人間の命は身体と心でできています。しかし日常生活を振り返って見ますと、いつでも体のことばかり気遣って、心の問題には無関心です。そして心の問題をほったらかして、体ばかり大事にしてきた結果はどうでしょう。それはみなさん良くご存じと思います。
お忙しい中、わざわざこうしてお集まりになったのは、体は涼しいエアコンの部屋の中にいても、心は地獄の業火に焼かれたように痛んでいること、そしてそれは、ほとんどの人間が心の問題をほったらかし、心を鍛練することを忘れていた結果だと、みなさん自身気づいているからです。
観察して、どうして心を発展させることを忘れていると分かるでしょうか。ほとんどの人は、通常自分の外側しか見ていません。外部を見、他人を見、いろいろな出来事やその周辺について学びます。自分の目で見、耳で聞き、誰かから話を聞くこともありますが、外部から何らかの情報を受け取った場合、私たちはその話を分析し、批判し、審査して最終的に判断を下します。
しかし考えて見てください。判断をしようと考えている間も、心は判断するべき情報に踊らされています。それが喜ばしいことだったら心は舞い上がらんばかりに軽くなり、気に入らないことだったら心は萎縮して重く沈んでしまいます。心の話を学んだことがないので、心の話に関心をもって学んだことがないので、心は重労働を強いられていると言うことができないでしょうか。
二十四時間、心は休む暇がなく、常に沈んだり浮いたり、あるいは右や左へ揺れ動いています。人に譬えれば、両頬をひっきりなしに叩かれているようなものです。悪いことをした訳でもないのにそんな酷いことをするのは、他の誰でもない、心の持ち主です。自分の心を傷つけ、心に対してあらゆる酷い行為をしておきながら、「わざとしたんじゃない」と言います。故意でない理由は、無関心だからです。
ですから心で実践しようとする人は、最初に外面を見ることから内面を見ることへ、外側を学ぶことから内側を学ぶことへ、方向転換をしなければなりません。内側を学ぶことについて話せば、何をどう学んだら良いか分からないので、かなり大変です。外側を学ぶならあらゆる物が揃っていますが、内側を学ぶことは目に見えません。
私がタンマに興味を持ち始めた時、指導僧に「内面を見なさい。心を見なさい」と言われました。心と心臓は別物と知っているのに、私は思わず胸の辺りを見てしまいました。心臓は体の臓器の一つで、血液を送り出したり吸い取ったりする働きをし、好きや嫌い、暑い寒いなどを感じる心と呼ぶ物は抽象的な物です。
しかし心を見なさいと言われた時、心はどこにあるのか、どこを見たらいいのか、考えずにはいられませんでした。自分を訓練する練習をしてしばらくすると、心を見て学ぶとは、心の中に生じる受を観察することと観察しました。
心が何を感じているか、心に生じている感覚を見て、涼しいと感じたら、それは涼しいという受が生じたことです。それが心の自然な状態です。暑い時は、心は暑いと感じます。それでは暑かったり寒かったりは、何から生じるでしょう。あるいは痛い、苦しい、興奮、狂喜などは何から生まれるのでしょう。
何がそういった受を生じさせるのかを辿っていくと、それは「考え」から生まれているのが分かります。生じて頭の中を駆けめぐっている考え、その考えが正しければ心は清々しく、その考えが間違っていれば心は憂鬱になり、不満を感じます。だから見えません。見たことがありません。だから心について学ぼうと思うと、何をどう学んでいいか分かりません。
私たちは、あまり自分の考えについて学ぼうとしません。何故学ぼうとしないのか。それは自分の考えについて学習すると、考えと自分の願望がかけ離れていたら怖いからです。それに考えを止めたら自分が馬鹿になるのではないかと恐れます。私にこんな質問をした人がいました。考えると心が乱れるから考えるのを止めなさいと教えることは、馬鹿になりなさいと教えることでしょう? と。
私は「そうです」と答えました。愚かになろうとする人は却って賢くなります。その賢さは学校や大学では得られない素晴らしい賢さです。大学を出ても、大学院を出ても、幾つもの分野の博士号をもっていても、心の内面について学んだことがなければ、率直に言ってその人はまだ愚かと言いたいです。
そういう私も、大学を出て学位をとった時は、自分は教育があるから賢いと自負していました。大学を出て良い職位があるから、人生においてある程度成功し、誰と話してもそれなりに話が出来るから、だから自分は賢いと自負していました。でも本当に賢いでしょうか。
自分は本当に賢いか、自問して見たことがありますか。もし本当に賢いなら何故心が泣き叫ぶのを放っておくのでしょう。本当に賢いなら泣き止まねばなりません。そして心は明るく清々しく、いつも微笑んでいます。そういう人が賢い人です。
だからまだ、心が常に明るく澄みきってなく、顔にいつも微笑をたたえていない人は、まだ愚かです。自分の心を訓練できないから、あるいはコントロ-ル出来ないから愚かです。だから心の実践について話すのは、人生で最も意味のあること、一番大切なことだと思います。どんなにお金があっても、何億という預金と莫大な遺産を相続しても、あるいはどんなに高い教育を受けても、心の実践が出来なければその人は気の毒な人です。
心の実践に関心のある人は、方向転換をしなければなりません。物の外面を見、外側ばかり勉強し、いろんなお喋りをする習慣がついていますが、面白可笑しく楽しい会話を戒の面から見ると、五戒、あるいは十戒の第四項に触れること甚だしいです。どれほど罪かは十悪業を見れば分かります。
ですから心で実践をしようとするには、生活習慣や関心の方向を転換することが絶対に必要です。無駄なお喋りを止めて必要なことだけを話し、できるだけ心の内面について学びます。心の内面はどうやって学んだら良いでしょうか。それは心の中に生じる受、考え、感覚、心の症状などを観察します。
しかし内面を見ることに慣れてない人、自分自身を甘やかしてきた人は、心を静めること、心を静めて心を観察することができません。心は常に飛び回っていて、一時もじっとしていることがないので、初めにしなければならないことは、いかにして心を静めるかという方法を探すことです。
ここに座っているみなさんは、当然実践を知っていて、慣れていることと信じます。それが、私たちが学ばなければならない心のパーワナーの話です。本当はサマーディパーワナーのことです。しかし私はチッタパーワナーという言葉が好きです。心を発展させる話という意味だからです。サマーディパーワナーという言葉は、いろんな意味で誤解を招き安いからです。
しかしチッタパーワナーと言えば心を発展させることです。どのように発展させるかは、簡単に言えば苦から安楽へ、混乱から安定へ、動揺から静寂へ、贋の幸福から本物の幸福へ、心を発展させます。みなさんそれぞれ自分の手法をお持ちかと思いますが、私が実践し、また多くの方々も実践してこられた方法がアーナーパーナサティパーワナー(呼吸法)です。
アーナーパーナサティパーワナーは呼吸を感情にします。そしてここでの感情とは意識する物を意味し、常に呼吸で心を意識します。スアンモークの大恩人はアーナーパーナサティパーワナー心を詳細に教えておられます。大きな四部は、体・受・心・タンマで、それぞれが四つずつに分けられて、全部で十六段階あります。ここで話す時間はありませんが、今日は簡略に大きな四つの分類についてお話したいと思います。これは関心のある人が試して見るには簡単で、実践しやすい方法と信じています。
身随観
体が混乱状態の中にいれば、心もその混乱に巻き込まれて静かでないので、最初に体を発展させることから始めなければなりません。ここで体と言うのは、特に呼吸です。呼吸で心を意識できなければなりません。呼吸で感覚を監視し、吐く息、吸う息を一時も休まず感じます。
私たちは生まれてから今までずっと呼吸をしていますね。いつ息を吸って、いつ息を吐いているか、意識できる人は何人いますか。それで無意識に人生を生きているか、それともしっかり意識して、つまりサティで生きているか分かってしまいます。
今この瞬間、息を吸っているのか吐いているのかも知らず生きている限り、それはサティに欠けて生きているという意味です。だから言ってしまってから後悔することが何十回何百回もあります。言うべきではなかったと後で気がついても、一度口から出た言葉を取り戻すことはできません。修正することはできません。七日七晩、泣き嘆いて悲しんでも、何も解決できません。
時には見苦しい態度や行為をしてしまうこともあります。それはなぜでしょう。それはその行為をする時、サティ、あるいは自覚がないからです。ですから人生で一番価値のある物はサティと見ることができます。もし人間が無自覚で生きるなら不注意だらけの人生になってしまい、不注意で生きれば死んだ人と同じです。
全部死ななくても、少なくとも半分死んでいて、人生も半分死なせてしまいます。何をしても間違いばかりで、見えたり見えなかったり、失敗ばかり多くなり、生きながら歩く死体のようになってしまいます。だから呼吸について学ばなければなりません。自然が私たちにくれた呼吸は、生きているだけでなく、まだ死なない、まだ歩けると確信させます。
しかしこの「歩ける、話せる、食べられる、寝られる、何でも出来る」がサティ(自覚)がない行動なら、話し間違い、し間違い、そして後で後悔して嘆き悲しみます。そんな生き方なら、生きることにどれほどの利益があるでしょうか。
本当は、呼吸は生活にとって、生活にとって様々な利益があります。最も価値があるのは、呼吸を道具にして体を静め、心を静めることができること、同時にサティが更に強くなることです。だから身随観の部では、特に呼吸に重点をおき、吸う息、吐く息を常に意識します。どこで意識するかは、結論だけ言えば鼻です。息を吸う時、息は鼻腔のどこかに当たり、息を吐く時も鼻腔のどこかに当たり、それはほとんどの場合同じ場所です。
本当は鼻腔全体を通過していますが、どこか一番敏感に感じ、心を観察できる場所を選んで、そこで呼吸を意識します。人間の心は、当然同時に二つのことは出来ないので、心を呼吸に縛りつけておけば、他の種々雑多な思索の間を飛び回ることはできないので、乱れた心も、次第に静まります。
だから初めの段階、つまり身随観の部では、意識を呼吸に集中させるよう努力し、心を無理やり呼吸に縛りつけます。一緒にやってみましょう。楽な姿勢で真っ直ぐに座ってください。なぜ真っ直ぐかと言いますと、呼吸を観察することを手段にするので、体が前や後ろに曲がっていると呼吸が十分にできないからです。足が組める方は足を組んでください。それが一番良い姿勢です。
それでは大きく深く、強く息をして、そして鼻腔のどの辺りが一番敏感に空気の通過を感じるか見てください。考えるのではなく、体で感じて、その場所を覚えてください。さあ、やってみましょう。みなさんが今までどんな手法を経験したかは重要ではありません。また、この方法をずっと続けてくださいとも言いません。ただ、どんなものか試していただきたいだけです。
ではご一緒に息をしましょう。一緒というのは、一緒に始めるという意味で、息の長さは人それぞれ違って当然です。心を鼻へ縛りつけて、空気が入った時、出た時、鼻を通過した時を、しっかり感じてください。緊張しないで楽な気持ちで自然に呼吸します。ただ「今息を吸った。今息を吐いた」と知るだけです。心がとりとめなく彷徨わないように、とまり木を作ってやるためです。
心を呼吸に縛りつけて監視させる方法、あるいは吸う息、吐く息を知ることはとても便利だと分かりましたか。なぜ便利かというと、何処で何をしていても、いつでも呼吸をしています。だから呼吸をしている時は実践する機会で、言い訳はできません。ルアンポー・チャーはアーナーパーナサティを教えておられて、在家の弟子たちがよく「家に帰ると忙しくて実践する暇がありません」と言うと、「で、息をする暇はあるの?」と聞いておられました。
もちろん「息をする暇はあります」と答えるしかありません。息をする暇がある限り、パーワナのを実践する暇がないと言い訳をすることはできません。これは良いと思いました。アーナーパーナサティは実践を怠ける自分自身への言い訳がないので、いつでもどこでも実践できます。
この身随観の部では、意識を呼吸に縛りつけて、その出入りを常時意識できたら、呼吸をコントロ-ルして静められなければなりません。呼吸が浅く小刻みな時、体はどうですか。気分が悪いでしょう。胸苦しく疲れを感じます。呼吸の観察を続けていくと、そのうちどういう呼吸の時、気分がよくて、どういう呼吸の時、心や体が混乱しているのか分かってきます。
息が長く深く軽く、滑らかなら滑らかなほど体も気持ち良く、心も快適です。呼吸が浅く小刻みになったら、それは心に何か異常が生じた証拠です。その時は浅く小刻みな呼吸を、ゆったりとさせる努力をします。ゆっくりと少しずつ吐いて、ゆっくりと少しずつ吸って、呼吸が正常に戻れば心も落ち着いて来ます。そしていつでも自由に呼吸を支配できるようになれば、第一部の身随観の部が、ある程度成功したと言います。
最高に簡単に言うと、体と心を静めるために、体、特に呼吸を自由に支配することから始めるべきです。安定した体と心を土台に、あるいは道具にして、その後の自然の話を熟慮するからです。このカーヤーヌパッサナー(身随観)の部は、例えれば家の基礎のようなものです。頑丈な家を建てるなら、頑丈な基礎を造らねばなりません。
頑丈な基礎造りには、何としても呼吸を支配する身随観の部は非常に重要です。今息を吸っている、今息を吐いていると常に知っていれば、それを「サティが心にある」と言います。いつも心にサティがあれば、話すことにも成すことにも誤りは減っていき、最後にはまったく無くなります。
受随観
受とは生じてくる感覚のことです。人は何故苦になるのか、観察したことがありますか。それは受があるからです。私たちは生まれてから現在まで、つまり物心ついてからずっと受の奴隷です。受を支配できる人がいれば、その人は世界を支配することも、世界を踏みつけることも、掌中に納めることもできると言います。この場合の世界とは、心の中に広がる世界という意味です。
今明るい世界もすぐに悲しみに曇り、すぐに暗くなり、また傷つき、ほとんどの人の世界は一日に何回も変化します。しかしここにお集まりのみなさんは、それほど多くはないと思います。一日に一回、二回、あるいは三回。もし一日に十回も世界が変わるようだったら、すぐにも注意深く解決を図らなければなりません。一度も変わらなければ、それは明朗で清澄な世界かも知れません。
いずれにしても自分の世界がどう変化するか、美しいか真っ暗かは、心に生じる受次第です。だから心に静かさと心の実践があれば、心は更に静かになります。だからブッダは受を観察するよう教えています。心の中にある受を観察します。そして一番観察しなければならない受は、幸福の受です。何故なら人々が日々追い求めているもの、それは幸福だからです。
それに幸福は癖になり、中毒になってその味を忘れられなくなります。愛らしい物、美しい物を愛する人、抱きしめる人、近寄ってくる人は数限りなくいます。でも、醜い物からは遠ざかります。人は幸福と呼ぶ物のそばに行きたいのです。
スアンモーク寺に一人のアメリカ人が描いた絵があります。それは、なぜアメリカ人がこれほどまで深いタンマの絵を描けたのか信じ難いほど、深いタンマの考えと知識を教えている絵です。その絵は完全なる自由、解放を表していて、「この世界には幸福さえないと知った時、解放された」と画家自身のメッセ-ジが添えられています。
この世界には幸福さえないと分かった時、究極の幸福に出会いました。終わりのない幸福、分量のない無限の幸福です。その絵を描いた人は、名前をエマヌエル・シューマンと言い、ハリウッドに住んでいろいろな絵を描いていましたが、その後仏教に興味を覚えてタイを訪れ、チャイヤーのスアンモーク寺を訪ねようとしました。
ところが何故かは知りませんが、スアンモーク寺へは行かず、パガン島へ渡って、そこで亡くなってしまいました。残された持ち物の中には多数の絵があり、それをスアンモークの住職に献上した人がいました。その方が見ると、それは素晴らしく価値のある物と分かりました。絵に隠されたタンマの意味は、それを見る衆生にとって計り知れない価値あり、幾らお金を積まれても売ることはできないと言われました。その後壁画として複写されました。
その絵は「解脱したぞ! 自由だぞ!」と言っています。なぜ解脱したのか。それは幸福さえこの世界にないと知ったから。この絵を見た人はみな、恐れを感じます。この世界に幸福がないなら、なぜ生きるのか分からなくなってしまうからです。人間が日夜精進努力していること、勉強にせよ、仕事にせよ、骨身を惜しまずやっていること何もかも、幸福のために他なりません。
それを今、この世界には幸福さえないと分かったと言われたら、何のために生きるのでしょう。西洋人は特に混乱するようです。もしそうなら、名誉や個性もなくなってしまう。だったらなぜ生きるのかと。それはタンマとは何かを知らないからです。タンマとは何かを知ればこんな質問はしません。そして名誉や個性を失うことを少しも恐れません。
受について熟慮する時は、特に幸福の受を注意深く観察し熟慮しなければなりません。すべての受、特に幸福の受を「幸福の受、あるいはその他もろもろの受はただのまやかし、本物ではない」と分かるまで観察します。
なぜ本物でないのでしょう。何か悲しいことがあって十年泣き続けた人がいるでしょうか。あるいは二十四時間、休みなく泣き続けた人がいるでしょうか。そんな人はいません。どんなに辛く悲しいことでも、涙の止まる時が来ます。乾く時が来ます。
あるいは喜びに明るい笑いが止まらなくても、七日七晩笑い続けられる人もいません。無理やり笑い続けたら死んでしまいます。休まなければ死んでしまいます。幸福も苦も、喜びも苦しみも、好きも嫌いも、例外なく常に変化していて、不変だったことはありません。それは人間に休む時間を与えてくれます。
人間に休む時間を与えてくれるものは何でしょう。それは無常です。無常によって状況が望ましくない状態に変化すると、人は驚いて悲しみ、なぜこうなってしまったのと不満や恨みに思いますが、どんなに無常によって助けられているかを知りません。苦しみに胸を詰まらせて死なないで済むのは、自分を抑え続けて死なないでいられるのは、無常があるからです。無常によって次々に何もかも襲って来るからです。
ですから心の中のいろいろな受をじっくりと観察し、息を吸い息を吐いている時いつでも、すべての受を観察します。特に喜びの受は仮の物とはっきり分かるまで。今後それらの受の奴隷にならないためです。そうすると心の中の世界は一つだけになります。誰もが望むたった一つの世界。私たちが心の中に築こうと努力している世界です。
休みなく受の観察を続けて、受が変化すること、受の無常が見えれば、複雑怪奇なこの世界もたった一つ、明るく澄みきった穏やかな世界だけになります。それは、喜びも悲しみも、幸せも苦も、すべて空っぽと知っているからです。
幸せを受を虹に例えることができます。虹は微妙な複数の色でできていて、子供の頃、虹を見つけると友達を呼んで眺めたものです。大人たちは「指を差しちゃ駄目だよ、指が切れちゃうよ」と言いました。指が切れる。その頃の私たちには、指が切れるという意味を知りませんでしたが、指が切れるのが怖くて、指を差しませんでした。
タンマを学ぶようになってから、指が切れるとはこういうことなんだと気がつきました。幸福の受にあこがれたら、切れてしまいます。切れるのは指だけでなく、心が千々に切り刻まれてしまいます。それは幸受にあこがれるからです。
虹がほしい。虹がほしい。特に西洋人は虹が好きで、子供が虹を自分の物にしたがる話は絵本にたくさんあります。虹がほしい。自分の物にしたい。でも、誰も我が手に掴んだ人はいません。ただ美しい姿を見せるだけ。それも束の間。長く存在する虹はなく、すぐに消えます。
苦受は煙に例えることができます。火を熾そうとすると煙が出ます。煙は見えますが掴むことはできません。煙はみんな嫌いで、美しい虹と違います。煙に近づくとむせて息苦しくなります。おまけに色も美しくなく、臭いも良くありません。煙は手で掴もうとしても掴めません。煙の中に手を入れて握りしめ、自分では掴んだつもりになっても、手を開いてみると煙はどこにもありません。
苦も同じです。心に苦が生じると胸が張り裂けそうで、胸の内側が焼かれるように熱く、心の中は真っ暗、または灰色で、息苦しく感じますが、実際にはそう長くはありません。すべては同じまやかしですから。しかし人間は幸福を虹のように美しい物と思って欲しがり、苦を煙のように醜いと嫌って遠ざけます。でもご覧なさい。幸受も苦受も、すべてはまやかしです。
だからアーナーパーナサティ受随観の部の重要な目的は、「すべての受はただそれだけのもの」と見ることです。そして最も恐れなければならない、注意しなければならない受は幸受です。なぜなら引き寄せて掌握して自分の物にするからです。実践をする時は幸受を見て、すべての受を見て、はっきり見えるまで、嘲笑して追い払えるまで見ます。そして心に生じた受をいつでも静かにさせることができれば、第二部の実践が成功したと言います。
心随観
受は、本当は心の症状ですが、心は抽象的な物なので心を取り出して見ることはできません。見たり触ったり感じたりできる肉体と違って、見ることも触ることも出来ません。目に見えない物なので、心の状態を見ることで心とはどのようかを学ばなければなりません。心の周辺に生じる症状を観察すれば、心の自然の状態がどのようかを知る指標になります。
だから心随観の部は、ひたすら心の状態を観察します。幸福、苦、満足不満足、好き嫌いなどの受以外に、発生してくる心の症状を見ます。心の症状を見ていくと、何かを見て引き寄せる状態になることがあります。何を見ても引き寄せ、引き寄せて自分の物にしたい。簡単に言えば、欲しい、欲しいですが、それは「引き寄せる」状態があります。しかしそれは物質ではなく、心に現れます。
欲しい欲しいと思わせる物には、物や財産、お金や人などの具体的な物、物質的な物と、目に見えない抽象的な物がありますが、怖いのは、愛など抽象的な物です。異性間の愛に限らず、親子の間の愛でも、何人も兄弟がいる場合など、自分だけ母親から愛されたい、他の兄弟を愛してほしくないという思い。あるいは友達同士も同じで、自分だけを愛してほしい。まして男女の間なら、私一人という思いはますます強烈になります。だから毎日新聞紙上を賑わす事件が尽きません。
引き寄せたい。引き寄せて自分の物にしたいからです。愛でも親切でも、あの人にもこの人にも親切にしていいけれど、私が一番。他の人に私より親切にしないで。能力もそうです。他人が優秀でもいいけれど自分より下であってほしい。自分と肩を並べること、まして自分を追い越すなんて絶対に許せない。いじめや嫉妬が生まれるのもこのせいです。すべては抽象的な物です。
「私には欲なんてない。何でも人にやれる。あればあるだけやってしまう」と言う人がよくいます。「配偶者、あるいは恋人の愛を誰かに分けてやれますか。あなたが周囲の人から受ける親切、あなたの才能、名声名誉を人に分けてやれますか」と聞くと、黙ってしまって答えません。これらは非常に微妙で奥深く、巧妙に心の奥に隠れています。抽象的な物の貪りは非常に巧妙です。
だから人間同志の揉め事は、どこの世界にもあり、尽きることはありません。タンマを探求する世界にもあります。ですから何かを引き寄せようとする状態には最高に注意しなければなりません。引き寄せるのは貪りです。私たちは物質的な欲をもってはいけないということは良く知っています。そして物質的な欲は捨てることができます。物、お金、食べ物、衣類などを分け与えるのは簡単です。
たくさん持っていれば尚のこと簡単です。でも心が望まない物を分け与えると、心は悲しみに曇り、暗く沈んで、なかなか分けることができません。ケチだからです。すごくケチです。だから実践者は、心が静かな時、吸う息吐く息を見て支配できるので、何時でもサティがあり、サティがある心を使って、今心はどのようか、引き寄せて自分の物にしたい症状があるか見ます。
時には反対に引き寄せないで突き放し、いらない。引き寄せるは要るですが、突き放すは要らない。気に入らないから、好きでないから要らない。これは怒りの症状で、怒りの症状とは嫌悪です。
だから心の中にこのような症状がよくあるか観察します。よく引き寄せるか、あるいは突き放すか。欲しいのか要らないのか。いずれにしても心を異常にし、乱します。何度も投げつけたり叩かれるのと同じです。強く叩かれるか軽く叩かれるかは、動揺が大きいか小さいかに寄ります。そういう心の症状を観察してください。
いつも引き寄せてばかりなら欲張りで、欲張りはケチです。そしてこの欲張りは、人を焼き餅やきや心配性、詮索好きなど、あらゆる悪い性癖に誘います。欲張りが原因で怒りっぽくなり、拗ねたり僻んだり人を憎むようになると、何が何でも自分の意のままにしないと気が済まなくなります。
時には引き寄せもせず突き放しもせず、鬱々とキリもなく考え続ける状態もあります。考えを振り払うことができず、立っても座っても、寝ても起きても考えています。昼も夜も、一週間も一か月も考え続けることもあります。これは三番目の煩悩、痴で、同じことを繰り返し考え続けます。
要るか要らないか、好きか嫌いか、正しいのか正しくないのか、決心できないで行ったり来たり。時間の無駄です。時間の無駄だけでなく、顔には苛立ちの色が濃くなり、何もかもが真っ暗だと感じます。こんなに明るい世界が真っ暗になります。心の中の世界は真っ暗で、どこにも光は見えません。いつまでもくだくだと考え続けているから、断ち切れないからです。
これは恐ろしい状態です。精神病院へ行かなければならない病気はこうして始まります。考えを止めることができないことから始まります。考えは堂々巡りで振り切ることができません。こうなったら、いずれ病院へ入院するしかありません。だから心の状態は怖いです。
第三段階のチッターヌパッサナー、つまり心随観の部について話していますが、心の自然の状態はどのようかを知るために、心の状態を知ります。人間は大抵、自分は善い人だ、善人だ、親切だ、優しい、慈悲深い、利己的ではないと自慢している、あるいは内心自惚れているものです。しかし心の内面について学び、心の内面を観察する時は、自分自身に正直に素直に学んでください。
タンマの実践をする人の最も価値あることは素直であること、自分に対して素直であることです。順調でないことは順調でないと認め、憂鬱である時は憂鬱と認め、まだ成ってない時は成ってないと認めます。素直に認めなければ解決や修正のチャンスはないからです。
ですからよく観察してください。自分は欲張りじゃないと思い込んでいることが山ほどあります。自分は腹を立てていないと思い込んでいることもいっぱいあります。迷っていないと思っていることもあります。私は惑溺したことはないと誇らしそうに言う人がいます。そういう人は心の中を覗いて見れば分かります。ちょっと迷いを止めるだけで、すっかり明るくなります。
そうすれば腹を立てなければならないことはなく、欲張ることもありません。迷い、あるいは痴はいろんなことに波及していきます。だから第三部、心随観の部では、一つ一つの呼吸を意識しながら、生じている心の症状を観察します。見れは知ります。見ればだんだん原因が、生じた原因、そのようにした原因と縁が見えます。
心の症状を観察して、心の自然な状態はどのようか知ったら、第三部、心随観の部の目的を振り返ってみましょう。第一部からこの第三部までの実践をしてきて、心が強くなったか、つまり心をコントロ-ルする力がついたか、心を静めたい時すぐに静められるか、心を明るく喜悦で満たしたい時自分で自由にコントロールできるか、試してみてください。
そのようにできるようになれば、私たちの実践は正しい方法で行われ、心が力をつけた証拠です。心が受や心の状態に支配されないで、受や心の状態を支配できるようになれば、その人のタンマの実践は成功しつつあると言います。
法随観
第一部、第二部、第三部と順に心の基礎を敷く準備を整えて来た目的は、法随観と呼ぶ第四部でヴィパッサナーを実践するためです。静かで清浄で、平らで、明るく安定した心でタンマを見ます。自然界の真実であるタンマ、三相(無常・苦・無我)を見ます。無常については、変化がはっきり見えるよう観察して「このようだ。変わらない物は何もない」と学びます。
無常が見えると、間もなく少しずつ苦、憎悪、苦悶、傷心、困難、空虚などの状況が見えます。苦の状態の虚無は、空とはまったく違います。空という意味は、何にも囚われたり執着することがないこと。心を覆い隠して支配する物より上にある究極の自由。世界にあって世界より上の物。
そういう状態が空ですが、苦の意味の空(虚無)は非常に軽く、侘しく、心が虚しい状態です。恋人がいる人が、どこへ行くにも一緒に行動していると、心は温かいもので満ち、道を歩いていても、バスに乗っていても、食事をしていても、傍にその人がいれば世界は自分の物と感じ、世界は輝いていて意味があります。
しかしすべては無常という法則の下にあります。ある日変化が生じ、恋人が自分を捨て、もっと可愛い人の方へ行ってしまいます。一人残されたその時、空虚な気持ちに襲われます。空虚感は軽く、胸の奥の何かが欠損したような空です。誰もいない。何もない。何もかも、もう生きていたくない程に人生の意味を失ってしまいます。苦の意味の空はこのようです。
苦がはっきりと見えるまで観察を続けると、間もなく、それまで執着していた自分はないという意味である無我の状況が、自然に見えてきます。考えなくても、自然に現れてきます。実践をしたことがある人は当然知っていますが、「見える」というのは考えて理解するのと違い、観察から生じます。観察すれば見えます。考えれば考えるほど見えなくなり、考えれば考えるほど遠くへ逃げます。
法随観の部では、発展させた心で、タンマの話が見えるようになるために、そして最後には「滅尽」、すべての欲がなくなる状態に達することができるまで、更に深く内部の実践をします。これがアーナーパーナサティの教えを使ったタンマの実践です。全部で十六段階ありますが、時間がないので簡単に四部に分けてお話しました。
心の実践、あるいは心の実践の練習について話すと、話したのはたくさんの手法の中の一つなので、少し試してみて、「やり安い。良い方法だ」と思った方は実践して見てください。
次に心の実践をする上で、一番多い障害は何かを見ます。何が望んだような心の実践の結果が現れるのを妨げるのか、経験のある方はきっと答えられます。目を閉じて心の中を見る時、みなさん、誰も静かでお行儀良く、喜ばしく見えますが、当人は「そうじゃない。私の心の中は静まってなんかいない。心の中は普段以上に乱れて、暴れまわっている」と知っています。
何が原因か観察したことはありますか。観察したことがない人、あるいは観察しても答えたくない人のために、私が観察させていただくと、私が自分自身の観察から分かることは、考えです。考えが割り込んで来るから、考えが私たちの実践の邪魔をして、心の観察を分断させ、ぼろぼろにしてしまいます。
考えが一番大きな障害であり、犯人です。考えの他にも、過ぎ去った思い出が混じることもあり、将来の夢をあれこれ加工して描くこともあります。だからブッダは「加工する心は苦」と言われました。自分の心で勝手に加工するのを止められれば、最高に幸福です。だから心の実践の最大の障害物は考えです。障害物である考えに勝ちたければ、何としても心を呼吸に固定させることを増やしていかなければなりません。
もしかすると、心が呼吸を観察していられるのは五分くらで、すぐに考えに誘われてどこかへ行ってしまうかもしれません。しかし構いません。怒らないで優しく呼び戻して、また呼吸に固定させて呼吸を見ます。次は七分くらいで、またどこかへ行ってしまうかもしれません。
冷静になって心の自然の状態を知り、腹を立てないで微笑んで、また心を引き戻して呼吸を観察します。次は十分続くかも知れません。イライラしなければ時間は少しずつ長くなっていきます。でもイライラしたり、腹を立てたりすれば、十分できたものも五分、あるいは一分しか続かなくなってしまうかも知れません。
なぜか観察して分かる人はいますか。ほとんどの人は実践を始める時、成果や上達を期待しています。社会的に成功したことのある人は尚更です。なあに、ただ座って目を瞑るだけ。簡単、簡単、と思っています。その自信や意気込みが障害になり、「葢」になります。アーナーパーナサティパーワナーの手法を使って心を呼吸に縛りつける所を、「何としてもする。何としてもする」になります。
分かりますか。それが実践を出来なくする障害になり、蓋になります。
ですから人間にとって大きな障害物は考えと知ってください。そして考えの中に自我の期待があります。その自我も、自我と仮定しただけの自我ではありませんか。ですから無我についてもっともっと観察して、何もないと分かるまで観察してください。自我は緩みます。期待をしなくてもいいです。ここで慎重に注意すべき実践は「すること」と言いますす。出来てもし、出来なくてもします。
だから、心の実践はどこでするかは、内面を見ます。どのように見るかは、感覚、感情、心の症状、くるくると変わっている受、心を乱しているいろんな考えを観察します。心を発展させるとは何を発展させるのかは、邪見である考えを正しい考えに発展させます。私たちは正業を営む真っ当な人間ですが、何度となく邪見である考えをすることがあります。
邪見というのは、考えている時、あるいはその考えが心を乱し、良い気分がしないなら、それは誤った見解、間違った考えです。考えている時、心が明るく澄んで安らかで、益々清浄になって行くなら、それは正しい見解である考えです。
何のために心で実践するかは、私たちを苦にする邪見である考えを、より正見である考えに発展させるためです。そうすれば心は軽く快適になります。だから心の実践はここで実践し、考えを発展させます。
常に呼吸で心を意識することができれば、サティも常に心にあり、サティがあればあるだけ、強ければ強いだけ、行動も正しくなり、話す言葉も正しくなります。すべては正しい見解がある心が原因だからです。
心での実践の目的は何かは、本当の幸福である穏やかな幸福のためです。人間が誰でも探求していますが、間違って掴んでばかりで、手にすることができません。本当の幸福を手にするには、心に逆らって、「私の心」を「私のない行動をする心」に変えなければならないからです。
できた時、そこに成功があります。成功を掴んだと言わないでください。できた時が成功した時、心に本当の幸福が生まれた時です。
より詳細な解説 http://buddhadasa.hahaue.com/ana-sizenhou.html
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