第三章
パーティモッカサンヴァラ

パーティモッカで慎む







この章の説明であるパーリ

 「彼がこのように出家した時、当然パーティモッカサンヴァラ(律義)で慎む人であり、行儀と、良く行く場所が完璧で、例えわずかでも、普段から罪の危険が見え、すべての教条を遵守します」


説明

要旨: チャトゥパーリスッティ戒の初めの戒であるパーティモッカサンヴァラについて、僧が毎月唱えるパーリ・ヴィナヤ、そして阿羅漢の後を追う教えとして取り上げるパーリ・沙門果経のパーティモッカで述べます。パーリとパーリのアッタカター、そして清浄道論など他の書籍の言葉を集めて説明を増やします。第三章で述べる内容は、次の項目です。

1.パーティモッカとは何か
2.サンヴァラとは何か
3.戒とは何か
4.パーティモッカサンヴァラに関わるその他色々


 これから順に述べます。



1.パーティモッカとは何か



 学習者にパーティモッカサンヴァラを学んで知る強烈な喜びを生じさせるために、パーティモッカサンヴァラは、阿羅漢の跡を追うことにとってどのように必要かという問題の説明をします。

 パーティモッカ、あるいは一般にヴィナヤ(律)と呼ぶものは、国民に強制する国家の法律のように、出家集団の秩序のために強制する項目だけではありません。それだけと理解する人は、(生花の首飾りの)花が散らばらないように通す糸のように、僧集団の規律を守らせる物と、律の利益ばかり述べます。

 そのような理解は、往々にして人目のある場所で律を守り、陰では集団の秩序と関係がないので守らなくさせます。これだけでも、このような発言は十分ではありません。

 本当はパーティモッカ、あるいは律と呼ぶ教条は、ロークッタラ(脱世間)の境地に至る実践にとって最高に必要です。心の中に曇った戒がある人は、集団にとって損害はなくても、その人はサマーディの段階を通過できません。

 内心の悪い戒は、自分しか知る人が無くても、サマーディの結果に到達することにとって凶悪な敵です。つまりいろんな聖向聖果の基礎である種類の定は、心が静まり始めると、その悪い戒の感覚がその都度浮かび上がって、心が静まることがないからです。

 だからパーティモッカサンヴァラは、実践者が避けて通れない、阿羅漢の状態に踏み込む最初の一段であり、すべてのサマナの仕事の基礎のような段階の仕事です。アッタカターチットゥバーダカンなど、いろんな所で「阿羅漢に到達したい良家の子息は何をすべきかと問うなら、阿羅漢果に到達したい良家の子息は、四つの戒を清くするべきです」と話されています。

 つまりパーティモッカサンヴァラ(律儀)戒、根律義戒、職業清浄戒、資具依藍止戒など、純潔な戒だけを始めた人にするので、アーヴァーサパリボーダがある十パリポータ(心配)を断ちます。念処をさせる人である善友を探すので、パーリの中の三十八のすべての念処を熟考して、自分の品行の援けになる念処を探します。

 パタヴィー(土)カシナなどが自分の品行を援けるなら、その念処をし、ふさわしくない精舎を捨て、ふさわしい精舎に住み、少しパリボーダ(心配)を捨てます。

 すべての念処の方法は、カシナ(十辺処)のニミッタを維持して数えるなど衰退せず、七アサッパーヤダンマ(非随応)を避け、七サッパーヤダンマ(随応)をし、そして十アッパナーコーサラ(損滅善功)の種類を衰退させないで、定に到達するために実践すべきです。これは概要だけを述べています。詳しくは、清浄道論で述べている言葉の意義を知るべきです。

 これは当然、パーティモッカサンヴァラは初歩に必要な仕事で、本当に避けることがはできないと見せています。だからブッダは、増支部 パンチャカニパーダ(パトマスッタ)で「比丘のみなさん。すべての戒を十分にしない比丘が、正しい見解を十分にすることはあり得ません」と言われています。学習者は「正しい見解は名身、あるいは漏尽智で聖諦を知ること」と知るべきです。

 戒は愚かさを削って、体と言葉を清潔にします。清潔な体と心はサマーディを生じさせる援けをし、サマーディは真実のままに知る智慧である智清浄を生じさせ、七清浄で段階的に述べているように、煩悩を断って聖向聖果に到達させます。

 つまり戒清浄は心清浄へ押す階段で、心清浄は見清浄に、見清浄は次々に智清浄である四聖向聖果まで押します。プラ・サーリプッタとプラ・プンナマンタニープッタの会話は、七清浄は「交代で涅槃へ到達させる七台の車」と明示しています。詳しく知りたい人は、ロッタヴィニータスッタ(中部 ムーラパンナーサ オーパッマヴァッガ)を読んでください。

 だから「戒は集団を美しくするもの」と述べる代わりに、「戒は涅槃へ到達する階段の最初の一段」と述べるべきです。そうすればこの部分の教条の十分な意味がある言葉です。


2.パーティモッカとは何か

 最高に広く述べれば、パーティモッカという言葉は、解脱の繊細な名前で、一般には「戒・サマーディ・智慧」の部分を意味します。ブッダがマーガプーラナミーの日に説かれたパーティモッカオーヴァーダの中のように、戒・サマーディ・智慧のすべての意味が詰まっています。

 しかし使われて、ありふれた理解になっているのは、この戒だけを意味します。つまり重要と見る教条を選んで一つにまとめてパーティモッカという名前にしました。

 元はパーリ(ブッダの言葉である経)のスッタと律から来ています。一般在家にとってパーティモッカは五戒で、沙弥にとっては十戒、比丘にとっては二二七戒、そして比丘尼にとっては三一一戒です。変化するどの話を述べても、それなりに比丘のパーティモッカに関って変化します。

 僧が半月ごとに唱える二二七項の教条を、ウボサタパーティモッカをすると言います。そのパーティモッカを唱えるのは、パーリ・ヴィナヤピダカ(律蔵)です。だからこの二二七教条をパーティモッカと呼ぶのは見つかりません。

 あるのはマハーヴィバン、あるいはビックヴィバンだけです。しかし「パーティモッケー チャ サムロー=パーティモッカなどで慎む」と言われているのは、いろんなパーリのどこにもあります。

 何が本当のパーティモッカかは、取り上げて判断すべきことです。阿羅漢の跡を追う人は本当の、あるいはブッダの望みと一致するパーティモッカを知るべきだからです。そうすれば行動したことに結果があります。パーティモッカで慎重にすることはこの行動の階段の一段なので、パーリの話の論証は、段階的な推測の系統です。

 パーリのパーティモッカの説明は、ブッダ在世時からあり、ブッダがパーティモッカを説かれた人であると明示しています(ダサマスッタ マハーヴァーラヴァッガ 増支部)。しかし説かれた話は、知って置くべき何の話でしょうか。最初はマーカプーラナミーの日にオーヴァーダパーティモッカを説かれ、特に重要な、そしてどのブッダも一致する教えは、三つの詩だけと理解します。

(1) カンティは忍耐で、最高に悪を燃やし尽くすもの。智者たちは、涅槃は最高のダンマと言う。殺生をする人は出家でなく、他人を苦しめる人。サマナではない。

(2) すべての罪を作らないこと、善を成して満たすこと、心を拭いて清浄にすることの三つは、すべてのブッダの宗教の流儀。

(3) 悪を述べず、悪を成さず、パーティモッカで慎み、食べ物の適量の知識、閑静な坐臥所、アディチッタのすべてがあること。この六つは、すべてのブッダの宗教の流儀。

 その日に集会した僧は、千二百五十人全員が阿羅漢で、その阿羅漢に説いたパーティモッカは別の物です。そしてその時純潔な比丘しかなく、すべての教条はまだ規定していないと見させます。

 その後いい加減な比丘が増えて、いろんな戒条を段階的にたくさん規定し、恐喝、水遊び、わざと物を隠すことから、女性と関係をもつなど柄の悪いことまで、パーティモッカに入れなければなりませんでした。

 かつてのように教えを説くことが、彼が破戒を思うためにこれらの戒条を説くことになり、半月ごとに記憶を復習することになりました。阿羅漢なら、恐喝を禁止する戒条を座って我慢して聞かなければならないのは、どれほど困惑するでしょう。

 これだけではまだ足らず、ある菩薩日にサーヴァッティーのブッバーラームで、ウボーソトカンマ(菩薩業)をしようと比丘たちが集会して、世尊のお出でを待っている時、根源であり、破戒であり、サマナでない、罪を告白しなければならない比丘が混じって座っていると、世尊が「比丘は純潔でない」と言われて、パーティモッカを説かれませんでした。

 比丘が五更まで座って待っていると、最後にプラマハーモッガラーナがニャーナでその比丘を知り、そこから引きずり出しました。それでも世尊は説教をなさらず、「今日より、すべての比丘たちにパーティモッカを唱えさせ、私は唱えない」と最後通告なさいました。

 そして「ブッダのダンマヴィナヤの中に善い物が、海の中と同じ八つある」という主旨のブッダバーシタを言われました。詳しくは、増支部 アッタカニパータ マハーヴァーラヴァッガ ダサマスッタを見てください。

 このパーリでは、説かれたパーティモッカとは何かを述べていません。パーリのアッタカアター(解説書)も何ら説明していません。だから説かれたパーティモッカは、二二七項の戒条、あるいは教えを説くことでパーティモッカ教戒を説くようなものです。しかし私は、いろんな教条で説かれていますが、今説明しているように二二七項もないと理解しています。

 パーリの増支部 ティカニパーダ ドゥテヤパンナーサ チャトゥッタカッガの第六、七、八経では、「比丘のみなさん。百四十の教条は、当然半月ごとにウッデーサ(つまり取り上げて僧の中で説明する)し、利益を期待する良家の子息が学んでいます」と言われています。ブッダの時代は百四十項の教条だけでパーティモッカを説いていて、二二七教条はなかったと分かります。

 ヴィナヤ(律)のヴィバンガはブッダバーシタではなく、律蔵の編集者の言葉で、解説として二二七教条話していると言います。これは、ブッダが涅槃された後、特に何回目かの三蔵の確認のために結集が行われた時に増やされたと見ることができます。それらの方々が、規定されていたけれどパーティモッカに入れてなかった七十七の教条をパーティモッカに入れました。

 どの教条かはパーリに根拠がなく、推測しなければならない話です。クロムプラヤーワチラヤーナ猊下は、セーキヤヴァタラの七十五項と、アニヤタカの二項と推測なさっています。その後、今日まで二二七教条でパーティモッカを唱えています。

 これが、休まず姿を変えてきたパーティモッカの状態です。今、二二七項の教条は、本当に不毛になってしまった条項が、少なくとも二十七項あります。今の僧は、まだ元のパーティモッカを唱えています。

 この状況はパーリ語を学ぶ前に関り、唱えている教条が何を意味するか知らない時から、パーリ語を学んで律の意味を知ってもまだ、不毛になってしまった幾つもの教条が入っているパーティモッカを唱えます。

 このパーティモッカを常に唱える時、非常に称賛されます。しかしもし不毛な物を削除して、必要な物を入れる集団があれば、ブッダの規定を裏切ると非難攻撃されます。

 つまり阿羅漢の跡を追う階段として、このパーティモッカに利益があるかどうか、答えるのは難しいです。しかしパーティモッカの教条は、初めは固定していなかったと述べることができます。

 「今私たちは、唱えるパーティモッカの教条の数を改革、削除、増やすべきか」と問うなら、答える前に、最初は阿羅漢ばかりだった聞き手に向けた教えでパーティモッカを説かれ、その後百四十項で説かれました。あるいはパーリ・沙門果経のように、数を限定せずに説かれ、その後、結集したアーチャンたちがあと七十七項増やして二二七項になり、今日まで説いてきたと考えて見るべきです。

 ブッダ、あるいは本当のブッダのご意思を知る弟子は、大きな利益を目指します。だから不毛な教条を引き抜いて、高くて利益があると見る、あるいはブッダが規定されたそれらの物より必要と見える教条を増やして、適宜にパーティモッカに加えることは、ブッダの望みと、それまでの出来事に最高に利益を目指す行為であるはずです。

 数を神聖とするなら、最高にダンマを知る人であるブッダの弟子として、道理と時と場所を知ることより愚かになります。長い時代が経過した時、多少の教条を抜くことを赦された、遠い時代をご覧になった人ブッダ、一切智があるブッダの許可を思ってください。しかし結集した当時のアーチャンたちは、今日まで威力を現わす議題(ヤッティカンマ)で、ブッダの許可の取り消しを表明してしまいました。

 その人たち自身もすべて亡くなり、生じる弊害を被る人は誰でしょうか。それらの時代が過ぎたことで、誰が不毛な教条の条項を唱える迷信のようにならなければならないでしょうか。ここでは抜くのを止めさせるまで望まず、不毛の物を出すために取り換え、使いたい物をパーティモッカに入れるだけです。

 ブッダ、あるいは本当の阿羅漢の後を追う決意をした人は、個人で部分的な削除について熟考するべきです。

 そして自分がブッダのご意思と一致すると見る要旨を掴むのは、むしろ自分の内面でできることです。歴史を維持したければ、テキストであるヴィナヤ(律蔵)で維持すべきです。本当にする部分は、本当の利益にしてください。昔は、すべての教条は、当然どの教条も比丘にとって有益でした。しかし今はそうではありません。

 述べたすべては、ここでのパーティモッカとは、半月ごとにサンガで取り上げて説明する教条の数ですが、述べたように変化があり、それ以上にその教条はパーリのスッタ(経)とヴィナヤ(律)で言い回しに違いがある、とまとめることができます。後で種類別に述べます。

 他のパーリの経、マハーアッサプラスッタなどは、これらの教条をサマーチャーラ(正品行)と呼び、体・言葉・心に分けて、身正行・口正行・意正行と呼びます。心の面の物はお金、黄金、男女の奴隷、など、サマナにふさわしくない物質の喜びなどです。この根拠は、パーティモッカである教条を正品行と呼ばれると指摘して見せます。

 サッカパンハスッタ(長部 マハーヴァッガ)では、サッカ王が「どのような実践をする比丘が、パーティモッカサンヴァラの実践をする人と呼ばれるのですか」と質問した時、「たしなむべきでない身正行・口正行・意正行を避け、たしなむべき身正行・口正行・意正を成す」。このようなのを、パーティモッカサンヴァラの実践と呼びます」と答えられています。

 そしてパーリの意正行は、述べたような喜ぶべきでない物の喜びを意味するということです。そして残っている意正行は根律義やパッチャヤサンニッシタ(資具依止=四依の使い方を省察する)戒です。


3.パーリ・ヴィナヤ(律)から来ているパーティモッカ

 パーリ・律蔵に現れているパーティモッカである教条は、選別され、綴られ、最も重い物から最も軽い物まで、部類ごとに整えて並べた教条です。ブッダが話された時は、必ずしもこのような順に話されていません。前、あるいは後に生じた出来事に応じて話されたと分かっているので、重いのも軽いのも混じっています。

 サンギーティカーチャーンと呼ぶこれらの教条の順を編纂するために集まった人は、結集(編集)の会議をしました。編集した教条は、パーリのスッタの中の教条と違い、軽重によって並べられていいません。捨てるに相応しいと見たように話され、罪の名前を明示せず、おまけにそれに関わるアーチヴァパリスティ(職業清浄)戒の類の教条もあります。

 本当は、阿羅漢の跡を追う人の学習のために、律の中にあるパーティモッカである教条すべてについて詳細に述べるべきです。しかし私がそのようにしないのは、それらの教条の多くは。本当にダンマであることを決意した人の道の外にあり、ほとんどは外して良く、それらの人にとって煩わしいので、規定する原則としてだけ述べる方が良いです。

 詳細に述べれば、長くなりすぎます。もう一つ、クロムプラヤーワチラヤーナ猊下が「ヴィナヤムッカ一」という名の本を、この系統で完璧に教条を編纂なさったので、詳細に知りたい人は、この本を読まれる方が、ここで重ねて取り上げ、のろのろ説明を重ねるより良いです。そしてほとんどの方がこの本を繰り返し学んでいます。

 実際すべての教条は、実践だけを望むなら、しつこい質問に答えるため、あるいは誤った時に言い訳するために学んでおく以外には、あまりたくさん学ぶ必要はありません。ほとんどの教条は、犯すことは、当然意図があることを重要と見なすので、本当に実践して進歩したいと望む人は、教条を犯す意図をもち難いです。

 あるいは悪を成すことを、通常人間は、当然恥ずかしく感じます。気づかずに法律違反をしない在家のように、法律を勉強し終わって法学者にならなくても「こういうのは法律違反に違いない」と、自分自身で見積もることができ、恥ずかしくて隠したい気持ちが生じ、高い側のタンマが忠告するからです。弁護士が法律を詳しく知るのは、むしろ被告を援けるためです。

 快適さだけを考えることが、常に律の隙を探させます。わずかな隙でも、快適さのために何としても探すので、すべての角度を勉強しなければならないと見させます。あるいは、そうでなければ阿羅漢の跡を追うことと別の目的であり、問題に答えて卒業証書を受け取るためです。

 最初の六十人の阿羅漢は、これらのヴィナヤ(律)を一項も知らずに阿羅漢に到達しました。その方々は、チーヴァラヴィパヴァーサ(寝る時も衣をつけていなければならない規則)など意図に関わりのない部分以外は、悪が生じることができない広い教えが心にありました。

 だから教えを広く知ること、あるいは意図しないことは、戒の段階を通過させ、疑うまでもなく高いものに到達させるに十分です。

 すべての戒条を簡単に規定する教え、クロムプラヤーワチラニャーナ猊下が編集なさった教え(律蔵)は次のようです。

1.窃盗や殺人など最高レベルの罪科を受けるほど、人を残酷にするのを防ぐために規定された戒条。

2.上人法、つまり思いがけない幸運や名声のために聖向聖果を自慢するなど、世界を騙して生業とするのを防ぐために規定されたもの。

3.罵り合い、殴り合いをさせないなど、残虐な人になるのを防ぐため。

4.嘘を言い、告げ口を言い、酒を飲むのを禁じるなど低劣な振る舞いを防ぐため。

5.盗み聞きを禁じるなど損害のある振舞いを防止するため。

6.脅して強制するのを禁止し、水遊びを禁止し、ふざけるために物を隠すのを禁止するなど、隠れるのを防ぐため、

7.その時の好みで、好みを維持するために、たとえば土を掘ること、木を伐るなどを禁止する。

8.出家する伝統に合わせるために、時間でない時に食べるのを禁じる。あるいは、両手で受け取らなければならないことなど。

 これだけでも、実践する決意をした人が「このようなら、すべての戒条に反す」と、自分自身で規定できます。このように明らかな規定を目指す教えがあるでしょうか。すべての角度、すべての穴を埋める方が、だらしのない人、あるいは「知る鳥」と呼ぶ類の人として振る舞うより、あるいは自分と世界に言及する以外に本当の純潔を目指さない弁護士よりマシです。

 戒の話の知識は、全部修了するほどでなくても、述べたように広い見本の四つの戒が本当にあることには敵いません。だから広く完璧に学んで清潔清浄に実践する人は重要で、賢いです。特にこれらの細かい戒条について知ったことがない阿羅漢の後を追うことに関して急ぐ場合は。


4.パーリ・スッタンタピダカ(経蔵)のパーティモッカ

 パーリの経から来ているパーティモッカ、あるいは教条(あるいは戒条)は、すべてご自身で話されたブッダバーシタです。あるいは梵行を行う良家の子息が、ブッダのブッダであることを維持する代わりに話されたもので、当然パーティモッカで慎重にし、そのような戒で完璧です。

 だから話全体がブッダバーシタでなく、教典を編纂したアーチャンたちの言葉である、パーリ・律の中の戒条と違います。

 世尊が般涅槃されると、生じた話を語り、そのように戒条を規定しました。アーチャンは部類ごとに順に並べ、最後に、僧が半月ごとに唱えなければならない戒条としてまとめました。律の系統の戒条の規定は、そのような出来事が生じた時に規定なさったので、今見えるような数の戒条になったのは、それから長い時間が経過してからです。

 パーリ・スッタの系統のパーティモッカは、出来事が起こる前に話されても、このように全部揃えることができます。この宗教の比丘サンガのパーティモッカはこのようでなければならないと広い系統で話されたので、アーバッティの名前をハッキリ明示しないで、「するべきでない」と言うだけです。

 公開して法律のように使う律でなくても、広い律の規則で、一部簡単に規定でき、元のブッダバーシタの形にあり、誰も改革したことはないと考えて見るべきです。禁じる目的は、当然パーリ・ヴィナヤとパーリ・スッタの面と一致します。

 パーリ・スッタの系統の戒条は、パーリ沙門果経、あるいは梵網経から規定できる系統があります。希望者はそこを詳細に見てください。ここでは概略として述べます。(サヤーム版三蔵なので)三つに分けるのが好まれます。つまり小戒、中戒、大戒です。


小戒

 殺生、窃盗、性交、虚言、告げ口、暴言、歌舞演劇を見ること、相応しくない坐臥所に坐臥すること、金銀、男女の奴隷、乗る動物、田、庭園など、受け取るべきでない物を受け取ること、人の遣いをすること、詐欺、そして加害することを避けます。

中戒

 ほとんど小戒と重複しますが、物の名前を種類ごとに、非常にたくさんに分けて述べています。溜めるべきでない物を溜めることを禁じる項ではすべての種類を、恥ずべき蛮行、様々な畜生談、主義見解の話で口論することなど、すべての話の種類を分類しています。

大戒

 大戒ではすべての畜生知識を禁止しています。つまりサマナのものでない仕事を部類ごとに分け、占い師、祭司、医師、外科医、家畜占い、物の状態占い、家畜の状態占い、戦争占い、天候占い、花と線香と蝋燭を供えて祈願する人、調薬師です。パーティモッカに入っている戒条は少なく、ほとんどは品正行、あるいは職業清浄戒に相当します。同じように詳細に名前を分けています。

 この要旨で、パーリ・スッタの中の戒条は心の訓練の道具、あるいは基礎である戒、つまり高いサマーディだけです。

 律のパーティモッカの中の戒条、たとえば比丘尼に関わる戒条、鉢や衣など使う物を仕舞って、維持して、使うことなどから、刃物で脅すことや幽霊で騙すこと、ふざけるために物を隠すのを禁じるなど低い話まで、些細な、あるいは秩序だけの戒条はないと見ることができます。本当のダンマを希求する人は、通常このような症状はありません。

 学習者は、高い品行に関わる戒条と、述べたように粗い愚かさを削り落とす規則でしかない戒条を知るべきです。それがパーティモッカの本質を知る道です。心身が軽くなり、決意したように慎重に注意しなければならない戒条と感じるものは幾つもありません。

 普段は自分もそのような行動をしてなく、それらの戒条は、下品で普通以上にやんちゃな比丘のためにあるからです。このようにできれば、高い実践のために進歩することにチャンダ(満足。喜び)が生じます。


5.パーティモッカと律はどのように違うか

 広さを望むなら、パーティモッカという言葉は心の煩悩を捨てる段階のダンマを意味します。パーリ・オーヴァーダパーティモーッカとヴィナヤも同じです。

 ヴィナヤ(律)という言葉は、残らずすべてを導くという意味で、素晴らしく導き、「導いて破滅させる」のは、悪に導くという意味です。ほとんどが、当然パーティモッカとヴィナヤは同じと知って理解しているように、ヴィナヤは比丘の戒、戒条は身体と言葉の悪を出してしまう物という要旨です。これは、ほとんどが承知している特に低いレベルだけ正しいです。

 しかし全部を述べれば、「ヴィナヤ」という言葉は煩悩をすべて出してしまえることを意味します。しかしこのように広い意味がある言葉にはあまり出合いません。現代は尚のこと、話す人は誰もいません。「ヴィナヤは煩悩をすっかり捨てられること」と話す人はいません。ブッダは増支部 サッタカニパーダのパーリ(パトマスッタ)で、この言葉を話されています。

 「比丘のみなさん。比丘は七つのダンマがなければなりません。そうすればヴィナヤのある人と呼ばれます。七つのダンマとは何でしょうか。

 七つのダンマとは破戒罪を知り、非破戒罪を知り、重罪を知り、戒があり、パーティモッカで慎重にする戒のある人で、礼儀とゴーチャラ(餌場)が完璧で、たとえ少しでも罪の危険が見え、すべての戒条を学び、現生で幸福に暮らす道具であり、心の面の最高のダンマである四つの定を簡単に得ることができ、最高の智慧で心解脱、智慧解脱を現生で明らかにします。

 すべての漏が無くなるからです。比丘のみなさん。このように七つのダンマがある比丘は、「ヴィナヤ(律)を維持する」と言われます。

 この教えで述べるなら、ヴィナヤは私たちが誰でも理解しているパーティモッカより当然高いです。ここで取り上げて講義してすっかり終わらせるのは、知識を広くして飾るためだけです。


6.パーティモッカサンヴァラは行儀とゴーチャラに関係がある

 沙門果経など多くのパーリで戒について述べれば、「あなたはパーティモッカサンヴァラで慎重にし、行儀とゴーチャラ(餌場)が完璧で、普段から、僅かでも罪の危険が見え、すべての戒条を学んで遵守します」と、このように当然正品行である行儀とゴーチャラ(餌場)について、毎回述べています。この要旨で、正品行とゴーチャラ(餌場)は、パーティモッカサンヴァラの段階で一つになっているということです。

正品行

 衛生や、八物、食べ物、人物などに関わるたくさんの小さな戒条で、比丘が更に行動すべき行儀に関わっています。それを正品行、あるいは正品行戒条がパーティモッカ戒条と対のヴィナヤのカンダカに来たと言います。それを初梵行戒条、あるいはヴィバンガと言います。

 正品行の類の戒条は数え切れないほどたくさんあり、クロムプラヤーワチラニャーナ猊下は部類ごとに整理しました。ヴィナヤの学習に便利なので、学習者はそれを調べて見るべきです。ここでは規定するための題目だけを表示します。

1.身体を管理することに関して正しく行動しなければならない行儀。

2.八物の使用と維持に関して正しく行動しなければならない行儀。

3.上の人と下の人が依存し合うことに関して正しく行動しなければならない行儀。

4.用事と伝統である勤めを行うことに関して正しく行動しなければならない行儀。

5.段階に従って尊重することに関して正しく行動しなければならない行儀。

6.雨安居をすることに関して正しく行動しなければならない行儀。

7.菩薩を行うことに関して正しく行動しなければならない行儀。

8.在家と連絡をすることに関して正しく行動しなければならない行儀。

9.種類の違う物を食べることに関して正しく行動しなければならない行儀。

10.(いろんな)物の権利に関わる正しく行動しなければならない行儀。

11.罪の告白など、遺言をすることに関わる正しく行動しなければならない行儀。

12.保護を求めるなど細々した話に関わる正しく行動しなければならない行儀。

 これらの戒条は、戒条全体にも少ない、幾つかの粗いトゥラッチャイ罪以外は、ほとんどすべて破戒の罪科です。行動すべき戒条は、比丘集団に庶民より悪い行儀がないようにさせるためで、同じに遵守するのは、使う物の維持などの部分です。

 そして僧自身のための精緻な伝統習慣であるためで、そうすれば庶民がしていることと違う部分で庶民に尊敬される存在になります。そしてパーティモッカと呼ぶ戒条と違って、いつでもふさわしく転用できる戒条です。

ゴーチャラ

 比丘が交際すべき人物、あるいは行き来すべき場所で、加害されるなどの体の面でも、煩悩貪欲に支配されないなどの心の面でも、危険をもたらさない場所です。

 アゴーチャラは比丘が行くべきでない場所です。パーリでは六種類明示してあります。娼婦、未亡人、行かず後家、比丘尼、去勢者、酒屋です。これらはきちんとした用事がある場合以外は、比丘が行くべきでなく、あるいは関わるべきではありません。

 ブッダが六種類だけ名指しされたのは事実ですが、同様の危険を生じさせる人物、あるいは場所は、名指しで禁止する規定がなくても、比丘はどれも避けるべきです。ブッダは、アゴーチャラに行き来する比丘を、トラやライオンの縄張りに行く牛、茨の中に入る毛の長い羊、ジェット気流の中に飛び込む鳥、漁師が仕掛けた罠がある領域に行く亀や魚のようと述べられています。

 他に善い品行があってもアゴーチャラと親しめば、当然危険を受け取り、梵行が破滅することもあります。そしていつでも確実に受け取らなければならない罪は、梵行仲間が嫌悪することです。


7.集会してパーティモッカをすること

 私は、今サンガのパーティモッカをする集会は、まだ、あまり真実の結果がないと理解しています。唱えているパーリ・パーティモッカを聞く人が聞き取れないこと以外に、する状態も、本当に結果を得るよりは、むしろ形式めいています。タイ語でヴィナヤを勉強し、知って実践すれば十分と捉えています。

 パーリ語ですごく早く菩薩する部分は、パーティモッカする伝統習慣を維持するためだけです。通常僧はパーリ語で話さないので、ゆっくり話しても正しく聞き取れません。耳慣れないのでよく考え、唱えるのはインコが話すのと同じで、座って聞く人はインコが話すのを聞くのと同じと考えさせます。述べたようにパーリ語でパーティモッカを唱える時、自分の罪を告白する比丘はあまりいません。

 それは、今の僧はほとんど、パーティモッカをする前に全部破戒を表明するのが流行りで、ある僧たちは、破戒の種類を分けて表明し、ある僧たちは名前を分けません。しかしたぶん同じ結果があります。名前を分類する人たちもすべての破戒に名前を分類し、時には自分が表明したすべての破戒に触れなくても、パーティモッカをする前に破戒の表明をしなければならない一つの伝統です。

 本当は、戒条ごとにパーティモッカを唱えるのは、聞く人に内心で、戒条ごとに復習して規定させるためです。自分が犯したアーバッティに至ってまだ表明しないと思い出します。そして僧たちの中で表明し、ウッターナガーミニ、つまりサンガーディセサ(僧残罪)なら、相応しい機会に言って返却します。

 アーバッティ(罪の告白)があれば、自分の戒清浄にたくさん喜悦があり、それは重要な心清浄の基礎の一つです。

 増支部 ティカニパーダのパーリ(チャッタスッタ)のブッダバーシタでも、「ロークッタラダンマの到達にとって薄幸な人は誰もいません。これらの小さな戒条を本当に犯しても、このようにアーバティを拭き取ることにぞんざいにするのは、破戒を隠す、あるいは破戒に無神経な習性にするからです。簡単に悪で粗い破戒を隠すほど、どんどん愧がなくなり、ヴァッターナガーミニーの規則はほとんど不毛です」と言われています。

 しかし今の僧は、悪で粗い破戒を犯すことは、ブッダの時代より少ないと信じる人は、誰もいないように見えます。自分だけに関わる悪で粗い破戒、たとえばサンジェッタニカ戒条、パトマサンガーディセサなど、パーリで「触れる人が時々いる」と、そして「僧集団の中で公開して明らかにする」と話しているようなのは、今は誰も触れる人がいないように見えます。

 あるいは自分だけに関わる戒条で、そしてこの戒条のように内面なので、カンマにあります。形式としてでもパーティモッカをして罪を落とさせないなら、何で罪を落とすのでしょうか。

 形式的にすると言うのは、本性に本当の慚愧を生じさせる訓練ではありません。今パーティモッカをするのは、菩薩堂で一時間半、ほとんど座る我慢をさせることです。しっかりした規則のない寺は、誰も行きたくないので、パーティモッカをする集会に来ない人も多いです。これも、することはあっても形式だけにすることの害です。

 ブッダの時代は森で暮らす比丘も、本当にダンマである心と行動で、わざわざパーティモッカをする集会に集まりました。今の比丘であるみなさん。今よりもっと、そのようにする努力をしてください。阿羅漢の足跡を追う最初の一段である、本当の結果があります。

 短いパーリですが、ブッダのご意志で本当に結果があるパーティモッカをする集会の教えの説明である、パーリ・ゴーパカモッガラーナスッタ(中部)の一部であるブッダバーシタは、次のようです。

 「バラモンさん。戒条は知る人、自身で悟った阿羅漢であり、規定し、多くの比丘に教えた世尊はいます。私たちは何人でも、菩薩日になると、一つの街に滞在して全員集会します。説明できる比丘のパーティモッカは、私たち全員がその比丘を招いて説明させます。

その人が唱えている時、どの比丘が犯した破戒、あるいは罪でも、私たち全員はその比丘を招いて、ダンマに従い、教えに従って表明させます。その人はすべての比丘がさせるのではなく、ダンマが強制してさせると理解します」。

 このようにパーティモッカすることは、一致団結して、サンガが清潔清浄に、順調に経過するよう護ることです。ダンマを重要と見るので、たとえ小さな罪でも、平素から危険が見える人になるよう訓練します。


2 サンヴァラとは何か



 サンヴァラとは、綴りではすべてを防ぐという意味で、閉める、隔てる、塞ぐ、注意して悪を自分の中に生じさせないことです。短く「サンヴァラ=慎む」と言います。ここでは全般的に慎重にすることと、この段解で述べるパーティモッカだけに慎重にすることの、二種類の説明をします。


1.一般の慎むこと

 パーリでは、いろんな教えで慎むことについて述べています。ほとんどは入り口である六門、目・耳・鼻・舌・体・心と、内心の悪の発生について述べています。ブッダはこの六門に慎重にするよう教え、根律義と言います。この種の慎むことを根律義と言い、パーティモッカサンヴァラ戒の次の段階とします。だからここで述べる必要はないということです。次の、直接戒の段階で述べます。

 パーリの他の幾つかの個所では、人が慎むべき門を三つだけ話されています。三つとは「体を慎むことは善いこと、言葉を慎むことは善いこと、心を慎むことは善いこと。すべてを慎むことは善いこと。罪に対して恥がある人はすべてを慎むことができる。私はその人を、自分を維持できる人と呼ぶ」というブッダバーシタ(アッパカスッタ サガータヴァッガ 相応部)のように、体・言葉・心です。  

 もう一種類、五律義と呼ぶ、それに慎重にするダンマに依存して、広く慎むことを述べています。

イ 戒律義 戒で慎む。つまりパーティモッカサンヴァラ戒の律義で、この後の種類で述べます。

ロ 念律儀 サティで慎む。六門、あるいは三門を注意深く維持するサティがあります。「ヴィパッサナーする人は最高の四念処を六門を遮断する道具にし、その網に張り付いている煩悩を殺してしまいなさい」と述べているアヌルッタバーシタのように、サティは悪を良く隔絶する道具です。

 世尊ご自身も「比丘のみなさん。比丘は常自覚がある人でいなさい。これはみなさん全員への教えです」、そして「比丘のみなさん。門番であるサティが有る聖人は、当然悪を捨て、善を発展させることができます。当然罪のある物を捨て、罪のない物を発展させることができ、当然自分を清浄に管理できます」と話されています。

 短く言えば、自覚するのが間に合えば、当然罪、あるいは悪を防ぐことができます。(マハーヴァーラヴァッガ 相応部)

ハ 智律義 ニャーナ(智)である知識で慎重にする。清浄道論の著者は、パッチャヤサンニッシタ戒、あるいは比丘がこの律儀で慎重にする罪のない四依の使い方、そして煩悩と他の悪を追放する道具である智慧まで、広く述べています。

 アジタ青年に答えられたブッダバーシタでは「これらの流れ(つまり煩悩)を、人は智慧で遮ることができる」と言われました。これは智律儀です。短く「後で大変なことになると分かる賢さは、当然罪、あるいは悪を防ぐことができる」と言います。

ニ 堪律儀 カンティ、つまり忍耐で慎重にする。疲れ、暑さ、寒さ、そして耳障りな言葉を堪忍できることは、当然内部に生じる、あるいは外部にまで現れる悪を遮ることができ、時には全部排除できます。

 忍耐がない時はいつでも、道を開けて悪を生じさせます。痛みに堪えられない比丘は蚊を殺すなどいつでもでき、怒りに対しても忍耐がなく、いつでも友人を殺すことができ、子は怒り故に父母を殺すことができます。

 サティ、あるいは知識が間に合わない時は、取り敢えず忍耐があるべきです。時には忍耐だけで悪は機会がなくなります。サティやニャーナまで困窮する必要はありません。時にはサティ、あるいはニャーナが忍耐より先に生じなければならないこともあります。だから形勢に間に合うように忍耐、あるいは堪忍しておけば、当然罪や悪を防ぐことができるということです。

ホ 精進律儀 努力で慎重にする。この項目は、最後に規定なさったことに最高に相応しいです。終わりに至るまで専心してすると言うように、いつでも休みなく、途切れることがない長い律儀だからです。多くのパーリで悪の考えを捨て、悪の考えを生じさせないよう注意することを「ヴィリヤ=精進」と言います。直接梵行の行動のある人の精進であり、間接的には戒の部分の体と言葉の悪まで意味します。

 一般の精進は「比丘のみなさん。この宗教の比丘は、

①まだ生じていない悪で下品な物が生じさせないために、当然心を大切に維持し、
②生じた悪で下品な物を捨てるため、
③まだ生じていない、善であるダンマが生じるため、
④生じた善であるダンマの安定と薄れないこと、最高の発展、繁栄、美しさのために、当然チャンダを植え、当然努力し、当然努力を始めます。

 比丘のみなさん。この四つのダンマを、私は正しい努力と呼びます」と話されたパーリ(大念処経 マハーヴァッガ 長部)で知ることができます。

 学習者はこの四つのダンマを熟考して沁み込ませれば、当然、どれほど実践者の悪を遮蔽するか、そして悪を遮蔽するだけでなく善を植え付けると、自分自身で知ります。実際、努力で慎重にすることは熱心に悪を塞ぎ、生じる隙を少しも作りません。パーリの幾つかは、努力の状態を不注意でないことの一部と話されています。

 述べたように項目ごとに分けるのは、一項だけでもその部分の悪を遮蔽することができるという意味です。しかし関連させて述べれば、時には、あり得る同じ話の五項目全部を使わなければなりません。当然次のように関連させて述べることができます。

 最初の段階では戒律儀と呼ぶ避けることで慎重にする決意をします。しかしサティ律儀に依存して、常に避けなければなりません。あるいは避けないと考えた時に気づきます。

 しかしサティだけではあまり正しく管理できないので、智律儀と呼ぶ善悪を知る知識が、常に身についているべきです。律儀をすることに困難が生じたら、忍耐しなければならない堪律儀の義務です。長く専念しなければならない時は、当然精進律儀がこれを担います。このように関連した系統で遵守すれば、パーティモッカサンヴァラは五つすべての律儀に依存します。他の実践項目も同じです。


2.パーティモッカで慎重にすること

 パーティモッカで慎重にすることは、五律儀の最初の項目である戒律義と述べたように、ここでは「戒として避ける物である意図」と述べている、清浄道論の著者の教えを掴みたいと思います。この要旨を掴めば、戒律儀は避ける物である意図で慎むことであり、理解し易く、説明は要りません。そして後の四つの律儀のようにハッキリしています。

 意図は避ける道具で、パーティモッカである戒条で当然心に忠告して、比丘にその戒条を犯させません。その人がその戒条を犯さない状態は、常に身構えて管理することで、体と言葉を清潔に維持して、平然としていることができます。それがパーティモッカに慎重にすることです。

 戒律儀、あるいは避けることで慎重にすれば成功します。短く「避けることはどのように、どれだけ悪を遮蔽するか、誰でも見えている律義にする」と言います。


3 戒とは何か



 パーティモッカサンヴァラも戒の一つと言う場合、あと三つの戒と同じなので、ここで戒という言葉の要旨の説明をするべきです。あと三つ、根律儀、職業清浄、そして資具依止戒ば、これ以上説明は要りません。ここと同じように戒という言葉の意義の要旨を掴んでください。清浄道論の戒解説で述べている系統で、項目ごとに説明します。

イ.何が戒か
 パティサムビダー(無碍解)の中のプラ・サーリープッタの答えは、「戒条を犯すことを避ける考え、意図が戒」とあります。あるいは内心の知識であるチェッタシカ、その避けることが戒です。あるいは自分が犯す物と連絡しない気持ちが戒です。あるいは戒条を遵守する人物の犯さないことが戒です(清浄道論 シーラニデーサ)。

ロ.戒と呼ぶものはどんな内容だから

 意義である要旨が正常、つまり静かで体が混乱しないことを戒と呼ぶと説明します。ある集団のアーチャンは戒の要旨をもっと広く「最高の物、発端、清涼なもの、付き合うべき物だから戒と呼ばれる」と説明する人もいます。

ハ 何が戒と観察する物の状態か

 戒にいろんな種類があっても、どの種類も正常である状態があると答えます。いろんな体は色や形の違いはあっても、目で見える同じ状態があるのと同じです。

ニ 何が戒の味か

 悪い戒を排除してしまうことができ、罪がない清浄さが戒の味です。甘さが砂糖の味であるように、味は喜ばしい性質です。

ホ 何が戒の印か

 門の清潔さである体と言葉が戒の印、あるいは勝旗です。煙が上る所はどこでも、そこには火、あるいは熱がある印であるのと同じです。

ヘ 何が戒の土台か

 慚と愧が、戒の基礎であり土台です。大地は植物全般が依存する基盤のように、基盤である慚愧がなければ空中の柱のように、戒が生じること、あるいは維持はできません。

ト 戒の功徳は何か

 「アーナンダ! 比丘が良く行動する戒は、困窮しないことが結果であり、功徳です」とプラ・アーナンダに言われています。

 そして「長者さん! 十分サティがある人は、当然大きな財産である、最高の徳がある不注意でないことを得ます。戒が完璧にある人は、当然拡散する名誉があり、当然王、あるいはバラモン、あるいは長者、あるいはサマナの会合で勇敢に見えます。戒が完璧にある人は、当然死ぬ時もサティがあり、迷って呆けず、死んでも善趣に行きます」と長者に話されています。

 そして比丘たちに「比丘のみなさん。比丘が梵行仲間に愛され、喜ばれ、尊敬尊重されたいと望むなら、その比丘はすべての戒を完璧になさい」と言われています。

 他にもまだ話されているのがたくさんあり、例えば「人が天国へ行けるのは戒ゆえ」「滅尽に行くのは戒ゆえ」「戒は老いるまで幸福をもたらす」などです。清浄道論の著者であるブッダゴーサ師は、戒の功徳を次のような詩に綴っています。

 この宗教の良家の子息は、
 戒を除いてしまえば、拠り所はない
 だから戒の功徳の量を、
 規定して述べられる人は誰もいない
 ガンガ、ヤムナー、サラタ、サッサヴァディー、ニンナガー、
 アジラヴァダィー、マヒー川
 これらの川は、
 世界の動物の汚れを洗うことはできない
 すべての動物の汚れを洗い流せる川は 戒だけ
 栴檀の芯材も、真珠も、宝石も
 たおやかな月の光も、汚れを洗い流せない


 人が善く維持している戒は最高に涼しく、
 素晴らしい物
 世界のすべての動物の焦燥を静められるのは、
 これだけ
 他の涼しさは静めることはできない
 戒の芳醇さと比べられる匂いはどこにもない
 戒の芳香はいつでも、
 風下にも風上にも舞い上がるから

 戒のように動物が天国へよじ登る階段は、
 どこにもない
 戒は涅槃の門
 真珠や宝石で身を飾る国王も、
 戒で身を飾る修行者ほど美しくない

 戒は当然、
 すべてにおいて自分を貶すことを減らし
 一時も休まず戒のある人に
 名声と明るさを生じさせる
 戒は他のすべての善の基礎
 戒は悪の力を弱めるもの
 哲学者はこのように、戒の功徳を知るべし

チ 戒は何種類あるのか

 何種類もあると答えます。一種類、二種類、三種類、四種類、五種類と答えることもできます。考えの傾向として十分な要旨だけ述べます。

 状態、あるいは状況で述べれば、すべての戒は一種類しかありません。つまり戒は正常である状態です。

 戒を二種類に分ければ、幾つもの対にできます。

 行動しなければならない、そのように、このようにしなければならないと規定なさった部分の戒条である戒を、チャーリッタ戒と言い、そのように、このようにしてはいけないと規定された戒条である戒を、ヴァーリッタ戒と言います。

 梵行の最初の重要な教えである戒を、アーディブラフマチャリヤカ戒と言い、より繊細で緻密な行動をする道具である戒を、アービサマーチャリカ戒と言います。

 愛欲で満たされた天人になりたいと望んで行動する戒、あるいは「私はこの戒で特別な人になる」と見て、欲望と傲慢が住んでいる戒をニッシタ戒と言い、ロークッタラ戒の部分、あるいはローキヤ戒ですが述べたのと反対のものをアニッシタ戒と言います。

 幾日、何カ月と時間を決めて行動する戒を、カーラパリヤンタ戒と言い、時間を限定せず、最後の一呼吸まで維持する戒を、パーナコーティカ戒と言います。

 貰い物、階位、親戚、器官、命のことを考えて維持する人なので、遵守して止める戒をサパリヤンタ戒と言い、命を失っても止めない戒をアパリヤンタ戒と言います。

 凡夫の戒をローキヤ戒と言い、聖人の戒をロークッタラ戒と言います。


 戒を三種類に分けるなら、

 悪い戒・ 中間の戒・ 緻密な戒

 自分を思って維持する戒・ 世界を思って維持する戒・ ダンマを思って維持する戒

 煩悩に撫で回される戒・ 煩悩に撫で回されない戒・ 静まった戒

 清潔正常な戒・ 憂鬱な戒・ まだ躊躇いがある戒

 有学の戒・ 無学の戒・ 有学でも無学でもない戒


 これらは、戒は何種類にも分けることができると見せる物です。学習者が比較したければ、まだどのように分けることもできます

リ 何が戒を憂鬱にする物か

 思いがけない幸運などがあるイッターラマナ(好所縁)と七淫欲偶合は、戒を憂鬱にする物です。

 最初に幸運などがある好所縁がどの比丘の心を支配しても、その人は戒の破滅に至り、戒条の初めの項目と終わりの項目、いずれか一つを犯せば戒に欠けると言われます。真ん中の戒を犯せば突き出た戒があると言われ、戒条の何か所も欠ければまだらの戒があると言われます。幾つもの塊になって欠け、一塊に幾つも戒条があれば、まだらの戒があると言われます。

 後者はまだ五欲に愛欲があり、未練がある人が維持する戒です。これは話されているパーリ(サッタマスッタ 増支部)があります。

(1) バラモンさん。この世界のサマナ、あるいはバラモンのある人は、自分を梵行者と宣言し、女性と性交をしないのは事実ですが、撫でたり、マッサージしたり、沐浴の手伝いをしたり、女性に按摩してもらうのを喜ぶ心があり、その奉仕を喜び、歓喜します。

 バラモンさん。私はこれを、斑でぶちがあり、突き出た部分がある梵行と言います。この人は梵行の行動が十分でなく、淫欲偶合があり、生老病死から脱していないと言います。

(2) 他にもね、バラモンさん。この世界のサマナ、あるいはバラモンのある人は、梵行をするサマナと宣言し、女性と性交をしないのは事実です。そして撫でたり、マッサージしたり、沐浴の手伝いをしたり、女性に按摩してもらうのを喜ぶ心はありません、

 しかし彼はまだ、女性と笑ってふざけ合い、冗談を言い、冷やかし、そのふざけ合いを喜びますバラモンさん。私はこれを、梵行は突き出て、斑で、アバタがあると言います。この人は十分でない梵行の行動があり、淫欲偶合があり、生老病死から脱せないと言います。

(3) 他にもね、バラモンさん。この世界のサマナ、あるいはバラモンのある人は、梵行をするサマナと宣言し、女性と性交をしないのは事実です。そして撫でたり、マッサージしたり、沐浴の手伝いをしたり、女性に按摩してもらったり、女性と笑ってふざけ合い、冗談を言い、冷やかし、ふざけ合うのを喜びません。

 しかし自分の目で女性を見つめるのが好きで、目が合うのを喜びます。バラモンさん。私はこれを、梵行は突き出て、斑で、アバタがあると言います。この人は十分でない梵行の行動があり、生老病死から脱せないと言います。

(4) 他にもね、バラモンさん。この世界のサマナ、あるいはバラモンのある人は、梵行をするサマナと宣言し、女性と性交をしません。そして撫でたり、女性に按摩してもらったり(など)するのを喜ぶ心がなく、女性と笑ってふざけ合わず、女性と目を合わさないのは事実です。

 しかし女性が笑っているのでも、話しているのでも、歌っているのでも、泣いているのでも、壁の外でも塀の外でも、女性の声を聞くと、その声を喜びます。バラモンさん。私はこれを、梵行は突き出て、斑で、アバタがある部分と言います。この人の梵行の振る舞いは十分でなく、生老病死から脱せないと言います。

(5) 他にもね、バラモンさん。この世界のサマナ、あるいはバラモンのある人は、梵行をするサマナと宣言し、女性と性交をしないのは事実です。そして撫で、女性に按摩してもらうの(など)を喜ぶ心がなく、女性と笑ってふざけ合わず、女性と目を合わさず、女性の声を聞くのを喜びません。

 しかし自分が女性と笑ってお喋りし、冗談を言ったのを思い出すと、その考えを喜びます。バラモンさん。私はこれを、梵行は突き出て、斑で、アバタがあると言います。この人の梵行の振る舞いは十分でなく、生老病死から脱せないと言います。

(6) 他にもね、バラモンさん。この世界のサマナ、あるいはバラモンのある人は、梵行をするサマナと宣言し、女性と性交をしないのは事実です。そして撫で、女性に按摩してもらうの(など)を喜ぶ心がなく、女性と笑ってふざけ合わず、女性と目を合わさず、女性の声を聞くのを喜ばず、女性と笑ってお喋りし、冗談を言ったのを思い出してその考えを喜びません。

 しかしその時長者、あるいは長者の令息が五欲で満たされ、従者が侍っているのを見ると、その奉仕を喜びます。バラモンさん。私はこれを、梵行は突き出て、斑で、アバタがあると言います。この人の梵行の振る舞いは十分でなく、生老病死から脱せないと言います。

(7) 他にもね、バラモンさん。この世界のサマナ、あるいはバラモンのある人は、梵行をするサマナと宣言し、女性と性交をしないのは事実です。そして撫で、女性に按摩してもらうの(など)を喜ぶ心がなく、女性と笑ってふざけ合わず、女性と目を合わさず、女性の声を聞くのを喜ばず、女性と笑ってお喋りし、冗談を言ったのを思い出してその考えを喜ばす、長者、あるいは長者の子息が五欲で満たされ、従者が侍っているのを見ても喜びません。

 しかしこの戒で、あるいはこの梵行でなれると自信を持って、天人の長、あるいは何らかの天人になることを期待して梵行の行動をする人で、戒、あるいはその勤めを喜びます。バラモンさん。私はこれを、梵行は突き出て、斑で、アバタがあると言います。この人の梵行の振る舞いは十分でなく、生老病死から脱せないと言います。

 この二種類は戒の曇りです。

ヌ 何が戒の清潔清浄か

 壊れて消滅しないこと、犯した罪を返す行動、淫欲偶合の七項がないこと、怒りと、徳を消さないことなど、他の罪がないこと。この四つが戒の清潔清浄です。

ル 壊戒はどんな罪があるか

 清浄道論で述べれば、「破戒の人は、当然天人と人間に喜ばれる所でない。破戒の人であり、そして梵行仲間が忠告できないので、非難された時に苦に至る人である。美しい戒がある人に称賛されても(自分は戒がないので)困惑を感じ、そして破戒の人なので、皮膚が春巻きの皮のようにアバタだらけである。

 更に、破戒の人の様式を真似ると、長い時間苦を受け取る。だからその人は(友達に)苦をなすり付ける人と言われる。どの支援者から物施を受け取っても、それらの支援者にとって大きな結果にならない。だから値打ちの少ない人で、長年溜まった便壺のように片付けるのが難しい。(両端が燃えていて、手を汚さずに掴める場所がない火葬時の)薪のように、どちらも手がつけられない。

 彼が比丘と宣言しても、牛の群れの後を歩くロバのように、比丘ではない。身の回りに罪を作る人のように恐れおののく人で、死人の亡骸のように、誰も一緒に暮らすべきでない人である。彼に徳があり、知識などがあっても、墓地の火葬の火のように、火を崇拝するバラモンも大切にしない火葬の火のように梵行仲間も誰も、供物を供えて尊敬しない。

 盲人は絵を見ることに薄幸なように、彼は特別な恩徳に到達すべきでない人だ。そして両親のカーストが違う子は、王座に関して絶望的なように、正法に絶望的な人である。自分は幸福と理解しても、パーリ・アッギカンドーパマスッタで述べている比丘のようにまだ苦の部分があるので、苦に至ったと見なす」。

 パーリ・アッギカンドーパマスッタで、世尊は破戒の比丘について「支援者から布施を受け取っても、まったく素晴らしくない」と説かれています。

 「火の塊を抱いて寝る方が破戒より良い。動物の毛の紐を脛に巻いて、骨髄に達すまで傷つける方が、破戒より良い。大衆の拝礼として喜ばしい。真っ赤に燃え盛る銅片を押し付ける方が、破戒で黄衣をまとい、そして住民のご飯を食べているより良い。

 赤く燃えている鉄のベッドに寝る方が、破戒で庶民が献じた使用品やベッドを使うより良い。捕まえられて真っ赤な溶鉱炉に頭から投げ入れられる方が、破戒で、信仰のある人が寄進した精舎にするより良い」ので、「死を受け入れるか、あるいは死ぬほどの苦を受け取る」という要旨があります。

 清浄道論の著者は、破戒の罪について著し、パーリ・アッギカンドーパマスッタを引用して、短い要旨十項にまとめ、次の詩に綴りました。

(1)消滅した戒がある人は、火の塊を抱いて座ることから生じる苦より、もっと堪え難い辛苦の結果がある愛欲の幸福を捨てることができない。幸福はどこから生じるのだろうか。

(2)行者は大衆に拝礼される喜びから生じる幸福があると言われるように、破戒のある人は、必ず丈夫な小鹿の毛の紐で擦ることから生じる苦の部分がある。

(3)戒のない人、あるいは「幸福は信仰のある人の合掌を喜ぶことからだけ生じる」と言われる人は、胸を突き刺す槍から生じる苦以上の苦の原因になる。

(4)慎重でない人、あるいは「幸福は原因である衣をまとうことから生じる」と言われる人は、地獄の燃えている熱いベッドに押し付けられ、永久に味わわなければならない。

(5)戒のない人は、飯の塊が美味しい物でも、強烈な毒薬のよう。真っ赤で熱い鉄の塊を、長い間、飲ませる原因だから。

(6)戒のない人がベッドや背のない椅子に座ることは、燃え上がっているベッドや背のない椅子に座るのと同じ。それは苦で、自分を苦しめる。自分は幸福と理解しても、それは堪えがたい苦。

(7)破戒の人は、人々が信仰で寄進した精舎に坐臥することはできない。本当は、燃え盛っている溶鉱炉に中に坐臥しているのと同じだから。

(8)世界の人誰もが尊敬する世尊は、破戒の人を非難して「汚れた行儀があり、自分で自分を疑いたくなり、内部は乱れ切って、愛欲狂いで下劣で内部が腐った人です。チェ! チェ!! 智慧のない人の命は、サマナの印で体を包んでもサマナでない。善いのは、彼らに自分を追い払わせ、常に彼らに掘られるだけ」と言われました。

(9)世界の戒がある人物は、清潔を愛す人が肥溜めと死骸を避けるように、当然破戒の人を避ける。破戒の人の命はすべての危険から脱せないので、何の利益もないが、幸福への到達から脱し、天国の門を閉め、悪趣に沈んでばかりいる。

(10)破戒の人を悲しみ、憐れむ人はどこの誰もいない。その人は破戒の人だから。

オ 戒があることはどんな功徳があるか

 清浄道論の著者は続けて「戒が十分ある人は、当然述べた罪の十項と反対の、戒の功徳を受け取る。そしてまだ他の功徳もある」と述べています。それは、

 「錆がなくなったどの比丘の戒も、その人の出家が出家したことは結果があると見なす。自分を非難する危険などは、闇は太陽の光まで及ばないように、当然戒が十分ある人の心の中まで影響しない。

 月は明るい光芒ゆえに野外で美しいように、森である梵行で美しい比丘は、戒が揃っているから。戒のある人の体の匂いはすべての天人を歓喜させ、戒の香りは述べるまでもない。戒の香りは、当然すべての芳香を覆い隠し、八方へ馥郁と広がる。

 支援者が戒のある人にした小さな供物は、却って大きな結果がある。戒のある人は当然、供物を受けるべき容器だから。この有の漏は、当然戒のある人を困らせることはできない。戒のある人は、当然先々訪れる苦の根を掘る。

 人間と天人のどんな財産も、戒のある人が望めば、手に入れるのが難しい物ではない。更に財産である最高に穏やかで安らかな涅槃も、戒が満ちている人の心は、当然その涅槃に駆けて行く。

 戒はすべての財産の根。学者はこれを明らかに知り、一面に溢れている功徳を、いろんな方法で掻き集めなさい」(清浄道論)。


4 パーティモッカサンヴァラに関わるその他の項目



 一語ずつ分けて書いて来ると、まとめとして整理し、まだ述べていないその他も含めて、三つについて述べることができます。


イ.パーティモッカとは、一部の悪から脱すダンマの名前で、サンヴァラとはある状態、つまり自分が注意しなければならない義務である仕事を注意深く管理するサティがあることです。

 戒とは、体と言葉、あるいは間接的で一部分である心の段階の実践項目の名前で、三語を合わせると「パーティモッカで慎重にすることから生じる正常な幸福」という主旨に訳すことができます。阿羅漢の後を追う人が必ず昇らなければならない階段の、最初の一段です。

ロ.仏教の律と言えるパーティモッカサンヴァラ戒の教えでするのを好むのは、当然家を監督する人の好みと正反対です。愛欲に埋もれているのと、愛欲から離れるのと、違う教えなので正反対です。

 だからブッダは、増支部 ティカニパーダ パンチャムスッタで、「比丘のみなさん。このアリヤヴィナヤでは、歌を歌うことは泣くのと同じ、踊りを踊るのは狂った人の症状、(歯が見えるほど)笑うのは子供の症状です。比丘のみなさん。だからみなさんは、歌を歌うこと、踊りを踊ることを止めるべきです。すべてのダンマを喜ぶ善人にふさわしい微笑みになさい」と言われています。

 このパーリは、アリヤヴィナヤは世界の好みと正反対と見せる一つの根拠です。そしてこの教えは、別個に特定なさらなくても、同じ成り行きになる他の状態全般を意味します。

ハ.比丘の食に関わるパーティモッカで慎む

 ブッダは「破戒の比丘は、真っ赤に熱した鉄の塊を飲む方が、まったく素晴らしくない庶民の飯塊を食べるより良い」と言われています(ダンマパダ ニラヤヴァッガ 小部)。増支部 エカニパーダ タティヤスッタでは、次のようにハッキリ例えられています。

 泥棒である食は、破戒の比丘の食。

 借金である食は、熟慮してから食べない比丘の食。

 財産のような食は、有学の僧の食。

 本当の施主のような食は、阿羅漢の食。


 破戒の僧は悪を隠さなければならない状態で食べ、比丘に戒があっても食べる前に熟慮せず、食べ物の適量を知らない人です。味の喜びに支配されることが最後の結果を少なくし、食べた食べ物に見合いません。

 聖人の初めの七段階である預流向・預流果・一来向・一来果・不還向・不還果・阿羅漢向は、ブッダの遺産を受け取って食べ、すべての物より上の善を維持する阿羅漢は、自分の物を食べるように食べます。つまりどのように食べても良く、泥棒でなく、借りでなく、遺産と言い訳する必要もありません。食べること、戒、そして食べる人は、このように関わっています。

ニ.サンガを監督するものであるパーティモッカサンヴァラ戒

 涅槃に近い頃、「説いておいたダンマヴィナヤは、教祖亡き後先生として存在する」と言い遺されています(大涅槃経 長部)。パーリ・ゴーパカモッガラーナスッタ(ウパリパンナーサ 中部)では、同じ要旨のアーナンダの言葉があります。

 このパーリはヴァッサカーラバラモンがプラ・アーナンダに「世尊が般涅槃された後、誰が比丘サンガの拠り所ですか」と質問したのに対して、プラ・アーナンダはダンマ、つまりパーティモッカである戒条を引用して、「ダンマはサンガを運営するものです」と言っています。

 サンガは半月ごとにパーティモッカを説きます。パーティモッカであるダンマは遵守する僧サンガが居り、罪がある人に強制して罪を返してしまわせますが、人物、あるいはサンガが強制すると見なさず、ダンマが強制してダンマを遵守させると捉えます。

 この部分の功徳の角度でしょう。律の専門家が「(花輪の)花が(バラバラにならないよう)繋いでいる糸のように、ヴィナヤは集団の秩序を管理する物」と決めつけるのは。

 本当は、ヴィナヤはむしろ人物を重要としないで、ダンマを重要とするようお与えになった統治です。憲法が民主主義式に支配するように、パーティモッカは当然、サンガダンマヌーニャの一部です。

ホ.破戒罪に触れるとは何か

 パーティモッカサンヴァラ戒のどの戒を犯すことも、破戒罪に触れると言います。解決できる種類の破戒罪は、カンマにいることで罪を全部返すことができる破戒罪です。そして自分の過ちを公開することを「破戒を公表する」と言い、まだ段階的に比丘としての善に到達する希望があります。

 支部ティカニパーダのパーリ(チャッタスッタ 増支部)で「比丘のみなさん。この宗教の比丘は戒の部分を満たす人ですが、適度にサマーディをし、適度に智慧をする人(つまり預流と一来)もいます。戒とサマーディを満たす人ですが、智慧を適度にする人(不還)もいます。戒とサマーディと智慧を満たす人(阿羅漢)もいます。それらの人は、当然小さな戒条を犯し、破戒から出ることもあります。それはなぜでしょうか。

 誰も、これらの戒条を犯すことで不幸な人(つまりロークッタラに到達できない)と述べる人がいないからです。しかしその人は梵行の初めである戒条には、盤石な戒のある人で、梵行にふさわしく、すべての戒条を学んで遵守します」と、話されているように、聖人でもまだ破戒罪に触れます。

 聖人が破戒罪に触れた時は「破戒罪に触れる凡夫である比丘も、パーラージカなど、性の原因を断つことである破戒罪に触れる以外にも、返して破戒罪から出て、最後まで実践が進歩する希望がある」と言われます。

 著者は「出なければならない。在家として到達することができる」と言われています。だから比丘が触れた破戒罪は、返してしまいなさい。あるいはムーラチェーダである破戒罪に触れたら、「在家」と宣言してしまいなさい。このようにすればその罪から出て、段階的に到達できるということです。

 パーラージカに触れて還俗し、在家になってロークッタラダンマに到達するという教えは、パーリの中に見たことはありません。あるのは、増支部 チュラッチャラーサンガータスッタのアッタカター(解説書)だけです。

 アリッタシッカーパダのアッタカター(解説書)は、「天国と涅槃にとって危険を成すダンマを、アンタラージカダンマ(無障法無畏)と言い、五種類ある。カンマ、煩悩、ビラーカ、ウパヴァーダ、そしてアーナーヴィーティッカマである。比丘がわざと触れた破戒罪をアーナーヴィーティッカマと言う。

 その破戒罪は、比丘がパーラージカに触れて、まだ隠し、「比丘」と宣言している時間だけ、あるいはグルカーバティに触れ、まだカンマにいない時間だけ危険を成す。あるいは比丘が軽い破戒罪に触れ、まだその破戒罪を告白していない時だけで、それを脱せば危険はない」と述べています。

 つまり、破戒罪に触れ、その形式で告白をすれば罪から脱すということです。だから著者は、パーティモッカサンヴァラ戒はデーサナースッティ(説法清浄)であり、公表することで清浄になれ、パーラージカに触れて還俗しても公表したことであり、再び出家できないだけとのべています。

 サンガーディセサの破戒のカンマにいることも、公表すると言いますが、種類が違います。だからパーティモッカサンヴァラ戒は本当のデーサナースッティです。この部分の内容は、アッタカター・ルーピヤシッカーパダで述べています。

 チュラッチャラーサンガータスッタのアッタカター(解説書)では、「パーラージカに触れ、比丘であることを捨て、沙弥になり、戒条を完璧に遵守し、バーヴァナーを熱望する比丘のある人たちは預流になり、一来になり、不還になり、ある人たちは天人に生まれる」と述べています。

 ロークッタラダンマに到達するという意味で、ロークッタラダンマの最初に到達する預流は、最後の段階である阿羅漢に到達することが確実です。だから破戒罪は、まだ公表していない罪だけということです。

 破戒があって命を終えた人の行く場所は、「比丘のみなさん。私は、地獄あるいは畜生の生まれは破戒の比丘の行く場所と言う」というブッダバーシタ(サッタマスッタ 増支部)で知ることができます。

ヘ.清潔清浄なパーティモッカサンヴァラの利益

 パーリ・ドゥティヤスッタ(増支部)は、パーティモッカで慎む功徳を梵行の道を知る原因として、「比丘のみなさん。パーティモッカサンヴァラで慎む戒がある比丘は、行儀とゴーチャラ(餌場。よく行く場所)が完璧で、普段から少しでも罪の危険が見え、すべての戒条を学んで遵守します。

比丘のみなさん。これが道・梵行の初めであるヴィパッサナーの智慧を得るためになる、そして手にしたヴィパッサナー智が成長して最高に熟すための、四番目の原因であり縁です」と述べています。

 パーリ・増支部・アッタカディニパーダ タティヤスッタは、パーティモッカサンヴァラは供養されるべき人物、奉仕されるべき人物、布施されるべき人物、合掌されるべき人物、そして無上の徳の田である人物にする八つのダンマの中の一つのダンマと述べています。

 パーリ・増支部 アッタカニパーダ ドゥティヤスッタは、パーティモッカで慎む人は最高の名誉の一つである、サンガから比丘尼を教える人として委ねられるべき人にする、八つの物の一つがある人と述べています。

 パーリ・増支部 ナヴァカニパータ パタマスッタは、パーティモッカで慎むことは、悟りの部類であるダンマの九習性の一つと話されています。比丘に、憶えておいて異教の人たちに答えるよう教えられています。

 ウパセナヴァンガンタプッタは、「ヨーギー僧(自分を苦から抜き出すための努力を始めた人)は、心を包み隠す物である戒をして、罪に汚れない人になれる。彼は(白アリが蟻塚故に危険を脱すように)当然、危険を脱す」と述べています。

 これらは見本として論証し、まだ何種類も功徳がありますが、重要なのは、ロークッタラダンマ、あるいは涅槃へ到達する階段です。他は幸福に暮らし、天界へ行き、有名になり、社会で勇敢で、迷って死なないなど特別な功徳です。珍しい物や奇跡めいたものもあり、サッバーサヴァスッタ(マハーヴァーラヴァッガ 増支部)では、プラパターニヤテーラの話をしています。

 その方は説法を聞いている時に毒蛇に噛まれ、受戒した日からの戒を思い出して「純潔で良い」と喜びが生じ、そのチットゥバーダ(心が生まれること)によってヘビの毒が退却して、完全に消滅したと、このようです。破戒の人は憂鬱で欺瞞し、当然これらの功徳を通過し、空っぽです。

ト.比丘サンガに託されたブッダの望み

 パーティモッカサンヴァラに関わる今日まで繋っているブッダの望みは、パーリ・増支部 アッタカニパーダ ムアンスッタのある部分で知ることができます。

 パハーラーダという名のアスリンダラに「パハーラーダさん。大海の水は当然当たり前にあり、岸から溢れないように、私のすべての弟子は、たとえ命を失わなければならなくても、私がすべての弟子に規定しておいた戒条を犯すことはありません」と話されています。

 ブッダの望みのこの部分に応えることができる人だけが、本当のブッダの子の一人と見なされます。よく考えて見れば、梵行のこの部分だけが、すべての比丘を在家と異ならせ、在家より高い境地にさせるからです。

 クロムプラヤーワチラニャーナワローロット猊下が話された言葉で、この章を終わらせていただきます。

 「だから比丘は正直な行動をし、教祖に信頼されるにふさわしくすべきである。教祖の信頼を失う行動は当然悪劣で、サマナにふさわしくない」。





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