三宝信仰の厄介な問題

 

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 三つの宝石という意味の「三宝」という言葉は、仏教界では三種類の最高に重要なものに使い、つまりブッダと教えと僧です。宝石と呼ぶのは、知って、あるいは理解して所有すると、宝石の価値を知っている人が宝石を持っても、自分は金持ちだと満足するように、その人を満足させ、そして幸福だからです。しかしイソップ童話の「雄鶏と宝石」のように所有するという意味ではありません。

 今人々が信仰しているのを観察して見ると、三宝と呼ばれるものは二種類産み出されたようです。産み出した人自身が気付かなくても、外皮である三宝と中身である三宝が生まれました。いずれにしても、どちらも利益があると見なします。というのは、私たちは愚かな人と賢い人、自分を騙すのが好きな人と好きでない人がいるので、外皮の三宝は子供と子供のような知能の大人のためにあります。

しかし彼らが同じように三宝と呼ぶのは認めなければならず、絶体に「外皮の三宝」と呼ぶことはできません。もう一方の中身の三宝は、一般の目が明いている大人のためのもので、特に阿羅漢になっていない人です。阿羅漢になってしまった人は、三宝を欲しがらないないからです。

 外皮に分類されるのは、浅い知恵の人が三宝として信仰する物体を意味します。ブッダの外皮は、ブッダの肉体である体から、仏像、仏足石、菩提樹なども含まれ、プラタム(仏法)の外皮は、仏教の教えを唱える声、経典の書棚、三蔵の経典、その他、みんなが仏法の代わりに拝む物質で、僧の外皮も同じように、出家者として出家している人の体から、出家者の象徴であるいろんな物まであります。

 本物である部分は、学習者が慧眼で見ることができる本当のそのもので、ブッダとは智慧、あるいは私たちの苦を無くし、憂鬱を無くし、疑念を無くし、明るく(何でも知ること)、本当に幸福にする知識で、プラタム(仏法)は真実、あるいは幸福に到達する滅苦の方法の、真に公平な法則で、あのブッダの智慧も、他のブッダの智慧も、タンマ、あるいは真理、あるいはブッダが発見した幸福に到達し、滅苦の手法の真に公正な法則に関しては、当然同じです。

僧とは、ブッダの教えを聞いて、ブッダと同じように滅苦に関して明らかに知った人の智慧で、違うのは、ブッダのように自分で発見しなかっただけです。あるいはもっと短く言えば、素晴らしい真実を自分で発見する道具である智慧がある心がブッダであり、その真実がプラタム(法)であり、滅苦の道具である智慧のあるブッダに続いて知った人の心が僧です。このブッダ、プラタム、僧という名前は、三つの大事なものを呼ぶために仮定してつけた名前であり、この三つを良く知る、あるいは理解する人によってつけられた名前と理解するべきです。

 まだ一緒になっているもの、つまり、外皮と中身に分かれていないものは、中身と、中身が依存している物を一緒に見ています。形の面と名の面のどちらか片側だけを見ない中間レベルの人の見方で、普通の人と、簡単に見える賢い人にふさわしいです

 このような見方でのブッダは、体の中にある心、あるいは智慧を含めたブッダで、プラタムは、出合った人を気付かせるもので、滅苦の真実の法則と、それらによって出合うことができた物、そしてその人が経験した仕事や、その人が三蔵の勉強で探求する真実も含めた、真実の法則の理解を助けるもので、僧とは、純潔な心も含めた体、そして体の中にある、ブッダに従って実践するタンマを知っている人の智慧です。

 外皮と中身が違うことは真実でも、私たちは、往々にして二つを一緒にして同じものと呼びます。つまり皮と肉とを合わせて、それと呼び、たとえば皮と肉を一緒にドリアンと呼びます。名前の所有者である名誉を受けるべき性質なら、誰でも、食べられる肉を指すに違いありません。

 しかし簡単に理解するために、全体をドリアンと呼び、広い意味でドリアンの木を意味することもあり、目のある人がドリアンという言葉の意味を探るに任せています。そして誰でも、どんなに知恵が低い人でも、ドリアンという言葉の本当の要旨である、食べられる部分を欲しがり、すべての人の理解は当然このようで、リスも同じです。

 三宝については、本当の要旨は一つだけで、三つは一つという意味です。キリスト教の三位一体 Trinity の状態と反対です。一つだけと言うのは、プラタム(教え)で、人がブッダになれるのは、自分の中にあるタンマと、自分で見つけた自分によってです。

プラタムは至る所にある状態で、初めも、中間も、終わりもなく、世界全体を支配している真実の法則にすぎないので、過去も未来も、誰かにとっての現在もありません。誰かの中に入ると、その人はすぐに変化します。僧が僧になれるのは、ブッダ自身がしたように、ブッダが教えた方法で、教えをたわめて自分の中に入れるからです。だからブッダ、タンマ、僧の三つは、要旨としてバラバラなものは何もありません。

 しかしこれから三宝を信仰する人が明らかに見、簡単に理解して把握するために三種類に分類して、物質側のものである三種類の違いをハッキリ見せます。最高の真実では、三種は同じです。そして、初心者が簡単にあるレベルの信仰するために三種類に分けるのは、まだ十分ではないので、初めに外皮で説明し、後で本当の中身の説明をしなければなりません。

だから外皮を通り過ぎて肉に達して三宝を理解するために、三つの肉を一つにまとめてプラタム(教え)だけにすることを知り、世界を覆う光芒のある世界と反対のものだけ、すべてのものを一つの真実の法則で経過させる威力のあるものだけにします。それは一般の人に簡単にできることではありません。

 

 『私の黄衣の端を掴んで、毎日どこかへ一緒に行き来しても、タンマが見えない人には如来(ブッダの一人称)は見えない』。これは、「ブッダの外皮(体)を見る人は、ブッダを見た人と呼ばれない。タンマ(つまりシッタッタ王子をブッダに変えたもの)が見える人がブッダを見た人と呼ばれる」という要旨を説いた、ワッカリに言われたブッダの言葉で、この意味のタンマを見ることは、外皮と本当の中身を見ることだと、ハッキリと分かります。

タンマから分れた部分である三宝を見るのも同じです。ブッダが『タンマが見える人は私が見える。私が見える人はタンマが見える』と言われたのは、ブッダとタンマは同じであると説いています。体はタンマでも如来でもなく、タンマあるいは如来の外皮にすぎないので、外皮と中身を見ることは同じではなく、厳格に分けることができます。

 しかし外皮と中身を見ることはこのように違っても、仏教の道徳の範囲では、外皮と中身の両方を見なければなりません。そしてプラタム(仏法)の部分にも外皮と肉が依存し合って世界の利益になるので、私たち全員の義務は、それぞれを正しく、真実と一致するように見なければならないことだけです。

 そうしなければどちらの側も頑固に、自分は正しく他は正しくないと見なし、どちらの側にもそれぞれの理由があるので、奪い合いや軽蔑し合いが生じます。

 「外皮と中身(肉)のどちらも必要」というのを簡単に考えて見ると、「甘さは存在場所である砂糖キビ液や椰子糖液に依存しなければ、人間の舌に現れることはできない」と見ることができます。容器である壺やビンがなければ、砂糖液を保存することはできず、皮を剥いてしまって中身だけにしたら、マンゴスチンをしまっておいて食べることはできません。

 子どもは、名である心と呼ぶものが自分にあることを知らないので、智慧や、私が「本当のブッダ」と呼ぶ純潔を知ることができません。しかし、そういう歴史があるブッダと言えば、あるいは本堂の大切な仏像を指してブッダと言うのは、何も信仰するよう教えないより良いです。考えのない大人は子供と変わらないので、ここでは子供とします。

考えのある大人は、名であるものを知ることがだんだん増えていくので、大人になれば、「所帯を持つ」という言葉の意味を、四、五歳の時より良く理解するように、誰に教えられなくても自分で観察して、あるいは絶えず内面の勉強をすることで、自然に、本当のブッダを知ることができます。

 幼い時は、悪に傾くのを防ぐために信じることができる、簡単な教えがふさわしいです。その時はまだ理論的な思考がないので、理由を知りたがりません。無理に理屈を押しつければ、複雑で面倒と見て関わろうとしません。子供たちが自覚ある仏教徒であるために三宝を信仰させることはこの真実にあるので、私たちは、道徳の範囲にある皮ごとの種類を信じなければなりません。子供の時から心を染めるために、すべての子供たちに三宝を信仰させたいからです。

ブッダの時代には、三宝を信仰させる規定は見られず、大人でも三宝とは何かを知りませんが、自分のものを信じ、自分はそれらの人の要旨である三宝を敬っていると宣言しました。だから皮ごとの種類を信仰する必要がなく、現代人の私たちの願望と一致します。それは、心の力で自然にするのでなく、伝統を重視しすぎていると良く知っています。だから信仰、あるいは信仰の功徳を受け取ること、あるいは道徳の行動は二種類、つまり風俗習慣である功徳と、信仰と同等の本当の功徳になりました。

 真実仏教の中身は、理由、あるいは智慧、あるいは哲学の仲間、つまり賢い人にふさわしいもので、たとえば三宝の信仰は、智慧で明瞭に三宝を知る人だけが信仰しました。今は子供も大人も、愚かな人も賢い人も中くらいの人も、誰もが信じることができる一般的な宗教に変貌したので、人々が求める広大な結果のために、私たちが信じる宗教と、信仰の仕方の形を変える必要がありました。

 内的理由や事実はこのように変化しましたが、外面をふさわしく変化させないので、考える人の間に奪い合いや反論が生じ、外皮を通り抜けて果肉を信仰することを知らない人の集団に、無益な盲信が生まれ、それが両方のレベルの人々の仲を悪くします。涅槃へ到達する乗り物にする目的である三宝の信仰は、大海を渡る筏に譬えられますが、出発前に、振り回して内輪もめに勝つための武器に使います。

あるグループは高い知識があるのを自慢し、他のグループの知識やその人たちの信仰を軽蔑し、吐き気を催すような態度を見せ、低い知識の人たちは執着で信仰し、三宝とは何かを、つまり寺の東屋で話されている、昔から言い伝えて来たパーリ語の勉強だけで、それ以上に知る気はないのに、三宝と死ぬ覚悟はあります。初期の頃のパーリ経典に、三宝に惑溺しすぎた人の話があります。

これらの人たちを「ムドゥパサンナー」と言い、三宝を愛すので、比丘にとって性交は珍しいものなので、お供えすれば大きな徳になると騙す比丘が、性的な奉仕をすることも認めます。本当の中身と間違えて、外皮を、おまけに偽物を正しいと見なします。この種の人を現代に置き換えると、純金で塔を覆うのを承知する人たち、あるいは余って捨てているのを見て知っているのに、まだその寺に食べ物を献じる人たちと同等に見えます。

死ぬほど飢えている隣人がいるのに、投資して灯油を買って明々と灯し、仏像や塔を祭ります。同じ人間が、欠乏による真っ暗な場所で貧苦に喘いでいるのに、です。その種の人たちは、他人を助けることは善と知らない訳ではありませんが、彼らがそうするのは、三宝だからします。彼らの見方では、貧乏人の援助は三宝でもないし、三宝に関係も無いので、割に合わないと見るからです。

 これです。知識を踏みつけにするのと騙され易さには正反対の違いがあっても、どちらの側も悪い結果になると見ることができます。しかしもう少し詳しく見ると、信じやすい人は、いずれにしても宗教の外面を育てるので、妄信は何かを失ってもまだ有利だということが分かります。一方知識を踏みつけにする人は外皮も肉も失いません。大抵は横着で自分勝手で、時には信じやすい人を利用して騙します。

 

 本当に満足できる正しさにしたければ、椰子の実の固い皮を剥き、柔らかい皮を剥き、そして殻を割れば中の肉を食べることができ、あるいはココナツミルクを絞ることができるように、目を明けて見て、少しずつ皮を剥いて捨て、最後に果肉に到達することで三宝を信仰しなければなりません。もし皮に止まっているなら、「皮が欲しい訳ではない。自分は中へ入るために皮に止まっている」と知るべきです。

仏像を拝むのは、極楽へ行くことと引き換えにするため、あるいは自分がなりたいものになるために、ああなりたいこうなりたいとお願いするためではないように、それは自分自身を騙して、自分が確信して安心したいだけです。仏教を教える人の中には、「安心は徳」、あるいは「徳とは安心のこと」という部分だけを教える人がいます。その後私たちはどう考えなければいけないか、あるいはそれからどう理解するかまでは教えません。

そのように仏像を拝むだけで安心するのは、確実でも最高でもありません。他の教義を信じることも、他のものを拝むこともでき、そうしても同じだけ安心と徳が得られます。しかしブッダ、あるいは三宝が私たちに与えるものは、それよりはるかに高いです。徳の皮を信仰して喜ぶなら、それは皮を剥いていない果物のように、皮ごとのもので、「私は持っている!」「私は持っている!」という喜びだけです。

 私たちは本堂でだけでなく、どこででも三宝を拝むこと、あるいは三宝に到達することができます。しかしそうできないのは、皮ごとのものでさえ、まだ信仰できないからです。人が列になって本堂へ行くのは、寺の規則、学校の規則を恐れるからで、お寺や学校から追放されたくないから、あるいは少なくとも先生たちに遠慮があるからです。自分から進んで行き、進んで拝む人も、ほとんどは恐れから、あるいはそうするべきだ、そうしなければならないと短絡的に考え、本当の喜びの代わりに、「地獄に落ちることはあるまい」と自分を慰めるものを得るだけです。

私たちは、それではまだ十分ではないと明らかに見ることができます。ある集団、ある集会で、お偉方に報告する記録のためにだけ、正当性のためにだけ読経する僧を拝むのは、外部の人に褒めてもらうためにだけするので、ますます遠くなります。最高に良くても、体や心で何もしない人より良いだけで、最高に良くて、外皮のレベルに到達するだけです。

 本当は三宝に代わる標です。たとえば仏像などは、私たちが正しい方法ですれば、つまり休まず私たちを後押しして内部へ入れる道具にすれば、大きな利益になり、本当の三宝に到達します。仏像を見掛けた時、最高の善と感じなければなりません。そうすれば苦より上にある自由になり、この記念碑(つまり仏像)の所有者より上になります。そしてその記念碑は、「そうすることは、人間に不可能な範囲ではないと証明するもの」と言います。この仏像は人の形をしているからです。

仏像は、見た人に「人間が苦や憂鬱に勝つ方法はきっとあるに違いない」と考えさせるためにあります。その仏像は、「君、私がしたようにしなさい」と私たちに忠告するために、ブッダの魂がその中に入っているかのようです。考察や譬えることで理解した記憶、あるいは本当に試して知っているタンマの味、つまりその心の冷静な爽やかさを、感覚に呼んで来るべきです。あるいはその記憶を反復し、仏像を見る度により明瞭にします。

何かを怖がって大騒ぎするバカな人は、恐ろしい絵を貼るとか、脅して怖い物を見せる人がいれば、どこを見ても、その人のバカを酷くするものばかりで、少なくとも治ることはありません。悪い面がまだそんなにあれば、どこにでもある仏像は、多少はある美しい心を鼓舞する助けになりません。少なくとも、人がそのレベルにいるよう支える助けにはなりません。

みなさんが「自分は善くなった」と感じれば、最低でも悪くならなければ、それがブッダの代わりに仏像を拝むことの喜び、あるいは徳で、そして、それが本当の徳です。外部の人について言う、あるいは関わる必要はなく、自分のことは自分でできます。

 仏像やブッダを記念する物を通り抜けて、三宝に入り込むことができるのは、自分の心だけです。あるいは何も通過しません。どこであろうと、自分の心の中で作り、可能なら、劇場ででも作ることができます。苦と煩悩の火の固まりから、私たちを引き出してくれる智慧を作ります。

 述べたように、三宝を信仰することは、純潔と明るさと涼しい幸福に触れることで、自然である涼しさがプラタム(仏法)で、ブッダ、あるいは僧の心の中にあり、あるいは、ブッダや人をブッダや僧にする善や徳と見ることができます。この技術は、自分を尊重し自分に誠実な人にとっては難しくありません。(庶民に対しては言うまでもありません。自分に誠実な人は、当然庶民に対しても誠実だからです)。しかし反対の人にとっては非常に難しいです。

だから「難しくはないが、簡単でもない」と言うことができます。自分に誠実な人は確実に早く、段階的にに外皮を通り抜け、智慧の少ないレベルでも、本当に純潔な安心、喜びを受け取ります。正直な人は、愚かでもズルい人より早く純潔に出合います。すごく賢くて誰にも捕まらない人も、世俗で賢く人を騙せても、タンマの面ではプラタム(ブッダの教え)を騙せません。世界で賢い人は、懲りて誠実な人になるまで、このように自分を汚していて、懲りれば純潔になります。あるいはプラタムに到達します。

 読者のみなさん、思い切り自分を誠実にして、それを資本にしてください。自分は愚かな人だと考えないでください。純粋な幸福は、誠実な人のためにあるからです。誠実はクレーンの滑車であなたを引っ張り、悪が外へ引っ張り出すのを防ぎ、少しずつ純潔に近づくのを助けます。いつでも明らかに見なければならない重要なことは、完璧で純潔な幸福だけを目指すことで、哲学者になるかならないか、有能な人かそうでないか、誰が尊敬するかしないかは問題ではありません。

 みなさん、三宝の信仰に関した面倒な問題をさっぱり洗い流し、あるいは急いで望みどおり清潔にしてください。みなさん全員が堅忍不抜の努力で苦と闘い、体と心と言葉を完璧に揃えるようお誘いする次の言葉でこのお話を終わらせていただきます。

ブッタン サラナン ガッチャーミ: 心の指導者であるブッダを信じます

タンマン サラナン ガッチャーミ: 心を導くタンマを信じます

サンガン サラナン ガッチャーミ: 心の指導者である僧を信じます

 ブッダは『誰かの拠り所になれる人は誰もいない。たとえ私(ブッダ)でも。自分が自分の拠り所なので、誰も自分を自分の拠り所にしなさい』と言われました。如来のすべては道を示す人だけです。

 


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