序章

阿羅漢を生じさせた人ブッダ




ブッダバーシタ



 比丘のみなさん。通常海は段々に低くなり、段々に深くなり、断崖絶壁ではありません。このダンマヴィナヤも同じで、段階的な教育があり、段階的な行動があり、段階的な実践があり、阿羅漢果を悟ることは、急激な深い状態はありません。

(ヴィスッティポーサタスッタ 小部 アッタカニバータ 23巻210頁)



(後半の)前書き

 読者は、話の構造をざっと知っておくべきです。教えとして使うパーリである三つの経を説明して、そのパーリの二十三の教えを集めて、阿羅漢の跡を追っての前部としました。これから、教えごとの説明を始めます。

 説明を二十四章に分け、序章は阿羅漢を産ましめた人、如行についてです。次は「阿羅漢の後を追って」を一章から二十三章まで、序章を入れて二十四章を順に説明します。

 結集で取り上げて説明する(私たちが三蔵と呼ぶ物)は、ブッダバーシタである教えを重要とし、それから弟子、あるいは仙人の言葉などです。更に説明したければアッタカター、ディーカーの段階で、パーリで叙述してなく、アッタカターなどにしかない必要な物だけです。

 これは、阿羅漢の足跡を探求することに関心がある方が、パリヤッティ(三蔵の学習)と、幾つか自分自身で試して探求しただけ説明して聞かせるだけで、阿羅漢自身が書いた本ではありません。書名も、後を追う、あるいは足跡を探すと明示しています。

 だから読者のみなさんはもう一段階考えて、熟慮して、調査して、心で明らかになってから歩くべきです。うっかり、あるいは良く知らないために失敗するなら、学者である方は、助け合ってより良くして振興してください。いつか阿羅漢の影が、関心のある人の目に映ると信じます。

プッタタート比丘
1933年4月3日




阿羅漢の足跡を追って

序章

阿羅漢を生まれさせた人ブッダは誰か




 基本であるブッダバーシタには次のようにあります。

 如行は、明と品行が完璧で、善く行き、世界を明らかに知る自分自身で悟った阿羅漢として世界に生まれ、苦しめるべき人を誰よりも苦しめる人で、天人と人間の先生であり、初めも、中間も、終わりも美しいダンマを説き、同時に意義も細部も完璧な梵行を公開しました。(合計十三の部分)長部 シーラカンダヴァッガ 沙門果経

 これから、部分ごとに説明します。

1.如行

 この言葉は、世尊がご自身だけを呼ばれる代名詞として使われました。しかし後世になって、世尊を呼ぶために自分の言葉として使った人がいました。タターガタという言葉の要旨は「そのように来て、そのように行く人」という意味で、ブッダのようにこの世界に来て、ブッダのようにこの世界から去って行くという意味です。  

 ブッダのように来るとは、ブッダは人間に、自分自身で苦から脱すことを教えるために生まれたという意味です。胸いっぱいに苦がある動物に憐みがあり、王宮に招いて食べさせ、同時に子供や夫を亡くしたなどで困窮している貧しい婦人に、宮殿で予期せぬ幸運を与え、貧しい婦人を説法で慰め、心から困苦を消し去らせました。あるいは習性があれば何らかのダンマに到達させました。

 ブッダは、ダンマの説明をし、(煩悩が)厚すぎる人を除くすべての種類の人に利益を受け取らせる言葉を探す智慧がありました。猊下はすべての悪が無くなった最高に清潔な心があり、真実、正しさ以外に何も考えず、生涯他人の、つまり世界の利益になる行動をなさいました。これを「ブッダのように来る」と言います。

 ブッダのように行くとは、身体も心も、再び生まれさせる縁であるカンマも含めて、全部消滅して涅槃なさり、世界のすべての動物のように、戻って苦になる必要がないことです。ブッダは本当に般涅槃なさいましたが、ブッダの善は残っています。それは、教えておかれたダンマヴィナヤで、私たちはブッダの代わりに押戴いていて、ブッダがまだおられるようです。

 ブッダの教えの行動から生じた結果である幸福は、まだ世界の至る所を覆い、ブッダが到達なさったような最高でない低い幸福でも、ブッダが般涅槃なさった後、この世界に遺された素晴らしい行動の象徴です。これを「ブッダのように行く」と言います。

 ブッダのように来て、行くので、如行と言います。

 みなさんが、自分を如行の弟子という名にふさわしくするなら、「どのように来て、どのように行く」と決意して、誘い合って如行の後を歩きなさい。みなさんが人間(高い心がある動物)のように来たのなら、人間のように行きなさい。世俗の側は善い国民として来て、善い国民のように行きなさい。

 ダンマの側は、清信士のように来て、清信士のように行き、サマナのように来たら、サマナのように行きなさい。私たちは自分自身と、自分の義務を知らなければなりません。そうすれば自分が維持している方法を誤りません。このことは、涅槃に近い部分の伝記を、教えとして記憶すべきです。

 つまりプラ・アーナンダが「私たち弟子は如行の骨に対して、どのように行動すべきでしょうか」と質問すると、「そうしてはいけません。アーナンダ。如行の骨を祭るための探求のように、自分の利益を維持しなさい。不注意になってはいけません。努力をし、自分の利益を決意しておきなさい。アーナンダ。如行に信仰がある王、バラモン、長者たちもいます。彼らが如行の骨を祭ります」と言われました。

 ここでは「自分で宣言したように、終始、自分の義務に完璧に専心しなさい」という意味です。出家は出家の仕事を知り、在家は在家の仕事を知り、奪い合って混乱させてはいけません。そうすれば外にも内にも正直な人で、名前と行動が一致し、来たように行くと言うことができます。在家・出家に限定せず、この教えによって如行の弟子になれます。これと違えば、そうではありません。

 これが、阿羅漢である如行の足跡を追うことです。


2.世界に生まれる  

 昔のアーチャンは、「ブッダは世界が空劫である時代に生まれた」と異口同音に言います。空劫とは発展、あるいは本当に至高の文明に導く人がいないための動乱の時代を意味します。つまり二千年余り前は、世界の人間が自分の人生のために本気で知識の探求を好んだ時代です。

 仏歴然八十年、タターガタという名前の人が、インド北部のサッカ地方のカビラバスツとデーヴァダハの間にあるルンピニー苑のサラの木の下の土の上で、カッティヤ、ウバトースジャーティの家系の母から生まれました。シッダッタ、あるいはシッタールタという名のボーディサッタと呼びます。

 成長すると、王位継承権を捨てて出家し、世界のすべての知識より高い知識、つまり完全に苦を滅すことができる知識を探求し、その知識を自分自身で発見しました。出家して三十五年、仏歴四十五年に「ブッダが大悟された」と言います。これが、世界に如行が現れた状態です。

 ここでの「生まれる」とは、ダンマカーヤ(法身)、あるいは知識で生まれる、あるいはアリヤジャーティ(聖人に生まれる)ことで、悟ることです。直接胎内から生まれることを意味しません。

 パーリのこの部分の世界とは、チョンプータヴィーパ(インド半島)だけを意味し(当時、チョンプータヴィーパだけしか知らない人の見方で)ます。あるいはすべての世界でしょうか。世界という言葉は世界全体を意味します。世界全体は普通の流れの下に落ちているので、遍くブッダの教えの言葉を受け取るべきです。そしてまだ、ブッダのダンマを必要とする天人界、悪魔界も意味します。

 要するにここでの世界という言葉は、ブッダが直接行かれなくても、ブッダの教えが広まった所はどこでも世界という意味です。ブッダは彼らの利益のために生まれ、誰にも教えられない、あるいは反論できない真実を彼らに教えたからです。

 ブッダには、次に述べるようなたくさんの素晴らしい功績があります。

3.オラハン=阿羅漢

 オラハンという言葉は、部分的に訳すと四つの意味があります。つまり適切な人、遠い人、神秘な点のない人、折る人です。次のように説明します。

イ 適切な人。何種類もの意味があります。


(1) 適切なことを自分で行い、そして他人にも教える。適切なものとは、正しい見解等がある八正道。

(2) ダンマヴィナヤを規定し、世界に教える人の地位にふさわしい。本当に知る人は、教えるように自分自身も行動するからです。中には「これはすべきでない。罪がある。あるいは利益がない」と良く知っていながら、まだしている人がいます。自分の心の中の欲望を抑えられないからです。

 こういう人は、他人に教えるアーチャンであるべきではありません。ブッダはそのようではありません。だから世界に教える先生の立場にふさわしいです。

(3) ブッダを恐れさせることができないので、世界のものが影響されるにふさわしいです。普通の人は、それに対して動揺を抑えられないので、世界の物が影響されるにふさわしいです。

(4)拝跪するにふさわしく、大衆の供物にふさわしいです。それらの供物より価値が高い善があるので、跪拝して尊敬するにふさわしいです。ブッダの生まれや家柄も、生まれた時から尊敬にふさわしいです。  

 ロ 遠い人。二つに分かれます。

(1) 心の中の勝利である。貪り・怒り・愚かさである煩悩が終ったので、煩悩から遠いです。体と言葉も、すべて悪から遠いです。

(2) 新旧の悪の結果である苦から遠い。体の面、心の面も、ブッダを踏みつけ、騙して再び愛させ、怒らせ、恐れさせ、嫌わせられるもの(等々)は何もありません。だからブッダは最高の幸福を得られました。

ハ 隠す物がない人。多くの人のように、他人に隠さなければならないどんな悪も不正もありません。ブッダの体と言葉の面の有り様と心の中の状態は、公開して誰にでも見せることができ、人目のある場所でもない場所でも、誰かが非難、あるいは嫌う項目は、ほんの僅かもありません。

ニ 折る人。輪廻転生の車軸を折って、回転を止めてしまいます。まだ回転すれば、自分にとってまだ自由でなく、幸福でないからです。カンマ・煩悩・報いの三種類は車軸で、ブッダガヤの菩提樹の木の下で大悟された日に、ブッダに折られてしまいました。

 阿羅漢であるブッダの弟子であるみなさん。阿羅漢の後を追いなさい。

(1) 内心で悪と利益でないと知っている、ゴミや埃のような物を捨てる決意をすることで、自分を大衆から拝まれる価値があるようにする努力をする。

(2) 内心の悪を十分太らせ、芽や葉を出させる原因から遠く離れる努力をする。

(3) 悪を片付けて自分から出し、「私は内面も外面も清潔で、迷って信じている人を騙すために隠していることはない」と、誰にでも見せられるようにする努力をする。

(4) 智慧で探求する努力をして、輪廻から生じる苦が見え、静寂から生じる幸福が見えるのは、苦を絶滅させることです。そうすれば阿羅漢であるブッダの弟子と呼ばれます。さもなければ、自分で自分を貶すことができます。他人については述べるまでもありません。


4.サンマーサンブッダ

 「悟る」という言葉は、知るまで考えるという意味で、知識が心の中に現れるのを寝て待つのではなく、たくさん読めば悟れるのでもなく、たくさん、そして自分が悟りたいことについて、長期に理由を探求して集めなければなりません。

 新旧の理由を比較し、古い知識で新しい知識を引き寄せて区分し、最後には全部、あるいは求めるだけ十分知ります。ほとんどの人は、人が褒めるだけの知識を得れば、あるいは友達より進歩したと感じれば、その知識を愛し、持ち上げ、自分の人生には十分と思い、毎日毎日、教祖のような態度で時間を費やします。

 あるいは自分より知識が少ない人の弁舌を貶します。だからその人はそれしか知らず、あるいは却って少ない知識になります。ぼんやり意識する間に、少しずつ古い知識を忘れるので、知識は悟れるだけ十分発展しません。

 あるいは、自分の方が年上という慢で、あるいはかつて彼の師であったから新米の弟子になる気になれないなど、多くの年老いたバラモンのように、あるいはスクルダージスッタのスクルダージ修行者のように、この宗教の実践項目の方が自分より善いと知っていながら、犠牲にして出家することができません。

 慢で始めたり、部下が反対したりで、ブッダのように悟れません。ブッダは反対に、高い知識を探求する道具にするために、知りたいすべての教理を学んで実践し、最後に悟ってブッダになりました。

 「正しい」とは、何が利益か、利益である物か、つまり滅苦を知るという意味です。何が滅苦かは、滅苦を知り、苦が生じる根源を知り、滅苦を知ります。

 そして何としても滅苦に至る道を知ることを、四聖諦を知ると言い、ブッダが知り尽くし、理解し尽くし、知識にふさわしく本当にしたものです。華麗な構想家が空中楼閣を築くことを知っても、そのようにできない知識ではありません。だからここでの「正しく」という言葉は、利益になるという意味と、知ったようにすることです。

 「自分で」とは、誰にも教わらずに自分自身でという意味ですが、意味は限定されます。これは検証で明らかにできます。一つの普通の法則、後の考えは、脳の中に集めて置いた知識の蔵から芽吹いたものと言います。知識がある人、あるいはいろんなラジオの話を考えた根源である人は、熱や光、音、電気、空気等々、科学の学習の背後にある他の物までの知識がなければなりません。

 そうすれば新しい華麗な道具を作ることができるのと同じです。ブッダの悟りはこれと同じではありませんが、反対ほど違いません。ブッダは技術や学術、公務、政治に精通し、あるいは武士、詩人、語学者であり、若い頃から思索し、その上大悟前の六年間、いろんな教祖と会話をして歩き、初めの部分である物に精通なさいました。

 それらの教祖のジャーナとサマーディなどの正しい部分、あるいは利益がある部分を溜めて置き、誤った部分は捨ててしまい、正しい物を全部集めて、もう一段深く緻密な智慧で、最後に本当に大悟しました。それは、緻密で絶妙な熟慮によって、学んできただけの知識から浮かび上がって来たものです。

 みなさん。このことで、ブッダの弟子でありなさい。知識の食べ物を増やして、教えておかれた道を増やし、慢で驕らず、あるいは後で内部が熱い人でなければならなくする、ブッダでない間違った様式にしないでください。みなさんはブッダの後を追って悟る人で(自分で悟るのではない)、人間であることの価値を感じて本当にする決意をし、努力をする人の能力以上に難しくはありません。


5.明と品行で完璧

 明とは知識という意味で、品行とは知識を得る道具という意味で、完璧とは十分にあるという意味で、三語を合わせると、知識と知識を得させる道具が揃っていると分かります。何が知識で何が道具でしょうか。これはパーリ・長部、シーラカンダヴァッガ アムバッタスッタのブッダバーシタで、次のように答えることができます。

 アムバッタ青年が「ゴータマ様。品行とはどのようですか。明はどのようですか」と質問すると、次のように答えられました。

 「アムバッタさん。如行はこの世界に、自分自身で悟った阿羅漢として生まれ、意義と言葉が純潔完璧なダンマを説き、梵行を公開しました。良家の子息がそのダンマを聞くと、出家して家のない人になります。このように出家した人は、

(1) 当然パーティモッガに細心の注意を払い、

(2) すべての根を維持している門があり、

(3) 常自覚があり、

(4) 知足、あるだけ、手に入るだけの衣と食べ物を喜び、

(5) 閑静な住まいに住んで蓋を捨て、

(6) 初禅に到達し、

(7) 二禅に到達し、

(8) 三禅に到達し、

(9) 四禅に到達します。

 これも彼の品行です。アムバッタ。これが品行です。

 「心がこのように安定したら、彼は心を

(1)ニャーナダッサナ(智見)、つまり体を見る智に傾け、

(2)心でできた形を作らないため、

(3)神通を現す方法のため、

(4)天耳のため、

(5)他人の心を知るニャーナのため、

(6)宿命智のため、

(7)天眼のため、

(8)漏尽智のため。

 彼が到達したニャーナはすべて、明の一つ一つです。アムバッタ。これが明です。この比丘を、私は「命で完璧な人」とか、「明と品行が揃っている人」と言います。他にそれ以上に繊細な明と品行はありません。

 (この文章は非常に長いので、項目だけ取り上げました。読みたい人は阿羅漢の後を追っての前半で取り上げた、沙門果経を開いて、間違いがないように読んでください。品行については三項から十三項まで、明については十四項から二十一項までです)。

 この要旨では、この宗教の実践項目である品行は、戒の段階からサマーディの段階までで、明は智慧の段階の実践項目と分かります。パーリ・アムバッタスッタと違う分け方の部分の説明は、これで十分です。


品行

 中部 セーカパティッパダースッタでは、十五に分けています。

1.パーティモッカに細心の注意を払い、

2.目・耳・鼻・舌・体・心に細心の注意を払い、

3.食べ物の探求と消費の適度を知り、

4.常に覚めている人の行動をジャーガリヤーヌヨーガと呼び、

5.道理のある物を信じ、

6.罪を恥じ、つまり罪を嫌い、

7.罪を恐れ、

8.たくさん教育し、

9.努力、

10.常自覚があり、

11.智慧、(この七種類は二部とする)、

12.初禅、

13.二禅、

14.三禅、

15四禅、(この四種類は三部とする)。

 これらすべてはアムバッタスッタと一致します。多少違うのは、戒などを援ける慚愧など、他のダンマを支援する部分です。この十五種類は、八正道に含めることができます。あるいは八正道は品行に分けることができます。この経の中では、この十五種類をゼーカパティパダー(有学道)、まだ学ばなければならない人の実践項目と呼びます。



 知識を明と呼ぶことも、ニャーナと呼ぶことも、智慧と呼ぶこともできます。何を規準にするかで色々に分類でき、要約すれば同じで 大原則は脱苦を知る点で、他の要素として知る部分は「どの部の明も常に四聖諦を知ることが重要で、漏尽智と呼ぶ」と観察して見えるように、何種類でも良いです。明の部を、ブッダはこのようにいろいろに分けています。

 三明とは、

1.宿命智。すなわち自分の前生について思い出させる原因である知識(マハーアッサプラスッタ 15項を参照)です。このニャーナは、到達した人の興奮を無くし、茫然とすることを無くし、輪廻・生老死に関わる野望を無くします。教祖は、大悟した夜の初更にこのニャーナに到達しました。

2.天眼智、他の動物が生まれるのと死んで行くのが、天の目のように見える原因である知識(マハーアッサプラスッタの16項を参照)で、このニャーナは外部の物に憐みで熱中する迷いを無くします。教祖は、大悟した夜の中更に到達しました。

3.漏尽智。漏、あるいは心の中に隠れている微妙な悪を完全に終わらせる知識(マハーアッサプラスッタ 17項を参照)で、その後再び貪り・怒り・愛・恐れ・迷う必要がない人です。最高の幸福である涅槃の幸福です。

 教祖は大悟した夜の三更に到達しました。この漏尽智に到達することを「仏歴前四十五年、六月の望月の日、菩提樹の下で、アヌッタラサンマーサンボーディニャーナ(無上正菩提智)を悟った」と言います。

 ブッダの弟子で、三明に到達した他の阿羅漢も少なくありません。しかしほとんどは、三番目の明だけです。十分完璧なサマーディに発展しないので、スッカヴィパサカ阿羅漢です。このような三種類に分けた明は、他の分け方をした明より多く、パーリのあちこちにあります。

 四明(四無明の反対)は、

1.一般のサンカーラに常にある苦を、明らかに知る。

2.集である、これらの苦を生じさせる原因を知る。

3.滅である、滅苦を知る。根源である欲望を、智慧で消滅させる。

4.道である、自分自身を滅苦に至らせる道を知る。

 四項全部は、三明の最後の項目である漏尽智と理解してください。猊下は四つに分けました。(マハーアッサプラスッタ 17項を参照)。

八明とは、

1.観智。体など、いろんな物の普通の成り行きの明らかな洞察に関わる智慧。(沙門果経18項を参照)。

2.意所成神変。自分の心で他の形身を作る(沙門果経 15項を参照)。

3.神通。いろんな奇跡を起こせる。(沙門果経 16項を参照)。

4.天耳。あらゆる種類の声が聞こえる。(沙門果経 17項を参照)。

5.他心智。他人の心を、今どのようか知る。(沙門果経 18項を参照)。

6.宿命智、

7. 天眼、

8.漏尽智は、三明で説明したとおり。

 本当は八明は三明と変わりませんが、神通の側の明に分類でき、四聖諦に関わらない心の面の神通を現すことが増えます。全部揃っている完璧な知識にするためだけに、本体の味方をします。三明より多くても、二人の大工が家を建てても一人は細かい飾りの技術者で、結果は、住むことができ、快適でもあるのと同じです。

 もう一つの八明は、上述の四明に、別の四つを加えます。

5.過去、つまり苦の原因など、原因の探り出すことを知ります。

6.未来、つまり八正道は滅を生じさせられるなど、先の結果を知ります。

7.過去と未来を知る。つまり「滅は道から生じ、道は滅を生じさせる原因」など、原因と結果を関連させることを知ります。

8.縁起を知る。つまりある物が縁になってある物を生じさせ、それが次にまた幾重にも別の物を生じさせる縁になる状態を知ります。例えば生から苦が生じ、生は有から生じ、有は取から生じる等々です。この要旨で、前半の四つは四聖諦を知ることで、後半の四つは四聖諦の状態を知ることと見ることができます。

 最高に短く言えば、すべての種類の明は四聖諦を知ること、あるいは自分の苦を消滅させる滅苦を知るだけです。


揃う

 サンパンノーとは揃うという意味です。品行なら九種類(アムバッタスッタの数によると)、あるいは十五種類(セーカパティッパダースッタの数によると)揃って、一つに解け合います。ある集団の各々が助け合って自分の義務を行って仕事を終わらせ、行動が完璧なら、明も完璧ということです。

 私たちの世尊はこの素晴らしい品行に歩いて行かれ、明に到達なさり、弟子に、後について歩いて到達するよう教えました。長部 シーラカンダヴァッガ、パーリ・クーダンタスッタなどの中で、世尊が世界から偉大な名誉を受けたのは、明と品行、両面で完璧だったからで、他の美徳ではないと述べています。真実を知り、本当に行動し、本当に最高の結果を得たという意味です。これが世尊の美徳です。

 ブッダの弟子であるみなさんは、このことでは、自分を明と品行が揃うように努力するべきです。サマナの義務でないものを犠牲にして悟りの道を歩けば、当然滅苦を知ることができます。

 その品行を縮めれば八正道で、八正道を縮めれば三学である戒・サマーディ・智慧です。八正道は滅苦に至らせる道で、長部 マハーヴァッガ 大涅槃経の中のブッダバーシタで、次のように主張され、保証なさっています。

 「スバッダさん。八正道に到達した人がいないダンマヴィナヤには、当然一番、二番、三番、四番のサマナ(聖人)はいません。スバッタさん。八正道に到達した人がいるダンマヴィナヤには、当然一番、二番、三番、四番のサマナ(聖人)がいます。スバッダさん。このダンマヴィナヤには八正道に到達した人がいます。

だから一番、二番、三番、四番のサマナもこのダンマヴィナヤにいます。スバッダさん。これらの比丘が正しく暮らすなら、世界から、阿羅漢の方々がいなくなることはありません」。

 これが、世界の未来の動物が歩く道を照らす明るい光で、まだ一つだけあります。私たちは一斉に歩くだけです。


6.スガトー(善趣)

 一般的に述べれば、善く行くという言葉は、世界の言い回しと、ダンマの言い回しの二種類の意味があります。世界の言い回しの「善く行く」について、世尊は次のように話されています。

イ.ブッダになられてから、奮闘努力をして世界の大人物である義務を行い、後退することなく休まず前進し、困難に挫けず、ブッダとしての義務を果たされました。

 もし愛欲の幸福に負けられれば、長いこと在家に戻ってしまい、探求が急停止すれば、行者の弟子、あるいは一人の行者に留まり、ブッダとして現れることはできません。しかしブッダの人生は最後まで段階的に進行して、スガトー=善く行った人と呼ばれます。

ロ.ブッダになられてから、どこへ行かれても、その地の大衆の利益を成し、どこへ行かれても、そこで幸福を与えました。彼らに要求して困らせないので、そして何一つ妨害しないので、去って行かれてからも、愛と残念で偲ぶ人がいます。これもスガトーと呼ばれます。

ハ.ブッダの行幸はご自身にとって安全で、危険がなく、鬼や強盗など凶悪な人に教えに行った時も、そのことで障害と悪意を受けませんでした。これもスガトーと呼ばれます。

ニ.ブッダの最期の御行も素晴らしく善い御行で、すべての普通の人と違って、最高の名誉で涅槃へ行かれました。ブッダが般涅槃なさった日に何億人もの人がブッダを偲び、それらの人々が一斉にブッダの命日を供養をするのは、最高に善く行ったからです。

 ダンマの言い回しの「善く行く」はこのようです。善く行くとは、動物に常にある悪である煩悩、つまり人を悪行に縛り付ける物のような貪り・怒り・迷いの威力から脱して自由になります。つまり苦、あるいは生老病死から他の苦まで、悪魔、悪王からの脱出です。

 ブッダは、悪魔の花であるそれらの物を真実のままに知らない普通の人のように、世界の魅惑的な形・声・臭い・味・接触・を摘まないので、心は純潔に澄みきって、世界の威力から脱し、他の物より特に高いロークッタラになりました。これがダンマの言い回しでのスガトーです。

 ブッダの弟子と宣言した私たちは全員、「善く行く」という教えをしっかり掴むべきです。人生で何をするか、方針をしっかりと定め、後退することなく、最高に努力を重ねなさい。塩が塩辛さを維持するように、今ある善をしっかり維持しなさい。

 サマナの生活から還俗しなければならない仏教教団員、あるいは、清信士・清信女でなくなる人、あるいはでたらめでいい加減な仕事をしている人は、この教えを掴まないからです。

 どこでサマナになっても、律の中の「トレサカン」の話のように、うんざりさせるほど大衆を困らせないでください。トレサカンは、僧に囲まれてねだられた庶民が僧を避けなければならなくなり、赤い牛を見ると「僧がねだりに来た」と思って走って逃げたと述べています。

 しかし黄衣をまとっている人の義務で彼らの幸福に利益を成すのは、規則外ではありません。在家なら、他人の利益を成す教えを掴みます。要するにどこに行っても、戻ったらそこの人たちに褒められ、別れを惜しまれなければなりません。

 注意深さと自分を垣根のように囲む善で、自分をいろんな危険から脱させることを知るのは、成しておいた善であり、幸運であり、吉祥であり、月があることです。人生は平坦に進行し、死ぬ時は惜しむ人、思い出す人がいて、私たちの死を喜ぶ人は誰もいません。

 このようなら、プラスガタ(善く行った人、つまりブッダ)の弟子と言います。この教えを良く実践できる比丘は、ブッダのようにスガトーとは呼ばず、スパティバンノーと呼びます。つまり良く実行した、あるいは良く到達した人です。


7.ローカヴィドゥー=明らかに知る

 「みなさん。王の車のように美しいこの世界をご覧なさい。愚かな人は揃って夢中になっていますが、智者のみなさんは関わりません」。(ダンマパダ 小部)

 これは、ブッダがどれほど世界の成り行きをご存知だったかを知ることができる、ブッダの言葉です。どのようにご存知だったかは、次のようです。

イ.動物の普通の成り行きをご存知。すべての種類の動物は、自分を扶養するのに一所懸命で、そのために奪い合い、妬み合い、苦しめ合い、力が弱ければ自分を護るために、必死で敵と戦わなければなりません。

 敵がいなければ、限界なく自分の権力を広げたくなり、力を合わせて殺し合う道を探し、誰もダンマを重要視する人はないので、世界はどこもかしこも苦に満ちています。これをご存知なので、力の弱い人は幸福に暮らし、力の強い人は、彼らの復讐の的にならないために慈悲を持ち、苦しめ合うのを避けるよう教えられました。

ロ.世界の変化をご存知。基礎がしっかりしている動物群の会合は、国でも、当然時代と縁によって変化します。かつて最高権力のあった人が、後に手足の短い人になり、不名誉な死を遂げなければならないかも知れません。

 かつては名の知れた大きな国も、(ギリシャやローマのように)小さな国になります。このような変化をご存知なら興奮も消え、呆然とするのも消え、確実永遠でない王になることを野望することも消え、そのように当たり前に変化する物と関わるのを望まれません。

ハ.すべての種類の動物は全部、それぞれの階層の苦があるとご存知です。貧しい人は困苦に堪えて働かねばならず、自分が苦なのは貧しいからと見、お金のある人を幸福と見ます。

 お金のある人は使うだけたくさんの金を集めなければならず、競争しなければならず、人生に生じる危険を防がなければならないので、自分は苦がいっぱいと見、お金があればあるだけ部下を扶養しなければならないので、貧乏人の方が幸福と見ます。

 領民は自分を苦と見、王族を幸福と見、王族も自分を苦と見、領民を幸福と見ます。どちらも別々の重荷があるのは、誰にも満足を知らない欲があるからです。このように知られたことが、ブッダを世界に飽きさせ、世界のために、心の中の滅苦の道を探求させました。

ニ.愛欲を、焼き炙る状態と縛り付ける状態でご存知。すべての動物は泥沼である愛欲、つまり欲情、恋慕を煽情する形・声・臭い・味・接触に深く沈んで夢中になっている心があり、得られなければ心を炙って焦燥させ、得られれば心配で炙ります。別れれば哀惜でヒリヒリ痛み、心が乾き、その上気掛りが離れず、心がすっきりしないので問題であり、自分の泥沼から抜き出す智慧や考えを覆い隠す厚い蓋です。

 だから愚かな動物は、愛欲のために命を失うことも受け入れます。愛欲ゆえの悪事は世界に溢れています。すべての人間が世界を好むのは、愛欲があるからです。この項目をご存知なので、自身を愛欲から引き抜くことが出来、冷静で、愛欲の妖怪から自由になりました。

ホ.行かれた場所と人物を全部ご存知。出家をして大悟するまで、徳を探求する遊歴者でした。大悟すると動物を救済する旅人で、道、食べ物、場所、気候に精通なさっていたので、旅は安全でした。たくさんの人と出来事をご覧になり、付き合うことで、すべての階層の人の人情を詳細にお知りになり、教えて心を掴んで信じさせ、簡単に真実のままに見せました。

 ニャーナの網があると言います。私たちは外部だけを知っていますが、ブッダは心の中まで全部ご存知です。これは、習性と時と場合に応じて規則を決め、ダンマを教えることに利益があります。

 (それ以上に、アッタカターを書いたアーチャンは、教典でその当時信じていた世界について、たとえば世界はどれくらい厚く、世界が与える水はどれくらい厚く、水が与える風はどれくらい厚く、太陽、月、ワーの木などはどれくらいあるかなど詳細にご存知だったと決めています。私は避けてしまい、ここでは述べません)。

ヘ.世界に常にあるカンマの法則、カンマの結果をご存知。行為の結果は動物を分類して違う成り行きにする物であり、幸不幸、善悪、高低の違いがあるのはその人のカンマ故であり、身分、階級故ではありません。それらは傲慢、頑固にし、思い上がらせ、私・彼・自分たちと捉えさせます。

 そして創造神や神聖な物でもありません。自分のカンマを規準と捉え、悪いカンマを避け、善いカンマを作るよう教えました。この教えをご存知であることは、ブッダの宗教の基盤を盤石にし「ブッダは真実の王」と呼ばれます。誰でも考えれば真実が見えます。自分で考えられない人を除いては。

ト.パラマッタ(深遠)で世界をご存知。鋭く、良く調べ、世界の自然の偽りと欺瞞に到達する能力があります。サンカーラである自然に作られた物が他の物になり、そして加工し続け、人物になり、動物になり、いろんな物になる状態で世界をご存知です。これらが散らばった時、蘊と呼びダートゥと呼ぶ塊の部分が一時生じて、次々に変化し、最後に消滅するのが智慧で見えます。

 いろんな部分が組み合わさって形身になるので、形身は永遠の物でなく、常に変化します。自然は誘惑を塗り重ねる人、外部の餌で、苦、醜さ、悪臭、そして裏切りを隠して、内部を焼き炙り、針を包む餌のように迷って夢中になるよう騙します。

 ブッダは小さな部分に分けることができたので、価値を見い出すことができない物で、世界に迷って夢中になるべきでないと見えました。愚かな人は美しいと理解し、自分の物と掌握して埋もれています。熟慮して見て知っている人は、倦怠して心を関わらせず、それらの物の奴隷にならず、無関心でいられ、最後には混乱した世界から消滅します。

 本当はロークッタラダンマを悟ること、あるいは涅槃は苦の消滅であり、最高に世界を知ることです。涅槃は世界の終わりです。世界の終わりを知る人は、世界が完全に終わるのを知るという意味です。世界が全部終わるのを知ることは「世界、世界の発生、世界の消滅、そして世界の消滅に至らせる道」を知ります。

 この四つは、私たち人間の身体の中に現れています。ブッダは、増支部 チャトゥカニバータ ローヒタッサヴァッガで「あなた! 識と心が揃っている背丈二メートルの身体に、世界・世界が生じる原因・世界の消滅・そして世界を消滅に至らせる道を規定しました」と言われています。

 ここでの世界は苦を意味します。世界を良く知れば「苦は世界。世界は苦」なので、必ず苦が見えます。ブッダはこれを明らかにご存知なので、幸福であるロークッタラに至るまで知られました。世界とこの話から脱したので、人間の身体だけで学んで試すことができます。

 ローガヴィドゥーであるブッダの弟子であるみなさん。世界を均等に知り、自分を世界にふさわしくするべきです。無理に世界を自分にふさわしくする必要はありません。それはできません。心を静めることを知り、胸の中で火を熾すほど野望を持たず、どの階層の人間にもある苦が見えるので、僻まず、悔しがりません。この苦を捨てて駆けて行けば、もっと重い別の苦を掴みます。

 自分の立場にふさわしく困難を乗り越え、愛欲の奴隷にならず、出来事、人物、場所、自分の置かれた環境を観察して見て、安全のために明らかに理解します。

 安心させるものであるカンマを信じ、いつでも他の物を探すことはできません。誰の味方もせず、自由で、そして生じて変化して崩壊する物である当たり前の状態を知るので、興奮も迷いも消え、自分の領域外である行動、探求、防御を禁止できます。


8.アヌッタロー プリサダッマサーラティ=
訓練できる人を誰よりも訓練する人

 サーラティーは駈けさせる人という意味で、要旨は苦しめて訓練する人です。プリサダムマは、何とか訓練教育できる人で、ヴェーナイヤサッタ、あるいは連れて歩ける人とも言います。アヌッタローは訓練する人も訓練する行動も、それ以上の物はありません。次のように説明します。

 馬の調教は、当時のインドで積極的に行われていました。御者という言葉は、簡単に理解させるために人を訓練する人である世尊を呼ぶのに使われました。しかし「訓練できる人」という言葉は「ブッダは一部の人しか訓練できない」と暗示しています。調教できない馬もいたように、教えの言葉を受け入れない人もいたからです。

 増支部 チャトゥカニバータ ケーシースッタでは、ブッダと、ブッダの道を知らせることができる馬飼の男との会話について述べています。馬飼であるケーシーは繊細な方便である励ましや、荒い方便である鞭で打ったりして調教します。このように調教して、その馬が使い物にならなければ、自分と師匠の名前を護るために殺してしまいます。

 同じように、ブッダは繊細な方便である善趣・天国を説き、荒い方便である悪趣・地獄を説き、そして繊細で荒い方便、つまり善趣と悪趣を交えて説きます。このように動物を訓練して、まだ受け入れなければ、その後教えないことで殺してしまいます。

 奇跡、神通を見せて彼らを苦しめることに満足なさりませんでした。戒・サマーディ・智慧を繰り返し教えた、長部 シーラカンダヴァッガ ケーヴァッタスッタの要旨で知るべきです。昔のガンダーリー(忍術)という知識と一致するので、人に「この知識を演じている」と非難されるのを恐れたからです。そして神通による説教、つまりすべての状態に応じて苦しめることに満足なさりませんでした。

 昔のマニカーという呪術と一致するので、「呪術を使う。ニャーナでも素晴らしい知識でもない」と非難されるのを恐れました。だからブッダは、理由を挙げて説明し、その人に真実を見せて教えられると、揃って不可思議に感じ、満足し、同じ行動をしました。だからその苦しめ方は善い結果があり、静かで整然として、それ以上に善いものはありません。

 それ以上の人がいないというのは、訓練する人であるブッダが個人的に、「畜生の調教は浅いので簡単です」と言ったペッサの称賛の言葉で知ることができます。つまり外部の状態と心が一致するので何とか観察でき、人間は口と心が別なので、訓練しにくいです。

 しかしブッダは、どんな鞭も罪も使うことなく、善く訓練できました。もう一つ動物の調教は賃金と名声のため、あるいは自分の利益でしかない消費のためで、ブッダの訓練は、訓練を受けた人の幸福以外に、利益や見返りを得ません。これはブッダが、比較になる人がいない御者であることを示唆しています。

 ブッダが訓練した動物以上の人がないというのは、中部 ウッダカニバータ サラーヤタナヴィバンガスッタの主旨で知ると、馬などの普通の動物は、訓練すると、訓練しただけのことができ、何種類でも、一種類ずつしなければなりません。

 ブッダが訓練した人は、一度座れば何種類もでき、八方(四形禅定と四無形禅定?)へ駆けていくことができます。

 そして小部で述べているように「良く訓練された人間は、良馬、血統の良い馬、インダス川流域の良馬、クンチョン象、よく訓練されたマハーナーガ象より素晴らしい。それはまだ行ったことがない所、自分を訓練した人が行けない所(涅槃)に行くから」と、小部で言われているように、到達が難しい涅槃へ駆けて行くこともできます。

9.スッター デーヴァマヌッサーナン=天人と人間の先生

 これは世界の先生という意味で、ブッダは滅苦を教える人です。だからどんな動物も苦の淵に落ちていて、ブッダは種類も階層も限定しない、それらの先生にふさわしいです。ブッダは世界のボロマグル(至高の先生)としての十分な知識があります。

 阿羅漢サンマーサンブッダの章で述べたように、知るべきダンマについて知り尽くしているからです。ここでは、ブッダがどのように世界の動物にダンマを説いて教えたか、その状態だけを述べます。そして私たちは一斉にそれを倣うだけです。次のような項目に要約できます。

イ.思いがけない幸運(貰い物)のために教えない

 五欲が完璧な王位を捨て、世界の先生の地位に就かれました。説法から見返りや報酬を望まれるなら、王位を捨てず、その地位に就きます。その時のことについて述べたパーリでは、ブッダ、あるいはダンマを説いた弟子があったと暗示するものは(後世の解説書以外の)どこにもありません。当時の説法は説法者の義務で、その場で教えるか、アドバイスしなければなりません。

 今はそのようでなくなり、主催者の招聘なしに説法をしたがる人はあまりいません。金品を渡さなければならない習慣があるので、説法は聴きたい金持ちの義務になりました。あるいは何かちょっと儀式をし、あるいは名声に関わり、説法者を探して徳を積むだけの価値がある説法をしなければなりません。

 自分の住まいに呼ぶこともあり、住んでいる寺ですることもあります。本当は阿羅漢の後を追うブッダの弟子は、志願して、あるいは機会を探して、ブッダのように説法をすべきです。そうすれば相応しいです。

 相応部のラーバサッカーラ相応では、思いがけない幸運の話をたくさん話されています。見本として述べれば、「比丘のみなさん。思いがけない幸運と供物が、まだ学ばなければならない、まだ阿羅漢果に到達していない比丘に触れれば、当然その人にとって危険です。比丘のみなさん。このように学びなさい」。これだけでも、思いがけない幸運とダンマは離れているべきと見ることができます。

 幸運(貰い物)がある所にダンマはなく、ダンマがある所に幸運はありません。幸運(貰い物)はダンマを追い払い、ダンマは逃げます。だから教祖の教えを思いがけない幸運のために教えてはならない、あるいは説いてはならないということです。

 彼らが寄進するので「信仰を祝って」と言い訳して受け取るのは、十分理由のある言い訳ではありません。最高の真実は、「受け取らないことこそ、信仰する者と本当のタンマにとって喜びであるべき」です。支援するための寄進なら、説法と関連づけて寄進すべきではありません。それは憂鬱になり、受け継がれる罪である伝統になります。

ロ.慈しみでダンマを説く。

 ブッダは「他人にダンマを説くなら、最初に慈しみの心にすべきで、餌である幸運を目指すべきではない」と、説教者に託しています。慈しみとはダンマのある愛です(異性間の愛は、ダンマを説いて、自分を愛させるよう探りを入れ、あるいは自分が望んでいる物を寄進するから愛し、その言葉を称賛するなど、欲情があるのではない)。

 慈しみは同時代の人間として、自力で自分を幸福にする智慧が少ない人を幸福にしたい愛です。慈しみは、ボーディサッタが四阿僧祇十万劫も少しずつ積んできたバーラミーの一つなので、最高に濃くなり、ブッダになれました。

 世界は常に慈しみを必要としています。本当の慈しみがある人は何でも慈しみでするので、世界の恩人です。だから私たち全員の偉大な先生である教祖は、慈しみでダンマを説きなさいと言われています。

ハ.ダンマを重要とする。

 ブッダは「ブッダ自身が言われた言葉でも、先生が教える言葉でも、どこで聞いた言葉でもすぐに信じないで、善いか悪いか、本当か否か自分自身で考えて見て、それから信じなさい」と教えています。カーラーマの人たちに話されたカーラマスッタや他の経でも同じです。ダンマを重要とすることを目指し、人物を重要とすることを目指しません。人物を信じず、ダンマを信じます。

 ブッダは理由を考えるよう教え、理由を説明して聞かせ、隠さず、依估贔屓でこの人とあの人に違う教え方をしません。公正に率直に話し、誰が喜ぶか喜ばないか頓着しません。これらはすべて、ダンマを重要とすること目指していると示唆しています。

ニ.他人に教えたようにしなければならない。

 「ふさわしい徳で身を立て、それから他人に教えるべき。自分を良く訓練し、それから他人を訓練する」と言われています。自分は他人より訓練しにくいからです。戒・慚愧などがあるよう他人に教えるには、何としても自分がそのようにするべきです。読んだだけ、あるいは誰かから聞いただけで教えません。教えているようにできない人は、非難するべき人です。

 長部 シーラカンダヴァッガのローヒッチャスッタでローヒッチャバラモンに言われたブッダの言葉の、非難すべき三種類の先生は、次のようです。

①出家して、先ず自分をその沙門果に到達させずに、他人に教える先生。その人の説法は、自分を愛していない女性を愛している人、あるいは後ろで女性を抱く人のように、誰も心に掛けません。

②そのようでありながら、説教の言葉に熱中し、その教えに夢中になる人がいます。自分が作るべき田を捨てて他人の田を耕す人のように、先にするべき自分の義務を捨てる人です。

③そしてそのような人が教えると、誰も聞く人がいません。新しい頸木を付けるために古い頸木を切る人のように、できることを投げ捨て、できない重荷を請け負います。

 この三種類の先生は告訴され、抗議非難される人であるべきです。その訴えは真実であり、ダンマがあり、罪はありません。ブッダご自身もこの規則を掴まれ、自分が先にし、それから人に教えました。

ホ.教え方に賢い。

 人を理解させることに賢い人。教えの言葉のように真実が見え、聞く人の習性と知性にふさわしく説明をなさり、簡単なものから難しいものへ、低いものから高いものへ段階的に説かれるので、初めも中間も終わりも、いつでも美しく、考えて見ることができる理由も一緒で、聞き手は妄信する必要がありません。

 ほとんどはその時起きている話にふさわしく説明するか、その時噂になっている話、あるいはその人がしている仕事にふさわしいからです。

 (松明を見れば松明の譬えで説法をし、アッギカンドーパマスッタなど、熱い物の話の説法で、チャビラ族たちに話したアーディッタパリヤーヤスッタなどは、彼らは火が好きだからです)。そして説いている間中、聞き手に爽快さ、勇敢さ、楽しさを生じさせる方便があり、聞くことに満足し、最後には従いたくなり、飽きたり眠くなったりしません。すべては、ダンマを説くことに賢いからです。

 これらは、ブッダは天人と人間の至高な先生、あるいは世界の先生の地位にふさわしいと見せる状態です。弟子である私たちは全員、長部 チャッカヴァッティスッタで「比丘のみなさん。父の領域である場所へ歩いて行きなさい」と言われているように歩くべきです。そうすれば「私たちは天人とすべての人間の先生であるブッダの弟子です」と宣言したことにふさわしいです。

10.ブッドー=明るい人

 ブッドーとは、音訳するとブッダという意味です。「知る人、目覚めた人、起こす人、明るい人」など、幾つもの意味があり、次のような説明があります。

イ.知る人。知るべきことを知るという意味で、ニェーッヤダンマと言います。サンマーサンブットーで説明したように、聖諦を知り、サンカーラを知り尽くすと言う、滅苦を知ることです。

ロ.目覚めた人。無明と煩悩から目覚めたという意味です。眠っている人は何も見て知ることができないように、無明は動物を愚かにします。ブッダは明があってすべての物を知るので、目覚めた人のようです。煩悩はどれも、根源にある、繊細な煩悩である無明の結果です。

ハ.目覚めさせる人。ブッダは目覚められ、まだ眠っている人に憐みがあったので、ダンマを説いて道理を説明し、人々に真実のままに知らせました。当時のインドのバラモンたちに説明して、著しい傲慢の原因であり、一致団結させず、力を殺ぐ身分制度を止めるよう教えられました。清信士の誤った商売と規定し、比丘には絶対に受け取らせないで、奴隷を止めさせました。

 生贄の動物を殺すのを止めさせ、布施で祀り、神聖な物を祀ること、お供えをして祈願するのを止めさせ、執着させて苦を生じさせる原因である「この身体に自分がある」と見ることを止めさせました。そして無我と見させ、カンマを信じさせ、愛欲耽溺と苦行耽溺を避けさせ、中道にいさせ、最後は涅槃を説いてやりました。ブッダはこのように、世界を目覚めさせる人です。

ニ.明るい人。ブッダは知る人、目覚めた人なので、自分自身を苦とブッダの品行を満たす障害から脱出させ、世界に利益を成し、何も滞りがなく、いつでも心を爽やかにします。すべての煩悩と悪はブッダにないので、常に勇敢爽快でいられます。

 ダンマの車輪を公開して獅子吼することができ、すべての知者にブッダの教えの言葉を検証するよう挑戦させ、間違いを見つけ、あるいは道理で反論することを許しました。ブッダをダンマで告訴するサマナ・バラモンが誰もいないので、アーサンカンターナである世界の長の立場で宣言しました。これは、ブッダの精一杯の輝きです。

 ブッダの弟子である私たちは誰でも、「知る努力をする」という短い教えで、ここでのブッダの後を追って歩くべきです。愚かさを拭い去り、能力の限り他人にアドバイスをし、心の中に隠す悪が何も、少しもないことによる、自分自身の公正さで明るく爽やかでいてください。


11.バガヴァー=ダンマを分類する人

 バガヴァーとは、語源を考えるといろんな角度があり、昔のアーチャンはこれで論争しましたが、終わりません。ここで訳語、あるいはこの言葉の意味を整理して終わらせます。つまり「ダンマを分類する人、バガダンマがある人、味わう人、付き合うべき人、折る人、運がある人」です。次のように説明します。

イ.ダンマを分類する人。

 ブッダは二つに分けました。つまり聖諦、蘊、ダートゥ等々、すべてを種類ごとに分け、これが一種類です。そしてヴェーナイヤサッタ、あるいはダンマダーナに分け、天人か人間か選びませんでした。これが一つです。

ロ.バガダンマがある人。

 バガダンマとは、心を支配して威力下におくこと、形身と法身の美しさ、人生の大き仕事である望んでいる物、そして努力です。ブッダはこれらのバガダンマが完璧で、誰も適いません。

ハ.味わった人。

 ブッダは味わったという意味です。アマタダンマ(不死)、あるいは涅槃の味を飲み、生涯この素晴らしい味を味わわれました。

ニ.交際すべき人。

 この世界に、ブッダほど他人に利益を成す人はいません。元は輪廻するボーディサッタで、物を犠牲にしたことも、体の器官や命を犠牲にしたこともあり、最後は涅槃を指さす人で、交際すべき人です。

ホ.折る人。

 転生転死の輪を折って二度と回転しなくしました。動物にダンマを説いて脱出させ、苦の終わりに至り、死も、二度と生まれることもなく、煩悩と悪は威力を失い、苦の火は鎮火し、聖なる弟子の世界は静かで清涼です。

ヘ.運のある人。

 少年期は両親が王位継承者として大切に養育し、世話をし、バラモンの占いの言葉では、大人物の相がある大智者です。中年期は出家して、望み通り完璧に悟り、ダンマを説いて動物に教えるために旅をされ、晩年に妨害する障害はなく、仏教を立教して盤石にしました。

 尊敬して弟子に志願する人はいますが、反対する人、あるいは抵抗してブッダを攻撃する人は誰もいません。悪意の人も、敗北して自身を危険にしました。だから運の良い人と言います。

 私たちはこの項目のブッダの弟子であり、教えによってブッダの足跡を追って歩くことができます。

 つまり熟慮する人であり、いろんな物を詳細に明らかに知り、理解するために出来事を分類して検証し、その知識で隣人を助け、その身体にふさわしい教えである善が具わっていて、善とだけ付き合い、自分を一般人にとって付き合うべき人にし、瑕である悪を消滅させ、自分に悪がないようにすれば、最後には本当に運の良い人になります。


12.初めも、中間も、終わりも美しいダンマを説く

 ブッダの説法は形式がありません。本当は、一人一人との会話で、ブッダが意味を説明し、聞き返すべき時は聞き返し、まだ疑問があれば反論を認め、例えと心を惹く言葉で説明して、その人に熟考させます。間違いを探して言葉でやっつける決意で聞きに来た人も、最後にはブッダに負けて弟子になりました。

 パーリのあちこちに、説法が終わると「非常に美しいです、ゴータマ様。非常に美しいです。ゴータマ様」と言ったとあります。だからブッダは「初めも中間も終わりも美しい」と言われました。次のように説明します。

イ.一つ一つの経は、時と場所、話を聞く人まで言う言葉で始まり、中間は説明する話で、繰り返しであるまとめで終わります。だからその経は三か所、初めと中間と終わりが美しいと言われます。

ロ.すべてのダンマの、低い段階は戒に、中間の段階はサマーディに、高い段階は智慧に集約でき、後を追って歩く人の心の方針にふさわしく段階的になっているので、三か所が美しいです。

ハ.一般的に述べれば、パリヤッティは学習、初めの美しさで、パティバッティ(実践)は戒とサマーディと智慧を本当にすること、中間の美しさで、パティヴェータである聖向聖果涅槃は、実践から生じる結果で、最後の美しさです。だから三か所で美しいと言います。

ニ.実践について言えば、愛欲耽溺を避けることは最初の美しさで、苦行耽溺を避けることは中間の美しさで、中道である八正道は終わりの美しさです。

ホ.結果で言えば、悪趣から脱す方便であるダンマを初めの美しさと言い、人間、あるいは天の頸木である五欲から脱すための方便であるダンマを中間の美しさと言います。

ヘ.避けることについて言えば、タダンガパハーナ、つまり一時捨てられることを初めの美しさと言い、ヴィカムバナパハーナ、定の力で長い間抑えることができることを中間の美しさと言い、サムッチェダパハーナ、厳格に捨てて二度と悪化しないことを終わりの美しさと言います。

ト.発展で言えば、この世界を発展させることを初めの美しさと言い、次の世界を発展させることを中間の美しさと言い、世界を超えて、世界を脱して涅槃に到達することを終わりの美しさと言います。どのダンマがどこに属しても、そのダンマはそこの美しさと知るべきです。


13.意義も細部も十分完璧な梵行を公開する

 公開とは、ダンマを説いて広めることで、この言葉は教祖だけが使います。弟子がアビヴァダンティ(増支部 チャトゥカニパーダより)を使えば最高に述べるという意味で、要旨は公開です。梵行とはすべてのダンマヴィナヤを意味し、「意義も」とは詳細な内容で、「細部も」とは記憶しやすいようにまとめた最後の言葉で、多くは詩に綴られます。

 純粋とは、偽物が混じっていないことです。どのダンマを苦と言われても本当に苦で、行為者にとって危険を成すと言えば本当にし、幸福と言えば本当に幸福です。十分というのは、最初から最後まで有益にするに十分で、無形禅定しか考えないウダカ・ラーマプッタ仙人のように中途半端ではありません。

 ブッダの徳とブッダの品行のすべてを、ブッダの弟子である私たち全員は、出家にふさわしい実践と規定して掌握すべきです。





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