阿羅漢の跡を追って


パーリ三経




パーリ・チャヴィソータナスッタ パーリ・マハーアッサプラスッタ パーリ・サーマンニャバラスッタ






第一経

チャヴィーソータナスッタ




 ウパリパンナーサ アンパダヴァッガ

サヤームラット版 第14巻127頁172項

 ある時、世尊がサーヴァッティーに近い、アナータピンディカ長者が献上した祇園精舎に滞在なさっている時、比丘全員を呼ばれ(しっかり聞かせるために)説法をなさいました。

 「比丘のみなさん。この宗教の比丘が「私は生が終わった。梵行も終わり、するべき仕事も全部終わった。このようになるためにしなければならない他の仕事はもうない」と、このように阿羅漢果を宣言するなら、

 比丘のみなさん。その比丘の言葉を喜ぶべきでなく、反論すべきでもありません。「先輩。あなたはどのように知り、どのように見たので、識があるあなたの体の中のアハンカーラ(私。我)、ママンカーラ(私の物。我所有)、マーナヌサヤ(慢随眠)と、あなたが外部に見ている他の物を良く抜き取ってしまえたのですか」と、その人の問題を質問すべきです。

 比丘のみなさん。漏が終わった比丘は当然、梵行が終わり、しなければならない仕事が終わり、重荷である悟った蘊があり、自分の利益に達し、終わった有の結があり、特別な解脱を正しく知る人なので、次のように(みなさんに)託宣すべきです。

1.ご年輩! 以前私は所帯を持つ在家で、無知な人でした。如行様、あるいは如行様のお弟子でも、私にダンマを説かれた時、私はそのダンマを聞いて、如行様に信仰が生じ、信仰があれば「在家は窮屈で、埃である煩悩の流れる道。出家は明るくなる機会。

 出家することであるこの梵行は、所帯を持っている人が僧のように完璧に純粋な行動をするのは簡単ではない。髪と髭を落とし、渋染めの布をまとって家を出て、家のない人の出家をするべきだ」と明らかに見えました。

2.私は多かれ少なかれ財産を捨て、多かれ少なかれ親戚を捨て、髪と髭を落とし、渋染めの布をまとって出家して家のない人になりました。

3.私が出家すると、学習とすべての比丘の仕事が完璧になりました。生きている動物の命を落とさず、殺生を避ける人で、棒と武器を置いてしまい、罪に恥を感じ、憐みと可愛がる気持ちがあり、すべての動物を援けたいと望みます。所有者が与えない物を持つことを捨て、偸盗を避け、所有者が与えた物だけを持ち、所有者が与えた物だけを期待し、清潔な人で盗みをしません。

 梵行でないカンマを捨て、梵行をする人で、正常な遠い振舞いをし、庶民の淫行を避けてしまいます。嘘を言うことを捨て、妄語を言うのを避け、真実しか話さず、誠実を維持し、言うことが安定して信頼でき、世界を誤らせることを述べません。

 告げ口を捨て、虚言を避け、こちら側で聞いたことを、こちら側を分裂させるためにあちら側に隠しません。あるいはあちら側で聞いたことを、あちら側を分裂させるためにこちらに話しません。分裂した人たちを団結させ、団結を好む人で、団結させることだけを話します。

 乱暴な言葉を述べることを捨て、下品な言葉を避け、聞いて愛を生じさせる気持ちの良い、心を膨らまし、大衆が愛すものである庶民が話す丁寧な言葉、害のない言葉だけを述べます。

 利益のない言葉は捨ててしまい、無駄話を避け、時にふさわしいことだけを述べ、ダンマであり、ヴィナヤである利益になる真実の言葉だけを述べ、根拠があり、引用元があり、終わりがあり、時にふさわしい利益がある言葉だけを述べます。

 私は植物を消滅させるのを避け、一日一回だけ食事をする人で、夜間と非時に食べることを避けます。踊ること、演奏すること、歌うこと、囃すことを避け、善の敵である種類の演劇を避けます。飾ることを避ける人で、花輪と香りの物、そして塗りたくる物で飾りません。

 広くて(高さが)高い身代で寝るのを避ける人で、金銀を受け取るのを避ける人で、籾米を受け取るのを避ける人で、生肉を食べるのを避け、女性と少女を貰うのを避け、雄も雌も、羊や山羊・鶏・犬・象・牛・馬を貰うのを避けます。

 田んぼや果樹園を貰うのを避け、いろんな所へ(在家の)遣いで行くのを避け、売買を避け、秤でごまかすことを避け、偽物を混入させず、計測器で騙さず、供物を貰って、不正に祈願することを避け、斬る、殺す、模造する、隠れて危害を加える、奪う、そして脅迫することを避けます。

4.私は身をまとう衣、腹を養う食べ物に足ることを知る人で、翼のある鳥がどの地域へ飛んで行くにも、翼だけが荷物であるように、どの地方へ行ってもその地域で食べ、そして去って行きます。私は身をまとう衣と、腹を養う食べ物に足ることを知る人で、どの方向へ行っても、避けることができます(八物でごちゃごちゃする必要はありません)。

5.私はこのように阿羅漢の物である戒の塊があり、内面で罪のない幸福を味わい、目で形を見ても、耳で声を聞いても、舌で味を味わっても、身体で触れても、心で感じてもニミッタで捉えず、部分で捉えません。貪欲と憂いはこれらの根に集中しないことが原因で、目・耳・鼻・舌・体・心に慎重にしない人に流れて行きます。私はこれらの根を塞ぐ実践をし、目・耳・鼻・舌・体・心を維持し、慎重にします。

6.私は、このような聖人の物である根を維持し、慎重にすると、内部にある苦の混じっていない幸福を味わいます。前進する時、後退する時、振り向く時、視線を投じる時、屈む時、伸びをする時、衣を使用する時、飲んで食べて味わう時、全身に感覚(自覚)があり、排便、排尿、歩行、佇む、座る、眠る、目覚める、話す、黙すことに自覚があります。

7.私は聖人の戒があり、聖人の根律儀があり、そしてこのように聖人の常自覚がある時、当然静かな住まいである森、木の根本、山、小川、洞窟、墓地、密林、屋外、積み上げた藁に住みます。

 私は托鉢から戻ると、午後は結跏趺坐で座り、脚を曲げ、体を真直ぐに立ててサティを現前に据え、世界の貪欲を捨て、貪欲のない心があり、心から貪欲を拭って純潔にしようと注意深く構えています。復讐心を捨て、復讐心のない心があり、すべての動物を支援する利益を望む憐みのある人で、復讐心を拭き取って清浄にしようと注意深く構えています。

 眠気を捨て、眠気がなく、心は常自覚がある明るさを目指し、心から眠気を拭き取ろうと身構えています。落ち着きのなさを捨て、散漫でなく、内部が静まった心があり、心から散漫を拭き取って清浄にしようと身構えています。疑念を捨て、疑念を越えることができ、すべての善に疑念で「これは何? これはどのよう?」と述べる必要がない人で、心から疑念を拭き取って清浄にしようと身構えています。

8.智慧の力を弱まらせる罪であり、心を憂鬱にする随煩悩である五蓋を捨てた時、すべての愛欲が静まり、すべての悪が静まったので、ヴィッタカ(尋)・ヴィチャーラ(伺)があり、遠離から生じたピーティ(喜悦)とスッカ(幸福)がある初禅に到達しました。

 ヴィタッカ・ヴィチャーラが静まることで、一つだけの感情があり、ヴィタッカもヴィチャーラもなく、あるのはサマーディから生じた喜悦と幸福だけの、内面の心を明るくする二禅に到達しました。

 喜悦が消滅したことと、私が捨にいる人であり、周到にサティがあり、名形で幸福を味わうことで、すべての聖人が「これに到達した人は捨にいる人で、サティがあり、幸福に暮らす」と称賛する三禅に到達しました。苦と幸福を捨てること、そして過去の喜びと憂いが消滅することで、苦もなく、幸福も無く、あるのは捨ゆえに純潔なサティだけの四禅に到達しました。

9.心が純潔清浄に安定して、煩悩がなく、随煩悩がなく、仕事にふさわしい柔軟でしとやかな心になり、恐れがなく、そのように安定したので、私は心を漏尽智に傾けました。

 私は「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至らしめる道」と、真実のままにはっきり知りました。そしてこれが漏、これが漏を生じさせる原因、これが漏の消滅と知りました。

 このように知り、このように見えると、心は漏から、有漏から、無明漏から脱しました。心が脱すと「私は脱した」と知る智が生じ、「生は終わった。梵行は終わった。するべき仕事は仕終わった。このようになるためにしなければならない他の用事はもうない」とハッキリと知りました。

 ご年輩のみなさん。私は、このように知り、このように見えたので、識がある体の中と、外部に見える他の物にある、アハンカーラ(私という感覚)・ママンカーラ(私の物という感覚)・マーナヌサヤ(傲慢)を良く抜いてしまいました。

 「比丘のみなさん。みなさんはサードゥ!(善いですね) サードゥ!(善いですね)と、その比丘の言葉にうっとりし、そしてその比丘に、ご年輩、あなたのような梵行をなさる方を見るのは私たちの幸運であり、私たちが得た善い物を見ることですと、このように喜ぶべきです」。

 世尊がこの説法を話し終わると、すべての比丘は喜んで聞き惚れ、世尊の金言を受け取りました。(パーリ・チャヴィソータナスッタ。)




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