10.アーナーパーナサティ実践法の解説





1967年4月12日-26日
第1期 仏教海外大使のための研修

 この説明に関しては、特にマッヂマニカーヤ(中部)にあるアーナーパーナサティの実践をしたことがある人が、再確認するための内々のものと理解してください。時には黒板を使って「(繰り返し習って身に着けることを)進める段階の概要を説明するので、時々黒板の前で話します。

 内容を明らかに理解するために、繰り返し強調したり、重要な段階では細かく分けたりするかも知れません。あるいは関係を説明するために、関連する話しをもう一度詳しくするかもしれません。

 本当に実践するには、タンマを希求する人は、常にこれから話す段階の要領を見なければなりません。自分がスアンモークへ行って聞いているように、図を描いて説明します。

第一部

 1.長く息を吐いた時、吸った時、長い息を知る。

 2.短く息を吐いた時、吸った時、短い息を知る。

 3.「すべての体」を知る。すべての体の事実を知る。

 4. カーヤサンカーラ(体を変調させる物。身行)を弱める。(サマーディが生じるまで)カーヤサンカーラを弱める。

第二部

 5.ピーティ、喜悦だけを知り尽くす。この喜悦はカーヤサンカーラを弱めた結果である。

 6.スッカ、幸福だけを知り尽くす。この幸福はカーヤサンカーラを弱めた結果である。

 7.チッタサンカーラ(心を変調させる物。心行)だけを知り尽くす。チッタサンカーラとはピーティ、スッカなど。

 8.チッタサンカーラを弱める。チッタサンカーラを弱めていく。

第三部

 9.心だけを知り尽くす。すべての種類の心について知る。

10.心を歓喜させる。意図したとおり心を歓喜させる。

11.心を安定させる。意図したとおり心を安定させる。

12.心に放棄させる。その時心にある感情を放棄させる。

第四部

13.無常を見る。(アニッチャーヌパッシー)。タンマである無常を見る。

14.薄れることを見る。(ヴィラーガーヌパッシー)。タンマである薄らぐこと(離欲)を見る。

15.滅を見る。(ニローダヌパッシー)。タンマである煩悩と苦が滅すことを見る。

16.振り捨てることを見る。(パティニサッカーヌパッシー)。タンマである振り捨てることを見る。

 アーナーパーナサティ全体について理解し、関連、あるいは段階に関して復習してください。これを明確に理解していれば、間違いはありません。疑問がなければ、実践は短い時間で簡単に良い経過になります。

 これについて初めから十分に詳しく説明すると、聞いて難しいので、初めに概要を説明し、それから段階ごとの関連を詳しく説明します。



(アーナーパーナサティ全16段階の関連)

 第一部

 長い息を知り、短い息を知り、呼吸はカーヤサンカーラ(体を加工する物、変化させる物)と知り、カーヤサンカーラを抑えることを知って、サマーディを生じさせます。初めの4段階は第一部で、カーヤーヌパッサナーサティパターナ(身随観念処)と呼びます。

 第二部

 第一部の最後で得たサマーディと続いています。第一部の終わり、つまり第4段階でカーヤサンカーラを抑えると、サマーディが生じることを見ます。ウパチャーラ(近行)サマーディのこともあり、アッパナー(安止。根本)サマーディのこともあり、どちらでもサマーディが得られたと見なします。

 次にピーティ(喜悦)に進みます。つまりサマーディであることの喜びが染みていることを知り、サマーディであることの幸福が染み渡っていることを知ります。喜悦と幸福の両方がチッタサンカーラ、つまり心を変化させる物であることを知ります。

 この部の最後の段階は、チッタサンカーラを弱めます。述べたように実践すると、心が少し変わってくるのが見えます。それまで心を変化させていたチッタサンカーラが、自由に変化させられなくなるからです。

 実践の勉強、あるいは支配と関係があります。チッタサンカーラ、つまり心を加工している物を抑えているので、加工することも変化します。だから少し心が変化します。これが第二部の最後の段階を実践した結果です。ヴェーダーヌパッサナーサティパターナ(受随観念処)と言います。

 第三部

 心が強く変調させられなくなると、心について興味が出てきます。心の状態を勉強して、心のいろんな状態はどのように違うかを知ります。特に一般に言われる十六種類の心と、情欲がある心、情欲のない心など、大四念処経で示されているものも含めて何種類でも。

 これらの心はどのような状態かを知ります。これは、心を管理できることなので、心を意図して歓喜にすることも、意図して安定させることもできます。その時心を妨害している感情を振り払うこともできます。ということは、心に関してかなり熟練したという意味です。この部をチッターヌパッサナーサティパターナ(心随観念処)と言います。

 第四部

 タンマーヌパッサナーサティパターナ(法随観念処)で、初めから最後まで熟達します。特に心がいろんな状態に変わるのを見ます。だからこの部はタンマ、つまり体験したすべてのものと、そして最初からの実践の中の感覚の無常(思考ではありません)を見ることから始めます。このように見ます。「アヌパッシー」という言葉を使うのは、論理や原因で考えるのでなく、本当に感じ、そしてそれを見るからです。

 知ることは三重になっていると言ったことを思い出してください。読む。勉強する。これも知識を得ます。このような知ることは知識、普通の知識です。次にもっと高い、理由で考えた知識。このように知ることを理解と言い、まだ十分ではありません。私たちは心が本当に経験し、感じている、Realization、 あるいは Seeing と呼ぶ知識を求めます。

 そのような状態は、目で観ることでなく、智慧で観ることなので、アヌパッシーという言葉を使います。形のタンマも無形のタンマも、それらの動きや状態も、自分が実践したすべての物の中にある無常の状態を明らかに見、常に見ます。

 同時に「本当に無常が見えれば、心の執着が弛んでいくのが見える」と、段階的に見えます。薄れることであるヴィラーガ(離欲)が見えれば、当然滅苦があり、煩悩、あるいは苦が消滅するのが見え、煩悩、あるいは苦が消滅するのが見えれば、本当の幸福である結果を受け取ります。

 受の幸福である実践中(第6段階)の幸福と違い、それはチッタサンカーラの幸福です。最後の段階で得る幸福はこの実践の結果であり、サンカーラによって作られた幸福ではありません。しかし非常に穏やかで、意図しなくても自然に静まっています。

 それをここでは振り捨てると言います。つまり苦や煩悩を捨てるという意味で、それらを自然に投げ返します。これです。この16段階の過程について、それがどう関連しあっているのか、正しく理解するべきです。


アーナーパーナサティの段階的な結果

 それぞれの段階の間に関連があることを知らなければならないだけでなく、次にこのアーナーパーナサティバーヴァナーと四念処と七覚支、明と解脱の四つの関連についても知らなければなりません。これに関わる事実関係は、パーリ(ブッダの言葉である経)にブッダバーシタ(仏説)の形で入っています。

 「アーナーパーナサティに精励すれば、当然四念処を完璧にする」

 「四念処に精励すれば、当然七覚支も完璧にする」

 「七覚支に精励すれば、当然明と解脱を完璧にする」とあります。

 私たちは見て、本当の実践である、タンマを知らなければなりません。本当に実践できる物でもあります。だからナックタム(比丘の試験の)学校でアーナーパーナサティの教科で教えているのは、呼吸を意識することを教え、つまりその場しのぎで、先生自身が呼吸を意識するように教えられたとおりに教えるだけです。

 最高に良くて「長い息を長く、短い息を短く」までです。みなさんはマッヂマニカーヤ(中部)の中のアーナーパーナサティ経で全形を教えられていません。学校で勉強しているアーナーパーナサティは、解説書の十の部にある十アヌサティの一つでしかありません。

 一方、四念処はタンマである学習、あるいはもう一つの実践課程です。それは四の部の中にあるので、段階順に勉強しなければならず、十の部の前に四の部を教えます。だから四念処が、まだアーナーパーナサティについて話さないのに教えられています。

 これを「教科書だけ教える」と言います。どんなに詳しく四念処を教えても、実践に使うことはできません。実践の流れを説明してなく、見出しの項目を教えて暗誦させるだけだからです。

 四念処を教えるには「体は動物でも、人・自分・私・彼でもない。受は動物でも、人・自分・私・彼でもない。タンマも同じ」と説明をします。そして法随観念処を、五蘊、六処などは動物でも、人・自分・私・彼でもないと説明します。教えるのはこのような言葉を順に並べるだけです。

 七覚支の話まで教えてくると「サティはこう、タンマヴィチャヤ(択法)はこう」と、パーリ語の語句で教えます。こうしてパーリ語について教えるのは、教える人も楽です。

 七つの項目について教えるのはまだマシで、その七項目が多少は関連し合います。しかし最後の項目になると、捨は、それがどこから来てどこへ行くのか知りません。当てずっぽうに、捨とは何も感じないこと、何も興味がないことと説明します。明や解脱というタンマになると、お決まりのように涅槃について説明します。

 こういうのを「パリヤッティ(三蔵の勉強)のように詳しく説明しすぎる」と言います。実践とは関係ないので、関連事項について説明する必要はありません。本当に実践した時にそれが生じないで、何か妨害が出てきます。どの段階のどの名前のタンマも、妨げてはいけません。本当に実践しなければならない話だからです。本当にやって見れば、その名のタンマが現れます。

 ここでは、試験のためだけに詳しく説明するパリヤッティ(三蔵の学習)については話しません。三蔵のマッヂマニカーヤ(中部)のアーナーパーナサティ経にそって実践の話をします。この経は、アーナーパーナサティはこのように完璧に行う実践規則と規定しています。そしてそのようにできるようになると、四念処が自然に、完璧に生じます。

 四念処が完璧になれば、自然に七覚支も完璧になり、七覚支が完璧になれば、明と解脱が自然に生じます。だから私たちの勤めは、この課程にそって完璧にアーナーパーナサティを実践することだけです。


アーナーパーナサティからどのように四念処が生じるか

 アーナーパーナサティが完璧なら、どのように四念処が生じるかは、既に説明した実践の四部を見ることができます。

 カーヤーヌパッサナー(身随観)。体(つまり呼吸)に関する実践。ブッダが言われているように呼吸は体です。そして呼吸が体を変調させることを「カーヤサンカーラ」と言い、体と一緒に上下します。呼吸を管理することは体を管理すること、体を管理することは呼吸を管理することです。だから私たちは呼吸に依存して体を通した方法で管理します。それは体を管理するより簡単です。

 だから呼吸を静めるとカーヤサンカーラが静まり、体も静まり、サマーディである結果があります。四つの禅定があるアッパナー(安止)サマーディかもしれません。あるいはアッパナー(安止)でなく、ウパチャーラ(近行)サマーディだけかもしれません。これを十分以上に十分なカーヤーヌパッサナーサティパターナ(身随観念処)と言い、サマーディが生じます。

 サマーディが生じれば自然にヴェーダーヌパッサナーサティパターナ(受随観念処)の部になります。サマーディにはヴェーダナー(受)である味、つまり喜悦と幸福があるので、ここで受について知るだけでは十分ではなく、受が心を変化させることを知り、受による変化を知ります。

 パーリ(ブッダの言葉である経)を基準にすれば「動物、人、自分、私、彼ではない」という言葉はありません。次々に言い継がれているだけです。そしてそれ自体には、最後まで動物も人も自分も、私彼もなく、動物、人、自分、私、彼、という取も煩悩もありません。

 パーリのその部分は「ウィネーヤロケー アピッチャー トーマナッサ」というような結果を表しています。動物、人、自分、私、彼はないという、実践者の教科書にあるような名は挙げていません。いずれにしても同じ内容です。アピッチャー(貪欲)とトーマナッサ(憂)が抜き出されれば、取も抜き出せるという意味です。アピッチャーとトーマナッサは取の結果だからです。

 次は心を見ること、心を知ることから、心を管理することまで含めて、チッターヌパッサナーサティパターナ(心随感念処)と呼びます。それから第四部であるタンマーヌパッサナーサティパターナ(法随観念処)で四つの状態のタンマを見ます。これは四念処がアーナーパーナサティ16段階の中に揃って生じたということです。

他で述べられている、たとえばディーカニカーヤ(長部)の大四念処経などでは、四念処については十分でなく、名前だけで説明がありません。理解という点で捨て置かれているだけでなく、その中に明と解脱についての記述を探すのは非常に困難です。

 つまり聖諦の一つである滅苦という言葉に隠されていて、隠れているだけの小さな項目です。パーリ(ブッダの言葉である経)の中の四念処についての記述で、無常を見、ヴィラーガ(離欲)を見ることがどこにあるのか探したいと望めば、非常に理解しがたい問題で、見つかりません。しかしアーナーパーナサティ経でははっきりと述べられています。

 実践課程のアニッチャーヌパッサナー(無常随観)、ヴィラーガーヌパッサナー(離欲随観)で明示されています。だから先ほどの経は実践するためには不完全と言えます。実践の系統ではありません。それは学習目録でしかありません。

 完全な四念処の実践は、アーナーパーナサティ経の中で述べられているようでなければなりません。つまりアーナーパーナサティが完璧なら、四念処も完璧になります。全16段階を実践してみれば「完璧な四念処がある」と信じること、あるいは述べることができます。


四念処からどのように七覚支が生じるか

 次は四念処が完璧なら、どのように完璧な七覚支が生じるのでしょうか。ナックタム(比丘の試験)の勉強をしたことのある人ならすぐに答えられます。サティはどこにあるか。タンマウィチャヤ(択法)は七覚支の中のどこにあるか。「アーナーパーナサティの全16段階がサティです」と言っています。それがサティで、本物のサティを意識しています。

 次は択法(正法を選ぶこと)はどこにあるか。このタンマを広く調べることは、アーナーパーナサティの第3段階から最終段階まで、明らかにあります。択法は第3段階から現れ始め、次第に強くなり、完璧になるのはアニッチャーヌパッシー(無常随観)以後です。

 七覚支の正しい努力、七覚支の精進はどこにあるか。ほとんど言う必用はありません。このように16段階までしてくれば、その中に精一杯の努力があるからです。

 正しい七覚支の喜悦は、アーナーパーナサティの第5段階から借りることもできます。しかしこの喜悦は、今まで実践し成功したどの段階のどの部分にもあると見なすべきです。

 一方パッサッディ(七覚支の軽安)、静まることは、アーナーパーナサティの実践の段階に「パッサムパヤン」という言葉が何度も出てきます。息を吸うのもパッサムパヤン、息を吐くのもパッサムパヤン。つまりパッサッディ、軽安のことです。

 サマーディ(七覚支のサマーディ)の話は、戒のように常にあると言うことができます。つまり集中、あるいは自分を強制して何らかの行為をさせることを持戒と言い、何らかの静まった状態をサマーディと言います。そして智慧はそれぞれの段階で熟慮する中にあります。だからサマーディは完璧にあります。

 次はウベーカー(七覚支の捨)、平然を維持しているという意味ですが、これは各段階を正しく維持すれば、いろんな物は自然にそうなります。あるいはそれ自体が自然にそうなります。ここで言う捨は、感情を捨てること、あるいは苦でも幸福でもない状態と捉えないでください。大きな隔たりがあります。

 七覚支の捨は、感情、あるいは幸不幸などの捨にしないでください。あるいはアーナーパーナサティの第4段階で生じた禅定の捨と見ないでください。実践が軌道に乗ったらそのまま維持管理すると、自然にバーヴァナー(繰り返し習って修得すること)を繁茂させる捨です。

 たとえば馬と車が道とぴったり合っている時は、手綱を握っているだけで、何もする必要はなく、馬はきちんと目的地まで走って行きます。このような状態を「七覚支の捨」と言います。何か大変なことに取り組む必用はありません。平然と綱を握っているだけで、馬と車と道路は、それ自身の話になります。つまり馬車は感じなければならない所、あるいはまた別の関心を持たなければならない所まで走って行けます。

 だからここで言う捨は、見ているだけという意味です。成り行きに任せて、見るだけです。これはどの段階のどの部分にもあります。正しい実践を手放して成り行きに任せます。樹木を育てることと同じで、みなさんは木が育って行くのを見守るだけで、支配できません。

 これを七覚支と言います。パティサンピターマック(無礙解)の中のこれに関する項目は、同じように述べられています。それぞれの段階がはっきりと細かく、必要以上に細かく分かれています。これくらいで十分です。


七覚支は明と解脱を完璧にする

 完璧な七覚支が、明と解脱を完璧にする部分も、捨の系統で経過します。すべての実践を正しくすれば、それは完璧な七覚支が揃うからです。そして最後まで捨があり、パティニサッカ(振り落とすこと)です。不確実であること、無常を見、見守るだけで、自然にどんどん成長し、ある時ヴィラーガ(離欲)に至ります。良い実践と習性がある人なら早く行くことができ、実践しなければならない距離も短くなります。

 しかし捨がどれほど重要かは、自分で管理できない点にあり、私たちの義務は正しくすること、そしてその正しさを維持するだけです。それを捨と言います。無常という見方をヴィラーガ(離欲)が生じるまで維持します。欲望が薄れることであるヴィラーガ(離欲)が生じれば、必ず滅尽が生じます。

 私たちは何もしなくても、自然に滅すに違いありません。述べたような捨があっても、確実に滅が生じます。パティニサッカ、振り落とすことも必ず生じます。だから捨はどの段階のどの部分にも、何らかの形であります。同じでなくても、意味は同じで、つまり自然の成り行きに任せます。このように学術的にも技術的にも正しいと見ることができます。

 すべてが揃っているこの実践は、学術的にも技術的にも正しいので、マッヂマニカーヤのアーナーパーナサティ経を基準にします。三蔵経のすべてを探しても、この経ほど完璧に実践課程を説明したものはないからです。


アーナーパーナサティ第一部の解説

 マッヂマニカーヤの「アーナーパーナサティ経」という名の経のアーナーパーナサティ第一部

 第1段階 長い息を吐いた時、吸った時に知る。

 第2段階 短い息を吐いた時、吸った時に知る。

 第3段階 一呼吸ごとに「すべての体」を知る。

 第4段階 一呼吸ごとに「カーヤサンカーラ」を静める。

 第1段階、第2段階は長い息・短い息で、第3段階になると呼吸の代わりに「すべての体」という言葉が出てくる点を観察してください。この段階で「呼吸は体」と知らなければなりません。ブッダもそう言われています。ここでは、言われたことをそのまま受け入れるのではなく、体が荒ければ呼吸も荒い、呼吸が滑らかなら体も穏やかと見ます。二つは並行していて、一緒に上下します。

 だから呼吸は体、体は呼吸です。時にはプラーナ(気息、命)、あるいはパーナ(生き物、息のある物)と言って、呼吸を命とすることがあるのと同じです。どちらも呼吸という意味です。息のない物は生きてなく、生きてない物は呼吸がないので、呼吸は命です。これも同じで、体は呼吸、呼吸は体。同じ関係、同じ物です。呼吸は体の一種とブッダが言われたのにふさわしく、一緒に上り、一緒に下がります。

 述べた限りでは、すべての体を知るという言葉には、少なくとも三種類の意味があります。

   息は体の一種、が一つ。

   息は体を変調させることが一つ。

   息は体と一緒に変化するので体と関連していることが一つ。

 これで十分です。長い短い、あるいは何か、何があるかを知るのは、第1段階、第2段階で知ったことを第3段階でまとめたということです。短いと知り、長いと知り、生じたと知り、始まりを知り、真ん中を知り、あるいは呼吸のどこに何があるかを良く知ります。第1段階第2段階から、あるいは一緒にしてもかまいません。

 しかしこれは第3段階の義務ではありません。第3段階では、ブッダは事実、特に呼吸は体を変化させる物(カーヤサンカーラ)と知らせることを意図されています。これが、呼吸は体を変化させるという、第3段階の重要点です。(後の体は、身体全部という意味です)。

 長い息、短い息について述べた第1段階第2段階を、呼吸と言います。第3段階になると、呼吸は「すべての体」と呼び、第4段階になると呼吸は目一杯「カーヤサンカーラ」と呼ばれてしまいます。本当は同じ物です。それぞれ違った状態や働きを見るので、いろんな呼び方をします。

 次にどうしたらカーヤサンカーラ、つまり呼吸を静めることができるでしょうか。パッサムパヤンという言葉は静めて、静かにして、静かに静めることです。これは、体と呼吸は関連し合っていて、体が静まれば呼吸も静まり、呼吸が静まらなければ体も静まらないと言いました。

 だから呼吸を静める方法を探せれば、体は自然に静まります。ここで、特に呼吸を何としても静める実践方法があります。要旨は非常に短く、呼吸を穏やかにします。呼吸が穏やかになれば体も穏やか、つまり静まり、体温も下がり、血流も、呼吸も穏やかに穏やかになります。

 最後は呼吸していると感じないと言われるほどになります。これは第四禅です。ここではそれほどする必要はありません。ただ息を静めて、静かなサマーディが生じるだけで十分です。

 パッサティという言葉はサマーディと同じで、定に至る必用はありません。いつもアッパナー(安止)サマーディに達する必用はなく、ウパチャーラ(近行)サマーディでも良いです。だから一段階静めれば、体が静まったと言い、すべてが冷え、静かになります。それが原因で心も静かになります。これをここではサマーディと呼びます。

 通常心はサマーディになろうとしません。自然の状態は、加工することがあるので、つまり眼や耳や鼻、舌、体からいろいろな感覚の妨害が入って来るので、これを妨害、あるいは加工すると言います。自然に静まることは滅多にないので、心は非常に疲れて疲弊しています。このように必用性があって静めるのは、実践の数に入れません。自分がしたのではないのと、支配下にないからです。だから私たちの実践は管理します。


呼吸を知らなければならない理由

 何より先に長い息、短い息について知らなければならないのは、長いのが荒いこともあり、短いのが荒いこともあり、長いのが穏やかなこともあり、短いのが穏やかなこともあるので、次の段階で呼吸を穏やかにしたいからです。

 なぜ「長い・短い」に分けなければならないのかという疑問に対する答えは、外部の縁次第と知るためです。怒りや恐怖などの外部の縁が私たちの感情を悪くすれば、呼吸は短くなります。しかし感情を害す物が何もなければ、呼吸は長くなります。呼吸が短い、あるいは頻繁ということは、感情に異常があって変調したという一つの事実を得ます。

 だからあまり加工されていない時は、呼吸は長くて穏やかです。それに心をいろんな角度から上手に訓練したいので、長いのと短いのと、両方を意識する練習をします。長い息も良く意識でき、短い息も良く意識でき、短い息を上手に意識できれば、悪い感情の威力の上にいることを意味します。このように呼吸を短くする悪い感情をやっつける実践から始めます。

 便利なのだけにし、呼吸を楽にして、そして意識すれば簡単です。だから普段より長くして、それを意識し、普段より短くして、それを意識します。

 どれくらい長く、どれくらい短いかという問題は、自分が意識して知る話です。(パチャーナーティ)。どれくらいがその人にとって長いか、どれくらいがその人にとって短いか、どれくらいを「すごく長い」と言うか、どれくらいを「すごく短い」と言うか、他の人には違う基準があるかもしれません。だから最高に長い息をするよう努力してみてください。

 息を最高に長いする話は、吸気を最高に長くすれば、下腹部は却って平らになり、胸のほうが大きく脹らみます。そうならなければ、最高に息を吸ったとは言いません。普段私たちは下腹部がへこむほど長く息を吸っていないので、息を吸うと腹が脹らむと感じ、息を吸うと腹が脹らむと勝手に決めつけています。

 本当は、息を最高に長く吸うと腹は平らになり、上の胸のあたりが脹らみます。そこまでいったら最高に長いと言います。だから最高に長いとはどのようか、本当に知りたければ、まっすぐに座って、死ぬほど長く息を吸ってみれば、腹が平らになると知ります。

 そして上部が脹れるまで吸い込みます。これを知り尽くすと言います。最高に長い息はどのようか聞く必要もなく、他人が言うことを信じる必用もありません。自分で試してください。

 述べた状態で長い息と短い息を意識することを、アーナーパーナサティと言います。常にサティがあり、途切れません。サティと呼吸が繋がっています。知識(明)は第3段階から生じ始めます。知るとは、ここでのパティサンウェーティーを智慧と呼ぶことができます。

 智慧には二つの智慧があることを思って、見えるようにしなければなりません。初めに必用な智慧(正しい見解)は、他のすべての実践より前にあるべきです。これは憶えておかなければならない最も重要な原則です。今述べている、第3段階で生じたばかりの智慧は初めの智慧に次ぐ二番目の智慧で、呼吸についてだけ知ります。初めの智慧は、私たちに興味をもたせた智慧を意味するので、この方が広いです。

 アーナーパーナサティをしなければならない、あるいは仏教に興味をもってお寺へ来たのは、これが良いと知る智慧があったからです。こういう智慧は、当然先にあります。そして第1段階を始めると、持戒と呼ぶ、強制する行動をします。

 心に何か一つの物に注目する感情があることをサマーディと言います。しかし何かについて知る智慧はあまりなく、ただ知るだけです。長い息を知る。短い息を知る。だからパチャーナーティという言葉を使います。明らかに知る、あるいは染みるように知る(パティサンヴェーティー)、あるいはそのような何かではありません。

 何かを知り始める智慧、「呼吸は体」などと知る智慧を、智慧である知識と言います。そこで呼び名をパティサンヴェーティーと変えます。ここで用いるパチャーナーティはただ知るだけです。

 アーナーパーナサティの全16段階の、第3段階以降はパティサンウェーティーで、段々に智慧が増えます。もう1段階多くなるとアヌパッシー(観)になります。13段階以降は最高に知ることで、ニャーナダッサナ(見智。真実を見る智慧)です。要するに智慧の部は第3段階から始まって、次第に増えていきます。

 第1段階、第2段階は戒とサマーディだけで、第3段階から戒とサマーディと智慧になります。しかし戒・サマーディ・智慧の三つ、あるいは次の三つでも、もっと前からあったということもあります。何か実践しなければと思い立ち、そしてアーナーパーナサティを始めるに至ったのは、最初の智慧の力によります。それは一般的な知恵で、今話している三つとは関係ありません。一緒にしないでください。


呼吸の意識し方

 長い息の時どこにサティを置き、どうして長いと知るのか、サティがあまり追い駆けなければ、どうして長いと知るのかという観察点があります。だから話は、サティは長さにあることです。初めの段階は、サティは呼吸にあると見なし、一つの仮定した場所から始まって、もう一つの仮定した所で止まります。

 その人の好きな場所、あるいはそう感じる所で、ほとんどは鼻先を外部と仮定した一点とし、臍を内部と仮定した一点とします。しかしそう感じない人もいるので、その人の気に入ったようにすれば良いです。

 テキストの中には非常に詳細な説明があります。鼻が上を向いている人は違う所、別の辺りで感じ、もっと上を向いている人は息が当たる場所がありません。潰れた鼻の人は唇の端に当たります。臍のところも仮定で、振動が臍の所で止まるという意味です。人間は肺で呼吸しているという知識のある人は、当然肺で止まらなければなりません。それは身体の話、生理学の勉強であり、生理学的事実です。

 しかし私たちの場合はタンマの実践の話なので、別の話です。だから意識しやすい物を基準にします。呼吸の振動がどこかで止まると感じたら、そこで呼吸が止まると見なします。ほとんどの人が臍を呼気の最終地点としています。吸気は鼻から始まって臍まで行き、呼気は臍から始まって鼻まで行きます。このように一対になっています。

 次は長いと言われる呼吸です。一点からもう一点までの距離は一定ですが、呼吸にかかる時間が長いのを長いと言います。短い息と言うのも距離は同じで、かかる時間が短いという意味です。あえぐような呼吸なら短くて、息も時間も少ないです。しかし距離は同じです。

 初めに長い息を意識するか、短い息にするかは、重要な問題ではないので、どちらでもかまいません。強制する時は、どちらも強制するからです。長いのも短いのも強制して、見て知ります。これが一つ。

 あるいは自然に呼吸して、なぜ短いか、なぜ長いか観察します。このようにするのが一つ。すべての体という言葉の、ここで言うすべてとは、すべての種類の呼吸について、普通の長い短いはどのようか、強制した長い短いはどのようかから、体を変調させる呼吸の義務、呼吸の仕事、体との関係まで、呼吸に関する事実関係を知りますす。


一般人のための実践の近道

 何らかの必要があって、サマタの実践を十分やりたくない人の場合は、直接ヴィパッサナーの第13段階へ飛び級することができます。しかし心を適度に静めるために、アーナーパーナサティの第3段階の目的である、呼吸を滑らかにする方法を適度に知る基礎は必用です。それから第13段階の技法で、無常などを意識し始めます。

 一般の人は、アーナーパーナサティの16段階に関わる、パティサンビダーマック(無碍解道)の解説に示されているような技巧的な実践をしたがりません。教育が少ないとか、歳を取りすぎたなどという理由で実践ができないからです。その人たちは第1段階を始めて、第2段階、第3段階をして、呼吸の扱い方を詳しく知るだけで、身体がある程度静まったら、実践の第13段階の、無常・苦・無我について考え始めます。

 通常一般の人は技巧的な実践方法をしたがらず、説明した完全技法16段階の技法でするより、当然この近道の方が向いています。しかし今は、アーナーパーナサティ完全技法について話しています。そして完全技法以上の物はありません。

 この完全技法でも禅定に達したり達しなかったりという問題があります。第4段階で、パティサンビダー(卓越した智慧。四無碍解)の道へ向かうすごく良くできるグループと、最後までできないグループの、二つのグループに分かれます。

 禅定が生じないグループはスッカヴィパッサカ(体が干乾びるまでヴィパッサナーをして阿羅漢になる人。乾解脱)の道を行きます。一般市民なら三相の実践を勧めます。直接第13段階に入ることができるからです。

 しかし西洋人はこういう手っ取り早い方法を欲しがりません。学ぶべき学術体系、あるいは興味深い妙策でないからです。だからみなさんは完全技法を学ばなければなりません。


第4段階だけの近道

 第4段階の実践は、すべてのアーナーパーナサティの実践の中でもっとも厄介で困難な所です。アッパナー(安止)サマーディにし、禅定を生じさせる部分が難しいです。

 この第4段階だけの抜け道である実践をしたい人たち、つまりアッパナー(安止)サマーディ(高度なレベルのサマーディ)が生じるまでする必要のない人は、ウパチャラサマーディ(三昧に達しないサマーディ)を生じさせるだけでも、第5段階、第6段階で熟視する十分な量の喜悦と幸福があります。

 それから十分その段階を実践し、そして同じように、最終段階に到達できるまで第13段階のアニッチャーヌパッシー(無常随観)を本気でします。これが第4段階だけの抜け道です。


第4段階を始める前に第3段階の事実を十分に知る

 アーナーパーナサティの第4段階でカーヤサンカーラを静めるのは、初めから話しているように、通常身体は、自然な状態としてガサガサしています。呼吸も自然な状態の一つとして、多少荒れています。それらの自然な状態を良く知って、緻密に穏やかにします。「静める」とはどんどん穏やかにしていくことです。第4段階のこの行動を飛ばすことはできません。

 アーナーパーナサティを実践する人は、第1段階と第2段階で長い息と短い息について十分に知ってしまわなければなりません。それから第3段階をします。第3段階の実践は、呼吸の事実をすべての角度から知ります。しかしそれを知っている人はあまりいません。少なくともみなさんは、特に呼吸は体と関連があると知ってください。

 一緒に荒くなって一緒に穏やかになり、一緒に昇って一緒に降ります。あるいはそのようなことです。それを知らないまま第4段階で呼吸を穏やかにしても、体は自然に静まり、ここで知り始めます。あるいはここで第3段階の知識が増えます。それまで知らなければ、呼吸が静まると体も静まると、ここで自然に知ります。

 体温も下がり、ガサガサした気持も減ります。それまで知らなかった人にとっては、第4段階の実践が第3段階の知識を与えると言うことができます。これでは実践は順調ではありません。だから第3段階の知識を十分身につけるべきです。時間と手間の節約です。


カーヤサンカーラを静めるコツ

 長い呼吸と短い呼吸について知ったら、適当に長い息を初めの一つの状態として選び、このように長い息の時、身体はどうかを意識します。もし身体が十分に静まらなかったら、もう少し長くしても良いです。長くなればなるほど簡単に静められます。これが一つ。

 次は滑らかさを意識して見ます。呼吸を滑らかにした分だけ静めることができます。強制的により長くし、より滑らかに、つまり弱くします。無理にしていると感じたら無理でなくなるまで、次第に穏やかにします。これがもう一つ。

 長い息は荒いこともあり、滑らかなこともあります。次に呼吸を滑らかにした時、体も静まり気分も静まると知っておかなければなりません。

 次にもっと静める方法は、私たちがニミッタと呼ぶ一点を意識します。意識するサマーディがあれば、意識するニミッタを作り、もう一段穏やかにします。呼吸が長くなればより穏やかになります。次に長さを一層滑らかにすれば、呼吸は一層穏やかになります。この段階をパリカンマニミッタ(遍作相)の呼吸があると言います。

 次にニミッタを使い、息が当たる所、あるいは息が当たる所にイメージした概念を用います。ウッガハニミッタ(取相)、あるいはパティバーガニミッタ(似相)は呼吸の代理で、これを呼吸の代わりにニミッタを使うと言います。このニミッタを微妙にできるた分だけ、呼吸も静まります。だからサマーディはパティバーガニミッタ(似相)の時に生じ、最高に静まり、体も最高に静まり、禅定の段階に達します。


ニミッタについて、簡単に

 ニミッタについて適度に理解しておきます。実践の最初では、体内の空気の通り道全部、一点から一点まで(つまり鼻先から臍まで)を、呼吸を意識する基点として使いました。一点から一点まで時間が掛かれば長い息と呼びます。その時の心にある感情が悪ければ、この長い息はガサガサしています。あるいはハアハア音がするほど息を荒くしても、これを長いと言い、荒いとも言います。

 長くして繊細で静かに、ほんの少し感じるだけにすれば、穏やかで長いと言います。長ければ長いほど静まり、穏やかになります。これを、呼吸そのものを意識するニミッタにする部分が終わったと言います。パリカンマニミッタ(遍作相)と言います。


心とニミッタである呼吸の繋ぎ方

 始めたばかりの時は、気道で心を意識できるのは短い間で、心はすぐに逃げ出してしまいます。だから鼻先から臍までの全区間を通して、心、あるいはサティ(呼び方次第)に息を追い駈けさせなければなりません。呼吸がどこかまで届いたら、心、あるいはサティがそこまで追い駈けたと意識し、感じます。息を吐く時は、心、あるいはサティは再び息を追い駈けて戻ってきます。これを「サティは心と呼吸を繋ぐ物」と言います。

 これが、この行動をヨーガと呼ぶ理由です。ヨーガとは「繋ぐ」という意味です。つまり一つの物をもう一つの物と結んで繋ぎます。ここではサティが心を呼吸を繋ぐという意味です。この段階では呼吸がニミッタで、牛を繋いでおくために打ち込んだ杭と同じです。

 心は子牛、あるいは調教するために捕らえられた野生の牛のようで、サティは牛と杭を繋ぐ綱のような物です。だから常に自然にある呼吸は杭のような物です。みなさんの心は牛のような物で、意識して知るサティはすべてをまとめる紐のようなので、ヨーガと言います。つまり牛を杭に繋ぐように心と呼吸を繋ぎます。

 サティが呼吸を追い駈ける段階は、確実にこの段階を習熟したと言えるようになるまでしなければなりません。これがパリカンマニミッタ(遍作相)の段階です。意識する物(直接呼吸)との必死の格闘を、ここで一段階終わらせます。

 先を急がないでください。この段階ができなければ、まだ先へ進まないでください。確実に満足できるまで、じっくり取り組まなければなりません。次の段階に進む前に、サティで呼吸に繋いだ心が、次のようにできるかどうかテストして見ます。

 心が言うことを聞くか、感情(意識する対象)と一緒にいるか、逃げないか。全部できれば良いと言います。他の場所へ逃げ出すことはありません。初めも、途中も、終りも逃げる機会がなく、逃げられなければ、この段階が成功したと言います。


ウッガハニミッタ(取相)の段階の心の繋ぎ方

 次の段階では、注意深くすることを知り、賢くなります。心が従うようになったので、一点に注意するだけで十分です。追い駈ける必用はありません。これを著者は子供を寝かせることに譬えています。子供がまだ寝ないうちは揺りかごから落ちるので、子守りをする人は行ったり来たりする揺りかごを、始終目で追わなければなりません。

 しかし子供が少し眠くなれば、籠が目の前を通る時見るだけで、初めのように首を振って見ている必要はありません。今、みなさんは初めのように意識するサティを振り動かして、始終上下しません。一ヶ所にウッガハニミッタ(取相)を作って、そこだけを見張ります。そこで見張ることができれば、非常に支配できると言います。

 つまり心が言うことを聞き、非常に穏やかになり、とても静まります。これを「より緻密で繊細な新しいニミッタを作った」と言います。繊細で穏やかなニミッタで、心も一層穏やかになり、呼吸も繊細で滑らかになり、心も同時に静まって穏やかに繊細になり、体も穏やかで繊細になります。

 述べた点を意識する練習をしなければなりません。ある一点を息が入る時も出る時も、心が逃げ出す機会がなければ、ウッガハニミッタ(取相)の段階で意識することに成功したと言います。つまりウッガハニミッタ(取相)を課題にします。息が当たる場所をウッガハニミッタ(取相)として使うのは重要な話なので、じっくり練習しなければなりません。


ウッガハニミッタ(取相)とパティバーガニミッタ(似相)の関係

 この段階に成功すれば、つまり息が通過する時を意識して、心がいつでもそこにあり、どこへも逃げて行かなければ、この部分に成功したと言います。次はパティバーガニミッタ(似相)と呼ぶ段階に入り、ウッガハニミッタ(取相)からパティバーガニミッタ(似相)に変えます。つまり本当にある物から、感覚の中で作り上げた物の感覚に変えます。

 ここは重要なところで、とても緻密で微妙で、特別な物があります。神経で感じる感覚でなく、すべてイメージの感覚です。それはただの点、またはどんどん形を変える何らかの丸い物で、もう呼吸ではありません。

 今後は通過する呼吸の感覚や荒さや緻密さの練習はしません。いろんな感覚は極少ししか残っていません。残っているのはその人の気持の傾きに応じてクルクルと形を変える一点の感覚だけです。だからその人の感覚の中で、そこを新しいニミッタを作る完璧な場所にすることができるので、それをパティバーガニミッタ(似相)にします。

 これは重要な話であるのと、非常に理解しにくいので、まとめとしてもう一度復習させていただきます。

 パティバーガニミッタ(似相)は呼吸ではないということ。息が当たる感覚ではなく、作り上げた何らかのイメージの感覚です。パティバーガニミッタ(似相)まで来たら、ここを緻密に繊細にします。

 たとえば白い星のような物がそこにあるように感じます。呼吸でも体でもなく、そこに水晶玉があるように見ることができます。そうできるように、成功するようにします。まず完全なウッガハニミッタ(取相)にします。

 次にパティバーガニミッタ(似相)に変えるなら、水晶に見えている物を大きくしたり小さくしたり、浮かしたり、すごく浮かしたり、他の形に変えることもできます。それは、より微妙に緻密にすること、より支配できること、より支配下におくことができるという意味です。この段階になれば完全なウパチャーラ(近行)サマーディで、それ以上なら完璧なアッパナー(安止)サマーディで、禅定です。

 パティバーガニミッタ(似相)が完璧なら、少なくともウパチャーラ(近行)サマーディにすることができます。もっと良くできれば、初禅、二禅、三禅、四禅が続いて生じるアッパナー(安止)サマーディになります。このパティバーガニミッタ(似相)は、雲の固まりに見える人もあり、蜘蛛の糸に見える人もあり、人によりけりで、人によっては何種類もあります。

 要するに呼吸ではなく、体でもなく、元からある物ではなく、ウッガハニミッタ(取相)として新たに作った物です。次にそのニミッタが形を変えたら、それがパティバーガニミッタ(似相)で、それまでの物より緻密で、変化が非常に早く、心の傾きに間に合います。


アーナーパーナサティ第一部のまとめ

 息を長く長く長くすると、呼吸、あるいは体は繊細になります。呼吸を穏やかにすると、体はより繊細になります。次にイメージしたニミッタを呼吸の代わりにする部分で、このニミッタが十分緻密に繊細に作られれば、呼吸、あるいは体も同じだけ穏やかになります。

 ウッガハニミッタ(取相)の時、そのニミッタはパティバーガニミッタ(似相)より粗いと見なします。パティパーカニミッタを生じさせると、そのニミッタはしばらくの間、心の感情になり、呼吸、あるいは体はより一層穏やかになります。ヴィタッカ(尋)・ヴィチャーラ(伺)などの禅定の感情を引きとめておく所に来たら、パティバーガニミッタ(似相)と一緒に意識する感情にします。呼吸、あるいは体はより一層穏やかになります。

 パティバーガニミッタ(似相)を引き抜く段になったら、ヴィタッカ(尋)・ヴィチャーラ(伺)などがある禅定の感覚だけを残し、呼吸の緻密さ、穏やかさと、体の静まりと見なすものは、初禅など自分が求める状態に重ねておきます。心は繊細に静まり始め、最後にサマーディになります。

 ウパチャーラ(近行)サマーディの状態、あるいはそのままアッパナー(安止) サマーディということもあり得ます。人によって違います。だからカーヤサンカーラ(身行)を静める第4段階は、述べたような方針でします。

 まとめると、

 息を長くすることで静まる。

 穏やかにすることで静まる。

 普通のニミッタを換えることで静まる。つまり呼吸をイメージしたニミッタにする。

 イメージしたニミッタを、パティバーガニミッタ(似相)を生じさせるまで緻密にすることで静まる。

 そして最後は禅定である感情を引きとめて、パティバーガニミッタ(似相)の代わりにすることで静まる。こうすればウパチャーラ(近行)サマーディ、あるいはアッパナー(安止)サマーディになります。「カーヤサンカーラを静める」という言葉は、このような意味があります。


アーナーパーナサティ第二部の解説

 マッヂマニカーヤのアーナーパーナサティ経を原則にしようと決意し、その方針にしたがってアーナーパーナサティを実践するには、説明が不可欠です。たとえば全体の概要を見ておくことです。そして部分ごとに、各部ごとに詳細に理解すれば混乱しません。これから第二部について話します。つまりヴェーダーヌパッサナー(受随観)は次のようです。

 第5段階  喜悦を知り尽くして、息を吐き、息を吸う。

 第6段階  幸福を知り尽くして、息を吐き、息を吸う。

 第7段階  チッタサンカーラを知り尽くして、息を吐き、息を吸う。

 第8段階  チッタサンカーラを静めて、息を吐き、息を吸う。

 第5段階と第6段階の喜悦と幸福を知り尽くすことは、既に第4段階で説明したように、サマーディを得る点に注目してください。つまりパティバーガニミッタ(似相)を体験していればサマーディを得たと言います。

 ウパチャーラ(近行)サマーディも、アッパナー(安止)サマーディも、当然喜悦と幸福があります。喜悦と幸福は同じではありません。喜悦は満足することで、幸福は快いことです。心がまだ四禅に達していない初歩のサマーディでは、喜悦と幸福はアッパナー(安止)の最終段階まで、知るためにあります。つまり第四禅に達すと、喜悦と幸福はすっかり消え去ります。


アーナーパーナサティのウッガハニミッタ(取相)の特別な違い

 アーナーパーナサティの実践から生じたウッガハニミッタ(取相)は、他の技法から生じた物と違い、外部の感情(たとえばカシナ(十遍処)など)を使う念処のウッガハニミッタ(取相)のように目に焼き付くニミッタでなく、呼吸からイメージして新しく作り上げた概念であるニミッタです。カシナ(十遍処)などと違って形はありません。

 目を閉じても、作り上げたこのニミッタは内面の目、つまり心で見え、何らかの星が目の前に現れたように見えます。自分自身の体の頭のてっぺんから足の先まで、すべてを忘れているからです。体は何も感じませんが、概念として現れた星、つまり一点を感じていれば、何でもウッガハニミッタ(取相)と呼びます。

 これを拡大したり、変形したりできればパティバーガニミッタ(似相)と呼びます。それは内面に現れているので、この時の心は、その人の強い支配下にあります。ウッガハニミッタ(取相)の時の心はパリカンマニミッタ(遍作相)の時より支配下にあり、パティバーガニミッタ(似相)の時の心はウッガハニミッタ(取相)の時より、更に支配下にあります。


第一部と第二部の規則は同じか

 第一部カーヤーヌパッサナーサティパターナと第二部では、心が静まると喜悦と幸福が生じます。第5段階と第6段階ではこの喜悦と幸福をニミッタにし、息を吐いた時喜悦を知り、息を吸った時喜悦を知ります。しかし意識するのは第1段階、第2段階で呼吸を意識したように、呼吸を意識します。第7段階は第3段階と同じで、喜悦と幸福が心を変調させる感覚を知ります。

 第3段階ではニミッタ、呼吸は体を変調させる義務があると知りますが、第7段階では喜悦と幸福が心を変調させる義務があると知り、第8段階ではチッタサンカーラ(心を変調させる物)を抑制し、喜悦と幸福の影響力を弱め、変調を少なくし、心が考えたり捉えたりしないようにします。第4段階で「カーヤサンカーラ」の影響力を緩めたのと同じです。


ニミッタという言葉の意味
 ニミッタは第13段階までずっと変わり続けると見ることができます。第13段階になると無常の感覚をニミッタにしますが、人はニミッタと呼ばないだけです。ニミッタとは感じられている感情(対象)です。ニミッタと呼ぼうと、感情と呼ぼうと、無常の様相を見て真剣に確実に意識し、そしてその感覚を維持します。つまりそのような様相を明らかに見続けます。

 それらの結果を、意識する対象に使うこともできます。無常を見ることから生じた哀れみを意識するのは、無常を意識するのと同じです。だからニッビダー(厭離)を代わりにすることもできます。大きな原則をこのように理解してください。


アーナーパーナサティには色んな種類、いろんな由来がある

 このアーナーパーナサティ経のアーナーパーナサティは、正式であり、かつ完璧です。他の所でアーナーパーナサティについて述べているカンマターナ(業処)と呼ぶ物は、あるリストの中の一つ、十念の中の一つなどでは、このように説明していません。清浄道論も仏説であるアーナーパーナサティ経のように解説してなく、アヌサティ(念)について述べているだけです。

 他では、アーナーパーナサティの第4段階までしか説明がなく、第5段階より高い段階はありません。一番良く知られている大念処経のアーナーパーナサティパッパも、説明は第4段階までです。

 みなさんが実践規範にしているアーナーパーナサティ経の全16段階は真実と一致しています。喜悦、幸福の段階について、第5段階が先にあってこそアッパナー(安止)サマーディが生じると言う人がいますが、本当は第4段階で禅定、アッパナー(安止)サマーディを得て、それから喜悦と幸福を熟視します。

 これは、みなさん十分注意しなければなりません。生き残るのはたった一つ、つまりマッヂマニカーヤのアーナーパーナサティ経にある実践課程だけと思うからです。


第4段階の重要点

 説明してきた中で、第4段階が一番難しい段階です。興味をもって良く理解し、次の段階の実践に繋げてください。そうすれば大変ではありません。しなければならないこと、本気で真剣にしなければならないのは、この段階にあります。他にもありますが、この段階ほど苦労しなければならない本気の物はありません。他の部分は普通の困難で、まったく困難でないのもあります。


このアーナーパーナサティは現代の学生に向いている

 サマーディバーヴァナー、特に第四種の、つまり煩悩を滅すために実践する種のサマーディバーヴァナーとして、現代社会の人々に提示できるもの、理論としても実践規範としても欠陥がなく、学術的にも技術的にもすべて揃っているものは、マッヂマニカーヤのアーナーパーナサティ経の他にはないと、もう一度繰り返させていただきます。

 この経は哲学の面から見ても矛盾がなく、心理学の面から見ても矛盾はなく、論理学の面でも矛盾がありません。しかし実践一面についてだけ説明しなければなりません。心理学やら何やら説明するのは時間の無駄です。

 世界が進歩している時代には、理論的に合うことをしなければなりません。理論に合わないで反論されてはいけません。アーナーパーナサティ経に基づいた実践法をこのように理解し、そして実践してみれば、段階ごとに理解が深まること請け合いです。興味があっても一度に全部理解できなければ、段階ごとに理解します。して行くとはっきりし、明らかになる種類です。

 初めは呼気も吸気も長い息を知り、呼気も吸気も短い息を知ると明示します。これらがどのようかを知り尽くして理解するには、自分でやってみるしかありません。どんな呼吸があるか、どんな状態かを実際に知ります。長い息を本当に知ると同時に、長さの状態、長い原因、あるいは長いことから生じる反応は、長くないのとどう違うかなどを知ります。

 このように事実を探求しなければなりません。長いとはどういうことか、いつ長いのか、いつ短いのか、すごく長いのはどのようか、少し長いのはどのようか、何と関連しているかなど少しずつ知り、第4段階で、それが身体を変調させている事実を知ります。

 息が短ければなぜ短いか、短いのは普通ではないなど、息が心を支配していると知ります。長い時と同じように普通に意識することができます。息が短い時に、長い時と同ように意識できれば、その人は上手です。短い息は意識しにくいからです。つまり気持が正常でないので、気持が普通でない時に意識できれば、その方が上手です。

 一方第3段階の体に関する事実は、第1段階第2段階に全部まとまっています。呼吸を体と呼び、呼吸は体を変調させ、呼吸は体と関連していて、一緒に上り、一緒に落ちます。少なくともこの三項は明らかにしなければなりません。そうすれば第4段階の意味が分かり、カーヤサンカーラを静めることができます。

 最初からして行かなければ、訳が分かりません。第1-2段階では呼吸について話したばかりで、3段階では体について話し、第4段階になるとカーヤサンカーラの話になるようなのは、何がどう繋がっているのか知りません。それぞれ別の方向の道のようですが、本当は一つです。

 しかし本当は同じ物です。ある義務をする時はそう呼び、別の義務をする時は別の呼び方をします。だから第1-2-3-4段階は呼吸の話で、普通は呼吸と呼びます。体と関係してくると体と呼び、体を変調させるとカーヤサンカーラと呼びます。このようです。だからこの四段階全部が関連し合う一つの物で、呼吸である体の話です。

 第二部になると、ヴェーダーヌパッサナー(受随観)の部で、第一部と同じです。第一部は呼吸、あるいは体の話で、「呼吸はカーヤサンカーラ」と知ります。第二部は受の話で、受はチッタサンカーラと知ります。進め方はまったく同じです。呼吸はサンカーラであることを知り、それを静め、受はサンカーラであることを知り、それを静めます。二つの部はまったく同じです。

 第三部、チッターヌパッサナーサティパターナ(心随観念処)になると、規則が少し違い、心を知り、心を望みどおりに喜ばせることを知ります。第四部、タンマーヌパッサナーサティパターナ(法随観念処)になると聖果への到達について知りたいので、無常と苦と無我を見、執着が薄れていくと同時に苦も消滅し、煩悩と苦を放り投げたと感じます。

 これらはすべて、鎖のように繋がっている一つの流れです。話を換える必要はありません。初めから涅槃に到るまで続いている一つの実践です。話を換える必要はありません。他のカンマターナ(業処)に換える必用はありません。

 すべての段階、全課程がアーナーパーナサティです。アーナーパーナサティバーヴァナーは一つだけです。呼吸をしている時いつも、その感情の中で、ニミッタの中で、事実の中で、その行為の中で、生じた結果の中で感じているからです。これが理解しておかなければならない概要です。




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