第一章
説法を聞いて信仰と智慧が生じ出家を望む
この章の説明であるパーリは、次のようです。
『ご年配のみなさん。昔、私は所帯を監督する在家で、無知な人で、如行様や如行様のお弟子が私にダンマを説かれると、私はそのダンマに耳を傾け、如行様に信仰が生じました。
信仰が生じると、「在家は窮屈で、埃である煩悩が発生する所。出家は明るくなる機会。出家であるこの梵行を、所帯を営む人が、彼らが完璧に磨いた法螺貝のように十分完璧に行動するのは、簡単ではない。それなら私は髪と髭を剃り、渋染めの衣をまとい、家を出て宿無し人の出家をしよう」と、明らかに見えました。
〔パーリ・中部 ウパリバンナーサ チャヴィソータナスッタ〕
説明
この部分の要約 :
阿羅漢の跡を追うことは、ダンマを知らない在家の時から始まります。阿羅漢を産んだ人である如行とは誰か、そしてどのようにダンマを説かれたかは、「序章」で述べました。
在家とは人物を限定せず、どの家系に生まれた人でも、そのダンマに耳を傾けて聞いた時、在家の生活の心を妨害する話に夢中になっていることに倦怠が生じ、普通何百代も際限なくぎゅうぎゅう詰めですが、どこもかしこも愛欲を味わう人の生活のようでない、すっきりして快適な人生、出家を望む気持ちが生れます。
この文章で述べるべきは、次の項目です。
1.私、あるいは聖向聖果に到達した人とは誰か
2.ここでの「聞く」は、誰の話を聞くのか
3.誰にこのような感覚があるのか
4.何が心を引くから出家したいのか
5.何が倦怠させるのか
6.愛欲とは何か
7.そのように感じたことがある人の見本
8.今世界全般は、この話をどのように感じているか
1.「私、あるいは聖向聖果に到達した人」とは誰か
パーリ・沙門果経と、ケーヴァッタスッタ、その他のパーリ(ブッダの言葉である経)で知ることができます。良家の子息はどの家に生まれたかという意味で、身分を限定しません。
カッティヤ(武士)・バラモン(司祭)・ペーサ(町人)・スッダラ(賤民)も同じように聖向聖果に到達でき、身分による差はないからです。この平等はパーリ・マドゥラスッタに現れています。
要旨は、四つの身分の人が殺生などの悪を成せば、当然悪趣、アパーヤに至り、布施などの善を成せば、当然いつでも善趣に至ります。大衆に対して体に危害を加えるなどの間違いをすれば、当然いつでも罪科を受けます。
このパーリの中で、マドゥラー王がプラ・マハーダッチャーヤナに、「そうです。そのようなら四つの身分の違いだけの人は、何も違いません。そして私は、何も違わないとハッキリ見えます」と言われています。
阿羅漢の後を追いたいと望む仏教教団員は、自分の生まれや家柄の話で挫けるべきではありません。低くても聖向聖果の到達を妨げる物ではありません。
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2.ここでの「聞くこと」は、誰の話を聞くのか
ここでの聞くことは(自分を)ダンマで教育をしたことがない在家の聞くことで、幾つもの棚の経典を学び終えたけれど、滅苦を探求しない(三蔵の)学習家の「聞くこと」ではありません。聞いて人生の状態を規定して見る人は、自分を幸福にする方法を目指すので、本当にし始め、そしてそのようにできます。
ここでの「ダンマ」という言葉は、人間を解脱させるダンマのすべてを意味し、略して十五品行、八道、三学と言います。これについては序章の「ヴィチャーサラナサンパンノー」で述べました。最高に短くまとめれば、無明があるので、後で大変なことになると知らない人間の心を抑圧する自然から、心を解脱させる方法です。
知らせて心を常に瑞々しくでき、どんどん瑞々しくなり、最後には何も残らず消滅し、縁がないので新しく生まれさせる識は無くなります。般涅槃と呼ぶものは、二度と生まれて来て、世界の自然で苦しみ、闘う必要はありません。まだこのようにならず、再び生まれても、清涼で幸福な人生です。
アッタカター モンガラスッタは、聞くことの功徳を二種類述べています。つまりこの生で聖向聖果に到達することが一つ。そしてもう一つは、来生のための宿善の訓練です。
この部分の良家の子息は最初の項目の功徳を受け取る人で、現生で聖向聖果に到達します。学んでも学ぶだけの人は、増支部チャトゥカニバータ パトマパンナーサ、パトマヴァッガ、パトマスッタで話されている功徳を受け取るべきです。次のように要約することができます。
死んで天国の天人に生まれ、ダンマは自然に心の中に現れ、あるいは神通のある比丘が現れてダンマを説き、あるいは誰かそこでダンマを説く天人である人がいるか、あるいは不還である天人が「過去生で学んだことがあるダンマヴィナヤを思い出しなさい」と忠告します。これらのいずれか一つで、その人は天界で相応しい聖向聖果に到達できます。
パーリ・七覚支相応などで、「聞くことは五蓋を静めることができる」と言われているのも、ティカニバータで「疑念を静めることができる」と言われているのも、この話の中では良家の子息を意味していないので、今ダンマを聞いたばかりでも、阿羅漢に近い感覚になることができると確信するべきです。
「教典を全部学ぼうとしなくても、良く聞けば、当然智慧が生じる」とその文にあるように、熱心に聞くようお願いするだけです。たくさん学ぶことは、ある時代ある人にとっては、どんどん滅苦から遠くなります。貪りと怒りの心で学ぶ人もいるからです。
この章の見本と見なすべき良家の子息は、ヤサ、ウパティサ、コーリタ、そしてピッバリ青年などです。私たちはこれらの方々の足跡を歩くべきです。デーヴァダッタと幸運と供物は、同じように聞く人の見本ですが、仏教史上最高の悪人と仮定されています。
私たちはまだ、記憶して話す、あるいは文字で知っている人だけで、本当にこの知識のある説法師がいません。聞く人の心に突き刺さらないので、阿羅漢の口から聞いた人たちより、悟りに関して薄幸です。しかしいずれにしても、阿羅漢の後を追って追いつくために、常に努力するべきです。
私たちのような普通の凡夫、あるいは貪りと怒りが私たちより厚い人から聞いても、プラタム(ブッダの教え)への敬意で聞くべきです。凡夫から説法を聞いて聖向聖果に到達した人の例は、たくさんあり、聞けば当然智慧を得るからです。小部 ダンマパダアッタカターで、アナータピンディカ長者の息子について語っています。
父親が雇って聞かせ、重なるとブッダの憐みによって智慧が生じ、到達しました。だから阿羅漢がいないと信じている時代でも、ダンマがある心で学習する時は聞くべきです。スープであるプラタム(ブッダの教え)に近づいたと威張らない、あるいは己惚れないほとんどの人は、スープの味を知らないスプーンではありません。
3.誰に良家の子息の感覚があるのか
増支部チャトゥカ(タティヤスッタ 増支部)の中で、知ることに関して、人を四種類に分類されています。一番は題目を聞いた途端に理解する人たちで、ウッガティタンニューと言います。二番目は説明を聞いて理解できる人たちで、ヴィパジタンニューと言います。三番目は時間を掛けて噛み砕いて教えなければならず、そうすれば分かる人たちをネーッヤと言います。
四番目の人たちは、手取り足取り教えても知ることができない人たちです。誰かが現生で教えて理解させるには、目の中の埃が厚すぎるからです。あるいはダンマを聞きたいと思うには(煩悩が)厚すぎます。パダパラマと言い、ブッダも誰も救うことができない人たちです。
初めの三種類は、述べた良家の子息の状態で、如行のダンマを聞いて理解することができ、出家して聖向聖果に到達できます。
4.何が誘因で出家したくなったか
出家者全般で言えば、増支部、チャトゥカニバータ(パンチャマスッタ 増支部)の中で「帰依できる人は四つの理由がある。一番目は形に帰依します。仏教に関わる芸術の形に帰依し、この梵行をすることで、現生で、天国でも、生じると考える五欲である形を望むのまである。それで信仰して出家するのをルーパッパマーノー、あるいはルーパッパサンノーと言う」とあります。
二番目は同じようですが声を喜び、コーサッパマーノー、あるいはコーパッパサンノーと言います。
三番目は多少違い、みすぼらしい行動、つまり汚れた食べ物、衣服、住まい、治療薬からすべての行動まで、素晴らしいと理解して帰依します。ルーチャッパマーノー、あるいはルーカッパサンノーと言います。
四番目は本当に始めたダンマがあり、人間の人生の状態を真実のままに見て出家したくなる人をダンマッパマーロー、あるいはダンマッパサンノーと言います。
これが冒頭の説明である、パーリの中の阿羅漢の足跡を追うことができた人たちです。
この経のアッタカターは「世界のすべての動物の三分の二はルーパッパマーニカー(形を評価基準にする人)で、五分の四はコーサッパマーニカー(声を評価基準にする人)で、十分の九はルーカッパマーニカー(みすぼらしさを評価基準にする人)で、十万分の一がダンマッパマーニカー(ダンマを評価基準にする人)」と興味深く述べています。
(一人が幾つにもなることができるので、どの種類にも数えられます)。当時も阿羅漢の後を追う人は最高に少なかったと推測するべきです。現代の私たちの世界は非常に変化し、多分ルーパッパマーニカーがその他より多いので、更に遠いはずです。
5.何が彼を倦怠させるのか
人生の状態が飽き飽きする物として現れるのは、熟慮して見る人にとって色々で、必ずこのように見えるという原則はありません。その人を取り囲んでいる出来事次第で、探求したくなるほど、あるいは自分をそれから抜き出してしまいたくなるほど、愕然とさせます。
私たちが生まれても、あるいはこの先何千回生まれても、そして先祖、あるいはこの先にできる何十万代もの子孫も、この条件を良く解決した人は誰もいないので、ブッダは「このことでは同じ」と言われています。それの常として崩壊があっても、そして自分の威力下になくても、これが生・老・病・死・苦・憂い・何かを自分の物にするための困苦の状態です。
ラッタパーラという名の良家の子息が、出家する時自分の父親に「長者! 私の言葉に従うことができるなら、あなたはそれらの金銀を何台もの荷車に積んで牽いて行って、ガンガの流れの中に沈めなさい。何故か。それは悲しみ・嘆き・苦・後悔・困苦は、これらの財産が原因で、あなたに既にたくさん生じたからです」と言った感覚に見ることができます。(ラッタパーラスッタ マッジマパンナーサ 中部)
ブッダは「人間は力や命を苦である物と引き換えにする努力し、普通にある古い苦を増やす」と言われています。威力がある人、あるいは仲間が多い人は、これが理由で殺し、苦を増やします。だから「苦・苦の原因・苦の消滅」も同時に知るよう教えられました。
そして悪の行動だけが苦という意味でなく、凡夫が「善、正しい」と仮定する物も、鋭い眼のある人には苦が現れています。この教えは、アヌブッピカター五段階を話された時に見ることができます。
初めは布施で助け合い、二段階目は戒、最高に善い体と言葉の行動で、三段階目は現生、あるいは来生で、その布施や戒から生じた幸福、あるいは天国で、四段階目は心を焼き炙る、あるいは世界の動物の血と涙を絞るほどの愛欲と天国の害です。この四段階目が、現代社会の智者と自称する凡夫が、非常に望むものです。つまり愛欲である人生に倦怠する基盤です。
私たちは揃って、生まれて変化して、最後には崩壊する愛欲を得るために、歯を食いしばって努力します。私たちは弟妹や子孫、あるいは弟子である小さな子に、それを探求するよう教えています。そして一斉にブッダの教えの言葉で気づいて、友達、両親、兄弟、子孫に指摘して感じさせる人以外は、世界が消滅するまで休まず教えます。
増支部 チャトゥカニバータ ヨーターチーヴァッガ ドゥティヤスッタの中で、「誰も強制、あるいは説得できない。あるいは当たり前である生老病死がある物にふさわしく、そのようにしない。あるいは輪廻に駆けて行かせるカンマの結果を、私だけ輪廻しないようにと強制できない」と言われています。
この話を、私たちはすっかり忘れています。忘れることに満足し、誰も自分のことばかり考え、「自分」と理解し、腕や技術のある人の幸福だけを考えているように見えます。彼らは苦を覆って、私たちの目を騙して迷って買わせます。
あるいは世界の自然である物が騙すこともあります。私たちが輪廻を恐れないのは、自分の命の価値を何十年でもないと見るので、それから脱すのを望まないからです。私たちは自分の物と保証しません。そうでなければ、永遠にそのように志願します。
悲しむことはありません。解脱するダンマを探求する必要はありません。本当に深く悲しい時に至るまで、私と私たちの先祖は、何十万代もこのような苦の塊に埋もれた人だったと言います。
しかしこのような感覚が。私たちに生じるのは本当に難しいです。本当は、ある動物たち、あるいはある人がブッダから光を受け取って何年でもない時に、ブッダが一度話されています。しかしその光は通り過ぎて、元通りの盲目になりました。
私たちはその灯火を引っ掴むことができません。だから揃って最高の闇である無明の中のデコボコした生活を、私の満足するものと理解します。そしてある人たちを「それが知足。あるいは彼らの世界に住む勇気」と迷わせ満足させます。
6.愛欲とは何か
家を管理する在家は愛欲を味わう人です。(本当の)出家は愛欲を避ける人です。ブッダが「愛欲をまだ捨てないムニーは世界を欺く人」と言われたように、体と心は同時に出家になります。つまり外部も内部も愛欲に倦怠します。だから阿羅漢の後を追いたいと望む人は、愛欲についての知識があるべきです。
私たち凡夫が満足して非常に欲しがるものを、愛欲と言います。形・音・臭・味・接触でも、身に着け、使用し、消費する物でも、野望を生じさせるほど欲望の基盤であれば、不正でも公正でも、愛欲を野望すると言います。ブッダは不正な愛欲の探求を禁止なさり、在家には公正な探求は認め、出家は不正な方法も公正な方法でも禁じておられます。
在家が公正に愛欲を味わう正しさは、出家がそのようにすれば、悪劣で下劣です。愛欲を良く知るには、マハードゥッカカッカンダスッタ(シーハナーダヴァッガ ムーラパンナーサ 中部)で話されたように知らなければなりません。
その経では、三つの状態で愛欲を知るべきと言われています。つまり愛欲が夢中にさせること、害である愛欲の低劣さ、そして愛欲から出てしまう道具である方便を、次のように知ります。
愛欲が夢中にさせる味。ある部分で「比丘のみなさん。幸福、あるいは五欲に依存して生じる憂いは、愛欲の喜ばしい味」と言われています。恍惚としたことがある人は当然知っています。ほとんどは善悪正誤を忘れるほど恍惚としたことがあるからです。
罪である愛欲の悪劣さは非常にたくさん話され、ここに入り切れないほどです。詳しくは、凶悪でない物から順に題目だけを取り上げます。
仕事をする中での体と心の苦、仕事の憂い、期待どおりでない結果、手に入れた愛欲を心配して惜しんで維持すること、奪い合いや嫉妬による闘争、身分違いの人との愛欲、両親と子供、親戚同士、戦争、大戦、抵抗と保護、人間の命を失う、国家犯罪被害から来生の悪趣で受け取らなければならない凶悪な苦まで、これらはすべて愛欲が原因で生じます。これを愛欲の悪と呼ばれました。
愛欲から解脱する方便。「比丘のみなさん。愛欲に夢中になることで欲情を取り出してしまい、欲情、愛欲に夢中になる威力を吐き出すことは、すべての愛欲から脱す方便です」と言われました。意味は、熟慮して害を見て倦怠が生じ、迷って愛すこと、迷って満足することを捨ててしまうことができます。
愛欲とは、魅惑的な形・音・臭・味・接触の他に、心の中の悪い感覚も意味します。欲、欲情、タンハーと呼んだり、ラーガと呼んだり、オラティと呼んだりする熱さなど、すべての言葉をパンカと言います。
つまり動物が沈んでいる泥沼は落ちたら出るのが難しく、世界の動物の心を全部覆う網です。何も妨害する物もなくいろんな物に広がる最初の味であり、中間の毒です。本人はそのように知らなくても、それの奴隷でもあるので、そのようだと教える人がいると、反対に笑います。これらの動物を「まだ愛欲である欲望の奴隷」と言われました。
7.成り行きでそのように感じたことがある人の例
大混乱した生活に倦怠の感覚が生じ、脱出口である阿羅漢になることを探求した人が、当時受け入れられないほどいました。その方はどのように感じたか、例として取り上げます。
ラッタパーラスッタ(中部)には、プラ・ラッタパーラの言葉があり、カオラパ王に答えて述べた言葉があります。阿羅漢の一人であるプラ・ラッタパーラの言葉で、本当の心の深奥の感覚として述べ、次のような詩に綴りました。
私たちは財産が豊かな人間のことばかり考え、
財産を得ると財産に酔って、分け与えない
著しい貪りで掻き集め、
その上、更に愛欲を望む
勝利した王は、海のこちら側の領地を占領し、
飽きることなく、海の向こう側に接すまで広げたいと望む。
王、あるいは多くの領民はまだ欲望があり、
死ぬまで欲望は満ちることなく、世界の愛欲への倦怠はない。
一つ。髪を捨てた親戚の死骸は、
私の親戚、死なないでと、
このように嘆き悲しみ、
そしてまだ布で包み、
火葬場に運んで燃やし、
死体を掻き出すための棒で突かれる。
財産を捨てて死んだ時は、体を巻く布だけで、
親戚友人も抵抗する人はいない。
財産を受け取る人は助け合って死人の財産を運び、
その動物は作っておいたカンマで行く。
どの財産も、所有者について行くことはできない
子供も財産も領地も当然同じ。
長生きするのは、没収した財産があるからでも、
財産に非常に満足しているからでもない。
財産の所有者と財産は、当然一緒に悪化する。
哲学者は、
人生は些細な物で、一定でなく、
当たり前に変化があると言う。
金持ちも貧乏人も、哲学者も愚かな人も、
当然世界の触に触れる。
しかし愚かな人に触れると、動揺する人になり、
愚かな人の性で足掻き、
哲学者は恐怖で動揺しない。
だから智慧は財産より素晴らししい。
そして動物を、
世界である苦の終わりに至らしめる智慧」。
大小の有で、迷って罪を作った動物は、
終わりに至らせる智慧がないから。
まだ迷って罪を作っていれば、
どの動物も行ったり来たりしなければならず、
天国に生まれ、来生に生まれる。
智慧がある人以外で確実なのは、
いつでも胎内、あるいは、来生に生まれなければならない。
罪がある動物がこの世界を捨てて来生へ行くと、
その生で困窮する。
自分のカンマは、盗人が盗人のカンマを作るのと同じで、
彼は捕らえられ、自分のカンマで困窮する」。
大王! 私は五欲の罪が見える。
美しくて美味しく、心を楽しませる愛欲は、
いろいろ心を妨害するので、
私は出家して出家者になってしまいました。
大王! 果物の多くは熟せば落ち、
人間は当然、若くても老人でも死ぬ。
私はこの出来事を見たので、
出家して出家者になってしまいました。
出家してサマナになった結果は、
どちらも間違った行動ではない。
あるのはその人を苦から出すだけで、
素晴らしい徳。
だから陛下は私を
「述べたような内容を聞いたので出家した」と覚えておかれなさい」。
ブッダ自身は、どのように考えて出家なさったのでしょうか! 私たちは、バーラダヴァーチャバラモンに話されたブッダの言葉の一部で知ることができます。(サガーラヴァスッタ マッジマパンナーサ 中部)
「バーラダヴァーチャ! この世界で、私が大悟する前、まだボーディサッタだった時、私にこのような考えが生じました。
「在家は窮屈で、埃が流れて来る所。出家は空っぽになる機会。人が家を管理すれば、彼らが良く磨いた法螺貝のように純潔に梵行の振舞いをすることはできない。それなら髪と髭を落として家を出て出家し、家のない人になろう」とこのように。これは仏教の出家を生じさせた人、ブッダのお気持ちです。
8.今、世界はこのことについてどのように感じているか
道理を探す十分な脳味噌がある人の世界では倦怠が生じ、そして上方の神様に供え物をして祈願することに興ざめを感じます。祈願の最後の結果は困難に満ちた生活、あるいは世界なので、今までどおり眠るに眠れないからです。
政治、あるいは焦燥する世界を捨てた世界の哲学者は、人生を本当に穏やかな幸福にする方法を探求する努力をします。東洋も西洋も、古代も現代も、世界にあるいろんな宗教の教えを教育で探求し、最後に心の中の複雑さと闘わせる教えである方法を見つけ、複雑さの原因を断ち、世界を真実のままに見る目を生じさせ、自分の人生を自然に従って回転させます。
つまり心を幸福にし、世界の威力を越えて脱します。この教育、あるいは練習課題を「出家する」と言います。本当は、出家することはすべて心の教育です。しかしその種の人物を表わす衣食住があります。
外部の衣食住の様式は、外皮であるその種の人物を表す物です。あるいは繊細な心の淵の深くにある本当の出家を包む物で、少なからぬ人の目を欺き、外部に見える外皮を本当の出家と誤解させることもあります。
ブッダの時代の人間は、現代のように早く老い、早死にさせる気が重い複雑な話は多分なかったでしょう。政治、経済、追放、戦争の話などは、全部人間が自分で起こし、そして休まず会議をして解決します。それらの政治家がこの責務を分担し、全員が来生へ行っても、世界のこの種の重荷を軽くできないので、世界は少しも良くなりません。
反対にぎっしり詰まって、更に解決しにくくなり、終わりがありません。世界はまだ世界自身を知らないので、この重責に堪えなければなりません。これらの世界の混乱に倦怠した哲学者のある人は、振り返って二千五百年前の世界の滅苦のために残されたダンマ、ブッダのダンマを見、見えた哲学者は急いて受け入れます。
しかしその他の非常に多くの人は見えず、そして倦怠しません。世界が穏やかな幸福になるのは、ブッダの滅苦の知識を極力受け入れた時です。哲学者は自分だけ見えるので、自分の生き方として教えを受け入れる人も多いです。
ブッダ在世時は、現在のように混乱した政治や世界はありません。現代よりどれほど静かで平穏だったか考えて見てください。それでもより静かで緻密な道を探求するためにすべてを捨てたほど、良い結果に出合って物になるほど、そのような暮らしに倦怠した人もいました。出合った人とは、二千五百年前のブッダです。
現代も、ブッダの名前は私たちの脳に鳴り響いています。世界の混乱を解決できるただ一つの明(知識)を発見したからです。世界中の哲学者、あるいは現代の誰も反論する声もなく、当然この真実を信じ、ほとんどは一回、あるいはブッダの時代の世界の半分だけ回転することに満足しています。
西側の世界では、ブッダは、かつて信じられたような架空の人物でなく、実在の人物と信じられていますが、教育は増えていません。彼らは静かに幸福に暮らしたがるので、常にいろんな教理、宗教の方法を探し、最後に仏教の滅苦の方法を見つけました。
彼らは内部の心の訓練法に賛同し、人生を護る物として法輪を設置し、それに従って良い結果を得、仏教を志願する人もいます。まだこの知識に新しいので、外面である黄衣をまとうことは完璧でなくても、出家を維持している人と同じだけ、あるいはよりダンマの味を良く知っている人もいます。ある西洋人が、その感覚をダンマの詩に綴りました。
困窮と混乱の巣窟は
家を営む人の暮らし
それは苦と野望に満ちている
自由で空のように高い物は
家のない人の暮らし
智慧のある人の世界は全部、この系統と一致する感覚があります。仏教の聖向聖果は、比丘だけの物ではありません。人は心の中だけ出家しても、外部の身体まで出家しても同じ感覚があります。どうぞその人と私たち全員の出家が、心が強制した結果であってください。幸運(献上品)と階位・職業だけ、あるいは伝統習慣だけを考えるなど、環境による強制にしないでください。それは後に偽の出家を生じさせます。
「家」という言葉は、在家だけを意味しません。パーリでは「家に依存するヴェーダナー、あるいは考え」と言われているので、一般の比丘に生じることができます。だから家のある人、家のない人というのは、重要なのは「心」を意味しなければなりません。心だけ出家している世界の哲学者は、体が出家するまで熟した時、更に非常に善くなります。
解脱の喜びを味わわれた時、菩提樹の木の下で発せられたブッダの詠嘆で、この章を終わらせていただきます。
「世界の動物は有に密着し、有に強制され、反対に別の物になるので、有に非常に熱中する。
その人が有に夢中になる時はいつでも、その有は危険で、その人が何を恐れても、それは当然苦である。
私がこの梵行をするのは、その有を捨ててしまうため。
苦は執着によって生じ、苦が生じないのは、すべての物に執着しない時。
この世界を見てご覧。
無明が厚く覆って、同じような動物と関連するので解脱できない。
有はどこにでも広がっているので、至る所にある。
すべての有は無常であり、苦であり、変化する。
智慧によってこれが真実のままに見えた時、
有の欲を捨てることができ、
無有の望みを喜ぶ。
欲望が終ることによる弛緩、返却による消滅を涅槃と言う。
執着しないことで消滅した比丘に、再び生まれることはない。
彼は悪魔を退治し、戦争に勝利し、すべての有を脱した。
このように不動の(二度と変化しない)人」。(ナンダヴァッガ ウダーナ 小部)