阿羅漢の跡を追って
第二経
パーリ・マハーアッサプラスッタ
中部 ムーラバンナーサ マハーヤマカヴァッガ
三蔵・サヤームラット版第12巻 496頁459項
ある時、世尊が、乞食して歩く場所としてアッサプラという村がある、アンガという名の田舎の王子の居所に滞在されていると、世尊が比丘たちを呼ばれて、(しっかり聞くように)次のようなブッダヴァチャナ(ブッダの言葉)を話されました。
「比丘のみなさん。大衆はみなさんをサマナと知っています。彼らに「あなたは誰ですか」と訊かれれば、みなさんは「私はサマナです」と宣言します。そのような名前があり、そのように宣言すれば、私たちをサマナ、あるいはバラモン(つまり徳と罪より上にいる阿羅漢)にするどのダンマも、それを良く遵守します。
そうすればそのような行動と私たちの名前と宣言は、真実になります。更に私たちがどの支援者の衣、食べ物、住まい、そして治療薬を使うことも、それらの支援者の行動には大きな結果があり、大きな功徳があります。そして私たちが出家したことは不毛でなく、本当の儲けがある結果のためになります。比丘のみなさん。みなさん! このように心に留めなさい。
比丘のみなさん。私たちをサマナにし、バラモンにするダンマはどのダンマでしょうか。
1.比丘のみなさん。本当にみなさん、「私は慚と愧がある人になる」と心に留めなければなりません。比丘のみなさん。みなさんはこのように心に留めなければなりません。比丘のみなさん。これはみなさんに生じるでしょう。
つまりそれだけで「私たちは慚愧が完璧だ。これだけの徳で十分だ。私たちはサマナの実践の結果に追い着いた。それ以上にしなければならないことはない」と、揃って安心しきってしまいます。
比丘のみなさん。私はみなさんに言います。忠告して知らせます。みなさんがサマナになりたいなら、サマナであることの結果を消滅させてはいけません。みなさんがしなければならないことは、まだあるからです。
2.比丘のみなさん。みなさんが更に段階的にしなければならないことは何でしょうか。それは「私たちの体による均一で正しい振舞い、身正行は純潔で、裏返しに(誰にも見せることが)でき、公開でき、突き抜けず、良く集中していると、自分自身で心に留めることです。更にこのことで、絶対に自分を持ち上げ、他人を脅しません。比丘のみなさん。みなさんこのように心に止めなければなりません。
「比丘のみなさん。これはみなさんに生じるでしょう。つまりそれだけで「私たちは慚愧が完璧だ。これだけの徳で十分だ。私たちはサマナの実践の結果に追い着いた。それ以上にしなければならないことはない」と、揃って安心しきってしまいます。
比丘のみなさん。私はみなさんに言います。忠告して知らせます。みなさんがサマナになりたいなら、サマナであることの結果を消滅させてはいけません。みなさんがしなければならないことは、まだあるからです。
3.比丘のみなさん。みなさんが更に段階的にしなければならないことは何でしょうか。それは「私たちの体による均一な正しい行動である口正行は純潔で、裏返しにでき、公開でき、突き抜けず、良く集中していると、自分自身で心に留めることです。更にこのことで、絶対に自分を持ち上げ、他人を脅しません。比丘のみなさん。みなさんはこのように心に留めなければなりません。
「比丘のみなさん。これはみなさんに生じるでしょう。つまりそれだけで「私たちは慚愧が完璧だ。これだけの徳で十分だ。私たちはサマナの実践の結果に追い着いた。それ以上にしなければならないことはない」と、揃って安心しきってしまいます。
比丘のみなさん。私はみなさんに言います。忠告して知らせます。みなさんがサマナになりたいなら、サマナであることの結果を消滅させてはいけません。みなさんがしなければならないことは、まだあるからです。
4.比丘のみなさん。みなさんが更に段階的にしなければならない仕事は何でしょうか。それは「私たちの体による均一な正しい行動である意正行は純潔で、裏返しにでき、公開でき、突き抜けず、良く集中していると、自分自身で心に留めることです。更にこのことで、絶対に自分を持ち上げ、他人を脅しません。比丘のみなさん。みなさんはこのように心に留めなければなりません。
「比丘のみなさん。これはみなさんに生じるでしょう。つまりそれだけで「私たちは慚愧が完璧だ。これだけの徳で十分だ。私たちはサマナの実践の結果に追い着いた。それ以上にしなければならないことはない」と、揃って安心しきってしまいます。
比丘のみなさん。私はみなさんに言います。忠告して知らせます。みなさんがサマナになりたいなら、サマナであることの結果を消滅させてはいけません。みなさんがしなければならないことは、まだあるからです。
5.比丘のみなさん。みなさんが更に段階的にしなければならない仕事は何でしょうか。それは「私たちの体による均一な正しい行動である職業は純潔で、裏返しにでき、公開でき、突き抜けず、良く集中していると、自分自身で心に留めることです。更にこのことで、絶対に自分を持ち上げ、他人を脅しません。比丘のみなさん。みなさんはこのように心に止めなければなりません。
「比丘のみなさん。これはみなさんに生じるでしょう。つまりそれだけで「私たちは慚愧が完璧だ。これだけの徳で十分だ。私たちはサマナの実践の結果に追い着いた。それ以上にしなければならないことはない」と、揃って安心しきってしまいます。
比丘のみなさん。私はみなさんに言います。忠告して知らせます。みなさんがサマナになりたいなら、サマナであることの結果を消滅させてはいけません。みなさんがしなければならないことは、まだあるからです。
6.比丘のみなさん。みなさんが更に段階的にしなければならないことは何でしょうか。それは「私はすべての根に慎重にする人になる」と、自分自身で心に止めることです。目で形を見てもニミッタで捉えず、大人物の相と捉えません。
罪や善、つまり貪欲と憂いはいずれかの根に慎重にしないことが原因で流れて行くので、私は目根を塞ぐために実践し、目根に慎重な人になる。耳で声を聞き、鼻で臭いを嗅ぎ、舌で味を味わい、体で接触し、心で感情を感じても全体で捉えず、部分でも捉えません。
罪と善、つまり貪欲と憂いはいずれかの根に慎重にしないことが原因で流れて行くので、私は目根を塞ぐために実践し、目根に慎重な人になる。更に、このことで、絶対に自分を持ち上げ、他人を脅しません。
比丘のみなさん。みなさんこのように心に留めなければなりません。「比丘のみなさん。これはみなさんに生じるでしょう。つまりそれだけで「私たちは慚愧が完璧だ。これだけの徳で十分だ。私たちはサマナの実践の結果に追い着いた。それ以上にしなければならないことはない」と、揃って安心しきってしまいます。
比丘のみなさん。私はみなさんに言います。忠告して知らせます。みなさんがサマナになりたいなら、サマナであることの結果を消滅させてはいけません。みなさんがしなければならないことは、まだあるからです。
7.比丘のみなさん。みなさんが、更に段階的にしなければならない仕事は何でしょうか。
それは「私は、常に食べ物の適量を知る人で、絶妙に熟慮してから食べる。遊びのため、陶酔するため、飾るために食べない。この体を維持するため、命を経過させるため、困窮を防ぐため、梵行を支援するためだけに食べる。私は古い受(空腹)を排除してしまい、新しい受(食べ過ぎ)を作らない。年齢が進むこと、食べ物による害がないこと、そして安楽と快適は私にある」と、心に留めます。
更に、このことで、絶対に自分を持ち上げ、他人を脅しません。比丘のみなさん。みなさんこのように心に止留めなければなりません。「比丘のみなさん。これはみなさんに生じるでしょう。つまりそれだけで「私たちは慚愧が完璧だ。これだけの徳で十分だ。私たちはサマナの実践の結果に追い着いた。それ以上にしなければならないことはない」と、揃って安心しきってしまいます。
比丘のみなさん。私はみなさんに言います。忠告して知らせます。みなさんがサマナになりたいなら、サマナであることの結果を消滅させてはいけません。みなさんがしなければならないことは、まだあるからです。
8.比丘のみなさん。みなさんが段階的に善くしなければならない仕事は何でしょうか。それは「私は目覚める道具であるダンマがあり、昼から夜、初更まで、歩くこと座ることで、心から障害物を拭って清浄にする。中更には獅子王の寝相で寝て、起き上がったら、再び歩くこと座ることで、心から蓋である物を清浄に拭う」と心に留めることです。
9.比丘のみなさん。みなさんがまだ段階的にしなければならない仕事は何でしょうか。それは「私は常自覚が完璧な人で、前進する時、後退する時、振り向く時、視線を投げる時、屈む時、伸びをする時、衣を維持する時、食べ、止り、座り、寝、眠り、目覚め、話し、黙る時、全身を隈なく自覚する」と心に留めます。
10.比丘のみなさん。みなさんがまだ段階的にしなければならない仕事は何でしょうか。比丘のみなさん。この宗教の比丘は、閑静な住まいである藪、木の根元、山、小川、洞窟、墓地、野外、藁の山などに住みます。托鉢から戻ると、昼過ぎは結跏趺坐で座り、脚を曲げ、体を真直ぐに立て、サティを現前に据え、世界の貪欲を捨て、貪欲のない心があり、心から貪欲を拭って純潔にしようと注意深く構えます。
復讐心を捨て、復讐心がない心があり、憐みがある人で、すべての動物を助けたいと望み、心を拭って復讐心を無くします。眠気を捨て、眠気のない心があり、心の明るさを目指す人であり、常自覚があり、心から眠気を拭おうと構えています。
落ち着きのなさを捨て、散漫でなく、内面が静かな心があり、心から落ち着きのなさを拭おうと構えています。疑念を捨て、疑念を越えてしまい、すべてのダンマに「これは何? これはどう?」と疑念で言う必要がなく、心から疑念を拭おうと構えています。
比丘のみなさん。ある男が借金をして事業に成功し、元資をすべて返しても、まだ妻を養うに十分な儲けが残っているようなものです。彼は「借金をして事業をしたが、成功して、資本金を返済しても、まだ妻を扶養する儲けがある」と、幸運について思います。彼は当然楽しくなり、そのことが原因で喜ぶのと同じです。
比丘のみなさん。ある男が重い病苦に堪え、食べ物も食べられず、力もありませんが、病気が治れば、食べ物も食べられ、力もあり、彼は「以前は重い病苦に堪え、食べ物も食べられず力もなかったが、病気が治った今は食べ物も食べられ、力もある」と思い返し、彼は当然楽しくなり、それが原因で喜ぶのと同じです。
比丘のみなさん。ある男が刑務所に入れられ、その後財産を失わずに無事に刑期を終えると、彼は必ず「以前、私は刑務所にいたが、今は無事に刑を終わり、財産も失っていない」と思い返し、彼は当然楽しくなり、それが原因で喜ぶのと同じです。
比丘のみなさん。ある男は奴隷(年季奉公)で自立できず、他人に依存しなければならず、自分の自由に動き回れませんでしたが、後に年季が明け、自立し、他人に依存しないで自由に動き回れるようになると、彼は必ず「以前私は年季奉公人で自立できず、他人に依存しなければならず、自分の自由に動き回れなかったが、今は年季も明け、自立して他人に依存しないで自由に動き回れる」と思い返し、楽しくなって、それが原因で喜ぶのと同じです。
比丘のみなさん。また別の男は、財産を持って長旅をし、悪路を抜けて危険がなくなり、消耗品を失う必要がなくなると、彼は「以前私は長旅をし、危険な悪路で、消耗品を失う必要があったが、今は危険がなく、消費財を失う必要はない」と過去を思い出します。彼は当然嬉しくなり、それが原因で喜ぶのと同じです。
比丘のみなさん。比丘が、自分がまだ捨てることができない五蓋を、借金のよう、病気のよう、監獄に入るよう、年季奉公に出されるよう、そして財産を持って不毛の地を旅するようだと熟慮して見ます。そして彼は五蓋を、借金が終わり、病気が完治し、刑期が終わり、年季が明けたよう、危険から脱したようと熟慮して見ます。彼は当然楽しくなり、それが原因で喜ぶのと同じです。
11.比丘のみなさん。彼が、心を憂鬱にし、智慧の力を弱める五蓋を捨てた時、すべての愛欲が静まり、すべての悪が静まることで、ヴィタッカ(尋)、ヴィチャーラ(伺)があり、喜悦と幸福がある初禅に到達します。彼は全身に遠離から生じた喜悦と幸福の水を振りかけて湿らせ、彼の体のどの部分も、遠離から生じた喜悦と幸福に触れない部分はありません。
比丘のみなさん。沐浴師やその賢い助手が、水を浴びる時に体を擦る粉を、ブロンズのタライに撒いて水を振りかけて寝かせておくと、夕方には、粉から出たヤニが全体に沁み渡り、くっついて流れなくなるように、比丘のみなさん。その比丘は、この体にヴィヴェカから生じた喜悦と幸福の水を振り掛け、全身を隈なく湿らせます。彼の体のどの部分も、遠離から生じた喜悦と幸福に触れない部分はありません。比丘のみなさん。これと同じです。
12.もう一つ、内面を明るくする物であり、心にサマーディを生じさせる物である二禅に到達し、ヴィタッカとヴィチャーラ(二つとも考えることの一種)は静まり、ヴィタッカもヴィチャーラもなく、あるのは喜悦と幸福だけです。彼は全身に遠離から生じた喜悦と幸福の水を振り掛けて湿らせ、彼の体のどの部分も、遠離から生じた喜悦と幸福に触れない部分はありません。
比丘のみなさん。水源がある深い淵は、東にも南にも、西にも北にも水が流れ込む口がなく、そして季節の雨が降らなくても、泉から冷たい水が噴き出すと、冷たい水がその淵全体に流れ、その淵のどの部分も、冷たい水に触れない部分はないのと同じです。
13.まだあります。喜悦が薄れることで、比丘は捨にいる人になり、サティがあり自覚があり、名身で幸福を味わい、聖人の方々が「この禅定に達した人は捨にいる人で、サティがあり幸福に暮らす」と言われる三禅に達し、そして常にその感覚の中にいます。
彼は喜悦のない幸福だけの水で全身を一通り湿らせ、その人の全身のどの部分も、喜悦のない幸福に触れない部分はありません。
比丘のみなさん。睡蓮、紅蓮、白蓮の花がある水蓮の沼、紅蓮の沼、白蓮の沼の蓮は、水中で生まれて水面下で成長し、まだ水から出ない水面下に沈んでいる群れもあります。それらは先端から根まで冷たい水に浸かっているので、その蓮のどの部分も、水に触れない部分がないのと同じです。
比丘のみなさん。この比丘は喜悦のない幸福で全身を隈なく湿らせ、その人の体のどの部分も喜悦のない幸福に触れない部分はありません。
14.比丘のみなさん。まだあります。幸福(喜び)と苦を捨ててしまえることで、憂と過去の憂が消滅することで、比丘は苦でも幸福でもなく、捨によって純潔な自然であるサティしかない四禅に達し、そして常にその感覚の中にいます。彼は座って、明るく澄んだ純潔な心を全身に行き渡らせ、彼の体のどの部分も、明るく澄んだ純潔な心が触れない部分はありません。
比丘のみなさん。座って頭からすっぽり全身を白い布で覆っている男の全身は、布に触れて(覆われて)いない部分がないように、比丘のみなさん。比丘は座って全身に明るく澄んだ純潔な心を行き渡らせ、彼の全身のどの部分も、明るく澄んだ純粋な心に触れていない部分はありません。
15.心が安定し、純潔清浄で煩悩がなく、随煩悩がなく、仕事にふさわしい淑やかな自然であり、このように動揺しない状態を維持したら、彼は宿命通に心を傾けます。彼は、彼が過去にいたことがある幾つもの蘊について思い出します。
彼は一つの生、あるいは二つの生、三つの生、四つの生、五つの生、十の生、二十の生、三十の生、五十の生、百の生、千の生、十万の生、一劫の輪廻、何劫もの生を思い出すことができます。
その有にいた時はこういう名前こういう姓で、こういう階級でこういう食べ物があり、こういう幸福とこういう苦を味わい、何歳まで生き、その有が終わるとこの有に生まれ、このような家族があり、身分があり、食べ物があり、こういう幸福と苦を味わい、何歳で亡くなって次にどこの有へ生まれたと、このように思い出すことができます。
過去に住んだことがある数々の蘊を、このような状態と説明も一緒に思い出せます。
比丘のみなさん。ある男が自分の家を出て他の家へ行き、それからまた別の家へ行き、その家を出て家に帰り、「私は自分の家を出て向こうの家へ行き、その家でこのように立ち、座り、話し、黙り、その家を出てからまた向こうの家へ行き、そこでそのように立ち、座り、話し、黙り、こっちの家でもそのように立ち、座り、話し、黙り、その家を出てから自分の家へ戻って来た」と思い出せるのと同じです。
比丘のみなさん。比丘は、かつて生きたことがある蘊を思い出すことができます。つまり一つの生、あるいは二つの生、三つの生、四つの生、五つの生、十の生、二十の生、三十の生、五十の生、百の生、千の生、十万の生、一劫の輪廻、何劫もの生を思い出すことができます。
その有にいた時はこういう名前こういう姓で、こういう階級でこういう食べ物があり、こういう幸福とこういう苦を味わい、何歳まで生き、その有が終わるとこの有に生まれ、このような家族があり、身分があり、食べ物があり、こういう幸福と苦を味わい、何歳で亡くなって、次にどこの有へ生まれたと、このように思い出すことができます。過去に住んだことがある数々の蘊を、このような状態と説明も一緒に思い出せます。
16.心が純潔正常に安定して煩悩がなく、煩悩に欠け、仕事にふさわしい柔軟な自然であり、このように安定したら、彼は心を四禅に傾けます。彼は普通の人間より純潔な(天のような)天眼があり、当然すべての動物が死んで行き、生まれて来るのが見え、下劣か上等か、身分が良いか悪いか、苦か幸福か、見えます。
彼は「発展した方々。これらの動物は不正な体、不正な言葉、不正な心があり、すべての聖人を非難し、誤った見解があり、誤った見解の威力で仕事を営み、体が壊れて死んだ後は揃って悪趣、悪の報いを受ける場所、地獄へ行きます。
発展した方々。こちらの人たちは正しい体、正しい言葉、正しい心があり、聖人を非難せず、正しい見解があり、正しい見解の威力で仕事を営み、体が壊れて死んだ後は当然揃って善趣、天国界へ行きます」と、カンマで到達する動物の群れが明らかに見えます。
比丘のみなさん。門が向かい合っている二軒の家があり、目のある(盲人でない)男が間に立つと、人間の群れが家に出入りし、歩いて来たり、真直ぐ歩いたり、曲がったりするのが見えるのと同じです。
比丘のみなさん。同じように、その比丘は普通の人間より純潔な天眼があり、死んでいく人間が下劣か上品か、身分が良いか低いか、苦があるか幸福か等々が見えます。彼はカンマに至った人の群れがはっきりと見えます。
17.心が純潔正常に安定して、煩悩がなく、煩悩に欠け、仕事にふさわしい柔軟な自然で、このように安定したら、彼は心を漏尽通に傾けます。彼は当然「これが苦。これは苦が生じる原因。これが滅苦。これが滅苦に至る実践項目。そしてこれらはすべての漏、これはすべての漏が生じる原因。これはすべての漏の消滅。これはすべての漏の消滅に至る実践項目」と、真実のままに知ります。
彼がこのように知り、このように見えた時、心が欲漏・有漏・無有漏から脱します。心が素晴らしい脱出をすると、「心が解脱した」と知るニャーナ(知ること。智)が生じ、明が生じ、闇が追放されて光が生じ、「生は終わった。梵行は終わった。しなければならない仕事は成功した。このようになる(解脱する)ためにしなければならない他の仕事はない」とハッキリと知ります。
比丘のみなさん。山麓にある水が澄んでいて濁っていない淵に、目のある(盲人でない)人がその縁に立って見ると、いろんな貝、小石や砂利、魚の群れが、淵の中で泳いだり、止まったりしているのが見えます。彼は「この淵は澄んでいて、濁っていない。貝、小石、魚の群れが、淵の中を泳いだり、止まったりしている」と思い出すように、比丘のみなさん。
比丘も「これが苦。これがこれは苦が生じる原因。これが滅苦。これが滅苦に至る実践項目。そしてこれらはすべての漏、これはすべての漏が生じる原因。これはすべての漏の消滅。これはすべての漏の消滅に至る実践項目」と、真実のままに知ります。
彼がこのように知り、このように見えた時、心が欲漏・有漏・無有漏から脱し、心が素晴らしい脱出をすると「心が解脱した」と知るニャーナ(知ること。智)が生じ、明が生じ、闇が追放されて光が生じ、「生は終わった。梵行は終わった。しなければならない仕事は成功した。このようになる(解脱する)ためにしなければならない他の仕事はない」と、真実のままにはっきりと知ります。
比丘のみなさん。その比丘を、私如行はサマナと呼んだり、バラモンと呼んだり、マハータカと呼んだり、ヴェーダグーと呼んだり、ソータティヤと呼んだり、阿羅漢と呼んだりします。
比丘のみなさん。比丘は、何から遠いから阿羅漢と呼ばれるのでしょうか。比丘が阿羅漢と呼ばれるのは、再び生まれなければならない側に傾き、焦燥で経過し、結果として苦があり、今後の生老死の基盤である、憂鬱の側の成り行きになる罪悪であるダンマから遠いからです。比丘のみなさん。比丘が阿羅漢と呼ばれるのは、このようです。
世尊がこのようにブッダヴァチャナを終られると、すべての比丘が喜び、このような世尊の言葉に恍惚としました。