第二章

財産と親族を捨てて出家する






この章の説明であるパーリ

 「私は大小の財産の塊を捨て、大小の親族を捨て、髪と髭を下し、渋染めの衣をまとい、家を出て出家し、家に関わりませんでした」。
 (パーリ・中部 ウパリバンナーサ チャヴィソータナスッタ)




説明

この章の概要。

 阿羅漢の跡を追っての第二段階で、説法を聞いて信仰と智慧が生じ、出家したくなったら家を捨てて出家します。還俗について、そして出家すべきか、出家すべきでないのはどのようかも説明し、ラーマ六世の言葉で終わります。


1.出家するとは何か
2.なぜ出家するのか
3.出家することの価値
4.出家者の種類
5.全員出家できるか否か
6.出家する本当の利益
7.出家する特別の利益
8.還俗
9.出家しないでできるか



1.出家するとは何か。

 部分的に、つまり文字で述べると、ブアットという言葉はパーリ語のパッバッジャー、バップチャーという言葉に由来していますが、どういう意味でしょうか。カッチャーヤナムーラパカラの中では、ヴァジャ ダートゥからきていると説明しています。行く、あるいは着くという意味で、ダンマは到達するものと分かります。

 何に到達するかは、アビターパナッパディピカー教典で、「素晴らしい人であることに到達しても」と説いています。だからバップチャー、あるいは出家をすることは、素晴らしい人であることに到達すること、あるいは到達させることです。バップチャーに到達した人をバプチット、あるいはナックブアットと呼びます。素晴らしい人であることに到達した人物です。

 そして素晴らしいとは、普通の人より善いという意味です。つまり今滅苦をしている人、あるいは滅苦が終わった人です。これはブアット(出家)という言葉の意味の説明です。続いて出家者の行動を説明します。

 広く述べても、どの宗教、どの国の出家を指しても、出家とは道徳に厳格な生活状態だけを意味し、質素で野望がなく、心、あるいは品行を重要とします。世界のすべての階層、すべての身分の人を望むように理解させ、すべての階層の人物の理解を一致させるのは難しいです。

 首都で有り余る生活をしている人は、人生は簡単と仮定し、田舎の人の静かさは、それ自体が出家しています。進歩していると言われる国で楽しく至れり尽くせりのサービスに囲まれている人、そしてアメリカのように裕福な国、あるいは富豪、映画俳優、女優などは、(我が国のように)あまり進歩していない国の裕福な人の生活は、出家と同じと見るかも知れません。彼らは、仏教の本当の出家がどれほど静かか、推測できません。

 すべての人が自分の生活を中心にすると、どのような暮らしの状態が出家か、あるいは出家と見なすべきか、そしてどのようなのが、本当の愛欲を消費する人か、述べるのは難しいです。これらの人、あるいはこの階層の人の出家は、もう一つの部類、もう一つの階層の人たちにとって高すぎ、あるいは低すぎます。

 この要旨で、様式や方式、あるいは外部の行動を本当の出家と呼ぶべきでなく、本当に心で避けることを出家の本質と見なすべきです。そして外部の形式、あるいは伝統習慣は出家のトレードマーク、あるいは制服と見なすべきです。だからこういうのは、「出家するとは何か」、正しく規定させる道になります。

 この真実を吟味して見ます。私たちが出家と呼ぶ人が一人、大きく広いビルに住んでいて、何千も何万もの値段の装飾品があり、弟子、あるいは使用人が付ききりで世話をし、素晴らしい食住に気を配って大切に護っていると仮定します。その人は仕事も著しく貪りすぎます。つまり大衆が好む、あるいは世界が好むようにすることを目指し、あるいは自分が望む権力者のようにします。

 次にもう一人、家族も含めた一か月の食費と生活費が、件の出家の一日分の水道光熱費と同額の、貧乏人の部類の百姓がいます。彼は百姓らしく性質が大人しく、我慢強く、質素倹約で怒りっぽくならないよう心を支配できます。貧しいなりに布施をし、時には件の出家を援けることもあります。

 事実がこのようなら、そして誰を出家と呼べば公正か、私に判断させるなら、伝統に従って答える以外には、最高に答え難くないでしょうか。

 しかし本当に阿羅漢の足跡を追って出家するなら、伝統に従うことはできません。本当の出家の結果は、絶対に伝統から生じることはなく、本当に正しい行動からだけ生じるからです。

 教祖が出家することを低く目指し、出家も家を管理し、善良な国民のように規定した宗教もありますが、仏教は、出家は家を避けて涅槃を探求するので、別の形です。この意味で出家するとは何か述べれば、ここでの出家は、先ず教祖である世尊の後を追うことと限定し、それから出家するとは何かを問います。

 パーリ・ウッデーサの初めで「大小の財産の山を捨て、大小の親戚を捨て、髪と髭を下し、渋染めの布をまとって家を出て出家をする。つまり家にとって支援がない行動をする」とあるのを、そして「家を出て出家し、家に関わらない人である私たちに、家はどこにもないのだよ。長者」というラッタパーラという名の阿羅漢の言葉を観察してください。

 そうすれば「このパーリは、出家することは家を管理することと正反対と、ハッキリ、明らかに見えます。

 財産と親戚を捨てなければならないので、心配である物すべてを振り捨て、簡素な生活をします。誘惑して心を妨害する装飾がないのは、心を高く晴朗にし、気力と時間のすべてを、滅苦の方法の探求に使う機会にします。

 それから中間の人間の心にある厚い瘡蓋である愚かさ、耽溺を突き抜け、出家することの最後の段階、あるいは最後に阿羅漢果がある聖向聖果への到達と呼ぶ、二度と苦にする物が何もない方法で自分を安心させることまで、心を訓練してより強くします。これが出家することの本当の本質です。

 これから動物の救済と呼ぶ、他人に教えて、今受け取っている苦から脱させることについて時間を使います。それは出家することの後半の義務と見なします。世界にとって利益を成す人でなければなりません。

 だから菩薩堂での出家、サンガが集まって布を首にまくなどは、儀式にすぎません。協会やいろんな団体が会員を受け入れる儀式と同じで、高い利益はありません。体と言葉と心の訓練を緻密に満たし、順に高くしなければなりません。そうすれば阿羅漢の後を追う出家になります。本当の出家の内面の最高の本質です。


2.なぜ出家するのか。

 出家させる原因は、ダンマの側とダンマでない側があり、生活のための出家、仕事をする必要がない楽しい機会のための出家、迷って他人の真似をしての出家、これをウパチーヴィカー、ウパキーリカー、ウパムヤヒカーと言い、ダンマではありません。一方ウパニッサラニカーと言う、苦から出ることを目指して出家する人たちは、本当のダンマです。

 ラッタパーラスッタ(中部)の中に、王の考えでラッタパーラに話したコーラバヤ王の言葉があります。

 「人は四つの理由で、つまり老い故に、病気で生活できないので、財産を失って、親戚を失って出家する。本当は、これらはまだ共通で、出家して脇目も振らずにダンマの実践をすれば、正しい出家になる。安楽のためにだけ出家するなら、良くない理由に入る」。

 チャートゥマスッタ(中部)と、他のたくさんのパーリの中で同様に話され、要旨は「比丘のみなさん。私は生・老・死・悲しみ・嘆き・体の苦・心の苦・困窮に覆われ、苦に乗り重なられ、包囲されたので、それなら苦の終わりを現わそうと考えました。良家の子息のある人は、信仰の人になって家を出て出家し、家に関わりません」で、これがダンマである出家する理由です。

 それでも出家することには、当然珍しい原因の話もあります。たとえばプラ・ヴェッサンドラは追い払われて出家し、プラ・バッディヤサーカヤは出家を愛すため、プラ・ヤサ、ウパティッサ、コーリタは、愛欲に倦怠して出家する場所を探し、プラ・ラッタパーラはブッダへの強い信仰で出家しました。

 パーリのアッガンニュースッタ(長部 パーティヴァッガ)では大昔について、世界に人間が生まれた時、バラモンと呼ぶ最初に出家した人は、品行の汚れ、憂鬱、人間同士の冒涜に胸が詰まるのを感じたので、その種の嫌悪から脱したくなって森の中で一人で暮らし、可能な限り心をすっきりさせる訓練をし、その話を他人に教える教祖になったと話されています。

 できるだけ心をすっきりさせる訓練をし、教祖が他人に教え始め、そして居間に至るまで時代毎に規定を改め、改良して、それぞれの教祖が規定したいろんな教理になりました。しかし目的は同じで、餌のない幸福、あるいは世界の餌に関わらない幸福です。

 パーリ・ローカスッタ(ウダーナ 小部)は、菩提樹の木の下で解脱の幸福を味わわれた日の喜びを、感嘆として現れたブッダの高い感覚で話されました。「梵行の振る舞いは有を捨ててしまうため」という要旨です。有とは、天人でも人間でも、動物群の存ること、いることです。どれも有の状態の苦に堪え忍ばなければなりません。

 つまり生・老・死・悲しみ・嘆き・体の苦・憂い・心の渇き、嫌いな物と出会うこと、好きな物と離れること、望んだようにならないことなど、すべてはそれらの状態を自分の実体と捉えることから生じます。有を捨てることは執着を捨てること、有の終りは苦の終りなので、有を終らせたくて出家します。この要旨で有を消滅させ、生を消滅させたいから、あるいはまだ終わらない間も有の苦に支配されないために出家します。

 パーリ・ラッタパーラスッタで、ダンマムッデーサの四項についてプララッタパーラの言葉で「その方は世尊の深いダンマムッデーサの四項を聞いて、理解したから出家した」と述べています。つまり

、 1.世界とは老いに導かれている動物群れ。
2.世界に抵抗はない。
3.世界に自分の物はない。
4.欲望の奴隷なので、世界は常に欠けている。

 老いが導くというのは、赤ん坊から幼児になり少年になり、青年になり、青年から中年になり、中年から老人、老人から死へ刻々と導かれて静止することがありません。時には、長時間快適と感じても、それは老いを隠して感じさせない錯覚にすぎません。快適な時は、この項目を思い出さないように見えます。

 病気でベッドに寝ている時、「急いであのような、このような善行をしよう」と焦燥し、病気が治ると元通りに楽しいので、忘れます。これは、老いが静かに首を擡げています。抵抗できる威力はありません。賢い哲学者でもブッダの弟子でも、できるのは自分と世界の利益のために、急いで何かをし、再び生まれて、老いの威力下にいないためです。

 抵抗の頼りになる物は何もないというのは、妻子、友人、権力者、悪魔、梵天、世界の残虐さである老・死・別れなどに抵抗することを助けてくれる人は、誰もいません。

 自分の物は何もないというのは、心が望むように支配できる物は何もありません。すべての種類の財産を、一方的に自分の物と執着しても、本当は誰の物でもありません。私たちに対して保証する、あるいは機嫌を取る心がないので、探して来て、それを増やす一方で満足します。

 死ぬ時、墓穴に持って行けません。時にはまだ生きていて、それを愛しているのに他人の物になります。そして最高に重要なことは、それにも老いと崩壊、消滅があることです。「自分は所有者だ」と主張する人の声も聞かずに。

 欲望の奴隷なので常に欠けているというのは、世界が満ちる時はありません。人間の欲望を、燃料が燃えている火に例えれば、「満足」「十分」と現れる時、あるいは状態はありません。まだ手に入れない物は欲を生じさせ、手に入れた時は淡白で倦怠し、死ぬまでこのように、まだ手に入れたことがない物を欲しがります。

 世界の自然の四項全部を真実のままに見る人は、当然、頭髪に火が点いて、火を消す水を欲しがるように感じます。水とは出家することです。だから出家したがるのは、常に普通の人間の内部にある、自然の抑圧の威力から自由になりたいからです。そしてすべての苦を越えた威力がある、特別な人になります。

 要するに、昔から出家できるのは二つの理由です。世界の苦から脱したいのが一つ、そして出家することから生じる幸運を期待する人にとっての快適便利さのためが一つです。今は、伝統習慣で出家するのが、一つ増えました。


3.出家することの価値

 正しく出家することだけが本当のダンマで、智慧があって熟慮して見る人にとって最高の価値があります。たとえばプラバッディヤサーカヤ王が在家であり王であった時、出家して旅をし、「毎日幸せだなあ。まだ出家しない時は体と心の辛苦に堪えて王の義務を行ったが、出家したら心が軽いので、王でいるより幸福と感じる」と感嘆しました。

 パンチャマスッタでは、人物を四種類に分けて話されています。闇から来て闇へ行く人、闇から来て明へ行く人、明から来て闇へ行く人、明から来て明へ行く人です。最初の人たちは邪見の家に生まれてその家で死に、二番目の人たちは、猟師など邪見の家に生まれても、出家してダンマの行動をする機会があります。

 三番目の人たちは正見の家に生まれますが後に邪見になり、四番目の人たちは正見の家に生まれ、死ぬまでダンマの行動をします。この種の人が出家をすると、生まれた時がどのようでも、本当に明るい成り行きになります。死ぬまで出家でいる人は明るさへ向かう人です。

 チャトゥカニバータ カーリンガヴァッガ サイヤハジャータカの中に、ボーディサッタが任務に就く家臣に「家がなく、土鉢だけを持って旅をし、誰も困らせない出家でも、このような暮らしは王であることよりまだ素晴らしい」と答えた言葉があります。

 増支部 パンチャマスッタの中には「比丘のみなさん。出家をすることは学者が制定したこと、善人が制定したこと」と言われています。

 増支部 ティカニパーダ パタマスッタでは「比丘のみなさん。幸福には二種類あります。在家の幸福と出家の幸福です。比丘のみなさん。これら二種類の幸福があります。比丘のみなさん。この二種類の幸福の内、出家の幸福が最高です。

 アッタマスッタ(増支部)では、出家の終わり(阿羅漢になる)に到達した人物に、「特別の人物は他の人物と正反対です。世界の人間が永続的に困窮し、混乱している時、反対に最高に安楽です」と言われています。このパーリの中で、天人が次のように奏上しました。

 「人間は、財産が非常にたくさんある領地を治める王でも、財産を狙い合い、すべての愛欲に満足しない。その王がかき集め、有の流れに沿って走り、怒りと欲望で漂う時、藻掻いていない(静かにいられる)のはこの世界のどの人たちだろう」。

 「どの種の人間でも家を捨て、子と愛している人である動物を捨てて出家し、貪りと怒りを捨て、無明を抜いてしまうことができれば、漏が無くなった人、阿羅漢です。この部類の人間が、世界で足掻き回らない人です」。


4.出家の種類。出家してくる人には、当然色んな生活があり、出家することにとって適度なダンマを知っていたり、知らなかったりします。だからブッダは、出家することに関わる四つの部類の人物を四種類の鍋に例えて話されています。(パタマスッタ スッカヴァッガ ドゥティヤパンナサ ドゥカニバーダ 増支部)

 アッタマスッタの中で、あと二種類の人物を一種類と話されています。体は出ても心はまだ出ていない人、体はまだ出ていなくても心は出た人、体も心もまだ出ていない人、体も心も出た人という規準があります。一番目は、体は出家しても心の部分はまだ庶民と同じで、二番目は体はまだ出家していませんが、心は僧の心のように愚かさを削り落とし、三番目は体も心も本当の在家で、四番目は体も心も本当の僧です。

 この要旨で、当然本物と偽物、二種類の出家あります。

 本当の出家は、パーリ・パンチャマスッタ(ウルヴェーラヴァッガ 増支部)で「比丘のみなさん。誰でも行動しているこの梵行は、大衆に嘘を言うためでなく、大衆を騙すためでなく、功徳である幸運や供え物のためでなく、非難の言葉から脱す功徳のためでなく、大衆が自分を知るよう期待してでもありません。

 比丘のみなさん。誰もがこの梵行の行動をするのは、慎重にするため、犠牲にするため、欲情を緩めるため、滅のためです」と言われています。これが本当の出家です。

 プラマハー・モッガラーナに話された時、ある部分で、出家したら(象の)鼻を上げてはならないと話されています。象の鼻を上げるとは「私はサマナだから庶民より上だ。彼らは迎えなければならない。頭を下げなければならない。つきっきりで私の意に叶うように機嫌を取らなければならない」などと内心で考えることです。

 彼がそのように考えると、歩いて行って人が彼を見ないと腹を立てて悔しがり、極まりが悪く、ぎこちなくなります。これも、捨ててしまうよう教えられた象が鼻を上げることです。そうでなければ、出家することは、反対にその人にとって苦になります。


5.全員出家できるか!

 律の規定と、パーリのいろんなブッダの訓辞を熟慮して見ると、全員を出家させることは望まれていないと見えます。あるいは誰でも出家するよう教える規定はなさっていません。そして大勢出家すればするほど善いと目指されず、望まれていません。次のような熟慮に関した話があります。

 律の中に「出家は、自らの努力で得た飯の塊に依存する」とあるように、他人によって命を繋ぐことを許可しています。

 つまり托鉢に出て受け取り、商売を営む必要も、直接でも間接でもサマナの範囲外である交流をする必要もありません。この要旨で男も女も、全員出家したら誰も養いません。食べ物以外に、他の規定もあります。信仰があり、出家するに十分勇敢な人だけを出家させる十分厳格な篩や秤にする、別の規定をなさいました。

 他のパーリのほとんどすべては、「在家も比丘と同じように聖向聖果に到達できる」という一つの要旨に集約できます。つまり阿羅漢果に到達でき、到達しても預流・一来・不還の三段階はそのまま在家でいることができます。阿羅漢だけは、在家が到達したら家を出なければなりません(ヤサなどのように)。

 仏教の最高の聖向聖果は、在家にも共通です。全員出家すべきという側の理由は当然ありません。多ければ多いほど善いとも言っていません。本当のブッダの訓辞は、世界、あるいは国家、あるいは自然の発展にとって少しも矛盾しません。

 本当のブッダの意図は、出家は急いで苦から脱す近道を目指し、そして在家に教え、あるいは人生を平坦にでき、最低から最高までの幸福にでき、体と言葉と心の訓練の手本を見せる人です。能力がある分だけ幸福になることができ、食べ物を口に入れてやるように、無理にはできません。

 大人が幼い子の口に(食べ物を)入れてやる時、自分の一口の量を子の口に入れても、子は自分の一口の大きさしか受け入れられないので、残りは零れます。

 同じように、結果を受け取ること、つまりブッダの訓辞や仏教から生じる幸福は、根と同じだけ受け取ります。つまり習性と呼ぶ、自分に身についている信仰・精進・サティ・サマーディ・智慧の分だけです。無理矢理すれば苦に堪えさせ、本当の混乱を生じさせることになります。

 美徳や善が多いことと、量である人数が多いことでは、美徳が多い方を望まれています。少数でも空っぽ、あるいは中空、あるいは欺瞞の人が多数より良いです。この理由で、誘い込む方便で全員を出家させるべきという教えはありません。心の中のダンマを、必要なだけ選んで出家させる道具にして、ブッダの望みと一致させてください。

 本当は、自然の法則では、全員を出家させることはできません。私たちは一斉に出家できない臨月の胎児、嬰児、赤子で、再び比丘尼の出家を許可して、ブッダの時代のように女性を出家させても、まだ幾つかの自然が妨害するからです。ある人の心は出家したくなく、あるいは仏教の出家について何も知らず、他の教義を信仰する人が、世界中にまだいるからです。

 理論で「世界中の人が一斉に出家を志願したら、つまり次々に全部出家して、その後繁殖しなかったら、仏教のダンマの面では停滞があるかどうか、受け入れるかどうか」と、あなたが質問するなら、

 私は理論で、そして仏教の一部である心の訓練に依存して「大丈夫」と答えます。そして最後に私たちはご飯を食べる必要がなくなり、あるいは人間が必要と考えるように体を大事にする物に関わる必要がなくなりますが、暮らせるようにする実践項目で自分を訓練する必要があります。

 つまり形禅定、あるいは無形禅定まで心の訓練をすれば、それが第六梵天(極光浄天)など、すべてを梵天に近い動物にします。この種の動物は、食べ物である喜びがあるので死にません。しかし私たち全員が、別の種類の動物にならなければなりません。そして本当に成り行く真実でなければなりません。

 梵天になることだけでなく、インドで心学が発展していた時代は、「風を食べ物にする」方法を実践する人もいました。これらの人は風以外に何も食べ物を食べず、そして心の満足の力を食べ物にし、命を維持しました。外見は多少普通の人と違っても、私たちと同じ人間で、それらの人の心の力が、比較にならないほど強いだけです。

 阿羅漢は七日間ずっと定に入り、ブッダは七週間(四十九日)断食をしたなど、どれも心の力で生きられます。珍しいと見ないほど念処の訓練をした時代だからです。今の時代はそのようにするのを、最高の能力の物と見、一食断食すると聞くと、倒れて死んでしまうに違いないと信じます。あなたが心の力を信じるなら、この疑問はなくなります。

 パーリ・アッガンスッタを読めば、人間は、かつてはみんな喜びを食べ物とする動物でしたが、貪りと怒りと愚かさが生じて増えるにまかせたので、長い時代を経て、今のような動物になりました。そして遠い将来、私たちはどんな種類の動物になるか、まだ分かりません。

 天人は人間と同じ動物の一種と信じれば、動物の一種類で、食べ物と暮らし振りは違っても同じ動物です。あるいは人は低い動物から進化したと言う進化の法則を信じれば、この疑問はなくなります。集めて訓練する行動が、私たちを少しずつ何かに変化させるからです。

 しかしここで私は、阿羅漢の後を追う話を述べ酔うと思います。全員出家することを目指さなくても、そして出家してもしなくても、阿羅漢の後を追うことはできます。だから述べた種類の問題を熟考することと論点が違うので、本当はそれは、他の話で詳細に述べるべきです。


6.出家することの本当の利益

 「出家して苦を滅し、幸福を探す」と、理解しているように述べるのは簡単です。しかし幸福は、なぜ出家することからだけ生じるのかと問えば、答えるのは難しいです。出家は仕事をしなくても良く、心を煩わせる問題もあまりないので、幸福と見る人もいます。

 ある人は出家して天国へ行くことを望み、誤解の威力で梵天界のこともあります。というのも、幸福はいろんな段階があるからです。誰かが幸福はどれだけと見れば、幸福はそれだけです。

 そして出家の結果は、彼らが理解している段階の幸福です。ブッダの時代、ブッダが大悟する前、中央の国の人間は、最高の幸福を梵天界までしか知りませんでした。前もって倦怠して、まだ味わっていない所へ行った時、心の苦を受け取ったことで、不変でなく絶えず変化することを見たので、すべてを捨てて出家しました。

 出家して静かな幸福を目指し、最初の段階で「天人は良い」と見、天人であることを目指し、ずっと後になって「天人も人間と同様の心があり、欲望と怒りに心を炙られている」と知り、梵天まで高く望みました。もっと素晴らしい物があると気づけない間は、梵天は最高に素晴らしい生き方と理解しました。

 その後ブッダが生まれて大悟し、過去の出家たちの考えを突き抜けた智慧があり、梵天界もまだ不変でなく、苦であり、生まれて滅さなければならないことに関わっていると証明しました。生まれる必要も滅す必要もないことが最高の幸福であり、涅槃であると見えました。だからブッダは、梵天より高い本当の幸福を見つけました。

 そして弟子たちに、この種の幸福を最終目的として目指すよう教えました。その時代の何処にでもいる出家修行者と会話されたパーリに現れた話があります。チュラサクルダージスッタ(中部 パリッパーチャカヴァッガ)の中で、チュラサクルダージという名の修行者が、質問しました。

 「発展なさった猊下。比丘たちが一斉に世尊のお住まいへ来て梵行をするのは、幸福しかない世界を明らかにしたいからですか」。

 (幸福しかない世界とは、この会話の前に話していたスバキナハ梵天を意味する)

 「ウダージさん。そうではありません。幸福だけの、より素晴らしい、より緻密な他のダンマはあります」。

 「発展なさった猊下。比丘が明らかにするために一斉に梵行をする、より素晴らしい、より緻密なダンマはどのようですか」。

 次に、この宗教の実践項目である品行と明(知識)の話をなさいました。良家の子息に説法を聞かせて信仰を生じさせ、戒が揃い、足ることを知り、根に注意し、常自覚があり、閑静な所に住んで蓋を捨て、初禅、二禅、三禅、四禅、宿命智、天眼智、漏尽智を味わいます。

 パーリ・チャヴィスッタとマハーアッサプラスッタと同じで、世界より幸福なダンマである梵天界の幸福についての説明です。

 初めに述べたように、出家する本当の利益の要旨は、増支部 ドゥッカニバータの短い要約で、「比丘のみなさん。如行がすべての弟子に許可した具足戒を受けるのは、二つの利益のためです。現生で漏を防ぐため、そして来生の漏を無くすためです。比丘のみなさん。私が許可した具足戒を受けるのは、この二つの利益のためです。この宗教の比丘すべては、この幸福のためです。これが出家することの本当の利益、あるいは最終目的です」と話されています。


7.出家することの特別な利益

 個人的な苦からの解脱の他に、出家することは、後に生まれて来る人に伝承して、この梵行の寿命を延ばすことです。比丘は当然宗教の寿命を在家より良く伝承するので、自分を梵行の最後の人にしてはいけないので、弟子たちが助け合って維持するよう望まれ、次のように話されました。(マカデーヴァンバスッタ 中部)

 「アーナンダ。私は当然、あなたがそのようにできる立派な勤めについて述べます。みなさん、私の最後にいる人にならないでください。アーナンダ。今そのように経過しているどの人も、その間に立派な勤めに欠ければ、その人はすべての人の中の最後にいる人と呼ばれます」等々。  

 だから正しい出家をすることは、宗教の寿命を延ばすことです。


8.還俗

 出家して還俗することは阿羅漢の後を追うことではないので、取り上げて述べるべきではありませんが、関係のある問題の一つなので、ここで述べて置きます。

 ブッダの時代の初めは、還俗はありません。出家を願い出る人は、サンカーラの状態に納得して出家を乞うので、そして全員聖人であることに到達したので、ブッダは還俗する方法を決めておかれませんでした。後になると、友達につられて、あるいは出家の徳を称賛する声につられて出家を踏み外す人があり、その後いられなくなって還俗しなければならなくなりました。

 つまり出家を破ること、吉祥でないこと、誰も称賛しないことです。還俗という意味に使っているパーリ語は普通の言葉でなく、忌わしい言葉です。つまり「ヒナーヤーヴァットゥティ=下劣な暮らしに戻る」あるいは「ヴィッバンティコー=非難すべき誤った転向」という言葉です。タイは語ではスックと言い、忌まわしいとも何とも捉えません。

 時には、還俗する時も出家式の時のように還俗式を行うので、もう一度吉祥と見なします。誰でも、何としても出家したいので、七日でもまだマシなので、しっかりした錘のない阿羅漢の後を追う出家です。そして今は還俗式を行うので、非常に貶されるべき昔の還俗と違います。

 還俗しなければならない人は二種類の原因です。つまり強制されるのと、自身の意思でするのです。前者は大きな過ちを犯し、還俗を強制されます。あるいは非常に恥ずかしく、我慢できないことが強制して還俗します。

 後者は伝統で出家し、一時的な出家と見なす地方もあり、本当に阿羅漢の跡を追う訳ではありません。あるいは道を踏み外して「自分は出家する義務を果たす」と誤解して出家し、後で詰まった道が見え、還俗しなければなりません。

 あるいはダンマヴィナヤをたくさん勉強すると、「出家して厳格で純潔な清信士・清信女になる方が、憂鬱で自分を嫌悪している、あるいは悪の考え、あるいは煩悩が生じて妨害し、心を焼き炙って焦燥している比丘でいるより良い」と見るので還俗します。

 だから出家することは、出家でいることで阿羅漢を追い続けることができなければ還俗すべきとまとめることができます。そうでなければ出家でいることに堪えますが、正しい行動でなく、穏やかでもありません。

 還俗する出家の危険は、出家したばかりでも、出家して久しくても、チャートゥマスッタ(中部 マッジマニカーヤ ビッカヴァッガ)の中で、次のように言われています。

 比丘のみなさん。水に落ちた人の危険は四種類あります。波から生じる危険、鰐から生じる危険、渦から生じる危険、凶悪な魚から生じる危険です。比丘のみなさん。これが、水に落ちた人の四種類の危険です。

 比丘のみなさん。家から出て家に関わらない人、この宗教の出家の危険も四種類あります。波から生じる危険、鰐から生じる危険、渦から生じる危険、そして凶暴な魚から生じる危険です。

イ.比丘のみなさん。波から生じる危険はどのようでしょうか。比丘のみなさん。ある人は信仰でこの宗教で出家し、家に関わる仕事はありません。彼は「私は生・老・死・悲しみ・嘆き・体の苦・心の苦・心の渇きに覆われ、苦に覆われた人になる。どうすれば苦の終わりが現れるだろう」と考えて出家します。

 出家すると梵行仲間が「このように前進しなさい。このように後退しなさい。このように見、振り向き、屈み、伸びなさい。このように衣を、鉢を、外衣を持ちなさい」と教え諭して忠告します。彼は「私が家にいた時は、当然他人を教え諭し、今は子や孫のような比丘が、反対に私に教え諭して忠告する」と振り返って考えます。

 彼は学習を返すと言って、低劣な暮らしに戻ります。比丘のみなさん。この人を私は、「波から生じる危険を恐れて、学習を返すと言い、低劣な暮らしに戻る人」と言います。比丘のみなさん。波から生じる危険という言葉は、怒りによる怨みの名前です。

ロ.比丘のみなさん。鰐から生じる危険とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。ある人が出家すると梵行仲間が、当然彼に「これは噛むべき。これは噛むべきでない。これは食べるべき。これは食べるべきでない。これは舐めるべき。これは舐めるべきではない。これは飲むべき。これは飲むべきでない。あなたは相応しい物だけを噛み、食べ、舐め、飲むべきで、相応しくない物を噛み、食べ、舐め、飲むべきではない」とこのように教え諭します。

 彼は「今まで私は家を監督し、何を望んでもそれを噛み、食べ、舐め、飲み、望まければそれを噛まず、食べず、舐めず、飲まない。(比丘がふさわしい物もふさわしくない物と言った物も)、時間でも時間外でも、信仰がある長者が時間外に献じた物を、噛み、食べ、舐め、飲める」とこのように思い返し、学習を返すと言って、低い生活に戻ります。比丘のみなさん。鰐から生じる危険とは、腹のことだけを考える人を呼ぶ言葉です。

ハ.比丘のみなさん。渦から生じる危険はどのようでしょう。比丘のみなさん。ある人が出家すると、朝鉢を持って町や村に托鉢に行き、体を維持せず、言葉を維持せず、サティを意識せず、根(目・耳・鼻など)に集中しません。そこで彼は長者、あるいは長者の子息が五欲に満たされ、人にかしずかれているのを見ます。

 彼は「以前私は家を管理する在家で、五欲に満たされ、人にかしずかれていた。私の家の財産はある。そして私も財産を消費しながら、布施ができる」とこのように思い返します。比丘のみなさん。この人を「渦から生じる危険を恐れて低い生活に戻る人」と言います。比丘のみなさん。渦から生じる危険とは、五欲を呼ぶ言葉です。

ニ.比丘のみなさん。凶悪な魚から生じる危険はどのようでしょうか。比丘のみなさん。ある人は出家すると、朝鉢を持ち、衣を維持して町や村に托鉢に行き、体を維持せず、言葉を維持せず、サティを規定せず、根(目耳など)に集中しないで、身だしなみの悪い(隠すべき器官を隠さない)村の女性を見ます。

 彼が身だしなみの悪い女性を見ると、欲情が彼の心を突き刺します。彼は欲情に突き刺された心があるので、学習を返し、低い生活に戻ると言います。比丘のみなさん。凶暴な魚から生じる危険とは、女性を呼ぶ言葉です。

 比丘のみなさん。家を出てこの宗教で出家して家に関わらない人にとって、この四種類の危険が期待できます。

 ヌアムスッタ(デーヴァドゥータヴァッガ 増支部)の中では、もう一つの還俗させる原因は陶酔と話されています。

 「比丘のみなさん。若さに陶酔している人である比丘は、当然学習を返し、低い生活に戻ると言います。比丘のみなさん。病気がないことに酔う人である比丘は、当然学習を返して低い生活に戻ると言います。比丘のみなさん。命に酔う人である比丘は、当然学習を返して、低い生活に戻ると言います」とこのようです。

 このパーリには広い意味があり、すべての種類の還俗者が含まれます。これらの陶酔は、すべての出家に対して危険を生じさせる原因である広い言葉だからです。

 この趣旨で還俗とは、続けることができない人に生じるいろんな障害によって、阿羅漢の後を追って前進することから後退することです。この道を歩いて前進する人は、ダイヤモンドの網が危険を防いで、解脱するまで発展させるように、身を護る物として知って置くべきです。


9.出家しなかったらできるか否か

 阿羅漢の境地を望む人は、出家しないではいられません。阿羅漢果は最高の徳行で、出家だけにふさわしく、在家にはありません。在家にこの最高のダンマの到達が生じても、出家しなければなりません。良家の子息であるヤサが例で、阿羅漢果に到達して、無理に在家でいれば、どこもかしこも元の生活状態の嫌悪ばかりなので、般涅槃しなければなりません。

 それより低い聖向聖果である預流、一来、不還を望む人は、出家してもしなくても良いです。出家することは聖向聖果に早く、簡単に到達する援けになるのは事実ですが、出家しない人も、家で在家の仕事をしながら、その聖向聖果に到達できます。

 パーリには、サーカヤ族の親戚など、多くの高い階層の人、あるいは富豪、長者など、多くの中間階層の人が不還果に到達しています。そしてパーリ・カティカーラスッタ(中部 ラージャヴァッガ)で話されているように、低い階層の人もいます。

 「大王! ベーバリンガという村に、如行の支援者であるカティカーラという陶工がいます。大王! 「カッサパ世尊は、私たちのバラーナシーで雨安居をなさらない」とひがんで悲しみました。このようなのは、当然大王にだけあり、このような僻みや悔しさは、カティカーラにはありません。そしてこれからもありません。

 「大王! カティカーラは、拠り所であるブッダ・プラタム・僧に至り、殺生・偸盗・邪淫・妄語・飲酒を避けて離れます。カティカーラは帰依があり、ブッダ・プラタム・僧に動揺がなく、聖人が喜ぶ道徳が揃っています。

 大王! カティカーラは苦を疑わず、苦の原因・滅苦・そして滅苦に至らしめる道を疑いません。カティカーラは一日に一度だけ食べます。純潔な振る舞い(性交をしない)、戒のある人で、美しいダンマがあります。

 「大王! カティカーラは道具で土を掘らず、手で掘らず、庶民が捨てた、あるいはネズミやネズミの子が掘った土を運んで容器を作り、「これらの容器が欲しい人は、米ザルに入れた米、豆ザルに入れた緑豆、豆ザルに入れた黒豆を持って来て、欲しい容器を持って行きなさい」と表示しません。カティカーラは、老いて目が見えない両親を、最期まで扶養します」。

 大王! カティカーラは初等の五つの結を終わらせる道具である不還果に到達し、ウパーティカに生まれる人で(つまりスッダヴァーサ=浄居天に生まれる)、その有で般涅槃し、その有から戻って来ないのは当たり前です。

 これらは、不還の段階の聖向聖果は、在家が出家することなく到達できる境地であると見せる見本です。このパーリで述べている陶工のように、一日一度だけ食べなくても、普通の在家の暮らしで到達できます。陶工の話を取り上げて述べたのは、低いレベルの在家も不還果に到達できると、特に知らせるためです。

 出家することと出家に関わる話の状態を、パーリとアッタカター・マーサータカから、適度に説明しました。ラーマ六世がスアパーの九六頁と百四頁にお書きになった流れで、この問題を終わらせていただきます。


 「在家である人の多くは、どのように宗教を遵守するかということに気づまりを感じている。兎角、本当に遵守できるのは出家だけと理解されている。だから昔からずっと、まだ具足戒を受けていない人は誰でも「未熟な人」と呼ぶ。つまり仏教の知識がない、あるいは自分は仏教を信奉しない人と表明する人である。

 しかしもう一段階高く言うなら、昔というのは、どれくらい昔であろうか。本当はブッダ在世時は出家しない人も、ブッダは清信士として尊敬されていたと、確実で明らかである。

 そればかりか、出家しなくても善い行動、正しい行動の人は、預流、聖人になることができ、出家して僧になった人だけではない。女性も同じように成功することができる。だから初めの段階では、出家は必要ではないと見ることができる。

 必要なのは心が本当に信じ、本当に帰依すること、そして教祖の教えの言葉に本当に同意すること。それを本当に遵守できる人と見なす。その後私たちタイ人はスリランカから仏教を受け入れた。スリランカの好みはいろんな物があり、それらが私たちの財産として落ちて来た。

 仏教が狭い成り行きになるすべての物は、全てスリランカからの遺産である。一つは、満二十歳で出家しなければならず、出家しなければ未熟な人という項目は、最高に狭い考えである。本当はどのようか、何とか見ることができる。(出家たちを見る)」

 「私たちが出家しようとしまいと、仏教を信奉しているのだから、私たち全員が「私たちが信奉している宗教は何か」を、学んで知る努力しなければならない必要がある。自分たちの状況を知る努力をしなければ、常に世界を騙しているのと同じであり、出家しようとしまいと、世界を欺く人という誹りを逃れられない。現代文明のある国で、宗教がない国は世界になく、必ず何らかの宗教がある。

 今世界中の人が「タイは仏教を信仰する国。仏教が永続できるのは」、ある時我輩が述べたように「戦線の大きな砦であるタイがあるから」と好んで言う。私たちは仏教を信仰していると信じ切っているので、私たちは仏教を信じるよう世界に強制されているようなものである。ちょっとだけ出家して「私は掴んだ。今後は何もする必要はない」とこのように言うのと同じである。

 このように長く世界を騙すことはできない。間もなく彼らは、仏教を信奉しているにふさわしくない行動で、私たちが最高に善いと信じる教祖が教えた道にふさわしくないと見破る。品行が仏教を信じる人にふさわしくなければ、当然世界は私たち全員を見下し、我輩一人の恥ではない。

 ここに座っている諸氏全員が、我輩と同じだけ恥を受けなければならない。我輩もタイ人の一人、諸君も同じタイ人なので、共に恥を受けなければならない。このようなので、意地がなければならない。

 時間と出家したい確かな意思があれば、我輩は出家することを随喜する。出家しなさい。時間がなく、心が本当に出家できないと感じれば、出家して世界を欺かないでほしいと、我輩は願う。これは長く思っていることである」。





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