普遍的状態(三相

 

 苦に関する一般的な論理としてもう一つ知らなければならないのは、一般のサンカーラ(行)の無常と苦と無我である「普遍的な状態」の話で、「普遍的状態」と呼ぶ他に、「三相」、「タンマニヤマ」、あるいは「タンマディーティ」とも言います。

 苦についての論理とは、このような三つの状態という意味で、苦痛という意味でも、熟慮して見ると厭わしいという意味でも、そして醜いほど空であるという意味でも、「すべてのものは苦である」ことを説明して見せる状態でっす。更に苦に倦怠を感じられる人は、これらの状態を熟慮しなければなりません。

  滅苦のために実践する人とは、これらの状態を常に熟慮している人で、これらの状態を洞察できれば、無明を絶滅させて滅苦を可能にするヤーナ(智)が生じるので、この普遍的状態を、滅苦に関わる一般論理と見ます。

 「普遍的な状態」と呼ばれるものは、すべてサンカーラ(行)にとって普遍である状態を意味し、支配する識(意識)があるものも、支配する識のないものも、自然の法則であるこの三つの状態があります。すべてのサンカーラに他にどんな違う状態があっても、必ず同じ状態、つまりこれらの状態があるので、普遍的な状態と言います。

 サンカーラとは「作る」という意味です(サン=一緒に。コラ=行動)。ここでは、他のものによって作られたものを意味し、それと同時に、次のものを作り出します。たとえば食べ物は、いろんな元素といろんな威力によって作られ、それは次に人間や動物などの体を作ります。だからサンカーラと呼ばれるものは、「他の物によって作られ、同時に他のものを作るもの」と規定しなければなりません。積み重ねてあるレンガは、一つのレンガは下のレンガによって支えられ、同時に上のレンガを支えています。

同じように、サンカーラはたくさんのものによって作られているにすぎないので、それを作ったものに従って変化しなければならないので、絶えず変化しています。作ったものの衰退によって、崩壊衰退しなければならず、自分がない状態があります。

述べたように他のものによって絶えず作られているので、すべてのサンカーラは、無常と呼ばれる変化の状態、苦と呼ばれる苦痛である状態、そして無我と呼ばれる自分ではない、あるいは誰でもない状態があり、これらをまとめて「すべてのサンカーラ(行)の普遍的な状態」と言います。

 もう一つ「三相」と呼ぶのは、便宜な呼び方として使われる、さきほど述べた三つの状態です。しかしこの三つの言葉は、ブッダが無常・苦・無我の状態だけを規定したことを見なければなりません。この三つの状態は非常に重要なので、特にこの三つの状態である要旨を掴まなければなりません。だから三というのはただの数字ではなく、三宝という言葉が、本当は「ブッダ・タンマ・僧」を意味するように、この三つの状態には、非常に関心を持たなければならない点が重要です。

 タンマニヤマター(普遍的な確実性)と呼ぶものは、タンマの規定という意味で、ここでは自然のことです。ニヤマとは「規定するもの」という意味で、「このような三つの状態は、すべてのものに現れている自然の法則」と教えることがでいる定義です。

この三つの法則になるものは、自然の法則で変化すると言うべきだと述べなければなりません。しかし、私たちはこの言葉を言うことができません。あるいは言う機会がありません。なぜならこの法則にならないものは何もなく、作り出した原因と縁があるものは何もかも、無常であり苦であり、無我だからです。だからブッダは、この三つの状態をタンマの規定と呼びました。

 タンマディーティと呼ぶものは、すべての自然の存在や現象という意味ですが、無常・苦・無我以外の何物でもありません。タンマ、あるいは何らかの自然が存在するなら、本当に存在しているものは無常・苦・無我です。言い方を変えれば、タンマあるいは本当の自然を正しく完璧に見ることは、無常・苦・無我を見ることです。

 「無常」とは「不変でないこと、一つの状態に止まらないで、絶えず変化していること」で、広くて最高に粗いのから、狭くて最高に細かいのまで規定できます。たとえば時代を基準に見れば、ある時代は太陽が無く、この地球も無く、月も無く、ある時代になると生まれ、それらがある時代も細かく分けることができます。これは世界の変化を規定するものです。だから私たちは大雑把に、すべてのものは不変ではないと言うことができます。

生物が存在する時代になると、生物の変化は命のないものの変化より、一層早く激しいと見ることができます。だから片づけなければならない問題は、生き物にとって重要なので、ブッダは、苦そのものである「生き物の不変でないこと」を熟慮するように教えました。ブッダは、特に重要な一人の人間の無常を、幼年期、中年期、晩年期、子供、大人、そして老人という意味で、生まれて、しばらく現れていて、そして最後には死んでいくと、大きく年代別に熟慮するよう教えています。

またある所では、狭く熟慮するよう教えています。ある人が百歳の寿命があると仮定として、十年ごとに区切ってタサカと呼び、たとえばマンダタサカと呼ぶ一歳から十歳までの初めの区間にはどういう状態で、次の十年とその次の十年とを比較すれば、実に初めから老いが見え、滅亡へ向かう変化だけだからです。もっと狭くすれば熟慮する期間を短くして、一年ごと、一月ごと、あるいは一日にして見れば、無常と呼ぶ変化の状態が、細かくした分だけ詳しく見えます。

ブッダはもっと短い期間、つまり心に考えが生じて、その考えが消えるまで時間を熟慮させています。どんなにも短くても、一瞬も同じでなく、考えが生まれたばかりの時はある状態で、考えを進めている時はまた別の状態で、その考えが消える時には、また別の状態になります。

だから人、あるいは生き物の形のもの(体)の変化も、名のもの(心)の変化も、休みなく続いていて、そして考えているより頻繁と分かります。一つの考えの初めから終わりまで、一秒だけのこともあるので、もっと短い時間に区切れば、たった一秒間にも無常はあります。

ブッダは、数えられないほど非常に頻繁に生滅している、心が存在している間を熟慮するように教えています。一秒のうちに何万、何千回か分からないほど、発生と存在と消滅が連なっている状態の中に、三つの区間の、つまり発生と、存在と消滅の間に無常の状態があります。だからその心には、一秒のうちに数え切れないほどの無常があります。

現代の物理学でも、いろんな物質を構成している核の変化、循環が、一秒間に数え切れないほどの周期で循環していることを認めています。つまり物質にも抽象にも無常の状態があります。あるいは無常が強く支配していると言うことができます。本当の憐れみと、倦怠と欲望の弛緩の基盤であるべきです。

 

 「苦」とは、「耐え難い」、あるいは「見るとうんざりする。嫌になる」という意味で、先ほど述べたように、苦の状態は無常の状態に隠れています。ブッダは一緒にしてしまって、この状態について述べない場合もありますが、二つの意味は違います。

  無常は絶えず変化するという意味であり、苦は苦しい、あるいは執着する人に苦を生じさせる状態という意味で、無常であるものは苦である、という大原則があります。これは、変化が苦と呼ぶ状態を生じさせるからです。

もし変化がなければ、生まれることも、老いることも、病気も死もあり得ません。あるいは、熟慮してもうんざりしないし、去っていくものには見えません。この苦の状態については、熟慮して苦である状態を見ることが一つ、無常に関連して生じる苦を見ることが一つで、最初の見方は、苦であるものに倦怠を生じさせ、後の見方は手放す方法を見つけ、その機会を作ります。

 

 「無我」とは「自分ではない」という意味です。つまり自分と捉えるべきではなく、原因と縁の威力で絶えず流れている自然に過ぎません。この無我の状態について、ブッダはいろんな説明をしていますが、要約すれば、「自分と呼ぶものは本当にはない。感覚にすぎず、勘違いにすぎない。本能、つまり生き物の自然で生じる感覚の威力によって、自分と理解しているだけ」という知識を生じさせることを目指しています。

ブッダは、人は五つの部分、つまり形・受・想・行・識で成立していることを熟慮するよう教えています。それぞれの部分(五蘊)は自分ではなく、原因と縁によって変化して行くサンカーラにすぎません。先ほどサンカーラについて述べたように、それぞれの部分は自分ではないので、不思議な、あるいは初めよりももっと緻密な状態があっても、全体が自分であるはずがありません。

それぞれの部分と呼ばれるものは自分ではないというのを、ブッダは、「各部分は当然病気、つまり崩壊、衰退に向かっている」と熟慮するよう教えています。

各部分が本当に自分なら、崩壊、衰退するはずはなく、あるいは他のものに変化するはずがありません。崩壊や衰退を自分の威力で管理できないので、自分自身ではない、つまり本当の自分はないと見なします。あるのは一種の変化の流れだけです。これを、崩壊、衰退、あるいは病気を基準に熟慮すると言います。

 もう一つは、変化を基準にして熟慮を始め、たとえば「今言った各部分は不変ではない。不変でなければ苦か幸か。苦ならば無常であり変化するので、それを自分、あるいは自分のものと見なすことはできない」と、問題を設けます。

 それは夢で見たもののような状態があり、目覚めた時には消えていて、あるいは他人からの借り物と同じで、すぐに返却しなければならず、あるいは旅の途中で見たもののように、それをそこに残したまま通り過ぎるしかなく、まとめれば、誰も所有できない状態であり、自分自身の所有者にさえなれないので、「無我」と言います。

 パーリ経典(ブッダの言葉)の、無我を説明しているこの文章の注目すべき点は、ブッダは、前の二項目のように「すべてのサンカーラ」という言葉を使わず、「すべてのタンマは無我である」という言葉を使っていることです。これは当然、無我であるものの範囲は、すべてのサンカーラである、無常であり、苦であるものの範囲より広いということを表しています。無我であるものは、サンカーラ(行)であるものも、サンカーラでないもの(無行)も合わせたすべてです。

サンカーラでないものとは、すべてサンカーラの反対のヴィサンカーラであり、特に涅槃と呼ぶ状態のことです。つまり作り出す原因も縁もなく、作る威力あるいは範囲の外にある、特別な状態ですが、それでもその状態は無我です。つまりそれ自体であるもの、あるいは誰の自分もありません。きっとヴィサンカーラ、無為、あるいは涅槃、あるいは「作るものが何もないもの」などと呼ぶしかありません。サンカーラが「自分」でなければ、正反対のヴィサンカーラは「自分である」と理解してはいけません。それは、自分という感覚は、無明と取によって生じる不確かなものでしかないからです。

この三つの状態は自然に存在するもので、ブッダはタンマディーティと呼びました。だからタンマニヤマ経で、「如来が生まれても生まれなくても、すべてのサンカーラは常に無常であり、苦であり、無我である」という要旨を語っています。

その真実に関した法則は、ブッダには直接関わりのない自然の問題で、ブッダはただ、この法則を発見した人にすぎません。そして苦が生じないような形でこれらに対して実践しなければならない、正しい方法を知りました。この三つの普遍的な状態も同じで、ブッダは全部見えたので、苦を消滅させるために、永遠に有益に使うことができます。つまりブッダが生まれても生まれなくても同じように、実践者はもっとこの真実に興味を持たなければなりません。

 もう一つ、三蔵の小部で、「サンカーラは無常であり、苦であり、すべてのタンマ(もの)は無我であると知っている智慧があれば、苦であるもの、つまり無常なのに変わらないと勘違いしているもの、本当は苦であるのに幸福と勘違いしているもの、そして無我であるのに自分だと勘違いしているものに倦怠が生じる」とあります。これくらい智慧があれば、その智慧は、苦のない純潔、涅槃への道です。

すべては私たちに、三相、あるいは普遍的状態に関わる話は、苦を見えるようにし、そして滅苦へ導く話なので、重要な要旨であり、そして他のすべての話より非常に多く、一番繰り返している話なので、特別に興味を持たなければならないと、見せます。

 


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