心の食べ物





1937年9月19日

 形・声・香・味・触の感情(心の中の概念)による満足は世俗の側のな食べ物で、感情が静まることで生じる喜びに満足することは、タンマの食べ物で、命の理想はタンマと世俗両面の文明が最高になることです。だから命は、当然世界とタンマと両面の食べ物を求めます。どちらか一方しかなければ、その命の人間としての意味は半分、あるいは片側しかありません。

 私たちは、体の娯楽みを求めるのは難しくありませんが、心の娯楽を求めるのは非常に大変です。体の楽しみは、心の楽しみと反対に簡単に見え、簡単に知っています。しかしこのように信じる人は誰もいません。彼らには体の楽しみ以外に楽しみがなく、それに体が楽しめば心も自然に楽しいと信じているからです。この種の人たちはタンマの話を聞きません。あるいはタンマを学ばず、タンマの象徴である僧を拝みません。

 体、あるいは世俗の楽しみは、常に「飲む」か「食べる」かしていなければ楽しくありません。しかし本当は、空腹の度に、一時的に飢えを抑えること、あるいはごまかすことでしかありません。心の楽しみ、あるいはタンマの楽しみは食べなくても、飲まなくても、自然に楽しさがあります。飢えがないので、飢えを癒すために飲む必要も食べる必要もありません。

 こう言うと、体の楽しみを好む人は聞いて理解できないかも知れませんが、すぐに投げ出さず、もう少し我慢して読んでください。世俗的な体の楽しみを好む人たちは「心は体の中にある」と言います。しかしタンマの面の心の楽しみを好む人たちは、「体は心の中にある」と言います。前者は世界の片側しか知らず、後者は世界の両側を良く知っています。

 体の楽しみを好む人が、自分の飢えに精一杯餌を与えて満足させている時、心の満足を好む人は、完全に根を絶滅させる努力することで飢えに勝つことができ、自分自身の支配下にある静謐の中にいます。

 前者は、自分の「飢えの要求に応える物」を与えることを「楽しみ」と理解し、後者は、要求に応えなければ応えないだけ善いという価値を「楽しみ」にします。一方は欲望に負ければ負けるほど善く、もう一方は欲望に勝てば勝つほど善いとします。

 体の楽しみを好む人は、当然気付かないうちに欲望に負けていて、それ以外の物を知らないので、自分もそうし、そして子や孫にも体の楽しみだけを勧めます。体の楽しみの手段を手に入れれば、また新しい物、珍しい物を常に求め続けるので、心に穏やかな幸福はありません。(一食食べれば一食分だけ空腹が静まるように、その間だけの楽しさです)。

 心に憂鬱が生じると、自分にはカンマがあると考え、あるいは自分は他人より運が悪いと考え、サンカーラ(原因と縁で作られた物。体)の当然の状態で病気になると、自分の運命をひがんで卑屈になります。その上幸運を求めて得られなければ「この世界には公正はない。理不尽ばかり」と見ます。

 この種の人は、最後には低劣な自然に身を任せ、世界が望まない類のカンマを作り、運と呼ばれる物と闘います。この種の人ができるのは、最高に良くても自分の運勢を罵ることで苦に耐えるだけです。

 今楽しさの最中にいる、体の楽しみを求める人たちの社会や集団の中で、天人たちは、当然自分自身が幸福の振りをしていることを良く知っています。しかし迷ってそれらを「格好いい」「幸福」と、自分を騙し、中には毎日交互に、あるいは一日に何度も泣いたり、笑ったりしなければならない人もいます。財布が膨れるたび萎むたびに、あるいは口に合った餌が得られるか得られないかで、心が膨らんだり凋んだり上下します。

 これらの人の心は、彼らが感じている時はいつでも少し残っているので、心は体の中にあると感じます。つまり体次第、あるいは体の方が大事です。体の楽しみが十分得られた時だけ、彼らの心が「幸福」と呼ぶ状態になるからです。これらの人が「心の楽しみ」「心の楽しみ」と言っても、それは勘違いして体の楽しみのことを言っているだけです。心が常に膨れたり凋んだりさせられている時、心の楽しみがあるはずはありません。

 心の膨張と萎縮は、形が違うだけで同じだけ心を疲れさせる苦です。幸運や昇進や称賛、そして陶酔は膨れさせ、不運や左遷、侮辱、非難されて陶酔できないと萎縮し、どちらも同じだけ動揺します。

 厳密には思い通りに得られた時も動揺し、得られない時も動揺します。愚かさが酷くなると、その味、あるいはそれを味わう時が、命の「涅槃」に違いないと確信します。しかし考えて見れば、それはまだ少しも苦の固まりから離れていないと見ることができます。それは誤解でしかなく、しかも自分自身を泥沼に沈める誤解です。

 このようなら、世俗的、身体的、物質的な楽しみとは何か、そして身体の食べ物だけを探すことに夢中になっているとどうか、この面の幸福しか知らないことは、どのように世界の片側しか知らないのか、続いて見えてきます。そしてこのように世界の片側しか知らない人は、世界の両面を良く知っている人のように、これらの感情を自分のために利用すること、あるいは楽しむことができません。

 まだ覚めず、それを何より最高の物と崇拝しているので、陶酔の奴隷になっています。世界を良く知っている人はタンマの楽しみ、あるいは本当の心の側の物を重要として尊重し、そして体、あるいは物質の部分は、精神面の楽しみを求めるための使用人として使える、便利な道具にすぎないと見なします。だからこの人たちは「体は心の中にある」という理念があります。

 つまり心次第で、体はほんの一部なので、絶対的な威力と、あらゆる点で最高の価値がある心を頼りにします。そしていつでも、どんなことでも、心の食べ物を求めて与える方が善いです。

 心はまだまだ成長することができ、涅槃に到達すれば終わり、理想の幸福が永遠に続きます。体の成長はこれ以上ありません。形・声・香・味・触、そして階級など、ある種の心の感情でしか最高になれず、そしてこれらに満足を生じさせた人は、過去にも現在にも未来にも誰もいません。この面の追求は楽しみの重要な燃料なので、「これで満足」ということを知らないからです。

 満足してしまえば楽しさは無くなります。どんなに努力しても「欲望に急き立てられている火の中で立ち尽くす」以上の結果を得ることはできません。衰え始めれば、新たな燃料を継ぎ足さなければなりません。そして普通の燃料の火と同じように、十分になることはありません。

 だから心のために心の食べ物を探すことには価値があり、あらゆる点で比較してもこの方がするべきであり、美学であり、高い理想であり、難しく、あるいは称賛されることであり、芳しく、穏やかです。体の面の楽しみを求めることは闘いの始まりで、心の楽しみを求めることは平和の始まりです。

 世界の人がまだ物質主義を崇拝し、体の楽しみだけを求めていれば、国際連盟を幾つ作っても平和は望めません。物質主義者は体を重要視するので、体、あるいは自分の世界が満足するためなら何でも犠牲にします。精神主義者は心を重要視するので、心の穏やかさに換えるためなら何でも犠牲にできます。

 体の楽しみは周囲の他人、あるいは他の物に関わっているので、体の楽しみを求める人の探求は、他人と衝突しなければなりません。身勝手があれば衝突が起こるのは当たり前です。

 戦争は沢山の人が衝突し合うことで、どちら側にも体の楽しみのための身勝手があります。世界大戦は、沢山の国の利己主義の集まりに他なりません。心の楽しみの探求は、すべてが自分自身の中にあり、他人と関わらないので、誰とも衝突しません。冷たさから火が生じることがないように、心の幸福を求める人から戦争が起こることはありません。

 体の食べ物を求めるのは簡単で浅く、そして戦争の原因であり、心の食べ物を求めることは難しくて深く、そして平和の原因です。しかし世界の人間のほとんどは自分を本能のままに、あるいは低い方の普通の状態にしすぎるので、私が見る限り物質主義の人しかいません。

 時が経てば経つほど、心の食べ物の求め方は人間の記憶と関心から消えていき、最後には人間の脳の中に身勝手以外に何も残らなくなります。それは世界を燃やし尽くす劫火です。心の幸福を求める人が数人しかいなくても、その人は「世界が劫火の時代に落ちて行くのを遅らせる落下物(驚かせるための)」と言いたいと思います。

 「私は落下物であることは認めますが、みなさんが余りに早く火に飛び込むのを防ぐために落ちて来ました。私がみなさんと同じにしていれば、私がこうしているより早く世界は崩壊するでしょう」。これは心の面の幸福を求める人が、公正に発言しなければならない言葉です。



 しかし世界が心の食べ物を求めることを放棄して、体の食べ物を得ることに偏れば、世界はブッダを捨てる側なので、ブッダも助けることはできません。仏教教団員の誰もがまだ忠実に心の幸福を求めていれば、ブッダの家系はまだ相続人がいると見なします。そして他の人たちがこれらの人を嫌っている時でも、自分のため、世界のために落ちてくる小さな落下物が、まだ残っているのと同じです。

 仏教教団員は「体は心の中にある。心の食べ物は体の食べ物より大切で、そしていつでも心の幸福の探求に対して誠実でなければならない」と信じなければなりません。口だけの仏教教団員の人は仏教教団員ではありません。本当の仏教教団員は物質主義者や国家主義者にはなれません。口先だけの仏教教団員は仏教教団員でない人より凶悪です。

 殺戮し合う時代になると、生き残れるのは本当の仏教教団員だけです。これは心の食べ物を好むことの功徳です。心の食べ物の良い点について政治的な面まで十分述べたので、これから直接心の食べ物の状態について述べます。

 「世界(世俗)」と「タンマ」という、誰でも聞いたことのある、この二つの言葉を一緒にすることはできません。世界は物質を好む側であり、タンマは「物質より上にある自由」を好む側です。そしてこの「物質より上の自由」が心の食べ物です。体は世界の食べ物を求め、心はタンマの食べ物を求めます。

 「心は体の拠り所」と見るくらい心を重要視する人は、体の食べ物を、体が生きていけるためにだけ与え、それ以外は心のためだけに使います。物質より上にある自由なものは見えにくいので、普通では自分が物質の奴隷に陥っていると考える人は誰もいません。

 いずれにしても誰でも物質を求め、食べて使って、自分を名誉で飾り、そして愛している人を喜ばせる。そうできることが、いつでも使えるお金があるような、物質より上の自由が十分ある大旦那と理解します。あらゆる憂鬱が生じるのは、覆い被さって思いっきり痛めつけている「物質主義」の威力と考える人はいません。心が必要な穏やかさをすっかり失ってしまうのは、毒になるまで「物質」を崇拝した自分自身の愚かさのせいです。

 心の所有者が、心は体より食べ物を必要とすると知らないので、本当の心は、食べ物で営養される機会がなく、成長できません。すべての本能が手を組んで指揮台に立ち、本当の心、あるいは第一義諦の段階の高尚な自然に覆い被さってしまうので、本当の心は姿を現すことができず、低い方の威力、あるいはここで体と呼ぶ物に従い、食べ物の探求に夢中になっています。

 心の食べ物がないと、このような初歩の段階でも、何とか明るく輝いて、その人に「心の幸福が理想」と見せるだけの成長がありません。人生は暗いものになり、何がどうしているのかも知らず、泣かなければなりません。

 この世界に生まれた赤ん坊は、このようなことは自分では考えられないので、タンマの教育だけが初期の段階の助けになります。だから学問的なタンマの教育が初期の段階の心の食べ物です。そして中期の段階では、その学問体系を自分の脳で消化吸収し、得られた知識と明るさ、澄明さ、冷静さなどの後期の食べ物が、涅槃が現れるまで成長させ、それで終わります。

 パリヤッティダンマ(三蔵を学ぶこと)、あるいは学問体系であるタンマは、初めに、私たちには二種類の体があると気付かせます。つまり形身(色身)と法身で、形身は両親を根源として生まれ、ご飯を食べて育ち、法身は正しく明るい「体と言葉と心」に現れます。正しいことは、大きく成長させる食べ物になります。

 その後「体の手入ればかりしていると片方だけ豊かになり、もう片方である内面が干乾びてしまう。結果として得るのは豊かな体だけで、心は憂鬱で満ちていている」と感じさせます。子供の時はあまり憂鬱が現れません。他人に養ってもらっていることと、まだ体も十分成長していないので、どの根(目・耳・鼻・舌・体・心)も十分に感じることができないからです。

 体が十分に成長すると、バランスが崩れるので憂鬱がたくさん生じます。(形身と法身の並行したバランスの良い発展なら、憂鬱は生じません)。要するにパリヤッティダンマ(タンマの学習)は、自分の法身のためにあれこれタンマの実践をしなければならないと教えます。

 そうしなければ片側がマヒしてしまいます。パリヤッティタンマをそれなりに知れば、学問である心の食べ物が得られ、そして正しい見解の実践の基礎、あるいは最初である夜明けの曙光が現れます。

 パティバッティタンマ(タンマの実践)、実践であるタンマは、根に勝つために根を苦しめることで、勝った分だけ冷静さと洞察が生じます。冷静さは根が鎮められることから生じ、洞察は、例えばそれまでのように根の憂鬱のカーテンに遮られないことで、それ自体の中に生じます。

仏教の教えの根に勝利する方法は、悪を避け、善いことだけをするよう自分を律し、その後は簡単に見える物も、最初の根源のような本性の中に眠っている物も、心を憂鬱にする物を拭き取って自由にする方法を探します。

 別の言い方をすれば、体と言葉を「戒」と呼ばれる威力の下に置き、心を「サマーディ」と呼ばれる威力の下に置き、そしてその心を使って「智慧」と呼ばれる明るさが生じるまで、深遠な真実を探求します。このように根を管理することで、心の傷は少なくなり、物質や、すべての感情の毒が少なくなり、あるいは無くなります。

 好きなことにも嫌いなことにも迷わない状態に自分自身を律しておくことができるので、根をこのように支配して心が安楽に休息すれば、心は食べ物を食べることができます。実践の部分は最高の食べ物を受ける器具になります。

 パティヴェータンマ、あるいは、今まで何も知らずに陶酔していた物を洞察するタンマは、疑念や誤解、愛着や憎悪、散漫等々の憂鬱の根源を根こそぎ断ってしまう類の知識で、代わりに心の冷静さや明るさ、解放感が生じます。これが学習することで心に生じる結果です。学習による知識の系統は「取り敢えず理論で推測するような知識」でしかなく、洞察は無明のカーテンを引き割くこと、つまりその人だけの物です。

 非常に不思議なのは、狂った人が他人から病気の治療法を聞いて、自分自身を熟慮して自分を治療し、絶えず自分を観察・熟慮していくうちに、最後には治ってしまうことがあることです。自分の仕事に支障が生じた大工やエンジニアが、自分で一生懸命考えることで、あるいは智者に聞いて自分で解決することで問題を切り抜けることができ、何とかなる手掛かりを見つけた時は、精神的な喜びがあります。

 人生の問題に支障が生じている(つまり人生が、最高に雑な物から最高に微妙な物まで、各種の憂鬱という錘で常に下へ引っ張られている)と知っている人も同じで、自分の考えでも、知識のある人に聞いて考えても、すっきりした明るさが心に生じれば幸福です。本当の芸術家は、難しい物を作った満足に幸福を見つけ、ビジネスマンの領域であるお金や評価・表彰に満足するからではありません。

 満足、あるいは洞察から生じる幸福は、ビジネスマンや物質主義者は絶体に幸福と見ることができない、別の次元と見ることができます。この結果はパティヴェート(実践の結果)の部分の心の食べ物です。残らず最後まで洞察すれば涅槃に出合い、その手前のそれぞれの段階まで洞察すれば、ブッダが規定したそれぞれのレベルの聖向聖果です。

 このように段階的な心の食べ物を与えられて涅槃に到達すれば、その後は食べ物として涅槃の味のある心になります。寂滅が涅槃の味で、そして寂滅のある心が食べ物です。ここで言う寂滅とは涅槃の冷しさ、あるいは空の状態である一つの状態です。すべての物から解放され、形も名も越え、形と名の法則を超えていて、そして誰も何も規定することができない物です。

 水浴をすれば水の冷たさを感じ、心が涅槃に到達すれば、当然涅槃の清涼さになります。この清涼さは、心の特別で最高の食べ物なので、いろんな憂鬱はすべて捨て去られてしまいます。高いレベルのパティヴェータ(結果)の段階の食べ物を摂った時から、今まで涅槃の清涼を受け取っているので、この時のこの味がどのようかを、一般の人の理解できるものにすることは困難です。

 だからブッダは「話して聞かせたくても、どう話して良いか分からないもの」と言われています。涅槃の味はおろか、ヴィヴェカ(遠離)や初歩のサマーディの味でも、それがどんな味か説明するのは困難です。普通の人が世界の物に感じる味とは違う種類の味だからです。本当は、通常「味」と呼ばれる物は非常に説明しにくく、それに近い物がない物もあります。

 たとえばAさんが甘い物を食べたことがなければ、BさんはAさんに「甘い」という味を説明できません。苦味、塩味、酸味の反対と言っても、Aさんはどんな味か想像できません。Bさんはどんな言葉を探して話すこともできません。たぶん「甘い」「甘い」と言うしかありません。これが「パッチャッタン(自分だけの物)」であり、味の説明の困難な点です。

 涅槃の味も同じで、それより何倍も難しいだけです。譬えて推測するのがどんなに難しくても、Aさんは「世界に甘いなどという味は無い」と反論するべきではありません。最も良いのは、Aさんが努力して砂糖を見つけて、自分で味見をして見ることで、そうすれば「甘い」とはどのようか知ることができます。同じようにまだ涅槃に到達していない人は、涅槃の味を否定するべきでなく、自分で涅槃の味見ができるように、必死で努力するべきです。

 最後に、ある昔話を紹介してこの話題を終わりにします。

 一匹の亀に魚の友達がいました。ある日亀に出会った魚は、「あんたは長いことどこへ行っていたんだね」と亀に訊きました。「ちょいと陸へ遊びに行って来たよ」と亀が答えると、「陸はどんなだったね」と魚が訊き返しました。「そりゃあ綺麗なところだよ。綺麗で珍しい物が沢山あり、気候が良くて、美味しい食べ物がいっぱいあり、聞いたことがない美しい音もある」と説明しました。

 魚は「私にはさっぱり分からない。陸は柔らかくて、私の頭で掻き分けて泳ぐのに都合がいいかい」と聞きました。

 「いや違う」

 「陸は流れてくるような物かい」

 「いや違う」

 「陸は冷やっとして沁みるような、浴びるような物かい」

 「いや違う」

 「陸は、風が吹くと波立つかい」

 「いや違う」

 魚がどんな質問をしても、答えは「いや違う」ばかりで、最後には亀を信頼する気持ちがすっかり消え、「あんたは、本当には無い物を本当だと嘘を言っている」と言いました。亀はどう答えたら良いか分からず、最後には、再び這って陸へ戻って行くしかありませんでした。友達が考えたこともない、そして「嘘つき」と言って、本当にあることも信じない陸に、亀は毎日毎日遊びに行くことができました。

 この昔話は、パッチャッタン(自分だけの物)であること、そして特別で最高の心の食べ物-寂滅を説明できないことの受け皿になります。水と陸は接していて、隔てているのは水際の線だけですが、魚は、陸とはどんな物か、知ることも推測することもできません。

 ブッダは『世界は水で、世界の生き物は世界、あるいは水に沈んでいる人で、涅槃は避難する島の岸。罠に繋がれた小鳥のうち、猟師の餌食になることから逃れられるのは僅かなように、その島まで泳いでいける人は非常に少ない』と言われました。世界に落ちている人、あるいは世界に沈んでいる人は、世界、あるいはここで言う体の食べ物、あるいはローギヤと呼ぶ五欲しか知らない人です。

 それだけしか知らなければ、話の中の魚のように、どこかに陸、あるいはローグッタラがあると信じません。(あるいは信じないことが多いです)。今、陸へ旅するには、述べたように「心の食べ物」を食べなければなりません。心の食べ物に関心のある人が少ないのは、陸へ旅をしようと考えたことがないからです。

 心の食べ物には、実にいろんなレベルがあるので、当然それぞれのレベルに、求める人と味わう人がいます。これが分かれば、他の人たちのように深く世界に落ちない人がいると、見て分かります。

 岸の情景を見ると、ある人は水に沈んでいますが、別の人は顔を水の上に出すことができます。ある人は周囲を見回して陸を探していて、別の人には岸が見え、また別の人は岸に向かって泳いでいます。ある一群は岸の近くまで来ていて、ある一群は浅瀬に立ってぼんやり歩いています。

 ある人たちは歩き回っていますが膝歩きで、ある人たちは快適に休憩していて、ある人は自由に陸上を歩き回れます。自分はどの部類か、自分以上に良く分かる人はいません。これは考えなければならないことです。

 最後に、人間が多少でもブッダの言葉の味を味わっている間は、特に体の食べ物が十分得られている人たちの何人かでも、「繰り返すこと(輪廻)」に閉塞を感じ、世界の食べ物、あるいは物質主義には向上の余地が無くなったと感じ始め、そしてローグッタラの食べ物の至高の価値への関心が生まれ、尊重する行動で熟慮する人がいることを期待します。もっと高い所へ行く道があるからです。

 ブッダタートの名において(ブッダの奴隷として)、みなさんにお会いできた喜びと、みなさんへの敬意を表させていただきます。



ホームページへ 短文目次へ