおくべきです。

 後者の方法は根、あるいはその感情に勝つことです。つまり根を苦しめて準備しておく訓練をします。世界の言い回しで「十数える」という練習です。毎日目・耳・鼻・舌・体・心に勝ち、習慣にすれば、小さな感情から大きな感情まで、何も大変と感じません。

 そして重要なことは、感情である喜びや怒りに負けた時は、努力して、何としても勝利を取り戻さなければなりません。これをするにはサティは重要です。気づくこと、あるいは自覚がなければ、成功しません。だから実践者は根を苦しめると同時に、常にサティの訓練をするべきです。

 まだもう一つ簡略な、心と同時にする目・耳・鼻・舌・体・心の訓練があります。良い結果があり、あまり勉強する必要はありません。この方法は誰でもいつでも訓練でき、毎日毎日、どの部分の根が、その人にとって問題を起こすか、根次第です。

 その方法は、欲しい物の前で率直に罰を与え、心を苦しめていらいらさせます。口に合う食べ物を面前にした時、満足が蠢いていて静まらなかったら、まだ食べません。「ダートゥ(四界)であり、自分が嫌いな食べ物と同じ汚物である」と熟慮し、欲求が静まって正常になってから食べ始めます。形や声の部分も、同じ方法を使います。

 静まらない心を重く、しばしば罰す方法を探す努力をすれば、自然に正常になります。何でもかんでもしなければならない訳でなく、一つ練習できれば、似ている他の物は、練習しなくてもできます。

 特に出家は、例えば自分の衣を美しいと感じて満足したら、赤い埃で染めなさい。あるいは二度と美しいと感じない方法で染めれば、その後どうしようと、美しいと感じません。音楽愛好家だった人、あるいは音楽好きな人が招かれ、最高の腕前の音楽を聴いて感銘したことがあり、匂いと味に触れてその感覚が静まらなかったら、招待を受けません。

 あるいは受けてしまったら、代理を行かせなさい。そして恥ずかしがらずに自分の気持ちを話せば、間もなくその種の感覚は無くなります。要するに何でも前もって勝ち、勝てなければ、勝つまで苦しめます。

 この食べ物は美味しいと感じたら、水を混ぜます。蚊に怒りを感じたら、怒りが消えるまで蚊に刺させ、怠けは、怠け心が消えるまでその仕事をします。これらはするのが難しくても、そして並外れて見えても、想像以上に良い結果があります。自分に現れなければならない物です。

 つまり自分自身で本当にしなければなりません。そうすれば知ります。この感覚を言葉や推測や比較で学ぶことはできません。すべては努力、忍耐で、どんどん勇敢にしなければなりません。そうすれば最後は石の棒のように動揺しない人になり、本当に砕くことができます。


4.ニミッタ、あるいは部分で捉えないとはどのような行動か

 この二語は、多くのテキストでも簡略に説明しています。たぶんその時代、あるいはその時の言語で簡単に理解し合っている言葉と理解します。師の説明から、ニミッタで捉えるとはまとめて捉えることで、細部で捉えるとは部分ごとに分けてと、簡略に分かります。

 最初に師は例えの言葉を、鰐がパクっと口に入れるようにまとめて捉えると言います。後者はまだ例えが見つかりませんが、小さな魚が部分的に噛みつくようだと思います。師が短く説明した後者は、次のように説明できます。

イ.魅惑的な形を見た時は、自分を管理するサティをもって、ダートゥであり、汚物であるけれど、目を欺く表面を塗ってある空の物と見る方向に注目します。そして不変でないこと、変化、苦に堪えること、その形に隠れている本質がないと見させます。形を見る時、心の中を男性、女性、子供・大人、青年・娘としないで見ます。これをニミッタで捉えないと言います。

 そして目・耳・鼻・頬・顎・手足等々を美しい・醜いと、部分に注目しないのを、部分で捉えないと言います。一般の人間の義務で、その形と交際して連絡しなければならないなら、心を管理して、仕事あ、るいは義務と規定し、ニミッタ、あるいは扇情的な側も、怒りを誘う側も、その部分と捉えません。

 このようにできれば目を良く慎む人、形に勝った人と言われます。この種の人は形に迷わないで、出遭ったすべての種類の形の真実を発見します。

ロ.魅惑的な声や、怒りを誘う声を聞いた時も同じ方法があります。女性の声、男性の声、笛の音、鐘の音などとニミッタで捉えて心を繋ぎ止めません。怒っている声、愛している声、褒めている声、あるいは皮肉る声、低い声、美声などと部分で捉えて規定しません。

 音を出している器官、あるいは物質も、形を見るのと同じ要領で、その声の自然を「ダートゥであり、空の物である」と熟慮して見て、「音がした。音が続いている。音が静まった」とだけ感じます。こういうのを「根である耳を慎む人。声に勝った人。声を真実まで深く感じる」と言います。

ハ.臭いを嗅ぐ時、良い香り、悪臭、鼻を衝く臭い、腐った臭いなどとニミッタで捉えません。そして男性の臭い、女性の臭い、エステ師の臭い、肉の臭い、花の匂いなどと、部分でも捉えません。しかし心の中でその臭いの誘惑、嫌悪などを最高に注目して、平然としていられます。その臭いの、掴むべき無我を見るからです。こういうのを「鼻を慎むことができる人、臭いに勝った人」と言います。

ニ.味を味わった時、生臭い、甘い、酸っぱい、塩辛い、苦いと捉えません。そして部分で、唐辛子の味、塩の味、糖の味等々、混じった味、味気ない味、多すぎるから、少なすぎるから薄味と捉えません。

 あるいは欲しくない物が混じっているなどから、あの人この人が味付けをした、あるいは料理人はあの階級、この階級と規定するなどまで、味とだけ理解し、体を維持するためにだけ適宜に食べる人で、満足や憂鬱は少しもなく、舌に神経がないようにします。

ホ.体に接触があった時は、この接触は柔らかい、固い、滑らかなどとニミッタで捉えず、女性、男性、竹床、マットレスなどと部分で捉えません。接触したとだけ規定し、満足が染み渡らず、あるいは不満でイライラしません。これを体の接触に勝つと言います。

ヘ.心にイメージが生じた時、ニミッタで捉えません。つまりこれは悲しい話、愛の話、うっとりする話、恐ろしい話などという感覚にしません。この人その人が生まれるだけで、これ、それ、この部分は良い、この部分は悪い、利益がない、満足・不満足を生じさせると、部分で捉えません。

 しかし熟慮して、変転極まりないことは受の当たり前で、幸福、苦等々と、常に変化していると見ます。これは感情に勝つことです。

 このすべての方法は、精神異常の人が平然としているのと違います。あるいは仕事をどのようにも損ないません。きっと正常にいろんな仕事をする感覚があり、失敗や損害はありません。静かに安定した冷静さでし、完璧なサティがあります。欲情して恍惚とした心、あるいは根に慎重にしない人の状態である、火のように沸騰した怨みで話し、考え、しません。


5.満足と不満とは何か

 アビッチャナー(貪欲)は特に狙うことで、自分が見た物などを欲しさで狙うという意味で、タイ語で短く「満足」と言います。

 愁苦(ドーマナサ)は悪があるという意味で、自分が見た物などが嫌いで憎悪するという意味です。ここでは短く「不満」と言います。

 二つをまとめてアビッチャナー・ドーマナサと言い、満足・不満足という意味です。一般には喜び、怒りと言います。

 この二つは下品な悪で、すべての種類の悪が、根を慎まない人に生じるので、欲しさを抑えられない時は、機会があると同時に、自分が欲しい物を得るために身不正行、口不正行、意不正行を生じさせる原因である願望で越権行為をします。あるいは機会があるまで努力を続けます。

 不満、あるいは憤怒、怒りも同じです。自分の母親でも殺すことができます。だから下品な悪であり、他の下品な悪を成す原因と言われます。

 満足と不満足、あるいは満足と不満が根源の悪は、当然、その時も、その後も、根を慎まない人に続々と流れて行くので、根を慎むよう教えられました。そうでなければ人生のある時、焼き炙って焦燥させる物である喜びや怒りでいっぱいになります。

 初めからここまでは、説明として取り上げたパーリの系統の「根律義戒とは何か」という問題の説明で、この部分の第一項とします。根律義(根を慎むこと)について説明しなければならない言葉があれば、説明と混乱させないために、説明として取り上げたパーリの系統で段階的に、もう一つの項目を立てます。

 この部に一緒にできる部分があっても、私が後の部に回したら、特別の内容と理解してください。そして後で話ごとに分けて引用すれば、読者のみなさんが規定して憶えるのに便利です。これらの内容を合わせて「根律義戒に関わるその他いろいろ」と言い、項目ごとになっています。




2.根律義戒に関わるその他いろいろ




イ 聖人の律である最高の根律義

 聖人の律の中に、次に引用するプラ・アーナンダに話されたブッダバーシタ(インドリアバーヴァーバナースッタ 中部)のように、当然、最高に根を精緻に静めることがあります。

 「アーナンダ。聖人の律の、最高の根に励むとはどのようでしょうか。アーナンダ。このダンマヴィナヤの比丘は、形を見ても、当然「満足・不満・満足と不満」は生じません。あなたは「これらの満足は作り出した縁があり、粗い物であり、いつでも依存しあって生じる。平然としていることは静まっている物、精緻な物」とハッキリと知ります。

このようにはっきり知ったら、あなたに生じる満足・不満・満足と不満は、当然残らず消滅し、代わりに平然としていることが維持されます。満足はあなたが消滅することの根源で、目を閉じてから目を開けるように、心が平然とすることが簡単に早く維持されています。

 アーナンダ。このダンマヴィナヤの比丘が耳で声を聞くと、当然満足・不満・満足と不満が生じます。あなたは「これらの満足は作り出した縁があり、粗い物であり、いつでも依存しあって生じる。平然としていることは静まっている物、精緻な物」とハッキリと知ります。

 このようにはっきり知ったら、あなたに生じる満足・不満・満足と不満は当然残らず消滅し、代わりに平然とすることが維持されます。満足はあなたが消滅する根源で、力のある人が手を叩くように、心が平然とすることが簡単に早く生じます。

 アーナンダ。このダンマヴィナヤの比丘が鼻で臭いを嗅ぐと、当然満足・不満・満足と不満が生じます。あなたは「これらの満足は作り出した縁があり、粗い物であり、いつでも依存しあって生じる。平然としていることは静まっている物、精緻な物」とハッキリと知ります。

 このようにはっきり知ったら、あなたに生じる満足・不満・満足と不満は、当然残らず消滅し、代わりに平然とすることが維持されます。満足はあなたが消滅する初めで、蓮の葉を少し傾けるだけで葉に置く水が零れ落ちるように、心が平然とすることが簡単に、早く生じます。

 アーナンダ。このダンマヴィナヤの比丘が舌で味わうと、当然満足・不満・満足と不満が生じます。あなたは「これらの満足は作り出した縁があり、粗い物であり、いつでも依存しあって生じる。平然としていることは静まっている物、精緻な物」とハッキリと知ります。

 このようにはっきり知ったら、あなたに生じる満足・不満・満足と不満は、当然残らず消滅し、代わりに平然とすることが維持されます。満足はあなたが消滅する初めで、力のある人が唾を舌先に溜めて吐くように、心が平然とすることが簡単に、早く生じます。

 アーナンダ。このダンマヴィナヤの比丘が体の接触を受けると、当然満足・不満・満足と不満が生じます。あなたは「これらの満足は作り出した縁があり、粗い物であり、いつでも依存しあって生じる。平然としていることは静まっている物、精緻な物」とハッキリと知ります。

 このようにはっきり知ったら、あなたに生じる満足・不満・満足と不満は、当然残らず消滅し、代わりに平然とすることが維持されます。満足はあなたが消滅する初めで、力のある人が、腕を曲げて伸ばすように、心が平然とすることが簡単に、早く生じます。

 アーナンダ。このダンマヴィナヤの比丘が心で感情を知ると、当然満足・不満・満足と不満が生じます。あなたは「これらの満足は作り出した縁があり、粗い物であり、いつでも依存しあって生じ、平然としていることは静まっている物、精緻な物」とハッキリと知ります。

 このようにはっきり知ったら、あなたに生じる満足・不満・満足と不満は、当然残らず消滅し、代わりに平然とすることが維持されます。満足はあなたが消滅する初めで、一日中熱しているフライパンにニ三滴たらした水滴が乾燥するように、心が平然とすることが簡単に、早く生じます。

 アーナンダ。これが、聖人のヴィナヤの最高に根に励むことです。

 このパーリは、有学の人物・聖人と凡夫がどのように違うかと見せる説明です。これらの人の問題は、喜びや怒りを最高に早く消滅させるだけ十分鋭く、あるいは勇敢です。一方まだ非常に「厚い」凡人のほとんどは、気づくまでに喜びや怒りの威力に到達し、他の悪をたくさん作ります。

 阿羅漢である無学の聖人は、喜びも怒りもありません。あるいは二度と根を抑圧する必要はありません。

ロ.有学僧の道は、形などに満足することを嫌う

 通常有学僧の心の部分の道は、形を見ることなどによって生じる満足、あるいは不満に対して吐き気を催します。同じスッタで、次のように言われています。

 「アーナンダ。このダンマヴィナヤの比丘は、目で形を見ると、あるいは耳で声を聞くと、鼻で臭いを嗅ぐと、舌で味わうと、体で接触すると、心で感情を知ると、当然満足・不満・満足と不満が生じます。彼は当然、生じた満足などに対して倦怠、嫌悪、吐き気を催すのを感じます。

 アーナンダ。これが有学の道です」。

 このパーリ(ブッダの言葉である経)から、凡夫は通常、満足が生じれば安心し、形などに対する満足を嫌う考えはありませんが、有学の聖人が安心して気づまりを感じないのは、満足でも不満でもなく、心が平然としている時と観察できます。このようにはっきりした違いが見えれば、もう一部の阿羅漢の足跡を見つけたということです。

 だから跡を追いたい人は、心が普通であり、平然と静まっていることを愛すよう訓練します。欲しい物を手に入れて、満足して陶酔することを愛しません。

ハ.訓練して支配下にある根は、どのような状態か

 根は目・耳などがあり、訓練する人の支配下にあるよう訓練すれば、当然すべてにおいて主人が望んだように従順になります。主人が主人の幸福のために静かでいさせれば静かにし、主人が善の側の他の感じ方をするよう望めば、望んだ成り行きになります。

 例えば食べ物の知足を生じさせるために、淡白な食べ物を「最高に美味しい」と感じさせることもでき、人が用意した非常に繊細な料理に「薄味すぎて味がない。不潔な物」という感覚を生じさせることもでき、野外の坐臥所も、最高級の城と同じ幸福がある坐臥所に見えます。

 これらを良く観察すれば、根に慎重にすることから生じる少なからぬ幸福が見えます。人間が心の苦に堪えなければならないのは、望んだように根を支配できないからです。あるいは根を支配する代わりに根に支配され、凡夫である間中、死ぬまで根の奴隷になるからです。支配できることは根に勝った印です。ブッダは、訓練された根の状態を、このように話されています。

 「アーナンダ。訓練して素晴らしく発展した根はどのようでしょうか。アーナンダ。このダンマヴィナヤの比丘が目で形を見ると、その人に「満足・不満・満足と不満」が生じます。その人が望めば、不潔な物を「不潔でない」と感じることもでき、不潔な物と不潔でない物を「不潔でない」と感じることも、当然できます。

 不潔でない物と不潔な物を「不潔な物」と感じることもできます。続けて、不潔な物と不潔でない物、両方を避けるべきと望み、このように注目しているサティのある人なら、当然できます。

 アーナンダ。これが素晴らしい訓練をして発展した根です。

ニ.根の訓練の話の誤解

 ある人は、形を見ない、声を聞かないことなども根の訓練と理解しています。これはブッダ在世時からあります。

 チャンガラ県の竹林で、パーラーシリヤバラモンの弟子であるウッタラ青年が世尊に拝謁すると、ブッダが「パーラーシリヤバラモンは弟子たちに根の訓練を教えますか。教えるならどのように教えますか」と質問なさいました。

 「ゴータマ様。パーラーシリヤバラモンは、自身の弟子に根の訓練を、目で形を見ない、耳で声を聞かないなど、このようです」と答えました。

 「ウッタラさん。もしそうなら、盲人はパーラーシリヤバラモンの言葉では根の訓練をした人、聾者は根の訓練をした人です。盲人は目で形を見ず、聾は耳で声を聞かないからです」といわれました。(インドリアバーバナースッタ)

 最後にウッタラ青年は、しょんぼりうつむいて、答えを無くしました。根の訓練は本当に苦しめる訓練で、触れないことではないと見ることができます。しかし抑制する方法は、負けそうな時に避けること、負けないように注意することと、負けた時は勝利を取り返すことがあります。

 その根がどれくらい弱いか、粗いかによります。プラ・カッチャーヤナの言葉も感情をまったく受け止めないという意味ではなく、受け止めて勝つ、つまり平然としていられることです。

 もう一つ、非常に悪い誤解があります。つまり「形を喜んだり嫌ったりさせないなら、信仰の基盤である形を見た時、例えばブッダの体、あるいは静かさの基盤である形、サマーディのニミッタなどを見た時喜んではいけないなら、利益がないのではないか」、そして特に「猛獣などの危険な形が現れるのを見た時嫌わせないなら、危険を受け取らないはずはない」という間違った考えです。

 答えは、パーリの上記の説明に、慎重にしなければ、罪悪である満足と不満が溢れるという意味が現れています。私たちは利益である形を見、声を聞き、臭い(等々)を嗅ぐのは当たり前です。これはブッダとサッカ王の会話であるパーリ・サッカパンハスッタ(長部 マハーヴァーラヴァッガ)で分かります。

 「苦のない猊下! 比丘がどのように実践すれば、根を慎む人と呼ばれますが」とサッカ王が質問しました。

 「天人の統領である方! 目で見る形、耳で聞く声、鼻で嗅ぐ臭い、舌で味わう味、体で触れる接触、そして心で感じる感情は、嗜むべき物と、嗜むべきでない物があります」。サッカ王自身で知る角度で答えられました。

 「猊下。それなら、私はその内容を理解しました。人が目で見る形などと付き合えば悪が成長し、反対に善が衰退する種類は、その種の形は嗜むべきではありません。そして人が目で見る形で、悪が衰退し、善が成長する種類は、その種の形は付き合うべきと理解しました。私は猊下が詳細に述べた要旨を知り、このように疑念が無くなりました」。

 このパーリの解説書では、次のように説明しています。「その種類の形は付き合うべきでない」という言葉などは、略した言葉です。詳細な言葉は、形を見た時、貪欲などの煩悩が生じるどの形も、その形は付き合うべきでありません。つまり見ません。しかし人が見た時不浄想が現れ、あるいは信仰が生じ、あるいは不変など他の想があれば、その形は付き合うべきです。

 その声が、全体も部分も華麗(つまり美しく、内容が正しい)でも、どんな声を聞いても、聞いて欲情などが生じれば、その声は聞くべきではありません。どんな声でも意義に依存し、ダンマに依存し、ペンキ塗りや水汲み女の歌でも、聞いた時信仰が生じ、あるいはニッピダーニャーナが維持されていれば、その声は聞くべきです。

 どんな臭いを嗅いでも、当然欲情などが生じれば、その臭いは嗅ぐべきではありません。どんな臭いを嗅いでも、当然不浄想などの想があれば、その臭いは嗅ぐべきです。

 どんな味を味わっても、欲情などが生じれば、そのような味は味わうべきではありません。どんな味を味わっても、食べ物の不浄という理解が生じ、そしてシヴァテーラの孫であるシヴァ沙弥の味見のように、その味から生じる体力に依存して聖人の境地に進むためになるなら、あるいは食べている時煩悩が消滅すれば、この種の味は味わうべきです。

 人が何らかの接触をして欲情などが生じれば、その種の接触は嗜むべきではなく、人が何らかの接触をして、サーリープッタなどを含む多くのテーラの接触のように、漏の終わりが当然あり、そして努力を重要とし、後に生まれた動物もその方を手本と見なすことで支援を受けることになるなら、その種の接触は嗜むべきです。

 聞いたこと :

 プラサーリープッタテーラは三十年間、寝台の上に寝ず、プラマハーモッガラーナも三十年、マハーカッサバテーラは百二十年、プラアヌルッタテーラは五十五年、プラバッティヤテーラは三十年、プラソーナテーラは十八年、プララッタパーラテーラは十二年、プラ・アーナンダは十五年、プララーフラテーラは十二年、プララークラテーラは八十年、プラナーリカテーラは涅槃するまで、ベッドの上で寝ませんでした。

 意識で知ることができる感情がある時、当然欲情などが生じ、あるいは他人の財産や道具は自分の財産や道具になるべきという他の悪、喜びなどが生じれば、その種の感情は、付き合うべきではありません。三人のテーラのように「すべての動物は恨みのない人であれ」と、このように慈しみなどの威力で経過するどんな感情も、この種の感情は嗜むべきです。

聞いたこと :


 雨安居に入る日、三人のテーラ(長老)が、愛欲の考えなどすべての不善の考えをしない規則を作りました。雨安居が明ける日になると、年老いたテーラが若いテーラに、「この三か月間に、あなたはどれだけ範囲がある所へ駆けて行くよう心を染めたね?」と質問すると、一人は「私は垣の外へ駆けて行くよう心を染めませんでした」と答えました。

 もう一人の僧は「私は住んでいるクティ(僧房)の外へ駆けて行くよう心を染めませんでした」と答えました。若いテーラが質問すると、(老いたテーラは)「諸君。私は自分の身体の中の五蘊の外へ駆けて行くように心を染めなかったよ」と答えました。「あなたは誰にもできないことをしました」と、一斉に喜びを表明する声がしました。このような考えは付き合うべきです。

 上記は、サッカパンハスッタのアッタカター(解説書)です。私たちは、どのような感情は避けるべきか、どのようなのは付き合うべきか、明らかに観察できます。仏教の根の訓練は、善を支援する感情なら付き合うべきで、不善の成り行きになるなら避けるべきです。

 あるいは喜んだり怒ったりしないよう慎重にするべきです。どちらの方法も、常にサティが駆け付けるのが間に合えば成功します。

 しかし可能なら、根を脅して支配下におくことで、敵である感情から善を支援するニミッタを掴むことができます。ブッダゴーサ師は清浄道論の中で、「マハーテーラが托鉢に出た時、道で、全身美しく着飾った美しい女性とすれ違った」とプラ・マハーティッサテーラの話をしています。

 その女性はテーラを滑稽なものと見てクスクス笑いました。テーラは何かの理解の原因になると思って、ちらっと見やると、その女性の歯が見えました。しかしテーラの識は不浄相に戻ったので、その女性の姿は全身骸骨として現れ、その時阿羅漢果に到達しました。

 歩き続けると、追って来た女性の夫とすれ違い、彼が「女性が歩いているのを見ませんでしたか」と聞くと、テーラは自分の感覚で「いや。骨が道を歩いているのを見ただけで、女性か男性か観察しなかった」と答えました。昔のアーチャンが、その方の話を短く詩にしました。

 女性の骨と歯を見たので

 長老は不浄相を思い出した

 練習したことがある骨の姿、

 過去想の威力で

 そこに立ったまま

 阿羅漢であることに到達した。

 この話は、その人が根に慎重にするか否かで、「善が悪になり、悪が善になる」という教えを生じさせる理由の見本です。

ホ.根律義の支援になる他のダンマ

 清浄道論の中で、ブッダゴーサ師は「パーティモッカサンヴァラが信仰で成功するように、根律義はサティによって成功する」と述べています。サティが、目などがある門番である時は、満足などがあるすべての罪は、当然生じる機会はありません。サティに欠ければ、それらの悪の好機と説明しています。

 マンガラッディーパニーの著者は、ヴィナヤカターの部分で、「根律義戒は、すべてのアッタカターの著者はサムヴァラスッディである清潔清浄な道になるのは、『私は二度とこのようにしない」』という強い決意と慎みによってである」と述べています。

 常に注意深く監視することは、この戒を拭いて清浄にすることと説明します。しかし私は、この教えは広すぎると見ます。どの戒も慎重にすることで清潔清浄になるからです。

 ブッダご自身は「比丘のみなさん。慚と愧がない時、その人の根律義は習性に欠けると言われます。比丘のみなさん。慚と愧がある時、その人の根律義は習性が完璧と言われます」と話されています。(パーリ・パトマスッタ 増支部 マハーヴァーラヴァッガ)

 罪を嫌い、罪を恐れる人は誰でも、その人が形などのある感情に触れると慎重になると説明します。高い側の自然である慚と愧の威力が、心に常にあるからです。

 そして時々「根律義はサティによって」と述べているのは、当然矛盾しません。サティはとっさに思い出し、慚と愧は、正しく本当にダンマである方へ進行させるなど部分が違い、別々の義務を援けるからです。慚と愧がなければ、思い出すことはできても罪を恐れないので、損害になるよう強制します。

 だから他の場所のブッダバーシタがあり、「比丘のみなさん。根律義は、食べ物のあるダンマで、食べ物がなくはないと言います。何が根律義の食べ物でしょうか。答えはサティとサムパッチャンニャ(自覚)です」と、根律義を援けるダンマについて述べています。(同前)

 サティはとっさに思い出せることで、サムパッチャンニャは、その思い出せることを常に管理して置くこと、常自覚です。食べ物とは、根律義が成り行くように育成する物です。私たちに食べ物がなければ身体が崩壊するように、食べ物に欠ければ止めなければなりません。

ヘ.根律義の功徳

 プラ・ウパセナワンガンタプッタは「戒を満たす人は、戒を心をガードする物にし、煩悩で濡れない心の人にし、当然彼は危険である苦から脱す」と言われています。

説明 :

 ここでは根律義が十分完璧なら、解脱まで段階的に、次々に他のダンマが生じるという意味です。そのような意味でなければ、ここでの苦という言葉は、根律義がないから生じるという意味に限定されます。

 ブッダご自身もいろんな所でこのように話されています。「石の棒のように安定して動揺しない人の心は、欲情を誘う物に欲情せず、憤慨を誘う物に憤慨しない。苦は、このように心を訓練した人に、どこから触れるだろう」(チャトゥッタスッタ メーキヤヴァッガ 小部)と話されています。

 「すべての門は比丘が良く維持している目・耳・鼻・舌・体・心で、彼は食べ物の量を知る人で、すべての根に慎重にし、体と心の面の幸福に遭遇する。彼は苦の火、煩悩の火が燃やすことができない身体があり、昼も夜も当然幸福に暮らす」。(ドゥティヤスッタ パトマヴァッガ 小部)

 「比丘のみなさん。私は、明と解脱は食べ物があるダンマで、食べ物がなくはないと言います。何が食べ物でしょうか。答えは七覚支です。

 私は、七覚支は食べ物があるダンマで、食べ物がなくはないと言います。何が食べ物でしょうか。答えは四念処です。

 私は、四念処は食べ物があるダンマで、食べ物がなくはないと言います。何が食べ物でしょうか。答えは三正行です。

 私は、三正行は食べ物があるダンマで、食べ物がなくはないと言います。何が食べ物でしょうか。答えは根律義です。

 比丘のみなさん。

 善人と十分付き合えば正法を聞くことも十分になり、

 正法を十分に聞けば信仰も十分になり、

 信仰が十分なら理に適った判断も十分になり、

 理に適った判断が十分なら常自覚も十分になり、

 常自覚が十分なら根律義も十分になり、

 根律義が十分なら、三正行も十分になり、

 三正行が十分になら四念処も十分になり、

 常自覚が十分なら七覚支も十分になり、

 七覚支が十分なら明と解脱も十分になります。

 明と解脱の食べ物は、当然このような状態で、このように揃います

 「比丘のみなさん。大粒の雨が山頂に降って止まなければ、その水は窪みに沿って流れ、溝や水溜まりを作り、大きな沢を満たし、大小の川が満ちます。大きな川が満ちると海や大河も満ちるように、すべてのダンマは(順に)明と解脱を満たします」。(パトマスッタ ダサカニパーダ 増支部)

 これは根律義の偉大さを表す一つです。似ている、そして段階的に高い他のパーリにも、たくさん根拠があります。例えば、

 「比丘のみなさん。根律義があれば、戒も習性で完璧になり、戒があれば、正しい見解も習性で完璧になり、正しい見解があれば、如実智見も習性で完璧になり、如実知見があれば、厭苦、離欲も習性で完璧になります。

比丘のみなさん。木が、枝と葉が豊かなら、外皮も完璧で、内皮も完璧で、辺材も完璧で、芯材も完璧なように、根律義があれば、(順に完璧になり)解脱智見も完璧になります」。(パーリ・アッタマスッタ ダンマミカヴァッガ チャカニパーダ 増支部)

 これは、根律義は(ここではまとめて戒と呼びません。戒とは、多分パーティモッカだけを意味します)戒を生じさせると、明らかに見せるものです。

 この戒は比丘である出家はパーティモッカだけを狙い、沙弥は十の戒条、正信士・正信女は菩薩戒、あるいは五戒で、立場次第です。戒が十分なら自分で汚れや斑は見えないので、心が歓喜し、簡単にサマーディが生じます。十分なサマーディを正しいサマーディと呼びます。

 そしてすべてのサンカーラを真実のままの知識が生じ、真実のままに見ることは、そのサンカーラの当たり前の状態、特に発生と、変化と、消滅と、止まる間もないことを見ます。輪廻の中では自分が望んだように変えられる人は誰もいないことを、「それは無我」と言います。

 このように如実智見が生じれば、厭苦離欲である倦怠と、精神のある物も精神のない物も、すべてのサンカーラへの欲情への緩みが生じます。倦怠し、欲情が緩めば、心もサンカーラへの執着が緩み、「解脱した」と内心で見て知る知識が生じます。命の仕事である、心の平穏のためにしなければならない仕事が終わった人で、その後、それ以上の物はありません。

 例えばバーヒヤダールチリヤに話された、普通の段階の律義より高い六根を知ることについて説明しているパーリには、次のようにあります。

 「比丘のみなさん。これらが六根です。六つとは目根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根です。比丘のみなさん。聖なる弟子がこの六根を生じさせる原因、消滅、旨味、低劣な害、そして脱す方便を真実のままに知れば、私は、この聖なる弟子は預流であり、落ちて普通になることはなく、先々悟ことが確実な人と言います」。

 「比丘のみなさん。比丘がこの六根を生じさせる原因、消滅、旨味、低劣な害、そして脱す方便を真実のままに知れば、執着しないことで解脱した人です。私は、この比丘は阿羅漢キーナーサバで、梵行が終わり、しなければならない仕事が終わり、重荷を下ろし、自分自身の利益に段階的に到達し、有へ導く結が終わり、正しく知ることで特別な解脱をしたと言います」。(チャリンダヴァッガ マハーヴァーラヴァッガ 相応部)

 このパーリは簡略な言葉ですが、続けて他のパーリから広大さを見つけることができます。つまり「比丘のみなさん。目・形・眼識・眼触・そして苦でも幸福でも、苦でも幸福でもなくても、眼触から生じた受を真実のままに見ていて、知っている比丘は、当然目・形・眼識・眼触・眼触から生じた受に、少しも夢中になりません。夢中にならなければ心が縛られず、憧れず、普通にその物の害を熟慮して見ています。

 その時その感情だけに陶酔する五蘊への執着は衰え、後退し、返却し、陶酔と欲情が混じっている欲望も衰え、後退、返却します。それから体の面の焦燥も衰退し、心の面の焦燥も衰退し、体の面の憂鬱も衰退し、心の面の憂鬱も衰退し、彼は身体の面と心の面の幸福を味わいます。

 このようにできる人のディッティは当然正し見解で、この種の人の考えは当然正しい考えで、この種の人の努力は当然正しい努力で、この種の人の想起は当然正しいサティで、この種の人のサマーディは当然正しいサマーディです。身業・口業、そしてその人の職業は、当然最初から純潔です。

 その人の八正道はこのような状態で、当然発展するに十分です。その人がこのように八正道に励んでいる時は、四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚支は、当然完璧です。彼の二つのダンマ、サマタとヴィパッサナーも確固たる対です」というパーリ(サラーヤタナヴィバンガスッタ ウパリパンナーサ 中部)です。

 三十七菩提分が十分なら、すべては最高に完璧ということです。そしてこれが、根律義の威力です。

 根律義をすることの功徳を、短いブッダバーシタでまとめさせていただきます。

 「体を慎むことは善。言葉を慎むことは善。心を慎むことは善。すべてを慎むことは善。すべてを慎める人は罪を恐れる人。私は彼を、自分を維持して脱す人と言う」。

 すべての功徳を述べたように、中には「根律義だけを満たせば十分。あるいは他に何も満たさなければならないと見えない」と質問する人がいるかも知れません。それでも良い、そうでなくても良いと答えさせていただきます。

 これはみなさんが真実どおりに、根律義のようなダンマを、最高の利益を望む人が、慚があることと真で満たせば、心の中に初めから、すべての段階に発願があるので、当然段階的に進歩するという意味です。しかしそれでも順に経過し、何段階かに分けて観察させ、簡単に教育させることもできます。満たす人の最終目的は「苦の終わり」にあるとしましょう。

 しかし、本当の決意で苦からの解脱のためにすることを望まない人は、当然他の見方をします。つまり自分の望みと反対の種類を見ると、くだらない方に歪み、便利なことしか考えません。

ト.根に慎重にしないことの害

 根律義の行動をしないことの害は、述べたすべての功徳と反対の要旨で知るべきです。特に増支部 ダサカニパータ パーリ・パタマスッタ、増支部 チャトゥカニパーダ アッタマスッタ、そして中部 ウパリパンナーサ パーリ・サラーヤタナヴィバンガスッタは、反対の要旨で説かれた害があります。

 同時に反対の要旨の例も十分です。学習者は一部にある反対の意味である明らかな害を規定して見るべきです。その後、初めと違う説明をなさった物を述べます。

 その人の心が穏やかな幸福になる機会はなく、それぞれが自分の威力で、常にあっちこっちへ引っ張っています。スポーツの選手が終わりを知らず奪い合っている球のように、どの根も、より強い力がある感情を得れば、パーリ(ダサマスッタ 相応部)のように、その感情に送ります。

 「比丘のみなさん。慎まない人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。ここでの比丘は目で形を見、耳で声を聞き、鼻で臭いを嗅ぎ、舌で味を味わい、体で接触をし、心で感情を知ると、可愛い感情に平伏し、憎らしい感情を嫌悪する身隨念を維持しない人で、浮ついた心があり、その人に生じている罪悪を完全に消滅させることができる心解脱と智慧解脱を、真実のままに知りません。

 比丘のみなさん。住む場所が違い、餌を捕る場所が違う六種類の動物を捕まえ、丈夫な紐で繋いでおきます。つまりヘビを捕まえ、ぎ、ワニを捕まえ、鳥を捕まえ、犬を捕まえ、キツネを捕まえ、猿を捕まえてそれぞれ一本ずつの紐で繋ぎ、元を一つに結んで放るのと同じです。

 比丘のみなさん。その時住む場所、行く場所が違う六種類の動物は、ヘビはシロアリの塚へ行こうと、ワニは水に入ろうと、鳥は空を飛ぼうと、犬は家へ入ろうと、キツネは墓地へ行こうと、猿は森へ行こうと、自分が住む場所、行く場所に行くために引っ張り合います。六種類の動物全部が疲労困憊した時、一番力のある動物以外は、力のある動物の威力に引っ張られていきます。

 これも同じです。比丘のみなさん。身随観の訓練に励まない比丘は、目はその比丘を満足する形に引っ張って行き、満足しない形は不潔な物で、耳は聞くべき声にその比丘を引っ張って行き、聞きたくない声は汚れになり、鼻はその比丘を嗅ぐべき臭いに引っ張って行き、嗅ぎたくない臭いは汚れになり、

舌はその比丘を喜ぶ味に引っ張って行き、嬉しくない味は不潔で、体はその比丘を染み渡る接触に引っ張って行き、染み渡らない接触は汚れた物で、心はその比丘を気に入った感情に引っ張って行き、気に入らない感情は不潔になります。

 比丘のみなさん。慎むことがない比丘はこのようです」。

 その後反対の要旨で、六種類の動物が一緒に柱に繋がれて、いずれかの動物が力が尽きるまで引っ張って、柱の傍にしょんぼり座っているのに例えられ、目などがある根を慎重に捕まえて、柱である身隨念に縛っている比丘は、力が尽きるまで足掻けば、身隨念の中で消滅する例えで、律義をする比丘の説明をなさいました。

 町の中で根律義をしないことは、いろんなパーリで、特にたくさん説明なさっています。町に入ることは、比丘自身にとって当然非常に危険があるからです。そして比丘は、毎日町に入らなければならなりません。だから托鉢に行くには、このことで非常に細かく教え諭されました。あるパーリ(ダサマズッタ ニダーナヴァッガ 相応部)では、

 「比丘のみなさん。以前にあった話です。家の塀際のゴミ捨て場の穴の近くで、子ネズミが餌を探しに出て来たら捕まえて喰ってしまおうと期待して、ネズミを待ち伏せしている猫がいました。

 その時子ネズミが餌を探しに出て来たので、猫が素早く捕まえて呑み込むと、子ネズミが猫の腸に噛みついたり、腸の端に噛みついたりしたので、猫はネズミに噛まれたことが原因で死に至り、あるいは死ぬほどの苦を味わいました。

 比丘のみなさん。同じようにこの場合の比丘は、朝チーヴァラ(衣)を身につけ鉢を持って、集落や町へ托鉢に行くと、体を維持せず、言葉を維持せず、心を維持せず、サティを維持せず、すべての処入(根)に集中せず、その集落、あるいは町の女性が悪をまとっているのを見ます。

 女性が悪をまとっているのを見ると、情欲がその人の心を突き刺し、その比丘の心は情欲に刺されることで、当然死に至るか、あるいは死ぬほどの苦を味わいます。

 比丘のみなさん。学習を返して低い暮らしに戻ると言う比丘は誰でも、その状態を「このダンマヴィナヤの中で死んだ」と言われます。憂鬱にする破戒がどのようなカンマでいなければならなくても、その破戒の人は「死ぬほどの苦を受ける」と言われます。

 比丘のみなさん。だからみなさんは「体と言葉と心を維持し、サティを維持し、根を良く慎む人でいる」と、このように学ぶべきです。それから家や村に、托鉢のために入ります。

 比丘のみなさん。みなさんこのように心に留めなさい」。

 一般的に言えば、町でも森でもどこででも、慎みがないことの害をパーリでまとめることができます。

 「すべての門である比丘の目・耳・鼻・舌・体・心が維持されなければ、彼は食べ物の適量を知らず、すべての根を慎まず、体と心の苦に遭遇します。このような比丘は、苦の火に焼き炙られ、煩悩の火に焼き炙られている体があり、昼も夜も、当然苦です」。(パトマスッタ イティウタッカ 小部)

 ここでの功徳は、反対の内容で知るべきです。

 根を慎まない人、あるいは慎んでも間に合わない人の損害の例は、多くの教典にたくさんあります。ブッダの時代に述べたのも、もっと前のもあります。ここでは教訓にするために述べて置きます。

 プラ・ヴァンシーサテーラがまだ阿羅漢になっていない、出家したばかりの時、托鉢に行って一人の女性に遭遇し、欲情が生じて心を突き刺し、プラ・アーナンダに助けを求めなければなりませんでした。

 「カーマラーガ(性欲)が私の内部を焼き炙り、私の心は燃やされてしまいました。どのような方便が良く消滅させるでしょう。ゴータマ族のお方! 私を可愛がるためにお教えください」とお願いしました。(清浄道論 シーラニデーサ)

 「想でそのニミッタに執着するから、あなたの心は沸騰します。あなたが美しいと見る、欲情を誘うニミッタを避けてしまいなさい。美しくない感情の心を一つに固定し、すべての行を他人の物、苦、無我と見なさい。粗く大きい欲情を消滅させてしまい、二度と瀰漫させてはいけません」。これがプラ・アーナンダの忠告です。

 ナヴァカニパーダ ハーリタジャータカのアッタカター(解説書)は、次のように一つの話をしています。ハーリタ仙人は、バラーナシーの王宮内で十二年間食べていました。王が国境の敵を撃退しに行かなければならなくなり、王妃に仙人のお世話に気を配るよう命じました。

 ある日、仙人が遅れて来たので寝て待っていた王妃は、宙を飛んで来る仙人の衣の音を聞いて、急いで迎えるために起きました。

 その日妃はつるつるした生地の衣服を着ていて、仙人が着地すると同時に立ち上がったので、妃の着ている布が落ちました。仙人は突然ヴィサバーガーラマナに遭遇し、根を慎むのが間に合いませんでした。

 煩悩の威力下に落ち、サティを支えることができないので、王妃に対して不正法を嗜むと定の威力が消えて、歩いて戻らなければなりませんでした。二度と飛べないからです。それでもヴィサバーガーラマナの威力に負け、そのように何日もすると、都の人に知れ渡り、遠方にいる王の耳に入りました。

 この話は、ヴィサバーガーラマナの凶悪な威力と、根律義ができないことの害を説明しています。見てください。十二年もご飯を食べても感じず、そして抑えられません。だから不注意な人は、常に前もって感じるべきです。

 ローマカッサバジャータカのアッタカター(解説書)は、定に励み、厳しい苦行をするローマカッサバという仙人であるボーディサッタ(菩薩)の話を語っています。

 バラーナシー王がサッカ王の提案で、チャンダヴァディー王女を連れて行って仙人を騙し、チョンプータヴィーパ全域を占領するために羊を生贄にするする儀式を行わせました。王は、王女とサイホーマータを行かせました。プラマハーサッタは美しい王女の姿に呆然とし、根律義と慚愧に欠け、恋慕して凝視する心があり、その時のノーナイが衰退しました。

 サイホーマータはチャンスと見て、「王はこの王女をお与えになる。仙人が贄の祭祀を手伝いに行けば、欲情恋慕の威力で、仙人はバラーナシーの都に来、ボサボサ頭の仙人も大臣も祭祀を始める」と、手の内を漏らしました。領民が見て憐れになり、口々に憐れさを語りました。

 月と太陽は強い威力と見なし

 サマナ・バラモンも修行の力があると見なし

 海の岸は波に耐える力があると見なす

 しかし女性はそれよりも威力がある

 ご覧、チャンダヴァディー女は

 強い定の力があり、根を抑えているローマカッサバ仙人を引っ張って来て
 自分の父のために祭祀をする

 仙人ボーディサッタが繋いである象の首を斬るために刀を振り上げると、それを見た象は死の恐怖で驚いて鳴きました。象、馬、牛、その他の動物も鳴き、大衆も泣き、その時仙人に憐みを生じさせました。

 髷を思うことができ、彼は最高に悪いカンマだと衝撃を受けたので、慚愧とカシナのニミッタなどを集めてサマーディを生じさせ、空中で結跏趺坐して王にダンマを説いて聞かせて祭祀を中止させ、王に、すべての動物に命の安全を下賜させて、ヒンマパーンの森に戻って行きました。

 この話は、根律義をするのが間に合わず、ほとんど凶悪な損害がありましたが、訓練したことがあるので後で気づいた例です。それでも一般大衆の非難する所です。ブッダはこのことを良くご存知なので、その人がこの話のように簡単に失敗しないために、身隨念などをたくさん、長く訓練するよう教えられました。

チ.この話を繰り返し教えられる

 いろんなブッダの言葉を集めると、比丘は根律義をしないことで生じる危険から自分を護るべきと、ブッダは非常に望まれていたと見えます。初めから述べているように、十分保障するものです。

 しかし私たちは「外部の人が、三宝に忠誠の厚い仏教教団員の面前で仏法僧を非難した時、怒ってはいけない。彼らが私たちの面前で三宝を褒めた時、喜んではいけない。まだ誤解している三宝の説明をして彼らに理解させなさい。あるいは三宝を正しく理解しているなら、確証しても良いです。お願いするのは、喜んだり怒ったりしないことだけです」と繰り返し教えられた言葉から、更に見ることができます。

 ブッダの言葉はパーリ・マハーチャラースッタ(シーラカンダヴァッガ 長部)等に現れています。

 「すべての形・声・臭い・味・接触の中で、非常に繰り返し教えられたのは、男性である比丘などには、女性の形・声・臭い・味・接触で、女性である比丘尼には、男性の形・声・臭い・味・接触です。「比丘のみなさん。女性の形・声・臭い・味・接触のように男の心を虜にする他の感情は見えません」。そして「比丘のみなさん。男性の形・声・臭い・味・接触のように女の心を虜にする他の感情は見えません」。(エーカニパーダ 増支部)

 そして「比丘のみなさん。あなたが慎まないで、この心のように甚大な破滅になる他のダンマは、一つも見えません」と言われているパーリ(アーディッタパリヤーヤスッタ サラーヤタナヴァッガ 相応部)のように、自分の心より慎重にするべきことは何もないと繰り返し教えられています。

 そして「比丘のみなさん。根である目を、赤く燃えている鉄の棒で突き刺す方が良いです。目で見た形をニミッタ(全体として)と捉えるのと、その形の部分に分けて捉えるのは、まったく良くありません。

 根である耳を、真っ赤に燃えている鉄で強く引っ張られる方が良いです。耳で聞いた声をニミッタと捉える、そして部分に分けて捉えることはまったく良くありません。

 根である鼻を、非常に鋭い刃物で抉られる方が良いです。鼻で嗅いだ臭いをニミッタと捉え、部分に分けて捉えるのは、まったく良くありません。

 根である舌を、赤く燃え上がっている刀で切り取る方が良いです。舌で知った味をニミッタと捉え、部分に分けて捉えるのは、まったく良くありません。

 根である体を、燃え上がっている槍で刺される方が良いです。体で感じた接触をニミッタと捉え、部分に分けて捉えるのは、まったく良くありません。

 比丘のみなさん。ニミッタと捉えるのでも、部分に分けて捉えるのでも、その時欲情した心があり、その時その人が死んだら、その人が行くべき趣は二種類あります。つまり地獄、あるいは畜生の生まれです。これは確実です。

 だから「眠ることは命がある人にとって不毛で結果がない。無駄」と言っても、寝てしまう方がまだマシです。起きていても低劣なことばかり考えるのは、サンガに危害を加えることもあるので、まったく良くありません。

 心、あるいは根に慎重にすることは、時と性次第のこともあります。普通の凡人はこの話の凶悪な危険、つまり男女の危険で、静かな危険でも、同じだけ甚大な損害をもたらします。同性同士は、喜びの部分にはあまり危険はありません。怒りの部分以外は。

 時については、時には心が冷静でいれば、簡単に慎むことができますが、時には心がそのようでないので、かつて慎んだことがあるので、あまり厳重にする必要はないと油断すべきではありません。仕損じます。

 自分を火がない涼しさにし、段階的に到達できる高い善に向かって前進する最高に良い方法は、どこでもいつでも十分慎むべきです。そして常に教え諭されていた言葉を思い出し、同時のその言葉を厳格に尊重します。

 次のパーリ(パーリ・タティヤスッタ サラーヤタナヴァッガ 相応部)で、この章を終わらせていただきます。

 「比丘のみなさん。大昔の話です。一匹のカメが夕方に川岸に餌を探しに行きました。一匹のキツネも夕方に、川岸に餌を探しに来ました。比丘のみなさん。キツネが餌を探しているのを遠くから見たカメは、五番目に頭があるすべての器官を甲羅の下に隠して、じっとしていました。

 キツネも、カメが餌を探して歩いているのを遠くから見て、真直ぐにカメに近寄り、五番目に頭があるすべての器官のどこかの部分を出したら、その部分に噛みついて、引っ張り出して喰ってしまおうと機会を伺っていました。比丘のみなさん。カメが出て来ない間はキツネにチャンスがないので、去って行きます。これも同じです。

 比丘のみなさん。下賤な悪魔もみなさんたちに対して「何なら、目でなければ耳・鼻・舌・体・心にチャンスがある」と、間を置かず、休まず機会を伺っています。比丘のみなさん。だからみなさんはすべての根の門を管理する人でいなさい。

 目で形を見、耳で声を聞き、鼻で臭いを嗅ぎ、舌で味を味わい、体で接触し、心で感情を知ったら、ニミッタで捉えず、部分に分けても捉えません。下賤な悪のどれも原因になるので、みなさん、五根を慎むために実践しなさい。根を維持しなさい。すべての根を慎むことに至りなさい。

 比丘のみなさん! 何時の時代でも、みなさんがすべての根の門を維持する人であれば、カメからチャンスを得られないキツネのように、その時下賤な悪魔にチャンスはなく、去って行きます」。

 「カメが甲羅の下に体の器官を縮めているように、比丘は甲羅である念処の感情の中に考えを維持し、欲望と傲慢の住めない人で、他人を苦しめず、誰にも悪口を言わない、完全に消滅した人でいるべきです」。





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