11.アーナーパーナサティ最終日の講義





 今日は今まで述べたことを復習し、理解度を試して見るためのまとめの講義です。アーナーパーナサティの教えについて熟知するには、かなりの時間が必用と、明らかに見えます。本当に実践を始められるまでには何ヶ月も掛かります。だからここでできることは原則を明らかに理解し、理解に基づいた実践を試してみるだけです。

 初めから最後まで連係していること、原因を知り、理由を知るという意味の、明らかな理解が不可欠です。

 最初の日に「仏教の基礎は何にも執着しないことにある」と述べました。「すべての物は無常・苦・無我なので、執着するべき物は何もない」と見、そして無常という感覚と、執着しないという気持を常に感じさせます。

 しかし心は従わず、そのような見方をしたがらないで、足掻きます。だから心を従わせ、無常を見、あるいは執着するべきでないと見る習性にするための方法が必要です。その方法はアーナーパーナサティ16段階の課程、あるいはアーナーパーナサティ16段階の中にある四念処と呼ぶものです。

 四念処は別の形の物もあると理解してください。ディーガニカーヤ(長部)の大四念処経などでも述べられていますが、その中ではパリヤッティ(学習)項目のような目録だけを話していて、直接実践課程として、そして一つに繋がった物として説かれていません。だからパリヤッティ(学習)面のサティパターナと見なします。

 一方アーナーパーナサティ16段階について述べているマッヂニマニカーヤ(中部)のアーナーパーナサティ経の中にあるのは、実践する四念処です。段階的に繋がっている実践課程を、最初から最後まで、つまり聖果に達するまで明示しているからです。

 あの経この経、その話あの話と途中でテキストを替える必要はなく、最後まで繋がっている一つをします。他の物に替えません。だからアーナーパーナサティ、あるいはアーナーパーナサティ経の四念処は、実践する四念処で、実践規範と捉えます。だから各段階がどのようか、説明して見せました。

 これから16段階がどう始まってどう終わるか、「繋がっている」と言ったそれぞれ段階の関連はどのようかを見ていきます。そこで、話した知識の理解が、どれだけこのまとめと一致するか、自分でテストできるように、もう一度おさらいします。

カーヤーヌパッサナーサティパターナ(身随観念処)

1.長く息を吐いた時、吸った時、知る。(パチャーナーティ)

2.短く息を吐いた時吸った時、知る。(パチャーナーティ)

3.すべての体を知って、呼吸をする。(パティサンウェーティー)

4.カーヤサンカーラを抑制して呼吸をする。(パッサマパヤ)


ヴェーダーヌパッサナーサティパターナ(受随観念処)

5.喜悦を知って呼吸をする。(パティサンウェーティー)

6.幸福を知って呼吸をする。(パティサンウェーティー)

7.チッタサンカーラを知って、呼吸をする。(パティサンウェーティー)

8.チッタサンカーラを抑制して、呼吸をする


チッターヌパッサナーサティパターナ(心随観念処)

9.心を知って、呼吸をする。(パティサンウェーティー)

10.心をより歓喜させて、呼吸をする。

11.心を磐石にして、呼吸をする。

12.心を開放して、呼吸をする。


タンマーヌパッサナーサティパターナ(法随観念処)

13.無常を見て、呼吸をする。

14.薄らぐことを見て、呼吸をする。(離欲。ヴィラーガ)

15.滅亡を見て、呼吸をする。(滅尽。ニローダ)

16.振り払うことを見て、呼吸をする。(捨離。パティニッサッガ)

 アーナーパーナサティの第1、第2段階は、呼吸の在りようを知るために、長い息の出入り、短い息の出入りを知る準備の段階です。そしてこの段階では、呼吸は意識するための感情、あるいはニミッタです。だから入ったり出たりしている呼吸自体を、常に休みなく意識します。

 次の段階では呼吸の代わりに他の物、つまりある事実、ある状態、ある感覚をニミッタとして意識します。しかし心を意識する段階まで、同じように一呼吸ごとにします。心を知るために「心の状態はどうか」を意識する時にも、呼吸の代わりに使います。つまり心の状態を意識することが、呼吸に代わるニミッタです。最後の部まで一呼吸ごとに意識します。

 第13段階以降は私たちが一番見たい状態、つまり無常で執着するべきでないいろんな状態を意識します。このような状態をそれまで使っていた呼吸の代わりにし、無常、あるいは「欲しくない、なりたくない」という感覚を、常に一呼吸ごとに意識します。これです。ここで仏教の重要点に至ります。

 それから段階的に結果が生じたら、その生じた結果をニミッタとして意識します。最後の段階で、それまで執着していた物、執着を振り払うまで、得られた結果を呼吸の代わりに、一呼吸ごとに意識します。

 まとめると、一呼吸ごとに何らかの物を意識することから、このようにすることをアーナーパーナサティと言います。どの段階も一呼吸ごとに何かを意識するので、アーナーパーナサティ(呼吸念)と言います。

 全16段階の構造を見ると、初めの二つの段階は一呼吸ごとに呼吸を意識すると見えます。続いて体を意識し、カーヤサンカーラを意識し、喜悦を意識し、幸福を意識するように、最後までどんどん変わります。しかし常に一呼吸ごとに意識しなければなりません。

 アーナーパーナサティの要旨を「一呼吸ごとに何かを意識するので、アーナーパーナサティ(呼吸念)と呼ぶ」と掴んでください。しかし私たちは滅苦をしたいので、滅苦に繋がる物だけを意識します。本当のことを言えば、何を意識することも、何を考えることもできます。

 一呼吸ごとにクルンテープ(バンコクのタイ語名)のことを考えても、アーナーパーナサティには変わりありません。しかしそれはタンマの実践ではないので、実践のためには滅苦の利益がある物を意識します。だからそれぞれの段階の感情は、繋がっている滅苦に関わる物です。あるいは段階的に送り継いで行きます。次はそれぞれの段階はどのようか話します。

 第1段階。長い息を意識する。

 人は通常、適度に長い息をしているので、初めに長い息を意識して、それから短い息を意識して、知ります。短い息は体に異常がある時の呼吸だからです。体が正常なら呼吸も普通に長い息をしています。怒ったり、恐れたり、悲しんだり、あるいは何か感情を損ねれば、呼吸は短くなります。

 だから次の段階で、短い息はどのようか、いつそういう状態になるか、短い息を意識します。これは、呼吸を良く知るために他なりません。長い息を知る時は、無理に異常に長い息をして、最高に長い息まで学ばなければなりません。それから少しずつ弛めて、普通の長い息にします。そうすれば長い息についてより良く知ります。

 第2段階。短い息を知る。

 これも同じで、非常に短いとはどれくらいか、少し短いとはどれくらいか、何かの原因で、たとえば疲れているから呼吸がこんなに短い、疲れてないから呼吸がこんなに長い、と知ります。二種類の息について、呼吸が自然に変化していく状態を知っておくためです。呼吸の自然な状態について知悉すると言います。この二つの段階では、呼吸を意識する感情(ニミッタ)にします。

 第3段階。すべての体を知る。

 つまり呼吸は全部、体と関連していて、一緒に上下すると知ります。呼吸が荒ければ体も荒く乱れ、呼吸が滑らかなら体も穏やかに静まるという意味です。だからブッダは「私は、呼吸は体全体の一部と言う」と言われています。第3段階で「すべての体を知る」のは、体と関連があり、体を変調させる呼吸を知るという意味です。荒い呼吸は体を乱調にし、穏やかな呼吸は体も穏やかにします。

 だから呼吸は「体を変化させる物」、あるいは「カーヤサンカーラ」と呼ばれます。この段階では、ただ長い短いと息を意識するのではなく、体を変調させる義務がある呼吸を感情として意識します。「すべての体を知る」とは、そういう意味です。

 憶えやすいように短く言えば、体と関連のある呼吸について、すべての事実を知ること、これを「すべての体」と言います。これに熟達し、何がカーヤサンカーラか知ったら、次の段階に進みます。第4段階の練習は、カーヤサンカーラより強い力のある人に、呼吸を支配できる人になりたがります。

 第4段階。

 カーヤサンカーラを静める練習。ここでの「静める」パッサンパヤとは、消滅させることではありません。タイ語では静めるだけと誤解されています。それを静めて静めて、微弱にして微弱にして、可能な限り微弱にします。こういうのを「カーヤサンカーラを静める」と言います。

 だからこの第4段階では、カーヤサンカーラが静まって、静まって、どれだけ穏やかになったか、どれくらい穏やかになったかを一呼吸ごとに見て、見て、見ます。最後に呼吸が静まってサマーディの段階になり、ウパチャーラサマーディ(近行定)になります。もっと微弱にしていくとアッパナーサマーディ(安止定)に達します。

 これらのサマーディが第4段階です。このサマーディになれば、カーヤサンカーラを静められたと言います。それで第一部であるカーヤーヌパッサナーサティパターナ(身随観念処)は終わりです。

 第5段階。

 第4段階に続いて、喜悦(ピーティ)を知ります。喜悦と呼ぶものは、カーヤサンカーラを静めたことでサマーディが生じ、カーヤサンカーラを静められた満足が生じ、そして喜悦が生じます。

 あるいは禅定の段階までカーヤサンカーラを静められれば、初禅なら、初禅の中に喜悦があります。だから第5段階で、その定の中のより重みのある、より強い喜悦を意識することもできます。「喜悦を知るために、喜悦の味を、喜悦の状態を意識している。感じている」と言います。

 第6段階。幸福を意識して知る。

 これも、喜びは幸福に変わるので、喜悦も幸福(スッカ)に変わります。喜悦とは満足、あるいは喜びで、幸福とは快いことです。この二つの関係を意識して見るのも良いです。喜びと幸福は一緒にすることもできます。しかしこの段階の実践では、喜悦を一つ、幸福を一つに分けたいです。

 喜悦、幸福と呼ばれる物は第4段階から心の中に生じていますが、第5、第6段階から本当に意識し始めます。だから喜悦と幸福の味はどのようかを知り尽くします。この種の喜悦、幸福は五欲(欲情)に依存しないで、タンマ、あるいは愛欲がないことに依存しています。だから完璧で最高の喜悦、幸福で、心の面の、あるいはタンマの面の最高の幸福である、最高に広い喜悦と幸福をを知ったと言います。

 第7段階。心を変調させる物である喜悦と幸福を知る。

 第3段階の呼吸が体を変調させる物であるように、喜悦と幸福は、第7段階で心を変調させる物です。チッタサンカーラ(心を変調させる物である受と想)を知ることは、喜悦と幸福を知ることです。あるいは別の呼び方で、受(ヴェーダナー)と言い、喜悦という名の受、幸福という名の受を課題にして、心を変調させる物と知ります。

 そこで受に別の名前、チッタサンカーラと名づけ、受が常に心を変調させている状態を、一呼吸ごとに知ります。受は想(つまりあれはああだ、これはこうだという理解。記憶)を生じさせ、その記憶が心に考えを生じさせます。だから「受が心を変調させる」と言います。受は考えを通して心を変調させます。

 普通の場合、目を喜ばす美しい物を見ると幸福の受であり、そして綺麗な花、美しい女性、美しい男性と思い込みます。これをサンニャー(想)と言います。そしてそのサンニャーが考えを生じさせます。

 つまりあれを手に入れよう、これを手に入れようという考えが生まれます。これを心、あるいはヴィタッカ(尋)と呼ぶこともできます。受が心をそう変えるので、受は「心を変調させる物」、あるいは「チッタサンカーラ」と呼ばれます。

 私たちは自分の内面にある事実を、受である喜悦と幸福がどんな考えを生じさせるかを見なければなりません。外部の物を、あれはこうあるべき、これはそうあるべきと批判しないでください。それは外部の問題で、ここでは意図しません。

 見たいと意図するのは、心の中の喜悦と幸福は、今本当に何らかの考えを作り出しているので、受は心を変化させるという事実を発見するまで、次々にそれを見続けるだけす。そしてこの事実をためらうことなく、疑うことなく明らかに見ます。それから第8段階の実践に移ります。

 第8段階。チッタサンカーラの力を弱める。

 あるいは上手に管理し、心が「私、私の物」と捉える取の方向に変化しないようにします。チッタサンカーラである受を弱められることは、心を支配できるかことだからです。心を支配できるのは、心の原因に対して対処の仕方を知っているからで、心を変化させる原因である物を管理できます。

 受が心を変化させないようにするには、受はどうしようもない物という知識に依存します。だから受の味である何かを求める時も、考えが「私、私の物」という方向になることはありません。美しい物を見ると目が幸福になりますが、知性は熟慮して、この目を通した幸福を子供の遊びと見ます。最高に良くても子供の遊びで、本当は何もないマヤカシです。

 だからその後そのような想、そのような考えは作り出されません。これを智慧の方法によってチッタサンカーラが弱められたと言います。

 あるいはサマタで、何かを意識して弱めても、心は変調しなくなります。これに関する事実を意識しているだけで、受は心を変調させる術がありません。しかしこの段階は智慧の段階なので、智慧を多く使う方法にします。

 そして受は変わりやすい物であり、苦であり無我であり、空であり、マヤカシであるような物と熟慮すると、受とヴィタッカを加工する力が弱められます。

 だから座って、常にこの状態の心を維持管理すれば、チッタサンカーラを弱めると言います。自分で満足できるまで、そして心が受によって変わらない状態に管理できるようになるまで、あるいは自分で良いと認められる程度までチッタサンカーラを弱めます。

 まだ煩悩がなくなった訳ではありませんが、十分支配下にあります。これで第二部、ヴェーダーヌパッサナー(受随観)である四段階が終わります。次は第三部、チッターヌパッサナー(心随観)の部で、心に対処する、あるいは傷めつけると見ることができます。

 第9段階。心はどのようかを知る。

 どのように、何種類に変化するか、どんな時心がそうなるかを知ります。どんな時心がそうなるか、貪りがある時か、ない時か、怒りがある時か、ない時かなどが一つ。あるいは呼吸を長くしていく時、短くしていく時、心はどのようかを知ります。心の状態はどのようか、全段階を見張って知ります。

 それらをまとめて、「心がその状態にあり、そして心をより一層繊細にするために何か一つを綿密に意識し、熟慮して知る」と言います。つまりどんどん緻密になっていく心と、心を広く知るということです。多種多様な心を知ると言います。ここで説明する必用はありません。心の状態は何種類あるのか、幾つの状態があるのか要約するだけです。

 この段階も心の状態を、それに習熟するまで一呼吸ごとの感情、あるいはニミッタにします。掌中にあると言える状態になったら、第10-11-12段階へ入ります。

 第10-11-12段階。

 この三段階は、目いっぱい腕の見せ所です。つまり心をどのようにも支配でき、一呼吸ごとに心を支配して喜ばせます。心を思ったどおりに支配して、常に喜ばせます。第11段階では心を停止させ、心が何か一つの感情(心の概念)の中に停っていること、心が磐石に停止していることを、一呼吸ごとに明らかに見ます。

 第12段階では心を支配して、心を包囲している煩悩、あるいは蓋など、心が執着している物を捨てさせます。心を包囲していた物を捨てさせることができた、あるいは五蘊など、心が「自分」と執着していた物への執着を捨てさせることができたと言います。これを「二つを捨てた」と言います。

 しかしまだ煩悩が消滅した訳ではありません。この状態で心を訓練しているだけなので、心の状態を知悉し、心を喜ばせ、静め、そして捨てることの、三つの状態に支配できる人になります。四段階全部ができれば、第三部、チッターヌパッサナーサティパターナ(心随観念処)が終わったと言います。

 次は最後の部である、タンマについて熟慮するタンマーヌパッサナー(法随観)に移動します。心を支配して支配下におくことに関して、心をこれほど支配できたら、初めの段階で、何か一つの物を意識する時、心が従わないで逃げ出そうとしていた問題は、ここで解決し、私たちの意図したとおりに、心が一つの物を意識することに成功します。そこで最後の部では、常に無常を見るように支配し始めます。

 第13段階。無常を見る。

 この段階でいう無常とは、苦・無我・空のすべてを一まとめにして無常と言います。つまり絶え間ない変転です。無常とは変転という意味です。苦とはまとめた意味で、見る人の目が痛むという意味です。無我とは自我ではないという意味です。そして空とは、実体がある物としての意味がないことで、すべてを一つにすると無常になります。

 意図したとおりに無常が見えれば、「成功が期待できる」と言うことができます。仏教の要旨を意識することができるからです。仏教の要旨は「何物にも執着するべきでない」という項目が心にあることです。だから何を見ても執着するべきでない物ばかりで、一呼吸ごとに無常が見えます。これがタンマの部、あるいはタンマーヌパッサナーサティパターナ(法随観念処)の最初の段階です。

 第14段階。

 一呼吸ごとに無常を見て、休まず呼吸をする度に最高の成り行きになれば、心はヴィラーガ(離欲。薄れること)を見ることになります。つまり執着が薄れ、無常である感情を捨て、薄れていく感覚である、心の執着が薄れていくことを見ます。

 この段階では、ヴィラーガ(離欲)と言われる物は心で感じる物で、目で見るのではありません。思考するのでもありません。それまで「自分、自分の物」と執着していたあれやこれを、私、私の物と執着していたが、今私の心は執着が緩んでいくとはっきり見ます。

 あるいは心がいつ煩悩に包囲されても、心はそこから脱出できます。心が煩悩の包囲から脱出できれば、ヴィラーガ(離欲)と呼ぶ、煩悩、特に執着が薄れるのが見えます。一呼吸ごとに、常にこの段階の薄れることが明らかに見ます。本当に見えるまでに何時間、何日掛かっても、本当に最後まで薄れたら、滅苦を見ることに入ります。

 第15段階。滅苦を見る。

 苦のない心、本当に消滅すること、苦の消滅を一呼吸ごとに常に見ます。

 第16段階。

 最後の段階は、それまで「私、私の物」と抱え込んで執着していた物を、仮定の中で振り捨てた点を見ます。あるいは自分を追い出し、振り払います。仮定で言えば私たちが振り払いますが、事実で言えば、心が「私、私の物」と捉えて執着していた物を振り払い、執着と呼ぶ物、あるいは何かに執着することを返却します。

 普通の人の言い回しで言えば「もう返す。要らないから返す。持ち主に返す」です。今まで自然の物を「自分、自分の物」にしてきました。心や識などを自分とし、受や想を自分の物としてきました。ここまで来たら、それらの「自分、自分の物」を自然に返します。

 率直に言えば、心が「俺、俺の物」という執着から脱出します。だからこの第16段階は、ヴィムッティ(解脱)と呼ぶだけでなく、他の似たような言葉で呼ぶことができます。つまりタンマーヌパッサナー(法随観)と呼ぶ、四段階のダンマを見る最高の段階です。


 全四部、それぞれ4段階ある16段階を、まとめてアーナーパーナサティと呼びます。16段階、あるいは四部は、その時意識している感情で分けています。第一部は体である呼吸を意識し、第二部は受を意識し、第三部は心を意識し、第四部は心に現れたタンマの話を意識するので、16段階揃っている一連の実践であるサティパターナ(念処)です。

 アーナーパーナサティの過程を良く理解しなければなりません。実践する上で一番簡単便利で、完璧な、唯一の方式だからです。他の物は完全でないのもあり、ぎこちないのもあり、毛をむしり取るのが大変なものもあります。

 呼吸が体毛の上を滑りません。呼吸は身の内にあるのに、カシナ(十遍処で瞑想に使う小道具)や不浄物を意識するので、あちこちで毛をむしらなければなりません。

 しかし呼吸なら身の内にあるので、どこに行ってもあります。意識しやすく楽です。それに怖くありません。驚愕するような状況は発生しません。アーナーパーナサティは恐怖に震える不浄物などを見る方法と違います。

 ブッダはアーナーパーナサティバーヴァナーを推奨されました。自殺を考えるほど自分の暮らしぶりに厭きた比丘にも、このカンマターナを勧められました。他のどのカンマターナより便利で快適にするからです。

 次に知らなければならない事実、最も重要な事実を見ます。「仏教の完璧な実践と呼べる物はこれ一つしかない」と興味を持ってください。すごく短くまとめて言えば、このアーナーパーナサティはすべての実践を完璧にすると言わなければなりません。

 三学である戒・サマーディ・智慧を基準にして見ると、16段階にも戒・サマーディ・智慧が揃っていると指摘して見せます。自分を厳しく支配して、強制する中で意識する状態は、戒、つまり律義と呼ぶ支配です。

 だから戒は16段階のどの段階にもあります。戒の意味、あるいは戒は全16段階全部の中にあります。律義は不可欠だからです。つまりサマーディで強制して、ある状態に調整すること。これを戒と言います。

 次に心の感情を、何としても何か一つにすることをサマーディと言います。これは第1-2段階に明らかにあります。この第1-2段階は、サマーディの状態が最も明らかで、第3段階から第12段階までは、智慧が介入して、次第に増えます。次第に増えると言っても、まだサマーディが先頭にいます。智慧が混入して第12段階まで増え続けます。

 第13段階から第16段階までは智慧が力を増し、サマーディに代わって先頭に出ます。サマーディは後ろ、あるは下へ追いやられます。智慧が先頭になるので、第13-14、15-16段階は、無常・苦・無我が見え、煩悩が薄らぐのが見え、そして苦が消滅して解脱するまで、完璧に智慧の話です。これを全部智慧と言います。

 もう一度繰り返すと、戒はどの段階にもあります。智慧が混じらず、純粋にサマーディだけなのは第1と第2段階で、第3段階から第12段階までは智慧が入り込んで次第に増えます。しかし第12段階まではサマーディが先導し、第13段階以降は智慧がサマーディより力を増して先頭になり、サマーディは隠れているだけです。

 このように関連し融合しているのを、八正道と呼びます。つまり分かれなく、バラバラに分かれてしまえば八正道ではありません。八正道は、戒・サマーディ・智慧に分かれていない三学です。戒と智慧について述べ、それから段階ごとに、その回ごとに、機会ごとに分けて教えるのは、理論だけで、何も成功しません。それに非常に困難です。

 戒だけを純粋にするのは、臼を転がして山を登るように大変です。何も得ず、無駄死にすることもあります。しかし述べたように全部一緒にやれば簡単で、それは八正道です。全部混ざっているという意味です。これらのアーナーパーナサティを実践してみれば、戒もサマーディも智慧も、同時に八正道の形で経過します。実践し易いので臼を転がして山を登るようではありません。

 戒を純粋に百パーセントしなければサマーディはうまく行かないと言う人がいますが、その人の当てずっぽう言っています。このような状態についてブッダは『噛み合わせて、撚り合わせていく』と言われています。真実は智慧が先にあると言うことです。

 つまり智慧が「この実践は使える。頼りになる」と教えてくれます。それが智慧で、それから実践を始めると戒・サマーディ・智慧が揃って更に充実します。この慎重に注意することを戒と言い、心が一つの物を意識していることをサマーディと言い、いろんなことを知るのは智慧です。だからこの課程には戒・サマーディ・智慧が揃っています。

 次にもう一つの意義は、パーリ(ブッダの言葉である経)の中で、アーナーパーナサティを沢山して上達すれば、当然四念処も完璧になり、四念処を沢山すれば、当然七覚支が完璧になり、七覚支を沢山すれば、当然明と解脱が完璧になると、ブッダが言われています。

 私たちが述べた四念処である16段階を、どの段階も欠かさず実践すれば、サティ・択法・精進・喜悦・軽安・サマーディ・捨に出合います。

 説明したように、サティは意識することにあり、択法は熟慮し、精進は努力することにあり、喜悦は努力を育てる物にあり、軽安はカーヤサンカーラ(体を作る物、つまり呼吸)あるいはチッタサンカーラ(心を作る物、つまり受と想)が静まることにあります。

 そしてサマーディは熟視することの中にあります。状態でも感情でも熟視すればサマーディと呼びます。そしてじっと熟視できるよう管理すると、安定した捨になり、最後は解脱する智慧が生じます。だから人がこのように完璧に四念処をすれば、七覚支も完璧になります。

 七覚支が完璧になれば、明(知識)とヴィムッティ(解脱)と呼ぶ物が、何の問題もなく確実に生じ、自然の義務です。だからすべての仏教の本物として、これだけの実践で十分と言います。何もかも、この16段階一つに集約されています。

 どうぞタンマの部のいずれかの項目、いずれかの段階を試して見てください。そうすればいずれかの段階はできます。だからこの16段階のどれも、すべてのタンマを集めたものと言います。だからこのアーナーパーナサティの実践で完全な滅苦をするために、知って実践する仏教として十分と言うことができます。


 次に見なければならない話が少しあります。この実践に不可欠な、あるいは生じさせなければならないニャーナ(智)です。初めの二部、つまり第1部と第2部のニャーナ(智)、あるいは知識は、一緒に話すことができます。一つは危害、もう一つは支援で、正反対で、相互に実践する対のタンマだからです。みなさんはナックタム(比丘の試験)で学んだことがあるので、一つは危害、もう一つは支援で、対と言います。

 たとえばカーマチャンダ(愛欲の満足)は害で、ネッカンマ(離欲)は支援です。カーマチャンダとネッカンマは正反対です。ネッカンマは愛欲から出て、カーマチャンダは愛欲になり、カーマチャンダはサマーディにとって危険で、ネッカンマはサマーディの支援になり、一対です。

 復讐心は害、復讐心のないことは支援。

 ぼんやりすることは害、明るさは支援。

 取り乱すことは害、取り乱さないことは支援。これも一対。

 ためらいは害、タンマを確実に知ることは支援。これも一対。

 不満は害、喜びは支援。これも一対。

 すべての悪は害、すべての善は支援。これは最後の一対。

 ブッダがこれだけ取り上げられて、まだ幾らでもあるのに、悪と善で終わりにしたのは、七組だけを見本にしたと分かります。これは知らなければならないことと言えます。そしてこの知識もニャーナ(智)と言います。ニャーナ(智)、あるいは知識は第一部と第二部はそれぞれ七つずつあります。

 第3部。害になる物に関わる知識。サマーディを曇らす物、つまりサマーディを妨害する物は十八種類あります。

1.吐く息の初め、中間、終わりを意識する時に心の内部が乱れる。

2.吸う息の初め、中間、終わりを意識する時に心の外部が乱れる。

3.その時吐く息に、期待、欲、満足、あるいは野望がある。

4.その時吸う息に、期待、欲、満足、あるいは野望がある。

5.呼吸に関心が強すぎて、吸う息が不鮮明になる。

6.吸気への関心が強すぎて、吐く息が不鮮明になる。

7.ニミッタを意識する時、心の呼吸を意識している部分が揺らぐ。

8.吐く息を意識する時、心のニミッタを意識している部分が揺らぐ。

9.ニミッタを意識する時、心の吐く息を意識している部分が揺らぐ。

10.吸う息を意識する時、心のニミッタを意識している部分が揺らぐ。

11.吐く息を意識する時、吸う息を意識する心が揺らぐ。

12.吸う息を意識する時、吐く息を意識する心が揺らぐ。

13.心が過去の感情に走るので、焦燥感に陥る。

14.心が未来の感情(期待という言葉を使う)に走るので、動揺する。

15.心が萎縮して怠慢になる。

16.心が必死になりすぎるあまり乱れる。

17.心が感情に敏感すぎるあまり情欲に陥る。

18.心に明るさがなく純粋でないので、不満や怒りに陥る。


 第4部。サマーディの純粋さについては、第3部と正反対になっています。

 13、14項の障害物は、心がその種の物を除くことで抑え、動揺を避け、心を一つにすれば、当然心の揺れは治まります。そうすれば心が動揺する害を抑えることができます。

 15項 心が萎縮するのは、いろんな方法でなだめて、大事に見守ることで解決します。

 16項 心が必死になりすぎるのは、いろんな方便で心を脅すことで解決します。

 17項 心が感情に敏感すぎるのは、敏感さを抑える常自覚を増やして解決します。

 18項の心が不満や怒り焦慮に陥るのは、心を明るくする自覚を増やして解決します。

 その他にも反対の行動で解決します。

 心が最上の状態は次の四つです。

イ 放棄すること、犠牲にするから心が一つ。

ロ サマタのニミッタが明らかに現れるから心が一つ。

ハ 無常の状態がハッキリ現れるから心が一つ。

ニ アッターサンニャー(自我想)の滅であるタンマが明らかに現れるから心が一つ。。

 以上は、反対の行動の中に残っている障害を解決する物です。


 第5部の知識。自分にサティパターナ32項があるようにすることを知る、と言うのは、アーナーパーナサティ全16段階のすべての段階が二種類、つまり呼気と吸気があるので、三十二種類あります。

 第6部の知識。二十四種類のサマーディの力による経過は、アーナーパーナサティの第1段階から第12段階まで(最後の4段階、つまり第13から16段階までは除きます)のすべての段階に、呼気と吸気があるので、二十四種類になります。これは本当のサマーディは第1段階から第12段階までで、それから先は智慧ということです。

 だからサマーディの威力で経過する知識は二十四種類だけです。つまり第1段階から第12段階までで、それだけでサマーディの範囲は終わります。この12段階に、それぞれ呼気と吸気があるので、二十四で、ニャーナ(智)と呼ぶ物、あるいはサマーディの威力で経過する知識は二十四種類です。サマーディが先頭にある12段階のそれぞれが二つで、二十四種類です。

 第7部の知識は、七十二種類のウィパッサナーの威力で経過します。アーナーパーナサティの初めの12段階を呼気と吸気に分け二十四種類にしましたが、その一つ一つで無常を見、苦を見、無我を見ると、全部で七十二種類になります。三相の三を掛けると七十二種類になります。七十二種類のウィパッサナーの威力で経過する知識は、このような状態です。

 第8部は、ニッビダー(厭離)の八種類に関する知識です。アーナーパーナサティの最後の部、無常を見ることから返却することまでは、呼気と吸気で八つになり、この八つ全部に厭離が生じるので、ニッビダー(厭離)に関わるニャーナは八種類あります。

 第9部は、八種類あるニッビダー(厭離)を準備する知識です。たとえば輪廻に対して恐怖などの感情が生じたら、それは八種類ある厭離の準備ができている感覚です。最後の四段階、無常が薄れることから返却することまでの四種類に、呼気と吸気で二を掛ければ、八種類になります。輪廻に対する恐怖などの感情は、この八つのどこでも生じるので、八種類です。

 第10部。ニッビダー(厭離)を弱める知識、あるいはニャーナ(智)を、ニッビダーパティパッサッタティニャーナ(厭離安息智)と言います。このニャーナ(智)が生じると倦怠が弱まり、より高い基礎にするために、より深い穏やかさを目指して前進します。

 八種類あるのは、アーナーパーナサティの最後の部の四段階に呼気と吸気の二種類で2を掛けて、八種類です。まとめると、厭離のニャーナ(智)が八種類、厭離を準備するニャーナ(智)が八種類、厭離の感覚を弱めるニャーナ(智)も八種類で、それぞれ八種類です。

 第11部。最後の部は、ヴィムッティ(解脱)から生じた幸福を感じる知識、あるいはニャーナ(智)で二十一種類あります。11部のニャーナ(智)、つまり解脱だけが生じる幸福を感じるニャーナ(智)は二十一種類あり、サンヨージャナ(結)とアヌサヤ(随眠)を絶つマッガ(向。道)で分類します。

 預流向は、当然有身見・疑念・戒禁取・謬見随眠、・疑随眠の五つを絶つ。

 一来向は、当然粗い欲貪・粗い怒り・粗い貪欲随眠・粗い瞋恚随眠の四つを絶つ。

 阿那含向は、当然微妙な欲貪・微妙な怒り・微妙な貪欲随眠・微妙な瞋恚随眠の四つを絶つ。

 阿羅漢向は、当然有欲・無有欲・意地・恐怖・無明・慢随眠・有貪随眠・無明随眠の八つを絶つ。

 全部を合わせると二十一種類になります。一種類に一つのニャーナ(智)なので、ニャーナ(智)も二十一種類あります。この二十一のニャーナ(智)は、ヴィムッティ(解脱)から生じた幸福と呼ぶものばかりです。

 すべてのニャーナ(智)を合わせると、二百二十になります。

 つまりサマーディに害のある物を知るニャーナ(智)が八、

 サマーディの支援になる物を知るニャーナ(智)が八、

 サマーディを曇らす物を知るものが十八、

 サマーディを清浄にする物を知のが十三、

 サティパターナ(念処)が身にあるようにすることを知るのが三十二、

 サマーディの威力での経過を知るのが二十四、

 ウィパッサナーの威力による経過を知るが七十二、

 ニッビダー(厭離)を知るのが八、

 ニッビダー(厭離)を準備する物を知るのが八、

 ニッビダー(厭離)を弱めるのを知るのが八、

 ヴィムッティ(解脱)から生じた幸福の知識が二十一。

 全部で二百二十です。




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