自分がなくても自分はいる





 仏教は「自分ではない自分」がいると知るよう教えます。この「自分ではない」とは、「自分がいる」と感じる本能は管理されなければならないという意味です。休まず成長発展している egoism は、進化に従って、ますます管理されなければなりません。そうしなければ人間は、動物より植物より、何より苦が多くなり、人間と呼ぶにふさわしい人間でなくなります。つまり苦が多すぎます。

 だから「私がいる」「俺がいる」という感覚を、危険にならないように管理する知識が生まれました。他にふさわしい言葉がないので、この範囲の知識をここではアビダンマ(素晴らしいタンマという意味)と呼ぶことにします。

 「人はいなくても、人はいられる」と、口で憶える言葉を上げたいと思います。この言葉が理解できればこの話が理解できます。この言葉を理解できなければ(この話を)理解できません。庶民や西洋人に話しても、きっと彼らは笑って、そしていつか理解できるようになるまでずっと理解できません。私が「人でなくても、人がいなくても、人はいられる」と言うからです。

 短く言えば「人はいなくても人はいられる」です。本当の自然では、生物が自然の法則で進化して、植物や動物や人間になっただけです。それらは自然の物です。次にそのタンマ(もの)の中に「私は私」という気持ちが生まれ、どんどん強くなります。この自然の物が進化しなければ、自分自身を「自分」と感じる気持ちはほんの少しで、ほとんど現れないくらいしかありません。

 植物の「私は私」という感覚は、非常に少ないので、強烈、あるいは困惑する感覚になりませんが、植物は生きられ、生きて成長できます。動物になるともう少し多く、人は更に多いです。だから人は最高に罪のある生き物で、苦があります。動物や植物より「俺」が多いからです。

 今みなさんは「人がいなくても人である」ことについて学んで知り、そしてそれをしっかり管理します。だからこの重要な知識は、俺という感覚をしっかり管理する知識です。それが間違いをしないよう管理するか、あるいは自分と感じるような管理になるかは能力次第です。

 見ると滑稽でもあるし、気の毒でもあります。人でありながら「人ではない」と知るように教えるので、人であることに陶酔している人は理解が困難です。特に現代人は大学で勉強しても、大学教授でも、そういう人ほど人であることに溺れています。

 仏教で難しい話は「空の話」です。「人がいない話」は、仏教の心臓部である難しい話です。ブッダが大悟された時、この話は深遠すぎるので、教えようか、教えない方が良いか逡巡なさったほど難しい話です。初めは難しすぎるので教えない方へ心が傾きましたが、まだためらいがあり、ブッダにふさわしい悲(他人の苦を除いてやりたいと願うこと)に助けられ、理解できる人がいるかもしれないから教えようと、心を変えました。

 教えなければ、得るべき利益が失われる人もいるので、タンマの精華、つまり『無我』あるいは『空の話』と呼ぶ「人がいない話」を教えました。あるのは自然に従って変化する自然だけで、その(自然の物、つまり人)中に正しい感覚が生じれば苦はありません。

 その中に自然から見て正しくない感覚が生じれば苦になります。どこかから持って来なくても自然に生じます。何だからもかも人の中にあり、この「人」と呼ぶ物の中で、いろんな問題が「人」と呼ぶものを苦しめています。

 次に普通の言葉の「人」は、体と心がある一人の人を意味しますが、深遠なタンマの言葉では「愚かさ」を意味します。「私」「人」という理解や執着は誤った見解、あるいはまだ一致しない見方の産物です。「私は人だ」という理解を、背丈二メートルほどの考えることができる身体を意味する物質的な「人」と混同しないでください。精神的な意味の「人」は、「私がいる、人がいる」という取と呼ぶ誤解を意味します。

 それは極めてマヤカシですが、誰もそれをマヤカシと知りません。心が「私は人だ」と捉え、そして本物だと言います。それは、何も知らない心の本物です。それで肉体的な人と、邪見や取の側の人の二人の人が生まれます。邪見や自分に執着することである、取の「人」については、この自分は無明であり、愚かさであり、陶酔であり、無明の欺瞞であるとハッキリ見え、はっきりと話しています。

 物理的な「人」は人の体がある自分で、その中で感じたり考えたりできます。これも「人」です。人は本当にいると捉えるのも、本当には人はいないと捉えるのも知性次第です。普通では必ず、本当にいると信じています。

 普通の言葉では、それを「人」と呼ばなければなりません。生まれた時から呼んでいるので、人と呼ぶばなければなりません。そうでなければ話が通じません。話し言葉では、背丈二メートルばかりのこの身体、考え感じることができるこの身体が物理的な「人」です。

 しかし物理的な人の中にある考えや感覚は、宗教面で問題である「人がいること」の原因です。感覚が執着する段階になれば、その人の、背丈二メートルの体の中が苦になり、誤った見方がなければ、背丈二メートルの身体にはまだ苦がなく、あるいは無苦があるからです。

 背丈二メートルのこの身体が、一時苦になり、一時無苦になります。そしてそうなる根源、あるいは無苦にする知性もその体にあります。だからしっかり管理することを知り、きちんと区別することを知って、苦が生じない側だけにします。背丈二メートルのこの身体の中の何でも、苦が生じない方のものだけにします。




自分がなくても体と心はある




 次の項目は「私たちは、自分がなくても体と心はある」です。これは常に「自分」「俺」があると感じている一部の人にとっては、多分、非常に奇妙だと思います。私たちの体は、体の組織の働きによってあり、目・耳・鼻・舌・体は体に含まれ、神経系統があり、体の一部であるいろんな組織が最高に働き、そして体を通していろんなものを感じる心があります。

 私たちにはこの二種類があり、これで十分です。名形と呼んでも良く、「体と心」でも良いです。パーリ語では名形と言い、名(心)と形(体)が一つにピッタリ合わさっていて、名形は二つに分かれません。名形とは体と心、あるいは心と体で、これで十分です。「自我」あるいは「自分」と呼ぶ三つ目は必要ありません。

 「私はある」「心と体の所有者である何かがあり、自分と呼ぶ心の所有者が、体と心を支配している」と感じれば愚かになります。ブッダはこれについて、それまで教えられていたのと違う教えで、『自分と呼ぶものは無い』と教えました。あるのは体と心、名と形だけで十分です。自分という考えが生じれば、それは心と呼ぶ物の誤解であり、勘違いです。

 身体面、外面の接触が間違うので勘違いし、それが内面である心に勘違いをさせ、心は自分があると誤解します。だから大混乱し、死ぬまで滅苦ができません。あるいは何かを調整できません。みなさん、先ず「自分がなくても体と心はある」を教えにしましょう。

 この二つの部分だけで、合わせて人と呼ぶことにします。仮定して「人」と呼びますが、本当は一人の「人」ではなく、体と心が力を合わせて、自然にあるそれ自身の義務をしているだけです。

 身体は骨組みであり、殻であり、奉仕する物で、心は体を指揮する主人のように、義務を行なうことを知っているので、助け合えば生きられ、助け合わなくなれば、同時にどちらも死にます。体が生きられるのは心があるからで、心が生きられるのは体があるからで、それぞれが別の働きをして助け合うから生きられます。だから母の胎から生まれる時、体と心は一緒に生まれます。

 しかしすべては自然が加工して、一種類は体に、もう一種類は心になります。永久の物、本物ではありません。しかしそれはそのように何でもできます。確実不変の本物でなく、原因と縁によって絶えず変化していますが、珍しいこと何でもできます。考えて見てください。この体と心は珍しいことを考え、何万年、何十万年も変わったことを考えて、今人間は何ができるか見てください。

 彼らは地球圏外へ行き、あるいは昔の人ができなかった不思議なことができます。無線やエレクトロニックコンピューターなどは、昔の人にはできません。現代人ができるのは、誰が教えたのでしょうか。

 それは、目・耳・鼻・舌・体・心がたくさん、深く、広く見えるようになり、それが知識になり、珍しいこと、新しいこと、不思議なことを発見し、そしていろいろ集めてもっと珍しい、もっと新しい、もっと不思議な物にしました。だから神業のような、奇跡のような、空を飛べるような物になりました。

 ね、自分がある必要はありません。自然の体と心が一緒に自然に変化すれば、進歩し発展します。「そういうのは当り前のこと」で、それ以上に素晴らしく特別なことと執着する必要はありません。私たちは何にも執着しません。それは当り前に、自然にそうなるのですから。

 しかし普通心はそうなりません。惚れこんで執着し、知識に溺れて知識に執着し、仕事に溺れれば仕事に執着し、財産や名誉名声、幸福や楽しさや美味さに迷い、思いっきり溺れれば誰の顔を見る必要もなくなります。自分の物に溺れきっているからです。

 だから私たちの行動が他人を困難に巻き込みます。これは今、世界の問題になっています。一方の人たちは、もう一方の人たちを困窮させるほどの威力があるので、この世界は右と左に分かれて、際限なく闘ってきて、まだこれからも、権力のある人と権力の無い人で、この世界の餌を独占することに関わる問題で闘い続けます。

 自我がなくても、自分がなくても、体と心はあります。これは原則として、名形、体と心があれば十分と知っておきます。自分は必要ありません。自分はなくてもいろんなことは経過して来たし、これからも経過していきます。滅苦をして涅槃へ行くにも、訓練して善くなる体と心だけあれば、自我は必要ありません。世界の感情と触れることで賢さや変化を生じさせるからです。これを「自分を善く発展させる」と言います。

 人は、初めは涅槃の知識はありませんが、苦が増えると涅槃の話を求め、その人はいろんなことを発見し、気付き、最後には「ああ、心を間違って維持していた。心の持ち方を間違っていたから苦がある」と気付きます。「自分」は必要ありません。神様は必要ありません。関わって来る物は何もどこにもなくても、体と心自体で、間違った行動も正しい行動もできます。これを自分がないと言います。

 そしてこの「身体と心」の中の、心の部分が最も重要で、心臓と同じです。身体は皮、あるいは外皮のような物で、最も重要なのは心です。だから本当に知らなければならないのは、体の話より心の話。これから本当に勉強しなければならないのは、体の話より心の話です。

 何でも心で考え、失う結果も得る結果も心次第です。体は外皮、あるいは受け入れる容器にすぎないので、心の話を特別に勉強しなければなりません。体の話を勉強したら、心の話をもっと良く、もっとたくさん、何倍も勉強しなければなりません。



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