阿羅漢の跡を追って




第三経

パーリ・サーマンニャバラスッタ(沙門果経)




長部 シーラカンダヴァッガ
サヤームラット版 第五巻82頁102項


 ある時、世尊が千二百五十人の比丘の大群と一緒に、ラージャガハの都に近いジーヴァカ・コマーラバッチャ医師のマンゴー苑に滞在されている時、ヴェーデーヒ王妃の息子であるアジャータサットゥという名のマガタ国王は、城で家臣に囲まれて座っていました。

 紅蓮の咲く十二月十五日、満月の日、国王陛下は「白分の月夜は実に明るく、本当に喜ばしく、実に見事で、本当に楽しく、良い状態になるのう。訪問者である私に帰依を生じさせることができるどのサマナ、あるいはバラモンを訪ねたら良いだろう」と感嘆なさいました。

 (パーリのこの部分は、数人の臣下が、それぞれ六人のグル(師)を紹介しましたが、陛下はどれも却下され、医師のジーヴァカ・コマーラバッチャが世尊を訪ねるよう勧めると、陛下は同意して訪問し、六人の師と、いろんな意義のサマナの結果について会話されました。

 最後に世尊は、世尊の宗教のサマナの素晴らしい結果について説かれ、サマナの実践の初めから阿羅漢果である結果まで説かれました。内容は以下のようです)。

 世尊は「大王。世界に如行が、自ら悟った阿羅漢として生まれ、知識と品行が完璧で、良く逝き、世界を明らかに知り、訓練すべき人を訓練する御者であり、誰よりも素晴らしい天人と人間の先生であり、明るい人で、ダンマを分類して動物に教えました。

 如行はこの世界を、天人・悪魔・梵天、同時にサマナ・バラモン・天人・人間を含めた動物群を最高の智慧で、明らかにし、他の人が明らかに知るよう教えました。如行は、初めも中間も終わりも美しいダンマを説き、意義も細部も完璧な、梵行をすべて公開しました。

1.長者、あるいは長者の子息、あるいは、将来いずれかの家に生まれる人も、当然そのダンマを聞くことができ、聞けば如行に信仰が生じます。彼は信仰のある人で、当然「在家は窮屈で埃が生じる所。出家は最高に明るくなる機会。人が家を監督して、良く磨いてある法螺貝のように、完璧に梵行の行動をするのは簡単ではない。それなら髪と髭を下ろし、渋染めの衣をまとって家のない人になろう」と熟慮します。

2.また別の時、彼は大小の財産を捨て、大小の親戚を捨て、髪と髭を落とし、渋染めの布をまとって家を出て、家のない人になります。彼がこのように出家すると、当然パーティモッカで慎重にし、行儀と品行が完璧で、わずかでも、普通に罪の危険が見え、すべての教条を学んで遵守します。

 善である身業と口業がある人で、戒による純潔な職業があり、すべての根の門を維持し、サティと自覚がある、サンドーサ(知足)の人です。

3.大王! 戒で完璧な比丘はどのようでしょうか。大王! この宗教の比丘は殺生を捨て、殺生を止め、棒と武器を置いてしまい、憐みと可愛がる気持ちがあり、すべての動物を援けたいと望みます。

 所有者が与えない物を持つことを捨て、偸盗を避け、所有者が与えた物だけを持ち、所有者が与えた物だけを期待し、清潔な人で盗みをしません。梵行でないカンマを捨て、梵行をする人で、正常な遠い振舞いをし、庶民の淫行を避けてしまいます。

 嘘を言うことを捨て、妄語を言うのを避け、真実しか話さず、誠実を維持し、言うことが安定して信頼でき、世界を誤らせることを述べません。告げ口を捨て、虚言を避け、こちら側で聞いたことを、こちら側を分裂させるためにあちら側に隠しません。

 あちら側で聞いたことを、あちら側を分裂させるためにこちらに話しません。分裂した人たちを団結させ、団結を好む人で、団結させることだけを話します。

 乱暴な言葉を述べることを捨て、下品な言葉を避け、聞いて愛を生じさせる気持ちの良い、心を膨らまし、大衆が愛すものである庶民が話す丁寧な言葉、害のない言葉だけを述べます。

 利益のない言葉を捨ててしまい、無駄話を避け、時にふさわしいことだけを述べ、ダンマであり、ヴィナヤである利益になる真実の言葉だけを述べ、根拠があり、引用元があり、終わりがあり、時にふさわしい利益がある言葉だけを述べます。

 植物を尽きさせるのを避け、一日一回だけ食事をする人で、夜間と非時に食べることを避けます。踊り、演奏、歌う、囃すのを避け、善の敵である種類の演劇を避けます。飾ることを避ける人で、花輪と香りの物、そして塗りたくる物で飾りません。広くて高い寝台で寝るのを避ける人です。

 金銀を受け取るのを避け、籾米を受け取るのを避け、生肉を食べるのを避け、女性と少女を貰うのを避け、雄も雌も、羊や山羊・鶏・犬・象・牛・馬を貰うのを避け、田んぼや果樹園を貰うのを避け、いろんな所へ(在家の)遣いで行くのを避けます。

 売買を避け、秤でごまかすことを避け、偽物を混入させず、計測器で騙さず、供物を貰って、不正に祈願することを避け、斬る、殺す、模造する、隠れて危害を加える、奪う、そして脅迫を避けます。(以上が小戒)

4.もう一つ、サマナ、あるいはバラモンのある集団は、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上植物を悪化させます。それは何でしょうか。根で生える植物、幹から生える植物、実から生える植物、芽から生える植物、種で生える植物を悪化させます。このダンマヴィナヤの比丘は、その時見える植物を悪化させることを控えます。これも彼の戒の一つです。

 もう一つ、サマナ、あるいはバラモンのある集団は、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上まだ蓄えます。米を蓄え、飲み水を蓄え、乗り物を集め、寝台を蓄え、香りの良い塗る物、はたく物を集めます。この宗教の比丘は、そのような蓄えることを避けてしまいます。これもその人の戒の一つです。

 もう一つ。サマナ、あるいはバラモンのある集団は、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上芝居などを見ます。舞踊、歌唱、演奏、軽業、講談、手拍子、鉦、太鼓、町の装飾、下賎な芸、霊前での演じ物、闘象、闘馬、闘水牛、闘牛、闘羊、闘山羊、闘鶏、闘うずら、棒舞、拳闘、戦い、力試し、出陣式、兵隊を観る人です。この宗教の比丘は、今見える観る物、聞く物、聴くことを避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。

 もう一つ、サマナ・バラモンのある集団は、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上賭け事をする人であり、あるいは不注意の基盤である遊びをします。

 (一列が八目や十目の)将棋をし、お手玉をし、女奪いをし、取る将棋、動く将棋、輪投げ賭博をし、マイフン(木の棒をパスしたり投げたり、木の実を棒で飛ばしたりして遊ぶ団体ゲーム)をし、いろんな形に投げ、サイコロを投げ、木の葉笛を吹き、とんぼ返りをし、

風車で遊び、砂を計って遊び、小車で遊び、小弓で遊び、書いた文字を言い当てて遊び、心を言い当てて遊び、障害者をからかって遊びます。この宗教の比丘は、そのような賭け事、あるいは不注意の巣である遊びを避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。

 もう一つ。サマナ・バラモンのある集団は、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上高くて大きな寝床に寝る人でもあります。脚の高い寝台、脚が虎の足の形に作られている寝台、毛足の長いヤギの毛織物、美しい刺繍の山羊毛の絨緞の上、白い山羊毛の敷物、花輪のような形の山羊毛の敷物、カポック入りの敷物、華麗な猛獣の形の敷物、毛が立っている敷物、毛が寝ている敷物

、 金銀を撚り込んだ絹織物の敷物、すべての絹の敷物、(十六人の女が)踊れるくらい大きな山羊毛の敷物、象の背用の敷物、馬の背用の敷物、車の敷物、獣皮でできた敷物、ジャコウネコの毛皮でできた敷物、赤い天蓋と赤い脇息のある敷物の上で寝ます。この宗教の比丘は、高くて大きな寝床に寝ることを避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。

 もう一つ。サマナ・バラモンのある集団は、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上体を飾る人でもあります。香水を塗り、按摩をし、肌を美しくする物を塗り、マッサージをし、鏡に映して見、目の輝きを美しくするために目薬を差し、

花で飾り、香りの良い物を塗り、白粉、口紅、腕飾り、冠、伊達杖、豪華な印籠、短剣、美しい傘、長く垂れた三尺、しごき帯を使います。この宗教の比丘は、それらの装身具を避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。

 もう一つ。サマナ・バラモンのある集団は、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上畜生談(出家にとってダンマの道を妨害する話)をする人です。

 王の話、強盗の話、役人の話、兵隊の話、怖い物の話、戦争の話、米の話、水の話、布の話、寝場所の話、花の話、香りの話、親戚の話、乗り物の話、村の話、県の話、都の話、田舎の話、女の話、男の話、勇者の話、面白い話、港の話、死者の話、世間のいろんな不思議な話、航海の話、破滅や繁栄の話をします。この宗教の比丘は、畜生談を避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。

 もう一つ。サマナ・バラモンのある集団は、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上反発する言葉を言う人です。『あなたはこのダンマヴィナヤを知り尽くしていない。私はこのダンマヴィナヤを知り尽くしている。あなたはこのダンマヴィナヤを知り尽くすことはできない。あなたの実践は間違っている。私の実践は正しい。私の言葉には利益がある。

あなたの言葉には利益がない。先に話すべきことをあなたは後に話し、後で話すべきことをあなたは先に話す。あなたが精通していたことは変化してしまった。私はあなたの言葉を否定し圧倒した。あなたは自分の言葉を撤回しなさい。それともできるなら反論しなさい』と挑発します。この宗教の比丘は、反論する言葉を避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。

 もう一つ。サマナ・バラモンのある集団は、支援者が信仰によって献じた食べ物を食べ、その上常に用事を言いつかっていろんな場所へ遣いとして行く人です。つまり『ここへ行きなさい』『そこへ行きなさい』『これを持って行きなさい』『あそこのこれを持って来なさい』と、このように言われる王の遣い、

王の家来の遣い、武士の遣い、バラモンの遣い、長者の遣い、そして子供の遣いをする人です。この宗教の比丘は、用事を言いつかっていろんな場所へ行くのを避けてしまいます。これも彼の戒の一つです

 もう一つ。サマナ・バラモンのある集団は、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上騙す言葉を言い、だらだらと際限なく喋り、策略で仕向ける話し方、支援者が我武者羅に布施したくなるように煽る言い方で貰い物を求め、そして価値の高い物も価値のない使い方をします。この宗教の比丘は、このような騙す方便で貰い物を求めるのを避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。(以上が中戒)

5.もう一つ。サマナ・バラモンのある集団は、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上畜生知識による生業をします。身体の特徴を占い、吉兆や凶兆を占い、隕石、雷を占い、夢を占い、運勢を占い、ネズミが齧った布で占います。

 護摩を焚く儀式をし、蝋燭立ての蝋燭に点火して参列者間で手渡しして回す儀式をし、籾殻を撒く儀式をし、糠を撒く儀式をし、米を撒く儀式をし、三神を迎える点火の儀式をし、火を焚いて祭る儀式をし、入魂の儀式をし、血を供える儀式をします。

 体の器官を占い、家相を見、田んぼの相を見、入魂師になり、幽霊使いになり、まじない師になって家に護符を貼り、ヘビ使い、毒消し師、サソリ使い、ネズミが齧った跡占い、鳥やカラスの鳴き声占い、年齢占い、矢を防ぐまじない、動物の足跡を占って生活しています。

 一方この宗教の比丘は、畜生知識による間違った生業を避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。

 もう一つ。サマナ・バラモンのある集団は、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上畜生知識の間違った生業をします。(宝石の状態、布の状態、杖の状態、奴隷などで占い、戦争で占い、星占い、天候を占い、呪文や霊媒、人を危機に遭わせる呪文、いろんな薬がある医者などの生業)をして生活します。一方この宗教の比丘は、それらを避けてしまいます。これも彼の戒の一つです

 もう一つ。サマナ・バラモンのある集団は、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上まだ、畜生知識による職業を営みます。

 「この日は兵を挙げるべき。その人は上げるべきでない。内部の王は侵攻し、外部の王は後退する。外部の王は侵攻し、内部の王は後退する。内部の王は勝利し、外部の王は敗北する。外部の王は勝利し、内部の王は敗北する。この王は負け、この王は勝つ」と、王の戦勝の吉祥時を占います。一方、この宗教の比丘は、今見える畜生知識による職業を避けてしまいます。これも彼の戒の一つです

 もう一つ。サマナ・バラモンのある集団は、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上まだ、畜生知識による職業を営みます。

 つまり月食を占い、日食を占い、恒星食を占い、「正しく進行する。間違って進行する」と、月、太陽、冥王星を占い、流星がある、轟音の炎がある、自身がある、雷鳴があると占い、月や太陽や星が上がり、落ち、曇り、妨害すると、結果はどのようかを占います。一方この宗教の比丘は、その時見える畜生知識でする職業を避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。

 もう一つ。サマナ・バラモンのある集団は、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上まだ畜生知識による職業を営みます。つまり「善い雨が降る。日照りがある。食糧の調達が難しい。快適になる。苦がある。病がある。病がない」と占い、得票を数え、計算し、詩の編集をし、世界の話で教科書を教えます。一方この宗教の比丘は、その時見える畜生知識を止めてしまいます。これも彼の戒の一つです。

 もう一つ。サマナ・バラモンのある集団は、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上まだ、畜生知識による職業を営みます。つまり「嫁入りの刻を占い、友情を結ぶ刻をうらない、分裂の刻を占い、財産を蓄える刻を占い、財産を払う(投資する)刻を占い、運不運を占い、胎児を育てる投薬をし、

長く独占したり、閉めたりする呪文を唱え、振り払う呪文、声を遮る呪文を唱え、霊媒師になり、女性の霊と会話し、神々の霊と会話し、お日様を祀り、大梵天を祀り、火を噴く呪文を唱え、霊魂を招く呪文を唱えます。一方この宗教の比丘は、そのような畜生知識の職業を避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。  

 もう一つ。サマナ・バラモンのある集団は、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上まだ、畜生知識の職業を営みます。つまり神々に幸運を祈願し、御礼参りをし、家を護る霊の呪文を教え、オカマを男にし、男をオカマにし、家を建てる儀式をし、地鎮祭をし、水を吹いて火を祀り、

催吐薬、消毒薬、罪を流す薬、鎮痛薬を作り、耳に垂らす薬を炊き、目薬を作り、鼻薬を作り、噛みつかせる薬、親密にさせる薬を作り、眼科医になり、外科医になり、小児科医になり、膏薬を作ります。一方この宗教の比丘は、そのような畜生知識による誤った職業を避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。(以上が大戒)

 大王! その比丘はこのように戒が完璧で、当然いつでも罪を考ええません。彼の戒・慎重さは、聖水灌頂を受けた国王が敵を撃退するように、当然、その敵ゆえの危険を考えないのと同じです。彼はこの聖なる戒があり、当然罪のない内面の幸福を味わいます。大王! 戒で完璧な比丘と呼ばれる人はこのようです。

6.大王! すべての根の門に注意すると言れる比丘はどうしてでしょうか。大王! この宗教の比丘は、罪や善である貪欲と憂いはいずれかの根に慎重にしないことが原因で流れて行くので、目根を塞ぐために実践し、目根に慎重な人で、耳で声を聞き、鼻で臭いを嗅ぎ、舌で味を味わい、体で接触し、心で感情を感じてもニミッタ(全体)で捉えず、部分で捉えません。

 罪や善、つまり貪欲と憂いはいずれかの根に慎重にしないことが原因で流れて行くので、彼は目根を塞ぐために実践し、目根に慎重な人です。

7.大王! 常自覚があると言われる比丘はどうしてでしょうか。大王! この宗教の比丘は普段から常自覚があり、前進する時、後退する時、振り向く時、視線を投げる時、屈む時、伸びをする時、衣を維持する時、食べ、止り、座り、寝、眠り、目覚め、話し、黙る時、全身を隈なく自覚する」と心に留めます。

8.大王! 知足の人と呼ばれる比丘はどうしてでしょうか。大王! この宗教の比丘は、身をまとう衣、腹を養う食べ物に足ることを知る人で、翼のある鳥がどの地域へ飛んで行っても、翼だけが荷物であるように、どの地方へ行ってもその地域で食べ、そして去って行きます。

 彼は身をまとう衣と、腹を養う食べ物に知足の人で、どの方向へ行っても、避けます(奉仕でごちゃごちゃする必要はありません)。

9.大王! 比丘に、このように聖人のものである戒と根律義、常自覚、知足があれば、彼は当然閑静な住まいである藪、木の根元、山、小川、洞窟、墓地、野外、藁の山などに住みます。托鉢から戻ると、昼過ぎは結跏趺坐で座り、脚を曲げ、体を真直ぐに立て、サティを現前に据え、世界の貪欲を捨て、貪欲のない心があり、心から貪欲を拭って純潔にしようと注意深く構えます。

 復讐心を捨て、復讐心がない心があり、憐みがある人で、すべての動物を助けたいと望み、心を拭って復讐心を無くします。眠気を捨て、眠気のない心があり、心の明るさを目指す人であり、常自覚があり、心から眠気を拭おうと身構えています。

 落ち着きのなさを捨て、散漫でなく、内面が静かな心があり、心から落ち着きのなさを拭おうと構えています。疑念を捨て、疑念を越えてしまい、すべてのダンマに「これは何? これはどう?」と言う必要がなく、心から疑念を拭おうと構えています。

 大王! ある男が借金をして事業に成功し、元資をすべて返してもまだ妻を養うに十分な儲けが残っているように、彼は「借金をして事業をしたが、成功して、資本金を返済しても、まだ妻を扶養する儲けがある」と幸運について思い、当然楽しくなり、そのことが原因で喜ぶのと同じです。

 大王! ある男が、重い病苦に堪え、食べ物も食べられず、力もありませんが、病気が治れば、食べ物も食べられ、力もあり、彼は「以前は重い病苦に堪え、食べ物も食べられず、力もなかったが、病気が治った今は、食べ物も食べられ、力もある」と思い返し、当然楽しくなり、それが原因で喜ぶのと同じです。

 大王! ある男が刑務所に入れられ、その後財産を失わずに、無事に刑を終わり、彼は必ず「以前、私は刑務所にいたが、今は無事に刑を終わり、財産も失っていない」と思い返し、当然楽しくなり、それが原因で喜ぶのと同じです。

 大王! ある男は奴隷(年季奉公)で自立できず、他人に依存しなければならず、自分の自由に動き回れませんでしたが、後に年季が明けて自立し、他人に依存しないで自由に動き回れるようになると、彼は必ず「以前私は年季奉公人で自立できず、他人に依存しなければならず、自分の自由に動き回れなかったが、今は年季が明けて自立し、他人に依存しないで、自由に動き回れる」と思い返し、楽しくなり、それが原因で喜ぶのと同じです。

 大王! また別の男は、財産を持って長旅をし、悪路を抜けると危険がなく、消耗品を失う必要がなくなると、彼は「以前私は、長旅をし、消耗品を失う必要があったが、悪路を抜けた今は危険がなく、消費財を失う必要はない」と過去を思い出し、当然嬉しくなり、それが原因で喜ぶのと同じです。

 大王! 比丘が、自分がまだ捨てることができない五蓋を借金のよう、病気のよう、監獄に入るよう、年季奉公に出されるよう、そして財産を持って不毛の地を旅するようと熟慮して見ます。そして彼は五蓋を、借金が終わり、病気が完治し、刑期が終わり、年季が明け、危険から脱したようだと熟慮して見て、当然楽しくなり、それが原因で喜ぶのと同じです。

10.もう一つ。愛欲とすべての不善が静まることで、ヴィタッカ、ヴィチャーラがあり、喜悦と幸福がある初禅に到達します。彼は、全身にヴィヴェカから生じた喜悦と幸福の水を振りかけて湿らせ、彼の体のどの部分も、ヴィヴェカから生じた喜悦と幸福に触れない部分はありません。

 大王! 沐浴師やその助手で賢い人は、水を浴びる時に体を擦る粉を、ブロンズのタライに撒いて水を振りかけて寝かせておくと、夕方には粉から出たヤニが全体に沁み渡り、くっついて流れなくなるように、大王! その比丘は、この体にヴィヴェカから生じた喜悦と幸福の水を振りかけ、全身を隈なく湿らせます。彼の体のどこも、ヴィヴェカから生じた喜悦と幸福に触れない部分はありません。これと同じです。

11.もう一つ。ヴィタッカもヴィチャーラもなく、ヴィタッカとヴィチャーラが静まり、喜悦と幸福しかない、心を明るくするものである二禅に到達した比丘は、全身にヴィヴェカから生じた喜悦と幸福の水を振りかけて湿らせ、彼の体のどの部分も、ヴィヴェカから生じた喜悦と幸福に触れない部分はありません。

 水源がある深い淵は、東にも南にも、西にも北にも水が流れ込む口がなく、そして季節の雨が降らなくても、泉から冷たい水が噴き出せば、冷たい水がその淵全体に流れ、その淵のどの部分も冷たい水に触れない部分はないのと同じです。

12.大王! もう一つ。喜悦が薄れることで、その比丘は捨にいる人で、常自覚があり、名形で幸福を味わい、聖人の方々が「この禅定に達した人は捨にいる人で、サティがあり幸福に暮らす」と言われる三禅に達し、そして常にその感覚の中にいます。彼は喜悦のない幸福だけの水で全身を一通り湿らせ、その人の全身のどの部分も、喜悦のない幸福に触れない部分はないのと同じです。

13.大王! もう一つ。その比丘は四禅に到達し、苦と幸福を捨ててしまったので、苦もなく、幸福もない、捨ゆえに純潔な自然であるサティしかない四禅に達し、そして常にその感覚の中にいます。彼は座って、明るく澄んだ純潔な心を全身に行き渡らせ、彼の体のどの部分も、明るく澄んだ純潔な心が触れない部分はないのと同じです。

 大王! 座って頭からすっぽり全身を白い布で覆っている男の全身は、布に触れて(覆われて)いない部分がないように、比丘は座って全身に明るく澄んだ純潔な心を行き渡らせ、彼の全身のどの部分も、明るく澄んだ純粋な心に触れていない部分がないのと同じです。

14.心が安定して純潔清浄で、煩悩がなく、随煩悩がなく、仕事にふさわしいしなやか自然で、このように動揺しないで維持すると、彼は智見だけに心を傾け、当然「私の体は四大種の集合によってできている骨組みがあり、父と母が発生源で、ご飯とおかずで育ち、常に水浴、マッサージしなければならず、常である崩壊がある。

 更に私の識はこの体に依存し、この体に関わっている。初めから美しい八角形の猫目石を職人が良く磨くと、あらゆる点で透き通り、その宝石の中に藍、黄、赤、白、紫などの糸があれば、目のある人が宝石を掌に載せて見ると、「職人が良く磨いた元々美しい八角形のこの猫目石は、透き通ってすべてにおいて清潔で、中に藍、黄、赤、白、紫などの糸がある」と見えるのと同じです。

 大王! これが、明らかに見えるサマナの実践の結果です。

15.心が純潔清浄に安定して煩悩がなく、随煩悩がなく、仕事にふさわしいしなやかな自然であり、このように動揺せずに維持すると、彼は心を、意で作り上げることに傾けます。この体以外の別の体、すべての器官が揃っていて劣っていない根がある、心から生じた体を作ります。

 ある男が、イネ科の草の芯を、草から引き抜くと、彼は「これはイネ科の草。これがイネ科の草の芯。草はこのようで、草の芯はまた別だが、芯は草から引き抜いた」と見分けられます。

 もう一つは、もう一人の男が刀を鞘から引き抜くと、彼は「これは刀。これは鞘。刀と鞘は別だが、刀は鞘から引き抜いた」と見分けることができます。

 もう一つ、また別の男が、ヘビを魚籠から取り出し、彼は「これはヘビ。これは魚籠。ヘビと魚籠は別だが、ヘビは魚籠から取り出した」と見分けることができます。これと同じです。大王! これが明らかに見えるサマナの実践の結果です。

16.心が純潔清浄に安定して煩悩がなく、随煩悩がなく、仕事にふさわしいしなやかな自然で、このように動揺せずに維持すると、彼は心を、神通を現す方法に傾けます。

 彼は各種の神通を現す手法に到達し、一人の人を大勢にし、大勢の人を一人に戻し、隠れた場所を明らかな場所にし、明らかな場所を隠れた場所にし、壁を通り抜け、塀を通り抜け、山を通り抜けて、何もない場所のように行き来できます。

 水面のように地面に潜り、地面から浮き上がることができ、結跏趺坐したまま、翼のある鳥のように空を飛ぶことができ、非常に勢威のあるお日様やお月様を手で撫でることができ、梵天界まで体で威力を現すことができます。

 賢い陶工が土を良く捏ねていろんな食器を作ろうと望むなら、いろんな食器を作ることができるのと同じです。もう一つ。象牙職人、あるいは賢い象牙職人の弟子が、象牙を良く扱い、各種の象牙細工を作りたいと望めば、それらの品物を作れるのと同じです。

 もう一つ。飾り職人、あるいは賢い弟子が、金の棒を良く錬って、いろんな金の道具を作りたいと望めば、何でもできるのと同じです。大王! これが、明らかに見える、サマナの実践の結果です。

17.心が純潔清浄に安定して煩悩がなく、随煩悩がなく、仕事にふさわしいしなやかな自然であり、このように動揺せずに維持すると、彼は心を、天のものである耳界に傾けます。彼は清浄で特別な、普通の人間の耳を越えた天のような耳があります。つまり天の声と人間の声、近い声と遠い声の二種類の声が聞こえます。

 長旅をする男は長太鼓の音を聞き、太鼓の音を聞き、ほら貝の音を聞き、両面太鼓の音を聞き、立て太鼓の音を聞き、彼は当然、それは長太鼓の音、それは太鼓の音、ほら貝の音、両面太鼓の音、立て太鼓の音と聞き分けることができるのと同じです。大王! これが、明らかに見る事ができるサマナの実践の結果です。

18.心が純潔清浄に安定して煩悩がなく、随煩悩がなく、仕事にふさわしいしなやかな自然で、このように動揺せずに維持すると、彼は心を、他人の心を規定するニャーナ(智)に傾けます。

 彼は他の動物、他の人物の心を、自分の心でハッキリと知って規定できます。貪欲がある心は、貪欲があるとハッキリと知り、貪欲がない心は、貪欲がないとはっきり知り、怒りがある心は、怒りがあるとはっきり知り、怒りがない心は怒りがないとハッキリ知ります。

 痴があれば痴があるとハッキリ知り、痴がないのは痴がないとハッキリ知り、萎んでいる心、散漫な心、まだそれ以上の心がある心、それ以上の心がない心、安定した心、安定していない心、特別に脱した心、特別に脱していない心を、そのようにハッキリと知ります。

 若い男や女が、澄んだ鏡や水に顔を映して見て、汚れがあれば汚れがあると知り、顔に汚れがなければ汚れがないと知るのと同じです。大王! これが、明らかに見えるサマナの実践の結果です。

19.心が純潔清浄に安定して煩悩がなく、随煩悩がなく、仕事にふさわしいしなやかな自然で、このように動揺せずに維持すると、彼は心を、宿命智に傾けます。彼は過去の有で済んだことがある蘊を、幾つも思い出します。

 一つの生、あるいは二つの生、三つの生、四つの生、五つの生、十の生、二十の生、三十の生、五十の生、百の生、千の生、十万の生、一劫の輪廻、何劫もの生を思い出すことができます。

 その有にいた時はこういう名前、こういう姓で、こういう階級で、こういう食べ物があり、こういう幸福とこういう苦を味わい、何歳まで生き、その有が終わるとこの有に生まれ、このような家族があり、身分があり、食べ物があり、

こういう幸福と苦を味わい、何歳で亡くなって次にどこの有へ生まれたと、このように思い出すことができ、ます。過去に住んだことがある数々の蘊を、このような状態と説明も一緒に思い出せます。

 大王! ある男が自分の家を出て、他の家へ行き、それからまた別の家へ行き、その家を出て家に帰り、彼は、「私は自分の家を出て向こうに家へ行き、その家でこのように立ち、座り、話し、黙り、その家を出てからまた向こうの家へ行き、

そこで私はそのように立ち、座り、話し、黙り、こっちの家でも私は、そのように立ち、座り、話し、黙り、その家を出てから自分の家へ戻ってきた」と、思い出せるのと同じです。

 大王! 比丘は、かつて生きたことがある蘊を思い出すことができます。つまり一つの生、あるいは二つの生、三つの生、四つの生、五つの生、十の生、二十の生、三十の生、五十の生、百の生、千の生、十万の生、一劫の輪廻、何劫もの生を思い出すことができます。

 その有にいた時はこういう名前、こういう姓で、こういう階級で、こういう食べ物があり、こういう幸福とこういう苦を味わい、何歳まで生き、その有が終わるとこの有に生まれ、このような家族があり、身分があり、食べ物があり、こういう幸福と苦を味わい、何歳で亡くなって次にどこの有へ生まれたと、このように思い出すことができます。

 過去に住んだことがある数々の蘊を、このような状態と説明も一緒に思い出せます。

 大王! これが明らかに見えるサマナの実践の結果です。

20. 心が純潔清浄に安定して煩悩がなく、随煩悩がなく、仕事にふさわしいしなやかな自然で、このように動揺せずに維持すると、彼は心を天眼智に傾けます。彼は、普通の人間より純潔な(天のような)天眼があり、当然すべての動物が死んで行き、生まれて来るのが見え、下品か上品か、身分が良いか悪いか、苦か幸福か、見えます。

 彼は「発展した方々。これらの動物は不正な体・不正な言葉・不正な心があり、すべての聖人を非難し、誤った見解があり、誤った見解の威力で仕事を営み、体が壊れて死んだ後は揃って悪趣、悪の報いを受ける場所、地獄へ行きます。 発展した方々。こちらの人たちは正しい体・正しい言葉・正しい心があり、聖人を非難せず、正しい見解があり、正しい見解の威力で仕事を営み、体が壊れて死んだ後は当然揃って善趣、天国界へ行きます」と、カンマで到達する動物の群れが明らかに見えます。

 三叉路の間に建っている館は、目のある(盲人でない)男がその上に立つと、家に入り、家から出て来、歩いて来、道を列になって歩き、三叉路の中に座っているのが見えます。彼は当然、その人の群れは家に入った、家を出た、道を歩いて行った、三叉路の中で座っていると規定することができるのと同じです。大王! これが、明らかに見えるサマナの実践の結果です。

21.心が純潔清浄に安定して煩悩がなく、随煩悩がなく、仕事にふさわしいしなやかな自然であり、このように動揺せずに維持すると、彼は心を漏尽智に傾けます。

 彼は「これが苦。これが苦を生じさせる原因。これが滅苦。これが滅苦に至る実践項目。そしてこれらはすべての漏、これはすべての漏が生じる原因。これはすべての漏の消滅。これはすべての漏の消滅に至る実践項目」と、真実のままに知ります。

 彼がこのように知り、このように見えた時、心が欲漏・有漏・無有漏から脱します。心が素晴らしい脱出をすると、「心が解脱した」と知るニャーナ(知ること。智)が生じ、明が生じ、闇が追放されて光が生じ、「生は終わった。梵行は終わった。しなければならない仕事は成功した。このようになる(解脱する)ためにしなければならない他の仕事はない」とハッキリと知ります。

 山麓にある水が澄んで濁っていない淵に、目のある(盲人でない)人がその縁に立って見ると、いろんな貝、小石や砂利、魚の群れが、淵の中で泳いだり、止まったりしているのが見えます。彼は「この淵は澄んでいて濁っていない。貝、小石、魚の群れが、淵の中で泳いだり、止まったりしている」と思い出すように、比丘のみなさん。

 比丘も、「これが苦。これがこれは苦が生じる原因。これが滅苦。これが滅苦に至る実践項目。そしてこれらはすべての漏、これはすべての漏が生じる原因。これはすべての漏の消滅。これはすべての漏の消滅に至る実践項目」と、真実のままに知ります。

 彼がこのように知り、このように見えた時、心が欲漏・有漏・無有漏から脱します。

 心が素晴らしい脱出をすると、「心が解脱した」と知るニャーナ(知ること。智)が生じ、明が生じ、闇が追放されて光が生じ、「生は終わった。梵行は終わった。しなければならない仕事は成功した。このようになる(解脱する)ためにしなければならない他の仕事はない」と、真実のままにはっきりと知ります。大王! これが明らかに見えるサマナの実践の結果です。

 大王! それ以上、あるいはもっと繊細な、明らかに見えるサマナの実践の結果はありません。

 世尊が説法を終わると、マガタ国のヴェーデーヒ王妃の王子であるアジャータサットゥ王は、世尊に「猊下。非常に美しい説法です(云々)」と奏上しました。

 (以下は説法を称賛する言葉であり、実践に関りがないので、取り上げません。世尊は比丘たちに「このマガタ国の王は無間業を作ったので、その場で聖向聖果に到達しない」と言われました)

 世尊がこの言葉を言い終わると、比丘たちは世尊の言葉を喜んで、聞き惚れました。

(パーリ・沙門果経 阿羅漢の後を追って 第三章終わり)





1.

パーリ三経から得た題目




1.パーリ・・チャヴィソータナスッタから採った九項の教え

 在家が説法を聞く、
 出家する、
 戒が揃う、
 知足、
 根律義、
 常自覚、
 閑静な住まいに住む、
 四形禅定への到達、
 漏尽智への到達。

2.パーリ・マハーアッサプラスッタから採った十七項の教え

 慚愧、
 身正行、
 口正行、
 意正行、
 純潔な職業、
 根律義、
 食べ物の省察、
 睡眠を貪らない、
 常自覚、
 閑静な住まいに住んで蓋を捨てる、
 初禅、
 二禅、
 三禅、
 四禅、
 宿命智、
 天眼智、
 漏尽智。

3.パーリ・サーマンニャバラスッタから採った二十一項の教え

 在家が説法を聞いて信仰と智慧が生じる、
 出家、
 小戒、
 中戒、
 大戒、
 根律義、
 常自覚、
 知足、
 閑静な住まいで蓋を捨てる、
 初禅、
 二禅、
 三禅、
 四禅、
 智見、
 マノーマヤラアビニママナ、
 天眼智、
 漏尽智。



 調べて見るべき他のパーリである経

 カンダラカスッタ、アパンナカスッタ、チュタサクルダージスッタ、デーヴァダハスッタ、チュラハッティパドーパマスッタ、マハータナハーサンケーッヤスッタ、ガナカモッガラーナスッタ、サンダカスッタ、コータムカスッタ、中部の九経は、チャヴィソータナスッタに似ている。

 パーリ・ケヴァッタスッタ、スバスッタ、アムバッタスッタ、ローヒッチャスッタ、ソーナタナタスッタ、チャーリヤスッタ、ポータパーダスッタ、長部の七経は、サーマンニャバラスッタに似ている。


パーリ三経から二十三項を集める

第一段階 良家の子息が経を聞く・・・・・・信仰と智慧が生じる。

第二段階 財産と親戚を捨て・・・・・・・・出家する。

第三段階 パーティモッカサンヴァラ・・・・あるいは身正行・口正行・意正行

第四段階 根律義・・・・・・・・・・・・・六根律義

第五段階 職業清浄・・・・・・・・・・・・純潔な職業

第六段階 縁省察・・・・・・・・・・・・・四依の省察

第七段階 慚と愧・・・・・・・・・・・・・四つの戒の原因

第八段階 知足・・・・・・・・・・・・・・そこで手に入る物を喜ぶ

第九段階 常自覚・・・・・・・・・・・・・すべての挙措を周到に自覚する

第十段階 警寝策励・・・・・・・・・・・・寝ることばかり考えず目覚めている

第十一段階 閑静な住まいに住む・・・・・・そして五蓋を捨てる

第十二段階 初禅に到達する

第十三段階 二禅に到達する

第十四段階 三禅に到達する

第十五段階 四禅に到達する

第十六段階 智見・・・・・・・・・・・・・身体の状態を知見する智慧

第十七段階 マノーマヤアビニッマナ‥・・・心で作る像
第十八段階 神通・・・・・・・・・・・・・望み通りの神通を現す方法

第十九段階 天耳通・・・・・・・・・・・・天人と人間の声が聞こえる天の耳

第二十段階 他心通・・・・・・・・・・・・他人の心がどのようか知る

第二十一段階 宿命智・・・・・・・・・・・たくさんの生を思い出せる

第二十二段階 天眼通・・・・・・・・・・・動物が死んで、生まれるのが見える天の目

第二十三段階 漏尽智・・・・・・・・・・・漏を終わらせるもの


二十三段階のダンマと縁起の比較
 集約、あるいは対照すること、全てを照合することは、当然困難です。ある教えは何種類にもなるからです。例えばパーティモッカサンヴァラは正しい口行になり、正しい業でも、正しい正業でもあるので、理由にふさわしく見て比較し、その教えを取り上げ、系統である部分にします。

 詳しく知りたい人は、この話の最後の章を裏返して見ます。ここでは直接、そして十七、十八.二十段階で、次のように簡単に比較します。

 正しい見解は、一、十六、十七、十九、二十、二十一、二十二、二十三段階にあり、直接もあり、間接もあり、単独のもあります。正しい考えは二、十一段階に単独であります。正しい言葉は三段階に単独であります。正しい業は三段階にあり、正しい生業は三、五、六段階にあります。

 正しい努力は二、十、十一段階にあり、直接も単独もあります。正しいサティは六、七、九、十、十一、二十一段階にあり、直接も単独もあります。正しいサマーディは四、八、十一、十二、十三、十四、十五段階に直接あり、十七、十八、二十段階に結果の部分として単独にあります。

このように三学に含める

 正しい言葉・正しい業・正しい生業の部類は戒学です。正しい努力・正しいサティ・正しいサマーディの部類は心学です。正しい見解・正しい望みは智慧学です。

 (ここで比較、集約するのは、本当にする行動を規準とし、名前を規準にしません。そうすれば矛盾するからです。根律義などは行動では、本当の心の部分ですが、マッガに入れるなら正しい見解でなければなりません。

 しかし四清浄戒では戒としています。初等の道である名前に注目するからです。私は本当にする行動にしたいので、このように簡単に分けしました。名前を規準にすれば、このように簡単です。

 三、四、五、六、七、八、九、十段階は戒の部で、十一、十二、十三、十四、十五段階はサマーディの部で、十六、十七、十八、十九、二十、二十一、二十二、二十三段階は智慧の部です。このような分け方は、基本として名前、あるいはその道の高低に注目します。しかし明らかに見させられる分類ではありません。だから上で述べたように、本当の行動の状態で分類し直しました)。

 阿羅漢の後を追って 前半終わり




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