優越感・ブッダ式精神分析(後)

 

 

 優越感と言うものの状態について理解する、あるいはこれを知るための十分な考察をしてきたので、つぎに直接犯罪あるいは悪事と言われるものについて考えてみましょう。ここで言う犯罪という言葉を、私は、社会に対して間違ったことをすることで罰を受けるにふさわしいすべての過ちと、そして悪業とは、自分にとって大きな間違いである振る舞いと定義します。しかし手っとり早く一緒にしてしまいます。

 五戒を犯すことを、次のように分類して見ます。

 殺生は手遊びのため、つまり優越感あるいは「私が私」と感じるアスミマーナ(排他心。自尊心)が、猿が虫を捕まえて潰して遊ぶように、何の価値ももないものに優越を求めることです。食べるために殺すのは、冒頭で述べたように、他を食べることで優越感を育てることです。自分の優越感だけが目的なので、他人の自我あるいは優越感に配慮しなくさせます。欲望あるいは飢えは、沸騰している優越感です。

闘いで勝利するために殺す場合は、百パーセント優越感の優越の欲求であることが顕著に表れています。自分を護るために殺すことは、物質的にも、抽象的つまり名誉を護るためでも、自分の優越感を護るためです。だから身を護るために殺すことも、優越感に根源があります。強制されて殺すことも、身を守ることが根源、あるいは自分のことしか考えないからできます。愛している人のために殺すことは、欲情の話で述べたように、愛している人が自分の優越感を増やしてくれるからです。だから私たちは、犯罪つまり殺害は、直接優越感の欲求から来ていると見ることができます。

 恨みを晴らすために盗むのは、護るために戦って殺すのと同じで、自分の優越感を増やすため、あるいは護るための戦いの一種です。食べるため、あるいは職業として盗むのは、食べるために殺すのと同じで、優越感を護るためです。習性で愉しみのために盗む人は、他人のことを考えずに自分の優越感を喜ばせる類です。

怠け者で暮らしに困って盗むのは、優越感のことしか考えないからです。怠惰は、本当は間違った方法で自分の優越感を大事にすることだからです。強制されて盗むのは、誰かのために殺すのと同じで、強制する人に自分の優越感を育ててもらうためです。だからすべての盗みの本当の根源は、優越感を求めることです。職務その他で不正を働くことは、横領して不正に自分のものにすることなので、盗みの中に含めます。

 性的な間違った振る舞いのほとんどすべては、周囲から際限なく喜ばされたい優越感の要求が原因です。性的な間違った振る舞いは大人に限ったことではありません。性の感覚のない小さな子供にもあると見なさなければなりません。つまり他人が大切にしているものを持って撫で回すなどして侵犯することです。例えば一人の子供が人形、あるいは鉛筆でも何でも、自分の物をすごく愛していたら、もう一人の子供は、掴むなどして侵してはいけません。持ち主である子供は、誰かが自分の妻に言い寄っているように感じます。

だから子どもに五戒の三番目を守らせるには、小さな子供でも、つまり「他人が愛しているものは何であれ、侵してはいけません」と、このように意味を説明してやらなければなりません。他人が愛している物の領域を犯すことは、限界を超えて流出した、あるいはどんな手段でも喜びを受け取ることで自分の優越性を見せることに限度のない優越感の願望です。

仕返しのために侵犯することやその類のことは、すでに述べた仕返しのために殺すことと同じです。生まれつき好色な習性は、一種の「心の病」レベルの誤解による、優越感への陶酔以外の何物でもありません。時々社会の危険になる、欲情に目が眩むことは、自分が喜ばされたい優越感の沸騰です。この場合の優越感の自然では、思慮に欠けるレベルになります。

 嘘を言うことは、自分や自分の仲間に利益が転がり込むようにするために、言葉や態度による間接的な盗みです。本当のことを話さなくても、これ以外は嘘ではありません。抗争相手を滅ぼすために嘘を言う場合も、それは相手を破滅させるためであり、自分の側の利益になります。つまり簡単に自分が勝ちます。そして敵がいなくなるので、大変な利益を得ると見なします。

だから嘘を言うことは、相手より優越したい優越感の要求です。なぜなら直接、そして間接的に、他人の物を自分の物にするからです。作り話をするのは、誰も犯罪、つまり嘘に勝てないほど自分がその面で優越するためなので、直接優越感、あるいはアスミマーナ(排他心。自尊心)に根源があります。

 乱暴な言葉使いは口で射ること、あるいは撃つことです。すべての場合、怒りに根源があります。暴言、あるいは罵ることは、噴出した優越感の毒で、相手が自分の優越感を育てようとしないことで噴出します。使われている場合などは、賃金で自分の優越感を養うので、時には口の代わりに態度で表すこともありますが、根源は同じです。

 告げ口や、仲間割れをさせるためにそのかすことは、嘘を言うのと同じ結果を期待しています。性分で面白がってする場合でも、他の人が揃って凋落した分だけ自分が際立つという気持ちが根源にあります。すべては自分の優越感です。

 人みなが煩がるほど、あるいは人が面白がって聞いたとしても、くだらないことを際限なく話すことは、何らかの自慢です。なぜならそれは、何らかの理由で自制するものがないために、外部に漏れ出した「優越」だからです。私はこれを一種の病気と言います。

 酔う水を飲むことは、冒頭で述べたように、「自分は優れている」という感覚の結果のためだけに、促す物質で優越感を増やすことです。そして中毒になります。つまり「優越」という感覚の中毒になります。そうでなければ、他の方法で高めることができない人の劣等感を持ち上げることです。「酔う」とは「優越している」という感覚です。「優越」していれば、何でも自分の思いのままにしたいので、二重の犯罪になります。

 夜遊びは優越感の足掻き、あるいは優越感が欲情面で好き勝手にする癖であり、二重の過ちの原因です。夜は同じ目的の人が、自分の優越感が喜ばされる機会を探して出歩く時間なので、欲情にさせる威力のある優越感を処理することなく、夜の街が癖になります。夜遊びは、目・耳・鼻・舌・体面の欲情の道具にすぎないなので、優越感のためであり、あるいは他の物の追求と同じように、自分のことだけしか考えなくなります。

公演(芝居や映画や音楽など)を観ることは、習慣性の酔う物と同じく、優越感が味わう刺激の一種です。悲劇も扇情的なものと同じに、心に「揺れ」を生じさせます。優越感は常に、うっとりさせて喜ばせるような「感動」を求めます。だから催し物を観ることは、どんな種類の催しであれ直接優越感の話です。教育的なものは例外視されていても、優越感にとって、ある種の慰安であることに変わりはありません。見えない化け物の奴隷になりたくない人は、この問題を理解するよう、然るべき訓練を受けなければなりません。

賭け事は、「揺れ」、あるいは心の感情が興奮するので、同じ時間と同じ投資でできる、他の何よりも魅力があります。その賭け事が、まだ勝ちか負けか、あるいは損か得か分からないうちは、欲情と同じように、最高度に心の揺れ刺激します。しかし欲情より長くて冷めることがなく、そして何度でも頻繁に繰り返してできます。能力に限界のある器官に関わらないからです。宝くじを持っている人は、抽選日まで、昼も夜も強い興奮を味わい続けます。興奮を味わうだけで満足してしまって、本気で調べる興味のない人までいます。それでもその賭けが決着したとたんに、喜んでまた買います。機会に恵まれれば、もっと熱い気持ちで、次回の賭け事を始めます。

勝って手に入れるお金のためにしているように見えますが、本当はより高く高揚されたい優越感の欲求によるものです。そうしなければ、我慢できないほど落ち込んでしまうからです。だから人は賭け事の化け物に住み着かれています。本当は、それは優越感の化け物です。優越感が、これくらい高い気分や揺れまで高められてしまうと、その後普通でいるのは、あるいはそれ以下の陶酔で我慢するのは難しくなります。つまり揺れを生じさせないではいられません。だから人は賭け事の泥沼に落ちてしまいます。

つまり、優越感はそれくらい凄い味の中毒性があるので、本当の賭け事の化け物は、手に入れる賞金のためではありません。つまり優越感が受け取る「慰め」、あるいは既に述べたように激しい興奮のためです。この隠れた魅力がなければ、賭け事の化け物は死滅して世界にいないはずです。賭け事で金持ちになることはあり得ないという気持ちが生まれ、賭け事の化け物の呪文に騙されないので、自分を支配できます。

つまり非常に魅力のある「慰め」は、欲情に負けません。欲情と賭け事は同じくらい強烈な気分ちにさせると、そして賭け事の方が、先ほど述べたように、能力に限界のある器官に頼る必要がないので、長期間繰り返す点で一枚上手だということを、忘れないように繰り返し考えなければなりません。だから賭け事は世界にあり続けます。人の優越感を激しく高揚させることができるからです。

 悪人と付き合うことは、犯罪ほど悪くないように見えますが、仏教ではアパーヤムッカ(破滅の門)と見なします。他の悪に劣らない心の面の悪い結果があり、そしてすべての悪の元だからです。悪人とは、当然、「依存するものとして自分の優越感を育てるだけの人」と断定できる振る舞いをする人を意味します。どれがどうか何も考えず、自分の優越感の満足を味わえれば、それが最高です。悪人のジャングルへ入ることは、「物」のジャングルへ入ること、あるいは何も考えずに優越感を育てることなので、そこへ入り込む人は、簡単に泥沼に落ちます。いつでも待ち受けて際限なく自分の優越感を育てる、人と物があるからです。

善人が(悪人から)離れられるのは、純粋に正当に自分の優越感を育てる物を探すからです。もどかしさや、憂鬱でサティがぼんやりするのは、どちらも忍耐に欠けるからです。そして悪人はみな、機会がある度にご機嫌を取って、善人を仲間に引き込む、あるいは自分の力(子分)にする準備があります。そこには、人の優越感を育てるものが何でも限りなくあるので、人は悪人の集まる場所が好きになります。悪人は魅力があり、つまり優越感をくすぐるので、誰にでもあり、そして支配するのが難しい動物的本能の欲求と一致します。優越感の化け物にはこういう魅力があるので、暴力や乱暴は、世界中にあります。

 仕事を怠けることは、代償として何も苦労しないで、優越感が保養を受けることです。この味はアヘンよりもすごいです。味をしめた人は、何も苦労をしないで、自分の優越を育てるだけで、あらゆる種類の欠乏に十分に堪える強靭さがあり、それまで堪えられなかったことに堪えられるようになります。「何もしないで優越でいる」ことへの服従は、屋根がすっかり腐食して雨漏りがしても濡れていられるくらい、あるいは何かそれくらい強烈です。観察しなければならないことは、それらの怠け者は、優越感や高慢や、身勝手が消滅した阿羅漢ではないことです。

その「優越」は、その人の解釈では別の状態にあります。つまり純粋で公正な優越と交換するために、何かをして自由を失いたくありません。だから怠けものには優越感があります。あるいはこの種の優越で、いつでもすべての罪を犯す意志があります。そして「違う形で威張る」優越感である怠慢は、それ自体が犯罪です。黙して潜伏している結核菌などの病原菌のように、攻撃する種だからです。そして二重の犯罪になります。つまり「アヘンの考え」で他の一般の犯罪を生む沼だからです。

 最後は武器で戦うこと、すべての犯罪の集合である武器を使用した闘いの話になりました。ここで少し、ある話をしたいと思います。私が武器を使った闘争事件が付きものと見なされている、人が集まる行事を見に行った時に、武器を使用した闘争の本当の原因も優越感だと考察して明らかに見えたので、それを話すことに満足しているからです。他の人がハッキリと、そして簡単に理解するために、ここでその時の話をするべきだと考えます。

そこで見たことは、まだ教育が普及していない田舎の集会の、優越感を維持する本能から生じる危険を防止するものにふさわしく置かれている伝統習慣は、子供がまだ年寄りの言うことを聞いた時代には(つまり過ぎ去った時代)、どんなに素晴らしく危険を防ぐことができたか、風俗習慣の大切さを表しています。

風俗習慣から得られる優越感の抑止力は、政府が生産量の増大を図ることが原因で、疫病のように誰でもお酒を飲む時代になっても、法律による抑止力とは比較にならないほど威力があります。いま述べた風俗習慣は、酒で少なからず持ち上げることができる、教育が十分でない若者の優越感を見せつける毒を、少なからず脅しつける道具になります。

 武器による闘争がなければならないと見なされている集会とは、雨安居明けのバーンドーン湾周辺の川や運河を、僧が舟行列をする時です。私自身が行って見たのは、チャイヤーの湾尻周辺で、他より教育が遅れている地区でした。まだ今年のことです。どこでも、そしていつでもこのような楽しみがあると、ずっと前から聞いていました。必ず喧嘩や暴力沙汰があり、なければならず、「殴らなければ面白くない。楽しくない」という土地の言葉が生まれたほどです。

自分で見る機会がない時は、「仏教教団の行事であり、直接宗教に関わっているのにどうしてだろう」と怪訝に思いました。つい最近自分で行ってみると、非常に珍しくて勉強になる、目を引き心を引くものがたくさんありました。バーンドーン湾周辺、特にチャイヤーの人々は、昔からのボクシングの血統の人でも、善の信仰心と、水上の楽しみを愛す威力で、大昔からの伝統習慣を愛しています。

舟を漕ぐ腕前を見せる催しがあり、そして飲んで食べて、女の人を口説いたりします。その地区は人口密集地でもなく、県や郡の中心地でもありませんが、三、四百艘の手漕ぎの舟と、二、三十艘の帆船と、老若男女三、四千人が集まります。拠り所である酒を持った若者が百人、仏像を乗せた船には比丘と沙弥が居て、何十人も招いて食事をする伝統で食事をします。それら色とりどりの色彩と、言葉が聞き取れない喧しい人声が、湾尻周辺の海をキラキラと輝いているように見せます。

観察して見ると、芸術面でも文化面でも、行儀や健康その他いろいろ善い結果があるように思います。しかし私が興味を持って勉強し、ここで熟慮するのは、、「なければならない」と言われる、殴ったり蹴ったり武器を使って闘う話です。このような武器を使った闘争が宗教行事の付き物でなければ、宗教に関わりのない他の行事にあるはずがないからです。そして、私たちが心の面の解決法を探さなければならない、この種の悪の本当の根源は何でしょうか。

 武器を使った闘争は、冒頭で、「この本能がなければ、生き物は通常進歩できない。あるいは世界は進化しない」と言ったように、自然では、生き物の本能として身についている優越感の一種、あるいは優越感を表す一つの方法です。教育が十分でない若者たちが、優越感を他の面で見せられなければ、機会があれば殴ったり蹴ったり武器を持って闘うのは当り前です。酒の力が入れば、その優越感の表出は、簡単に限界を越え過激になります。飲酒を防止することで、このような場合の優越感の表出を抑えることは不可能です。なぜなら初めにお話したように、政府が酒の生産を増やそうと急かせているからです。

しかし、たとえ飲酒を防止できたとしても、教育が普及していない地域の少年の、方向を間違った優越感の表出、つまり自分の優越感を表したい気持ちを抑えられる訳ではありません。つまり自分の考えで自分の優越感を維持しておくだけです。しかしタンマがあれば、あるいは優越感を維持する無明を軽くする何かがあれば、あるいは優越感の表出を減らすか、無くすことができれば、酒は自然に不毛になります。

私たちは協力して、優越感を見せたい本能を管理する方法、あるいは可能な限り、あるべき範囲内にあるようにする方法を、可能な限り探さなければなりません。そして私は、今話した例について判断してみます。

その日、二、三十人の若者が酒に酔い、そして喧嘩になったのは、大きな集団で、距離は、私が座っている東屋から見え、声が聞こえる程度でした。櫂を武器にして一時間も闘っていましたが、頭が裂けた人はなく、いたのは瘤ができた人だけでした。

誰かが激しく暴れると、友達や親戚が押さえこんで船蔵に押し込み、家へ送り届けます。私は、高齢の女性でもこういう役割りを果たすのを見ました。息子か孫か分からない若者を捕まえて、水から引き上げて舟に乗せ、床に押し付けて、漕ぎ手に命じて家へ向かわせます。清信女のレベルの高齢者が、「やらせておきな! ナイフは取り上げておこう」と言うのが、聞こえてきました。そして実際に幾つものナイフを取り上げ、年寄のいる東屋に置いたと、この人たちが私に話してくれました。

水の中で喧嘩になり、舟が相次いで沈んでいく時、怖がってキャアキャア叫ぶ人がいました。しかし、結婚しているのかどうか知りませんが、まだ若い女の人の何人かが、手を叩いて、「やれ!やれ! ホレ! ホレ!(この言葉は、そこにいる人や犬に噛みつくように、犬をケシカケル時に使う言葉です)」と大声で叫ぶのを、私はこの目で見、この耳で聞きました。自分の仲間に加勢しようと、水の中を歩いて、喧嘩をしている集団に加わる人がいればいるほど、この声は大きくなります。血を流すほど危険にならないように見守っている人たちも少なくありませんでした。

喧嘩をしている人たちも、相手より先に酷い仕打ちをしないサティ、あるいは責任感がまだあります。親戚や友達がいろんな方法で引き止め妨害しようと待ち構えていて、最後には相手の目に水を入れて櫂を折りました。芝居と言えない本当の仲間割れは、時間が経って、声が枯れて聞こえなくなった時に終わりました。

全員が疲れて喘ぎ、寒さに震え、そして仕舞いには酔いが醒めます。時には流血する年があるのは、わざとと言うより、手加減をした時、あるいは遠くから投げる時に失敗したと信じます。確実な結果は、櫂は全部壊れ、甲板は縁が欠け、舟が沈んだ時に、沈んだ物を失います。しかし人は何ともありません。

 原因を訊くと、験を担ぐ人が何人もいました。彼らは、海の神様や精霊などがそういうのが好きだから、毎年なければならないので、解決法を考えるなどアホらしいと説明しました。中にはそれ以上で、舟行列のために持ち出した仏像も、そのような暴力沙汰が好きだと信じている人もいます。これは一部の人たちです。聞くと滑稽です。

 目に見えないお化けの話を取り出してしまえば、むしろ大勢の人に見せることで、自分の優越感を育てて維持したい、動物の本能の威力であることが分かります。なぜなら、ケンカをしている双方の人から詳しく聞いて見ると、それらの若者たちには、互いに殴り合わなければならないほど憤慨することはないことが分かったからです。ただ酒を飲んで楽しくなり、口や腕がムズムズしただけです。

本当に、自分は紳士だと自慢するのが好きな若者の習慣も同じで、稲作の季節やその他の時期に怒りが生じれば、「雨安居明けの行列の日に、河口で会おうぜ」と捨て台詞を吐きます。もっと血の気の多い人はもっと凄く、「プラタート寺のボクシングの舞台で会おうぜ」と捨て台詞を吐きます。こういうのは、挑戦者が実際に決闘の幕開けをすることはないと、分かっています。言った通り幕開けする人は多少はいますが、それでもお互いに、相手がする以上のことはしません。優越感のほとんどは、つまり一般の若者は、本能の威力で「優越」を見せつけるのが好きなだけだからです。

会話ができるようにするため、あるいはもっと「優越」の格好をつけるために、酔っていない人はわざと酔い、あるいはもっと酔うようにします。ほとんどの人が酒を飲む理由は、仇敵に会ったときに、青ざめた顔に見られたくない、あるいはしょんぼり(彼らの言葉で)していると見られたくないためです。

だから敵と対峙する優越感のために、家を出る前から飲み始め、舟に乗るまで絶えず呑み足します。それに、楽しさのために呑む人、あるいは内心に憂鬱があるので呑む人も少なくありません。中には、「若者が楽しさを求めるには酒を飲まなければならないから飲むべきだ」という、彼らの理屈で飲む人もいます。友達がみなそうしているからです。

誰でも「酒を飲めば道徳に欠ける」と学んで知っていますが、この日は「威厳」のために道徳を犠牲にし、他の日にゆっくり道徳を守って挽回しなければなりません。優越感は一種の狂気のレベルになるので、その日、その場所の雰囲気は、取り憑かれたような優越感で溢れています。その結果それらの若者は、長い間胸に詰まっていた自分の優越を排出して、誰もが満足します。これが、教育が十分でない人々の優越感の毒です。

 まだ教育が十分でない人々には、風俗習慣、あるいは伝統習慣、特に宗教面の信仰は非常に大切です。なぜならケンカをしている最中にスポーツマン精神が残っていれば、善い風俗習慣に関わる結果になるからです。先祖代々しつけられて本性に沁み込んでいて、酒などの新しい文明の侵入によっても簡単には無くならないので、それらの若者は事前に熟慮し、心を非常に抑えることができます。

酒に酔っている時でも年寄りを敬い、年寄りがナイフや刃物などを取り上げる役割をするのを容認します。宗教面の強い信仰は、比丘や沙弥の眼の前では、できるだけ露骨にならないように努力するくらい残っています。そうでなければ、武器を使った闘いは、自制するものが何もないので過激になります。

 もう一つ観察するべきことは、優越感は両刃の刃だということです。つまり善を行なわせることも、悪を行なわせることもできます。この人たちが何かをするのは、「優越」を求めるからです。常に資本である「優越」を求めるので、優越感が衰えるのを恐れる気持ちが、少なからずあります。だから本当の仇同士のような殺し合いはしません。なぜなら当人には以前からの恨みはなく、ケンカをするのは、優越を表したい本能の力だけだからです。

 大勢の人の集まりは、自分の何らかの優越感を見せたくなるように人間を煽る舞台です。酔っていない時は、まだ十分な度胸はありませんが、酔えば取り敢えずチャンスを奪い取ります。酒の力がその人の優越感を持ち上げて、絶えず満たしているので、酔っている人に善い面の偉大さが何もなければ、酔っ払いの「偉大さ」になります。

何も偉大なものがない素面の人も、必ずこのタイプの優越になるので、たくさんの人の集まりが、優越感の陶酔の爆発になるのは当たり前です。更に異性が大勢いれば、優越感への陶酔は熾烈になり、その結果武器を使った闘いは、まったく意味のない、小さなことになります。

酔っ払いの中に、可笑しなことに自分の酔いを隠そうと努力しながら、私に何か話して聞かせる機会を求めて近づいてくる人がいました。その人は、それ以外の時は隠れていて、顔を見せたがりません。その人を大胆にし、私と会話をさせたのは、もう一面の、つまり大物の無頼漢ではなく、識者であることを見せたい優越感の力です。

その人はこれほど酔っていなければ、怖気づいて近寄ろうとしません。そしてその人が見せる能力は、私を満足させられないと知っています。自分の優越感に酔っている人間にとって、優越感を見せることができる場所や機会は何でも、非常に魅力があります。その魅力が、至る所にある、この種の武器を使った闘いの根源です。

 また違うのもあります。同じ酔っ払っているその人が、私がまだそこに到着しないうちから、私に会う機会を待ち構えていたと聞きました。その人がよろよろ近づいて料理のお膳に触ったので、施主は権利を侵害された、あるいは軽視し過ぎだと見て怒りが生じ、一度危険な目に遭わせようと憤慨しました。「酔っ払いだから」と許そうとはしませんでした。

これも同じです。つまり、騒ぎになるほど自分の優越感を見せようと切望した結果です。お膳の主、施主も同じです。最高に良くしようと思っている善に関わる優越感があるので、その優越感で憤慨しやすくなります。善い意図でも優越感の話なら、信仰が多ければ多いほど憤怒も強くなります。優越感を抑える自然がある智慧に依存せず、優越感の強い欲求に依存するからです。

(仏教)後援者のみなさんは、この真実を可能な限り自覚しなければなりません。そうすれば自分の善を善く経過させられます。つまり優越感を削り落として軽くし、最後には皆無にする本当の善になります。それが仏教の目的です。

 これをまとめると、人の集まりは、人数が多ければ多いほど優越感の表出を煽り、見せるべきでないものを見せる結果になります。人に見せる、それ以上に良いものがないからです。そしてこれが、普通の武力闘争の根源です。法律の威力だけでなく、従来の美しい伝統習慣と、善いしつけによって心に残っている善悪正誤の感覚を合わせれば、それだけでこの種の優越感の陶酔から生じる危険を防ぐことができます。それに、時々警察官が包囲されて攻撃される法的な力より、良い結果になります。逮捕することは、優越感の狂気と真正面から激突することだからです。

 私たちは、このように善い伝統や風俗習慣を復活させる方法を模索しなければなりません。たとえば新たに年寄りや年長者を敬い、宗教面の正しいしつけをし、年寄を正しい年寄にし、小さな時から、身勝手を磨き落とす類の深い教育をすることは、この場合に非常に重要です。こういう目的のある教育は、自分の優越感を抑えることを教え、あるいは正しい方法で優越感を使うことを教えます。そしてこの教育は、あらゆる種類の道徳の本当の根源なので、どんな道徳を身に付けさせるのも難しくありません。

世界の教育が、このような教科を重視すれば、疑うまでもなく、将来本当に人間らしい平穏に生きる人間を創ることができます。現代の世界の教育は、学ぶ人も教える人自身も気付かないうちに、優越感を暴走させるようにするだけです。この種の教育は、物質的な発展をもたらす分だけ、「国際間の武力闘争」増やします。

 「国際間の武力闘争」、あるいは世界大戦は、述べてきた個人の闘争とすべて同じです。つまり直接掻き集める本能でなければ、自分の優越感を育てるためです。そして必ず、自分の優越感を見せつけたい猛烈な欲求です。正義を守るため、あるいは「世界の平和を守るため」という大義名分のある国際間の武力闘争も、この隠れている優越感の化け物の粘っこい掌中から、決して逃れることはできません。

1950年8月


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