神通力‐奇跡

 

19371110

 神通力、あるいは奇跡の話は、すべての良く分からない話の中でも、特に良く分からない話の一つです。そして良く分からない話なので、いつでもこれに興味のある人がいます。そして、それは何だと確実に分かっている話よりも、関心を寄せる人が多いです。つまり、もし私たちが「神通力とは何か」、そして「誰にふわさしいものか」を良く知っていれば、それに興味のある人は非常に少なくなるという意味です。

 神通力を見せられる人は、物質面でも心の部分の幸福でも、どのようにしてその神通力の本当に厳格な結果を得たかを明らかにしていません。神通力とは何かを知らない人や、心が低いレベルに陥っている人にとって、神通力は本当の話なので、神通力のある人は、いつでもその威力を発揮して支配することができます。しかし神通力のある人、あるいは神通力とは何かを良く知っている人、あるいは神通力のある人と同じ強靭な心の人は、神通力は非常に巧妙で深いだけで、騙しの一種にすぎないと見ます。

 ブッダは、本当に必要な時以外に、神通力を見せなければならないのを非常に嫌悪し、弟子たちに神通力を見せることを禁じ、ブッダ自身もケーワッタ経(堅固経)の中で、ブッダ自身も神通力の威力と神通力の説教で誰かを苦しめることに満足しないと言っています。当時のヤクザ達が遊んでいた、カンダーリーやモンタマニカーという民間の学問と同じだからです。

 ブッダはアヌサーサニー(宗教を教えること)奇跡を使うことに最高に満足していました。つまり聞いた人が熟慮すれば、同じように見えるようにする理で話して教えることです。厳然とした結果が出る苦しみの方が、一時的で、後で理のある教えで、もう一度確実にさせる方法が必要な神通力より良いからです。

しかし神通力が目を欺くものでも、多少は興味のある話です。神通力のある人がそれを使って、自分の障害と闘うこと、あるいは非常に撃退することができたからです。

腹の中の食べ物が腐って腹が痛む時に、最初に飲まなければならない薬は、しばらくの間痛みを止める痛み止めで、それから腹の中で腐って膨れている物を排泄します。それが後でする完璧な治療で、痛み止めは一時な効果しかないので病気の原因を治すことはできなくても、使い方を知っていれば利益があります。

使い方を知ってれば、同様に、前半は誰かを苦しめるために使う神通力に例えることができ、後半は智慧あるいは理で不動なものにします。しかし後でパッチャッタ(自分で知ることができる)である理由、あるいはサンディティコ(自分で見ることができる)である理由によって確かなものにしなければ、得られる結果は満足できないことが多いです。

痛み止めしか飲まなければ痛みの元は排泄できないので、また痛みがぶり返したり、他の症状が出たりすることもあるように、最初に神通力の力を使い、後で智慧を使えば、一種類だけより完璧で、より広い結果が得られます。

 何らかの奇跡の力で宗教を信仰し、導かれて宗教の実践をして、その宗教の結果を得た人もいます。後になって神通力は目を欺くものだと知っても、その人が捨てるのは神通力の話だけで、宗教、あるいは後半に自分で明らかに知った幸福は捨てません。しかし、神通力だけを信仰して近づいてブッダの弟子になり、智慧によってプラタム(仏法)の真髄に到達できない人がいたことも分かっていて、スナックカッタリッチャヴィー王子などは、元の邪見に戻らなければなりませんでした。

しかし、アングリマーラのように神通力に負けて、その後教えや薫陶を受け、阿羅漢に到達した人もたくさんいます。だから神通術の話も、自分が神通力のある人になる訓練をするために興味を持つのでなく、知識全般に明るくなるための勉強として、知るべきことを知るために、少なからず興味のある話です。

次に、神通力の話は真実を探求するために説明し、その真実に近づくための見解にすぎないということを判断します。パーリ三蔵では、知識の段階、あるいは六神通だけ、あるいはこのようにできるという症状だけを一つ一つ説明しているのを発見し、課題や練習方法については述べられていません。

みなさんがパーリマハーアッサプラ(馬邑大)経、あるいはサーマンニャバラ(沙門果)経で、見られるのは、パーリ(ブッダの言葉)では、心を使うにふさわしくなるまで曇りを無くす訓練をすれば、神通力は手の内にあると説いているようなものです。その後のアッタカターや清浄道論のような特別な経典になると、直接神通力を見せる練習法について説明しています。そして著者は、それが実に聖向聖果の前兆にするよう望んでいるように見えます。

 私は、神通力の話が直接仏教であること、あるいは仏教の一部であることが理解できません。パーリのマッジマニカーヤ(中部)には、『私は苦と滅苦の話しか教えない』というブッダの言葉があり、神通力の話はゴータミ経の八原則のいずれにも相当しません。神通力の話が仏教に関わってくるのは、自分の心を支配する訓練をした人は、もしかしたらこの世で聖向聖果に到達するかもしれないという例えである比較です。

その種の心は、当然好きな時に思いどおりの神通力を見せることができ、そしてもう一つ、神通力は学習者でも理論家でもない類の人を脅して、宗教を信じさせる良い道具です。ブッダの時代はまだ精神学の時代であり、現代の科学のように物質面の研究や検証を好まず、大衆がその面を重視したので、教祖たちは、一部として神通力の知識と能力がなければなりませんでした。神通力はブッダの時代以前の大昔から、教義の教えと対で、自分の宗教を広めるのに使ったと言うことができるかもしれません。

神通力が嫌いだったことが明らかになっているブッダも、パーリに何か所も見られるように、必要な時には使わなければなりませんでした。ブッダよりずっと前のヴェーダ時代の初期には、実践する教えと、祭祀しかなく、後の時代になると、生死を賭けて闘う、あるいは闘う呪文がいっぱいある、第四ヴェーダ(アッタワナヴェーダ)が生まれ、殺し合いになり、敵の呪文との闘いは、大衆の人気次第、あるいは凡人の本能の力によって、と言うこともできます。

この時代は、神通力と呼ぶものの起源と見なすことができ、そして哲学的な理由より、むしろ大衆は神通力のような「商品」を買うのが好きだという理由で伝承されてきました。この部分で劣る宗教は弟子が非常に少なく、弟子になるのは賢い人だけでした。すべての大衆が審判員である時に宗教間に競争が生じれば、勝利をもたらす、つまり彼らを転向させて信仰させることができるのは、神通力だけのように見えます。この理由で、パーリ経典でも神通力について述べています。

 アッタカターでは詳細に述べられ、ブッダゴーサ師は、「清浄道論」で神通力(法力)の練習法を述べています。その本は、スリランカ島の大僧正を初め、島の人々の心に勝つために書かれた本で、この人の最高に重要な本と見なされています。アッタカター小部に、私たちの教祖はニカラナダ教祖と競うために、ヤマカパーディハーラという神通力、あるいは奇跡を見せたと書かれています。そして教祖が、他にもたくさんの小さな奇跡を見せた話を述べています。

これは、いずれにしても、当時の人々に確実に人気のあった神通力を道具にして、他の教祖との競争や闘いがあったことを指摘しています。しかし闘った人は、言われているように教祖自身、あるいは後の時代の弟子たち、あるいは著者である人の時代の弟子たち、あるいはブッダの死後九百年くらいということもあり得ます。どちらにしても、もし後の時代なら「なぜこの話がパーリ三蔵に入っているのだ」と反論する人がいるかもしれません。

 私たちのパーリ三蔵は、ある時代にシンハラ語(スリランカの言語)からパーリ語に書き写され、そして原本を焼却したことが明らかになったということを理解するべきです。そしてそのようなことをしたのは、アッタカターチャーン(アッタカターをパーリ語に翻訳したアーチャン)の中の最高責任者だったブッダゴーサ師です。

ブッダゴーサ師がバラモンの生まれだったので、多くの研究者は、バラモンの話(サンユッタニカーヤ(相応部)の地獄極楽の話、夜叉がお月様やお日様を捕まえる話など)を三蔵に混入させ、ブッダの言葉の中に混入させたものまであるのは、この人の仕業であると、あるいはこの人と同類の人物の手によると信じています。しかし、師が混入させたのは、人々が罪を捨て善を行なうよう願う、善意でしました。当時の人の信仰にふさわしいからです。

 だから、教祖が神通力の話を教えなかったとしても、あるいは神通力がブッダの時代の仏教と関わらなかったとしても、この(ブッダゴーサ師の)時代には関わっていたに違いありません。引き寄せて関わらせた人は善意で、自分が愛する仏教に襲いかかる他の宗教の勢力に抵抗するためで、そうしなければ、仏教が現在世界に残っているより、非常に少なくなると危惧したからです。このような理由があれば、神通力の話に関する考えと信仰をどう調整するかという、次の問題があります。

私は、神通力は飾りの一つ、あるいは道具の一つにすぎないと見ます。仏教もそれを飾りや敵と戦うために使ったことがありますが、滅苦についてだけ述べられたブッダワチャナ(仏語)の本当の本質ではありません。だから現代人が、神通力と最善の関わり方をするには、今までの経過と同じように、私たちはそれらを本当に帰依するものにはできません。それは、これから私が知識と見解で説明する理由で、智者のみなさんが、その後熟慮して真実を探求していただくよう託します。 

神通力とは、「望みどおりに成功させる道具」という意味ですが、今だけ、あるいは一時だけに限られた意味で、神通力の威力が消えれば、すべては元の状態に戻ります。精神力の高い人は高い神通力を見せることができ、神通力のある仲間でも、精神力の低い人が降参するほどです。心は自然の一つなので、正しい方法で訓練すれば、心のあるすべてのものを支配できる十分な威力になります。

凶暴な野生の象を調教する方法を発見できなければ、その象から何の利益も得られません。「この象は調教できるかもしれない」と考えることを知り、初めの段階の馴らす方法に気付いた人は、非常に困難なことをした人と見なします。しかし心と心の訓練法の数々を発見した人は、それ以上に困難なことをしたと見なします。大昔、心の話に興味を持ち始め、精神学をする人がいろんな状態の実験をして、二つの別々の系統に分かれ、最後には、心を最高点まで訓練できる最高の能力になり、次のように大きく分類できる利益をもたらしました。

(1)「天の」と呼ぶ自然に到達し、天の能力と呼ぶものに陶酔できる。

(2)望みどおりの結果のために、同じ生き物の心を支配する心の威力がある。

(3)その後は、知りたい、研究したいという気持ちがなくなるだけ宇宙について知ることができる。その知識に満足するからである。

(4)心の苦を振り棄ててしまうことができる。すなわち内面的幸福から、定、サマーディ、聖向聖果、涅槃まで、精神的な滅苦に関する宗教教義である。

 その人の研究の傾向が、神通力の荒れた密林に踏み込む人たちは、初めの二種類の結果、つまり(1)と(2)になり、

 人生の重い石である、欲望の荒れた密林を開拓する人たちは、(3)(4)の結果になります。

 初めの人たちは神通力の人で、後の人たちは道徳と精神的な哲学の人です。この二種類は、どちらも大衆に好まれてきました。精神学が好まれた時代には、この学問が生まれた地域、つまりチョンプータヴィーバ、あるいは古代のインド全体を風靡し、その地域の大衆は、各人が神通力の面と、心の苦から脱す面の結果を、望みどおりに受け取れました。しかしここでは神通力についてだけ述べ、滅苦の話は別の話なので控えます。

研究して教え、何代も伝承してきた方法で訓練した人が、正しく最高度になれば、形・声・香・味・触と、形・声などから生じる心の感覚に関して、自分の心をあれこれ支配することができ、そしてその脳波を送って、他人の心を形・声・香などの面でそのように支配する練習をします。自分より心の力の弱い人は、どんなに大勢いても、目・耳・鼻・舌・体で同じように感じます。彼らの心は、威力を送って来る人の心の威力で、同じに支配されているので、全員が同じように見、聞き、臭いを感じます。

たとえば地震や、洪水、美しい国など、神通力を現す人が心でイメージして、威力を送ってきたようになります。これは完璧で綿密になるので、私たちが眠って夢を見ている時、自分が夢を見ていると気付かず、本当に怖がり、本当に怒り、本当に喜ぶように、支配される人がその時自分は支配されていると、そして感じているものが本物ではないと気付く術はなく、神通力の威力に支配されていれば、それは本当にそのようだと、すべてそのように感じます。

 神通力を現わす人の中には、大勢の人の中の一部の人だけを支配できる人もいて、同じ場所に一緒に座っていても、違って見えます。教祖が大集会の席で、ブッダに拝謁した人の中のある人だけを苦しめたという話で聞いたように、ブッダはイッダービサンカーラ(神変行)で、その人の傲慢を無くすために、その人だけに何かを見せ、あるいは聞かせました。

闘っている双方に神通力があれば、当然心の威力の強さ、あるいは高さ次第で、一方の神通力のある人がその場にいる人全員に恐ろしい光景を見せて脅しても、もう一人の方の心の威力が高ければ、その場にいる人が神通力の威力に支配されている時、夢の中にいるように、それが神通力だと気付かなくても、自分の精神力を集中させて、初めの人の威力から生じた光景を識の広場から消し去り、自分の側の恐ろしい光景で脅すことができます。

彼らは、相手の神通力を消し去り抵抗する方法があると信じ、その教育を受けているので、相手の神通力が無くなるまで互いに応酬し合い、闘わない人は、直接殺害します。何らかの名誉を争うため、大衆の信仰を我がものにするために闘うのも同じで、相手が狙う神通力を出させないための抵抗で、成功すれば相手は初めから負け、抵抗に失敗すれば、相手が送ってきた威力を無効にする方便を探さなければなりません。

そうできなければ、純潔な心の人の神通力に負けます。聖人は、当然煩悩がいっぱいある方より高い力があり、堅忍不抜で、煩悩のある人の心は、煩悩で中断されてしまうので、闘いの最中に望ましいもの望ましくないものがぶつかって来た時に、ぐらぐら揺らぐことがあるからです。もう一つ、煩悩のない人は身勝手でしないので、神通力の食糧のような歓喜と確信その他の力がより多くあり、この点で有利です。

闘わない人は、心の力が弱い人を苦しめるだけですが、何らかの原因で傲慢や頑固さのある人を苦しめる方が、普通の人、女性、子供たちと闘うより簡単なのは当たり前で、残っている低レベルの威力を出すだけです。

現代でも威力で支配して、神通力を出す人の威力の下に落とすことができます。今でも、こういう話を信じる人がほとんどなく、そして訓練する人もいない時代でも。

この話に本気だったのは大昔で、誰もが神通力を信じ、練習する人も本気で練習したので、神通力は完璧で、完全に本物でした。その時代に誰もが信じたことも、練習する人自身が信じ、そしてしっかり練習に専心したことも、みな神通力を振興させ、ますます本気のものにしました。昔のある時代には、百パーセント神通力を信じたので、神通力の権威も百パーセントでした。蓋と身がピッタリ合っていたからです。

今は信仰も練習もわずかしか残ってなく、五パーセントにも満たないので、九十五パーセントはどうしようもなくなってしまいました。時には身があっても蓋がなく、時には蓋があっても身がないので、どちらも仕舞うのが億劫で捨ててしまい、だんだん消滅します。現代の科学者の腕から生まれる誘惑は、人の心を低下させ、神通力の足である心を空にする力を、どんどん弱める方向に威力を増しています。

神通力を見せられる人がいない時代が長くなれば、練習する人にも見る人にも信仰が消えます。今を見て、昔に戻って、この問題を良く理解するために練習法を探します(もう一度むしかえして練習するのではありません)。神通力の練習をする人は、普通の人より簡単にサマーディになる心の持ち主でなければなりません。これは一般人のものではないので、信仰があり、サマーディの訓練ができるくらい本当に練習する人でも、神通力を見せられるまでになる人は、百人に一人か、千人に一人くらいしかいないと言っています。

聖諦を知るために実践して苦から解脱する方が、まだ大衆的です。ある種の人たちは、サマーディの練習に関わらなくても、ふさわしい環境が、考えを「倦怠」と「手放す」方向へ導くことが原因で、苦から解脱することができます。疑念を残さないためにもう一度繰り返すと、普通の人は涅槃のために練習する方が、神通力の訓練を最後までするより簡単です。神通力と涅槃の両方の訓練をするのは、更に非常に困難です。

阿羅漢の人たちも、スッカヴィパサカとアピンヤーの二種類に分けられ、神通力を使えない人と使える人です。涅槃のためにサマーディの練習をする人は、心がサマーディになったら、命の真実、あるいは生き物の苦はどのようであり、どのように生じどのように滅すか、などの探求に心を傾け、神通力のために訓練する人は、真理の探求には傾けず、そのサマーディを、非常に難しい課題である、いろんなマノーガティ(概念)を作ることに傾け、熟達します。

心あるいは識を完璧に管理し、心の概念を描くことに熟達したら、力を集めて、それを近くにある人に送って支配する練習をし、その概念の像で自分の思い通りに他人を支配するために、どんどん範囲を拡大します。最高に難しいのは、他人の識の画面に映画の映像を映すように、その像を思い通りに変化させなければならないことです。だから静まるためにサマーディをするより、あるいは何か一つのことを考えるより難しいです。

しかしいずれにしても、その難しさは不可能ではありません。あらゆる仕事に柔軟に使えるカンマニヨーと言えるレベルまで訓練すれば、神通力の解説で述べられているように、思い通りに使うことができます。仏教のものは、この種の心の能力を最高に残らず見せるために、他から借りて来て入れたようで、苦から脱せないばかりか、ブッダが見せている様相とあまり一致しません。

パーリでは、練習法を説明していないこともあり、「訓練するべき」あるいは「必要」と、糸口を説いてなく、そして重要な弟子の誰にどんな利益があったか、あるいはどう利用したかもあまり明らかにされていません。それが、これらの神通力の話が、練習すれば最高に達す心の特質を説明するために述べたものでなければ、全部揃えただけで、ブッダの弟子に必要なものではないという理解を生じさせます。

そのようなら、彼らがしている神通力の訓練法と多少違うということです。神通力の話は、犠牲にするために弛まず探求するのであり、受け入れるために探求するのではないからです。パーリには、心が四禅になってそれに熟達したら、それを神通力に傾ければ、四禅の威力で成功すると述べられているだけです。

禅定を傾けるのに成功すればできます。こういうのは、神通力に傾けるのに失敗したら、段階を飛び越えて聖諦のことを考えるのに傾けるように見えます。選択肢としてある、あるいは資質のある人のためにあるようなものです。

ある国や地域のパーリ経典には、神通力に関して述べていないのもあります。四禅について述べれば、三つの知識、つまり_甬遒亮分の経過について、⇔慍の中の生き物が駆け回ることについて、そして聖諦の理を最高に考えることについて述べているものもあり、三つの知識について述べている経典の方が、神通力について述べているものより多いです。そして四禅について述べているものは、聖諦について話しているものが非常に多いです。

 三蔵の解説であるアッタカターは、神通力について述べていません。大抵は言葉や本当のタンマの項目を説明していて、そうでなければ物語です。アッタカターを綴った人と、清浄道論を著した人が同一人物か、それとも清浄道論がアッタカターより先にあったのか、ぜひ清浄道論を調べて見てください。清浄道論には神通力の練習法が詳細にあり、仏教の経典の範囲には、これほど詳しいものはないと言えるほどです。

詳細すぎてここで詳しく説明することができないということを、みなさん自身でその本を開いて見るようお願いしなければなりません。大まかに基本だけを言えば、初歩の段階では、後の段階で、「カシンを観る」と呼ぶ概念の像を作るのに便利なように、いろんな色や、土、水、火、風などの物質を、目に焼き付くまで熟視することに、本当に習熟するよう教えています。これはブッダの時代以前からあるもので、仏教のものではありません。

 神通力を目指す人は、涅槃を目指す人がアーナーパーナサティとカーヤガターサティ(身隋念。不浄観と同じ)の練習を重視するのと同じだけ、カシンの練習を重視します。土・水・火・風は世界のいろんな物の構成要素で、別の言い方をすれば、一般人の感覚に現れている世界は、土・水・火・風で、これらを目や心に焼き付けて習熟すれば、そのヨギー(ヨガの修行者)は、何でもいろんな事情に関わる概念の像を作ることができるので、神通力を勉強する人には、カシンの練習は非常に必要です。白や緑やいろんな色も同様で、世界中にあるすべての物の色です。

 ウッドゥマータカアスパ(膨張相。腐乱死体を観る)の練習は、死んで四、五日経って、緑色に膨れた死体を目に焼きつくまで熟視し、そして何度も拡大したり縮小したり、拡大縮小する練習をし、起き上がっていろんな動きができるようにします。あらゆる種類に習熟して目や心に焼き付けば、それがその人の神経を恐怖に強くし、本当にどこでも動揺しない心になり、特に臭いなどの概念を作りやすくします。

要するに初めの段階では忍耐と、自分の心が本当に掌中にあるように支配する練習をし、心だけで像を作ることに熟達す練習をし、それから勇敢、堅忍不抜、神経を安定させる練習をします。このレベルに熟達したら、いろんな物で他人を支配するために心の像を送る、あるいはアディターナチッタ(決意)という練習をします。熟達して十分勇敢になれば、インド半島のすべての人に、今まで北にあったヒマラヤが今は南に、あるいはインド洋の中に移動したと感じさせ、あるいは見せることができます。

しかしその心の威力が十分でないので、今まで現れたことがあるのは、神通力・魔法と言うにふさわしく、ある人たちの中だけ、あるいは一時だけです。「神通力」「魔法」とは、一時だけスッキリと障害を解決する道具という意味です。ヨギーの誰かが、神通力でヒマラヤを動かしても、神通力が衰えた時、あるいはその人が死んでしまえば、ヒマラヤは一瞬にして元の場所に戻るからです。

神通力のある囚人は、自分が空を飛んでいるのを見ることができるかもしれませんが、十分に堅牢なら、拘束している物を壊すことはできません。しかしその囚人は、自分に利益になるように神通力を使うこと、あるいは何らかの方便で自分の神通力を恐れさせて、釈放命令を出させる機会はあります。このようなアディターナチッタ(決意)でイメージを送って他の生き物を支配できれば、神通力のある人です。しかし力の強さはその人の能力次第です。

 

ここまできたら、終わる前にもう一度戻って、神通力について初めからもう少し検討し直して見るべきなので、この種の知識の歴史の面を熟慮します。この知識は、何か普通の人を超えた威力を知りたい、到達したい願いから自然に生まれました。心は非常に不思議なもので、何か特別な性質があるに違いないと信じた、変わった人たちの偶然によって生れた望みで、一所懸命心を訓練して良く知れば、知らない人に圧勝できます。この考えが、苦行と呼ばれる研究と実験に、全生涯を捧げる原因です。

人が神様を信じた時代には、当然彼らが神様と信じるものに集中する威力で、精いっぱい神様の助けを期待しました。彼らに神通力の糸口を発見させた「足」は、初めはほんの少しで、そして後世の人に何十代も引き継がれ、これらの本気で決意した人たちは、沢山の不思議なものを発見し、それを集めて教えにしました。これが町中の人に広まると、若者や武士、あるいはクシャトリアたちの心を引き、彼らは森まで行って、それらのヨギーに教えを請いました。

影絵芝居の物語に残っている話があります。良く演じられる話の多くは、ある人や鬼が村の人と闘って、あるいは人間と闘って、いい勝負になるほどその面の能力があり、天人、あるいは楽しいことしかしない人たちには神通力はありません。サマーディがあまり良くないからでしょう。

初めに神通力のある人が研究したのは、望み通りにするレベルだけで、神通力の理由までは研究しないので、このことに関しての哲学者や理論家ではなく、伝承して教えてきた実践者にすぎません。

インドがこの種の学問で栄えていた頃、ヨーロッパにこの知識はまったくなく、インドで衰退した後、飛沫をほんの少し受け継ぎましたが、インドのようにこの種の精神学が発展するには十分でなく、サターンの魔法、あるいは小さな悪魔の魔法にすぎず、大した毒はなく、むしろ宗教の話です。

 インドでこの学問の実践が衰退した時、物語に消えずに残りました。それ以上に、最高に確実なのは、後の時代の人によって増やされ、より素晴らしくなったことです。その結果、後世の人、現代人が何枚皮を剥いても薄皮に到達しないほどです。

 想像が真実を拡大して、すぐに障害を解決する知識にすぎない神通力を手なずけた結果、深く知らない人を担ぎ、物質の話のように本当のことになりました。

 本当にそうならば、どうして神通力のある人が普通の時に、神通力を見せる時のように空を跳ばないで、どこへ行くにも歩いて行かなければならないのか、神通力で食べ物を手に入れないで、なぜ田を耕し、果物を作り、あるいは托鉢に行くのか、自分で答えられないのに、後世の人の多くは、何でもそれを本物と信じます。

かつては精神力の腕試しでしかなかった神通力がどんどん物質面に傾き、後世の人の中には、煩悩で自分の餌を探すために神通力を使いたいと望む人が出るまでになり、最後に受け取る結果は、精神錯乱です。

 長々と述べて来た神通力の話をまとめると、神通力は心の能力の一部にすぎず、心の話は名のものの部類なので、物質的な結果を得ることはできません。夢の中の物質が「物」であるのは、夢から覚めるまでの間だけであるように、神通力で作り出した物は、人々が神通力に支配されている間だけです。

 私たちが世界と呼ぶすべてのものも、私たち全員の心を変えさせるものがあれば、同じように一瞬で違う世界が私たちの前に現れます。すべてのものは心で作られ、形・声・臭・味・触・考えに力が生じるのは、心と呼ぶものがあるからで、心がなければ、世界も無くなるので、すべてのものは心で作られると結論することができます。

 心が作り、心が主人あるいは唯一の統領なので、何かあった時も心を変え、心で知ることができるすべてのものも、変えなければなりません。心を変える力が一時的なら、一時だけ変化します。

 この世界には、変化しないものは何もなく、変化するものに勝つために神通力を使っても、喜ばしい結果になるはずはありません。だからすべての聖人は、神通力の研究に時間を掛けないで、短い命を不変で幸福なもの、つまり涅槃の研究のために使います。神通力も涅槃も心の部分の学問に違いありませんが、今述べたような理由で、正反対です。

 インドにブッダが生まれて、神通力の「足」は四種類、つまり「満足」「努力」「注意」「熟考」と規定し、「四如意足」と呼びます。これができた時得られる結果は涅槃です。ブッダの神通力は、涅槃に到達させる道具に限定されたので、昔は人を騙す物、そして一時的なものであった神通力が、このように確実で最高の結果を生じさせるものになりました。

 


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