ブッダの教えの地獄・極楽

 

 次にこれらの門について知ってほしいと思います。ブッダは『根の地獄を私は見た。根の極楽を私は見た』と言っています。昔の人は地下にある地獄の話をしました。壁の絵のようなのは肉体的地獄、物質的地獄です。身体がそういう仕打ちを受けるという「意味」が、言われている地下にある地獄です。そして極楽は上にあり、空のずっと上に宮殿があり、極楽を楽しむ人がいて、何百という天女が幸福を増大させます。それが空の上にある極楽です。

しかしすべては肉体的、物質的なもので、その種の地獄極楽は、ブッダ以前から話され、教えられていました。その要旨をしっかり把握してください。それは肉体の話で、地下にある身体の苦が地獄で、天上にある体の味が極楽です。

そこでブッダは新たに、『根の地獄を私は見た』と言いました。つまり目・耳・鼻・舌・体・心にあるのが地獄で、過ちをすれば目・耳・鼻・舌・体・心が熱くなります。物質でない、肉体でない地獄で、抽象的な、目・耳・鼻・舌・体・心が熱くなる苦の感覚、これが精神面の地獄です。こちらは精神面です。極楽も同じで、正しくすれば、目・耳・鼻・舌・体・心が楽しく幸福で、それが極楽、精神的な極楽です。このように対になっています。

 物質や体を基準にすれば地獄は地下にあり、極楽は空の上にあって、そのようになりますが、抽象や精神面を基準にすれば、地獄も極楽も目・耳・鼻・舌・体・心にあり、つまりそこに生じる感覚です。こう話すのは本物を説明していて、ああ話すのは譬えです。殺される、焼かれる、何をされる、あるいは五欲である感情を味わうと言うのは、たとえであるべきですが、彼らは真実と信じます。

 私は真実であるブッダの言葉で、六根が熱くなることが地獄で、今のように快適なのが極楽と説明します。彼らは反対に、これを比喩だと言います。このように正反対です。どちらが愚かでどちらが賢いか、みなさん後で考えてください。私は、ブッダが教えたのが真実と主張します。

 六根にある地獄が本当の地獄で、六根にある極楽が本物の極楽です。だからブッダは、人々が大昔から言っているように言わず、「私は見た」と言いました。ブッダ以前から人々が話していたのは、推測の話で、何でも彼らの自由です。私は関わらず、反論しません。

これは憶えておいてください。ちょっと差し挟んで話しておきます。自分の教義と一致しない何かが起こった時、『反論してはいけない。そして認める必要はない』とブッダは言いました。自分が賛同しないことは認めませんが、反論したり、謗ったりしてはいけません。「あなたがそう言うのは、あなたの正しさです」と言います

認めることはできませんが、反論はしません。しかし「自分はこうだ」と言うのがあるので、私たちは私たちのものを話します。誰でもこれを教えにするべきです。 他の教義、他の形、他の様式の人たちに、私たちは反論も容認もしませんが、仏教はこうこうです、と言います。

争う必要はありません。争えば他人のを貶して自分のを持ち上げる話になり、教えが原因で喧嘩になり、危険になります。だからブッダは、地獄極楽の話も含めて、人々が昔から言ってきた様々なことについて何も言いませんでした。しかし改めて、私が見たのはこうこうだと言いました。

だから地獄極楽はあり、物質的、肉体的な話が、仏教が入って来る前のタイでも教えられていました。仏教側はブッダのこの項目を教えなかったので、庶民は大昔の、地下にある地獄と、天上にある極楽を信じていて、ブッダが言ったような極楽地獄は、あまり興味のある人がいません。こう話すと、比喩の話と見てしまいます。このように正反対です。


天人は本当にいるのか

 

 パーリ経典に「極楽を願う天人は、人間の世界に生まれたいと願う」とあるのは、天人は本当にいる、そして極楽は本当にあると保証するもので、このように本当にあると信じれば、現代のやり方としてデタラメな話にならないかという問題があります。

質問者はこの問題を、私が以前に、「極楽を望む天人は、他を探しても見つからない。三宝のある人間界を探さなければならない」と話したことについて、「もしそうなら、天人が本当にいて極楽は本当にある」と、パーリ経典(ブッダの言葉である経)が主張していると捉えています。パーリ経典でそう言っていることは事実で、それに本当のブッダバーシタ(ブッダの言葉)の形になっています。しかし私は、天人という意味について、そのように擬人化された天人が真実かどうかは、別の問題だと答えさせていただきます。

 天人の話は、ブッダが『自分で見えないなら、他人を信じない方が良い』と言われた規定の範囲にあります。だから天人や極楽について話している部分は、重要ではなく、重要点は、天人のように五欲に酔っている人、そしてどこで天人になっている人でも、陶酔している人は、滅苦の話や涅槃の話を理解できるだけの、十分に明るくすっきりした心を持つことはできない、という点にあります。

 だから天人が、自分は極楽の五欲に酔い痴れている、ということに思い至ることができれば、「ここは危機を脱した所ではない。このように五欲に溺れていない所で生きるべきだ。仏法僧の話、滅苦の話を簡単に見つける所で生きるべきだ。だから生まれたいと望むべき趣は、天人ではなく人間界であるべきだ」と、自分自身に憐れみと衝撃が生じます。

 だから重要なのは、簡単に三宝に出合える場所、あるいは簡単に滅苦ができる場所で生きることなので、重要でない、人間界や天人界について話すのは止めます。

 

 次に、なぜ「天人」あるいは「極楽」という言葉が、直接ブッダの言葉の中に、三蔵の中にあるのかということについて説明したいと思います。それは、当時のインドには、天人や地獄や極楽の話を信じ、ブッダが生まれる前から、お話したように詳細に話されていました。

 そこにブッダが生まれ、愚かな人たちに証明して見せ、これらの話を否定して廃止するのは時間の無駄であり、埒があかないので、ブッダは、人が言っていることに同意しましたが、もっと善い説明をして、それらへの興味、あるいは強い考えを止めさせました。

もっと良いもの、つまりローブッタラ(世俗から脱すこと。脱世間)あるいは涅槃の話で、地獄、極楽、天人の世界、梵天の世界に関する強い考えを止めさせました。その種の地獄極楽の話にはどんな真実があるのかを証明して時間を無駄にする必要はなくても、三蔵の何か所かで、ブッダが「人々は天人について喧しく話しているが、彼らの心情に逆らっても時間の無駄なので、私は別のことを望んでいる。望んでいるのは、彼らを極楽に陶酔させることではない。今検証することができない地獄極楽の説明をする必要はない」と言っています。

 その人に非常に天人通力があれば、威力で人々の心に、本当に地獄極楽を見せることができ、地獄極楽が本当かどうか知らなくても、奇跡で一目瞭然と見せ、彼らを信じさせることもできます。ブッダは簡単に奇跡を起こすことができましたが、そうしたくありませんでした。

反対に布施や持戒が極楽を手に入れる方法だと言って、ブッダはある部分を受け入れ、そして極楽を手に入れたらどうか、極楽の害について、つまりどんなに陶酔で満ちているかを説明して見せ、それから極楽の害を説いたので、その人はローグッタラの話を知る準備ができ、布施と持戒は極楽を生じさせ、極楽は害に満ちた状態であり、愚かにし、迷わせ、輪廻を循環させると、段階的に真実を見、真実を信じます。

だから心は、聖諦、あるいはローグッタラの話を知る準備が整います。このようなタンマの方便の手法を、私は「ブッダはなりすますことに賢い」と言います。何にしても、必要がそうさせただけで、それ以上地獄極楽を検証する時間はなく、その必要もなく、利益もありません。重要なのは、苦を見せ、苦の原因を見せること、つまり四聖諦を教えることだからです。

 だからブッダは、庶民の心にこびりついていた地獄極楽の話を適度に拭い去る、近道のような方便がありました。つまり布施の話、持戒の話、極楽の話、そして極楽の害を強調し、それから極楽から出る話をしました。「ネッカンマ(出離)」と呼ばれる五欲から出ることは、そのように善い結果があります。

 この段階になると、以前から積み重なった汚泥がこびりついていると言われる心は、汚れがきれいに拭き取られて、四聖諦、つまり苦、苦の原因、苦のない状態、そしてその種の状態に到達するための実践法を知る準備が整います。

 そこでブッダは、ブッダの話を教えました。地獄極楽のは仏教の要旨の部分ではなく、ブッダが生まれる前から、人々はそう信じ、そのようにしてきました。この話を仏教のものと詐称するなら、それは公正でないと言います。ブッダはそのように詐称しません。だからブッダの話にはローグッタラの話しかありません。つまり聖諦が基本なので、地獄極楽の話は、仏教の要点ではありませんが、このような必要性があってブッダの言葉の中に落ちてきました。

だからみなさんが直接仏教本体に興味をもてば、地獄極楽の話は自然に消えてしまい、自然に必要なくなります。「本当にある。真実だ」と他人が言うのを鵜呑みに信じれば、それは騙されることなので、奇跡で見せることができても、深い欺瞞なので、仏教教団員はそういうことはしません。だから本当の仏教の話である、苦と、滅苦の話を直接証明します。

 


                    ヒト語とタンマ語のガティ(趣)

 

 「八趣」にはヒト語、あるいは庶民の仮定で言う言い方と、本当に知っている智者の哲学の言葉で言う言い方があります。この八種類を、庶民が道徳面で、罪やカンマを恐れさせるような庶民風に言えば、「国」や「世界」と言います。

  地獄,話浪爾砲△訝蝋の国で、苦で、畜生△脇以の世界で、牛や象や馬、アヒル、ニワトリなどで、餓鬼は飢えや病気で痩せこけた生き物で、身体が腐っています。これが餓鬼で、非常に見るのが難しい世界に住んでいます。簡単に見える体がないからです。阿修羅い和里まったく見えず、誰にも見えないように上手く隠れることができます。阿修羅は、庶民が話しているよう、そして本堂の壁画に描かれているようです。

タンマ語では別の意味があり、心の言葉は心の状態を説明しているので、心の状態です。

地獄は、心がイライラして、人や畜生の内面を火で炙っている状態、つまり自分自身の中にある愚かさです。畜生は愚かなので、愚かさが自分の中に入り、畜生の世界が人の心の中に、人の内面に入ってきます。餓鬼は煩悩欲望で、飢餓で、いろんな感情や何らかの希望であれ、それらを掻き集め、飢餓で眠れなくなります。腹が山くらいあって口が針の穴くらいしかないので満腹することができず、常に飢えています。

 阿修羅は恐怖で、恐怖は心を非常に妨害する大きな問題です。これが阿修羅、あるいは人の心にある阿修羅の世界です。智者風に言うとこうです。このような四種類の悪趣は、人の心の中にあります。庶民風に言えば、庶民はこのような話が理解できないので物質的に話し、地獄界、畜生界、餓鬼界、阿修羅界が、あっちにありこっちにあるという物質的な世界にします。特に地獄は最も下にあり、いろんな種類があり、どれも苦しく、どれも痛く、つまり苦痛ばかりです。

 それが行かなければならないガティ(趣)で、地獄界、畜生界、餓鬼界、阿修羅界へ行くことは罪があると見なし、誰も願う人はいません。この四つの世界に行きたがりません。これは悪趣と呼ばれる罪がある方です。

 次に人間イ隼絢鑪爐療型佑鮃腓錣擦浸夕鑪爐鯀閏颪噺世ぁ行きたくなる所です。人間については反対に言い、つまり庶民の言葉で言う人間界は、人であるだけの人、人の世界である大地を、人間界と言いますが、タンマ語では、人としての美徳や意味を「人間」と言い、「人」と言います。

 みなさんが出家した時に、「人間ですか」と質問されたのには、特別な意味があります。姿形は人間とありありと見えているのに、どうして「人間ですか」と質問するのか。これは人間の美徳を意味しています。あなたには人間らしい気持、人間らしい望み、つまり人間性ですが、それがありますか、という意味です。タンマ語の「人間」はこういう意味で、このような姿に生まれて来た、あるいは人間界に生まれたという意味ではありません。

 次に欲界の天人は、ヒト語では天上にある極楽にいて、宮殿があり、天人や天女やインドラ神などがいて、つまり楽しく快適で健康で美しい生き物の集団。これが俗語の天人、ヒト語の天人です。タンマ語、知性の言葉では、欲情で完璧、つまり満足できる状態を言い、そういう状態の時をカーマヴァチャラのレベルの人の心の中の極楽と言います。ある人、あるいはあるグループでも、欲情に陶酔する機会がある時、その人はカーマヴァチャラΔ療型佑任后

 ルーパブラフマ(形梵天)以上の天人は、欲情には触れず、純粋な形である物質で生活し、それらに陶酔しているのを、ヒト語ではもう一段高い、別の呼び方をします。欲情より高いですが、心の言葉で言えば、時々欲情を嫌う心で欲情を愛す心より高いです。時には私たちは、このような形梵天と呼ばれる心になります。

 ほんの一時でも良いです。あるいは、生涯欲情に関わらず、穏やかに暮らす人もいます。生涯満足する物質と共に、あるいは感情である形から生じるサマーディで暮し、そのサマーディで快適に暮らせば、形梵天Г噺世い泙后

 最後の天人は無形梵天┐如同じようですが、形のあるものに陶酔するのではなく、形のないもの、サマーディ、あるいは禅定に関わる無形に満足して止まっています。このようなありようは最高に快適で、彼らにとって最高です。要するにこの八種類をヒト語、庶民の言葉風に言えば「物質」、「世界」、「国」であり、タンマ語、心の言葉で言えば、「人の心の状態、八つの心の状態」です。

人はミディアム、ちょうど中間で、どのようにもなれます。最後に自分を入れれば八種類になります。特に人間の意味をはっきりさせれば、愛すもの、満足するもの、欲情と引き換えにするために、人間には適度な困難がなければなりません。これが人間です。しかし天人は人間のように、欲情と引き換えにするために汗を流す必要はありません。これは、積んでおいたとても高い徳や、原因や縁があります。

 


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