一
涅槃の話は二三言で理解させ、終わらせられる話ではないので、学習者は繰り返し読んで学び、解釈し、照合し、段階的に本当に言葉や文章の意味を推測しなければなりません。
大雑把に読んだり、理解していないのに飛び越えたりしなければ、心の面の実践によって本当に到達するまで、だんだん明らかに涅槃を知ることができ、その後は涅槃に到達した喜びを多少でも生じさせるために、涅槃の価値を理解、あるいは思索する流れになります。
涅槃は「心」ではなく、「意」あるいは「心に生じる物」でもなく、形の物の類の姿形はありません。国でもなく、星でもなく、どこかの世界の地球でもなく、更に涅槃は発生がある物でも、生滅のある物でもありません。
あるいはそれに発生と消滅はなく、消滅がある物でもなく、発生と消滅を繰り返す物でもありません。涅槃は自然の状態の一つで、他の物のように、それの存在を発生させる必要がない唯一の物です。しかし永遠に存在でき、そして消滅を知りません。消滅する時がなく、変化もないからです。
涅槃以外の、存在するすべての物は、最初に発生がなければならず、それによって存在し、そしてどんなに遅くても、最終的に必ず消滅します。そして途中で変化をしなければなりません。太陽も発生があるので、科学では宇宙の何よりも前からあると言いますが、いつかは無くなり、私たちが見ることができなくなり、今の夜のように、私たちの視線から消える日が来ます。
土、水、火あるいは熱、風あるいは空気も同じで、時が来れば無くなります。それらは発生があり、そして他の物に依存して発生し、存在するからです。涅槃と呼ぶ物はそのようではありません。発生が無いので、他の物に依存する必要がなく、それ自体で存在するので消滅を知りません。そして終わりが無く、あるいは初めと原因が無く、永遠に存在します。
だから涅槃は「その涅槃は過去だ、未来だ、あるいは現在だ」と人が理論的に話せるものではありません。涅槃の在り様は他の物の存在と違って規定して話すことができないので、涅槃は終わりが無く、永遠に存在します。終わりのない時間と対比されますが、時間はいつか終わりが来るものですが、涅槃はそうではありません。
涅槃はいつでも、すべての人の心と出合う機会を開放して待っています。ただ私たちの心は、通常何かに覆われているので、涅槃に出合う機会が塞がれているだけです。だから涅槃は、どこにでもあると言われる空気以上にどこにでもあり得るのに、私たちには、涅槃がどこにあるか見えません。涅槃に出合ったことがなければ、ブッダが言われているようには存在しないと考え、楽しく戯れる言葉と理解します。
生まれつき目が見えない人は周りにある光や色を知らないように、心が無明で覆われて見えない人は涅槃を知らないので、目が明くまで想像できません。この世界に生まれた時は誰もが盲目で、生まれた時から涅槃を知ることができません。更に肉眼も見えず、光や色を知らなければもっと大変です。目が見えないのは治療できませんが、心が見えない、あるいは涅槃が見えないのは治療できます。
目が見えなくても心が見えるようになれば、目が見えても心が見えない人よりも素晴らしいです。私たちは、涅槃は世界の光が届かない場所にも届くと、明らかに見えます。
目が見えない人の心は、目が見える人より簡単に涅槃に出合うことができます。しかし光や色が見える目を持っている人は、自分の目が見えないと信じません。あるいは考えません。外部の目が時間のすべて奪って働くので、内面の目が働く機会がありません。自分の内面の目が見えないと感じることも難しく、それ以上に最高に大切な内側の目があると考えることもできません。
外の目の範囲にある人生の複雑な問題をすべて解決し終わった時、その人はそれ以上に面倒なことに遭遇しなければなりません。それにその人は、それは内面の目の範囲のことと知らないので解決できないで混乱し、あれのせいこれのせいにし、あれこれ推測しても、本当の幸福に出合えません。
これは正しく解決しないから、つまり内面の目で解決しないからと分かります。内面の目を使わないのは、内面の目が見えないから、まだ見えないのはまだ治療をしないから、まだ治療をしないのは、涅槃のため、つまり命の本当に穏やかな幸福のための目が内面にあるとを知らないからです。
心の目が見えないのは無明で、私たちの迷い以上の迷いがあるからです。つまり孵化している時の卵の殻のように、ヤシ殻の下で生まれた小動物を覆っているヤシ殻のように、胚を覆っている種皮のように、至る所にある光は、その中に届くことはありません。無明が天井のように覆っていれば、どこにでも緻密以上に緻密に潜入し、日の光が届かない所まで届く涅槃に触れることはできません。
固い卵の殻、椰子殻が剥ぎ取られれば、あるいは壊されれば、誰かに祈願しなくても、あるいは誰かを脅さなくても光が届くように、厚い蓋、薄い蓋、外側、中間、内側の心の蓋である無明、取、欲望が剥ぎ取られれば、「タンマの実践」の光と涅槃の味が、その心に触れることができます。
だから私たちは「涅槃は心ではなく、心に生じる意でもなく、形の物(具象)でもなく、国や世界でもなく、星でもなく、私たちの内部にもなく、私たちから生じるのでもなく、何かが作る物でもない。それはただ私たちが最高にタンマの実践をした時、涅槃の機会として私たちの心に触れて来るもの」と明らかに見えます。
二
涅槃とは何でしょうか。述べて来た限りではそうでない状態ばかりで、「涅槃とは何だ」という状態について、ここで何よりも先ず言いたいのは、読者は、講演者が涅槃に到達した人か、涅槃に出合った人と理解しないで、学究者、探求者にすぎないと理解するべきです。実験室、つまり頭の中で研究しただけの知識を、阿羅漢サンマーサンブッダの考えの系統で交流し合う会話と見なしてしまうことにしましょう。
涅槃とは何でしょうか。涅槃とは純潔、空、軽さ、本当の幸福、最高に清々しく静謐などであるある状態です。その状態はすべての物より前からあると言っても、すべての物と反対であると言っても十分ではありません。永遠にそれ自身で存在する状態なので、涅槃は死のない物、アマタダンマ(不死の物)と言えるだけです。
私たちの心は、本当にこの不死の物に出合いますが、その心は不死ではありません。だから涅槃は私たちのためにある物です。あるいは心がそれに出合うと、以上の理由で最高に涼しい幸福になります。誰でも、生きている間にそれを得るために努力するべきです。目が見えないまま心が駆け回るのを放置すれば、長い輪廻の中を何十万生も駆け回って来たように、繰り返し駆け回ります。
生まれては死に、生まれては死ぬのを繰り返すこと、そして生と死の間が抑圧で満ちていることの何が良いでしょう。杖も手を引く人もいない盲人が転んだり這ったりするように、盲人の成り行きになるのですから。
目を明けて、光である涅槃に出合うことが幸福の頂点であり、願望や希望の終わりであり、知りたいことの疑問の終わりです。すべての世界、すべての時代、すべての人の知識の頂点です。これだけで涅槃はすべての命の目標と説明することができます。人に聞かれれば、私はこのように答えます。そして次のように続けます。
誰でも涅槃へ行かなければなりません。今は愚かな人も賢い人も、誰でもいつかは涅槃に到達しなければなりません。誰でも涅槃に到達した生で、内面の盲目が治った生で旅が終わります。誰にも輪廻の終わりがあります。ただ早いか遅いかだけで、誰もが高い自然に、絶えず少しずつ支援されています。
しかし遅いか早いかはその人が非常に重いか軽いか次第です。それは愚かさ、あるいは煩悩の重さ、あるいは盲目の度合いが多いか少ないか次第です。だから誰でも輪廻を繰り返す中で、身体的、精神的に再び落ちることがあっても、一度は、あるいは何度も阿鼻地獄に落ちることがあっても、その人の最高値は常に高くなっていきます。
誰もが自分のカンマの結果によって趣(行く所)に行くのは事実ですが、その人が一度生まれることは、その度にその人にとって学習です。ある生では頑固でも、後になると、あるいは後の生では必ず懲ります。普通はその人が生まれている生と、何も関連がないように感じるとしても。
たとえば生物学の現代科学の進化の法則、特にダーウィンの論理でも、あるいは仏教の系統である二十四縁と縁起でも、世界は物質面か心の面のどちらかのレベルが少しずつ高くなっていると、どこででも簡単に観察して見えるように、じっと止まっている物、あるいは低くなる物はありません。
その時代の社会が心の面と物質面のどちらを重視して崇拝するかによって、すべては内面の物であると当時に、外部を振興させる物である本能は、すべて善い方へ引っ張っていくと見せています。動物たちの欲望がそうだからです。
揃って物質を重視する時代には、現代の科学が目覚ましく進歩しているように物質の目標を達成し、そして心を重視する時代には、過去の阿羅漢の時代のように心の面の目的に到達します。いずれにしても、世界は物質面に頑固でも、思い切り懲りれば自然に心の面に振り向きます。そしてその時代です。この星座にが巡ってくる度に、一定数の、たくさんの動物が世界から解脱するのは。
大意を最高に短くまとめれば、世界の動物の本能は、当然善い方へ発展して行くと言うことができます。述べたように物質面と心の面の二つしかないからです。
すべての人にこのカーヤシッティの威力があれば、涅槃に到達する、あるいは涅槃に出合う状況に引き寄せられていくことは確実です。誰でも世界の舞台に登場して、激しく求める幕を繰り返し演じれば、世界に厭き、いつか「ニッピター」が生じると言います。
その時です。厭きれば抱きしめ掌握することが緩み、掌握しなければ包まれている物から脱します。その時心は涅槃に触れることができます。私たちは近目で現生の自分しか知らないので、何百生も繋がっている願望と倦怠を捕えることができません。
生まれつき愛欲に興味がなく、貪りや怒りや惑溺が普通より少ない子どもを見たことがあっても、その性質がその人の過去生の結果と理解できません。その上、心理学や自分が引用したい物を引用して、その子は知能が足りないというような見方をしてしまいます。幾つもの生を跨いで広い視野で見ることができれば、今以上に、何倍も賢くなるに違いありません。
それでもその種の視野を持ちたい人はいません。そうした視野を知らないから、あるいは世界が芳醇な味を失うのを恐れるからです。しかしいずれにしてもそのような人も、涅槃に掃き寄せられて行く部類に入っています。本能で作ったカンマの結果以上に、そして変化を知らない真実以上に威力のある物はないからです。
三
ある時私に「誰でもいつか涅槃に到達するのが確実なら、苦労してタンマの実践をして何になるでしょうか。自然に到達する時まで、ずっと世界の幸福を求め続ける方が良いのと違いますか。その方が賢いのと違いますか」と言う人がいました。私はその人に「そうするべきだと問題にしたり考えたりしなくても、すべての人が確実に、現にそうなっています」と答えました。
しかしそう感じないので、重ねて問題し、そうしようと考えます。私たちはまだ盲目で、まだ自分の好きなようにしていています。自分の心の感覚、あるいは洞察以上に威力のある物はありません。そしてそれが、私たちがめいっぱいその形で進行するよう強制するので、新しい考え(質問者の考え)ですることは通常より遅らせる、あるいは然るべき時より遅らせる外に、何も新しくなく、古いのより何も賢くありません。
私はその人に「あなたの望みどおり宝くじで百万バーツ当選させる威力のある人がいたら、明日当選させてくださいとお願いしますか。それとも五十生後にしてもらいますか」と質問して見ました。その人はニヤッと笑って、「明日」と答えることをはにかんでいました。
私は、最高に欲しい物は、自分が良いと、あるいは最高に美味だと理解している(誤解でも、正しい理解でも)物と見えました。盲目の人は涅槃の光が見えないので、涅槃を望むことはできません。涅槃の価値は何よりも高いと見ることはません。その人の肉眼がすべての時間を奪って世界の餌を求め、あるいは知ろうとしているので、彼らは今自分を喜ばせる人(彼らは体よく妻と呼ぶ)、美しい建物、美しい車、豪華な勲位などを手に入れるためにお金をたくさん欲しがります。
何としてもこの生で、あるいは何生後でも手に入れるために、努力します。「何としても手に入れたい」ということにしましょう。そして涅槃が行く手を塞がないよう願います。彼が百万の当選金を理解しているのと同じだけ涅槃を知って理解すれば、神通力のある人に、今すぐ涅槃に到達させてくださいと頼むに違いありません。可能なら、明日でも待てません。
しかし「涅槃とは何か」をまったく知らないのに、涅槃を欲しがる仏教教団員が大勢います。ある集会で、今まで呼ばれているいろんな名前を使わずに問題を出してみました。
「一か所は、何かを欲しいと願えばすぐに叶う所で、もう一か所は人の心を空っぽで静かにして、すべての感情の威力から脱し、最後には、その後あれこれになるための物は何も残らない場所があったら、どっちへ行きたいですか」と質問ました。
答えた人全員が前者と答え、残りの二三人は黙っていました。黙っている人は、引っ掛け問題だと気付いたので、間違うのを恐れて黙っていました。その二三人も、答えれば、同じ答だったと推測します。
続いてそこへ行ったら何を望むか質問すると、彼らは「満足できる非常に高い徳を積むために、最高に素晴らしい物が欲しい」と答えました。私が更に「何のために」と質問すると、「天国へ行くために」と答える人もあり、「涅槃に行くために」と答える人もいました。
考えて見てください。問題の最初の場所は天国です。この人たちは、自分が今行きたいと望んでいる天国も知らないで、天国を望むために供え物をしようとします。こんなことでは天国に行けません。問題の二番目の場所は涅槃で、彼らはまだ望みませんが、涅槃への梯子は望みます。私は、彼らの多くが涅槃を知りもしないのに、涅槃へ行く希望があることに愕然とました。
あるいは知っていても、誰もが「最高に善い」と言う、神聖な物の名前の一つと知っているだけです。まだ涅槃を知らない人は、「自分があり、自分が信じる物がある」と信じなければならないと明らかに見えます。そうでなければ疑念がある物を掴むことも放すこともあります。そして孤独感や苦である恐怖がいっぱいで、最後には無駄死にします。
あるいは現生の利益、来生の利益、最高の利益である涅槃と段階的に進歩するのが、信じている人より遅くなります。発生はないけれど永遠に存在するなど、神秘的な意味のある涅槃を、その人が本当に涅槃に到達するまで理解できないので、推測や比較で涅槃を知ることは、そのような智慧や性質の人にはあり得ません。
そろそろ終わりに近いので、もう一つの系統で要約させていただくと、涅槃はすべての人の目標です。涅槃の状態の吸引力、言い方を変えれば、自由を求める本能はいつでもありますが、自分は盲目で、自分の安全、あるいは自分の旅の安全を守ることを知らないので、いつでもカンマの結果などが待ち伏せされて、道の外に弾き出されます。
譬えれば体は舟で、心は船頭、輪廻は大海原、あの世界この世界は、商売する港で、一つの生、一つの世界の結果である徳や罪は、それぞれの港での赤字か黒字の船頭の商売です。ある島に到着し、完璧に舟の旅を止めてしまうほど満足することが涅槃です。
すべての人は船頭を含めた舟です。私たち、あるいは世界が揃って体、あるいは舟のことに夢中になり、心、あるいは船頭を忘れているので、船頭は船がその島に着く前に死んでしまいます。しかし船頭、あるいは心に興味を持って舟を忘れてしまえば、船頭が船を頼りに島に到着する前に、舟は腐ってなくなってしまいます。だからブッダは中道を行くように教えられています。智慧の道で、油断して張りつめも緩みもしません。
本当には自分はなく、あるのは五蘊です。言い方を変えれば「体と心」、あるいは舟と船頭だけです。船頭も自分ではありません。島である涅槃に到達しようとしまいと、それ(五蘊あるいは心身)は誰の支配下にもないので、その物の当たり前の状態として崩壊するだけです。
島、あるいは涅槃はただの島、あるいはその物自体である涅槃で、誰かの物と認めることはできません。窓を開ければ光が入って明るくなり、窓を閉めればまた暗くなりますが、光は変わらないのと同じです。
自分と見なすべき物は何でも、滅亡を知らないこと、他人や他の物に依存しないこと以外に、それを支配でき、そしてそれは何か知ることができなければなりません。それの原因である物しかなく、あるいは誰の威力下にもなく、誰の何とも認められなければ自分はありません。ある種の感覚の威力であるようにすれば、涅槃も本当の自分ではなく、無明の側なので、涅槃への到達はすべての人の目標でしかありません。
五蘊は体と心です。どの集まり(人)も無明があれば、それらの五蘊には「自分は自分」「私は私」と執着させる原因である取があります。だから「私」は取がある五蘊にだけ住むことができます。そしてこの種の五蘊はまだ涅槃に触れることができないので、苦がいっぱいあり、上がったり下がったりガタガタして、突き刺す物や炙る物がごちゃごちゃしている輪廻の中を転げ回らなければなりません。
どの五蘊(人)も、タンマを実践することで自分を救い出した後は、無明や取が住むことのできない五蘊です。だからその五蘊の中に「私」はなく、涅槃と出合うにふさわしいです。涅槃の味である得も言われぬ冷しさを、無明や「私」があり、「私」という理解がある五蘊のように、もう一度生まれるための物が残らず崩壊するまで味わいます。
無明は無くなったけれどまだ崩壊していなく、まだ涅槃の味を味わっている五蘊の状態を「サウパーディセサニバーナ=有余依涅槃」、あるいはただの涅槃と呼びます。その五蘊が種を残さず崩壊すれば、その状態を「アヌパーディセサニバーナ=無余依涅槃」、あるいはパリニバーナと言います。タンマの実践、あるいは「八正道」の実践は、その涅槃に到達する道です。
私や読者のみなさんが、まだ涅槃からどれくらい離れていても、自分以外の他人が代わりに知ることはできないので、ブッダは、すべてのタンマから最後の涅槃まで、サンディティコ、つまり見た人の物と言われました。だから私としては、すべての人は涅槃に最終目標がある、と主張させていただくしかありません。
注: ここでのサウパーディセサニバーナとアヌパーディセサニバーナの説明は、「俺、俺の物」にある説明と違います。ここでの説明は、大乗も含めた一般の人の理解と同じですが、「俺、俺の物」の解釈はターン・プッタタートがその後に到達した理解と推測します。以下に引用します
『涅槃という言葉を二つに分類することができます。種が残っているものと、種が残っていないものです。種が残っていない方は「自我」が絶滅したもので、種が残っている方は「自我」は完全に消滅していない(けれど「自我」が滅亡し始めている)という意味です。預流者、一来者、不還者など、まだ阿羅漢でない初等の聖人の「自我」の消滅で、すべて種が残っている種類の涅槃に到達しています。
だから残っている種に応じて「自分、自分の物」という感覚が再び生じること(再生)があります。しかし薄くて軽い「自分」であり、どんな部分も捨てたことがない凡人のように最悪ではありません。初等の聖人の涅槃をサウパーディセサニバーナ(有余依涅槃)と言い、種が残っている涅槃という意味です。だからまだ「究極の空」であるアヌパーディセサニバーナ(無余依涅槃)と言われる涅槃ではありません』
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