非は我にあり  

アーチャン光男 カヴェサコ

 私たちがこうしている間も、時は待ってくれません。時は刻々と流れて月日は去り、確実に死が近づいています。「自分は何をしているのか。自分と他人の役に立つことをしただろうか。現在のためになること、未来のためになること、もっとも有益なことをしただろうか」とよく考えてみてください。

 私たちは生まれてから現在まで、幸福を求めて転げ回ってきましたが、本当の幸福、あるいは真実満足できる幸福に巡り合った人がいるでしょうか。

 現代人の生活は時間との競争で、いつでも急いでいます。寝るときでさえ急いでいる。あれを考え、これを考え、あらゆる方面のことを考えて、幸福の追求に忙しい。しかし私たちの生活や社会は、日に日に複雑さを増し、困難になっていくように見えます。

 人は多くの知識をかき集めています。科学、数学、歴史、社会学、地理、人文学、医学、法学、政治学等々。これらの学問は時代や環境に従って年々変化しているので、ほとんどの人はその変化についていけません。力尽きたり、失望したり、大変です。

 これらの学問は、私たちが本当の幸福を手にする助けにはなりません。人間が見落としている一つの学問は、仏法学です。私たちの大先生であるブッダは、二五八三年(1995年当時)も前に悟りを開かれたのに、ほとんどの人は古くて時代遅れと考え、軽視して見すごしています。

しかしブッダの教えは、時代によって変わることのない真実であり、真理です。行いを正しくし、近づいて学び知る人は、目覚め、心が明るくなって幸福になります。そして「涅槃は幸福のきわみ」とブッダが言われた、最高の幸福に到達するでしょう。

 正しい見解

 仏教学は正しい見解、正しい知識、正しい考えの学問です。この世のありとあらゆるものは、原因があって生じ経過してゆくという真実を見、そして知ることです。

      あれがあったから、これが起こった。

      あれがなければ、このことは起こらなかった。

      よい原因はよい結果を生む。

      悪い原因は悪い結果を生む。

      結果はかならず原因に因っている。それに適当な縁(原因に作用して結果を出すもの)もある。

 たとえば皆さんがここで美味しいみかんを食べて、その木がほしくなり、苗木を一本家へ持ち帰って植えたと仮定しましょう。その時品種の良い苗木を良い原因と言います。その木を早く大きく育て、実を成らせたいと思うなら、ちょうど良い縁がなければなりません。

 良い土と適当な肥料、適当な日照と水などを縁と言います。適当な縁の支援があれば、木は早く育ちます。よい品種の苗木でも縁がなければ、たとえば肥料や水がなければ苗木は枯れてしまいます。

      善い原因 + 適当な縁    = 善い結果

      善い原因 + 不適当な縁  = 悪い結果

      悪い原因 + 良い縁        = 悪い結果

      悪い原因 + 不適当な縁  = 悪い結果

 原因だけあって縁がない、あるいは原因がなくて縁だけあっても結果はありません。私たちの命も同じです。私たちの命は食事と衣類と住居、そして薬に依存しています。

 信仰のあつい僧を尊敬する在家は、煩悩を捨てる、行いの正しい僧を生みます。聖人、聖果、涅槃がこの世に顕れます。僧に信仰があっても、衣食住薬に欠ければあまりよい修行はできません。信仰のない僧に布施する檀家も利益がありません。

  時には行ないも正しく、修行にも熱心な信仰のあつい僧がいて、在家の人も連れ立って供物を山ほどもってやって来ます。すると結局良い結果にならなかったり、僧が還俗してしまうことがあります。木に必要な縁である肥料や水が多すぎるのと同じで、多すぎても害になるのです。

 私たちが原因で、環境が縁です。私たちに煩悩や怒りがあっても、相手の口の利き方がよければ怒りません。私たちに煩悩や怒りがあって、相手の口の利き方が悪ければ怒ります。

 私たちに煩悩がないか、あっても理性が心をまもっていれば、相手の口の利き方が悪くても怒りません。ブッダは原因に関心をもつように教えています。自分の心の煩悩を捨て、悪の原因を絶てば、問題はすべて解決します。

現在法

 ブッダは現在法を学びなさいと教えています。人は過ぎ去ったことを考えて懐かしむべきではなく、まだ来ないことを心配するべきではありません。現在と過去と未来を知るためにサマーディするとき、いろいろな感情や想蘊(認識)を解き放ち、過去や未来のことを考えず、意識を現在に固定させ、現在の感情だけを考えるように、とブッダは言われました。

 煩悩と古い随眠(眠っている状態の煩悩)は、目が姿を見、耳が声を聞き、五感が刺激を受けとった時、現実の感情が生まれます。嬉しい、嬉しくない、楽しい、苦しいは結果です。現在の結果を見ていますが、過去の原因をたぐって見ることができます。

 目で見、耳で聞くことは、欲張り、怒りっぽい、ひがみや、悔やみや、怠け者、嫉妬、疑い深さ、怖がり、恥ずかしがりや、夢想家、心配症、錯乱しやすいなど、古いものを引き出すための刺激でしかありません。

 これまでにどんな習性、煩悩、随眠を集めて来たかで、それぞれ異なった症状が結果として現れます。過去が原因であり、美しい姿や醜い姿、きれいな声や耳障りな声などの刺激が縁です。

 このように現在の感情を見ることができれば、行動を次の二つから選択することができます。

古い方法は勝手気ままに放っておくこと。従来どおりに煩悩にしたがって考えさせること。過去がこうだったから現在はこうで、未来はこうなるだろうと果てしもなく考え、あるのは心配症や夢想家など、何々症、何々や、何々家ばかり。

 新しい方法は、智慧と意識で戒という正しい意図をもつこと。喜んだり悲しんだりしないよう努力し、喜びや怒りの感情に囚われないようにします。喜怒哀楽の感情が生まれたら、急いで正しく意図します。つまり感情を抑えること。喜怒哀楽を抑えることです。

  心を平常に、つまり心の冷静を保って煩悩の流れに逆らい、苦や害を生じさせる自分の古い症癖にあらがえば、自分にも他人にも迷惑が掛かることはありません。この方法を、現在善い原因をつくれば未来も良い、幸福な良い結果を生む、と言います。

 過去の原因が現在という結果を生じさせ、現在が原因になって未来という結果を生じさせます。だから現在は結果であると同時に原因でもあります。

 現在である原因は、自分で善くすることができます。悪を退け善いことだけをします。私たちの義務は、つねに精神修養にあります。

 過去と未来を開放して、現在だけを掌握します。しかし強い思い込みはしないでください。戒とサマーディ、智慧で開放します。これを正しい見解、正しい考え、正しい行為と言います。過去、現在、未来の、すべてのブッダの教えは、ここに集約されます。

カンマ(業)

 私たちの行為を業と言います。ブッダは、世界は業にしたがって経過する、と言っています。私たちの行為は、つぎの三種類に分けられます。

       体による行為を身業と言います。

       言葉による行為を口業と言います。

       心による行為を意業と言います。

 行為者を幸福にする行いを、徳、あるいは善業と言います。

 行為者を苦しめる行いを、罪、あるいは悪業と言います。

 簡単に言えば、善業善果、悪業悪果です。

 詳しく説明すると、業には四種類あります。

      1.白業     −功徳。過去における善業。すなわち幸福

      2.黒業     −罪。過去における悪業。すなわち苦

      3.白黒業    −善と悪である業

      4.非白非黒業 −善でも悪でもない業

 一般人の行為というものは、たとえ道徳に反していなくても、生活を営むうえで、かならず利害が生じます。自分に有利なら相手に不利であり、自分たちの得は、別の人達の損になります。すべての人の満足のいくようにすることはできません。私たちに不満をもっている人は、いろんな手段で抵抗してきますから、こちらも心構えがなくてはいけません。心構えがなければ苦です。こういうのを白黒業と言います。

 非白黒業、善でも悪でもない業とは、業を滅すはたらきをする業。俗を超越した、衆生の純潔のための業で世俗の善悪の上にあります。善悪は俗のものです。

 感情や世俗を超えた純潔は、人がみなブッダの状態に到達することを目指して努力するようにとの、ブッダの望みなのです。

 仏教徒の成すべきことは、七覚支(悟りに到達するための七つの方法。念、択法、精進、善、軽安、定、捨)と八正道(悟りに到達するための八つの方法)ですが、要約すれば戒、サマーディ、智慧になります。この三つの戒訓は、戒によって悪を遠ざけることから始めなければなりません。戒を完璧に守っていれば心が安定してきます。

 心が一つに専心すれば、善い心になって、成すことすべてが善くなり、さまざまな善が現れます。戒も安定した心の中にあります。完全に心が安定すれば智慧が生じます。だから戒、サマーディ、智慧は完全に一体のもので、自分の心を純白に洗い清めることができます。

心の実践をするには、戒に興味をもって戒をよく理解してください。戒とは正しい意図、業とは意図のことです。

 業について深く理解すれば、継続して慚=罪を恥じる心と、愧=罪を恐れる心が生じます。慚愧の心が生じたとき、真の戒と言います。ですから業を信じることは、正しい見解の一歩と言えます。  

朝晩の勤め

業について理解すれば慈悲の心が生まれます。慈悲の心が育ったら、かならず業を理解することが大切です。

 当然のことである老いと病いと死について熟慮検討すること。これらに関しても、業について検討します。

 業について考えることの御利益は、注意深くなることです。

 僧がお経を唱える時、業について朝二回、夕二回、合計四回唱えています。繰り返し唱えることで慈悲と注意深さが生じるように、ブッダがそう決めたのです。

 業についていろんな面から考察できるように、五つに分類しています。つまりサッカカンマ、タヤターカンマ、ヨニーカンマ、パントゥカンマ、パティサラナカンマです。

サッカカンマ(所有業)

 サッカカンマとは自分自身の業という意味です。意業といい、口業といい、身業といい、実に意味があります。

 おもしろい話があるので、お話しましょう。

 一九八九年のこと、私は日本へ帰国して、東京のあるお寺に滞在していました。ある日、一人の小児科医と、一三歳の子供を連れた中年女性が訪ねてきました。その少年は顔立ちがよく、鋭敏で賢そうに見えましたが、話すことも書くことも出来ませんでした。行動はまるで知恵遅れの子のようでした。普通の子のように塾へ行って勉強しているのかと思っていたら、とても悪戯っ子でした。お寺に来てもじっと座っていられません。

 日本の家は大きな部屋になっていて、木と紙でできた軽い扉で小さく仕切ってあります。大勢お客が来た時や集まりのある時には、扉を全部取り外します。扉は軽くて、女性でも持ち上げられます。古くなった時や正月などには、古い紙を破って剥がし、洗って新しい紙を張ると、まるで新しい部屋のようにきれいになります。

 その子供は部屋の中を駆け回って、指でプツプツと紙に穴をあけます。子供は楽しいでしょうが、私は堪りません。彼らは、私の説教をその子に聞かせたいと訪ねてきました。母親が子供に名前を書いて見せなさいと言うと、大きな字を書きます。母親が少し手伝いました。でも私には何と書いたのか読めません。教えた人は読めるのかもしれませんが。

 その子は二三分しかじっとしていられません。あとは母親に覆いかぶさって寝ています。私もこんな子供は見たことがありませんでした。しかし小児科医は話してやってくださいと言います。子供は聞いていないように見えるけれど、本当は聞いていますとその医師は言います。

 小児科医は、その子を何とか教育したいと関心を寄せていました。だから毎週一時間クリニックで遊ばせていました。ある時コンピューターのワープロの使い方を教えると、数日で手紙が打てるようになりました。普通の子供はかなり時間がかかりますが、この子はとても早いです。

 ということは精神薄弱ではない、IQは高いということです。その子が自分のことを書くようになったので、小児科医は、子供が何を考えているのか理解することができました。

 その子は母親を非常に憎んでいました。理由はその子がわずか九か月のとき、母親が妊娠したことに起因します。この子がまだ歩けも喋れもしないのに、一人育てるだけで手いっぱい。両親は相談の結果、下の子を堕胎することにしました。その息子は聞いて意味が分かりました。

母親が自分の弟か妹を殺すと知って、とても悲しく思いました。それ以来、母親を恨んでいると言います。たった九か月の赤子。まだ、パパもママも言えません。母親が教え始めたばかりで、一二度話しはじめたと思ったら、話すのを止めてしまいました。その子には二三歳違いの姉がいましたが、何も問題のない普通の子です。

 その子は、心中の葛藤する感情と闘っていました。母親に遊園地へ遊びに連れて行ってもらうと、「今日遊園地へ行ってとても楽しかった。お母さんが好き」と、ワープロで書きます。しかしまた二三日すると古い感情が顔を出して、怒りや恨みが甦ってきます。母親はその子を愛していました。他の子よりも可愛がっていたかもしれません。

母親が子供に良くすれば、子供も幸せで母を愛します。しかしまた古い感情が甦ってくる。そういう戦いをしていた訳です。彼はお寺が好きで、仏教が好きでした。仏教は慈悲をかけるよう教えています。大きくなったら医師の助手か仏教のお坊さんになりたいそうです。その子が私を訪ねて来たのは、テレビを見て尊敬の念を感じたのと、医師もわずかな希望を抱いたからでした。

 その年の四月、私は成田空港から広島まで、千キロの里程を七二日かけて頭陀行しました。お金はもらわず食べ物だけを托鉢して、泊まる所はその時に応じてお寺に泊めてもらったり、道の傍に寝たり、暗くなってからデパートの駐車場に寝たり、橋の下に寝たり、何でもしました。

 成田空港から東京まで一週間。日本のテレビ局がドキュメントを撮らせて欲しいと言ってきました。なぜ広島まで歩かねばならないのか、人は知りたいだろうからと。

 その子供が放送を見て私を訪ねたいと思い、小児科医が説教をしてほしいと依頼してきたのです。私はあまり気が乗りませんでした。聞き手は母親に覆いかぶさって寝ころがり、手や足を突き出して、普通じゃないんですから。

 でも小児科医が、この子は聞いていないように見えてもちゃんと聞いています、と何度もくり返して言うので、私も決心して、復讐心と怒りを抑えること、慈悲の心を育てることを説いて聞かせましたが、どれほど効果があったかは分かりません。

 今日この話をとり上げたのは、まだ言葉も話せない、歩くこともできない、何も分からない九カ月の赤子でも、本当は何でも理解し、感じ、考えることができるという実例としてお話しました。彼は本当の意業を作りました。これほど凄いのもあるのです。医師も、母親に対する激しい嫌悪や怒りが、神経を麻痺させてしまうということに驚いていました。

 その子が作った意業が原因で、言葉が喋れないことが結果です。サッカカンマ(所有業)。私たちは自分の業をもっています。業はこれほど凄い結果を生むのです。

三つ子のたましい

 前世は本当にあるのかということを実験的に研究したたくさんの研究者の、とても興味深い資料があります。研究テーマは潜在意識です。特別の電子機器を発明した人もいますが、ほとんどは催眠術を使います。催眠術でまどろんでいるような状態にして、何も感覚がなくなってから、少しずつ質問を始めます。昨日は誰と何をしたか。二三日まえ誰と何をしたか。

質問はどんどん時を逆上って、生まれたばかりとき誰が来て何をしたか問うと、被術者は答えることができます。それから前世のことを質問すると、三四世前まで思い出して話すことができます。話も何もできない赤子の時でも、つねに潜在意識はさまざまなデーターを取り込んで記録しています。

両親のケンカや傷ついた経験などを、潜在意識のなかに仕舞っておきます。これらの資料は、十分な縁が揃った時に、煩悩や感情という形で現れてきます。

 昔の人は「三つ子の魂百まで」と言いました。三歳くらいはちょうど人格形成がされる時で、外部の刺激に対する感覚が鋭敏です。

 良い環境と良い縁がとても重要です。暖かさに欠けてもいけないし、厳しすぎてもいけません。ご機嫌をとったり、我がままにしたり、世話のやきすぎもダメです。子供を育てるには、ちょうどよい加減というのが大切です。両親は理知をもって適当という加減を知り、バランスを考えなければいけません。

 愛と尊重と慈しみは、ちょうどよい加減でなければなりません。つまり、何が正しくて何が誤りか、成すべきか成さざるべきかを教えることです。

胎児の潜在意識

 親としての義務は、母親が懐妊した時から生じます。母親が体に良い、栄養のある物を食べたり、健康に気遣うこと以外に、胎児に愛を注ぐことも大切です。母親の感情は胎児に大きな影響を与えます。

 父親の義務は、品行の道徳的な範囲を維持すること。母親に心配させたりストレスを与えたりしないこと。母親は善い本を読んで、心を静める音楽や説教を聴き、心の平安を維持することが大切です。

 子供は母の胎内にいる時から親の愛を求めます。仏教の規律では、母の胎内にいる時から年齢を数えます。男子が比丘(大人の僧)になれるのは二十歳からですが、母の胎内にいた六か月も加算します。

 野菜や植物でさえ良い世話から利益を受けます。ランの花に音楽を聞かせ雰囲気づくりをすると、きれいな花が咲くそうです。日本では乳牛に音楽を聞かせて牛の気分をほぐし、リラックスさせて牛乳の増産を図り、期待通りの結果が得られました。これは良い縁が良い結果を出すには大切だということを、はっきり語っています。

 妊娠中も同じです。母親の気分が良ければ、良いことばかりを言ったり聞いたりすれば、子供も気分のいい子供になります。だから両親は、妊娠中からよい縁を与えなければなりません。

口業 身業

 いろいろな言葉を継続して観察すれば、はっきりと良い結果、悪い結果が見えてきます。悪い結果を招いた言葉のほとんどは、簡単にその原因を探り出すことができます。だから、口から放たれたいろいろな言葉が、良い結果も悪い結果も生じさせ、問題が起こることが分かります。

 身業も同じです。体による不注意が、自分にも他人にも被害を与えます。体による行為、身業は本当にあり、良い、あるいは悪い結果を生みます。身業に細心の注意を払わなければなりません。

 結論すれば、意業・口業・身業は本当にあり、私たちの苦楽に多大な影響力があります。何をするにも注意深く考え、話し、行動しなければなりません。

タヤターカンマ(相続業)

 タヤターカンマとは、結果をもたらす業という意味です。タヤターとは遺産相続者。業を受ける人。前世の業は本当にあります。体でも口でも心でも、善あるいは悪をなした者は、自分が実際に行った業の結果を受け取ります。

 中年にさしかかったある婦人の話です。地方のある山寺に、定期的にお供え物していましたが、ある時数カ月もお寺に姿を見せなくなり、またお寺へやって来るようになりました。義手を着けているので、僧に礼拝する時の体の動きが、以前と違って不自然なのがすぐに分かりました。食事が済むと、ある人が話してくれました。

 彼女の夫はバンコクで働いていて、バンコクには妾宅がありました。ある朝夫と激しい諍いをして、「あの女の腕を切ってやりたいよ!」と叫びました。夫が働きに行ってしまった後、彼女は女友達三人と車で出かける途中で事故に遭い、転覆した車のドアに挟まれて片腕を失ったそうです。

 腕以外は別段なんともなく、他の人は無事でした。この出来事は、彼女自身と周りのたくさんの人に、業の結果は本当にあるのだと信じさせました。この婦人は、たぶん常々愛人を怨み、「彼女の腕を切ってやりたい」と考えていたのでしょう。腕がなくなれば誰も振り向かなくなるでしょうから。結果は、考えた人、言った人に戻ってきました。

 これは意業と口業の結果が巡ってきたのでしょう。

 怒り

  ブッダの時代に、ある僧がブッダに質問しました。非常に怒りっぽい人がいて、気に入らないこと、気に入らない人がいると、すぐに罵ってうるさくてたまらないのですが、どうしたらよいでしょうと。

 怒りは、料理を作って他人に食べさせるのと同じだ、とブッダは言いました。もし相手が食べなければ、作った人が自分で食べなくてはならない。だから嫌いな料理は食べないことだ。嫌なら気にしなければいい。係わらないだけでいい。片手で叩いても音はしないと。

 誰かが怒って私たちを罵ると、私たちは苦しいです。それが、相手が味付けした料理を食べることです。結局両者とも苦です。

 相手の料理を食べれば、相手にも食べさせなければなりません。つまり今度は自分が腹を立て、罵り返します。返したり返されたり、何度生まれ変わっても同じことの繰り返しで、終わりがありません。これが人間と動物の生です。

 考えてご覧なさい。グループでここへやって来られたみなさん、せっかく徳を積むために来られたのに、見るもの、聞くもの、気に入らないことがあるのが常です。真剣になりすぎれば、腹が立ってしまいます。家に帰っても気分が治まらず悶々とします。一晩中、心の中で相手を怒り、罵り、悪口を言い続けます。

 一晩中苦しいのは自分。怒らせている相手は、たぶん快食快眠。家族と楽しくテレビを見ているかもしれません。自分の怒りは何日たっても晴れません。ある日その人に聞いてみます。あの日どうしてあんなこと言ったの? どうしてああしたの? たいてい相手は憶えていません。

なぜならわざとしたんじゃないからです。私たちが考えているように、意図があってしたのではないのです。自分が間違いをしたことも分からないのです。ほとんどはそんなもんです。その人はそれが普通なんですから。私たちが勝手に考えすぎているだけなんです。自分で原因を作れば、自分で結果を受けなければなりません。つまり、怒り、苦しみという結果を。

お返しは数倍、数十倍

悪口を言うことは自分の悪口を言うのと同じです。他人を軽蔑することは自分を軽蔑することと同じ。他人をいじめることは自分をいじめるのと同じ。他人に危害を加えることは、自分に危害を加えるのと同じ。他人を殺すことは自分自身を殺すのと同じです。

 自分が他人にしたこと、言ったことは一でも、返って来るものが一とは限らないということを考えてみるべきです。縁によっては、結果が二倍、三倍、十倍、何十倍にもなって返ってくることもあります。パパイヤの種を一粒蒔いて大切に育て、十分な縁が後押しすれば、翌年には何百という実をつけることもあり得ます。二、三年して少しずつ衰え、やがて枯れます。善行、悪行も同じです。

 これを理解したら、あえて罪を犯す人がいるでしょうか。悪口や復讐、嫉妬などあらゆる罪の害が見えれば、あえて罪を犯す人はいません。心の中で文句を言うだけでも自分の生活を曇らせてしまうのですから、合わないことです。

 いまのバンコクは、車の渋滞で世界的に有名です。運転手も同乗者も、街中の人がイライラしています。走っていると前に割り込む車があるので、教えてやろうと思って車を止め、相手の車のドアを開けて文句を言うと、反対にピストルで撃たれ、撃った方はそのまま逃げてしまった、という話を聞きました。一言文句を言っただけで殺されてしまいます。

 いっとき煩悩に覆われて盗みをして刑務所に繋がれ、名を汚し、何年も苦しんだり、女遊びをしてエイズになり、家族全員が一生苦しむこともあります。

 善の中に悪が混じれば、善は現れません。百尾買った魚の中に一尾腐った魚があれば、何日もしないうちにほとんど腐ってしまうのと同じです。タルいっぱい溜めておいた雨水にネズミが落ちて死んだら、飲むことも使うこともできません。家族のみんながいい人でも、一人ヤクザ者がいれば、家の前にトイレがあるみたいなもので、幸せではありません。

 善行も同じです。

 チュラーロンコーン病院に伝わる話があります。何年も前のことです。貧しそうな身なりの老人が病院の前に倒れていました。ある看護婦が見つけて病院へ連れていき、心をこめて介抱しました。ほどなく気分がよくなり老人は帰りますが、お金を一銭も持っていません。看護婦は老人にバス代程度のお金を渡しました。

それから何日かすると、過日の老人が大旦那風の立派な身なりで、ベンツに乗って病院を訪れ、親切な看護婦を訪ねました。そして何か欲しいものはないかと聞くと、私自身は欲しいものはありませんが、もう一つ病棟があったら、もっとたくさんの病人を受け入れられるのですが、と看護婦は答えました。老人は、病棟を一棟建てて寄付しました。

 善行も同じように、結果が何倍にもなるのかもしれません。特に戒がある人、善い行いの人、行いの正しい人に対しての善行は、報いが大きいです。

 だからブッダは、まず最初に罪を避けなさいと教えています。罪を恥じ、罪を避け、罪を恐れるよう。罪を避けることに智慧と勇気が生まれるよう。善を行う上で善を信じる気持ちが生まれるように。プラスの結果。マイナスの結果。業の報いは本当にあります。因果応報は真実です。

ヨーニカンマ(同伴業)

 ヨーニカンマとは、生まれさせる業という意味です。ヨーニとは伴うこと、連れて生まれること。生まれるもの。自分が犯した罪が自分に生じてきます。自分が発生源です。ブッダはヨーニカンマについて考えなさいと教えています。

 ブッダの時代の、マハーカーンという清信徒の例をお話しましょう。マハーカーンはとても真面目な仏教徒で、月に八回、お寺で戒を守って、一晩中、本堂で説法を聞いて過ごします。その晩、盗賊グループが寺の近くの家を襲って金品を盗み、家の住人に気づかれて四方八方へ逃げました。

 盗賊の一人が寺の本堂に逃げ込み、一晩中説法を聞いていたマハーカーンの前に盗品の一部を置いて、どこかへ逃げていきました。盗賊を追って来た人々は、マハーカーンの前に盗品があるのを見つけてマハーカーンを捕らえ、「人の物を盗みながら、説教を聞いている振りなどしおって」とさんざん呪い罵って、殴り殺してしまいました。

 朝早く沙弥(子坊主)たちが飲み水を入れた鍋をもって本堂へいき、マハーカーンの無残な死体を見つけ、口々に「何て気の毒なマハーカーンさん。本堂で説法を聞いていたのに、こんな死に方をしなければならないなんて、まったく理不尽だ」と言いました。マハーカーンが善人なのは、誰でも知っていました。真面目な仏教徒で罪を犯したことはありません。そこで沙弥(子坊主)たちはブッダにそのことを話しました。

「それはである、比丘たちよ。殺されたことはマハーカーンには理不尽だが、過去で積んだ業から見れば当然の死なのだ」。若い僧と沙弥たちは、マハーカーンの話を聞きたいとお願いし、ブッダはマハーカーンの前世を語って聞かせました。

 昔、バラナシーの領地内にある森に、山賊たちの巣窟がありました。旅人が安全にその森を通り抜けられるよう、王は警護する役人を置いていました。ある日美しい妻を伴った一人の男が、小さな車に乗って通りかかりました。役人は男の妻の美しさに心を奪われ、「どうか森の向こうまで警護してください」と頼まれた時、

「もう日も暮れたから、明朝にしよう。ここには泊まる場所も食事もあるから心配しなくてもいい」と答えました。夫婦は、まだ時間があるから今日のうちに送ってほしいと懇願しましたが、何と言おうと役人は聞き入れないので、仕方なく役人たちの宿舎に泊まることにしました。

 宿舎には宝石が一つありました。役人はその宝石を夫婦の車の中に隠し、夜明け前に、部下たちに宝石がなくなったと騒がせました。役人が門を閉めさせ、捜索班を作って宝石の捜索をすると、夫婦の車の中から宝石が発見されました。役人は「お前が宝石を盗んだな」と言って、男を死ぬまで鞭で打って殺し、死体を捨てました。その役人がマハーカーンだったのです。

 ヨーニカンマ(同伴業)。自分が作った業は、自分の身に戻ってきます。自分自身が発生源。当然智慧のない人を踏みつけます。ブッダはそう説明しています。

 

モッカラーナ(木蓮尊者)

 モッカラーナ尊者の経歴も似ています。モッカラーナはブッダの左腕と言われる僧で、すぐれた神通力があり、神通力の点で言えば、実にブッダと同等の力のある方でした。ブッダの右腕と言われ、サーリープッタと並んで称され、サーリープッタは智慧にすぐれ、ブッダと同等の智慧のある方でした。よく本堂の仏像の両脇に二人の弟子の像を見かけますが、右側にいるのがサーリープッタ、左側にいるのがモッカラーナです。

 モッカラーナは、最後の世では何一つ罪を犯しませんでした。子供の頃から善い子で、大人になっても善人で、仏教に出会って、たった八日で阿羅漢(俗世から出た人)になりました。それから何十年間も仏教の布教に尽力しました。

 たぶん百二十歳まで生きると思われていました。ブッダは八十歳で涅槃に入りましたが、アナンダは百二十歳まで生きました。モッカラーナも百二十歳まで生きるだろうと思われていましたが、結局五百人の盗賊に殺害されました。

 ある日僧房に座っていると、何か異様なものを感じたので、サマーディをして周囲を様子を察知すると、武器を手にした多数の盗賊たちが僧坊を取り囲んでいました。盗賊に取り囲まれたことを知ったモッカラーナは、神通力を使って鍵穴から逃げました。

 盗賊たちが押し入った時にはモッカラーナの姿はありません。結局、盗賊たちは帰っていきましたが、翌朝、まだ暗いうちにまたやって来ました。その時モッカラーナは空へ逃げました。

一か月、二か月、三か月しても、盗賊たちはたびたびやって来ては妨害します。そこでモッカラーナが原因を探ってみると、何回か前の過去世で、両親を殺していたことが分かりました。今盗賊たちに狙われているのはその報いで、まさに期が満ちたのです。モッカラーナは肉体を捨てる時が来たと思い、それからは逃げるのをやめました。事実を受入れ、自分の積んだ業の報いを受け入れるのです。

 盗賊たちはモッカラーナを捕え武器を振りかざして殺害し、骨がクズ米のように細かく砕けるまで叩きました。モッカラーナが死んだのを見届けると、盗賊たちは帰って行きました。しかし、本当にはまだ死んではいません。

「まずブッダに挨拶をして、それから涅槃に入ろう」。それから強く精神を統一してブッダの側へ飛んでいき、ブッダに礼拝して言いました。

「あなたの弟子は涅槃に入ります」。

「涅槃に入るのか? モッカラーナよ」ブッダがお尋ねになりました。

「はい。あなたの弟子は涅槃に入ります」。

「どこで涅槃に入るのだ」。

「ガーラシラという国へ行って、そこで涅槃に入ります」。

するとブッダは、「それなら弟子たちに法を説いて、それからにしなさいモッカラーナ。あなたのような弟子は希有なのだから」と言いました。モッカラーナはブッダに礼拝すると空へ飛び上がり、いろいろな神通力を使って見せてから、再びブッダに礼拝し、ガーラシラへ飛んで行って、そこで涅槃に入りました。

 法堂に居並んだ僧たちは、口々に「モッカラーナ尊者は盗賊に殴り殺されて、本当にお気の毒だ。このような死に方はまったく理不尽だ」と嘆きました。

「僧たちよ何の用事で集まっているのだ」とブッダが尋ねると、弟子たちは、「汚れのない阿羅漢であるモッカラーナ尊者が、このようなご最期をお遂げになるなんて、あってはならないことです」と答えました。

「モッカラーナの死は、モッカラーナにとって理不尽なだけである。しかしあのような最期は、むかし積んだ業に真にふさわしいのだ」とブッダは言いました。

 ブッダはモッカラーナの過去の業について語りました。

 昔、パラナシーの都に良家の息子がいました。勤勉で、恩を知り、とても善い人でした。いろんな仕事を全部自分で引き受け、年老いた両親の面倒を、心を込めて見ていました。昼間森で働く他に、家事や年老いた両親の面倒まで見なければならない息子を不憫に思い、苦労を分けあう嫁を探してやろうと言いました。

 負担は軽くなり、人並みの幸せになれるからです。しかし息子は断りました。「父さん母さん、心配しないでください。両親のご尊命のあるかぎり、私は自分の手でお世話をします」

 そう言われても、両親は息子が気の毒で、何とか説得して妻を持たせました。嫁は二三日両親の世話をしただけで飽きてしまい、その後、年寄りの顔を見るのも厭わしくなりました。そして、両親と一緒には暮らせないと夫に言いました。いろいろと両親の悪口を言いましたが、夫は信じません。

 ある日夫が仕事に出かけた後、草と水飴のような菓子を家中にばらまいて汚しました。帰宅した夫がこれは何だと聞くと、嫁は、これは年寄り二人の仕業で、私はこんな所に住むことは出来ないと答えました。妻が際限もなく愚痴を言うので、夫の心は少しずつ変わっていきました。そして、「よし、両親にはこうしてもいいことがわかった」と妻に言いました。

 両親に食事を差し上げた後、「親戚が会いたがっていますから、連れて行ってあげましょう」と両親を誘い、二人を牛車に乗せて出発しました。森のま真中に差しかかると車を止め、「二人でしっかり手綱を握っていてください。この辺には山賊がいるので、私が見てきます」と言って、息子は両親に牛の手綱をあずけると森へ入って行きました。それから山賊が潜んでいるような物音をたて、両親に山賊が来たと思わせました。

「息子や。私らはもう歳だから心配しないで、おまえは逃げなさい。しっかり逃げきるんだよ」本当に山賊が来たと思った両親は、息子への愛情からそう叫びました。息子は声色をつかって山賊のふりをし、息子の無事を祈る両親を殺してしまいました。そのときの息子がモッカラーナです。

「だからモッカラーナのこのような死に方は、自分で作った業にふさわしいのだ」。

 自分で積んだ業は自分にもどってきます。自分が発生源。ヨーニカンマ(同伴業)です。

母の胎内に生まれる

 自分の業に導かれて、母親の胎内に生まれます。両親が力を合わせて作ったのではありません。私たちの意識はさまざまな生を経験しながら、今日までずっと輪廻の輪の縁を転がっています。私たちの意識と両親の意識が、過去世で執着で結ばれていたので、いまの両親を頼って生まれて来たのです。たとえ現世の両親の身分や、環境や状況に不満でも、です。

 私たちには両親に文句をいう権利はありません。なぜなら自分の業の導きでこの世に生まれて来たのですから、自分で責任を取るしかありません。

 私たちは、両親あるいは目上の人か誰かの導きで、いろんな社会と関係します。時には強制されたと感じる時もあります。例えば幼稚園に入る、小学校、中学校、高校、大学に入る。専攻科目を決める。仕事や結婚相手を決めることなど。

 そして幸せでない時、人生に失望した時には、両親に言われたからとか、あの人に紹介されたから今不幸なのだと考えずにはいられません。

 あの人がああ言ったから。この人がこう言ったから。そして怨みが生まれます。しかし本当は、自分の業に導かれているのです。

 正しく検討し、正しく考えなければなりません。他人を怨んで攻撃しないでください。私たちは自分の業の結果に責任を取らなければならないのです。他人を責めることは何もありません。

 どうして今の社会は複雑なのでしょう。どうして人間の生活は乱れているのでしょう。出家僧の心でさえ、まだためらいが消えません。

 善いことをすれば善い報いがあり、悪いことをすれば悪い報いがあるという、自業自得の法則がはっきりと見えないからです。善いことをした善い報いはどこにもなく、善いことをして損をすることは山ほどあり、悪いことをして損をした人はなく、悪いことをして得をした人はどこにでもいます。

 短期間で見ればそのような出来事があるかもしれません。

 ブッダは言いました。「罪の結果がまだ生じない時は、悪人も善人に見える。結果が現れたその時、罪の毒が見える。善の結果がまだ生じない時は、善人も善業の結果が見えない。善が結果を生じた時、善果が見える」と。

 ヨーニカンマ(同伴業)について考えてください。そうすればいろいろな出来事に動揺しなくなります。この世のすべての出来事は、完璧に因果の法則によって動いています。善いことをすれば善い報いがあり、悪いことをすれば悪い報いがあるという、自業自得の法則は動かない法則です。勇気をもって真実を認めましょう。どんな時も善と正義を維持する人であってください。

パントゥカンマ(愛着業)

 パントゥカンマとは追ってくる業という意味です。パントゥとは友達や兄弟という意味で、自分の意識を愛着でむすぶ業があります。

 ブッダは言われました。「私たちの目にふれる動物、蚊、カエル、猫、犬、牛、人間などはすべて、数えきれないほどの輪廻の中で、少なくとも一度以上は両親や家族だったことがある。ずっと前から今のように愛したり憎んだりしてきて、これからもずっと、涅槃に達するまで愛憎を繰り返す」と。

 だから油断をしてはいけません。心を静めていつも意識を自分に密着させ、誰かを怨んでいるだろうかと考え、もしいたらすぐに許して、業のかかわり合いを断ちましょう。少なくとも生きているうち、死ぬ前に。今後は、怨み合う業の相手でいなくてもいいのです。離れているから大丈夫だと考えてはいけません。

 県外や、外国に住んでいても、来世で会う機会はあるのですから。強い執着があれば、会う機会も多いです。恋い慕うことでも、怨むことでも、自分の心を見ればはっきり見えます。気をつけてください。あとで近い親戚に生まれてきて、お互いに迷惑をかけ合います。数えきれないくらい生まれ変わってもまだ。

 だから怨みを持たないでください。許して縁を切ります。怨まないでください。攻撃しようと考えないでください。善意だけでいいのです。

 善い業だけを作るよう努力しましょう。たとえば布施。与えることだけ。美しい言葉。丁重な物言い。聞いて気持ちの良い言葉を使いましょう。役に立つこと、社会のためになることをしましょう。身の程をわきまえ、終始一貫した態度で、陰日向なく。

 このように身を処せば、幸福な現在を他人と共有することができます。そしてお互いに善い業をつくり、来世で出会うときはとてもいい親子や友達になって、助け合い援助し合えます。

パティサラナーカンマ(財産業)

 パティサラナーカンマとは、寄る辺としての業という意味です。ブッダはパティサラナーカンマについて考えるようにと教えています。

 仏法僧は私たちが帰依するものです。私たちには帰依するもの、頼るものとしての業があります。

 私たちの現在の生活は、肉体から財産、環境、国、人物から抽象的なものまで、古いものに依存しています。心の善をバーラミー(波羅蜜)と言います。

 悪を行うことは借金をするようなものです。善行や善の業は財産を貯めるのと同じで、あとで必要な時頼ることができます。将来困ることはありません。

 ブッダは善を分かりやすく七種に分類しました。それを七聖財と呼びます。

1.信仰。信じるべきもの信じる。業を信じる。業の報いを信じる。因果応報を信じる。

2.戒。行為と言葉を正しく維持する。

3.慚。悪や罪を恥じる。

4.愧。悪や罪を恐れる

5.多聞。たびたび説法を聞く。

6.布施。自分のものを与えるべき人に分け与える。

7.智慧。役に立つものと役に立たないものが分かる。

 この七聖財は、お金など外のものより良いです。誰にも盗まれないし、頼りになります。現世ばかりでなく、今後何世にも渡って頼ることができます。この七聖財を、布施、戒、サマーディの三つにまとめることができます。

布施、戒、サマーディ

 すべてのものには原因があり、原因と縁によって経過していくので、何らかの結果を期待するなら、原因と縁を作らなければなりません。人間の願いはさまざまですが、まとめればだいたい次の三つになるでしょう。もし来世がほんとうにあるなら、どのように生まれたいですか。

 誰でも良い身分に生まれたい。貧乏人に生まれたい人は一人もいません。豊かで恵まれた家に生まれたいのなら、布施がお金持ちに生まれさせる原因であり縁でもあります。

 誰でも例外なく美しい人に生まれたい。障害者や病弱者に生まれたい人は一人もいません。誰でも五体満足で丈夫で長生き、美人あるいは美男子でスタイル良く生まれたいのです。戒は五体満足に生まれさせる原因であり縁でもあります。

 誰でも例外なく智慧ある人に生まれたい。愚か者に生まれたい人はいません。誰でも智慧があって賢く、注意深い人に生まれたいのです。サマーディは賢い人に生まれさせる原因であり縁でもあります。

 布施、戒、サマーディは、私たちを豊かに、美しく、賢くする原因です。考えてご覧なさい。今日からあと四十年後、皆さんは何歳になっていますか。ほとんどの人は八十歳から九十歳でしょう。今日からケチをやめて、分け与えるべき人、たとえば両親や夫、妻、子供や兄弟などに、無理のない程度の援助を続ければ、年を取って餓える心配はありません。

 たとえ自分で歩いてトイレに行けなくなっても、何もできなくても、あなたを見捨てる人はいません。子や孫は手厚い世話をしてくれるでしょう。これが布施の御利益で、良い身分と言います。

 今日からは怒ったり愚痴を言ったりせず、行為と言葉と心をきちんと維持しましょう。年をとれば美しさは若い娘にはかないません。しかし美しく老いることもできます。時にはいつも機嫌がよく肌の艶の良い、可愛い老人もいます。可愛らしい老人を美しいと言います。これが戒の御利益です。

 今日からサマーディをして、正しいこと間違っていること、役に立つこと役に立たないこと、物事の原因と結果を知りましょう。自分を知って他人を知り、いろんな問題の解決法を知っていれば、年を取るほど孫子の役に立ちます。智慧があるからです。

 在家でも同じです。智慧があって仏法が染みていれば、百歳になっても孫子の邪魔にはなりません。反対に孫子の頼りにされるでしょう。これがサマーディの御利益で、智慧があると言います。

 布施、戒、サマーディを実践することの御利益は、このようなことです。今日から実践すれば御利益は今日、たった今から、生涯、そして来世にも及びます。本当に頼りになるカンマです。命のあるかぎり、布施、戒、サマーディに帰依して、布施、戒、サマーディ、あらゆる善を実践してください。

                    

むすめの小言

人と一緒に暮らしていると、気に入らないことがあるのは当たり前です。どんなに愛し合っていても、一緒にいると問題が起きます。愛していればいるほど、問題は起こるものです。人生の問題を解決するには、いつでも、先ず自分を改めることだとブッダは言われました。

 そうすれば、人間関係は少しずつ解けてきます。まず自分が悪を避け、善いこと正しいとだけをします。私たちは相手が悪いと感じますが、相手の誤りはひとまず置いて、「自分が先に悪かった。自分の方がずっと悪い」という方法で自分の理性を喚起します。

 日本に滞在していたとき、娘のことで悩む中年女性の訪問を受けました。大学を出て就職したばかりの娘が、休まず母親の欠点をあげつらっているそうです。食事の仕方が悪いとか、足音がうるさいとか、扉の開け閉めが悪いとか、物の置き方が粗雑だとか、小さなことを取り上げては文句を言います。

 母親は鬱陶しくて、家にいたくないと感じるようになってしまいました。娘の親不孝がくやしくて、悲しくてなりません。親に向かってあんなことを言ったりしたりするべきではないのに、と。

 私は、彼女が話し終わるまで黙って聞いていました。その婦人に会うのは、その日が初めてでした。日本での頭陀行をリポートしたテレビ番組を見て、尊敬する気持ちと興味を感じて訪ねてきました。彼女は翻訳の仕事をしている教養のある人でした。観察したところでは、几帳面で清潔好きで、もしかしたら怒りっぽいかも知れません。

 私が、父親と娘さんの関係を尋ねると、まったく普通で、問題があるのは母親である彼女とだけだと答えました。

 すべてのことには原因があります。

 娘が小さいころ、お母さんは口やかましくしつけませんでしたか。彼女はそれを認めました。善かれと思ってか苛立ちからか分かりませんが、母親の躾け方に原因があったのです。子供の自然を理解しないで、子供が何をしても注意しました。娘はいつも抑圧を感じていたので、大人になった時に母親を叱る言葉が口から出てしまうのです。

たぶん何も考えずに言っているのですが、しかし潜在的なものはあります。母親が悪いのも事実なので、どうしてそうするの?お母さん、どうしてこうするの?お母さん、と言っているうちに性分なってしまったのです。娘の言葉は他でもない、むかし母親が娘に言った言葉です。自分がしたことが原因で、娘から返ってくるものが縁です。

「考え方が間違っているから苦しいのだ。正しく考えれば苦しみは消える」という原則を採用しましょう。娘が悪い。親不孝だ。あんなこと言うべきではない、するべきではない、と考えることが間違いなのです。自分の方が先に間違っていたと、考えを改めなければいけません。

 母親を不愉快にしている言葉の数々も、娘は何も気にせず、何も考えず、自動的に口から出てくるのです。母親は憂鬱でくやしくて、悲しくて、娘よりも苦しいです。苦しいのは母親ですから、罪も母親にあります。それが考え違いです。

 だからブッダは、つねに「自分が先に悪い。自分の方が悪い」と理性を換気するよう教えておられます。

 彼女がそれを理解したら、できるだけ気にしないよう、感情が生じても動揺しないよう、実践する努力をしなければなりません。戒のある平常心を維持します。

 顔や言葉で不満を表してはいけません。態度も感情も行動も言葉も、何も起こっていないように、何も変わったことはないように振る舞います。片手を打っても音がしない、という言葉のように。

 お寺の鐘のようにならないでください。音がするとすぐまた打ち返すので、うるさくてたまりません。ここで自分がちょっと休めば、音は徐々に静まっていきます。そして最後に、鐘は静まります。

 子供を理解すれば、慈悲の心が生まれます。他に実践しなければならないことは、平常心と、平生できちんとした行為、言葉を守ることです。

 布施は、問題を早く解決する力や助けになります。

      慈しみに満ちた眼差しを施す

      明るくやさしい微笑みを施す

      聞いて気持ちの良い言葉を施す

      許すこと。お互いに許し合う施し

      相手が喜ぶ小さなものを贈ること

 このような布施は、受け取る側の気持ちをすぐに変えます。喜んだり、幸せになったり、愛情が生まれたりします。

 この問題は、原因が分かれば大した問題ではありません。仏法の原則にしたがって解決法を実践すれば、問題は少しずつ解決に向かっていくでしょう。

 

まとめ

 業をさまざまな角度から分析検討する。

     自分自身の業がある(所有業)

     結果をもたらす業がある(帰着業)

     発生源としての業がある(同伴業)

     追ってくる業がある(愛憎業)

     頼りになる業がある(資産業)

 罪であれ徳であれ、自分で何らかの業を作ったら、後々、その業の結果を受け取らなければならない、と結論することができます。自業自得は動かぬ法則です。

 慈悲と注意力が生じるよう。あらゆる場面で、悪をすて善と正義の側にいる勇気と信仰が生じるよう。罪を恥じる心と、清浄な戒が生じるよう。心は向上していき、悪をすて善行だけをするようになり、最後には心を清浄にして善悪を超えた純潔にします。それが最終的な目標であり、精神修養の最高の利益です。これがすべてのブッダの教えです。

自分が悪い

 娘に口うるさく叱られる母親も、五百人の盗賊に殺されたモッカラーナ尊者も、マハーカーンも、事故で腕を失った女性も、罰を受け取ったどの事件のどの人も、現世、前世の違いはあっても、最初に自分が間違ったことをしたのです。

 モッカラーナ尊者とマハーカーンは、前世で積んだ業であり、娘に口うるさく叱られる母親と事故で腕を失った女性は、現世での業です。私たちを失望させ、悲しませ、くやしがらせ、苦しめるどんな出来事も、自分が悪い原因を作ったと理解しなさいと、ブッダは教えています。

 どんなに苦しくても心をしっかりもって、できるだけ考えないようにします。そう考えることができれば、他人を責めなくなります。自分を殺そうとする人さえ憎みません。自分の業の結果を受けるだけなのですから。自分が原因を作ったのです。相手は縁でしかありません。結果は原因から生まれます。

非常に悪い

 子供が水をこぼしたと腹をたてるのも、娘に文句を言われて怒り悔しがるのも、人に何か言われて腹を立て、心の中で一晩中責めるのも、普通の人は相手側が悪いと考えがちですが、仏法から見れば、子供はわざとコップを割ったのではない、とブッダは言っています。

 体の不注意、身業であり、子供の心は傷つきません。母親に小言をいう娘も、子供の時に躾けられた性分で自然にそうなるのであって、母を傷つけようという意図はないでしょうから、娘の心は傷つきません。誤りは言葉にあって、口業です。

 この二つの例にある間違いは、あまり大きくはありません。身業と口業です。しかし怒っている人、怒っている母親は、今まさに意業を積んでいる最中で、自分の心を暗く曇らせます。ブッダは、腹を立てている人の方が罪が重い、苦しみが大きい、間違っている、と言っています。

 もしそのとき偶然事故でも起きて、運悪く死んでしまったら、腹を立てている人は地獄へ落ちるかもしれません。しかし、コップを割った子供や、悪気はなく小言を言っている娘は、たぶん何でもないでしょう。

 だから「自分が先に間違いをした。自分の方がずっと悪い」と考えれば、他人を責めたり腹を立てたりして思い乱れることはないと、は言っています。

 あるのは苦と、苦の原因と、苦をなくすために実践する項目だけ。布施、戒、サマーディを楯に苦と闘います。道が生じれば滅も生じます。修行にも結果がでます。

 実践は常に自分自身を観察すること。いろんな出来事を検証して見ると、いつでも以前に自分が間違っています。だから後で間違うということはありません。

 何でも正しく使えば良い結果が得られ、間違った使い方をすれば害がありますが、仏法について話すことは特にそうです。まず冷静になって自分の心の状態を観察します。

 今自分の心は正常だろうか。慈しみと善意があるだろうか。自分の精神状態が良いことが分かったら、次に相手の精神状態を観察します。相手は聞き入れるだろうか。良い結果がでるだろうか。薬負けしないだろうかと。

 良く観察して両者の心の状態が良く、かならず良い結果が得られると確信できる時に話します。

      自分の気分が悪い時には話さない。

      相手の気分の悪い時、まだ準備ができていない時は話さない。

 ブッダの教えに対する信仰が薄れる、あるいは尊敬が生まれない原因の一つは、時と場合を間違えて仏法を持ちだすからです。相手の心を傷つけ、自分の我がままや煩悩を増やす原因になってしまいます。

 たとえば自分より劣っている人や、問題を抱えている人に対して、「それは、自業自得だよ」と切り付ければ、仏法は軽蔑や罵りの言葉で、相手をいじめて挫けさせ、すっかり気力を失わせてしまいます。これは、人生を幸せに導く慈悲と注意深さが生じるよう業を検討しなさい、というブッダの願いと正反対です。

           

慈悲の心の育て方

1.自分の身に起こるいろいろな出来事は、どれもこれも原因があって生じるので、自分が業を作ったと理解しなければなりません。心の中の怒り、欲張り、惑溺が原因です。百パーセント自分で責任を取るしかないのです。

2.相手を理解し思いやる努力をします。その人も、他の誰でも、自分と同じように苦しいのです。生まれ老いること、病気、死、失望、思いどおりにならないことで、苦しいのです。あなたの悪口を言っている人は、あなたより前から苦しいのです。慈悲を掛けましょう。たとえ相手が有利な立場であなたの方が不利な立場であっても、羨むことも悔しがることもありません。

 その人がいま有利で、悪い業、罪から得た幸福を味わっていても、例えれば、その人は二階で幸福を味わっていますが、階下は火が燃え広がっているようなものです。今から、たった今から、その人を憐れむのです。私たちは誰にも業を作りません。体と言葉と心を、善と正義の側に立たせる方が良いです。

3.知性を育てる訓練をする。

 気に入らないことがあって感情が生じたり気分を壊したら、理性をしっかりもって、ゆっくり深く呼吸を整えます。理性が自分に戻ってきたら、それを維持します。復讐を考えないよう、苦情を言わないよう、困らせたいと考えないよう感情を抑えます。考えるなら、正しく考えること、問題を解決する智慧と理性を鍛えることを考えましょう。

4.朝晩十五分ずつサマーディをします。朝食後、車の中、仕事を始める前、大切な電話をする前、気分を壊した時など、一日に何度もサマーディします。怒らない決心をし、将来に起こることの原因に注意し、心を管理します。他のすべての人たちに、たびたび自分を怒らせ苦しめる人や、嫌いな人にも慈悲を掛けます。いつでも善い考え、善い言葉、善い行いをする決意をします。

5.尋・伺・喜・楽・一境性の五支を育てる

 〔尋〕サマーディでいう尋とは、サマーディの対象に一心に心を傾けること。たとえば呼吸によって生じる触を感じること。

 〔伺〕尋が生じて意識が継続するようになると、間もなく伺が生じます。ここでいう伺とは、呼吸か長い、短い、重い、軽い、暑い、寒いなどを感じること。この感覚は心と止観を強く結びつけます。そして喜と楽が、続いて生じてきます。この世で最高の幸福です。

 サマーディの中の幸福に触れることができるよう、頻繁にサマーディします。心の幸福を維持できているとき、慈悲があります。慈悲と愛と幸福とが、心に満ちます。

 どうぞ生きとし生けるものが幸福でありますよう。業についての真実を理解すれば、智慧と本当の慈悲が永遠に身に付きます。

 

註:モッカラーナが神通力で天界に行った時、「天界に生まれたのは阿羅漢に布施をした功徳です」と天人が言うのを聞き、地上に戻ってそれを衆生に伝えたので、異教徒の恨みを買い、敵対者が雇った刺客によって殺害された故事による。

 

 アーチャン光男 カウェサコは、ポーティヤーンテーラ(アーチャンチャー スパトー)の初期のお弟子さんで、ウボンラチャタニー県のワット ノンパーポン寺のグループである、カンチャナブリ県サイヨーグ郡サイヨーグ村大字ターティエンにある、ワット スナンタワラーム寺のご住職です

 


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