恐怖

 

1936年8月1日

恐怖は、幸福や楽しさを消滅させるものの中でも、非常に威力のあるものの一つです。あるいは、人間の神経を非常に妨害します。恐怖は心の感覚の高さによって異なる特徴と毒があり、子どもは大人が脅しに使うような、あるいは人から聞いたお化けや幽霊の話のような恐ろしいイメージを作って、本当に恐がり、その結果大人になってもまだ恐怖が消えないほどです。

 恐怖は人間の本能の一つで、誰でも同じですが、恐がる物は自分が頭に入れた話によって違います。

 ほとんどの人の恐怖の基盤であるものは、実体のある物質ではなく、恐がるために心が作りあげただけのものです。実体のある物は、心が作り上げたものほどたくさん、あるいは長く恐がらせることはなく、大抵はすぐに過去のことになり、時には恐いと考えないこともあります。それは自然に過ぎて行くので、心が作り上げた騙す話ほど、人間の心を苦しめません。

子供や普通の人は、棺屋の前を通って、まだ遺体を入れていない新品の棺を見ても、厭わしい物とか、本当に不吉な物と感じ、どこかに棺に貼った紙の一部が剥がれて落ちていると、子供たちはそこには幽霊がいると考えます。

 紙に墨で、目が空洞の頭蓋骨の絵を描いた途端、その紙に霊が乗り移ったと感じ、厚紙と墨と糊で、恐ろしい原人の頭を作り、ワイヤーで舌と目玉を操れるようにして、森の中や薄暗い場所に隠れて待ち伏せすれば、誰かを驚かせて、病気にすることもできます。他人を病気にすることができると知れば、それを作った人自身も、作る前の、ただの紙と糊と墨とは違うと考えます。

 これらの例から、恐怖はすべて、自分の過去の想で作られることが分かります。本当の幽霊とは少しも関係ないからです。そして幽霊、霊と呼ばれるものは、ほとんど国中、あるいは世界中の人がそう信じる心の力で生じる、勢いのある流れから生まれ、その威力は、すべての人の心を支配して同じイメージを作らせ、更に幽霊の話を信じさせるので、幽霊は社会の中で生きて行けます。

 すべての人が幽霊や騙す物を信じるのを止めれば、幽霊も世界から死滅します。だから私たちが怖がる恐怖は、何十パーセントも間違った理由で、心が作り上げた欺瞞であることが分かります。恐怖は、愛や怒りや嫌悪や惑溺その他と同じくらい、あるいはそれ以上に楽しい気分を害します。自然は、生き物が生まれ落ちた時から、この本能を与えているようです。小鳥の雛、猫の子など、目が開けば恐怖を知っていて、人が近づくと、逃げる仕草や防衛する仕草を見せます。

 子供は暗がりや、一人で置き去りにされることを恐れます。復讐心を抱いたことがあれば、周りの人に攻撃される恐れがありますが、まだ恨みを抱いたこともないのに、大人が暗がりを指差して恐がって見せるだけで、子供は長時間恐がります。

 大人になっても、夜中に友達と幽霊の話をすると、知らないうちに少しずつにじり寄って輪になり、寝室に行っても、眠就くまで恐がる人もいます。知らないで墓場を通って来て、家に着いてからそれと知って恐がる人もいて、すべては、物質よりむしろ心の問題であることを見せる物です。

 このことに関して自分の心を管理する知識のない人は、恐怖に囚われて、気の毒なほど神経の力と心の瑞々しさが奪われ、反対に恐怖を脅す方便を知っている人は、より多くの平安を受け取り、より強靭な精神力があり、家族や集団の指導者にふさわしいです。

 恐怖はこのように平安の害になると分かれば、次は、どうしたら恐怖に勝てるかという問題になります。恐怖は平安の害になるとだけしか知らないので、その知識から受け取る良い結果は、非常に少ないです。私たちはいろんな方法で、恐怖を払い捨てることができますが、重要な教えでまとめれば、次の三項になります。

1.拠り所として掴むものを精いっぱい信じる。

2.心を他にやり、他のものに縛りつける。

3.恐怖の根源を断つ。

初めの項目は、至る所で見ることができます。呪文を書いたお札や、首に下げる小さな仏像などを信じる子供の手法であり、子供と同じレベルの考えの大人もする方法です。原始時代の人たちは火山や樹木、天、あるいは恐ろしい威力があり、身を呈すべきと見る物を信じました。この種の方法も、何らかの気休めのために菩提樹や仏塔を崇拝するなど、現在まで残っています。

この方法は、強く信じている間は最高に良い結果があり、強い信仰は、恐れるべきものが恐くなく見えるくらい、自分を騙すことができるので、この種の信仰を作る方便があれば、いろんな信仰を生じさせることができます。信じられなくなれば、あるいは自分を騙して勇敢にする力が足りなければ、この方法は役に立たず、バカバカしいものになるだけです。

 ある人がプラクルアン(口に含むお守り)を口に含んで乱闘し、「守れる。刀で切られることはない」と信じていて、満足できる効果があるように見えました。その時プラクルアンが口から飛び出し、田んぼに落ちてしまい、良く見えないのに慌てて拾い上げ、口に放り込みました。本当はお守りではなく青カエルを口に入れたので、カエルが口の中で飛び回ると、更にお守りが奇跡を現し始めたと信じて戦い続けました。

闘いが終わって口から出して見ると、カエルの死骸だったと分かり、それきり信じるのを止めたという話があります。その後、彼を満足させるお守りは何一つなかったそうです。ブッダは、この方法は安全な方法ではない、つまり本当に危険から守る最高の方法ではないと言っています。

 二つ目は少し高くなり、良い方便と言うことができます。重要点は、考えを他に向けてしまう点にあります。どこかの誰かを愛しても、どこかの誰かを怒っても、どこかの誰かを嫌っても、あるいはいろんな考えを止めて(サマーディ)しまっても、「心を恐怖しているものから背ける」と言います。

 どこでも見られるのは、愛に溺れて血迷っている時などは、幽霊もトラも痛みも恐れません。日刊新聞でもこのことは証明していますが、意図せずに、心を他の方向へ向けます。どんな話も、何かを望んで自然にそうならない時は、受け取る良い結果について考え、憧れるほど大好きなことを考え、国への愛を考え、勇敢な上司のことを考え、この種の状態にすることができます。

臆病と感じたら、規律など心を勇敢に鼓舞するものを見、隊の先導者の旗を見ます。経典の中の天人の話などには、恐怖を忘れるまで心を他の場所に走らせる話ばかりです。ブッダは、この段階では、比丘が森や洞窟など寂しい場所で恐怖を感じた時には、ブッダかプラタムか、僧のいずれかを思い出すように教えています。

 このような症状はほとんどサマーディに近いですが、本当のサマーディではありません。ブッダを思い出しても、信仰のように思えば、お守りや山野の精霊を信じるような一番目の信仰に相当し、ブッダの徳を喜び尊敬する形でブッダを思えば、二番目になります。

 サマーディで心を静めるのは、恐怖を本当に脅せる方便です。サマーディ(三昧)の時は、その人が感情(心の概念)としているもの、あるいは心の止まり木であるニミッタ以外には、何も考えないからです。しかし恐怖でいっぱいの心がサマーディになることはできないので、ほとんどは記憶の一つになっていて、思い出した時はいつでも、すぐにそのニミッタが心の中の明らかな像として現れるようになるくらい、非常に熟練したサマーディでなければなりません。

そうすれば結果があります。ブッダが、ブッダかプラタムか僧を思い出すように教えたというのは、パーリ経典ダチャッガ経の意味では、ブッダーヌサティ(仏隨念)、ダンマーヌサティ(法隨念)、サンガーヌサティ(僧隨念)という意味で、ウパチャーラサマーディ(専心に近い状態)だけで、禅定に達していなくても、どれも熟練しなければならず、そうすれば恐怖をブッダーヌサティなど感情に変えることができます。

 梵住などの定であるサマーディは、熟達すれば、本当に完璧に恐怖を脅すことができ、特に慈梵住は、最高に簡単にできます。しかしこれは、ただ脅しているだけで、恐怖の種を抜き取っていないので、脅すのを止めれば、再び元のように恐怖が生じると知らなければなりません。もう一つ、サマーディで脅すのは、一般人にとって簡単な方法ではありません。

 普通の人は心の考えを変えるだけで、瞑想家のように簡単に心の動きを止めて鎮めることはできないので、普通の人にふさわしくありません。そしてこの方法を一般の人に教えれば、猫の首に鈴をつけさせるに近いです。

 もう一つ不思議なのは、これから話す三番目の方法は、高度な方法にも関わらず一般の人にふさわしく、そして結果も善いことです。この方法は恐怖の原因を断ってしまうことで、その人の知識や智慧の力でどれだけ断てるか、これから、他の手法より詳しく見て行きます。

 三番目は、アーナンダ ガオサンラヤーラナ比丘の簡単な例で始めさせていただきます。

[マハーボーディ新聞とブリティッシュ ブッディスト新聞に書かれた「私たちはどうしたら恐怖に勝てるか」は短くて、二ページだけで、心と言葉と体の行動をタンマ(正しく)にすることが、恐怖の原因を断つこと、とあるだけです]

 根源を片づけることが、私たちにどれほどふさわしいかを、簡単に理解させるために書かれました。それは、一般人の心情にふさわしいように書かれた話にすぎません。

 話は、ある子供が、自分の父の家(つまり自分の家)の暗い部屋に入る時、非常に恐怖を感じ、その部屋には幽霊が一体居て、その子が部屋に入るだけで、幽霊に食べられると信じていました。部屋には何もいないと、我が子が正しく理解できるように、父親は可能な限りの方法で最善の努力をしました。

その子は理由もなく恐がっていましたが、幽霊が来たのを見たことがあると思い込んでいました。父親は、我が子が自分でイメージを作り上げて心にしまい込んでいる、幽霊への恐怖を取り除いてやる方法はないと確信して、方便を思い付きました。

ある日、気心の知れた使用人にその子を呼んで来させ、そして「我が子よ、聞きなさい。父は自分が正しくて、お前が間違っていると長いこと理解していた。今まであの部屋に幽霊は居ないと考えていたが、今は、一体居るのをこの目で見た。しかも非常に危険な種類だ。みなも、良く注意しなさい」と言いました。

幾日もしないで、父親はもう一度子を呼んで、さも真面目な面持ちで「何日もして、たった今幽霊が姿を現した。私は捕まえて殺してしまおうと思うが、手伝うなら急いで自分の棒を持って来なさい。逃げてしまうから、一分も待てない」と言いました。

子供は非常に興奮しましたが、考えている時間はないので、すぐに棒を持って来て、父と一緒にその部屋に入り、(使用人が仮装して部屋で待ち伏せていた)幽霊を見つけ、親子二人で力を合わせて、幽霊が倒れて死人の状態になるまでこん棒で叩きました。父子は喜び合い、幽霊を退治したこと、そして子供が恐怖を忘れて、その部屋に初めて勇敢に入ったのを祝って、家の者全員で楽しく宴をしました。

 子供が自分の頭で作り上げた幽霊を退治するために、根源を断つことを知っている賢さに依存して、父親は実際に幽霊を作り上げなければならず、それでやっと退治できました。

 愚かな人と賢い人は、悪い出来事を防ぐ時、末端を解決するか、根元を解決するかが違います。トラは自分が撃たれたと知れば、銃声とすれ違いに狙撃者を襲いますが、犬は夢中になって、自分を突いた人が持っている棒の先に噛みつき、突いた人が重要な根源と考えません。

 このように、重要点は根源を断つことと気づけば、恐怖の根源はどこにあるのかという問題に取り組むことができます。

良く考えて見れば、ほとんどの人がそう考えている限り、幽霊を怖がる原因はたくさんあると言うことができます。つまりそれを理解していないこと、身に沁み込んでいる恐怖や神経の病気のために心が衰弱していること、嫌いな人に復讐心を燃やし、自己愛で死にたくないと思うこと、これらすべてが恐怖の原因です。

見た限りでは、実にたくさんの原因があるので、すべての原因をまとめた本当の根源が何かは、かなり答えるのが難しいですが、恐怖は、愛や怒りや憎悪や迷いと同じ、一つの重要な原因から生じます。恐怖は迷い(痴、あるいは誤解)と同じ類だからです。

一つの原因は、取です。「自分がいる」「自分が生きている」「それは私のもの」「これは私のもの」という自身への信仰を、別の呼び方でアッチャミマーナ(排他心。自尊心)と言います。本能で感じる、あるいは信じている感覚は、「私」と呼ぶものを生み、「私はこういうことをした、ああいうことをした」「私はあれを手に入れる」あるいは「あれを失う」「これは私を支援する」「これは私の友達」「これは私を妨害する、私の敵」などと拡大します。この「私」が、人による妨害の何倍も心の平安と自由を妨害する、愛や怒りや憎悪や恐怖や惑溺の根源です。

 取(執着)は一時も休ませず、あるいは自由にしないので、縛られ、難癖をつけられて鉄格子に囚われるより、もっと私たちを窮状に陥れます。本性に「私」があれば、「私」はあれが欲しい、これが欲しい、あれになりたい、これになりたい、ああなりたくない、こうなりたくないと思わせます。これを熟慮して見ると、身勝手がいっぱいあると分かります。

あるいは百パーセント「私」で、「私」は病気になりたくない、死にたくない、あるいは滅亡したくない。だから病気や死の恐怖は、「私」の本能で、死の恐怖があれば、死や病気に至らせると信じるすべてのものを簡単に恐れます。

死の弟であるものが、「私」を恐れさせ、幽霊が私の首を折り、私を食べ、私を脅し、友達になったことがないトラを恐がります。そして他の動物、小さなヘビでも怖がり、それらのおぞましい物の住処である暗闇を恐れ、自分を守る機会のない寂しい場所を恐れ、密かに「私」を亡き者にする宿敵を恐れます。

「私」は隠している過ちがあるので、いつか恥をかくことを恐れます。それが何かを理解していないので、たとえば知らない果物など、色や形が珍しいと、「私」は恐がって食べようとしません。味見だけでも鳥肌が立ちます。そして仕事や名誉の問題で混乱すれば、いつでも「私」が落ちぶれることを恐れて、最後に「私」は神経衰弱や神経の病気になり、驚き易く、ぼんやりすることが多くなります。「これが私」と信じることは、恐怖の根源で、恐怖が生じると、心から瑞々しい涼しさはすべて失われます。

 

 このように恐怖の根源が何かが分かったら、次は、どのようにその根源を断つかという問題になります。ここで、被害者(恐怖のある人)の智慧や知識の高さによって二つのレベルの行動に分ける必要があります。取を消滅させる十分な資質があれば、すぐに取を攻撃し、完全に消滅させることができ、そうすればすべての苦は、跡形もなく溶け去ります。これが一つです。

もう一つは、とりあえず原因を減らす努力をするだけ、つまり原因を片付けて、より清潔にします。初めの方法は、心の面のタンマの実践を、取がなくなるまで順に高くして行くことで成功する、別の長い話で、この方法で成功した人は阿羅漢です。これは一般の人の問題ではないので、それに以前にたくさん説明したことがあるので、割愛します。

 後者は、世俗的にもタンマの面でも、人目のある場所でも人目のない場所でも、自分で自分を非難できないくらい、智者や神通力のある人がアラ探しをしても何も見つからないくらい、善い行いをする努力をして、自分をめいっぱい信頼し、尊敬でき、自分を苦しめず、他人を悩まさず、誰にも恨みを抱かず、世界の真実の法則を知り、生活規範を勉強して理解し、生きる上での意志の強さと確信があり、名声や人徳を維持し、強い意志と冷静さで公正なことだけをし、他人が軽蔑できる機会を作りません。

 護るものである自信があり、「すべてのものは無我であり自然に経過する」、つまり「原因と縁によって経過するので、不思議でもないし、そのことに関しては有利も不利もない」と、常に心に留めているので、神経衰弱や神経症になりません。こうなれば恐怖はなくなり、心は更に理想的で安全な拠り所を得ます。

 拠り所である仏法僧に至ることで拠り所を信じる順序を決める時に、ブッダは四聖諦の四項目の洞察について話しているように、四聖諦は、苦と、滅苦の理を知ることで、恐怖も苦に含まれるので、聖諦を軸のように見ることは、恐怖の根源を絶つことです。後者は最高に十分に聖諦を見ます。つまり阿羅漢であり、あるいは最初の根源を完璧に断ちます。

 最後に、私たちが絶えず心に留めておかなければならない、恐怖から護る鎧のようなブッダの言葉で、この話を終わらせていただきます。

『ほとんどすべての人間は恐怖に脅かされているので、山や神聖な森や、神聖な庭や樹木などを、自分の拠り所として信仰している。それは少しも平安をもたらす拠り所でなく、最高の拠り所ではない。それを拠り所と信じる人は、まだすべての苦から脱すことはできない。

 ブッダ、プラタム(教え)、僧を拠り所にする人は、正しい智慧で四聖諦を見、つまり苦を見、苦を生じさせる原因を見、苦からの決別を見、そして素晴らしい八項目がある道を見る。それは、その人を苦の終焉に至らしめる。すなわち平安をもたらす拠り所、最高の拠り所である。それを拠り所とする人は、当然すべての苦から解脱する』。(T.gu。40)

 悲しみは当然愛より生じ、

 恐怖は当然愛より生じる  

 愛から脱した人は

    当然悲しみがないので

     恐怖はどこからも生じない

 

    悲しみは当然欲望(あれこれ欲しがる)から生じる

    恐怖は当然欲望(望みが叶わない恐れ)から生じる

    欲望から脱した人は、当然悲しみがないので

    恐怖はどこからも生じない(T.gu,43)

 心から恐怖が消え、すべての生き物に安楽だけがあるように。

 


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