パリヤッティの価値





1936年5月19日

 今パリヤッティ(三蔵の学習)に関して一般的に見ると二通りあると観察できます。パリヤッティについて見えるのは、一方はパリヤッティ学習者を束縛して財産や出世や名声に狂わせ、もう一方は、涅槃(厳密に苦から脱出する)に到達させる非常に価値のあるものです。

 愚かなヴィパッサナードゥラ家(ブッダの技法ではない後世の人が作ったヴィパッサナー技法の訓練をする人)は、前者の面を見て「良いのはたくさん憶えること、たくさん話せることだけ」と見下します。しかしこれにも、そう見させる原因があります。

 その原因は、私たちがよく見るパリヤッティ家(三蔵を学ぶ人。パーリ語の学習者)で、ほとんどの人が「本当にそうなるために努力している」と言いますが、本当は憶えたようにしか知らず、せいぜい論理で解釈することを知っているだけ、全体について話す時、真っ青にならずに済むだけです。

 だからこれらのパティヤッティ家(三蔵を学ぶ人)がそのように非難されるのはふさわしく、そして正しいです。人に注目すれば、それは公正ですが、パリヤッティ、あるいは宗教として見た場合には全然公正ではありません。パリヤッティはそのように使うための道具ではないからです。不正なパリヤッティ家は卑猥なことを期待する色情狂で、仏教を知らない愚かな人を騙すために、三蔵を勉強して知識を増やします。

 それは偽のパリヤッティ家なので、パリヤッティ家と呼ぶべきでなく、アッタカターで語られている「牛飼い」と呼ぶしかありません。本当のパリヤッティ家は正反対に、パリヤッティがそのように非難され、低められるようにしません。そして愚かでない良いヴィパッサナードゥラ(技法的なヴィパッサナー)をする人は本物を見るので、その形のパリヤッティを見ないで、愚かなヴィパッサナードゥラ家や徳狂いの人のように威張りません。

 全部が純潔な本当のパリヤッティ家は、自分が勉強している、あるいは勉強したパリヤッティは「苦に満ちた所から完璧な滅苦に向かって旅をする正しい地図」と知っています。それ以上に、パリヤッティが真実に反して軽侮されているのは、腐った物と腐った人の手で汚されたパリヤッティにとって不幸な時代と考えます。

 パリヤッティ(学習)は地形と道を示す地図であり、パティバッティ(実践)はその地図を頼りに這い登って行くことであり、パティヴェーダ(結果を受け取ること)は旅が終わった時に受け取る喜ばしい結果です。これが真実以上に真実である真実です。しかし目が霞んだヴィパッサナー家は、「パリヤッティ(学習)はパイナップルの外皮、(モタモタ手探っている彼らの)実践は薄皮。仏教支援者のみなさん、間違って食べてはいけません」と名指しで非難します。

 みなさん、どうぞ公正で中立な気持ちで考えて見てください。パリヤッティ家も、ヴィパッサナー家も、真実で考えて見てください。「地図、あるいは方針が明らかにされていなければ歩けない。真実に出合うまでに何回も死ななければならない」と、至る所で見られる真実を考えて見てください。

 この世界は漠然と存在する訳ではなく、サンマーサンブッダが出現できます。それ以前の数え切れないくらい長い時間に、真実、つまり滅苦、あるいは幸福を探求した人の足跡が残され、何代にもわたって伝承されて来たので、それらの探求者たちの首領であるブッダが、一つの時代の最後の人として誕生しました。

 東洋、あるいはアジア、特にインド、あるいはブッダが生まれた土地であるチョンプータヴィーパ(インド半島)の哲学史、あるいは言い伝えによると、大昔の知識のある人は、火や太陽など、自分が神聖と見るものを神様として祭り祈願することを知っているだけでした。

 その中に更に賢い人が現れ、そのような行動に賛同せず、分かれてそれまであったものより良い物になり、そして集団から離れて静かな場所を探し、座って考えて順々に高い新しい物を発見しました。

 そしてその時代の、当時の学識、あるいは智慧の類の知識になり、その考えたことを、普通の人には考えることも理解することもできない呪文と呼ばれる短い要旨にまとめました。

 村の人が「山に籠っている人たちには、きっと何か素晴らしい物があるに違いない」と考えて、わざわざ山へ訪ねて行って、どんな意味か知らずに勉強しました。知ることができても一部分ですが、神聖な物として大事にしておき、後で意味を解釈して考えました。この時代を呪文時代と言います。

 長い時間が経過すると、呪文が増え、たくさんの先生の様々な考えや教えができ、呪文を集めて解釈し、勉強したい人に説明する人が現れました。これらの人をバラモン、カナーチャーン、あるいは教祖と呼びます。それぞれ自分の考えに方針があり、その時代をバラモン時代と言います。家でも森でも、パリヤッティ(学習。勉強)が生まれた時代と見ることができます。

 家での勉強を終えた人、あるいは森で閑居している人が次々と伝承したので、学問は広まり、高くなり、自分で最高の真実を発見する人が現れました。すべてのレベル、すべての階級の人に話して理解させることはできなくても、世界の基礎になり学問の筋道になる素晴らしい真実を発見した人と呼ばれます。

 これらの独覚ブッダ(独力で煩悩から脱した人)が、他人に多少でも教えることがなければ、それらの人に独覚ブッダと呼ぶにふさわしい知識や徳があったと、私たちが知ることはできません。いずれにしても独覚ブッダがいた時代の学習者たちの中に、真実(聖諦)の教育が生まれたと言います。

 それは森へ行って独覚ブッダとして閑居する人を、チョンプータヴィーパ(インド半島)の中心の砂粒のすべてを神聖なものにし、踏みつけることができる人にし、哲学者、あるいは真実を知る人の血統になりました。

 少なくとも私たちのブッダが生まれた時代の(大国でも小国でもない)中程度の国に様々な教義の教祖がいたので、ブッダは遊学して、これらの教祖から初歩の段階のパリヤッティ(勉強)をすべて学び、そして真実の教えをまとめ、他の人、愚かな人を簡単に理解させるに十分なだけ遊学したと見ることができます。

 ブッダのように聴く人を理解させる説法に長けた智慧は、非常にたくさんの口伝による教育と、ブッダ自身の心の探求から生まれました。

 だからブッダは、述べたような意味で「サンマーサンブッダ」という名にふさわしい価値と才能があります。パリヤッティ(学習)は愚かなヴィパッサナー家が言うような外皮ではなく、本当は薄皮ですが、未熟なので、熟させる方法を知れば利益があると、すぐに分かります。勉強は米で、実践は炊いてご飯にして食べる技法のようです。

 あるいはパリヤッティ(学習)は磨いていない原石、ただの石のように見えますが、カットして磨けば宝石になります。原石を宝石にする方法は「実践」です。要するにそれは、互いに必要な初めの部分で、山の僧、町の僧、あるいはヴィパッサナードゥラ家、ガンタドゥラ(三蔵の学習)家と分類して、愚かに切り離すことはできません。

 そして今は付き合いがなく、互いに傲慢になっているこの愚かさが、一方の人たちが生米を食べなければならず、もう一方の人たちを、米の見積もりを甘く見たために食べるご飯がない状態にしています。どうか三宝の力で、この愚かさを今の時代に間に合うように無くしてください。

 ヴィパッサナー家の方は「パリヤッティダンマ」という非常に吉祥な名前を軽蔑するのは絶対に止めてくだい。ご飯を炊くには米が必要なように、本当のパリヤッティ(学習)はヴィパッサナードゥラに必要な道具だからです。米がなければ何でご飯ができるでしょうか。あなたが「パリヤッティは本当の勉強ではない」と言っていること、あるいは理解しているのは誤解です。

 本当のパリヤッティは、実践する方針を教える勉強で、あなたが理解しているような語学や説法の勉強ではありません。後者はパリヤッティの用具にすぎません。私たちがパリヤッティの蔵の鍵であるパーリ語を勉強するのは、心行くまで勉強するためです。幸運や地位に陶酔しているパリヤッティ家に焦点を当てて、それがパリヤッティの本質と括るのは事実から大きく外れます。

 世界の人が一斉にパリヤッティを学び、そしてその後実践者にならないで、誰もがパリヤッティを教える人になってしまうことが、簡単に偽物のパリヤッティを生じさせています。つまり誰も、実践して到達した真実を確たる証拠として見せなければ、教える先生も真実を知らず、真実が見えない軽率や知識の不足、雑な推測などによって、学習(パリヤッティ)に悪徳や曇りが生じます。

 自身への供物を期待する身勝手によって、貪りの意図でパリヤッティを改変し、寄進者たちを自分の餌にしたければケチをつけて惑わして騙します。このようなのは本当のパリヤッティ(学習)ではない、あるいはパリヤッティ家ではないと知るべきです。

 次に本当に純潔で、ずる賢く騙さないけれど、その後実践をして自分を向上させないパリヤッティの先生を見ると、これらの人は習慣的に「マンゴーに巣くっているアリ」と非難されても、地図を正しく十分に学んで旅をせず、地図を書いて他人に売るのを商売にするようなものです。しかし旅人は現代まで伝統を継承し、旅人に便宜を提供してくれることに感謝します。

 私はこれらの人を敬愛している部分があるので、どうかヴィパサナーに関心のある法友のみなさん、私たちの助けになっている彼らの仕事を軽蔑しないようお願いしたいと思います。そして善い面だけに注目して、愚か極まりない自分の煩悩より、タンマを尊重する人であってください。そうすればあなたは、確実に自分自身でパリヤッティの素晴らしい価値を発見します。

 現代の愚かなヴィパッサナー家には見えず、その上蔑する正真のパリヤッティの卓絶した価値を、早く見てしまってください。



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