仏教は楽観論か悲観論か

 

 仏教は Pessimism 悲観論でも Optimism 楽観論でもありません。楽観論も悲観論も、どちらも両極端で、仏教は中道を行く元来の真実を教えるからです。悲観論はアッタキラマターヌヨーガ(悲観主義)の根源で、楽観論はカーマスカラリカーヌヨーガ(快楽主義)の根源で、二つの主義は解決について語らず、そのようであることをそれまでと正反対にさせます。

 仏教は、初めに世界を悲観的に見るよう教え、それから解決して善くする方法を教えますが、快楽主義には向かいません。仏教は、この人生は、無明によって耐え難い苦とマヤカシ、いい加減さ、束縛、そして苦で満ちていると教えます。体の部分も心の部分も、何一つ思い通りになりません。

  これは悲観主義に傾いているような状態を説いていますが、仏教はそれだけを教えているのではなく、そのような状態を正反対にする方法も教えています。つまり、自分自身の正しい行動によって命は純潔になり、苦から脱出できるという、短い教えがあるアッタンギッカマッガ(八支聖道)、あるいはマッジマパティパダー(中道)です。

 その結果私たちは、常に変化している世界のどの場面でも、いつでも冷静な心のある人になれます。仏教教団員の心の考えは、強制的に信じさせられているのではなく、楽観主義者や悲観主義者のような限定された集団の見方でもありません。喜びや悲しみが染み込んでいる世界と一緒に回転していることに満足している人には、そうする自由があり、それらに倦怠が見えれば、完全にそれらに勝利する自由と方法があります。

以上の理由により仏教は、悲観論でも楽観論でもありません。ただ、ある人たちの目を欺く面があり、時々悲観論、あるいは楽観論に見えるだけです。

『何だって笑い転げ、楽しみに耽っているのだ。この動物群の住む世界が、常に燃えているのに』。これはブッダの言葉です(チャラーヴァッガ)。これはブッダも悲観論者のように世界を見ていることを表していますが、後の言葉があり、ブッダは続けて、『みなさんは深い闇に目隠しされ、まだ自分を導く灯を求めていない』と言っています。つまり危機から脱出させる光はあるということです。

これで、ブッダは楽観論を否定していないこと、そしてブッダは、本当に中道だということが分かります。他の場所で、『それを作り出す原因のあるものは、すべて永遠不変ではなく苦である。そして原因と縁のあるものも、原因が無く、作り出す縁のないものも、どちらも自分ではない。あるいはその中に自分はない』と言っています。これは、この世界のありとあらゆるものは、すべてに執着する人にとって毒である、ということを説いています。

しかし私たちにそれらを手放す、あるいはそれらに勝って、それらより上にいることができる方法がない訳ではありません。同時にブッダは、ローグッタラパティパダー=世界より上に行き自由になる道を、非常に明らかに、はっきりと教えているので、心が解脱すれば、世界はこのような毒になりません。この世界を人間にとって毒にも良い食べ物にも、どちらにすることもできます。

酒あるいはアルコールは、人がそれに負けて愚かさで呑めば害になり、知性で薬として使えば、少なからず人間の生活の利益になることがあると分かっています。だから酒は害がある、利益があると、どちらか一方を言うことは正しくないように、この世界は悲観的だ、あるいは楽観的だと、一方的に言うことはできません。私たちが世界に溺れれば、世界は私たちにとって毒であり、世界に勝つことができれば、私たちの良い道具になります。まだ訓練をしていない象と、訓練して良く懐いた象のようなものです。

1932年9月1日


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